5 今後の計画、反省
調査時間が少なかった
今回の調査では、ルポロボ(ナニヲー)での調査時間が大変短くなってしまいました。その理由は、海峡の状況がよくわからなかった、この情報不足が最大の理由です。
間宮海峡を民間の船が、それも日本人が縦断するということは、戦後はじめてでした。林蔵が海峡を踏査して以来、日本人が海峡を縦断したのも恐らく初めてのことでしょう。それだけに、海峡の様子が事前にはほとんどわかりませんでした。事前に海図などを手に入れることは、もちろんできませんでした。このため、干潮時の水深や航路は、全くわかりませんでした。フレガット号の船長にすべてを託したわけです。
実際に間宮海峡の最狭部に入っていくと、そこは大変浅い海でアムール川の流れが海流となり、とても速い海流が流れている危険な海でした。潮待ちや、パイロットを乗せてブイを目標に、浅瀬を避け深い所を縫うように航行するという、複雑な地形をした間宮海峡が私たちを待ち受けていたのでした。
これからの目標
大陸側ムシボーからタバチマーの行程
今回は残念ながら、林蔵の大陸側の行程を確認する事はできませんんでした。ムシボーからタバチマーの間の山道は、たくさんの船を牽いて通ったため「此処の山路は街道の如く」(2.15大陸側上陸地点の確認参考)と林蔵が記述しています。林蔵がサンタン船を牽いて通った山道は、どこにあるのでしょうか
今回の調査では、大陸側に足を延ばす事ができませんでした。ぜひ機会を作ってムシボーを明らかにし、そこからキジー湖までの陸路を解明したいと考えています。
デレン
林蔵による樺太から黒龍江にかけての踏査で、未だにはっきりしない場所がもう一つあります。それは、林蔵が訪れた清国の仮役所デレンの位置です。デレンは、黒龍江から樺太一帯の民族が清国に貢ぎ物をし、交易を行った場所です。このデレンは、その年その年で移動し、特定の決まった場所があったわけではありません。黒龍江の流れが大きく変わったりした時は、デレンの位置もだいぶ変わったと思われるのです。
林蔵が訪れた年のデレンは、どの辺りにあったのでしょうか。現在のロシアの地図と、林蔵が残した北蝦夷島地図を比較してデレンの位置を考えますと、現在のノヴォイリノフカ周辺ではなかったかと考えられます。今後、このデレンの位置をぜひ明らかにしたいと思います。