蚊の多いナニヲー

 ナニヲー一帯には、蚊が非常に多く見られました。日本の薮蚊より一回り大きな、たいへん手強い蚊でした。私たちを何匹もの蚊が取り巻いて、刺すのです。薮蚊より大きいのですが、少し薄い体色をしているので一見ひ弱そうに見えます。しかし、その動きは薮蚊以上のものがあります。同行のメンバー達は、この蚊に何ヶ所も刺されてしまいました。
 実は小用をするためにズボンを降ろしたところ、この蚊がいっせいに私のナニをめがけて襲ってきたのでした。数匹の蚊がナニにとまるのです。これには私も閉口しました。何とか蚊を追い払いながら私は、小用を済ませたのでした。幸い私は、手や顔を1、2ヶ所刺された程度ですみました。大切なところも無事だったようです。聞くところによると、この蚊にさされた痕は、1、2日経ってから腫れてくるのだそうです。案の定私が刺された3、4ヶ所も次の日になって腫れだしました。しかし、幸いにつらいかゆみ、痛みもなく数日のうちに治りました。蚊の多い様子は、東韃地方紀行にも次のような記述があります。林蔵が渡った大陸側の記述ですが、ほとんど状況は変わらなかったものと考えられます。林蔵一行も蚊の大軍には、たいへん悩まされていたようです。
 「…一 此処蜉蝣、蚊の多き事、実に糖粃を散ずるが如し。人の面、目、手足に集附して厭べきに堪たり。然れども、昼の内のみにして夜陰其所在をしらず。…」(東韃地方紀行巻の上)

大陸側上陸地点の確認

デカストリ沖より大陸側の上陸地点(右奥)を望む
林蔵はこの辺りのどこから、
山道をキジ湖へ向かったのでしょうか。
交易ルートの跡は、今も残っているのでしょうか。
林蔵が上陸した地点
 ナニヲーを後にした林蔵はノテトに滞在し、そこの酋長コーニが貢ぎ物を持って大陸に渡る機会に同行し、デレンに出かける事となります。林蔵を乗せたサンタン船は、旧暦の6月26日ノテト崎を出発し、荒波や霧の中をやっとの思いで大陸側にたどり着きます。大陸側の陸地を確認するまで、この間6日を要しています。サンタン船程度の船を使って間宮海峡を横断する事は、大変危険な困難な事だったようです。
 大陸側に渡った林蔵は、ロヽカマチー、アルコヱ、トゥウシボー、トヱカタムラカローなどを経てムシボーに至ります。ムシボーから林蔵は、山越えをしてタバチマーに至り、そこから川を下ってキチー湖に至るのです。
 ムシボーからタバチマーまでの山道は、林蔵の記述によれば
「…東韃の属夷は論なく、其他東南の海岸四百余里の間に住める諸韃種の夷人、デレンに至て交易する者は、悉く此処に来りて陸上挽船する事、皆如レ斯する事なれば、此処の山路は街道の如く、且夏月中は往反の諸夷も大抵絶る間もなく…」(東韃地方紀行より)とあります。
 ムシボーからタバチマーまでの山道は、多くの人々が船を牽いて通ったため、道のようになっていたそうです。この交易のための当時の道は、現在どうなっているのでしょうか。残念ながら今回の調査で、この道を確認する事はできませんでした。

ニブヒの伝統的な生活様式と林蔵の調査

 林蔵が樺太を踏査した際、訪れた地域の地勢、産業、風俗を詳しく調べています。この調査の結果は、「北夷分界餘話」という全10巻の報告書として幕府に提出されています。この報告書は、絵図をふんだんに用いた、大変わかりやすいものになっており、当時の樺太の様子を今に伝える大変貴重な文献です。この「北夷分界餘話」は、間宮林蔵記念館において一般公開しています。
 北夷分界餘話の内容は、次の通りです。
 今回の調査では、
 東韃地方紀行他 洞富雄、谷澤尚一編注  平凡社東洋文庫484
を携行し、聞取り調査でこの絵図を見せながら話を聞きました。絵図は、残念ながら白黒印刷で、縮小されていますが、現在出版されている林蔵の報告書の復刻本としては、これしかありません。(現在「東韃地方紀行」「北夷分界餘話」「北蝦夷島地図」の復刻を考えていますが、出版に至るまでにはまだ時間がかかるものと思います。)
 林蔵の報告書の中の絵図を見ながらの聞き取り調査で、特に印象に残ったものは次のような事柄でした。

女夷育子

 ニブフの人々の子育ての様子を林蔵は、次のように観察、記しています。
「…一 女夷子を産するの事見聞する処なし。只其子を育するに至て、図のごとくなる械に縛し、屋より彫木を垂れて是を掛く、嬰児より四、五歳に至る皆かくの如し。其下木器を置きて遺尿をうくる物とす。一 手は束縛せられて動かす事あたわず。足は屈伸すべしといへども、又自由なる事なし。然れども其飄々たる事の快きにや、又地習のしからしむるにや、嬰児は論なく、三、四歳の児といへども涕泣する事なし。含乳せしむる時は、束縛のまゝ是を抱て含しめ、飲み終る時は又掛る事本の如し。…」(北夷分界餘話巻之八より)
 子供をこのように縛り付けて天井から吊るすやり方は、東北地方(山形県にはその玩具まである)に伝わる「いずめっこ」と同じようなものではなかったでしょうか。忙しい生活の中から編み出された生活の知恵なのでしょうか。
 今回、ニブヒの人々にこの様子を確認するため、東韃地方紀行を持っていきました。ゾーヤさんに、「昔子供を育てる時この辺りでは、このようにしていたのですか?」と聞いたところ、ゾーヤさんは「その通りです。私も小さい頃はこのようにされていました。」と答えてくれました。林蔵が観察した風習は、数十年前までこの地方に残っていたのではないかと思われます。現在では、このような「板に縛り付けての子育て」はしていないようです。生活が便利になるに従い、ニブヒの伝統的な生活様式は急速に忘れ去られようとしているようです。

サンタン交易の遺品

林蔵が描いた絵図

 林蔵の報告書に描かれた絵図はたいへん写実的で、美しく描かれています。樺太にある二つの山の様子、主だった岬の地形など。一枚の絵としても大変美しいものがあります。北夷分界餘話に挿入されている人物画は、美術的に見ても大変素晴らしいものです。
 しかし、今回大変感激したのは、その絵の一枚一枚が大変正確に描かれていることでした。海峡最狭部、樺太ボギビから対岸を描いた「ボゴベー地図」(林蔵ボギビをボゴベーと表記)という絵図が「北夷分界餘話」巻之二に収められています。私たちがフレガット号のデッキに立ち海峡最狭部を通過すると、ワシブニ岬(現在のラザレフ(ЛАЗАРЕВ))が視界に入って来ました。まさに林蔵の絵図そのままのワシブニ岬がそこにありました。私は、「ボゴベー地図」のワシブニ岬とラザレフの岬を見比べ、興奮を覚えました。林蔵の描いた鳥瞰図の、その正確さ。


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