ナニヲーでの聞き取り調査

ナニヲーで初めて会った少女
両手に摘み取った野いちごいっぱいのかごを持っています。
彼女は僕にいちごをすすめてくれました。
ちょっとすっぱい味がしました。
ナニヲーの少女


ヴォルフ・サメンさん
私がロマノフカ川の岸を歩いていると彼は
「船に乗れ」と誘ってくれました。
私は崖を降りてボートにのせてもらいました。
彼に私は、いろいろと尋ねました。
船に誘う老人

 ナニヲーでは、二人の老人から聞き取り調査を行いました。その一人は、ヴォルフ・サメンさんという54歳の老人でした。彼の話によれば、彼の両親もこのナニヲー生まれ、彼自身もこの土地で生まれたということです。ヴォルフさんは、以前ノグリキで新聞記者をしていました。彼は、定年によってナニヲーに戻ったのだそうです。彼といろいろと話をしましたが、残念ながら間宮林蔵の伝説について聞くことは、できませんでした。
ゾーヤ・アグニョンさん
アイヌの民族楽器ムックリに似た
ニブヒ族の伝統的な楽器を演奏するゾーヤさん。
ムックリを奏でるゾーヤさん

 もう一人話を聞いた老人は、ゾーヤ・アグニョンさんです。ゾーヤさんは、今年78歳、ナニヲーで最長老の女性でした。ゾーヤさんは、私たちが訪れると鮭の皮でできた衣装で正装して待っていてくれました。
 ゾーヤさんは、1918年に大陸側、アムール川河口より少し北の小さな島オングリ島で生まれました。結婚によって樺太に移り住んだのだそうです。その後、1965年から68年にかけてニクラフスカにある漁業コルホーズに強制移住させられました。強制移住については、後出ニブヒ族の過去、現在、未来で説明します。ゾーヤさんは、強制移住、集団による統治に馴染めず、1970年にはナニヲーに戻って来てしまいました。

ナニヲーに伝わる林蔵の伝説

林蔵と思われる日本人が泊まった丘
この丘に林蔵が泊まり、ニブヒの人々と話をしたのでしょうか。
林蔵が泊まった丘
 質問しても初めのうちゾーヤさんは、約200年ほど前に日本人がこの地を訪れたことの言い伝えは知らないといいました。ところが「北夷分界餘話」の絵を見ながら、いろいろと話していると彼女は、『昔小高い丘の上に日本人が来て泊まった』と彼女のおばあちゃんがおじいちゃんから聞いたといって話してくれました。この伝説が林蔵のことを言っているのか、確かな確証はありません。この話は、ゾーヤさん一人からしか聞くことができませんでした。他の老人達は、ゾーヤさんよりだいぶ若いこともあり、約200年前に来た日本人の伝説については知らないということでした。
 今まで、何人かの人がゾーヤさんに林蔵のことを訪ねていますが、このような伝説を話してくれたことはなかったようです。今回は「北夷分界餘話」の絵図をゾーヤさんに見せ、昔話をしている過程で言い伝えを思い出してくれました。この過程を考えると、ゾーヤさんの記憶は林蔵のことを言っている可能性が高いのではないでしょうか。
 今回時間がなかったため、この伝説を複数の人物から聞き取ることはできませんでした。更に何人かの老人に聞き取り調査を行い、同じ内容の話を聞くことができれば、この伝説は、林蔵のことを伝えているものと考えられます。できるだけ早いうちに、詳しい聞き取り調査ができればと考えています。ナニヲーの老人達も高齢化が進んでいる現状を考えると、再調査を出来るだけ早く行う必要があると考えます。
ナニヲー(ルポロボ村)
村の中程、ロマノフカ川の橋の上から
ナニヲーの様子を写しました。
ルポロボ村

なぜ、ナニヲー以北の調査を林蔵は断念したのか

 「東韃地方紀行」によれは、林蔵がナニヲーに到達したのは旧暦の5月12日の午後ということです。ここで林蔵は、この先北端までの踏査を試みます。しかし、宗谷で依頼したアイヌの同行者が北上を拒みます。このためやむなく同月17日に林蔵一行は、ナニヲーを後にします。
「…同十二日、此処を発し、其日ナニヲーに至りつきぬ。此処此島極北の地にして、夷家僅に五、六屋ある処なり。ノテトより此処に至るの間、島と東韃地の相対せる迫処にして、潮水悉く南に流れ、其間潮路ありといへども怒涛激沸の愁も少く、小軟の夷船といへども進退さまで難き事なし。此処よりして北地は北海漸々にひらけ、潮水悉く北に注ぎ、怒涛大に激起すれば船をやる事かなわず。さらば山を超へて東岸に出んといへば、従夷また従ひがゑんぜず。やむ事を得ずして、同十七日、船をかへし、同十九日、ノテトに帰り至りぬ…」(東韃地方紀行より)
ゾーヤさんと共に
ゾーヤさんと共に
 旧暦の5月中旬、現在の6月初旬の間宮海峡、ナニヲーから北はまだ流氷が残っている箇所があるとのこと。幅約1.9メートル、長さ約9メートルの木造船では、とうてい流氷の残る海を航海することは出来なかったでしょう。林蔵は、同行の従者に何とか北上を説得しますが、どうしても承諾してはもらえませんでした。船がだめなら陸路でと、林蔵は考えます。しかし、陸路も湿地が多く道らしき道もない地域ですから、残念ながら進むことが出来ませんでした。林蔵は3日ほどナニヲーに滞在し、やむなく南へと下ることになります。
 今回の旅で、この林蔵の無念さが身に染みて理解できました。林蔵は樺太が島であることは確認できましたが、ナニヲー以北の測量を行うことが出来ませんでした。林蔵は、単に樺太の離島を確認するために踏査を行ったわけではありません。樺太の測量が大切な仕事でしたから、ナニヲーで引き返すことはどんなに心残りだったことでしょう。
 林蔵の作成した地図「北蝦夷島地図」には、この事実がはっきりと記されています。というのも林蔵は、自分で実測した地域は実線で、実測できなかった部分(地元の人々からの聞き取り調査によるもの)は点線で描いてます。ナニヲー以北から東海岸にかけて林蔵は、樺太を点線で描いているのです。この点線の意味が今、改めて重く感じられます。
 ところで、この未測量の点線で描かれた地域。その正確さは、言葉には言い表せないものがあります。自分で測量をしたわけではない土地を、よくここまで正確に描けたものです。林蔵の現地での聞き取り調査が、いかに入念に行われたかを示す証拠といえるでしょう。


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