原稿【京田辺市・市名決定にふれて】

初出:史跡同好会96年機関誌「さちかぜ」,1996。

 新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。また在校生のみなさんはどのような春休みをお過ごしになったのでしょうか?
 春ですね。この暖かさに誘われて、つい自転車で出かけたくなります。先日来、約150キロ走覇しました。なかでも、志摩半島は花盛りで、とても楽しかったです。
 さて、この「やましろのくに」は、実は昨年度スタートした連載で、山城国、つまり京都南部に関する学際的な人文風景の考証を目標としています。特に、田辺町を中心とする南山城の生活風景について述べていきたいと考えています。
 …などと書くと大変むずかしげな印象を持たれるかもしれませんね。しかし、できるだけ分かりやすく書いていきたいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

 本年度第一回目(通巻十四回目)の「やましろのくに」は、序奏的に、さきごろ発表された田辺町の市制後の名前、「京田辺市」について若干述べておこうと思います。

 同女・家政の方をのぞいて、新入生のみなさんは田辺校地で大学生活をスタートされたわけですが、田辺はどうですか? …という問いかけをして、肯定的な返事をあまりききません。有体に、「ド田舎」という答えも聞こえてきそうです。
 確かに、田辺はとてものんびりした風土かもしれませんね。道すがら、稲の成育を見届けることができますし、夏場には蛍の光を追ったこともあります。
 私はそんな田辺が大好きなのですが、しかしこここ数年、京都のベッドタウンとしての道を着実に歩んでいるように思えます。
 大学のすぐ近くでは、興戸・草内地区に建て売りの住宅が並んでいますし、ちょっと離れますと JR学研都市線の大住から松井山手にかけては 新興住宅団地が広がっています。正確な統計をとったわけではありませんが、ふた昔前からするとその人口増加には驚かされることでしょう。
 そんなわけで、このほど市制移行ということになったわけです。

 その名前は「京田辺市」。「きょうたなべ」と読みます。さきごろ、「新田辺市」「京田辺市」「田辺京市」の3案のなかから選ばれました。

 順当に考えれば、たんに「田辺市」という市名が妥当です。しかしすでに和歌山県に田辺市(紀伊田辺)が存在するため、当初から案にものぼりませんでした。
 住民投票では「山城田辺市」がトップでした。無難ですし、またいずれ述べますが「やましろ」というのは田辺町・神奈備山(かんなびやま)に縁のある「山代」がその発祥といわれるので、そんな点からもまさにぴったりの地名です。

 そんな「山城田辺」が却下されてしまったのは、京都府最南部に属する山城町の反発によるものだそうです。
 とにもかくにも、来年4月から「京田辺市」が発足します。

 ここで注目していただきたいのが、いずれの案にせよ、必ず「田辺」が附されていること。こと、採用市名「京田辺」にはその前に「京」が附されていることです。
 まず、なぜ「田辺」が附されることに注目するのか。現町名が「田辺」である以上、疑念を抱く余地がないように思われます。しかし「もともと 田辺とは何か?」ということを考えると、少し状況が違ってきます。

 現在「田辺町」といわれているあたりは、かつて「筒木」「筒城」と書いて「つつき」と呼ばれていました。今からおよそ1500年前ほどのことです。現在の郡名「綴喜」にその名残がありますよね。

 この「つつき」については、またの機会に述べてみたいと思いますが、大きな概念では地名として今まで生き続けているわけです。

 もうひとつ「山本」という地名も昔から残っています。詳しいことは『やましろのくに』第10回「南山城のまち〜三山木〜」で触れておきました。現在は三山木の一字に過ぎせん。

 これら古い地名にとってかわったのが「田辺」です。字のごとく「田の辺り」という地名とも考えられますが、実は「田辺氏」が綴喜の地に引っ越してきたことによります。せいぜい中世以後のことです。
 現在「田辺町」のなかに「田辺」という字(あざ、これについて知らない人は直接お訪ねください)があります。具体的には、JR学研都市線の田辺駅のあたりです。いわば田辺町のなかの田辺。このあたりに田辺氏の館があったのではないかと想像されます。

 整理しますと、「田辺」という地名は比較的新しく、また大変小さな範囲の地名だったわけです。その小ささは、例えば「田辺町三山木柚ノ木」といっしょなんですね。

 ここまで述べておいて、田辺に附す「京」が問題となってきます。

 「京」というのは、本当の語義がどうであるにせよ、「都」もしくは「宮」を意識したものと考えられます。京都府の「京」とも考えられますが、そのようなあまりに単純な発想は、ここでは度外視することとします。

 「田辺」という地名に「京」を附そうとする人たちの気持ちもわからないでもありません。確かに、同志社田辺校地の周辺には、仁徳天皇后磐之姫筒木宮と、継体天皇の筒城宮が置かれたという史実があります。(『やましろのくに』第23回参照)
 このことからすれば「宮が置かれた誇るべき事実を市名に残したい」という意見が出ても、何ら不思議はありません。

 しかし、残念ながら「田辺」に宮が置かれたことはありません。宮が置かれた時代の地名は、あくまでも「つつき」なのです。また、史料によれば、場所自体も決して「田辺」ではなく、「つつき」なのです。敢えて場所を限定するならば、飯岡(いのおか、磐之姫筒木宮)なり都谷(みやこだに、同大田辺の所在地、継体天皇筒城宮)なりになるわけですね。

 ここまで書くと「重箱の隅、つついてんなぁ」と思われてしまいそうですね。しかし、「田辺」の前に「京」を附すことには、どうしても抵抗があるのです。

 山城町の反発をなだめてでも、住民投票トップの「山城田辺市」にするべきだったと思います。
それがどうしても無理ならば、綴喜郡を結集してでも「綴喜市」とするとか(私はこれが最適だと思っていますが)…。

 決まってしまったものは仕方がないのですが、新市名をきいたとき、そう感じざるをえませんでした。

 今年度初回ということで、もっと序論的な話をするべきだったかもしれませんが、時事ネタということでご了承ください。

 次回は、昨年度三山木しかとりあげられなかった「南山城のまち」を綴ってみたいと思います。
そののちは数回にわたって、山城国と渡来人の関わりについて考察してみようと思っています。

 それでは。


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