原稿【普賢寺谷を巡る歴史考察】

初出:史跡同好会95年機関誌, 1995。

今回は予告通り、筒城宮(つつきのみや)についてふれてみたいと思います。

同大・田辺キャンパスを正門から入ると、向かって右手にこんもりとした丘があります。その丘を案内表示に従って登ってみると、石碑が6本立っています。うち5本が並んで立っていますが、その右2つは筒城宮の顕揚碑です。「顕揚」というのは「名をあらわしあげること」(広辞苑第四版)。 まぁ早い話、顕揚碑というのは「昔、ここにはこんなものがあったんだよ」という事実を朽ち果てさせずに後世にまで伝えるという目的のために特に建てられた石碑なのです。
この筒城宮ですが、大きく2時代に区分することができます。ひとつは、仁徳天皇の時代。そしてもう一つが継体天皇の時代です。
ここでは、それぞれの時代に分けて筒城宮のゆかり等を記してみます。

今回は仁徳天皇の時代。仁徳天皇は、大阪府堺市の大山古墳の主として有名(ただしこの比定には疑問視するむきもあります)であり、また「倭の五王」のうち讃もしくは珍と比定されている天皇です。「こんな天皇、今まで一度も聞いたことない」という方は皆無に近いでしょう。ただ、詳しいことについては、神話的な世界から抜け出しつつあるころの天皇であるために疑うべき余地は多く、あまり断定的に語れません。
とは言うものの、これから記す筒城宮に関するエピソード(「日本書紀」仁徳紀より)はあまりに人間臭く、伝説のなかでもある程度信用して良い話だと思います。

仁徳天皇が位について30年。天皇の正妻、つまり后であった磐之媛(いわのひめ)が紀伊国の熊野へ御綱葉(みつなかしは、酒を盛ったり占いをするのに用いたものと推測されます)をとりに行きました。すると、その隙をねらったのでしょうか、天皇はかねてから目をつけていた八田若郎女(やたのわきいらつめ)を娶ってしまいます。
このことを知った磐之媛はたまったものではありません。また悪いことにこの磐之媛は大変嫉妬深かったのです。嫉妬深い女性というのは日常において概して可愛いのですが、ひとたび怒らせるとタチが悪い。─なんとこの磐之媛、熊野から天皇の待つ難波へは帰らず海路から山背川(いまの木津川)をさかのぼって筒城の里へ家出してしまいます。居所については「宮室を筒城岡の南に興して…」という記載が日本書紀に見えます。また、「古事記」仁徳天皇条によると、磐之媛の宮室は「筒木の韓人、名は奴理能美(ぬりのみ)が家」を暫時あてたものであるようです。
それではなぜ磐之媛は「筒城に」家出して来たのでしょうか? この答えとしては、磐之媛が葛城氏の出身であり(はじめての民間人皇后)、筒城が葛城氏の勢力下にあったことが考えられそうです。
さて、いくら嫉妬に燃えたと言っても、勝手に家出した磐之媛の行為が公に認知されるわけがありません。
このため、磐之媛の一行は以下のような言い訳の手紙を仁徳天皇に送ります。その手紙を、参考文献(「人とものの文化史『絹』」)所載の現代語訳を借りて(改変転載)紹介してみましょう。

『…磐之媛がこの(筒城の)ヌリノミの家へ来られたわけは、ヌリノミが飼っている虫が、一度は匍う虫になり、一度は殻になり、一度は飛ぶ鳥になって、三色に変わるという、珍しい虫でありまして、この虫をご覧になるために、来られたのでございます。…』

──この三色に変わる虫というのは蚕のことだと思われます。幼虫(匍う虫)がさなぎになって繭をつくり(殻になり)、そして蛾(飛ぶ鳥)になるという流れです。このような変化のことを生物学で変態(メタモルフォーゼ)というそうですが、古代の人たちにとって珍しい出来事の一つであったに違いありません。

磐之媛が蚕を目のあたりにしたと思わせる証拠も残っています。
仁徳天皇は、磐之媛に対して重婚の許しを乞う(?)歌を二回も出していますが、それに対する磐之媛の二回目の返歌にこんなのがあります。

『なつむしの ひむしの衣 二重着て 囲み宿りは あに良くもあらず』

この歌の解釈としては…
「夏の蚕が繭を二重に着て囲んで宿るように、二人の女に囲まれておいでになるのは、決してよろしいことではございませんよ」

…といったところ。つまり言いかえれば、蚕が二重に繭を作る(二重繭層)様子を知っていたものと推測できるわけですね。
さて、なかなか帰らない磐之媛に対して、仁徳天皇は自ら船に乗って川を遡り、后を迎えに来ます。世界一の規模の古墳の主にしては、なんとも健気ですね。─しかし、磐之媛が天皇の待つ難波宮へ帰ることは二度とありませんでした。というのも、騒動のはじまりから約5年ほど経った年の6月、「皇后磐之媛命、筒城宮に薨りたまひぬ」、つまり磐之媛は筒城の地で亡くなったのです。

なお、磐之媛の居所で出てきたヌリノミの館があった「筒城岡」というのは、一般的には現在の「飯岡」であろうと考えられています。
森浩一・文学部教授もこんなことをおっしゃっていたような気がします。
私としては他の可能性、例えば同女のすぐ南側にある天神山などについても考えてみたいところです。立派な「岡」ですし、見晴らし等も良く、立地としては文句ありません。ただ仁徳天皇時代の筒城宮の立地の推定としては、すぐ壁にぶつかってしまいました。それは「川を遡って筒城の里へ来た」ということ。つまり、山背川=木津川から若干距離のある天神山を磐之媛の宮室として比定するのは少々無理があるのです。ここで私は天神山説を断念しなければなりません。

「筒城岡=飯岡」という説が正しいものだとすれば、仁徳天皇時代の筒城宮というのは現在の玉水橋付近ではないかと考えられます。…しかし、考古学的裏付けがない以上、真相はまだまだ分かりません。

次回は継体天皇時代の筒城宮へと話を進めてまいります。


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