原稿【普賢寺谷を巡る歴史考察−2−】

初出:史跡同好会95年機関誌, 1995。

前回に引き続き、筒城宮についての話を進めてゆきます。

継体天皇時代の筒木宮(この時代は筒「木」表記の史料が多い)ということになりますが、それにさきだって継体天皇の皇位継承に関する言い伝えから話を始めましょう。

継体天皇は西暦の450年に生まれたとされている天皇。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、この人、大和の出身ではありません。越前国の出身です。こんな地方の人がどうして天皇になれたかということに関しては「日本書紀」等に以下のように記されています。
…今から約1550年ほど前、武烈天皇という人がいました。この人は大変残酷な天皇だったようです。記録によると、妊婦の腹をさいて胎児の姿を見たり、樋の中に人を詰めて出口に三叉の矛を置き突き殺して楽しんだり、人を木に登らせて下から弓で射殺したり…。ここに書くのもためらうようなひどいことをしていたという記録も残っています。
──このような悪逆非道を尽くしたからなのでしょうか、武烈天皇は若くして亡くなってしまいます。ここで発生したのが継嗣問題。それまでの直系の天皇家が途切れてしまったため、どこかから天皇の血をひく人物をひっぱってこなければならないのです。そこで当時政権内で有力であった物部麁鹿火らは、応神天皇の五代の孫で越前にいた継体天皇をむかえた、というわけです。
ただ奇妙なことに、継体は直接大和・飛鳥へ入ることはありませんでした。樟葉(京阪沿線)で即位したあと筒木、弟国(乙訓)を経て、約20年後の527年、やっと飛鳥の磐余玉穗宮(いわれたまほのみや)へ入ることができたのです…。

まぁ「日本書紀」等によると、継体天皇はこのような経緯で位についたとされています。

でも何か変じゃありませんか?

継体天皇はどうしてすぐ飛鳥へ入れなかったのでしょう? 越前から招いた天皇ならば、それこそ「三顧の礼」をもって飛鳥へ迎えるべきではないでしょうか? ──────

実はこのような「日本書紀」等をベースにした継体天皇皇位継承の言い伝えは創作であって真実ではないとする説が定説となっています。

以下、「日本書紀」の記述の批判を含めつつ、前掲の疑問「どうしてすぐ飛鳥へ入れなかったのか?」また「なぜ筒木の地に都を置いたのか?」という問題について述べてみようと思います。

さきほど継体天皇が越前の出身であると書きました。このことを疑問視するむきもありますが、ひとまずそれは信じることにします。因みに私は継体の数代前に遡ったところで大陸系の血が濃くなると推測しています。まぁこれ以上深入りはしません。危ないからね。

越前の継体。これが中央へ進出してきた事実をもっとも納得いくように説明するのは、継体が武力をもって大和国を征服し新王朝を建てた、とする説です。具体的には…

『越前・近江に大きな勢力を持っていた有力豪族が、武烈天皇死後の朝廷の混乱に乗して「応神天皇の子孫」と号し、約20年の対立・抗争の後、大和の勢力を制圧して、武烈天皇の妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)の婿となって皇位を継承した…』

やや過激な説のように思われることでしょうが実はこうした考え方が学会でほぼ定説となっているのです。天皇家の顔立ちと、前頁の冒頭から私の言いたいことがなんとなくお分かりでしょう。
また余談になりますが、以後の天皇に繋がる皇室の傘下で行われた史書編纂としての日本書紀に描かれた武烈天皇の残酷さを記す記述は、継体天皇以後の新王朝家の正当性を記すためになされたものであって事実とは異なるのでは…と考えることができます。

話をもとに戻しますと、つまり、いわゆる神武天皇の血筋と継体天皇の血筋は別である、ということ。現在の天皇に(一応)血筋がつながっている(とされている)家は継体以後の流れである、ということ。そしてそのルーツに筒木の地が関わっているということ…。

こうした仮説というか定説…の根拠となるのは大和入りに20年もかかっていることが最も大きいと思われます。この点を除いたら大昔の学説、つまり応神天皇の五代の孫としての継体天皇が大和に入ったとする説も何ら無理はありません。しかし、どう考えても大和に入るのに20年もかかるのは不自然としか言えないのです。

継体は越前を発つと、紆余曲折を経て、まず樟葉で即位します。現在、楠葉の交野天神社に「樟葉宮伝承地」の顕揚碑が立っているようですが、この場所に特定できるかどうかはともかく、楠葉で現在の天皇家が産声をあげたことはほぼ間違いありません。
ついで、5年ののちに樟葉から遷都したさきは筒木。関係地図を見ていただければお分かりいただけますが、楠葉から京阪奈丘陵を南下して山越えをすれば、すぐ筒木の地。しかも枚方からちょいと丘を越えたところにあるのが普賢寺谷です。
筒木宮についての考察はひとまずあとにまわします。

筒木から7年のち遷都したさきは弟国(乙訓)。現在の大山崎町・向日市・長岡京市のあたり、ということになります。こちらは特に顕揚されているとはきいていません。
ここで一つ気づくことは、樟葉も筒木も弟国も淀川水系の立地であるということ。これは交通の便がいいという観点もあると思いますが、継体天皇の墓が高槻市郡家新町の今城塚古墳とされており、この立地も淀川水系であるということを考えると、淀川水系の流域に継体の勢力基盤となる何かがあったことと推測されます。──それが何なのか、私には分かりませんが…。
さてさて、樟葉で即位してから苦節20年、ようやく磐余玉穗宮(桜井市)へ落ち着くことができたのです。ということらしいです。
なにげなく樟葉からの足取りをおさらいしましたが、この間には大和の勢力との絶え間ない勢力争いが繰り広げられたに違いありません。樟葉から一度南下して筒木に宮を構えてみたものの、その後弟国へ後退しています。大和と継体との攻防が宮都の位置に投影されているようです。
ここで継体天皇が筒木に宮を置いたことを更に確証するために、継体と筒木との関わり、そしてその痕跡についてへと話を展開してゆきます。

継体天皇の母親である布利比弥命(ふりひめのみこと)は越前国坂井郡の出身です。このため継体天皇の出自が越前となるわけですが、一方で父親・汗斯王(うしのみこと)は近江出身です。このため、ま、言ってみれば継体のもともとの勢力範囲は近江から越前に広がるということになりますね。ひとまずこれを確認しておきます。

近江には汗斯王と血筋の繋がる、息長(おきなが)氏という有力豪族がいます。現在、滋賀県坂田郡に息長古墳群というのがありますが、この古墳の主はまぎれもなく息長氏だと思われます。
この継体とゆかりが深い息長氏の名前が、なんと普賢寺谷にその痕跡を残しているのです。それは普賢寺の山号「息長山」。 そして、普賢寺の西北山上にある朱智神社に「息長帯比売(おきながのたらしひめ)」が祀られているという事実。 また、少々専門的になりますが、中世の普賢寺領荘官をつとめていた下司氏が息長氏を名乗っていたということ。(cf/下司…DV記念館南斜面に下司古墳群あり) この他、系譜上から更に関連付けることができるようですが、私は力不足でそれをご紹介することができません。
いずれにせよ、これらの事実は普賢寺谷において息長の足跡をしのぶのに足りるものであり、ひいては、その親玉である継体と筒木を結びつける一助になるものと思われます。

それではここで筒木宮の場所の限定へと話を進めましょうか。ほんとはそろそろちょっとしんどい。
継体天皇時代の筒木宮に関する史料をここに書き出してみます。

山城名勝志巻第十六
──…都谷。段々良の西北五町許に在り。南北山にして、方二町四方許。是れ則ち継体天皇の皇居綴喜の都なり。
山城名勝志巻第十
〔都〕土人云う、今その所地を知らず。但し興戸村と陀多羅村との辺、宮口または御前という所あり。
扶桑京華志巻之三
(部分訳)綴喜…皇城は東南にあり…継体帝五年冬十月都を山背に遷す。筒城宮と謂う。
都名所図会
〔綴喜都〕普賢寺渓の巽にあり、方三町ばかりにして南北山なり。むかし継体天皇の皇居を遷されし所とぞ…
山城名跡巡行志第六
〔 都谷 〕段々良の西北五町ほどにあり、南北に山あり、二町四方ほどの所、昔の皇居の跡なり。いにしえの筒城宮なり。継体天皇…八ヶ年の皇居なり。

私が探しえた直接的な史料は以上の五つ。決して多くはありませんが、これらを用いて具体的にいにしえの筒木宮の場所について考えてみます。

〔山城名勝志から〕
筒木宮は「都谷」にあり、そこは南北に山があるようです。しかし、筒木に宮が置かれた経緯を考えると平野部に宮が置かれたと解釈するのにはやや難があります。
〔扶桑京華志から〕
この史料から筒木宮の場所をうかがうことはできませんが「皇城は」とあるのに注目。史料の考察でも述べましたが、当時の情勢を考えると、筒木宮は「城」的な防御的機能を兼ね備えた存在であることが想像されるのです。
〔都名所図絵から〕
「巽」というのは南東の方角。普賢寺谷の南東ということですから、現在の南山地区あたりでしょうか。南山の東隣の字が「越前」なのも見逃せません。
〔山城名跡巡行志から〕 基本的に史料と一緒。ただ「都谷」という項立てして記述しているのが特徴です。

似ている史料が多いのは、お互いに史料を参照しあっているためでしょう。このため、史料数の多寡で説の優劣を論じることは危険です。結局、私は継体天皇の筒木宮の位置を論理的に一箇所に限定することができません。両方の説が成り立つと思いますし、結論については考古学上の発見を待たなければなりません。

ただ、南山の場合、史料には「普賢寺谷の巽」とあるだけで地名が言及されない一方で、都谷の場合は、双方の史料ともに「都谷」の字が見えます。各々の時代の住民たちの伝承に基づくなかでこの「都谷」説が力を増すのは当然の道理…というのは言い過ぎでしょうか。
さてこの「都谷」ですが、意外と私たちの身近にあります。田辺町多々羅都谷にある主な建物をここに列記してみます。

──同志社が田辺校地を開くのに先立って、発掘調査が行われているため、校舎の真下に筒木宮が眠っているということはあまり考えられません。ただ私は、失礼ながら「本当は発掘した時なにか見つかってたのでは」とつい考えてしまいます。
…もし同志社田辺が、今の天皇家がその黎明を過ごした地であったとしたら───。

今回はちょっとキツかったのですが、無理して一回で継体の筒木宮について述べてみました。なお、来週は休載とさせていただき、そろそろと「南山城」地域の総論をしようと思っています。
なお今回ご紹介した「都谷」にある建物の記載については、長田G・3回の川野由紀子さんから同女田辺の建物配置に関する資料提供をいただきました。どうもありがとうございました。今回は付録をつけつつ、ここらで失礼します。


付録《同志社田辺・字別の建物配置》※多々羅・都谷以外


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