side−B −司の巫女 2− 豪 高校2年12月後半〜


 大掃除と筋肉痛を乗り切った愛が、27日に「準備が有るから」と言って天ノ宮家に帰って行った。
 和紀も「僕もそろそろ支度をしなくちゃ」と29日に実家に帰った。
 30日には天野家でも生がリビンクに鏡餅を飾り、智が荷物を持って階段を下りて来るのを台所に居た豪が気付いて声を掛けた。
「智もさすがに正月は実家に帰るんだな。久しぶりに親に会えるんだからゆっくり甘えて来いよ」
 何も事情を知らない豪の無邪気な笑顔を見て、智が苦笑する。
「義理と役目とはいえ、あんな親でも年に2回は顔を会わさなきゃならない」
 ボソリと呟いた智に豪が「えっ?」と声を上げる。
 瞬間、しまったっという顔をすると智は豪の制止を振り切って足早に玄関から出て行った。

(あれはどういう意味だ?)
 取り残された豪は無意識に親指を噛む。記憶を辿ってみたら、1年近く一緒に暮らしてきたのに、智だけは1度も家族の事を口にした事が無い。漸くそれに気付いた豪は愕然とした。
 智には智なりの何か深い事情が有るのだろうと思った豪は、智が自分から心を開いてくれるまでは、決して傷口に触れるような真似だけは止めようと心に誓った。
 コーヒーを炒れてリビングに行くと、生が鏡餅をセットし終えてソファーに寝転がっていた。
 豪の気配を感じ、生は上体を起こすと微笑する。
「一斉に皆が居なくなると、やっぱり寂しいね」
 春に一緒に住みだしてから、居間は何も言わなくても全員が集まっていつも騒いでいる場所だ。今は兄弟2人きりしか居ない。
 いつの間にか自分達の中で、全員が家族になっていたんだと豪は思い、生の頭をくしゃりと撫でた。
「正月明けには皆も家に帰ってくる。そうしたら又にぎやかになるだろう」
『帰ってくる』という豪の言葉に生が破顔する。
「うん。皆、ここに帰ってくるんだよね。きっとちゃっかりお父さん達にお年玉を貰いに実家に帰ったんだよ」
 仕事を持ち、並のフリーターよりはるかに貯蓄を持っている生の、いかにも子供らしい発想に豪は笑った。

 千寿子は始めの3日は庵で護人達と過ごし、荒れた気持ちが静まったのを確認してからは洞穴の中で過ごしていた。
 2人の護人が交代で生物の入っていない食事を運び、千寿子自身は身を清める時以外は洞穴から外に出る事は無い。
 真冬の寒さの中でも千寿子は白の単衣に身を包み、洞穴の中には明かり取り用の火しか無い。
 千寿子は1畳ほどの大きさのむしろの上で、起きている時は静かに正座をして瞑想を続けていた。眠る時もそのむしろの上で何も羽織らずに横になった。
 そういう日々を送る内に、千寿子は徐々に本来の姿に戻っていった。

 天野家では31日の夕食はかなり早い時間に家族4人で摂った。
 日も暮れない内にと豪と生は不思議に思ったが、両親は2人に何も説明しない。
 食器を片付けると、漸く恵がリビングに居る2人に声を掛けた。
「今すぐに風呂に入って念入りに身体を洗いなさい。着替えは部屋に用意しておくから」
 言われるままに豪と生が風呂から上がって自分の部屋に戻ると、真新しい服が一揃い置いてあった。
 とても温かく心地良い手触りと仕立ての良い上質の服に、豪と生はこれは絶対に何か有ると確信する。
 豪も生も皆や両親の様子から、自分達には何か大事な事を隠されていると思っていた。
 2人が着替えを終えて1階に下りると、正規達も風呂に入り着替えを済ませていた。
「出掛けるぞ」
 正規が車のキーを見せる。
 地下車庫のワンボックスカーに乗り込むと正規は車を発進させた。
「親父、母さん、どこに行くんだ?」
 豪の質問に助手席の恵が振り返って微笑む。
「すぐにあなた達にも解るわ」
 恵の笑顔を見ると豪も生も二の句が告げられない。
 地下通路を10分ほど走ると地下駐車場に車を停めて、エレベーターに乗って上がるとそこは本邸の一画だった。
 執事の飛島が一家を丁寧に出迎える。
「遅くなってすみません」
「まだ時間に余裕は有りますから大丈夫でございます。ご案内いたしますからどうぞこちらへ」
 頭を下げる正規に飛島が笑顔で応えた。
 明かりが無いからと小さなライトを全員に渡し、真っ直ぐ北に向かう様に告げると飛島は4人を裏玄関から送りだした。
 さすがに豪と生が困惑していると正規が振り返った。
「行けばお前達にも解る。ここから先は私が良いと言うまで決して口をきかないように」
 そう言って、正規は北極星を見上げながら恵と並んで歩き出した。
 またかと、豪は溜息を漏らしたが、今までずっと自分達兄弟だけが知らされなかった事が漸く今夜明らかになるという事だけは判った。

 森の中を3時間ほど歩くと突然視界が開けて岩山が目に入った。所々に篝火が置かれて周囲を照らしている。
 両親がライトを消すので、豪と生もライトを消してポケットに入れた。
 むしろが置かれてある一画に行くと、そこには和紀と智がおそらく両親と思われる夫婦と共に座っていた。
 正規と恵が位を正して丁寧にお辞儀をするので豪と生もそれに倣う。
 後から来た4人の為に中央にを空けられ、全員がそこに腰を下ろした。
 大勢の視線に気付いて豪が顔を巡らせると、別のむしろに座っている20人ほどの人達全員が自分を見つめているのに気付いた。
(この人達が天ノ宮の親族なのか)
 仮とは言え、千寿子の婚約者になった自分の事が気になるのだろうと察した豪が軽く会釈をして視線を戻すと、正面に穏やかな顔をした老婆が立っていた。
 座っている豪の手を引くので、豪は立ち上がって老婆の後に続いた。
 中央の篝火に一番近い所のむしろに豪1人を座らせると、老婆は岩山に歩いて行った。
 豪の目が慣れると岩山には人1人が立って通れる程の洞穴が有るのが見えた。
 洞穴の入り口の横に白袴姿の愛が正座している。
 よく見ると可奈女とその横に譲と思われる愛似の優しい顔をした中年の男の姿も見える。
 豪はこれから何が起こるのか、全てを見落とすまいと意識を研ぎ澄ませた。

 洞穴内では護人の老人と老婆が正座をして頭を垂れていた。
「そろそろ刻限でございます」
 その声を聞き洞穴の奥に座っていた人影が立ち上がる。
「参ります」
 老夫婦の間を通り真っ直ぐに洞穴の出口へと歩いて行った。

 篝火に照らされた広場に千寿子が姿を現した。
 豪がそれに気付いたのは洞穴から出てきた人影が始め右へとゆっくりと歩き、そして向きを変えて自分の座っている方向に真っ直ぐに歩き、向きを変えて自分のすぐ側を通り過ぎた時だった。
 純白の薄絹の袴を身に付け、両手で榊の枝を持ち、髪は背中の中央を和紙で1つに束ね、素足といういでだちで、千寿子は豪に視線を向ける事無く真っ直ぐに前を向いて歩いて行く。
 またゆっくりと向きを変えて千寿子が岩山の方に戻って行くと、豪は全身に鳥肌が立った。
 千寿子が歩いた場所の内側が一瞬の内に完全に清められた事が豪にも解ったからだった。
 千寿子は自分が作り出した舞台の中央に正座すると地面に口付ける。
 静まりかえった場に、凛とした千寿子の声が響いた。
「むかしむかし。貧しい娘が森に迷い込み大きな岩の前にたどり着きました」

 むかしむかし。
 貧しい娘が森に迷い込み大きな岩の前にたどり着きました。
 何日も空腹で歩き疲れた娘はせめてゆっくり休みたいと思い洞穴に入って横になりました。
 するとどこからか娘を呼ぶ声が聞こえました。
 娘が目を開けて起き上がると娘の手の中に一枝の榊がありました。
 声はその榊の枝から聞こえていました。
 声に導かれるまま娘は榊の枝を手に洞穴を出て森を歩いていきました。
 そこにはたわわに実った桃の木がありました。
 娘はその実を食べて飢えと乾きを癒し洞穴に戻って眠りました。
 娘が目を覚ますと手の中に新しい榊の枝がありました。
 娘は声に導かれるままお日様の昇る方角にずっと歩いていきました。
 枝が自分をここに降ろすように言うので娘がそのとおりにしました。
 すると娘の目の前に川ができました。
 おどろいた娘は走って洞穴にもどると取っておいた桃の実を食べました。
 落ち着いた娘はそのままぐっすりと眠りにつきました。
 娘が目を覚ますとまた新しい榊の枝が手の中にありました。
 娘は声に導かれるままお日様が一番高く昇る方角にずっと歩いていきました。
 枝が自分をここに降ろすように言うので娘はそのとおりにしました。
 すると娘の目の前に泉が湧きました。
 もう娘はおどろきませんでした。
 洞穴に戻り飢えを充たすとその日もゆっくり眠りにつきました。
 娘が目を覚ますとまた新しい榊の枝が手の中にありました。
 声に導かれるままお日様が沈む方角にずっと歩いていきました。
 枝が自分をここに降ろすように言うので娘はそのとおりにしました。
 すると森が分かれて真っ直ぐな道ができました。
 娘は道にでて家に戻る気にはなれず洞穴に戻ると眠りにつきました。
 娘が目を覚ますとまた新しい榊の枝が手の中にありました。
 娘は声に導かれるまま泉ができた方角に歩いていきました。
 しばらく歩いていくと娘は立派な若者に出会いました。
 枝が自分を若者に渡すように言うので娘はそのとおりにしました。
 不思議な縁で出会った娘と若者は夫婦となりそこに宮を建てて森の護人となりました。

(これは昔話か神話か? いや、きっと天ノ宮家の歴史なんだ)
 豪が全身を強張らせる。
 大きな岩というのは目の前にある岩山の事。
 天ノ宮家から南東に有る天野家の前には川が流れている。
 一般に公開されている南向きの公園には池が有り、学園と天ノ宮家の私有地を隔てる西側には広い道路が有った。
 そしてその中央には天ノ宮家の本邸が有る。
 自然に囲まれた良い環境だと思っていた。
 それが数百年も前からずっと故意に護られてきたものだとしたら。
 豪の頭に1つの言葉が浮かんだ。
 『宮司の巫女』
 千寿子は自分の事をそう言った。
 では今、目の前に居る千寿子こそが本当の千寿子の姿なのだと豪は知った。

 千寿子の瞳にはいつもの覇気が無い。
 それでいて今までこれほどの美人は見た事が無いと思うほど美しい。
 そうでは無いと豪は頭を振る。
 人をはるかに超越した美しさ。
 これは『天女』の美しさだと豪は思った。

 千寿子が一呼吸置いて立ち上がる。
 榊の枝を右手に持ち、ゆるやかに舞い始めた。
 静かにゆっくりとそれでいて楽の音すら妨げにしかならないと思えるほどの優雅さで。

 しばらくして豪の耳に声では無い声が聞こえた。

 今、ここに命がある事を感謝いたします。
 平穏な日々がおくれた事を感謝いたします。
 多くの実りを与えてくださった事を感謝いたします。
 恵みをもたらす大地よ。
 あなたの優しさに感謝いたします。

 静けさの中に熱い千寿子の想いが広がっていく。
 それに応じるかの様に森がざわめき、やわらかい光で輝く。
 千寿子の舞いに合わせて浮かぶ光は次第に木々を離れ天へと登っていく。
 あたかも天に千寿子の声を届ける様に。
 千寿子は天に向かって両手を上げて立ち止まる。
 そして再び中央に正座すると地面に口付けをした。

 遠くからかすかに鐘の音が聞こえ、新年を迎えたのだと豪は知った。
 
 千寿子が再び立ち上がると今度は笑みを浮かべていた。
 先程とはうって変わって軽やかに艶やかに舞い踊る。

 この新しい年も良き年でありますように。
 実り多き年でありますように。
 健やかに過ごせますように。
 わたしは心から願います。
 新しい命の恵を与えてくださいませ。

 いつ終わるとも知れない舞いを前にして、豪はただひとり自分がここに座らされた理由を理解した。嘘とは言え自分はあの千寿子の婚約者なのだ。
 古より大地に選ばれし『巫女』を手に入れた若者として今、ここに居るのだと。
 豪はなぜ千寿子が年末にあれほど苛立っていたのか、忙しいと自分の誘いを一蹴したのか今なら全て解ると思った。
 和紀達から毎年冬休み前に課題を全て済ませなくてはならないという事は、後になって聞かされた。
 神事の数日前から巫女は禊ぎに入るのだと、何かの本で読んだ事が有る。
 そんな事よりも、千寿子は本当の姿を自分達に知られたく無かったのだという事に豪は気付いた。
 他の生徒達には一歩引いて公平に接する千寿子が、自分達にだけは食って掛かり、豊かな表情を見せ、まるで自分は普通の少女だと言わんばりに振る舞っていた。

(馬鹿だな。俺や生がこんな事でお前を差別すると思ってたのか?)
(お前はたしかに『宮司の巫女』だがその前に『天ノ宮千寿子』だろう)
(千寿子は1人の人間だ)
 豪は知らず笑みを浮かべて千寿子の舞いに魅入っていた。

 どれほどの時が経ったのか、千寿子が舞いを止めて榊を持った右手をある方向に指した。
 豪や他の面々が千寿子の指差した方向を向くと、森の木々の間から太陽が昇って来るのが見えた。
 豪は太陽が登り切るまで視線を動かさなかった。
 視線を戻すと千寿子がすぐ後ろに立っており、手にしていた榊の枝を豪に手渡した。
 千寿子は一同に礼をして黙って洞穴の中に戻って行った。
 愛達も千寿子に続いて洞穴の中に消えていく。

 豪がぼんやりと立っていると正規が背後から声を掛けた。
「終わったからもう口をきいても良いぞ」
 豪は微笑んで頭を振った。今は頭も胸も一杯で口をききたくないと思ったからだ。
 正規はそれを察して頷いた。
「本邸に戻るぞ。この後、親族が全員集まって新年の挨拶をする決まりだそうだ」
 思いっきり嫌そうな顔をする豪に正規が小声で囁いた。
「いつもみたいな仏頂面をするなよ。今日だけは我慢して笑顔を張り付かせておけ」

 本邸に戻ると大広間に温かい朝食が用意されていた。和紀と智が交互に豪と生の側に両親を連れてきて紹介する。
 和紀の両親はいかにも和紀の親宜しく気さくに笑顔で握手を求めてきた。
「いつも智がお世話になっております。これからも宜しくお願いしますね」
 線の細い智の母が丁寧に豪にお辞儀をし、隣で気むずかしそうな父親が軽く会釈をする。
 豪と生が慌てて頭を下げると、両親の後ろに立っていた智がそんな事をする必要は無いと目で訴えて首を横に振った。

 しばらくして着替えた愛達が広間に入ってくる。
「愛、千寿子は?」
 豪が問い掛けると愛はクスリと笑った。
「姉さんなら風呂に入って今頃爆睡中だと思うよ。8時間は踊り通しだったから。僕も少し眠いけどその前に何か食べようと思って」
「ああ、それはそうだな。気が回ら無くてすまない」
 豪が赤面して頭を掻いた。
「あなたもああして舞いを踊ったのよね。ぜひ観たかったわ」
 恵が笑って可奈女に声を掛けると可奈女が拗ねた声を返す。
「あなたが出処を正直に話してくれていたら、正式に招待できたのよ」
「そうね。でも千寿子ちゃんを観られたから良しとするわ。とても綺麗だったわ」
「当然。わたしの娘だもの」
「よく言うわね」
「何が言いたいのよ?」
 2人の口喧嘩が始まる前に譲と正規が止めに入る。
「可奈女、同窓会はまた別の機会にやってくれないかな。恵ちゃんとゆっくり話がしたいならまた私が時間を作るから」
 譲が優しくたしなめると、気の強い可奈女が素直に頷いた。
「お前のトコの両親はいつもああなのか?」
「たしかに父様は母様に甘いかな。あれが普通だと思ってたから豪の家に行った時はびっくりしたよ」
 ぼそぼそと内緒話を続けていた豪と愛の背後から、やたら爽やかな声が聞こえてきた。
「ここでそういう話をするとは良い度胸ね」
 2人がおそるおそる振り返ると、恵が鉄壁の笑顔で立っていた。

(うっわーっ!!)
 同時に声を上げそうになったが、2人は両手で口を押さえて何とか恵の怒りを無事にやり過ごした。
「そういえば生は?」
 気を取り直して愛が聞くと、豪が部屋の隅を指差す。
 深めのソファーに座って生は穏やかな寝息を立てていた。何と言ってもまだ13歳である。緊張が続いた完全徹夜明けに暖房の効いた部屋で食事を摂るとすぐに眠ってしまったのだった。

 一通り挨拶を済ませた親族達は各々家路についていく。
 愛と和紀と智は実家で一眠りしたら天野家に帰ると口々に言う。
 正規が起きない生を背負うと未だ席を立とうとしない豪に「帰るぞ」と声を掛けた。
「こちらに迷惑が掛からなければ、俺は千寿子が目を覚ますまで待たせて貰おうと思うんだが」
 帰宅しようとする正規と恵に豪は小さく頭を振り、それを聞いていた可奈女が笑顔で豪の肩を叩いた。
「そういう事ならぜひ豪君には残って貰いましょう」
 正規達に別れの挨拶をして、可奈女は飛島に豪を別室に案内させた。

 豪華なソファーベッドの有る応接間に通された豪は飛島に頭を下げて頼んだ。
「できれば起きていたいので、濃いコーヒーをいただけませんか?」
「お嬢様へのお気遣いありがとうございます。差し出がましい様ですが宜しければその榊を生けてまいりましょう。そのままでは枯れてしまいますから」
 豪が千寿子に手渡された榊を大事に持ち続けているのを見て、飛島の瞳に優しい笑みが浮かぶ。
 豪が「あっ」と赤面して声を上げて飛島に榊を預けた。
 程なくして飛島自身がコーヒーと一輪挿しに入れた榊を持ってきた。
「お忙しいのに本当に済みません」
 豪が頭を下げると、飛島が「とんでもございません」と頭を振った。
 ポットからコーヒーをカップに注ぎながら、飛島は穏やかな口調で打ち明けた。
「お嬢様は山にお出掛け前、お顔には出されませんでしたがとても沈んでいらっしゃいました。ですが、今日お戻りになられた時には、笑みを浮かべておられました。例年なら疲れ切った顔でお戻りになられるのです。全ては豪様のお力だと私は思っています」
 買いかぶりすぎだと豪は思ったが飛島の気持ちを無にしたくなかったので笑みを返すだけに留めた。

 何時間か経って豪がソファーに腰掛けたままうとうととし始めた時、廊下から元気の良い声と足音が聞こえてきた。
「そういう事ならどうして起こしてくれなかったんですか?」
「それが、豪様がお嬢様が目覚めてからで良いと言われまして」
「とにかくここに居るのね」
「はい」
 豪はいつもの千寿子だと思わず吹き出した。
 ほどなく、勢いよく扉が開かれる。
「豪、待たせてごめんなさい。そうと知ってたらちゃんとベッドで休んで貰うか、すぐに起こして貰ったのだけど」
「おはよう。それと明けましておめでとう。千寿子」
 テーブルの上の榊を振って豪が笑って挨拶をする。
 気を削がれた千寿子が一瞬口ごもり、「……明けましておめでとう」と挨拶を返した。
 飛島が扉を閉じると、千寿子が豪の正面の席に腰掛ける。
「どうして待っていてくれたの? あなただって徹夜で疲れているでしょう」
 千寿子が頬を染めて問い掛けると豪は「大丈夫だ」と頭を振る。
「8時間も踊り続けた千寿子ほどじゃない。渡したい物が有ったから頼んで待たせて貰ったんだ」
 そう言ってポケットをまさぐる。
「有った。出掛けに着替えたから忘れたかと思った」
 ポケットから小さな箱を取り出して千寿子に放る。
「渡しそびれたクリスマスプレゼントだ。今日渡すと間抜けなお年玉になってしまうが、良いだろう」
「えっ?」
 千寿子が一気に赤面すると豪が榊を手にして席を立つ。
「メシも食べずにすぐに来てくれだんだろう? 俺はこれで帰るからゆっくり休めよ」
「待って、豪!」
 慌てて席を立って追い掛けようとする千寿子に、豪は振り返って笑った。
「昨夜は本当に綺麗だったぞ」
 それだけ言うと豪は部屋を出て行った。
 しばらくの間呆けていた千寿子は、持っていた金の包装紙に銀のリボンが掛けられた箱を開けてみた。
 真珠をちりばめた精巧な金とプラチナ細工の髪飾りが2つ、箱の中に入っていた。
 上質で有名なブランド品で、かなり高価と知れる物だが、おそらく豪の事だから何も考えずに買ってきたのだろうと千寿子は微笑んだ。
 千寿子はいつも留めているピンを外し、髪飾りを付けてみた。
 はっと気付いて急いで窓辺に走り寄ると、豪が窓の下に立っていた。
 千寿子が付けた髪飾りを見て豪が破顔する。
『とても似合ってる。それを選んで正解だったな』
 テレパシーを送ると一度手を振って豪は背を向けて歩き出した。

 千寿子は豪の後ろ姿を見つめながら呟く。
「あんなに嫌な態度を取ったのに……本当に、お人好しなんだから」
 うっすらと目に涙を浮かべてそっと髪飾りに手を添えた。

つづく



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