15.

「どうしても行きたいトコがあるんや」
 そう言ってヒロは俺の腕を掴んだまま、ほとんど小走り状態で歩いていく。俺もヒロの歩調に合わせて軽く走る事にした。
 赤い門を通って広い道路の歩道を真っ直ぐに進んでいくヒロの顔には迷いが無い。というか、顔が完全マジになってる。
 俺には何も言ってくれなかったけど、この感じだと相当この道に慣れているな。
 歩道も合わせて幅100メートルは有る道を、息も切らさずに信号1つで渡りきる。華奢な身体のどこに、こんなパワーが有るんだと聞きたくなるくらいヒロの手と足は力強い。それだけ今行こうとしている場所はヒロにとって特別なんだろう。
 いつものんびり笑っている癒し系のヒロを、ここまで突き動かす物は何なんだ? 俺はそれをとても知りたくなった。
 道路を渡るとそこは広い公園だった。その先にばかでかい半円のドームがある建物が目に入る。あの形状からするとプラネタリウムかな? だとしたらかなり大きな物だな。隣のビルの最上階には天体観測ドームも見えた。
 ヒロの足は公園の半分以上を過ぎても全く勢いが衰えない。やっぱりこれが目的の場所なんだな。走り抜けた透明なガラス張りの扉上には科学館と書かれているのが見えた。

あっ。

 入ると同時に俺の腕からヒロの手が離される。それなのに俺の足は止まらなかった。まっすぐにそれを目指して自然と身体が吸い寄せられていく。
 日が差し込むガラス張りの吹き抜けのフロア中央で、それがさも当然の事の様に無造作に展示されていた。
 LE−7。日本初純国産ロケットH−IIの第1段エンジン。
 小学校の時、NASDA(今のJAXA)の筑波宇宙センターへ見学に行った時に見た同型機がこんなにすぐ目の前に有る。
 俺はLE−7に手を伸ばして、触れる直前になって展示品には触ってはいけないというごく当たり前の事を思い出した。ぐっと堪えて降ろそうとした俺の手を、ヒロが持ちあげてそっとノズルに触らせてくれた。
 え? と思って横を見ると、ヒロもエンジンに触りながら笑っていた。
「ここはなぁ。警備員さんがいつもすぐ側で見とるけど、少しくらい触っても全然怒られたりせんのやで。燃焼実験に使った本物やのに凄いやろ。俺の手はメイン配管の途中までしか届かへんけど、まつながーやったらもっと上まで届くやろ。撫でる程度に触るだけならどこを触ってもかまわんと思うで」
 ヒロは銀色に輝く燃料配管を優しく撫でながら、躊躇している俺に大丈夫だと言ってくれた。
 極細のパイプが隙間無く芸術品の様にノズルを覆っている。どうやったらこんなモンが造れるんだろう。噴射ノズルと燃焼部を繋ぐ太く複雑な形状の配管の断面は、引き抜きじゃないのにほぼ真円。太さ10ミリ以上で均一に綺麗な波状をした溶接剤がマイクロメートルの精度で、100パーセント溶接されている。
 燃料タンクに繋がるフランジ部は、この穴の大きさからM20のボルトを10本以上通す構造で、とても厚みが有って頑丈だ。燃料漏れを防ぐ為に(展示用にかもしれないが)燃料タンク部との接地面は鏡の様に研きあげられていた。
 太い配管の周囲には細く複雑な数本の配管が何本も通っていて、内部ひずみができない半径で曲げられて、一定距離を保ちながらエンジンの周囲を覆っている。
 よくもまぁこんな細い配管が、あの振動と熱と圧力に耐えられるな。

 俺が夢中になってエンジンを触っている間、ヒロも嬉しそうにLE−7を撫で続けていた。どうりでこの辺りに詳しいと思った。ヒロはこれが見たくて何度もここに通っていたんだな。
 あまり自分達だけで張り付いてべたべた触り続けていると、他の見学者の迷惑になりそうだから、俺達は数歩下がってLE−7を見上げた。
「まつながーならきっと気に入ってくれるて思ってたんなぁ。ほやから名古屋に来たら絶対にこれを見せようって……」
 ポツリとヒロが呟いた。ああ、もちろんだ。名古屋で見たモンの中で1番気に入ったっての。

 科学館を出て公園の噴水前のベンチに腰掛ける。俺の頭の中はさっき見たLE−7で一杯だ。ヒロが近くの自動販売機からお茶を2つ買ってきてくれた。
 このまま黙っているのも申し訳ない気がして正直にヒロに告白した。
「俺があれを初めて見たのは小学生の時だった」
 隣に座ったヒロが大きな目を更に大きく見開いてぽんと手を打った。
「あーっ。そうやぁな。宇宙センターって茨城のつくばに有るんやん。ははっ。うっかりしとった。俺もメッチャ間抜けやなぁ。まつながーをびっくりさせたろうて思っとったのに、とっくに実物を見てたんやな」
 失敗したとヒロが苦笑しながら自分の頭を軽く叩く。俺は凄く嬉しかったのに、何でそんな風に言うんだよ。
「あの頃は俺もガキだったし、団体見学だったからエンジンに触るなんてとてもできなかったんだよ。連れてきてくれたヒロには滅茶苦茶感謝してるっての」
「そうなん?」
 ヒロが意外そうな顔をして俺を見上げてくる。
「いくら今は旧型でも大切な本物の展示品を小学生のガキの集団に、そうそう自由に触らせてくれるはず無いだろ。ここはポイって感じで置いてあるから逆にびっくりした」
「へー。あれが普通やと思っとった」
 このなにげに贅沢者め。実際に宇宙に行ったかもしれないエンジンを何だと思ってるんだ。
 俺がむっとした顔をするとヒロがにぱっと笑ってきた。
「もしかしてまつながーが工学部を選んだのって……」
 ヒロはこういう時の勘はとても鋭い。あれだけ夢中になってべたべた触りまくっておいて、嘘を言っても仕方ねーよな。
「そうだよ。他の連中が見学が終わって宇宙飛行士になりたいって言ってた横で、俺は俺が造ったロケットを宇宙に飛ばしたいって思ってたんだ。単純で悪かったな」
 やけみたいに俺が強い口調で言うと「なんやぁ。俺と一緒やん」とヒロが声をたてて笑った。

 一緒ってどういう意味だ? 工学部を選んだ俺と違ってヒロが選んだのは情報学部だ。専攻はプログラムだろ。そんな俺の疑問に答えるみたいに、ヒロはお茶を1口飲むとゆっくり話し出した。
「まだ俺が小学生の時にな。やっぱり見学で岐阜の航空宇宙科学博物館てトコに行ったん。飛行機の歴史なんかも解りやすくパネルに書いて有るし、ヘリコプターや航空機の実験機の本物がごく普通に展示して有るんや」
「へぇ」
 岐阜にそんな場所が有ったのか。そういえば東海地方は工業王国だったな。色々な分野で世界的に名の通っている企業が沢山ある。
「あの純国産エンジンを積んだ低騒音実験機「飛鳥」まで普通に展示されとって、大人も子供もコックピットまで入れるやで。ちゃんと整備すればいくらでも空飛べるのに、メチャ勿体無いなーって見てて思ったなぁ」
 ……すげー税金の無駄使いの気がするぞ。せっかく開発して造ったんだから、量産して飛ばせばいいのに。俺がそう思っているとヒロが思い出すように目を細めた。
「今も有るか判らんけど、展示室の中にパソコンが何台かあって、「自分で設計したロケットを宇宙に飛ばそう」ってコーナーが有ったん。ほんで俺も挑戦してモニターに出てくる説明を読みながら、自分で燃料部の大きさや燃焼時間とかを設定してやってみたんよ」
 そこまで言うとヒロはまたにぱっと笑って俺の顔を見た。滅茶苦茶気になるじゃないか。話を止めずに全部話してくれよ。
「俺もその頃はチョット天の邪鬼なトコ有ったから、わざとコンピュータが勧める理想的な数値を外して、墜落するギリギリの数値を狙って入力してみたんな」
 だからそんなところで止めるなっての。狙ってやってるのかよ。気が短い俺をじらすなよ。
「かなり第1弾エンジンに負担が掛かる燃料バランスにしたから、打ち上げ失敗するかなって思いながらスタートボタンを押したんよ。そしたらものすごーく時間掛かってもうて、俺も不安になってきた頃にモニターに文字が出てきたん」
 止めるなーっ! ヒロの野郎絶対わざとだ。目の前にちゃぶ台が有ったらとっくにひっくり返してるぞ。怒鳴りつけたいけど話が気になって怒鳴れない。続きをさっさと話せー。
「『あなたのロケットは無事宇宙へ飛び立ちました』って。無茶な設定しただけに、メチャ嬉しかったなぁ」
 ヒロは小学生の頃の話なのに本当にほっとしたって顔をした。じらされた俺の心臓にもそうとうの負担が掛かったぞ。
「あの時……」
 あ、まだ話が続くのか。ヒロにしては長いしかなり引っ張るな。
「いつか俺が作ったシステムとプログラムで、本物のロケットを宇宙に飛ばせたらええなって思った」
 ヒロは顔と腕を上げて真っ直ぐ空を指さしながら言った。
 ああ、そうか。同じだ。俺と同じ夢だ。俺が将来ロケットを造りたいと思って工学部を選んだ様に、ヒロはロケット打ち上げシステムとプログラムを作る為に情報学部を選んだんだな。

 ヒロは上げた手を握り拳に変えると、すとんと手を下ろして俯いて小さく息を吐いた。
「まつながーはええなぁ」
「は?」
 どういう意味だ。ついさっきまで俺と同じ夢を見てるって嬉しそうに話したばかりだろ。
「あ、うん。筑波宇宙センターは宇宙を目指す為の施設やもん。メチャ羨ましいでー」
「ヒロだって充分恵まれてるだろ。他の地方の連中じゃ、なかなかそういう体験なんてできないだろ」
「そうかもー」
 何だ? 少し投げやりの上に何か隠してるって口調だな。ヒロらしくないぞ。
「俺がやっぱり小学校の時、見学でロケット造ってる工場も見に行ったんな。常にエアカーテンで仕切られて、綺麗で大きな体育館みたいなトコに国際宇宙ステーションの模型が有ったり、中に入ると2階から実験衛星やそれを入れるロケット部とかが並んでたん」
「すげーな。モロに造っている現場を見たのか」
 俺が感心して言うと「……うん」とヒロが少しだけ顔をしかめて頷いた。一体どうしたんだ? 普通ならテレビでしか見られない物を直に見れたんだろ。どうしてそんな暗い顔をするんだよ。
「喜んだ俺らは当然ロケットを造ってるトコも見せて貰えるって思ってたんや。ほやけど、絶対駄目やって言われたん。見学はここまでやって」
「は?」
「俺らはブーイングしながら工場を出たんやけど、帰りのバスの中で先生が教えてくれたん。ロケット造っとるトコって、実際に自衛隊で使っとる戦闘機やミサイルも造っとるんやて。だから一般人は絶対に立ち入り禁止なん。ロケットエンジン造っとるトコなんか、絶対入れるどころか近付けても貰えんて言われた」
「あ」
 ヒロが何を言いたいのか俺はすぐに判った。筑波が宇宙を目指す連中がいつか夢を実現させる場所なら、ヒロが見た場所は本当に現実の世界なんだ。
 衛星軌道まで上げられるロケット技術は、弾道ミサイルにも応用できる。高性能のエンジンは民間航空機はもちろん、ミサイルや戦闘機にも応用できる。
 俺が単純に宇宙だけを夢見た時、ヒロは夢を見ると同時に、厳しい現実とのギャップを思い知らされたんだ。
 こういう時に下手な慰めは逆効果だ。ヒロが自分の夢を語るのを引き延ばしてきたのは、現実も話さないといけないからだと思う。俺が同じ夢を見ていると知って尚更言いづらかっただろうに、ヒロは最後までちゃんと話してくれた。
 大きな夢を持っているなら、それに伴う厳しい現実も知らなきゃなんねーし強い覚悟も要る。その覚悟が俺に有るのか? ヒロが俺に言いたかった事はそういう事なんだろう。

「まつながー」
「ん?」
 ヒロは今にも泣きそうなんだか、困ってるんだか判らない顔になっていた。まったく何て顔してんだよ。まるで俺がヒロを虐めているみたいじゃないか。
「恥ずかしくて死にそうやから今すぐ手離してぇな。チョット暗い話になってもうたから、冗談でやってるんは判るけど、俺はこの手のギャグでは笑えんで。へこみ掛けてる時に逆にトドメ刺すのはマジで堪忍してや」
「はぁ?」
 ヒロの方が俺を励まそうとしてくれてたんだろ。冗談とかギャグとか何を言ってる……。
「あっ」
 俺はいつの間にか隣に座っていたヒロの肩をしっかり抱いて、拳をつくっていた手を上から握りしめていた。
 俺が手を離すとヒロは一気にベンチの端まで引いて「まつながーの変態!」と言い切った。
 撃沈。
 返す言葉もねえ。俺は男相手に何気色の悪い事やってんだ?
 ヒロが苦笑しながら「メチャホモ嫌いなくせに、タチの悪い冗談するー」とこぼすので、俺も笑って誤魔化す事にした。あれって普通女相手にやる事だよなぁ。自分が無意識でやってる行動が訳解らねーぞ。大丈夫か? 俺。

 地下鉄で名古屋駅に戻って、ロッカーに入れておいた荷物を取る。伊勢市にはJRでも行けるらしいが、ヒロの家に行くには私鉄を使った方が便利なんだそうだ。
 切符を買った後、ヒロがお袋さんに「これから電車に乗る」と電話したら、「もっと早よう電話しや。遅いわ。ボケ!」という元気な怒鳴り声が隣に立っていた俺にも聞こえてきた。
 名古屋で時間を潰しすぎたかなと思っていたら、携帯をポケットにしまったヒロが苦笑しながら、時間が判らないから晩ご飯の用意ができないと怒られたと言った。
 ヒロののんびりはお袋さん譲りだとずっと思ってたから聞くと「オカンのあれは気が長いんやのうて、うっかりモンでマイペースなだけや」と返ってきた。
 ……やっぱり親子そっくりじゃねーか。
 通勤時間帯で混み合う前に急行電車に乗る。初めて行く所だからとヒロが席を譲ってくれたので今度は俺が窓際に座った。電車が発車して20分ほど過ぎた時に大きな河を2つも越える。半端な川幅じゃないな思っていたらヒロが簡単に説明してくれた。
「先に渡ったのが木曽川。今のが揖斐川やで。まつながー、ようこそ三重へ。遠いトコまでホンマにおおきにー」
「は?」
 俺がよく解らないという顔をするとヒロが笑って言った。
 河の向こう側は愛知県、こちら側が三重県だと。この2つの河を越えると、言葉も食文化も全く名古屋とは違うらしい。蛇足だけどと「そうは桑名の焼き蛤」というのは今電車が走っている所から取ったのだという事まで教えてくれた。
「ここがヒロが生まれて育った所か」
 俺が窓から流れる風景を見つめながら感慨深げに言うと、ヒロがあっさりツッコミを入れてきた。
「まつながー、三重の地理解っとる? ここから伊勢まで伊勢湾を半周せなアカンのやから電車で1時間以上掛かるし、途中で別の急行に乗り換えなんや。まだ四日市にも着いてへんのやから俺の家なんかまだまだ先やて」
「……」
 頭では解っていたが、実際に見る三重はかなり複雑な地形で広い。というか、どうやらヒロの実家は俺の地元の並に田舎らしい。電車は国道沿いを走っているのに、町並みは駅を中心に工業地帯に住宅地、それに加えて畑や田んぼもかなりの確率で増えてきている。
 かなり高い山が電車の窓からずっと見え続けている。
 電車を別の急行に乗り換えると、窓から見える風景は一気に森が増えてきた。たしか三重は国立公園が有って更に世界遺産までなかったか。名古屋を見た後だけにギャップが激しい。
 これはちょっと。いや、かなり覚悟しておいた方が良いかもしれない。ちらりとヒロを振り返ったら、天使の様な笑顔で俺を見ていた。
 ……ヒロ。お前、その可愛らしい(となぜかうちの学部の女子共が声を揃えて言う)笑顔の下で何考えてやがるんだ。


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