Rowdy Lady シリーズ 2 『木星より愛をこめて』

15.

 どれくらい時間が経ったのだろうと猫は時計に目を向けた。
 太陽はすっかり昇って室内を明るく照らしている。鹿乃子も獅子も出て行ったまま一向に帰ってくる気配が無い。
 獅子に言われたとおり自分もアンプルを打ち、烏にはアンプルを打った後に外用薬を傷口に貼って様子を見ながらアンプルを少しずつ追加投入している。
 烏の体温がわずかに上がった気がするのは自分の願望なのかもしれない。
 本当にあのまま獅子を行かせて良かったのだろうか。
 自分達の試験体として最も早く生まれた獅子の身体は見た目よりずっと脆い。
 獅子が免疫抑制剤を一切使わなくなってからすでに20日以上経っている。
 残った薬を使い続けていた自分達でもここ数日急激に体力が落ちていた。
 獅子は笑って出て行ったが、鹿乃子を捜し疲れて何処かで倒れているのではと猫は心配でたまらなかった。
 寝息こそ穏やかになったものの、全く目を覚まさない烏を腕に抱いて猫は完全に途方に暮れていた。


 獅子が呻き声を上げてリンダの手を強く握りしめ、痛みでリンダが顔をしかめた。
「脳波に急激な変化」とアトル。
「怖い夢、うなされている」とリリア。
「リリアちゃんが居ると助かるなぁ。リンダ、怪我はしていないね?」
 サムがモニターから目を離さずに問い掛ける。
「大丈夫。爪を出されていないから怪我は無いわ。力が強くてちょっと痛かっただけよ」
「苦しいの。声を掛けてあげて」とリリア。
 「わたしが?」とリンダが問い掛けるとリリアは黙って頷いた。
 リンダはそうだったと気が付き、獅子の耳元に顔を近付けると優しくささやいた。
「獅子さん。獅子さん。わたしの声が聞こえるかしら? 鹿乃子さんなら無事よ。安心して」
 「違う」とリリアが不満げな声を上げる。
「こういう時、大が側に居ないとちょっと不便だな。サラ、多分獅子は自分が不安なんだろ。これだけボロボロの身体でずっと無理し続けたんだ。強がってたけど精神的にも肉体的にもストレスはかなりのモンだったろ」とアトル。
「そうね。こんな身体で無理をし続けたんだから当然だわ。何かもっと安心させる言葉を選ばいといけないわね」とリンダが悩む。
「歌って」とリリア。
「え?」
「あ、俺も聞きたい」とアトル。
 サムが嬉しそうに同意する。
「リンダが作った歌だね。あれは良いね。聞いているとα波が出るんだよ。子供の頃はよく歌ってくれていたのに最近は全然だよね。勿体ないよ」
「そいつにあの歌を聴かせるつもりか」
 α・シリウスが手を動かしながら小声でボソリと呟く。
 独り言が聞こえたサムとアトルは大人げ無いと思ったが聞かなかった事にし、リンダはα・シリウスの言葉の意味が理解出来ずに首を傾げた。

 リンダが息を整えて獅子の耳元で歌う。
「わたしは気付いてしまったの。あなたがそこに居ることを。今までずっと隠していたのね。どうして何も言ってくれなかったの。わたしもあなたを求めているの……」
「お。すげっ。脳波が安定してきた」とアトル。
「レム睡眠時なら外の音は聞こえているからね。リンダ、君なら歌い続けられるね?」とサム。
「2時間くらいなら」と短く答えてリンダは歌い続ける。
 鹿乃子が初めて聴くリンダの歌声に目を細める。
「これがリンダのわたし達へのメッセージだったの。獅子がリンダを信じたいと言って会いたがったはずだわ」
「君には聞こえなかったのか」と大が問い掛ける。
「聞こえてたのは獅子と猫だけ。わたしと烏にはノイズが大きくてあまりクリアに聞こえなかったわ。この歌を先に聴いていたらリンダにあんなに酷い事を言わなかったわ」
 鹿乃子がとても酷い事をしてしまったと俯いて目を伏せる。
「接触時に何が有ったの?」とビクトリア。
「教官、サ……リンダ・コンウェルは鹿乃子を始めから最後まで責めなかったし怒ってもいない。誤解は解けた。終わった事を蒸し返したくないと思っているはずだ」

 落ち着いて淡々とした声を聞いたケインは、α・シリウスの評価を変えなければと感じた。
 自分が知っているα・シリウスは、触るだけで切れそうな鋭い刃で傷だらけの本心を隠し覆っている青年だ。
 しかし、この声からは真摯さと温かさや優しさが感じられる。
 リンダからα・シリウスをスーツに登録したと聞かされた時は本気で驚いた。
 説明する時にリンダがかなり嫌そうな顔をしていたので手段はあえて聞かなかったが、あの難しい条件をクリアするにはかなり強引な手段を使ったはずだ。
 α・シリウスは変わりつつあるのか? とケインは両腕を組んだ。
 ビクトリアもα・シリウスの急激な変化に戸惑いと喜びを感じていた。
 漸く手にいれたパートナーに夢中になり過ぎて、馬鹿な行動ばかりをするので「自制しろ」と言ったのはまだ昨夜の事だ。
 あの後2人の間で何かが有ったのかもしれないが、それを聞くのは無粋以外の何物でもない。
 自分達の前では頑張って猫を被っていたリンダが完全ブチ切れを起こし、α・シリウスにビクトリア以上の強烈な制裁を喰らわした事は本人達以外は知らない。


 リンダの歌声と温かい手を心地良く感じながら獅子は覚醒した。
 モニターを見ていたアトルと、獅子の思考を追っていたリリアはそれに気付いていたがあえて沈黙する。
 この後起こるだろう騒動が簡単に想像出来たからだ。
 うっすらと目を開けた獅子はリンダの顔が間近に有ると知って微笑んだ。
 あのまま死ぬと思っていたら、幼い少女の声が「生きろ」と力強く呼びかけてきた。
 「会いたい」と答えたら「付いてきて」と言われ、本当に目の前に会いたかった少女が居る。
 これは都合の良い夢だと獅子は思った。
 このまま死んでしまうのならこの幸せな夢を見たままで逝きたい。
 ゆっくり手を伸ばすと明るいエメラルド・グリーンの瞳が喜びで輝いた。
 頬に触れると「獅子さん」とリンダが笑顔で自分の名を呼んだ。
 そのままリンダの頭を自分の胸に引き寄せると、2つの大声で獅子は完全に目を覚ました。

「ちょ、ちょっと、獅子さん。寝ぼけてるの? 絶対相手を間違ってるから起きてーっ!」
「サラに触るな。殺すぞ!」

 という相反する声だった。

 アトルとサムは椅子から転がり落ちて腹筋を押さえて笑っている。
 スピーカーからもビクトリアと大の大爆笑が聞こえてくる。
「獅子。獅子。目を覚ましたの?」と鹿乃子。
 ケインは後ろでは何をやっているのかと額を押さえ、顔を上げたリリアは「獅子「も」せくはら?」と言った。
 リリアの無邪気なツッコミにチーム・ビクトリアとサムの爆笑が更に高まった。

 獅子は耳に入ってくる大騒ぎに何が起こっているのか判らず、自分の腕の中で困惑しているリンダに目を向けた。
「あ……れ?」
「あはは。獅子さん、おはよう。お願いだから手を離して。あなたの身体に負担が掛かるわ。というか、切れたそこの馬鹿を今すぐ止めたいの」
 リンダが少しだけ困った様な笑顔で獅子の頭上を指さす。
 獅子がそれに合わせて視線を上げると、憤怒の形相をしたα・シリウスが銃を自分の顔にピッタリと照準を合わせているのが見えた。
「あれはお前の男か?」
 獅子がα・シリウスを真っ直ぐに見返しながらリンダに問い掛ける。
「全然違うわよ。シリは獅子さんがわたしに危害を加えるんじゃないかと心配しているの。そろそろ離してくれないかしら。あなたの身体は本当に弱っているのよ。胸を押さえてしまっては呼吸の負担になるわ」
 真顔ではっきり否定されて微笑んだ獅子は「お前がそう言うなら」とリンダの頭を離した。

 リンダは立ち上がるとα・シリウスに詰め寄った。
「シリの馬鹿! 漸く意識を取り戻した病人を銃で驚かせるなんてどういう神経よ。クイーン・ビクトリアからも大人しくしてと言われてたでしょ」
「あいつは昨日サラに爪を掛けた。あきらかに殺意が有ったとしか思えない。サラもあいつも理性ではお互いに信用すると言っていたが、無意識下の闘争本能までは信用出来ない」
「シリ!」
 本気で怒っているリンダの顔を見て、α・シリウスは渋々銃を腰のベルトに戻す。
「RSM、正直に「やきもち」って言っといた方が良いぞー」
 馬鹿笑いから立ち直ったアトルが椅子に座り直してツッコミを入れた。
 「違う!」と真っ赤になったα・シリウスが怒鳴る。
 「何それ?」とリンダが首を傾げた。
 やはり腹筋の痛みから立ち直ったサムが一応フォローを入れた。
「シリウス君、検索結果出てきたよ。膨大な情報解析を僕1人でやるのかな?」
「すぐに戻って続けます」
 α・シリウスがモニター前に座った。
 リンダが獅子の横に座り直し、リリアが「に……」と小声で言い掛けると、『リリア、それはまだ内緒だよ』と大の思考が聞こえてきて『分かったわ』と答えた。

 身体を動かせない獅子が訳が判らないという顔をしていると、リンダが申し訳なさそうに微笑した。
「獅子さん。驚かせてごめんなさいね。1つずつ説明していくわ。ここはトレーラーコンテナの中なの。さっき声が聞こえたと思うけど、鹿乃子さんとは無事に会えて前の座席に居るから安心して。無理に長距離を走らせてしまって本当にごめんなさい。あなたの健康状態が危ないと予想していたのに配慮が足りなかったわ。馬鹿なわたしを許してくれるかしら?」
 真っ直ぐで嘘が無いリンダの視線を受けて、獅子はああ、この瞳だと笑みを浮かべる。
「鹿乃子を見つけてくれた事は感謝する。俺は自分の意志で動いただけだ。お前が気にする事は無い」
 リンダの頬に手を伸ばそうとしてα・シリウスの強い怒気を感じた獅子は苦笑して手を止めた。
「お前も色々事情が有るらしい。これがトレーラーなら今何処に向かっているんだ?」
 リンダが獅子のわずかな手の動きに気付いて手を握り返す。
「あなた達の家よ。鹿乃子さんが案内してくれているの。猫さん達を保護しないといけないでしょう。今頃とても心配していると思うの。鹿乃子さんは多分あなたの事が心配で何も言ってくれなかったけど、獅子さんが連絡先を教えてくれるなら今すぐにでも連絡するわ。約束を守りたいの」
「隠れ住んでいたから家に外部からの通信手段は無い。これまでは母さんと猫が直接連絡役をしていた。俺のインカムも外部へのみだ」
 ゆっくり手を引かれるままリンダは獅子に顔を近付ける。
「いきなりこんな大きな車で行ったら、繊細な猫さんがパニックを起こしかねないわ。どうしたら良いのかしら」

 尤もだと頷いて獅子は口調を強めて呼んだ。
「鹿乃子」
 「行くわ」と鹿乃子が応える。
 有無を言わさない2人の口調に、サムとα・シリウスが解析したデータを読んでいたビクトリアが顔を上げた。
「1ブロック前で車を停めて鹿乃子さんに先に行って貰いましょう。同行するのはわたしとリリアとサラ。彼女と相性の悪いRSMは当然の事、大とアトルも駄目よ。オスカー」
『何だ?』
「上から見て会話も聞いているんでしょう。わたし達が先行している間、こちらの指揮権をあなたに返すわ。お願いね」
『使いやすいメンバーばかり先に選んでおいて……分かった。君の好きにしたら良い。ビクトリア、頼むから連絡だけは常に絶たないでくれ。研修期間中に君の単独暴走に振り回され続けて胃を壊したんだ。未だに何かトラブルが起こると痛みがぶり返すんだぞ』
 Ω・クレメントの溜息混じりの愚痴を聞いた全員が吹き出し、過去の悪行を全員にばらされてビクトリアが頬を赤く染める。
 リンダが獅子から手を離すと立ち上がった。
『マイ・ハニー、シリ。ピアスをオンにしておくわ。何も無いと思うけどこちらのフォローをお願い』
『マイ・ハニー、サラ。すぐに動ける様に待機しておく。本音は身体が弱っている奴やアトルと喧嘩するなと思ってるんだろう』
『やっぱり解ってくれているじゃない。少しは頭が冷えたみたいね。心配してくれる気持ちは嬉しいけれど、あまり神経質にならないで。獅子さんはとても誠実な人よ』
『……了解』
 誰のせいで俺がいつもしなくても良い心労を抱えていると思っているんだとα・シリウスは言いたかったがここは耐えた。
 敏腕精神科医のサムや親馬鹿ケインの前で、いつもの調子でリンダと喧嘩をしたら後が恐ろしい。


 大がトレーラーを海岸沿いの古ぼけたガレージの前に停車させた。
「こんなところが地球にまだ残っているなんて驚きだわ」
 ビクトリアが車から降りて眩しそうに目を細めて周囲を見渡す。
『この地区はニューヨークでも再開発が最も遅れている場所だ。なまじ21世紀の大規模環境変化時に大した被害が出なかったのと、再建より新規で作った方が早い事を理由に新天地を目指した多くの人々から見捨てられた。私もこの地区を実際に見るのは初めてだ』とΩ・クレメント。
「お母さんは不便でも潮の香りがする静かな所が好きだったの」
 鹿乃子がリンダ達を振り返りながら家に向かって歩き出す。
「これも一種の自然のなせる技なのね」
 リンダがリリアと手を繋いで、風化と酸化が進み辛うじて建物の形状を残している建築物群を眺めた。
 所々、公園だったらしい場所も見られる。
 再開発によって整備された地区と違い、200年以上も前に作られた建物群が並んでいる。
 よほどの事情が無ければここまで環境整備の遅れた地区に住みたいとは思わない。
 荻瑤子は禁忌の研究を続ける為に人々とはあえて逆の道を辿ったのだとリンダは思った。
「猫はとても勘が良いの。女性だけでも大勢で行ったら驚かせちゃうわ。わたしが先に行くからリンダ達は少しだけ時間を空けて来て」
「分かったわ」とビクトリアが足を止める。
 鹿乃子は少しだけ笑って「緑の屋根の家よ」と言って駆け出した。
 ビクトリアは鹿乃子の後ろ姿を見て「とても綺麗ね。可憐な花の様だわ。美しく、そしてはかない」と言った。
 リンダとリリアはビクトリアの呟きに答えられなかった。


 猫はたった数時間が何日にも感じられて憔悴していた。
 2ヶ月前に母が亡くなり、4人しか居ない家に今は2人きりで烏は眠ったまま目を覚まさない。
 唯一の救いは烏の顔色が徐々に良くなっている事だけだ。
 自分自身もここ数日感じていただるさがとれ、鹿乃子と獅子のリンダを信じるという判断は正しかった。
 それならばどうして2人共未だに帰ってきてくれないのか?
 猫は自分が頑張って烏を護らなければと、泣きたい気持ちを必死で堪えていた。

 扉の向側から僅かな足音と何かの気配を感じて猫は意識を研ぎ澄ます。
 ゆっくりとドアノブが回り、小さく開かれた扉から鹿乃子独特の薄茶色の髪と大きな黒い瞳が視界に入る。
「鹿乃子……なの?」
 願望が見せる幻なのだろうかと猫はおそるおそる声を掛ける。
 にっこりと笑って鹿乃子は大きく扉を開いて猫に駆け寄った。
「猫、黙って出て行ってごめんなさい。リンダ・コンウェルに会えたわ。迎えに来たの。わたし達助かるのよ」
 満面の鹿乃子の笑顔にまさかという気持ちで猫は小さく震えながら口元を押さえる。
「本当に? リンダ・コンウェルがわたし達を救ってくれるの?」
「そうよ」
 鹿乃子の背後からひょこりとリンダが顔を出す。
「正確にはわたしだけじゃ無いわ。皆があなた達を助けたいと言っているの。初めまして。猫さん。長くお待たせしちゃってごめんなさい」
 オレンジ掛かった黄色の癖毛、意志の強そうな明るいエメラルド・グリーンの瞳、昨日遠目に見た少女が笑顔で目の前に現れるのを見て、猫は全身の力が抜けるのを感じた。

強いわ。
 到底リンダ・コンウェルには敵わないと一目で判った。
 リンダから強い獅子の気配を感じて、猫は気丈にも今はライトブルーの目を強く光らせた。
「リンダ・コンウェル、獅子をどうしたの?」
 リンダは3歩だけ猫に近付いて頭を下げた。
「少しだけ離れた所で休んで貰っているわ。あそこまで身体が弱っていると知らずに獅子さんを走らせてしまったの。本当にごめんなさい。今は医師が側に付いているから安心して」
 猫は獅子の不調を知って、更に目を吊り上げて強い口調でリンダを糾弾する。
「獅子に無理をさせて痛めつけたのね。あなたからはあの危ない男の気配も強く感じるわよ」
「その危ない男と医師に獅子さんを預けてあるわ。大丈夫よ。とても責任感の強い人だから獅子さんをしっかり守ってくれるわ。そうだったわ。昨日、彼があなたに暴力をふるったのよね。ごめんなさい。慣れない人が銃を持つと危険だからとはいえ、強引な方法をとってしまったわ」
「あの男を責めるなと言いたいの?」と猫。
「か弱い女性に対して配慮の足りなかった行動には、約束どおりちゃんと殴ってしかっておいたわ」とリンダが笑う。

 警戒を強めた猫を無視し、リンダの横をすり抜けてリリアが烏の元に歩み寄る。
『この子は安心してぐっすりと寝てるわ。とてもくつろいでいるわ。猫は良いお姉さんなのね』
「あなたは……」
 初めてリリアのテレパシーを受けて猫が困惑の表情を浮かべる。
『少し違うけどわたしもあなた達の仲間になるのかしら。リンダを信じてあげて。こんな場面で嘘を言える性格じゃ無いわ。とても正直な人よ』
 リリアは猫の頬を少しだけ撫でてにっこりと笑った。
 リンダの背後にビクトリアが姿を見せる。
「わたしの名はビクトリア。あなた達全員を迎えに地球まで来たわ。あなた達が安心して暮らせる場所を提供するわ。猫、あなたの希望を叶えるわ。それがわたし達全員の希望でも有るの」
 リンダより美しく強い存在が現れ、猫は思わず息を呑む。とても逆らえないと猫は思った。
 足が竦む程の強い存在達に囲まれて自分の無力さを改めて知る。

「おーい。レディ達、そろそろ僕も入って良いかな?」
 扉がノックされ、のんびりしたサムの声が廊下から響く。
「サム、獅子さんを置いて来て良かったの?」
 リンダが振り返ってもう大丈夫かと問い掛ける。
「彼は無理に動こうとしなければ急変はしないと思うよ。シリウス君に任せて来たよ。こちらにも怪我人が居るし、運び出して調べたい物が沢山有るからね。運搬係に大君とアトル君も連れてきたよ」
「シリ1人に獅子さんを預けて来たの?」
 溜息をつくリンダにサムは笑って答えた。
「シリウス君が1番獅子君と気が合いそうだったからね。話し相手ついでにデータ解析の続きをやって貰ってるよ。ケインも居るから心配は要らないだろう」
 サムの言葉を受けてビクトリアが猫に視線を戻す。
「彼らを部屋に入れても良いかしら? 烏君はドクターに様態を見せた方が良いと思うわ。それと、ドクター・荻の研究資料を全て提出して欲しいの。今後のあなた達の健康管理に必要なのよ」
 リリアが警戒して立ち上がった猫の手にそっと触れる。
『心配しなくて良いわ。ビクトリアはとても優しいのよ。わたしもビクトリアに助けられたの』
 一見幼く見えるリリアの深い笑みに、猫は混乱する頭を素早く切り換えてリンダを振り返った。
「リンダ・コンウェル、獅子はあなたを信じると言ったわ。わたしは彼に従う。答えて。此処に来た全員をわたし達は本当に信じて良いの?」
 挑む様な視線にリンダは満面の笑みで応えた。
「信じてくれてありがとう。猫さん。サム、後の指示はお願い」
 「分かった」とサムが外に居た大とアトルに声を掛けてメディカルキットを持ち込ませると烏の様態を診だした。
「ちょっと、待ちなさい。誰が信じると言ったの?」
 と猫が焦ってサムを止めようとする。
 「猫さんよ」とリンダがあっさり言い切る。
 鹿乃子の苦笑する顔を見て、猫はこういう事かと溜息をつくと眉間に手を当てた。
「獅子が言っていた「リンダ・コンウェルの天然」ってこういう意味だったのね。分かったわよ。あなたを信じると言えば全員が助かるのね。わたし達が生き延びる為なら何でもするわよ」
 猫が少しだけ拗ねた様な顔でリンダに手を差し出し、リンダは猫の手を笑って握り返した。
 『ぶっはっはっは!』と、ピアスを通してα・シリウスの笑い声が聞こえてくる。
 『シリ、笑うな!』と、リンダが吐息だけで怒鳴った。

「何がそれほど可笑しい?」
 いきなり笑い出したα・シリウスに、ベッドに横たわったままの獅子が問い掛ける。
「お前に教える必要は無い」
 笑いを収めてα・シリウスがモニターに視線を戻す。
「おい」
 かすかに怒気を含んだ声に、α・シリウスが面倒臭そうに答えた。
「『奇跡のリンダ』がこれまでに無かった新たな『奇跡』を起こした。こう言えばお前にも理解出来るか」
 獅子は少しだけ目を見開くと、ふっと息を付いて僅かに口元に笑みを浮かべてゆっくり目を閉じる。
「そうか。リンダ・コンウェルが箱の中から猫を無事に外に出したのか。あいつならやれると信じていた」
「箱の中の猫? お前達の事情と量子論の例え話とどういう関係が有るんだ? 全く繋がりが無いだろう」
 逆にα・シリウスが問い掛ける。
「お前には教えてやらん」
 シュレーディンガーの猫の話などしていないとは言わず、こいつは例え話が苦手だと獅子は笑う。
「おい」
 今度はα・シリウスの方が不機嫌な声を出す。
「どうやらお前とは相性が根本的に悪いらしい。俺はリンダか兄弟達が帰ってくるまで寝る」
 それだけ言うと獅子はα・シリウスを無視して本当に寝息を立て始めた。


 上空に居るΩ・クレメントと、荻瑤子の遺体を安置した部屋に居るビクトリアが小声で相談を続けていた。
「思い出が沢山詰まっているでしょうに可哀相だわ」とビクトリア。
『ドクター・リードとα・シリウスが見つけた荻瑤子の詳しい経歴をマザーに照会させた。ドクター・荻が27年前にUSAで海洋生物の研究中に海で行方不明になったという公式見解を利用した方が早い。彼らは初めから存在しなかった。悔しいが今はそうするしか無い。ビクトリア、彼らの救出を最優先に考えるんだ。地球での後始末は私が責任を持って全てやろう』
 淡々と残酷な真実を告げるΩ・クレメントに、ビクトリアは顔をわずかに覆った。
「とても辛いわ。オスカー、どうしてあなたはわたしと……」
 そこまで言い掛けてビクトリアは両目を固く閉じ、自分の口を押さえた。
「いいえ。何でも無いわ。愚痴を言ってごめんなさい。オスカー」
 珍しく弱気な言葉を吐くビクトリアにΩ・クレメントは優しく声を掛ける。
『ビクトリア、どれほどお互いの距離と時間が離れしまっても私はいつでも君の味方だ。地球の事は私に任せてくれ。君は君の箱庭を守る為に全力を尽くすんだ』
 ビクトリアは花が飾られた荻瑤子の棺に手を置いてゆっくりと頷いた。
「分かったわ。オスカー、この家は全ての痕跡を消して。荻瑤子の遺体はこのまま「光の矢」号に積んでわたしが木星の大気に沈めるわ。彼らにせめてものお詫びをしたいの」
『ビクトリア、君の判断を全面的に支持する。コンウェルへは貨物移送の追加注文を私からしておく』
「感謝するわ。オスカー」
『感謝しているのは私の方だ。α・シリウスをよくもこの短時間で成長させてくれた。やはり君は素晴らしい教師だ』
「それはサラに言ってあげて。今回はわたしじゃ無いわ」
 ビクトリアがかすかに浮かんだ涙を拭って笑うとΩ・クレメントも笑った。
『宇宙を駈ける「火竜」が「彗星」の氷を溶かし始めた。そう思っておこう。今は胃痛のネタを増やしたくない』
「そうやっていつも問題を後回しにするから、いつまでも胃痛が治らないのよ」

 Ω・クレメントにツッコミを入れて端末を切り替えると、ビクトリアは全員に通達を出した。
「大、ドクター・リードに協力して烏をコンテナのベッドに移して。リリアは猫と鹿乃子の案内よ。RSM、コンテナはケイン氏とドクター・リード、リリアに委せてサラとアトルと3人でこの家に有る限りの資料を持って帰るわよ。大も移送が終わり次第こちらに合流。オスカー、ヘリから輸送コンテナを降ろして。一旦USA支部に全てを集めるわ。全員行動開始!」
 ビクトリアの号令と同時に『了解!』と全員の声が響いた。


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