ベートーヴェン : ヴァイオリン協奏曲ニ長調 CDレビュー V



V.  1990-2000年録音
    ♪シトコヴェツキー♪ズーカーマン♪アッカルド♪ケネディ♪クレーメル♪ムストネン♪
    ♪リッチ♪ハーン♪ローザンド♪ムター♪ムローヴァ♪ヴェンゲーロフ♪
    
ドミトリ・シトコヴェツキー(Vn) マリナー指揮  ピンカス・ズーカーマン(Vn) メータ指揮  サルバトーレ・アッカルド(Vn) ジュリーニ指揮

◆ シトコヴェツキー(Vn)マリナー/アカデミー・セントマーチン・イン・ザ・フィールド(1991年1月Virgin Classics )★★★☆☆
 クレーメルに続くアカデミーSMFによる伴奏です。室内楽団の特性を活かしたコンパクトな響きながらメリハリと力強さと流麗さを併せ持った音楽つくりはマリナーの真骨頂です。低弦が常にしっかりしていてとりわけコントラバスの音を面白く聞かせてくれます。室内楽団とはいえ、CDのブックレットにある団員名簿には30人ものヴァイオリン奏者がクレジットされているということは仮に全員弾いたとするとファースト、セカンド共7.5プルトづつとなりフル編成のオーケストラと変らないことになります(そのブックレトはブラームスの協奏曲のものです)。もちろんここではプルトを減らしていると思われます。ロシア出身のドミトリ・シトコヴェツキーはヴァイオリンの名手ジュリアンを父とし、ショパン・コンクールの覇者であるベラ・ダヴィトヴィチを母親に持つ毛並みを誇っていますが、最初は室内楽演奏者として登場したこともあり日本での知名度は今ひとつのようです。母親とのデュオリサイタルでも母親の存在感が圧倒的であったことを記憶しています。しかし、ブラームス(95年)チャイコフスキー(99年)、シベリウス(99年)など主要な協奏曲を同じマリナーの指揮で録音しています。

 シトコヴェツキーは引き締まった全域にわたって均質で引き締まった音色と余分な動きのない弾き方を貫き、アカデミーSMFを完全に一体となって音楽をつくっていきます。多少単調さを覚えますが、その安定さとポルタメントを一切排したストイックなまでの実直さに次第に引き込まれていきます。欲を言えば瞬間的な閃きとクライマックスにおける爆発がほしく、ベートーヴェンという作曲家の姿がはっきり見えてこないきらいがあります。クライスラーのカンデツァでは確かな技巧が聴けますが、面白みは感じられません。

 第2楽章でまず驚かされるのは一部のスキも見せないアンサンブルと完璧なバランスを誇るアカデミーSMFの伴奏です。シトコヴェツキーは相変わらずひたすらきちんと清純なまでの音楽をそこに乗せていきます。緩徐楽章として見通しのよさはマリナーのお陰と思われますが見事に仕上がっています。ソロはそうせざるを得ないとはいえ四角四面すぎるきらいがあります。第3楽章では、室内楽団としての持ち味を遺憾なく発揮して、小気味のいいテンポ、歯切れのよさ、透明感のあるサウンドを聴かせてくれます。軽量級のシトコヴェツキーは相変わらず完璧でありコンパクトでまとまりすぎているきらいはありますが、この楽章のあるべき姿は示してくれています。ただ、協奏曲としての面白みはやや不足していると言わざるを得ません。


◆ ズーカーマン(Vn)メータ/ロサンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団(1992年1月BMG )★★★★★
 44歳にして2回目のベートーヴェンに挑んだズーカーマン、多くの若手ヴァイオリニストが台頭する中にあって、慌てず焦らず自らのスタイルを着実に確立していることを存分にアピールしている演奏です。普段の陽気なキャラクターとは打って変わって、音楽に黙々と対峙している姿勢に心を打たれます。慣習的なルバートや大見得切りとは無縁なスタイルは1回目の録音と同じながら、それをさらに徹底しているところにズーカーマンの内に秘めた主張あるいは意地というものを感じることができます。

 ある種の音型、ポジション移動や移弦などの際にヴァイオリン弾きがしばしば陥る「こぶし」「ポルタメント」「過度のヴィブラート」などの誘惑には全く負けることなく、しかもすべての音符に対してほとんど一定の音色で弾かれています。しかし、決して単調にならずそのフレーズが持つ音の勢い、音価を穏やかな起伏を持って自然に表現しています。クライスラーのカデンツァにおいても殊更に技巧を誇張せず、終始安定した音程でまとめていて、それによって楽章全体のバランスを上手に保っています。メータは肩の力を抜いた余裕の音楽運びをベースにしながらも、気を抜かない常に引き締まったサウンドでギリシャ彫刻を思わせる調和と均整のとれた世界を繰り広げつつ、ベートーヴェンが求める厳粛さをも備える理想的な伴奏を聴かせます。古楽器風の演奏によくある過度な緊張感、奇異なスフォツァンド、神経質なスビト・ピアノをなどを排したメータの指揮は聴き手に安心感をもたらします。

 第2楽章でもスタイルは変わらず、ベートーヴェンが書いた音符が求めないことは一切していません。ここでもズーカーマンのヴァイオリンは低音から高音まで均質な音質を保ち美しい楽章に仕上がっています。第3楽章では攻撃性を排除し、意外にも可憐な表情付けを施しながら丁寧に弾いています。伴奏もソロと一体となった音楽作りに徹していて、メータとズーカーマンの二人がこの曲に臨む姿勢がよく伝わる演奏になっています。ベートーヴェンの素晴らしい作品を聴いたという充足感に浸れる名演です。


◆ アッカルド(Vn)ジュリーニ/ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団(1992年SONY CLASICAL )★★★★☆
 先年亡くなったジュリーニの指揮ということで冥福を祈りつつ聴かせていただきました。個人的にはブルックナーとマーラーの第9交響曲の素晴らしさに開眼させられた指揮者であっただけにあらためてその真摯で洞察の深い演奏に心を打たれずにはいられません。ゆったりしたテンポで開始されながら決して重くならずむしろ推進力に溢れています。抑制を効かせたサウンドの中でも明るさを欠かさず、いたずらに緊張感を漂わせることもなくフレーズに応じた緩急を自然に加えるなど緻密にコントロールされています。アッカルドはパガニーニのスペシャリストとしてのテクニシャンぶりは表に出さず、ひたすらジュリーニが築く音楽に身を委ね、この曲が協奏曲であることを忘れる程、ヴァイオリンの独奏がオーケストラに溶け込んでいます。カデンツァに入って初めて協奏曲であることに気づく、とは少々言いすぎですが、ここでもアッカルドはパガニーニ風の弾き方は控えめで、クライスラーの音符をじっくりを聴かせます。前半は遅めで後半は速めという他のソリストとは逆のアプローチはユニークなところです。アッカルドのヴァイオリンは時折右手の微妙なコントロールが薄れるせいかほんの少し音に潤いの欠けることがあります。期待したほどの美音が聴けないのは曲全体へのコンセプトからして意図的に排除したせいかもしれませんが。

 第2楽章では溢れるばかりの柔らかい太陽の光を浴びているように明るく演奏されます。アッカルドはジュリーニが描く風景画の中を穏やかに吹き抜ける風のように自然です。この静かな楽章でこれほど色彩豊かで起伏に富む世界を繰り広げる演奏は他にはないでしょう。第3楽章は少々重たく感じられます。音符の作られ方からしてこれまでアプローチではどうしても単調になるのは避けられませんので、ソロには華麗さとオーケストラには歯切れの良さがほしいところです。


ナイジェル・ケネディ(Vn) テンシュテット指揮  ギドン・クレーメル(Vn) アーノンクール指揮  オリ・ムストネン(Pf) サラステ指揮

◆ ケネディ(Vn)テンシュテット/NDR交響楽団(1992年6月11/12日EMI )★★★☆☆
 ソリスト登場の拍手と調弦の様子と最後のトラックにアンコールまでもご丁寧に収録されています。テンシュテットの指揮は来るべきソロのテンポに合わせてかなり遅いテンポで開始されます。そのせいかなかなかエンジンがかからず重々しく録音のせいもあってこもった響きに終始します。ケネディはクラシックのマスターピースにおいては常にそうですが、非常に真面目でオーソドックスな演奏を繰り広げます。録音がよくないと思われますが、音の伸びが今ひとつで響きが消されているような印象を受けます。遅めのテンポで一音一音丁寧に弾いていますが、時折足をバンと踏み鳴らして決めどころで気合いを入れています。膝を少し屈して多彩なステップを踏みながら弾くさまが目に浮かびます。その無心で弾く姿、虚空を見つめる黒い瞳からはとうていパンクロック奏者を連想することはできません。カデンツァ(クライスラー)でも遅めのテンポで丁寧すぎるため、あまり面白みのない演奏になっています。しかし、その後のヴァイオリンのモノローグでは、止まりそうな遅さでひとつひとつ噛みしめるように音を紡ぎつつ自分の世界を作り上げていくところは圧巻で、聴衆の心がピタッとひとつになった瞬間と言えます。

 第2楽章も遅くフレーズ毎に立ち止まりそうになり、音楽がなかなか流れません。後半に弦楽器のピチカートに乗ってシンコペーションで弾く箇所で、ケネディはますます遅くなったテンポに雑念のない美しいソロで聴き手の耳を釘付けにします。ケネディはここでそうしたかったために、楽章の最初から徐々にテンポを落とし、起伏を少なくしたのではないでしょうか。この楽章の構成はこのように十分熟考した結果かもしれません。繰り返し聴くCD録音には向かないでしょうが、ライヴでその場に居合わせたらどんなに素晴らしい体験になったことでしょう。第3楽章はソフトタッチで開始されます。オーケストラは相変わらず重く、ケネディのソロの歯切れも今ひとつですが、フレーズ毎にダイナミクスの変化を大きくつけてロンド楽章としての特徴を出そうとしています。しかし、オーケストラは常に同じパレットしか持ち合わせてないようで効果が上がりません。カデンツァは自作と思われますが、これまで我慢していた得意のジプシー風のサウンドをモダンな調性の変化を加味してケネディ独自の世界を展開します。

 アンコールではバッハの無伴奏ソナタ3番とパルティータ3番から1曲づつ弾いていますが、これが恐るべき快演で録音も素晴らしく、バッハに立ち向かうケネディの真摯な姿勢が目の前で展開されます。協奏曲でもこんな録音だったらもっといい演奏に聴こえたことでしょう。


◆ クレーメル(Vn) アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団(1992年7月14/15日TELDEC)★★★★☆
 アーノンクールにしては「まとも」な開始です。速めのテンポを基調としながら細かい緩急を自在に操り、オーケストラは緻密なアンサンブルを聴かせてくれます。弦楽器の人数が少ない分、管楽器が前に出すぎたりホルンの音に違和感を覚えますが、フォルテでのサウンドはクリアで弦楽器の切れのある発音もとても心地よく聴けます。クレーメルの多彩なヴァイオリンは前録音と同じ、クレーメル特有の弓が弦を噛む時の強靭なアタックは健在です。フレーズひとつひとつに対して考え抜かれたすべて異なる表情づけは一層磨きがかかっています。時にオーケストラと対等に、或いは陰に引いたりと室内楽的なやりとりも面白く聴けます。ベートーヴェンがこの曲のピアノ版を作曲した際につけたカデンツァをクレーメル自身がヴァイオリン独奏に書き換えたものを弾いています(これはルッジェーロ・リッチも同じようなことをしています)。いきなりピアノ独奏で開始されるベートーヴェン/クレーメル版ですが、ピアノが入る必然性はあまり感じられません。

 第2楽章でもアーノンクールは古楽器風のスタイルは遠慮がちで、むしろミュート付きの弦楽器に対して豊かな音色を引き出しています。ここでのクレーメルは響きを抑えながらも起伏を大きくるというユニークな演奏を試みています。ピチカートの伴奏に乗ってシンコペーションで弾く箇所では速いテンポでクールに通り抜けるなど他にあまり例のないスタイルに驚かされます。ただ、聴いていて少々肩が凝るのも事実です。アーノンクールはコーダで古楽器の常套手段である短く刈り込んだフォルテを弾かせますが、それに続くクレーメルのデーモニッシュなカデンツァと同居させるのはどう考えても納得できません。

 第3楽章では快速のテンポで軽やかなソロと完璧にコントロールされたオーケストラによって心地よく開始されたかと思いきや、突然の古楽ラッパの闖入はあまりに唐突で、第1楽章でのノーマルに近い演奏からするとなんの必然性も感じられません。しかも、木管楽器が本来歯切れのよいはずの8分音符をテヌート気味でベタ吹きしいて、ソロもそれに付き合うのも首を傾げざるを得ません。一方、ファゴットのソロが響き豊かにいかにも現代風に吹くのも変です。クレーメルのソロは「技のデパート」よろしく様々な奏法を駆使して次から次へと変るスタイルで各フレーズを面白く聴かせてくれます。しかもクレーメルが意図したことがことごとく完璧な音になっていくのは実に爽快そのものです。しかし、再びピアノが入るカデンツァは今ひとつ馴染めません。コーダでは予想通り古楽器がお祭り風に鳴りわたるだけの協奏曲らしくない終わり方になっています。全体的に思いつきでパッチワーク的に古楽器の手法を取り入れているという印象が拭えません。クレーメルがこの曲におけるヴァイオリン奏法の可能性をとことん追求しつつも決して聴き手を不快にさせるような一人よがりや技巧に溺れていないところが唯一の救いです。


◆ ムストネン(Pf) サラステ/ドイツ・カンマーフィルハーモニー(1993年6月DECCA)★★★☆☆
 ベートーヴェン自身によるこの曲のピアノ版をムストネンが録音をしました。このCDは、バッハのピアノ協奏曲BWV1054 と組み合わせているのですが、実はこの曲、バッハ自らの手でヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調をピアノ版として編曲したもので、なるほど、同じ経緯で生み出された作品を組み合わせるとは通好みの凝った選曲と言えます。ヴァイオリンと鍵盤楽器の両刀使いだったバッハの曲ではヴァイオリンをピアノに置き換えるにはやや無理なフレーズがある、つまりヴァイオリンだからこそ生きるフレーズがあるように思えます。一方、ベートーヴェンではピアノに置き換えることにそれほど違和感はなく、むしろより自然な印象を得る場合もあるように感じられます。

 ドイツ・カンマーフィルハーモニーは速めのテンポでまるで腰を浮かせて弾いているような活き活きとした演奏を聴かせます。歯切れのいい弾き方である一方、弦の人数が明らかに少ないとわかるようなザラついたフォルテや、トゥッティで管の音が大きくなるバランスの悪さも目立ちます。ムストネンのピアノは細かい音符につけたスタカートが見事で、淀みなく流れる快速のフレーズにおける小気味のいいタッチはこの曲をピアノで聴く喜びを倍増させてくれます。フレーズの隅々まで神経の行き届いた緻密さ、聴き手を飽きさせない大きなダイナミクスの変化など、ほとんど音階だけで作られている曲だけにこの曲に対する読みの深さも感じさせます。独奏がヴァイオリンでなくピアノであるだけにオーケストラは遠慮することなく弾いていて、普段は埋没されているフレーズがよく聴こえるのもユニークです。

 大半のヴァイオリン奏者がテンポを落とすトランペットとティンパニが遠くで鳴る箇所でもムストネンは一貫して速めのテンポを堅持させていますが、セカセカした印象を与えることはありません。難を言えばピアノの高音部でやや響きすぎることがあり、ムストネンのスタイルや速めのテンポにはそぐわない感じを受けます。しかし、カデンツァではどちらかと言えば響きを殺したクリアなサウンドづくりに徹していていい効果を上げています。ティンパニとの共演でも説得力ある演奏を繰り広げ、音階を中心とするシングルトーンだけでヴィルトォーゾ・ピアノをアピールしようとするベートーヴェンの意図を見事に再現しています。しかし、カデンツァが終了してオーケストラが戻る箇所では素っ気無さすぎて余韻に浸ることができません。これはヴァイオリンとピアノの差なのかもしれません。

 第2楽章でも速めのテンポが通され間奏曲風に淡々と進行します。美しく夢見るような静謐な世界はここにはなく、クールでクリアな室内楽の曲として演奏され、まるでピアノ五重奏曲のように聴こえる箇所もあります。第3楽章ではドッ・ソード・ミ・ソという主題の語尾(ミ・ソ)を強調するなど、繰り返しが多い楽章だけに面白く聴かせようと工夫を凝らしています。テンポは相変わらず速く、切れ味のいい溌剌としたベートーヴェンが聴けますが、時折弦楽器が弱いのが気になります。しかし、オーケストラがピアノ独奏と対等になるフォゴットのソロの箇所などピアノ協奏曲ならではの醍醐味を味わうことが出来ます。


ルッジェーロ・リッチ(Vn) ペルージ指揮 フェルディナンド・ダーヴィッド アンリ・ヴュータン ヨーゼフ・ヨアヒム

◆ リッチ(Vn) ベルージ/チアンティ管弦楽団(1994年9月19/20日 Biddulph)★★☆☆☆
 リッチのヴァイオリンはとても流麗で美しく鳴っていますが、この曲に求められる力強さやコントロールを効かした弓さばきはいくぶん不足しているかもしれません。テクニシャンで鳴らした奏者でけに技術的な破綻はないものの長い音符は短めに切り上げ、速いパッセージはより速く弾くためにセカセカした印象を受けます。しかし、このCDの売りはリッチが第1楽章のカデンツァを14種類も弾いているところにあります。曲中で弾いているのはベートーヴェンがピアノ版で作曲したカデンツァ(シュナイダーハーン編曲)ですが、CDプレイヤーのプログラム機能を使えば他のカデンツァも曲中に挿入して切れ目なく聴くことができます。リッチは同様のカデンツァ集をブラームスの協奏曲でも録音しています。


1.フェルディナンド・ダーヴィッド(1810-73):シュポアの弟子にして15歳でライプチッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のメンバーになります。一時はロシアに旅しましたがドイツに帰国するとメンデルスゾーンの指名でゲヴァントハウスのコンサートマスターとなり、かの『メン・コン』の初演をしたことで歴史上にその名を留めることになりました。流れるような音符を連ね、気品のあるカデンツァです。

2.アンリ・ヴュータン(1820-81):フランコ・ベルギー派の代表的ヴァイオリン奏者で、幼児のときから天才奏者の名をほしいままにしていました。ペテルブルグでヴァイオリンの教授となり、ロシアのヴァイオリン界に少なからぬ影響を及ぼしました。ベートーヴェンの協奏曲(ソナタや弦楽四重奏曲も)の普及にも努めたことでも知られています。閃きに身を任せた即興性に溢れ、複雑で細かい動きに焦点をあてた極めて高い技術を要求する作品です。

3.ヨーゼフ・ヨアヒム(1832-75):12歳でメンデルスゾーンの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏したスロヴァキア生まれの天才。ブラームスからヴァイオリン協奏曲を献呈され、さらにベートーヴェンの協奏曲の普及に貢献しました。第1版と第2版があり、リッチは両方とも弾いています。前者は内向的で思索に溢れた曲で、後者はクライスラーのカデンツァに次ぐ多くの奏者に取り上げられている名作です。


フェルディナンド・ラウブ ヘンリク・ヴィニャフスキ カミーユ・サン=サーンス レオポルド・アウアー ウージェイーヌ・イザイ


4.フェルディナンド・ラウブ(1832-75):プラハに生まれたヴァイオリニスト。ヨアヒムの跡を継いでマンハイムのコンサートマスターを勤めました。ウィーンで弦楽四重奏団を結成して成功をおさめたあと、モスクワ音楽院の教授に迎えられます。チャイコフスキーの同僚でもあり、ラウブの死後チャイコフスキーは弦楽四重奏曲第3番を書いて追悼しました。単なる技巧を誇示するだけでなく完結した無伴奏作品として十分鑑賞に堪える作品になっています。

5.ヘンリク・ヴィニャフスキ(1835-80):ポーランド出身。パガニーニに次ぐとも言われる大ヴァイオリニストであり、かつ後世に残る小品も多数作曲しています。トリルを弾きながら第2主題も同時に弾くというユニークな箇所があり、後のクライスラーの先駆をなす作品と言えます。

6.カミーユ・サン=サーンス(1835-1921):この中で最も作曲家として名をなしたのがサン=サーンス。さすがヴァイオリン協奏曲第3番、序奏とロンド・カプリチオーソ、ハバネラなどヴァイオリンの名作を残しているだけに、このカデンツァはラプソディ風のセンスのいい作品に仕上がっています。

7.レオポルド・アウアー(1845-1930):ヨアヒムの弟子であったアウアーはハンガリー生まれ。ロシア出身の偉大なヴァイオリニストたち(エルマン、ハイフェッツ、ミルシタインなど)の教師として有名です。名人が手慰みをしているような超絶技巧の連続でありながら聴いていて飽きのこない作品です。リッチの演奏が気品を失わないように抑制しているせいかもしれません。

8.ウージェイーヌ・イザイ(1859-1931):ベルギーが生んだ大ヴァイオリニスト、イザイはパリで数多くの作曲家、フランク、ドビュッシー、ショーソン、ダンディ、ルクーらのインスピレーションを触発させ、彼らに名作を書かせました。また作曲も多く、超絶技巧で知られる6曲の無伴奏ヴァイオリン・ソナタは現在のヴァイオリニストにとってスタンダード・レパートリーになっています。高い技巧を要求する複雑な音符群だけでなく、詩的な面も併せ持つ幻想曲風の作品になっています。


フルッチョ・ブゾーニ フリッツ・クライスラー ナタン・ミルシテイン アルフレッド・シュニトケ


9.フルッチョ・ブゾーニ(1866-1924):イタリア人のブゾーニは当代随一のヴィルトォーゾ・ピアニスト、音楽理論家として知られれ、当時の新進作曲家(バルトーク、ドビュッシー、ディーリアス、シベリウスなど)の作品の紹介にも努めました。技巧的なカデンツァという面はあまりなく、ユニークな和音進行や弦楽器とティンパニが加わるところに特徴があります。1961年に録音されたシゲティの演奏にはこのカデンツアが採用されています。

10.フリッツ・クライスラー(1875-1962):ウィーン生まれのクライスラーは、若い頃の演奏は他のライバルの影に隠れ気味でしたが、1920年代頃から自らのスタイルを確立させ、自作の小品演奏などとともにヴァイオリン界のトップに登りつめます。このベートーヴェンのカデンツァは、高い技巧性と気品の高さ、それと第1主題と第2主題を同時にしかも美しく弾くという、まさに神業とも言うべき画期的な奇抜さで、演奏会や録音で最も多くのヴァイオリニストによって演奏されています。

11.ナタン・ミルシテイン(1903-1992):オデッサ生まれのミルシテインはレコード録音も多く、このカデンツァの演奏もCDで聴くことができます。まさに自分で弾くために書かれただけあって、閃きに満ちた難度の高いパッセージと聴き手を釘付けにするおそらく視覚的にも印象深いシーンに満ち溢れた曲です。

12.アルフレッド・シュニトケ(1934-1998):ロシアの作曲家シュニトケの作品はクレーメルの紹介で世に知られるようになり、このカデンツァもクレーメルによって演奏されています。このカデンツァは他の作曲家によるヴァイオリン協奏曲の引用(ブラームス、バルトーク、ベルク)やティンパニの参加で有名ですが、やはりシュニトケの作風をダイジェスト風に聴くことができるのが大きな魅力です。


ヒラリー・ハーン(Vn) ジンマン指揮  アーロン・ローザンド(Vn) イノウエ指揮  アンネ・ゾフィー・ムター(Vn) マズア指揮

◆ ハーン(Vn)ジンマン/ボルチモア交響楽団(1998年SONY CLASICAL )★★★★☆
 ベーレンライター新版による初のベートーヴェンの交響曲全集として話題を呼んでいたジンマンによる伴奏です。出版以前の演奏であることなどどこまでその版に準拠していたかの議論は置くとして、ユニークな解釈で話題になったその演奏と同じ時期の録音の割にはここではごくノーマルな演奏にになっています。速めのテンポでの軽快な音楽運びは非常に心地よく、軽量でスリムな響きでも神経質になりません。ただ、ティンパニだけが少し重みがありやや違和感を覚えるのが残念です。

 ハーンのヴァイオリンは小気味のいい発音でとりわけ高音における輝きのある響きに耳を奪われます。4本の各弦の持つ特有の響きへの誘惑を排して全音域にわたる均一な音色を聴かせくれます。また、最後の音や次の音に移る直前でのテヌートされた音の理想的なフォームと美しさには比類のないものがあり、フレーズが求める最もふさわしい弓使いがいとも苦もなく実現されています。技術的に完璧とか安定感とか全く意識させない天衣無縫という表現が彼女ほどふさわしい奏者はいないでしょう。しかし、若いわりにこぶしを効かせた歌いまわし、フレーズのおさめ方など時おり旧時代の演奏スタイルをのぞかせるあたり、師匠の影響から完全に脱していないのでしょうか、ジンマンの現代風の伴奏とやや相容れないような印象を受けます。また、音色に強烈なカラーがないこともありオーケストラをいっしょに弾くときにいくぶん陰にまわってしまうきらいがあります。カデンツァ(クライスラー)では、ひとつひとつの音をしっかり鳴らしながら音から音への移り変わるときに微妙にフォームを揺らすなどその細かいところまで神経を通わすところには驚かされることしきりです。ジンマンはベートーヴェンの音楽に肉薄せんとする気迫と勢いが感じられ、ソリストと渾然一体となった精度あるアンサンブルを聴かせてくれます。

 静謐さを第2楽章で求めようとするとハーンの音色やスタイルはこの楽章にピッタリで、オーケストラも見事にコントロールされていて理想的な姿を呈しています。ハーンが繰り出すボーイングの始点から終点までの均質さと美しさは、ベートーヴェンが書いたあまりにシンプルな音符を演奏するのに必要十分なものであり、そこから紡ぎ出される音には絶えず血の通った勢いが秘められているのを感じさせます。ソロもオーケストラも、これほど完成度の高い演奏はそう多くはないでしょう。第3楽章は開始から胸のすくような心地よいサウンドとリズム感を堪能できます。冒頭の主題の1拍目にある四分音符をテヌート気味に弾くところは美しい響きと共にとてもユニークで印象に残ります。カデンツァもクリアな音色で見事なのですが、やや丁寧すぎてテンポを落とした分勢いがそがれた感じを受けます。歯切れのいい男性的なジンマンのサポートに対して、ハーンの音はフォルテのところではやや線が細い感じを受けます。クライマックスに向けてジンマンが見事に音楽を盛り上げていくのですが、ソロの速いパッセージのところでもう少し弓に圧力をかけた音がほしいところです。しかし、わずか18歳(たぶん)という若さでこのヴァイオリン協奏曲の最高峰の作品をこれほどの完成度で演奏するとはただ恐れ入るばかりです。

◆ ローザンド(Vn)デリック・イノウエ/モンテ・カルロ・フィルハーモニー管弦楽団(1998年5月Vox )★★★★★
 1970年シカゴにおけるローザンドによるリサイタルのライヴ録音を聴いていなかったら店の棚から手に取らなかったCDです。ブロッホやエネスコなどを取り上げたその演奏会の伴奏は長年連れ添ったピアニストの妻で、その時既に病魔に侵されていた彼女はその公演を最後に引退し10年後に亡くなります。テクニシャンとしてのローザンドのイメージを払拭する厳しく真摯な演奏に驚かされ感動したCDでした。このベートーヴェンの演奏は妻を亡くした8年後の録音になります。

 オーケストラは室内楽を思わせる引き締まった響きで溌剌とした推進力のある演奏を聴かせます。とりわけフレーズの最後の音を短くして響きを殺すところが特徴的です。歯切れのいいティンパニに木管のバランスは素晴らしく、弦楽器はベートーヴェンの刻みの重要さを理解したもので濁ることなく躍動感を持っています。ローザンドのソロはそれほどスケール感はないもののダイナミクス・レンジを大きくとりつつ小気味のいい演奏を繰り広げます。ほんの僅かにこの奏者独自の節回しを見せるとことがありますが、テンポの変化や緩みが少なく、フレーズの変わり目でも間を置かずにピシピシ小節の頭に入るさまは実に新鮮で音楽が停滞しません。贅肉をそぎ落としたスリムな響き、派手さはないものの確かな技巧に支えられた完璧な音程、これらによって聴き手を威圧することなくベートーヴェンの音楽に正面から向き合っているように感じられます。カデンツァはハイフェッツのものを演奏していますが、そういえばこの楽章でのローザンドのスタイルはハイフェッツの演奏に通じるものがあります。しかし、ハイフェッツほど尖がった演奏ではなく、セカセカしたところも感じさせません。カデンツァではやや慎重すぎるきらいがあって華やかさに欠けますが、超絶技巧を事もなげにサラリと弾ききるあたりさすがです。

 第2楽章でもオーケストラは響きを抑えていますが、無機的にならず時折瑞々しい輝きを見せてくれます。ローザンドは敢えてレガートを控えめにして譜面にあるスタカート記号をしっかりしたスタカートで再現します。ほとんどの奏者はここまでスタカートで演奏することはありません。ハイポジションでのローザンドの音程は完璧で、ここでも淡々と音楽を滞らせることはありません。第3楽章は落ち着いたテンポでありながら切れいい発音で演奏されます。相変わらずオーケストラとソロは共に引き締まったサウンドで互いに対話をしているかのような息の合ったところを聴かせてくれます。驚いたことにコーダに入ると、ローザンドはこれまでの調和的なスタイルから一転して持てるエネルギーを爆発させます。一歩踏み込んだ気合いから生まれるここぞという音符での発音にはぞくぞくさせられます。これほどの名演が全く顧みられないのは誠に残念です。このCD、実はブラームスの協奏曲も入っていましてこれまた超がつくほどの名演です。1枚で2回も感動できるなんて贅沢ですが、それを中古屋で525円で買ったとなるとローザンドになんだか申しわけない・・・。


◆ ムター(Vn)マズア/ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団(2002年6月GRAMMOPHON)★★★☆☆
 奇しくも女流ヴァイオリニストのトップに君臨する二人、ムターとムローヴァが同じ月にベートーヴェンの協奏曲を録音しました。演奏の出来は二人とも極めて個性的ではあるものの残念ながら名演とは言いがたいものでした。4歳下のムターが少し上回ったのは彼女がヴァイオリン本来の美しさと魅力を聴かせてくれたからです。

 オーケストラは冒頭からやや不安定なアンサンブルで生気がありません。しかし徐々にペースをつかんでいるようで、次第に厚みと重みのある充実した響きを作り上げていきます。ムターのソロは登場するオクターヴの上昇から振幅の大きなヴィヴラートと豊満な響きを撒き散らしています。まるで女王様が部屋に入ったとたん香水のかおりが部屋の中に満たされていくみたいです。昨今の健康志向、軽量快速、省エネローコストの風潮をあざ笑うかのごとく、ムターは花魁の道行きさながら恐ろしいほど遅いテンポで一音一音濃厚な表情をつけていきます。しかも、常にリズム感は失わず完璧な音程を維持しながら、ヴァイオリンという楽器が持つ様々な魅力を楽しませてくれます。トランペットとテインパニが遠くで鳴る静かな箇所でのムターの歩みは止まりそうになるほど遅くなり、その歌い方には啜り泣きさえも聴こえてきそうになります。しかし、フレーズの開始や収めるときに極端にテンポを揺らしたり、譜面にないダイナミクスの変化を付加したりするのは、あまり頻繁ですと耳に障ります。

 一方オーケストラは実によくムターにつけていて、しかもソロに引きずられずにさりげなくテンポを戻したり、ふやけた音楽にならないようギリギリのところで踏みとどまったりとその役目を見事に果たしています。クライスラーのカデンツァを採用していますが、前半はそれまでの演奏とは一転して決然としたスタイルで弾かれ、後半はたっぷり時間をかけています。ムターの完璧なテクニックは堪能できますが、クラスラーの気品はあまり感じられず、迷彩色に飾られたゴテゴテした印象を受けます。

 第2楽章。ムターはますます自分の世界に沈潜していきます。フレーズに応じて様々な音色を使い分けたり起伏をつけて変化を与えいます。必ずしも美しい演奏をしようとはしていないようで、安易なムード音楽になるのを避けようと苦心しているのがよくわかります。時にはかすれそうな微かな音量にまで落としたり、またある時には逆に豊満な響きを誇示したりします。その努力は買いたいところですが、この楽章にそのようなスタイルは合わないし、肝心のベートーヴェンの姿が見えてきません。ここでも一瞬ポーズを取るかのような突然のルバートをかけることがありますが、やはり不自然に思えてなりません。

 第3楽章では勢いのある軽やかな弓使いが心地よい音楽を導き出し、深い響きを伴うスピード感のある発音がこの楽章の旋律に生命を吹き込んでいます。オーケストラは常に身構えていて、リズム感を失わない活き活きした反応にはとても好感を覚えます。ムターは随所に思わせぶりなアクセントや強調したスタカートなどを織り交ぜて飽きのこない演奏を聴かせます。やりすぎに思える箇所もありますが、この楽章の性格からして解釈のひとつとして理解はできます。カデンツァではムターの持てる多彩な技が冴え渡り、豊かな響きに彩られながらヴァイオリンのあらゆる可能性が凝縮されているようです。カデンツァとコーダにおけるムターの爆発ぶりを聴くと最初からこんな感じで弾いてくれたらどんなにエキサイティングなベートーヴェンが聴けたのにと思わずにいられません。ヴァイオリンという楽器の可能性、その極上の姿を聴くには申し分のない演奏ですが、ベートーヴェンの協奏曲ということにおいては多くの疑問を残す演奏と言えます。


ヴィクトリア・ムローヴァ(Vn) ガーディナー指揮    マキシム・ヴェンゲーロフ(Vn) ロストロポーヴィチ指揮

◆ ムローヴァ(Vn)ガーディナー/オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク(2002年6月 PHILIPS)★★☆☆☆
 古楽器奏法への傾斜を強めているムローヴァがその道の権威であるガーディナーと組んだベートーヴェンの登場です。この録音の1ケ月前にボローニャで同じ組み合わせの演奏会があり、ネットでそのレポートを読むと演奏会当日にカデンツァがロバート・レヴィンのものから急遽オッタヴィア・ダントーネ作ものに変更されるとアナウンスがあったそうです。レヴィンはクレーメルが録音したモーツァルトの協奏曲のカデンツァを作曲していて、ダントーネはチェンバロ奏者でアカデミア・ビザンティナの指揮者もしています。ムローヴァがここで使用している楽器はいつも彼女が使う1723年製ストラディヴァリのJulius Falkで、弦をガットに張り替え、弓はバロック弓に持ち替えているとのこと。こういった情報がないと古楽器奏法の演奏を聴く意味はないと思いますので、せめてこれくらいのことはCDブックレットに記載してほしいものです。

 とても静かで丁寧に開始されますが、ほどなく強烈なフォルティッシモが炸裂します。予想していたとはいえここまで驚かさなくてもいいのですが。しかしその後のオーケストラはテンポのノリが悪く、特に弦楽器の主旋律がか細く聞こえます。ムローヴァのシームレスなボウイングは健在ながら、持ち味であった鋭角的な発音と鋭いアタックは鳴りをひそめています。高音での音の伸びはまさしくムローヴァの弾き方そのものなのですが、ガット弦であるせいか全体的になでるように弾いているために、起伏が乏しくのっぺりしたように聴こえます。すべての音がなめらかに美しく演奏されてはいるのですが力強さがありません。そのためソロがオーケストラに埋没しがちで突き抜けるようなヴァイオリンの魅力が伝わってきません。しかもオーケストラはいかにも闖入者といった感じで大袈裟に入ってきて、信号ラッパのような薄っぺらなラッパの音ばかりが聞こえてきます。ダントーネのカデンツァは当時の様式に忠実に書かれていて違和感がなく、ヴァリエーション風のエレガントな曲としてよくまとまっています。しかし、技巧を誇示するところがないためムローヴァのヴァイオリンの魅力は楽しめません。たぶん彼女はそれを欲しなかったのですからしかたないのかもしれませんが・・。大きなクライマックスを迎えることなく終わったあとのコーダもスケール感の少ないこじんまりしたものになっています。

 第2楽章でのオーケストラはズレているのかバランスが悪いのか、やや濁った感じがします。ムローヴァはあまりストイックにならずにのびのびと演奏していて、彼女が得意とする伸びのある高音を十分に楽しむことができます。しかし、しゃがれ声のファゴットにはさすがに閉口させられます。音楽史的に正しいのかもしれませんが、透き通るような美しいヴァイオリンの動きにふさわしいとは思えません。第3楽章。コントロールを効かせたあまりに美しいボウインウで軽やかにムローヴァは開始します。ガット弦ならではのエッジのない発音で流れるよう演奏されます。ここでもオーケストラは割れた音でフォルテを弾いいていてヴァイオリンとはかなり距離のあるスタイルになっています。バレンボイムがスターンの伴奏で行なっているスビト・ピアノをガーディナーも採用していますが譜面に書いていないことはオーセンティックというからにはやるべきではないと思います。サックスかセルパンのようなファゴットのソロもいいかげんにしてほしいものです。ダントーネのカデンツァはかわいらしくよくできていて、この楽章のムローヴァのスタイルによく合っているのですが、ムローヴァほどの達人が弾く曲ではないと思うのですが・・・。師であるコーガンはどう思うでしょうか?彼女は師の呪縛から逃れたいのかもしれませんが、きっといつか師の立っていた場所に戻ってくると信じたいものです。


◆ ヴェンゲーロフ(Vn)ロストロポーヴィチ/ロンドン交響楽団(2005年7月 EMI)★☆☆☆☆
 最近のゲンゲーロフの演奏スタイルの傾向からある程度予想していたとはいえ、かなりショッキングなベートーヴェンの登場です。しかし、例えばグールドの未開の世界の扉を開く衝撃的で刺激に満ちた演奏とは異なり、既に聴き手には馴染みのゲンゲーロフの持つ独特の演奏語法をこの曲の演奏のあちこちにちりばめることに終始するだけで、曲全体の構成についていかなるアイデアも提示できていないと言えます。敬愛する大先輩ロストロポーヴィチの指揮をも巻き込んだゲンゲーロフも「悩めるヴァイオリニスト症候群」を避けることはできないのでしょうか。近年、ピリオド楽器奏者たちが譜面に書かれていないテンポや強弱の変化を勝手気ままにつける風潮がありますが、その影響なのでしょうか。ムターの2回目の録音と似たようなディスクとも言えます。

 許容範囲を超えるとんでもなく遅いテンポで開始されます。譜読みのリハーサルをイヤイヤやらされているみたいに、オーケストラに覇気も色艶もありません。最初のフォルテッシモのトゥッティにおける16分音符の数も勢い余って数が多く聴こえます。ゲンゲーロフのヴァイオリンも遅いテンポを基調としながらも突然テンポを上げるなど落ち着かない演奏の上、極端な弱音に徹したり、突然荒れ狂ったように激しくなったり、得意のG線を大砲のように鳴らしたり、わざと弓の圧力を高めて音を濁らしたりと、全く時代様式を意識していない弾きかたをします。途中入るオーケストラは様子を伺い戸惑いながらコントロールできる限界のところで踏みとどまります。カデンツァはゲンゲーロフ自作とのことですが、これは良くできていて、この曲のモティーフを巧みに織り交ぜつつ、ゲンゲーロフの持ち味である迫力満点のパワーと技巧の冴えを存分に誇示できる作品に仕上がっています。最初から普通のテンポでベートーヴェンらしいがっしりした演奏をしていればこのカデンツァもピッタリくるのですが・・・。

 第2楽章で気になるのは、ファゴットが普通に吹いているのにホルン・木管楽器が突然古楽器風の吹き方を始め、しかしそれでいて、弦楽器だけになると分厚い響きで現代風に弾き込むという、首尾一貫しないところです。ただこの楽章でのゲンゲーロフは何も変なことをせずに淡々と普通のテンポで弾いているために、実に美しい演奏に仕上がっています。ピアノで静かに音階を駆け上がるときに左指が指板をカタカタ叩く音が高らかに録音されていますが、これはヴァイオリンを弾く聴き手には心地よいものです。第3楽章のやや遅めのテンポで重々しく演奏されます。ゲンゲーロフのパワーのある弾き方であれば、その重々しさもある程度我慢はできます。しかし、随所にデフォルメを施した弾き方には抵抗を感じざるを得ません。それは聴く側の不安を掻き立てるもので、この楽章の明るく爽やかな雰囲気を封じ込めています。この楽章のカデンツァもゲンゲーロフの
自作ですが、こちらは今ひとつ魅力に欠けるようです。



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