こうした活動ぶりを見ると、シュティードリーは新しい音楽に対して決して消極的な指揮者ではなかった、むしろ積極的に関わっていたことがわかります。このことは状況証拠にすぎないかもしれませんが、ショスタコーヴィチの交響曲第4番のリハーサルにおいて曲の複雑さに対応できなかったという説に疑問が生じることになるかもしれません。また、シュティードリーは1926年に客演でレニングラードに来てストラヴィンスキーの『春の祭典』を振ったという記録(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』
p.
51)もあり(その時ショスタコーヴィチが客席で聴いていたらしい)、バトン・テクニックという観点から『春の祭典』とショスタコーヴィチの4番のどちらが難しいかという議論は置いておくとして、どちらも高度な技術を要求されることは間違いないと思われます。その時の指揮の様子がどうだったかについての資料はありませんが、シュティードリーに『春の祭典』を振るテクニックがなければそもそも演目に入れるはずはありませんし、もし失敗していればレニングラードで指揮の仕事はその後来なくなったはずです。
「外国人アーティストはロシアでの演奏に招待され、しばしば新たなレパートリーを持ち込み、新たな刺激を与えました。…ソヴィエトの首都を訪れた客演アーティストの中では、オーケストラの指揮者が圧倒的に多く、彼らのほとんどはオーストリア=ドイツ楽派に属していました。帝政ロシア時代にさえ、ロシアは多くの外国人指揮者を招聘していました。長年の孤立とオーケストラの規律の弱体化を経て、外国人客演者たちは消えつつあった伝統を蘇らせ、レパートリーを刷新し、ロシアの音楽界に新たな刺激をもたらしました。客演アーティストの中には、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、ピエール・モントゥー、ヘルマン・シェルヘン、ウィリアム・スタインバーグなどがいました(
"Mahler's Forgotten Conductor: Heinz Unger and his Search for Jewish
Meaning, 1895–1965" by Hernan Tesler-mabe p.191 )。」
シュティードリーはその後オペラ界に復帰します。そのキャリアのスタートはドイツの歌劇場でしたが、ソヴィエト時代にもレニングラードとモスクワの両方でオペラ公演を客演指揮していたことがわかっています。オートー・クレンペラーがショスタコーヴィチを訪問した際(1936年5月30日)、シュティードリーも同行してショスタコーヴィチがピアノで弾く交響曲第4番を聴いていますが、その前の晩にクレンペラーはシュティードリーが指揮する歌劇『フィガロの結婚』を途中で抜け出したということが記録されています(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.141 )。