ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第7章 自筆譜の紛失とその復元

 
                          Shostakovich

 

第4番交響曲自筆譜の紛失
 現在も交響曲第4番の作者の自筆譜の所在は不明とされています。Boosey & Hawkesのホームページによると、1930年代後半には、指揮者のアレクサンダー・ガウクが作者の自筆譜を所持していたが、後にガウクはショスタコーヴィチに、これらの手稿譜が入ったスーツケースが旅の途中で盗まれたことを伝えた、と書かれています( Boosey & Hawkes ” Shostakovich, Dmitri - Symphony No.4 in C minor Op 43 - Full Score” )。

 ガウクがその時期にショスタコーヴィチの自筆譜をどのように紛失したかについて説明する資料が見当たらないので、これは推測するしかありません。「盗まれたことを後で伝えた」という言い方は、盗まれてすぐに連絡しなかったということであり、たぶんそれが何時のことかも伝えていないということになります。しかし本人が何時どうやって紛失したかはわかっているはずなので、ガウクにとって何か言えない理由があるような気がします。

 また何故、ショスタコーヴィチはガウクに自筆譜を預けたのでしょうか。自筆譜を預けた「1930年代後半」という時期はまだ戦争が始まってはいませんが、ドイツ国境に近いレニングラードにいるショスタコーヴィチが危険を感じてモスクワにいるガウクに託したという見方はありうると考えられます。しかし、ショスタコーヴィチの身の回りに迫る危機は戦争だけではありませんでした。

 歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は1934年の初演以来、2年間でレニングラードで83回、モスクワで97回も上演されていたにもかかわらず、1936年1月に『プラウダ紙』上で批判されて事実上の上演禁止となります。このことでショスタコーヴィチはソヴィエトが誇る若手作曲家からのソヴィエト文化を堕落させる有害人物というどん底に引きずり下ろされてしまいます。その中で交響曲第4番の初演が中止になったのは前述の通りですが、その頃、世の中はスターリンによる粛清の嵐が吹き荒れ、それはショスタコーヴィチの周辺にも迫ってきて、彼の後援者が逮捕、銃殺されたり、近しい知人や親戚の中にも逮捕、失踪、収容所送りになったりという事態となってきました。

 つまり、いつ何時自分もそんな目に合うばかりか、自分の作品が出版されたものも没収・焚書されるのではないかという不安を抱えていたことは想像に難くありません。こうした緊迫した状況の中で、自筆譜をガウクに託したのではないかと考えられます。ショスタコーヴィチがガウクに対して好意的ではなかったとはいえ、この紛失に対して厳しく非難していないのは、ショスタコーヴィチ側の事情で預けたために文句を言える立場ではなかったからではないでしょうか。

 では、ガウクはどこで盗まれたのでしょうか。一般的にはドイツ軍が迫ってきた時にレニングラードから退避する時の混乱の最中に盗まれたと考えそうなのですが、その時期ガウクはモスクワにいたのでこれはありえません。ショスタコーヴィチがレニングラードを逃れてモスクワに向かったのが1941年10月、しかしモスクワも危険とされて同じ月には多くの音楽家と共にクイビシェフに向かっていますので、ガウクも同様にモスクワから逃れたその時かと思いきや、1941年の独ソ戦を契機に早々にガウクはモスクワでの職を失ってグルジア(現ジョージア)に行ったことになっているので、戦争からの避難中の混乱ではなかったことになります。つまり、モスクワとグルジアを往復する普通の移動の途中(1943年にはモスクワに復帰しています。)と考えられます。「旅の途中」とは言え演奏旅行や物見遊山の旅行に自筆譜を持ち歩くわけはなく、演奏する予定もなかったのですから、その移動とは引っ越しということだったのではないでしょうか。

 まさか、盗まれたのは偽りで自ら秘匿していたなんてことはないとは思いますが・・・。その頃は4番を除く5番、6番の初演(1937年、1939年)及び出版がされていたと考えると、5番、6番の自筆譜はさしあたって必要なものではなかったということも気になるところです。初演も出版もされていない4番の紛失というのが重大な問題となっていたということになります。実のこの件について2つの指摘をする研究者がいます。ソヴィエト音楽に造詣が深い音楽学者ポーリーン・フェアクロウによると、指揮者のアレクサンダー・ガウクが1962年に出版した回想録には「最近、楽譜を何度も見直した」と記されているとし、さらにローレル・E.・ファーイは、少なくとも1人の写譜家(シュティードリーが使用)の楽譜があったはずだと考えているが、そのような楽譜は今のところ見つかっていないとしています( "A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough xiv )。ガウクが総譜を持っていたことをポロッと書いていたいうことと、シュティードリーが1936年のリハーサルで使用したコピーされた総譜があったはずだ、つまり総譜は2冊あったという説が存在するということになります。


交響曲第4番スコアの復元
 交響曲第4番の総譜が紛失していたはずなのに、何故1961年になって初演できたのでしょうか。このスコア復活劇について、前掲の Boosey & Hawkes のホームページには、

 「この曲のスコアは、レフ・アトヴミャーンの主導により、レニングラード国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽資料室司書であるボリス・シャールマンによって、オリジナルのオーケストラ・パートを合わせることで再構築・復元されました。そしてその復元された総譜は、同じ資料室に保管されていました( Boosey & Hawkes ” Shostakovich, Dmitri - Symphony No.4 in C minor Op 43 - Full Score” )。」

と書かれています。シュティードリーの指揮によるリハーサル(1936年)が中断された時、ショスタコーヴィチ自身が交響曲第4番のパート譜を回収したとされていますが、そのパート譜がその後どうなったかについてはわかっていませんでした。しかし1960年になって、その管弦楽パート譜がレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のライブラリーに残っていたのが発見されたのでした。『ショスタコーヴィチの作品一覧』を編纂したデレク・C・ヒュームによると、当時の司書ボリス・シャルマンがパート譜を発見し、それをもとにドミトリー(・ショスタコーヴィチ)とリュドミラ・ソレルチンスキーの指示に従って復元作業を行ったとされています。一方、指揮者のガウクとコンドラシンは作業をしたのはアトヴミャーンだと主張しているとのことです( "A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline xiv )。 Boosey & Hawkes はアトヴミャーン説とシャールマン説の折衷案を掲載しているということになります。

 レフ・アトヴミャーン(或いはレヴォン・アトヴミャン/Levon Atovmyan 1901-1973年、トルクメニスタン出身の作曲家、ピアニスト、教師)はショスタコーヴィチの友人(或いは助手)でした。筆者は「『馬あぶ』からのロマンス」と、「2つのヴァイオリンのための5つの小品」の編曲者というくらいしか知りませんでしたが、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の2台ピアノ版の編曲も行っていました。さらに調べてみると1948年から1968年頃の間にアトヴミャーンはショスタコーヴィチが作曲した多くの映画音楽を管弦楽組曲のかたちに編曲していることがわかりました。ヒューストン交響楽団のバレエ組曲第1番に関するホームページには次のように書かれています。

 「1946年に発布されたジダーノフの悪名高い統制は、戦後のソヴィエト連邦における文化活動の封鎖を強め、ショスタコーヴィチにとって困難な時代をもたらしました。ショスタコーヴィチは生計を立てるため、また迫害を避けるためにこの時期に多くのプロパガンダ的な映画音楽、合唱曲、歌曲を作曲しました。(中略)ショスタコーヴィチはまた、以前に作曲した軽音楽を再利用して組曲として再出版することで切実に必要としていた収入を増やしました。彼のバレエ組曲第1番は、ショスタコーヴィチの映画音楽から組曲を作曲する際にしばしば協力していた編曲家、レフ・アトヴミャーンによって1949年に急ごしらえで作曲されました。」
*アトヴミャーンによる映画音楽から編曲したリストは(後註6)に掲げます。

 つまり、この時期のアトヴミャーンはショスタコーヴィチにかなり近い存在であったことがわかります。しかし、中止となったリハーサルでショスタコーヴィチ自身が回収したはずのパート譜が何故レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のライブラリーで見つかったのでしょうか。1941年にレニングラードを脱出するとき、ショスタコーヴィチが持って行けた譜面は自作の『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、作曲中の交響曲第7番、ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアと自ら編曲したピアノ版だけだったとされていますので、その中に交響曲第4番のパート譜は含まれていなかったことになります。考えられることは、ショスタコーヴィチは1937年からレニングラード音楽院の教授職にあったことから、自分で所持していた譜面の多くを音楽院に預けておいたと想像されます。しかし、見つかったのがレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のライブラリーとなると、ショスタコーヴィチはその時回収していなかったと考えるのが自然だと思います。

 このパート譜から総譜を起こす作業が行われた時期についてBoosey & Hawkes は何も触れていませんが、エリック・ローズベリーによると、「1960年のいつか以降」とされています。

 「(ショスタコーヴィチの弟子のボリス・ティシチェンコは)レニングラード音楽院のドミトリエフ教授とともに、作曲者出席のもと、その頃目前にせまっていた音楽院の100周年記念の一環として、(交響曲第4番の)2台のピアノ用編曲の公開演奏を行なうことを決心した。これは1960年のいつかだったようであった。それからまもなく、作曲家の助手レフ・アトヴミャーンがこの交響曲のパート譜一揃いを発見したことが明らかになった。このパート譜から、レニングラード・フィルハーモニーの主任ライブラリアンであるボリス・シャールマンが総譜を復元、そして作曲家の熱烈な承認のもと、コンドラシンによる上述の初演に至ることになる。(エリック・ローズベリー著、増田良介訳『ショスタコーヴィチ:交響曲第4番[作曲者自身の編曲による2台ピアノ版] ルステム・ハイルディノフ及びコリン・ストーン(ピアノ)』のブックレット 2005年)」

 さらに Boosey & Hawkes のホームページには次のように書いてあります。

 「1961年にこの交響曲の演奏を依頼された指揮者のキリル・コンドラシンは、まず2台ピアノ編曲のガラス複製版(1946年)からこの楽譜に目を通さなければなりませんでした。初演の計画に関する打ち合わせの際、ショスタコーヴィチはこう言いました。『4手編曲版の譜面を見せてください。私の自筆譜は紛失してしまいましたが、コピーはレニングラードにあります。この交響曲には多くの部分を忘れてしまったので、それを調べなければなりません。』( Boosey & Hawkes ” Shostakovich, Dmitri - Symphony No.4 in C minor Op 43 - Full Score” )」

 指揮者のコンドラシンもショスタコーヴィチ自身も交響曲第4番の初演の準備として、まず2台ピアノ編曲版のコピーに目を通した、つまり、作曲された時点に最も近い2台ピアノ編曲版を精査したということになります。おそらく復元されたスコアと2台ピアノ編曲版を比べたということだと思われます。何故なら、発見されたパート譜は紛失したオリジナルの自筆スコアから作成されたのですが、そのパート譜にはスコアの情報が十分に反映されていない可能性があると考えたのではないでしょうか。例えば音符そのものだけでなく、メトロノーム記号や速度標語、強弱などの様々な音楽記号の確認をしたものと考えられます。

 筆者の手元にあるヴァイオリンのパート譜(レンタル譜)には少なくとも6箇所にスコアと違う音符(臨時記号の有無を含む)があります。パート譜を元にスコアを作成したのですから、スコアの方が間違っているのかもしれません。しかし、手元にあるパート譜も1936年当時のものではなく、復元した総譜から作成する過程で写し間違えた(単なる誤植も)とも考えられますので、どちらが正しいかはわからないということなのかもしれません。


交響曲第4番の2台ピアノ編曲版
 指揮者キリル・コンドラシンがまず目を通した「2台ピアノ編曲のガラス複製版(1946年)」とはどういうものだったのでしょうか。ショスタコーヴィチはこの曲が完成した頃の1936年5月30日に、友人らを自宅に招いてこの曲をピアノで演奏していますが、その時に2台ピアノ編曲版ができていたかどうかはわかっていません。

 「幸いなことに、1936年の作曲当時に作曲者によって作られた2台ピアノ編曲は、第二次大戦中に失われた自筆総譜と同じ運命を被ることは逃れたのである。1945年、ショスタコーヴィチと彼の親しい同僚モイセイ・ヴァインベルクは、同僚たちの前で、まさにこの2台のピアノ用編曲の〜ローレル・ファーイの言葉によると〜「力強い演奏」を行なった。その時彼らは熱心に聴いたが、このことによってこの曲の出版が前に進むことはなかった。ところが翌年、この同じ編曲が、モスクワにおいて300部限定で出版され、真剣に研究しようとする人々は、いわば白黒写真の形であれ、この交響曲を以前よりは容易に見ることができるようになった。しかし、部数が限定されていたことに加え、1948年にはその流通が公式に禁止された(エリック・ローズベリー 同上)。」

 このローズベリーの引用はローレル・E.・ファーイの著作『ショスタコーヴィチ ある生涯』からのもので、ファーイの原文は下記です。

 「それを聴いた作曲家の生徒であるエヴゲニー・マカロフは、なぜ10年前、その作品が演奏にふさわしくないとみなされたか、納得がいった。その場に居合わせたサモスード、アトヴミャーンらは意見を出し合い、交響曲第4番を何とか上演にこぎつけようと手段を模索した。(中略)マカロフはそのときさえ、はたして上演するのは賢明かどうかと懐疑的だった。(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』p.129 )。」
*サムイル・サモスード:グルジア出身の指揮者(1884-1964年)。ショスタコーヴィチの交響曲第7番および歌劇『鼻』、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を初演しています。

 作曲後10年たった時期においても交響曲第4番をフル・オーケストラで演奏することが危険であると考えられていたことがよくわかりますが、2台ピアノ版が出版されていたのには驚きを隠せません。しかし、1948年の「ジダーノフ批判」の最中にその流通が公式に禁止されたのでした。この2台ピアノ版について、ポーリーン・フェアクロウは次のように述べています。

 「 1948年、いわゆる『ジダーノフ批判』事件の後、ソヴィエト音楽界が『形式主義』と社会的意義の欠如、大衆受けの悪さを理由に新たな攻撃にさらされたとき、元RAPM(ロシア・プロレタリア音楽家同盟)の作曲家マリアン・コヴァルは、第1楽章のフガートをショスタコーヴィチの『形式主義』的犯罪の特に有害な例として取り上げ、ティホン・フレンニコフは、1946年に出版されたショスタコーヴィチの2台ピアノ編曲版を、作曲家同盟の熱意の欠如の証拠として挙げています("A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough xvi )。」
*このティホン・フレンニコフは、まさに1948年にアンドレイ・ジダーノフによってソヴィエト作曲家同盟の書記長に任命された作曲家です。

 コンドラシンが見た譜面はこの1946年に発行されたガラス複製版だったということになります。さらに、Boosey & Hawkesのホームページの2台ピアノ版のページには、

「作曲者による2台ピアノ(4手)用の交響曲第4番の編曲版が初めて出版される。1946年、ソ連音楽財団は、作曲家連合の会員がこの交響曲を知ることができるように、編曲者の氏名を明記せずにコロタイプ印刷機で数部の出版を行ないました。1948年、全ソ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の決議「ムラデリ(後註7)作曲のオペラ『大いなる友情』について」が発布された後、このコロタイプ印刷されたピアノ楽譜の複製の頒布は禁止され、使用も差し止められました( Boosey & Hawkes ” Symphony No.4 in C minor Op 43 - 2 Pianos 4 Hands Score” )。」

と書かれています。続けて、

 「本書(2台ピアノ版)は、ミハイル・グリンカ国立中央音楽文化博物館のショスタコーヴィチ財団に保管されている作曲者の自筆譜(rec. gr. 32, f. 98)に基づいて作成されました。出版に向けて原稿を準備する過程で、楽譜はショスタコーヴィチの家族のアーカイブに保管されていたピアノ譜のコロタイプ複写、そしてショスタコーヴィチ生前の1962年に出版された交響曲の総譜(ソヴェツキー・コンポジター出版社、モスクワ)と照合されました。その際、総譜とピアノ版の間に、主にメトロノーム記号と速度標語において、いくつかの重要な相違点が見つかりました。この出版物では、最初の2つの楽章については作曲者のピアノ譜のメトロノーム記号がそのまま残され、第3楽章では総譜に合わせてテンポとメトロノーム記号が追加されています。作曲者がピアノ譜に記したテキストはすべてそのまま残していますが、総譜からの強弱やボウイングなどの指示も多数ピアノ版に追加してあります。(後略)」

と書かれています。やはり、ピアノ譜と復元されたスコアの間にはいくつかの相違があったことになりますね。しかし、Boosey & Hawkes のホームページにある交響曲第4番の2台ピアノ4手用楽譜のページには曲の解説のみで、スコアの紛失、復元の関わることについては全く触れていません。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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