まさか、盗まれたのは偽りで自ら秘匿していたなんてことはないとは思いますが・・・。その頃は4番を除く5番、6番の初演(1937年、1939年)及び出版がされていたと考えると、5番、6番の自筆譜はさしあたって必要なものではなかったということも気になるところです。初演も出版もされていない4番の紛失というのが重大な問題となっていたということになります。実のこの件について2つの指摘をする研究者がいます。ソヴィエト音楽に造詣が深い音楽学者ポーリーン・フェアクロウによると、指揮者のアレクサンダー・ガウクが1962年に出版した回想録には「最近、楽譜を何度も見直した」と記されているとし、さらにローレル・E.・ファーイは、少なくとも1人の写譜家(シュティードリーが使用)の楽譜があったはずだと考えているが、そのような楽譜は今のところ見つかっていないとしています(
"A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline
Fairclough xiv
)。ガウクが総譜を持っていたことをポロッと書いていたいうことと、シュティードリーが1936年のリハーサルで使用したコピーされた総譜があったはずだ、つまり総譜は2冊あったという説が存在するということになります。
「この曲のスコアは、レフ・アトヴミャーンの主導により、レニングラード国立フィルハーモニー管弦楽団の音楽資料室司書であるボリス・シャールマンによって、オリジナルのオーケストラ・パートを合わせることで再構築・復元されました。そしてその復元された総譜は、同じ資料室に保管されていました(
Boosey & Hawkes ” Shostakovich, Dmitri - Symphony No.4 in C minor Op 43
- Full Score” )。」
と書かれています。シュティードリーの指揮によるリハーサル(1936年)が中断された時、ショスタコーヴィチ自身が交響曲第4番のパート譜を回収したとされていますが、そのパート譜がその後どうなったかについてはわかっていませんでした。しかし1960年になって、その管弦楽パート譜がレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のライブラリーに残っていたのが発見されたのでした。『ショスタコーヴィチの作品一覧』を編纂したデレク・C・ヒュームによると、当時の司書ボリス・シャルマンがパート譜を発見し、それをもとにドミトリー(・ショスタコーヴィチ)とリュドミラ・ソレルチンスキーの指示に従って復元作業を行ったとされています。一方、指揮者のガウクとコンドラシンは作業をしたのはアトヴミャーンだと主張しているとのことです(
"A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline xiv )。 Boosey
& Hawkes はアトヴミャーン説とシャールマン説の折衷案を掲載しているということになります。
「本書(2台ピアノ版)は、ミハイル・グリンカ国立中央音楽文化博物館のショスタコーヴィチ財団に保管されている作曲者の自筆譜(rec. gr.
32, f.
98)に基づいて作成されました。出版に向けて原稿を準備する過程で、楽譜はショスタコーヴィチの家族のアーカイブに保管されていたピアノ譜のコロタイプ複写、そしてショスタコーヴィチ生前の1962年に出版された交響曲の総譜(ソヴェツキー・コンポジター出版社、モスクワ)と照合されました。その際、総譜とピアノ版の間に、主にメトロノーム記号と速度標語において、いくつかの重要な相違点が見つかりました。この出版物では、最初の2つの楽章については作曲者のピアノ譜のメトロノーム記号がそのまま残され、第3楽章では総譜に合わせてテンポとメトロノーム記号が追加されています。作曲者がピアノ譜に記したテキストはすべてそのまま残していますが、総譜からの強弱やボウイングなどの指示も多数ピアノ版に追加してあります。(後略)」