ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第5章 リハーサルと初演の中止

 
              Glikman

イサーク・グリークマンとショスタコーヴィチ


第4交響曲のリハーサルで起きたこと
 この年1936年の秋、交響曲第4番のリハーサルが開始されました。ドイツのナチス政権から逃れてきた指揮者フリッツ・シュティードリーはショスタコーヴィチから高い信頼を得ていました。ふたりの最初の仕事上の出会いは1933年の秋で、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のシーズン開幕コンサートにおけるショスタコーヴィチが作曲したピアノ協奏曲第1番の初演の時で、それぞれ独奏と指揮を受け持ったのでした。その後シュティードリーはレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任しています。そんな中、シュティードリーにとって2回目となるショスタコーヴィチの作品の初演は1936年12月11日に行われることに決まったのでした。しかし、その初演は実現されなかたのです。その日の『ソヴィエト芸術』紙に次のような短い記事が掲載されました。

 「作曲家ショスタコーヴィチは、レニングラード・フィルハーモニーに、彼の交響曲第4番の演奏をとりやめるよう要請した。彼が目下抱いている創作上の信念とまるで相容れず、彼のはるか時代遅れの側面を象徴している作品だから、というのがその理由である(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.127)。」

 作曲家とともに、リハーサルに何度も立ち会っていたイサーク・グリークマンはこの交響曲第4番が引っ込められたときの状況についてこう語っています。

 「ドミトリー・ドミトリエヴィチが交響曲第4番のリハーサルに私を招待してくれました。そのリハーサルは実に多くの参加者で賑わっていました。言うまでもなく、シュティードリーはこの壮大なスケールの作品のスコアをその卓越した才能のすべてを駆使して習得していました。ドミトリー・ドミトリエヴィチがどう感じていたかは分かりませんが、ホールには緊張と警戒の空気が漂っていました。問題は、ショスタコーヴィチが批判を無視して、形式主義でいっぱいの非常に複雑な作品を書いたという噂が音楽界で広まっていたことでした( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.143 )。」

 しかし、最初のリハーサルを終えた後、何回目かのリハーサルで事件が起こります。グリークマンは続けてこう語ります。

 「そしてある日、ソヴィエト作曲家同盟の書記長V. E. ヨヘルソンが、スモーリヌイに属する役員風の男を伴ってリハーサルに現われました。その後、フィルハーモニー管弦楽団の監督であるI. M. レンツィンがドミトリー・ドミトリエヴィチに自分のオフィスに来るようにと言ってきたのです。彼らはホール内部の螺旋階段を上っていきましたが、私はホールに残りました。それから15〜20分ほど経つとドミトリー・ドミトリエヴィチが迎えに来てくれて、私たちはキロフスキー大通り14番地にある彼のアパートへと歩いて向かったのでした。スモーリヌイはレニングラードにある共産党組織の本部のことです。

 私は落胆した同伴者の長い沈黙に困惑し動揺していましたが、彼はようやく落ち着いた無表情な声で、交響曲は演奏されないこと、レンツィンからの執拗な勧告により中止になったことを告げ、責任者としての手段に訴えたくないレンツィンは作曲家を説得して彼自身が演奏中止の決定を下したことにしたのでした。

 それから何年も経って交響曲第4番をめぐっての伝説が生まれ、残念ながら、ドミトリー・ドミトリエヴィチに関するあらゆる著作の中で、この伝説は確固たるものとなってしまいました。要するにショスタコーヴィチは、シュティードリーが交響曲を演奏できないと確信して演奏を中止することに決めたという噂です。これ以上に不条理で公正を欠いたことを考え出すのは難しいでしょう( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.143-144 及び “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface p.xxiii )。」


          シュティードリー
               指揮者フリッツ・シュティードリー(1930年ベルリン)


何故、初演が中止になったのか
 第4交響曲のリハーサルに関するさまざまな説明と、その演奏を中止するという決定の背後にある理由については、依然として論争が続いています。しかし当時は、多くの人々が指揮をしていたフリッツ・シュティードリーを非難し、彼が新しい音楽に対して非協力的、さらには敵対的であると、中止となった責任を負わせました。レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のヴァイオリニスト、M. S. シャク氏がリハーサルの様子をこう述べています。

 「私たちが音符に馴染むようになったのは、フル・オーケストラで演奏するよりも、弦楽器のセクションによるリハーサルからでした。(指揮台の)椅子に座っていたのは痩せた若い男でしたが、私たちの目には、交響曲の指揮者としてはまだそれほどの権威はないと映りました。彼は、世界的に名声を得た後年になっても、オーケストラ作品を勝手にいじくることを好まなかったのですが、(リハーサルでは)明らかに緊張した雰囲気の中で、彼は恐る恐る静かに座っていました。フリッツ・シュティードリーはスコアに深くかがみ込み、指でそれを指差し、スコアを確認しながら、せっかちな様子で作曲家に問いただすのでした。『これで正しいですか?こう進むべきなのでしょうか?』、オーケストラの演奏は止まり、すぐに『正しい、正しい。』という返事が返ってくるという具合でした( ”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.139 )。」

 さらに指揮者のアレクサンダー・ガウクは、このリハーサルで指揮していたフリッツ・シュティードリーに対して職業的無能さを感じていたようで、次のように述べています。

 「彼らは第1楽章のリハーサルをしていた。それは恥ずべきものだった。シュティードリーは明らかに音楽を理解しておらず、オーケストラの演奏も雑然としていた。実に憂鬱だった。ドミトリー・ドミトリエヴィチにとって、これはまさに恐るべき瞬間だった。彼はあらゆる人々から貶められていたのだ( ”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.139 )。」

 このアレクサンダー・ガウクは、1930年から1934年まで、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めていた人物で、つまりフリッツ・シュティードリーの前任者でした。しかも、ショスタコーヴィチの直近の交響曲第3番の初演を指揮していて、ショスタコーヴィチの音楽については一家言ある人物であったことは容易に想像がつきます。モスクワからわざわざレニングラードの古巣に戻ってリハーサルを見学していたということは、シュティードリーが降ろされたらその代役は自分しかいないと思っていたのかもしれません。このガウクの発言は『 ‘Creative Contacts’ by Alexander Gauk』に掲載されていて、原文に接していないのでこれ以上の判断はできませんが、後任の指揮者を好意的には見ていなかったということは十分ありえることと思われます。

 また、シュティードリーを非難している例を音楽学者ポーリーン・フェアクロウ次のように引用しています。

 「初演中止に関する数々の回想録の中で最も物議を醸しているのは、ソロモン・ヴォルコフの『証言』です。ヴォルコフは、当時既によく知られていた逸話を詳しく述べています。ショスタコーヴィチは、シュティードリーのリハーサルが悲惨だったと判断して交響曲の演奏を取りやめました。『証言』によれば、その年の初めにプラウダ紙に掲載された悪名高い社説『音楽の代わりに荒唐無稽』と『バレエの虚偽』でショスタコーヴィチが痛烈に批判された後、シュティードリーはショスタコーヴィチから距離を置くために、意図的にリハーサルを台無しにしたとし、『シュティードリーは楽譜を知らなかったし理解もしていなかったし、楽譜に取り組む意欲も示さなかった。』としています。(中略)この本がショスタコーヴィチの真正な回想録とみなすことはできないことは、今や疑いの余地がありません。(中略)

 また、ジョセフ・ダービーは、シュティードリーが解雇の口実として物議を醸すと予想される作品、交響曲第4番を指揮するよう強要された可能性があると主張していますが、これは信じがたいことのように思えます("A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough, xvii )。」

 当時、シュティードリーは矢面にされていたことがわかります。しかし、先に掲げたヴァイオリン奏者の発言をよく見るといくつか不自然な点があります。

 指揮者シュティードリーはレニングラード・フィルハーモニーの首席指揮として既に3年目を迎えているのに、「恐る恐る座って」とまるで初めてオーケストラを振っているように描かれていることと、当時53歳だったシュティードリーに対して「痩せた若い男」と描写していることに違和感を憶えざるを得ません。余程本人が高齢のヴァイオリン弾きだったのかもしれませんが、音楽学校を出たばかりの経験の浅い若造指揮者という印象を与えることで、だからリハーサルがうまくいかなかったのだと言わんばかりの描写と思えてなりません。

 もちろん、「指揮者で50、60歳はまだ鼻垂らし」という言い方もありますから、53歳で「若い」とは誤った言い方ではないかもしれません。しかし、前任者のアレクサンダー・ガウクがレニングラード・フィルハーモニーを辞したのは41歳の時であり、後にシュティードリーの後任としてその首席指揮者に指名されたエフゲニー・ムラヴィンスキーはその時35歳であった(1938年)ことを考えると、53歳の指揮者をつかまえて「若い」からダメだと言うのはやはり無理があると言わざるを得ません。

 「交響曲の指揮者としてはまだそれほどの権威はない」という言い方は、確かにオーストリア及びドイツの歌劇場を中心に指揮をしていたシュティードリーのキャリアからはそうとも言えます。しかし、「不慣れで若い」という明らかに事実と異なる理由を挙げて、そのためにリハーサルがうまくいかなかったと体よくまとめているように見えるのです。

 また、シュティードリーが作曲者のショスタコーヴィチに細かく確認している様子を述べているくだりは、シロウトの目からはイチイチ作曲家に確認しないと指揮できないのかと映るかもしれませんが、現場にいる指揮者やオーケストラにとってそれは当然の行為なのです。新作の場合、和声やテンポ、強弱などの譜面上における整合性については作曲者に確認しないとわからない場合があります。この曲での実例ですが、第1楽章でヴァイオリンとチェロだけで弾くところで、同じタイミングでお互い半音違う音符が書いてある箇所があります(明らかに音がぶつかる)。このままでいいのか、或いは臨時記号が落ちているのではないかと迷った時は、その場に作曲者がいれば確認するのは当然のことです。

 初演指揮者としてやるべきことはやっていて、しかも作曲者に異論を唱える姿勢もなかったように伺えますので、リハーサルそのものはうまくいっていたのではないかと考えられます。シュティードリーはショスタコーヴィチの作品を初演するのはこれが初めてでなかったこともあり、意思疎通においても大きな問題はなかったと考えられます。おそらく、この文章に後から誰かが「恐る恐る座って」や「若い」と書き足し、作曲者に確認する様子を指揮者のダメな姿と勘違いしてそのまま残したのではないでしょうか。シュティードリー本人の言い分も記録が残っています。

 「シュティードリー自身が後に回想したところによると、第1楽章と第2楽章のリハーサルを何事もなく終えた後、第3楽章のリハーサルを始めた日にオーケストラが抵抗を見せたとしています。演奏者たちは意図的にベストの努力を払っていなかったというのです。これに気づいたショスタコーヴィチは、休憩時間にシュティードリーを別の場所に呼び出しました。ショスタコーヴィチは、このような状況下で交響曲の演奏を強行すれば世間のスキャンダルを招くのではないかと考えたのです。シュティードリーの印象では、残りのリハーサルと公演のキャンセルを言い出したのはショスタコーヴィチだったというのです( “Shostakovich: A Life” by Laurel E. Fay p.96 )。」
*作曲家の息子マクシムも「オーケストラは難しさのために神経質になっていた」と発言しています( Shostakovichiana by Ian MacDonald )。

 シュティードリーの回想には作曲家同盟の書記長と共産党員らしき人物の来訪については触れられていないのが不思議ではあります。この後米国へ亡命したということもあり、政治がらみの発言を控えたのかもしれません。一方、シュティードリーの責任を問う証言をもうひとつ、エリザベス・ウィルソンが書いています。

 「フローラ・リトヴィノヴァによると、交響曲第4番が最終的に演奏された後、ショスタコーチは、シュティードリーがリハーサルの準備をしておらず、彼と音楽家たちは途方に暮れており、楽譜の複雑さに対処できなかったと述べました。彼自身はシュティードリーに、指揮者と音楽家の面目を保つためにも、交響曲を演奏する前に書き直す必要があると言いました( ”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140 )。」
*フローラ・リトヴィノヴァ:ショスタコーヴィチがレニングラードから逃れてクイビシェフに移った際に隣人となった女性。彼女の夫の叔父は、1941年から1943年まで駐米大使を務めています。

 自身の作曲した曲を書き直すという発想はショスタコーヴィチにはなかったのは、ショスタコーヴィチがこのわずか数か月前にクレンペラーに言った「ペンで書かれたものは斧で消すことはできない」というセリフからも明らかですので、このリトヴィノヴァの発言は信憑性が低いように思えます。イサーク・グリークマンはこのリトヴィノヴァの発言を断固として否定し、シュティードリーを次のように擁護しています。

 「レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団のもう一人のヴァイオリニスト、マーク・レズニコフは、ショスタコーヴィチの音楽を崇拝し、励ましていたシュティードリーが交響曲第4番を非常に綿密にリハーサルし、演奏に必要なレベルに達したと回想しています。結局のところ、交響曲の撤回の最終決定がショスタコーヴィチに押し付けられたか、或いは彼とは無関係に下されたかにかかわらず、ショスタコーヴィチは関係者全員にとって『後悔するよりは安全を第一』とする方が良いことを理解していたに違いありません。( ”Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140 )。」

 先に引用したグリークマンの「ショスタコーヴィチが批判を無視して、形式主義でいっぱいの非常に複雑な作品を書いたという噂が音楽界で広まっていた」ということを考えると、リハーサルが始まって実際にこの交響曲第4番を耳にしてやはり噂通りの危険な作品だと危惧した誰かがソヴィエト作曲家同盟にご注進に及んだのではないでしょうか。スターリンや共産党幹部の意向を忖度した作曲家同盟の書記長が共産党の人間を伴ってリハーサルに駆け付けて演奏をやめさせたとするのが自然かもしれません。或いは、既に『ムツェンスク郡のマクベス夫人』で批判されているショスタコーヴィチがまた懲りずに過激で凶暴な作品を公のコンサートホールで演奏したとなると、間違いなくスターリンの逆鱗に触れ、シベリア送りか下手すると銃殺されるかもしれないと危惧して、この若く才能のある音楽家を何としても守ろうと、事が大きくなる前に演奏をやめさせようとしたとも考えられます。ローレル・E.・ファーイとポーリーン・フェアクロウは次のようにも書いています。

 「当時の政治的・美的風潮を考えると、たとえ完璧な演奏であったとしても、この壮大な「マーラー風」の作品は、党の慈悲深い指導に対する傲慢な反抗行為として、形式主義の典型と解釈されたであろうことはほぼ間違いないだろう。“Shostakovich: A Life” by Laurel E. Fay p.96 )。」

 「ソヴィエトの歴史におけるその特定の時期に初演を強行すれば、ショスタコーヴィチの命が危険にさらされることになるだろうと指摘する人もいます。交響曲第4番が”非”社会主義リアリズム的であるという見解を最も強く主張する人物の一人は、ソレルチンスキーの義理の娘であるリュドミラ・ミヘーエワです。彼女は、この交響曲が『悲劇に満ちており、社会主義リアリズムの規範に全く呼応していない』ため、初演はショスタコーヴィチを危険にさらしただろうと主張しています("A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough xiv )。」

 この作曲家同盟の書記長と共産党の人間が何を言ったのか、そこには脅しや脅迫があったのかについては全く明らかになっていません。はっきりしているのは、ショスタコーヴィチ自身がリハーサルと初演を取り下げたということだけです。このショスタコーヴィチの取った行動について、イアン・マクドナルドはポポフの交響曲第1番と絡めてこのように語っています。

 「レニングラード作曲家組合(当時はまだ、ある程度、対立する意見を真摯に議論できる場であった)では、ポポフの交響曲第1番の政治的妥当性について、激しい議論が繰り広げられた。最終的な結論は、渋々ながらも復権となったが、その後の演奏は行われなかった。インナ・バルソヴァによれば、ポポフの交響曲第1番の事実上の禁止は、スターリンの粛清(1935〜39年)に伴う音楽表現の弾圧の始まりであったとして、『作曲家たちは本格的な音楽の作曲をやめ、映画音楽、演劇音楽、そして民俗音楽へと転向していった。ショスタコーヴィチの音楽的創造性は、1936年までは概念の選択においても、音楽技法においても、自由なままであった。』 と述べている。ポポフの交響曲第1番の熱烈な崇拝者であると自称するショスタコーヴィチは、この交響曲第1番を自身の交響曲第4番のモデルとしていたようで、この交響曲第4番にはポポフの作品との類似点がいくつかある(例えば、ポポフの交響曲第1楽章と第2楽章のコーダや、ポポフのラルゴの主題の11-12小節など)。

 ポポフもまた、1935年10月31日にツァールスコエ・セローでショスタコーヴィチがピアノで演奏した交響曲第4番の第1楽章前半を賞賛していた(「非常に辛辣で、力強く、そして高貴な」)。ある意味では、これらのふたつの交響曲は、1935年から1940年にかけてスターリン主義の検閲に手を携えて全力で挑んだと言えるだろう。ショスタコーヴィチがおそらく第 4 番を強制的に撤回せざるをえなかったのは、ある程度その作品にインスピレーションを与えたポポフの第1番が辿った運命をそのまま繰り返すことになると考えたに違いない( Shostakovichiana by Ian MacDonald )。」

 さらに、ロシア出身のヴァイオリニストであり音楽者でもあったボリス・シュワルツは『ソヴィエト・ロシアにおける音楽と音楽生活、1917-1970年』において次のように述べています。

 「交響曲第4番を予定されていた演奏から取り下げるという決定は、突発的な行動ではありませんでした。この曲はショスタコーヴィチに好意的なドイツ人指揮者フリッツ・シュティードリーの指揮の下、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によってリハーサルが行われました。しかし数回のリハーサルが行われた後、オーケストラやその場にいた様々人々の反応に明らかに落胆した作曲家は初演の中止を決断したのでした。第 4 交響曲は彼のキャリアの重要な時期に期待される種類の作品ではないことを本能的に感じたに違いありません。期待され必要とされていたのは、混乱と没入の作品ではなく、明晰さと確信に満ちた作品だったのです。こうして交響曲第4番の楽譜は25年間放置されたのでした。( “Music and Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by Boris Schwarz )。」
*「数回のリハーサル」について、指揮者のキリル・コンドラシンは「2回の非常に短いリハーサル」と回想しています。しかし、1979年にゲンナジー・ロジェストヴェンスキーがニューヨーク・フィルハーモニックに初登場してこの曲を演奏した際のプログラム・ノートには「10回のリハーサル」と書いてあります。オーケストラの団員がパート練習もしたことを言及していますから、2回というのは少ないような気がします。ちなみに、交響曲第7番初演の時はリハーサルを40回行なったとされていますので、10回がおかしな数字ということにはならない思われます。


 何故、初演が取りやめになったのかをまとめると次のようになります。
1. 指揮者のシュティードリーが準備不足で、かつ能力がなかった。
2. ポポフの交響曲第1番が演奏禁止になっていて、その二の舞になることを恐れた。
3. オーケストラが難しいとして演奏を拒否した。
4. 見学者の反応が悪かったことに落胆した。
5. 作曲家同盟の書記長と共産党員からの圧力があった(ショスタコーヴィチを守るためだった可能性も)。

 指揮者の能力不足が理由だとすれば、初演を延期して別の指揮者を代役に立てればいいし、ポポフの件はだいぶ前からわかっていたので何もリハーサルを始めることもなかったことになりますので、1番と2番は普通に考えて可能性は低いと言えます。3番についても、それならば譜面を書き換えればいいのですが、本人にその気は全くなかったので考えにくいでしょう(書き直そうというそぶりすら見せていません。)。4番もショスタコーヴィチの性格からして人の意見などに耳を貸すなんてことはないと思われます。5番は、2001年に出版されたグリークマンの書簡集に基づくものになります。

 なお、2023年発行の Boosey & Hawkes社 "Dmitri Shostakovich Work List" のこの交響曲第4番の項目には、「音楽学者マナシル・ヤクボフは、DSCH新全集第4巻の解説の中で、作曲家は共産党の圧力により、当初1936年12月11日に予定されていた交響曲第4番の初演を中止せざるを得なかった。」と書かれていますので、現在のところは、この5番目の説が一応支持されているようです。但し、その説を支持する新たな証拠は提示されていません。

 2006年に書かれた音楽学者ポーリーン・フェアクロウの論文の序文には、「この交響曲が劇的に中止に追い込まれた経緯の全貌を説明できる、完全に信頼できる単一の情報源は存在しないということを、まず述べておく価値がある("A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough xiv )。」と断っていて、それ以降新しい証拠が出ていないのであれば、真相はまだまだ闇の中ということになります。


 では次に、賛否両論というより非難されることの方が多いフリッツ・シュティードリーという指揮者はどんな人物だったのかを見てみましょう。




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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