ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

付録 交響曲第12番

 
                    Shostakovich

 


交響曲第12番
 少々話はそれますが、交響曲第12番について簡単に触れておきます。ローレル・E.・ファーイはこの曲の成立について次のように述べています。

 「1960年10月29日のラジオ放送で、ショスタコーヴィチはいつになく饒舌に、交響曲第12番の進行について語った。それによると交響曲第11番を仕上げている最中に、標題の上でその交響曲の続編となり、十月革命のさまざまな出来事、そして、勤労大衆の偉大な指導者レーニンに捧げる交響曲という次の作品の着想を得たという。(中略)のちに詳述しているところでは、集中的にその仕事に取り組んだのは、1961年の春と夏の間だけだったという。というのも、10月に行なわれる第22回共産党大会でそれを発表することを目標に定めていたからであった。(中略)彼がその交響曲の最終仕上げをしたのは、一週間後の8月22日のことだった。25日には、3、4日後で演奏できるようにすると言質を与えてくれたヴァインベルクとボリス・チャイコフスキーに手渡す、ピアノ四手のための編曲譜ができあがっていた。ヴラジーミル・イリイチ・レーニンの思い出に捧げる、ショスタコーヴィチの交響曲第12番ニ短調『1917年』(作品112)は、9月25日にレニングラードでリハーサルに入った(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.276)。」

 この曲は、1961年10月1日、エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮するレニングラード・フィルハーモニー管弦楽団で初演されました。実際はその2時間前、アブラム・スタセヴィチ指揮クイビシェフ国立フィルハーモニー管弦楽団で演奏されています(クイビシェフはかつてショスタコーヴィチが戦火を逃れて行った地で、そこで交響曲第7番が初演されています。)。モスクワではその2週間後に初演が行なわれました。ソヴィエトにおいては、交響曲第12番はおおむね好評を博しましたが、前作ほどの反響はなかったとされています。

 英国での初演は1962年9月4日のエディンバラ音楽祭で作曲家も出席して行われましたが、わずか3日後に演奏された交響曲第4番(国外初演だった)と比べて不利な評価を受けたとされています。辛辣な物言いで知られているな米国生まれの英国人音楽評論家ピーター・ヘイワーズは次のように書いています。ヘイワーズは当時ニューヨーク・タイムズのヨーロッパ音楽特派員を務めていました。

 「ショスタコーヴィチは、言うまでもなく、作品に出来不出来が多いことで有名な作曲家です。しかし、この新しい交響曲(第12番)は、彼の主要作品の中でも最低の部類に入ると断言できます。エディンバラ音楽祭に集まった音楽家や批評家の大半は、その粗雑さと面白みのなさに実のところ愕然としたのでした。(中略)これほどの素晴らしさと人間的な温かさ、これほどの機知と洗練された皮肉に満ちた音楽を書くことができるこの作曲家が、なぜこのような記念碑的な些細なことに時間を浪費するのでしょうか?(1962年9月6日付『ニューヨーク・タイムズ』)。」

 当時、西側諸国ではショスタコーヴィチの音楽を政治的なフィルターを通して聴く傾向があり、前作の交響曲第11番は1956年のハンガリー動乱を暗示しているとして比較的好意的に受け止められていましたが、第12番は明らかにレーニンの十月革命という共産主義的なテーマを扱っていたため、あまりいい評価は得られなかったという説はありえるかもしれません。さらに音楽学者ボリス・シュワルツは『ソヴィエト・ロシアにおける音楽と音楽生活、1917-1970年』において次のように述べています。

 「あるイギリスの批評家は、ショスタコーヴィチの交響曲第12番(レーニン)を「サウンドトラック」に例えています。(中略) 実際のところ、色彩豊かであまり深遠ではないソヴィエトの音楽を聴くと、存在しない映画のサウンドトラックを容易に想像することができるのです。確かに、社会主義リアリズムの美学が求めている具体性や生活に対する近親性は、ソヴィエトの映画音楽においてこそ具現化できることなのです。( “Music and Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by Boris Schwarz )。」

 また、ソヴィエト出身でピアニスト、指揮者として西側で活躍してきたウラディミール・アシュケナージは、インタビューに応えて次のように述べています。

 「第12番の交響曲はあまり力強い作品ではありません。第1楽章もです。それは単なるパスティーシュだと思います。もしかしたら、レーニンの中に何か魅力を見出そうと真剣に努力したのかもしれません。しかし、本当に見つけられたかどうかは分かりません( “Music and Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by Boris Schwarz )。」
*パスティーシュ:「複数の音楽を繋ぎ合わせたメドレーのような曲」という意味。

 ヘイワーズの「最低」とは随分な言い方ですが、1953年から1961年まで8年間でちょうど4年おきに作曲された第10、11、12番に対して音楽面で優劣をつけることは意味のないことでしょう。しかし、音符を演奏する側からすると、この3曲は性格的に似たような素材を同じように進行させていくという印象があり、ショスタコーヴィチが言いたいひとつのことを3通りのかたちで示しているようにも見えます。党から課せられた条件を満たす必要があったショスタコーヴィチとしては、選択肢の限られた中から新しい曲を作らなければならい苦しい事情があったのではないでしょうか。


 わずか3ケ月の間隔で初演された2つの交響曲、その初演から64年たって、遠くレニングラードから離れた日本で、ほぼ同じ時期にその両方の曲を演奏する幸運に恵まれた(苦しめられた?)ことを契機にこれらの曲について考えてみました。同じ年に初演されたとはいえ、作曲されたのが25年も間が開いている曲を並べ聴いた作曲者の心中はいかばかりだったのでしょうか。若い頃に書いた自分の作品の凄さにおののき、現在の自分に苛立ちをおぼえたのか、それとも若書きの作品の欠陥を冷静に見つめて次なる作品に弾みをつけようとしたのか、興味は尽きません。

 実際に音符を演奏して感じたのは、あたりまえのことですが、どちらも紛れもないショスタコーヴィチの音楽そのものであるということ、とりわけ4番におけるその後の「ショスタコーヴィチの顔」となっていく素材、動機、パターン、サウンドといったものが確固とした形で音符に刻まれているということです。確かに、4番には様々な実験的な試みが透けて見えるところもありますが、30歳にして既に自己を確立していたということは間違いないと言えると思います。

 先に引用したアシュケナージは、「第4交響曲と第5交響曲の間には明確な境界線、分水嶺があると思います。」と同じインタビューに答えています。ショスタコーヴィチの成長が4番で止まったとは言ってはいないと思いますが、分水嶺となって結果的に4番と12番の間に25年という歳月以上の大きな溝が横たわってしまったということは、ショスタコーヴィチの悲劇だったということをかみしめながらエッセイを締めくくろうと思います。  2026年1月



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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