ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第9章 マーラーの影響

 
           Shostakovich     Mahler

 

大編成と大音響?
 この交響曲第4番を解説するほとんどすべての文献には「マーラーの影響」について書かれています。実は正直言って、筆者はこの曲のCDを聴いたり、実際に音符を弾いたりしても『マーラー感』が全く感じられなかったのですが、それは筆者だけなのでしょうか。このエッセイで何度も引用しているローレル・E.・ファーイは次のように述べています。

 「交響曲第4番は、ショスタコーヴィチがベートーヴェン以降の交響曲の伝統、特にマーラーの音楽に独自のやり方ではあるものの積極的に取り組んでいたことを明らかにしています。とりわけ、そのコンセプトと規模においてマーラーの影が最も大きく迫っています。ショスタコーヴィチの交響曲の中で最も長い作品ではないものの(その栄誉は第7番に与えられることになります)、(中略)ここでのショスタコーヴィチの表現力は、平凡なものから崇高なものまで、些細なものから悲劇的なものまで、両極端の対峙という記念碑的な表現で表現されています。20本の木管楽器、17本の金管楽器、そして多数の打楽器と弦楽器で構成されるこの交響曲第4番のオーケストラは、ショスタコーヴィチの交響曲の中で最も大規模なものでした( “Shostakovich: A Life” by Laurel E. Fay p.93-94 )。」

 また、1979年にニューヨークでこの曲が演奏された時の新聞評には、「3つの楽章で1時間を占める。その巨大さ、特大オーケストラの使用、そしていくつかのアイデアにおいてマーラー的である。( "Rozhdestvensky Conducts Shostakovich's Fourth" The New York Times Feb. 25, 1979 by Raymond Ericson)。」と書いています。さらに、その著作『ショスタコーヴィチの証言』で正統性や信憑性をめぐって議論を巻き起こしたソロモン・ヴォルコフも同じようにマーラーの影響について語っています。

 「後年、ショスタコーヴィチは(中略)、自分の4番を正当にも決定的な飛躍として評価していた。もちろん、そのなかの多くは、長さ(1時間以上の音楽)、巨大なクレッシェンドを生み出す壮大な管弦楽、一貫した「陳腐な」旋律素材の使用など、マーラーに由来しており、彼の交響曲をショスタコーヴィチは、このときまでに非常に注意深く学んでいた( ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチとスターリン』  2018年 p.233 )。」

  この3つのコメントは以下の3つのポイントを4番におけるマーラーの影響と見做しています。

@ オーケストラ編成の巨大さ
A 演奏時間の長さ
B マーラー風のコンセプトやアイデア

 冷戦時代における西側の音楽関係者は、25年間もの間演奏されなかったショスタコーヴィチの交響曲第4番を聴いた時、この曲がスターリンの逆鱗に触れた直後に完成されたこと、ソヴィエトの社会主義リアリズムに反し、形式主義と見做されたためにお蔵入りになったこと知って、つまり「壁」の向こう側で拒否された音楽だと諸手を挙げて歓迎しました。そしてソヴィエトでは忌避されていたマーラーの交響曲も同じ理由で演奏されていないことから、この曲は西側を代表する交響曲作曲家マーラーをお手本にしたものだという見方が生まれたと言えるかもしれません。

 しかし、@オーケストラ編成の巨大さと、A 演奏時間の長さというだけでマーラー風のマーラーの影響で作曲された作品になるはずもありません。例えば、ショスタコーヴィチの4番の20数年前の1912年にモスクワで初演されたウクライナ出身のレインゴルト・グリエールの交響曲第3番『イリヤー・ムーロメツ』は、4管編成という巨大なオーケストラを用い、演奏時間は1時間を15〜25分も越える作品です。@オーケストラ編成の巨大さ、A演奏時間の長さの2点をクリアしていることは明らかです。しかし、この曲は伝説上の勇士イリヤー・ムーロメツの物語に基づくスラヴ民族的要素に溢れた曲ですので、そこにはB「マーラー風のコンセプトやアイデア」がないということになります。

 グリエールはベルリン留学中にベートーヴェンやマーラーに造詣の深い指揮者オスカー・フリートに指揮法を師事しているとのことです。マーラー音楽との接点はあったのかもしれませんが、筆者が2年前にこの曲を演奏した時に感じたのは、チャイコフスキーのマンフレッド交響曲的なストーリーのある標題交響曲なのだけれど、変化に乏しくどのシーンも長すぎるということと、ほぼ同時期の1910年に初演されたストラヴィンスキーのバレエ音楽『火の鳥』と較べるとその斬新さや奇抜さに欠ける優等生的な作品という印象で、そこにはマーラーの「マ」の字もありませんでした。なお、グリエールは1938年から1948年まで、ソ連作曲家同盟組織委員会の議長を務めていて、スターリン治下のソヴィエトにおいて、社会主義リアリズムの模範的作曲家と見なされていました。

 巨大なオーケストラ編成による最強音はマーラーの代名詞と言っていいと思いますが、一方のショスタコーヴィチの最強音はマーラーのそれとはかなり違うような気がします。ショスタコーヴィチの曲によくある耳をつんざくような激しい不協和音を含む大音響や、同じ音や同じ音型を執拗に何度も繰り返すことはマーラーの交響曲にはないと思われますし、ショスタコーヴィチに特徴的な打楽器が単独で或いは他の楽器と絡み合ったり、同じ音型を繰り返すシーン(*)もマーラーにはありません。あるとすれば、マーラーの7番の終楽章の冒頭で活躍するティンパニくらいでしょうか。また、クック版のマーラーの交響曲第10番の第4楽章から第5楽章にかけても打楽器が活躍しますが、ショスタコーヴィチがこの10番の補筆完成作業をマーラーの未亡人アルマから依頼されたのは1948年ですので(打診されて直ぐに断っています。ラブラリー参照)、4番を作曲した1936年にこの曲のことを知る由もなかったことになります。なお、このクック版が初演されたのは1960年なので、ショスタコーヴィチがこの曲を聴いたとしてもなかり晩年になってからということになります。
*第1楽章・練習番号24-27、75-79、第2楽章・練習番号150の3小節前から最後まで、第3楽章・練習番号238の8小節前-250。

 ショスタコーヴィチの4番における最強音の響きは、マーラーというより、ガヴリール・ポポブの交響曲第1番(第1章参照)のそれに近く、さらには20 世紀初頭から1930 年代初頭にかけての前衛芸術運動(ロシア・アヴァンギャルド)におけるウラディーミル・デシェヴォーフ、アレクサンドル・モソロフといった作曲家の響きに近いように思えてなりません。ショスタコーヴィチの4番は西側に紹介された頃はもちろんこういったソヴィエトの作曲家の存在は知られていなかったと思いますので、大音響=マーラーという思い込みから物事を判断してしまうこともあったのではないでしょうか。

 この4番が西側に紹介された1962年といえば、マーラー生誕100年(没後50年)記念(1960年)を契機にようやくマーラーがヨーロッパで再認識され、演奏される機会が増えた時期にあたります。つまり、西側の音楽評論家にとってもまだマーラーの音楽が現在ほど理解されていなかったと考えられ、単にオーケストラ編成が巨大で、演奏時間が長いという認識しかなかったとも考えられます。そこに現れたショスタコーヴィチの4番に対して、ソヴィエトの作曲家だけれども、この2点の特徴を有しているというだけでマーラー的というレッテルを安易に貼ってきたのではないかという推論が成り立つかもしれません。


マーラーとの出会い
 ショスタコーヴィチはサンクトペテルブルク音楽院卒業後の1927年、親しい友人であった後に音楽学者、評論家となるイヴァン・ソレルチンスキーからマーラーの音楽を紹介され、以来マーラーを敬愛していたことはよく知られています。晩年になってもショスタコーヴィチのマーラー愛は変わらなかったようで、ローレル・E.・ファーイは次のように述べています。

 「1953年6月初旬に、ショスタコーヴィチは文化代表団の一員として、ウィーンとグラーツに派遣された。彼は、ベルク、オネゲル、そして、ストラヴィンスキーの作品のコンサートに出向いたが、もっとも早い時期から自分に最大の影響を及ぼしてきたオーストリアの作曲家はグスタフ・マーラーである、と仲間のひとりに打ち明けた(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』  p.233 )。」

 ただ、ここで注意しなければならないのは、ショスタコーヴィチが影響を受けたのはマーラーだけではなかったということです。ローレル・E.・ファーイは同じ書籍の中で、次のようにも述べています。

 「(1935年2月に開催された会議で)ショスタコーヴィチは音楽における『内容』という難題について次のように述べています。(中略)『アルバン・ベルク、ヴァイルといった一流の巨匠たちを研究するために、ソヴィエト作曲家同盟はセミナーを開催すべきです。西洋の音楽文化をもっと深く、真剣に理解する必要があります。そこには多くの有益な情報があるからです。』 (中略)  『マクベス夫人』が糾弾されるまでは、模範的なソヴィエトの若手作曲家として注目を集めていたショスタコーヴィチは、ベルク、シェーンベルク、クルシェネク、ヒンデミット、そしてとりわけにストラヴィンスキーといった同時代の作曲家の音楽が、特に音楽院卒業後の3年間に自身の成長に与えた影響について率直に語っていました(“Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.88 )。」

 ここでは当時ヨーロッパにおける最先端の音楽を学ばなければならないという趣旨のことをショスタコーヴィチは言っているので、少し前の作曲家マーラーについては触れてはいません。しかしこの発言からわかる通り、ショスタコーヴィチはこの頃までに西側の音楽に対して強い関心を持ち、多くのことを吸収してきたということであり、その中にマーラーの音楽も含まれていて、確実に大きな影響を受けていたということになります。


ソヴィエト時代のマーラー演奏
 当時のソヴィエトではマーラーの音楽は演奏されていたのでしょうか。1907年11月9日にマーラー自身の指揮で交響曲第5番をサンクトペテルブルク(レニングラード)で演奏しているという記録があります。しかし、これが最初ではなかったようです。その前の年、1906年11月10日、ドイツ人指揮者オスカー・フリートがマーラーの交響曲第2番『復活』をサンクトペテルブルクで初演しています。フリートはその後1932年11月16〜23日にレニングラード・フィルハーモニーで交響曲第1番、1934年3月28、31日には『大地の歌』を指揮しています。なお、ショスタコーヴィチが生まれたのはちょうどこの頃(1906年)のことになります。

 また、ロシアの音楽学者インナ・A・バルソヴァの著作を引用しているヘルナン・テスラー・マベによると、

 「(1920年代)から1930年代にかけて、マーラーの交響曲と歌曲は、レニングラードと(それほど頻繁ではないが)モスクワで、ハインツ・ウンガー、フリッツ・シュティードリー、ハンス・シュタインベルク、アルバート・コーツ、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、アレクサンダー・ツェムリンスキー、ヨーゼフ・ローゼンシュトック、ヴァーツラフ・ターリヒ、オイゲン・ゼンカール、ヤッシャ・ホーレンシュタイン(といった海外の指揮者)、そしてアレクサンドル・ガウク、カール・エリアスベルク、ナタン・ラフリン、ニコライ・ラビノヴィチ、エフゲニー・ムラヴィンスキーといったソヴィエトの指揮者によって演奏されました( "Mahler's Forgotten Conductor: Heinz Unger and his Search for Jewish Meaning, 1895–1965" by Hernan Tesler-mabe p.195 )。」

と、ソヴィエトでマーラーの作品を振った指揮者の名前を列挙しています。具体的な日付や演目の記録が見つからないのが残念で、筆頭に挙げられているマーラー指揮者ウンガーも、1924年から1937年に定期的にソヴィエト訪問をしているものの、コンサートの曲目についてはわかっていません。上記の資料が語るところからすると、ソヴィエト時代になってもしばらくはマーラーの作品は演奏されていたということになります。しかし、スターリンによる大粛清や文化統制が強化された1930年代中頃から、マーラーの音楽の演奏機会は減少し、公の場での積極的な普及は控えられていきます。これは、マーラーがオーストリア=ハンガリー帝国のブルジョアジー文化の産物と見なされたことや、その音楽が持つ厭世的、悲劇的な側面が、明るい未来を志向する社会主義リアリズムの理想と相いれなかったためとされています。

 スターリンの死後になると指揮者のキリル・コンドラシンなどのソヴィエトの指揮者によってマーラーの音楽は再び取り上げるようになっていきます。コンドラシンは、ショスタコーヴィチの第4交響曲の世界初演を果たした同じ1961年に、マーラーの第3交響曲をモスクワ・フィルハーモニーと取り上げて、その後ソヴィエト初のマーラーの交響曲録音を行っています。


カッコウの音型
 
ショスタコーヴィチの交響曲第4番の多くの解説文には、第1楽章の終わりに現れるのは「カッコウの鳴き声」、或いは「鳥の鳴き声」と書かれていて、それがマーラーの交響曲第1番からの引用であると説明されています。それはコール・アングレが、第1楽章が終わる直前(8小節前)に Morendo(モレンド)=「死に絶えるように」と指示される中を5回そのカッコウとおぼしき音型を吹いているところになります。それはまさに死に絶えるように曲を閉じるところで、よほど耳を澄まさないと聞き取れないところでもあります。

 一方、マーラーの曲でカッコウが鳴くのは曲の冒頭であり、これから始まる爽やかで希望に満ちた音楽の予感がその音型からにじみ出ています。しかし、こういう状況でショスタコーヴィチはその音型を使っているのではないのです。むしろ全く違う状況下で、音の質もまるで異なる使い方をしているのではないでしょうか。いくら同じ2音による4度下降音型だからといって引用だとするのは少々乱暴すぎるような気がします。

 実は、カッコウの音型は楽章の終わりだけでなく他にも出てくるのですが、それについて指摘する解説文はまだ読んだことがありません。第1楽章の中間点の少し前の練習番号40の後ではピッコロ・クラリネット(とハープ)が、練習番号99番ではヴァイオリンのソロ(とチェロ)が弾いているのです。さらに、変形はされていますが、2音の音型が練習番号48〜50番で激しく繰り返され、第3楽章では突然3拍子になって曲想が変わるところで、変形した2音の音型が主要主題化して何度も激しく打ち鳴らされていきます(練習番号167から)。このように似たような音型を全曲に亘って見え隠れさせるショスタコーヴィチのやり方には何か隠された意図があるように思えてきます。これを単にマーラーの引用とするのは安易すぎるだけでなく、そこで思考を停止するのはもったいないような気がします。

 しかも、カッコウは何もマーラーの専売特許ではありません。フンパーディンクの歌劇『ヘンゼルとグレーテル』(*)でもカッコーは森の中で何度も鳴きますし、ベートーヴェンの田園交響曲にもカッコーを模した所があるのは有名な話しです。また、マーラーのカッコーは交響曲第1番だけでなく、『若き日の歌』の中にある「夏の交代」で「 Ku-kuk ! 」 と3度の下降音型で歌われています。ショスタコーヴィチはこの歌曲の譜面も見ていたことも考えられますが、この4番とこの歌曲の関係性はかなり薄いと思われます。
*マーラーはこのフンパーディンクのオペラをハンブルク時代になんと50回も指揮しています。マーラーの交響曲第1番はこのオペラとほぼ同じ時期に作曲されています。

 ローレル・E.・ファーイもカッコウのことを言及しています。ファーイはこの章の冒頭で引用した自身の文章(2000年)に少し手を加えて、ロサンジェルス・フィルハーモニーのプログラムノートにその一部を掲載しています。11年後にこのカッコウの部分を追加したことになります。

 「悲劇性と平凡性の要素的な衝突から、オーケストレーションの細部、和声の横滑り、そして『カッコウ』の鳴き声に至るまで、マーラーとの接点は至るところに見られます( About this Piece "Dmitri SHOSTAKOVICH:Symphony No.4" by Laurel E. Fay 2011 Los Angeles Philharmonic )。」

 マーラーの交響曲第1番のカッコーは、霧の中から聞こえてきて、チェロがその2音から始まる主題を楽しげに弾き出すというかたちを取っていますが、ショスタコーヴィチにはそのような長閑な雰囲気はありません。筆者が演奏しながら個人的に感じたことなのですが、この2音は扉をノックする音ではないかということです。最初小さい音量で吹かれるのは噂話しの囁き(練習番号40)、夜ベッドに入って聞こえてくるのは近所のあちこちで叩かれるノックの音(練習番号48番)、やっと眠ったかと思うと夢の中にも現れ(練習番号99番)、その間知らないところで密告が行なわれます(第1楽章の最後8小節間)。そして第3楽章ではついに自分の家に秘密警察がドアを蹴破って闖入してきて(練習番号168番)家族もろとも拉致・逮捕されてしまう・・・。


第2楽章レントラー
 
ローレル・E.・ファーイはショスタコーヴィチの4番の第2楽章に対して次のように書いています。

 「第2楽章はニ短調のシンプルな構成(A-B-A1-B1-コーダ)で、その”レントラー”的な特徴はマーラーを彷彿とさせます。( About this Piece "Dmitri SHOSTAKOVICH:Symphony No.4" by Laurel E. Fay 2011 Los Angeles Philharmonic )。」

 ローレル・E.・ファーイが第2楽章のどの部分(AかBか)を”レントラー”的と形容したのかはその文章全体からはわかりません。第2楽章の中間部(ファーイの分類ではB:練習番号123のファースト・ヴァイオリンによる旋律)をレントラーとする解説もありますが、A-Bどちらなのか、両方共なのか、どちらでもないのかはわかりません。個人的にはこの楽章でレントラーは正直なところ聴こえてこないのです。ショスタコーヴィチのテンポ指定は速く、 Moderato con moto 8分音符=144 の3/8拍子です。一方マーラーの場合、「緩やかなレントラー風のテンポで」と明記している第9番の第2楽章はメトロノーム記号はありませんが、ショスタコーヴィチよりははるかに遅く演奏されます。

 レントラーとは、3/4拍子の南ドイツの民族舞踊とされて、ドイツに限らずオーストリア、スイス、ボヘミア、モラビア、スロベニア、北イタリアなどヨーロッパの様々な国の作曲家がレントラーの舞曲を作曲しています。その中には、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナーなども含まれていて、マーラーもいくつかの交響曲(第1,2,5,9番)で、メヌエットをレントラーに置き換えています(譜面に Ländler と書き込んでいるのは9番のみです。)。映画『サウンド・オブ・ミュージック』をご覧になられた方は、マリアが「(この踊りは)レントラーよ。オーストリアの民族舞踊なの。」と言って踊るシーンを憶えていらっしゃるかもしれません。

 しかしここで気になるのは、男女の二人が長閑に踊る田舎風のダンス音楽が、ショスタコーヴィチのこの第2楽章から全く聴こえてこないという点です。唯一譜面に Ländler と書き込まれているマーラーの交響曲第9番の第2楽章はヴィオラとファゴットで開始され、次いでセカンド・ヴァイオリンが受け継いでいくのですが、なんとショスタコーヴィチの4番の第2楽章も、同じくヴィオラから開始され、セカンド・ヴァイオリンが引き継ぎます。この奇妙な一致には驚かされますが、曲の雰囲気においては大きく異なっていると思います。マーラーのレントラーには田舎臭さの中に皮肉っぽさが感じられますが、ショスタコーヴィチの方は都会的なクールさに加えて辛辣さがあり、また落ち着きがなく、何かに怯えているように聴こえるからです。

 オーケストラ編成の巨大さからマーラー的と見做されるのに釣られてこの楽章を、マーラーが好んで採用したレントラーだと呼んでしまったのではないでしょうか。筆者はこの楽章の冒頭を弾いて直ぐに思い出したのはショスタコーヴィチの交響曲第7番の第2楽章です。3拍子の舞曲ではありませんが、セカンド・ヴァイオリンから開始されてから他の弦楽器が絡んでいくところは、アイデア的に4番の第2楽章によく似ています(4番はヴィオラから。)。誰かの真似をしたというより、ショスタコーヴィチが独自に見いだしたスタイルではないかと考えています。なお、この7番の第2楽章にはマーラーからの素材の流入が若干認められることから、この4番においても何らかの影響はあったことは否定できないと思います(『ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』をめぐる7章』参照)。

 また、第1楽章では管楽器だけのアンサンブルの時間帯があったのに対して、第2楽章では弦楽器だけで複雑に絡み合ったアンサンブルがある点は注目すべきで、ショスタコーヴィチの実験的な試みとも言っていいかもしれません。さらに、第2楽章の最後22小節間の打楽器について、イアン・マクドナルドは、

 「(作曲家の息子マクシム・ショスタコーヴィチは)『時間の経過…時計、あるいは心臓の鼓動』を示す意図があったと彼は考えている。(一方指揮者の)ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは別の見解を示している。『私にとって、そしておそらくショスタコーヴィチにとっても、これで連想することは囚人たちが温水パイプを叩いて互いにメッセージを交わすことなのです。』( "Shostakovichiana - Recent Commentary on Symphonies 1-5" by Ian MacDonald)」

として、その脚注で1936年にショスタコーヴィチの近親者や知り合いの音楽学者
等が逮捕、流刑、処刑されたことを付記しています。マーラーとの類似性よりは、作曲家が音符で何を語ろうとしたか、何を隠そうとしたかを探ることも重要だと思います。


第3楽章の葬送行進曲
 終楽章(第3楽章)の冒頭の葬送行進曲についても、マーラー由来のものという見解が大勢を占めています。ローレル・E.・ファーイは次のように述べています。

 「既に豊富なアイデアで彩られた交響曲の中でも、特に際立っているのが最後の楽章です。緩徐楽章と終楽章の機能を併せ持つこの楽章は、冒頭の葬送行進曲(交響曲第1番、第2番、第5番にも見られるマーラーとのもう一つの関連性)から、伝統的な交響曲の終楽章を約束するかのような力強いアレグロへと展開していきます( About this Piece "Dmitri SHOSTAKOVICH:Symphony No.4" by Laurel E. Fay 2011 Los Angeles Philharmonic )」

 交響曲に葬送行進曲を取り入れたのはマーラーだけではなく、ベートーヴェンが交響曲第3番の第2楽章で "Marcia Funebre" と明記した曲があることは誰もが知るところです。 しかし、マーラーは葬送行進曲風の箇所を3曲もの交響曲に書き込んでいるくらい自身のマーラー劇場においては重要なシーンであったことは間違いありません。マーラーを敬愛するショスタコーヴィチがそれに倣って葬送行進曲を自作の交響曲に取り入れるのもありえない話しではないでしょう。

 ショスタコーヴィチも1918年、12歳の時にピアノ曲『革命の犠牲者を追悼する葬送行進曲』を作曲しています。作曲を始めて3年後のことです。ショパンのソナタ第2番第3楽章の葬送行進曲を思わせる所があるものの、12歳の作品とは思えない立派な曲に仕上がっています。その9年後の1927年にはポーランドで行なわれたショパン・コンクールにショスタコーヴィチは出場していますので(惜しくも選外でした。)、当然ショパンの葬送行進曲は若きショスタコーヴィチにとって最も身近な音楽であったとも言えると思います。

 この第3楽章を作曲する時に、ショスタコーヴィチは頭の中に誰の作品を描いていたのか、或いは全く独自の発想で音符を紡いでいったのかは本人にしかわからないでしょう。むしろ、ファゴットのモノローグ的な使われ方は、この曲に限らず後の交響曲でも散見されることから、ショスタコーヴィチが見いだしたスタイルの萌芽と捉え、それがたまたま葬送行進曲風だったと考えることができるのかもしれません。

 また、この楽章の冒頭とマーラーの別の曲との類似性を指摘する研究者もいます。

 「この葬送行進曲風のメロディと。マーラー『さうらう若人の歌』の最終楽章「彼女の青い目が」( "Die zwei blauen Augen" )との類似性に注目しよう。

Nun hab' ich ewig Leid und Grämen! 「悲しみがいま私とともにとこしえにある」

 この指摘は、いまさら事新しく解説するまでもなく明瞭である。だが、交響曲第4番終楽章と『さうらう若人の歌』終曲を融合させるというアイデアのなかに、ショスタコーヴィチが果たして何を見いだそうとしていたかはわからない。あるいはそれがどこまで政治的な文脈を含み込んでいたか(『ショスタコーヴィチ〜引き裂かれた栄光』 亀山郁夫著 p.125、及び『ショスタコーヴィチとスターリン』 ソロモン・ヴォルコフ著 p.234)。」

 亀山氏とヴォルコフが『さうらう若人の歌』のこの一節を掲げたのは、その部分の音楽がショスタコーヴィチの第3楽章冒頭の旋律と似ているからではなく、この歌曲全体の歌詞をひと言で要約するためだと思われます。或いは、ショスタコーヴィチがこの歌曲を選んだ理由がこの部分の歌詞であることを仄めかしているのかもしれません。ただ、ショスタコーヴィチの第3楽章冒頭の旋律はこのマーラーの歌曲のそれを変化発展させたものとすると、非常に説得力があることは確かです。是非聴いてみてください。


マーラーの交響曲第7番のスコア
 ポーリーン・フェアクロウは、リュドミラ・ミヘーエワの著書『Zhizn’ Dmitriya Shostakovicha』198頁からの引用として次のように書いています。

 「ショスタコーヴィチの助手I. B. フィンケルシュタインは、交響曲第4番を作曲中、ショスタコーヴィチのピアノには必ずマーラーの交響曲第7番の楽譜が置かれ、ショスタコーヴィチがその楽譜についてよく話していたと回想しています( "A Soviet Credo: Shostakovich's Fourth Symphony" by Pauline Fairclough, xvii )。」

 この7番を座右の銘としていたという記述はあちこちの文献(ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチとスターリン』 p.233 )などに見られるのですが、他に類似の話が出てこないところがやや信憑性に欠けるような気がしてなりません。フィンケルシュタインという人物もレニングラード音楽院の作曲教師という情報以外は探せていない状況で、ローレル・ファーイの著作にもその名が出てこないところも気になるところです。

 さらに言うと、この時期マーラーの譜面を所持し、それを見ながら作曲していることを公にするような危険なことを慎重なショスタコーヴィチがするのでしょうか。確かに、この時期だけでなくソヴィエト時代を通じて、マーラーの音楽が公式に演奏禁止されたことはないのですが、その複雑性や後期ロマン主義的な美学、そして形式の巨大さから、「形式主義的」、「ブルジョワ的」であると見なされていたとされていただけに、マーラーのスコアを人に見せるなんてことをするとは考えられないのです。この話しが捏造されたものとは言えないとしても、うず高く積まれた譜面の中にマーラーのスコアがまぎれていたのを見たとか、本棚にしまってあったといったことを殊更にあげつらい、ショスタコーヴィチの作曲活動をマーラーに結びつけて陥れようとしたのかもしれません。グリークマンが述べた、「ショスタコーヴィチが批判を無視して、形式主義でいっぱいの非常に複雑な作品を書いたという噂(第5章参照)」とは、まさにこのことだったのではないでしょうか。

 この章のまとめとして、ソヴィエト出身でピアニスト、指揮者として活躍してきたウラディミール・アシュケナージの言葉をご紹介します。第4番にはショスタコーヴィチが様々な状況下でどのように成長したかを示す兆候が見られますか、という問いに対する答えの中での発言です。

 「第4交響曲ではまだ自己表現には至っていません。それは、周囲の世界に対する強い関心を持つ個人の反応に過ぎません。(中略) 私にとって興味深いのは、それがチェーホフやマーラーなどに見られるような自己憐憫とは似ても似つかないということです。ショスタコーヴィチには自己憐憫は見当たりません。彼にとってそれは苦悩ではあるものの、昇華され、完全に超越されているのです。それはショスタコーヴィチ自身の悲劇ではなく、ソビエト体制の犠牲者である個人の悲劇なのです( "Shostakovich and the Soviet state - An interview with Vladimir Ashkenazy" by Ian MacDonald)。」




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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