" Schalltrichter nach aufwaerts "(ベル・アップ)
 

 
                                                Bell-up
" Schalltrichter nach aufwaerts "
 
この表記はハンス・ロットが交響曲第1番でホルンのソロのスコアに記したものです(第4楽章264小節)。直訳すると「金管のベル(朝顔、開口部)を上向きに」となります。全オーケストラによる ff の和音が止んで短いゲネラル・パウゼの後、ホルン1本でフーガが始まるところなのですが、低弦以外誰も吹いていないのですからわざわざ「ベルを上げて」と書かなくてもいいような箇所ではあります。フーガが始まるところで、一般的にフーガは1パートの独奏から始まるのが通例ですからわざわざ書くまでもないとも言えます。スコアを見るとこの" Schalltrichter " が記されたところは全曲中5箇所あります。

第2楽章120小節 【トランペット】 mit neu aufwarts gerichtetem Schalltrichter : ppppp
第4楽章115小節【ホルン】 mit gehobenem Schalltrichter: pp
第4楽章223小節【ホルン、トランペット、トロンボーン】 Die Schalltrichter nach aufwarts: fff(ホルンのみ ff
第4楽章264小節【ホルン】 Schalltrichter nach aufwarts: ff
第4楽章439小節【トランペット】 Schalltrichter aufwarts: ff(第1楽章の主題を華々しく回想するところ)


 これら表記のあるところの音量も付記しましたが、ff  や fff  といった大音量のところだけではなく、弱音のところ( p  や ppppp )にも書かれていることに気付きます。一般的にはベルをアップ、上向きにするのはより大きな音でかつ視覚的に目立たせるのが目的と考えられていますが、何故弱音の時にもベル・アップさせるのでしょうか。

 この疑問を解く鍵は、ロットが第4楽章のホルン(115小節)に対して書いた mit gehobenem(格調高く、高揚して) にあるのではないかと考えられます。この箇所は、次の小節からトランペットや弦楽器のトレモロが奏する二分音符で始まる主題を3番ホルンだけが先行して吹き始め直ぐに伴奏に回るところとなっています。しかし、「ベル・アップ」の指示が書かれているのが3番ホルンだけで、その旋律を引き継ぐトランペットには書かれていないのです。3番以外のホルンはリズムを刻んでいることもあって、わずか1小節半で3個の二分音符だけを吹く3番ホルンにはそれが重要な音符であることに気付きにくいために、他のパートよりひときわ目立って欲しいという意味で「ベル・アップ」と書き、さらに、「格調高く、高揚して」吹いて欲しいというロットの気持ちが込められているということになります。しかし、この時のダイナミクスは pp であり、そのわずか1小節半だけに文字通り「ベル・アップ」して楽器を持ち上げることをロットが意図したとは考えにくいのです。

 つまり、「ベル・アップ」と書くのは「周りより一段目立つように」という意味であって、そこには物理的に楽器を持ち上げて音量を上げて吹くということではなく、「格調高く、高揚して」といった音質に関わる何らかの表現を付加してほしいということだったと考えられるのです。この箇所は実は第2楽章を回想するところとなっていて、その第2楽章でもトランペットに対してなんと ppppp の指示がありながらの「ベル・アップ」を求めているのです(120小節)。その第2楽章では、「全パートが最弱音になっているけれどその金管パートは主役なのだからちゃんと目立ってください」、そして第4楽章で再現されるときは、「(第2楽章を思い出して同様に)より格調高く、高揚して吹いてください」ということをロットは求めたと考えられるのです。

 さらに言うと、第4楽章の最後で第1楽章の主題を華々しく回想するトランペットのところ(439小節)にも「ベル・アップ」と書かれています。これも物理的に楽器を持ち上げるということよりは、奏者に対してここは第1楽章の主題の再現であることをより強く意識させたかったと考えるのが妥当ではないでしょうか。最初に述べたホルンのフーガの開始における「ベル・アップ」という標記には ”mit gehobenem” は書かれていませんが、この「格調高く、高揚して」という意味が込められていると考えてもいいかもしれません。

 さて、この「ベル・アップ」と言えばやはりマーラーのことがすぐに頭に浮かびます。これは筆者の勝手な想像なのですが、ナターリエ・バウアー=レヒナーによるとマーラーは1900年の夏季休暇にロットの交響曲第1番の総譜を借り受けており、その時にロットが書き込んだこの「ベル・アップ」の表記を見つけ、弱音の時にも書いたロットの意図に気付き、これは使えると思ったのではないでしょうか。そして翌年の夏休みの自作の交響曲第5番の作曲のときに使い、さらに既に作曲した第5番以前の交響曲を指揮する過程で気付く度に書き込んだのではないでしょうか(もちろん、マーラーのすべての自筆譜や出版譜への書き込みの年代を調べたわけではないので、筆者の妄想に近いものです。)。この1900年の夏以降にマーラーが自作の交響曲を指揮した記録は以下のようになっています。

1900年10月20日 交響曲第2番(全曲では4回目)ミュンヘン
1900年11月18日 交響曲第1番[第3稿](第1稿含んで7回目)ウィーン
1901年10月までに交響曲第3番の補筆改訂
1901年11月25日 交響曲第4番(初演)ミュンヘン
1901年12月16日 交響曲第4番(2回目)ベルリン
1902年1月12, 19日 交響曲第4番(3回目)ウィーン
1902年6月9日 交響曲第3番(全曲初演)クレーフェルト
1903年4月2, 4日 交響曲第1番(8回目)ウクライナ、リヴィウ
( 中略 )
1904年10月19日 交響曲第5番(初演)ケルン
( 以下略 )


 この推測を裏付ける唯一の明らかな証拠は、マーラーの交響曲第1番の第1稿(1893年)と最終稿との比較に見ることができます。この曲で最初に Schalltrichter in die höbe ! が出てくる第2楽章の練習番号5〜8番(オーボエ、クラリネット、ホルン5箇所)のところや終楽章のコーダにおけるホルンや木管パート全体に対するSchalltrichter in die höbe ! の指示は、第1稿の手書きスコアには書かれていないのです。つまり、いつ書き足したかわかりませんが、少なくとも作曲した時点では「ベル・アップ」の発想はマーラーにはなかったということになります(第1稿の手書きスコアはIMSLP: The International Music Score Library Projectによる)。

 ウィーン・フィルハーモニーの指揮者になった1898年以降自作を振る機会が増えたマーラーは、スコアから作成されたパート譜の音符や音楽表記だけでは不十分と思われた箇所、例えば重要な旋律が他の楽器の音に埋もれてしまってそのパートを担当する奏者が気付かなかったり、大事な音なのに弱音という指示だからと隠れるようにこっそり吹いたりした箇所に対して、譜面にかじりついて下ばかり見ないでもっと顔を上げて吹いて欲しいと「ベル・アップ」という指示を書き足したのではないでしょうか。

 マーラーの交響曲における「ベル・アップ」の指示の数を調べると、ロットのスコアを見た直後に書かれた5番が突出して多い(40箇所)ことも、もしかしたらこの暴論を裏付ける証拠となるかもしれません(1曲につき1種類の版しか見ていないので十分と言える調査ではありませんが。)。ご存知の通り、マーラーは9番、10番、「大地の歌」を指揮することも実演を聴くこともなく亡くなっていますので、この3曲における「ベル・アップ」の指示の数が極端に少ないことは、音として鳴ってから気付いたことをそのスコアに書き足すことができなかったからという説明も成り立つかもしれません。

1番:7箇所
2番:18箇所
3番:23箇所
4番:17箇所
5番:40箇所
6番:33箇所
7番:15箇所
8番:14箇所
9番:4箇所
10番(クック版第5楽章):1箇所
大地の歌:4箇所

 マーラーは生前に自作を指揮するときに実際にオーケストラに対して、その箇所で「ベル・アップ」させたのでしょうか。今のところ、当時の記録にそういった記述は見当たらないのも気になるところです。当時よく描かれたマーラーのカリカチャーの中にも管楽器、特に木管楽器が上を向いているものを見つけることはできません。トランペットやトロンボーンはともかくオーボエやクラリネットに「ベル・アップ」しろと言われて喜んで楽器の開口部を上げて吹く奏者はいないと思われるので(上を向いた瞬間、譜面から目が離れますから「落ちる」危険があります。)、そんなことをしたらただでさえマーラーの足を引っ張ろうと手ぐすね引いて演奏会に足を運んでいた当時の音楽評論家たちは黙っていなかったのではないでしょうか。

 近年では、多くのオーケストラ金管も木管もマーラーのスコアの指示のあるところは漏らすことなく楽器を高々と持ち上げて吹くことが多いようです。客席から見ると確かに視覚的には何かやっている感はありますが、後ろの席ではわからないかもしれません。また、既に全オーケストラが絶叫に近い音量になっているところでそこに「ベル・アップ」したところでどれほどの効果が上がっているのかという疑問も沸きますが、込み入ったオーケストレーションの中で重要なテーマを担当する楽器に対して「ベル・アップ」して吹かせたいという気持ちはわからないわけではありません。

 しかし、特定のパートを目立たせるために他のパートの音量を抑えるといった各楽器の音量を調整することで全体のバランスを整えるということは、現在では日常的に指揮者が行なう作業であり、オーケストラにとって最も基本的なことでもあります。作曲家がスコアに何かその指示を書くまでもなく、マーラーが「ベル・アップ!」と叫ぶまでもないことなのです。しかし、マーラーが活躍した当時のオーケストラはマーラーが書いた複雑なオーケストレーションに対応できず、そのバランス調性が効率良くできなかったことは十分考えられます。マーラーはそれを周知させるべく「ベル・アップ」と書いたのかもしれません。「下を向いてのんびり吹かないで、ここはあんたが主役だよ!」ということだったのではないでしょうか。

 この「ベル・アップ」について、マーラーがロットに倣って自分のスコアにも書き込んだかどうかはさておくとして、マーラーがロットと同じ単語を使っている箇所があることを指摘してこの章を閉じたいと思います。“Schalltrichter”(金管のベル=朝顔、開口部)の前に記した“gehobenem”という単語です。

 ロットは第4楽章でホルンに対して mit gehobenem Schalltrichter と pp の音量で記していますが(115小節)、マーラーは交響曲第2番の第5楽章において、ホルンとトランペットに対して mit aufgehobenem Schalltrichter (5箇所)、トロンボーンに対して mit gehobenem Schalltrichter(1箇所)と指示しています。マーラーはこの “gehobenem”という単語は他の交響曲では使用していません。

 この “gehobenem” は単語だけの意味を調べると「高尚な,格調の高い」となりますが、それに “auf” を付けた “aufgehobenem” は「無効にする、取り消す、撤回する」という意味となってこの文脈からは意味をなさなくなります。“auf” は基本的には「上向きに」ですから造語の可能性もあるのでしょうか。「上を向いて格調高く」或いは「胸を張って格調高く」と訳すとなんとなく意味が通じるのですがいかがでしょうか。ドイツ語に詳しい方のご意見を拝聴したいところです。




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