終わりに
 

 
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ファースト・ヴァイオリンの独り言
 再発見されるまで106年もの間演奏されずに眠っていたハンス・ロットの交響曲第1番、今年(2014年)は初演されてまだ25年しかたっていないことになります。そんな曲を実際にステージ上で演奏することができたというのは、居酒屋での自慢話しのネタ(にはならないかぁ〜)に留まらず、長年気になっていた夭折の作曲家ロットについて調べるきっかけとなりとても幸運なことでした。とりわけこの曲で話題になるマーラーによる剽窃問題についてその可否はともかくある程度解明はできたと思っています。以下、ステージ上で考えたり感じたことを思い起こしながらロットに関するエッセーを締めくくるとします。

 最初のトランペットのテーマが静かにホールに響きわたると若くして世を去ったロットのことが脳裏に浮かんできます。しかし、そのトランペットの揺れ動くテンポに合わせながら必死に三連符、次いで四連符によるアルペッジョを演奏するうちに何時しかロットへの思慕は吹き飛び、迫り来る音符との現実的な対決に突入していきます。第1楽章は意外と早くコーダに突入し、ファースト・ヴァイオリンはなんとここで初めてこの楽章の主題を完全なかたちで演奏させてもらうことになります(こんな曲初めてですね。)。そしてコーダの締めくくりも、微妙に音符を入れ替えたながら進む四連符のよる分散和音が連続し、全く気を抜く暇を与えられないうちに楽章を閉じます。ちなみに、ファースト・ヴァイオリンに与えられた主題は19小節で、楽章中4箇所にあるアルペッジョの合計が74小節です。第1楽章268小節全体からすると主題はわずか7%、アルペッジョは驚くなかれ27.6%も占めていることになります。


第2楽章
 冒頭3小節だけミュートをつけて弾き、その後直ぐに外して最初の主題を奏します。主題の前に四分休符が2個あってその間にミュートを外すのですが、これががほとんど間に合わない。弓がダウンから(弓元から弾く)だとなんとか間に合いますが、指揮者の指示でアップから(弓先から弾く)としたためです。確かに音楽的にはそれも正解のひとつですから仕方ありません。アップからだとその四分休符2個の間にミュートを外してさらに右手を下まで戻さなければならず、しかも p で legatissimo (弱音で最上級のレガートで)という作曲者の指示に従い、その上フレーズの最初の音ですからそれなりの明晰さと勢いを保持しなければならないのです。せめてもう1個四分休符を書いてくれれば・・・。

 グチはこれくらいにして、この楽章ではホールの響きを巧みに操るロットの音符作りが光ります。チェロ・バスの動きがパイプ・オルガンの左足のペダルを思わせ、教会音楽のような奥行きのある音場が拡がっていくところは、音楽院時代教会のオルガンの響きの中で生活していたロットならではのものと言えます。実際に試したこともないフル・オーケストラという楽器を使ってどうしてこんなに美しい音楽が書けたのかなと思っているうちに(もちろん、各声部のバランスの調性や補強を行なう必要はありましたが)、フーガが始まり音楽は次第に盛り上がって頂点を迎えます。確かマーラーも緩徐楽章でこんな爆発があったことが頭をよぎったところで、個人的には全曲で最も美しいと思っている金管によるコラールが弦楽器のトレモロを従えて奏されます。ステージの上で聴くそのコラールは教会のステンドグラスからふりそそぐ光のように会場をやわらかく包み込んでいきます。師であるブルックナーをも超える瞬間と言えるでしょう。


第3楽章
 金管のファンファーレで幕を開ける第3楽章は最初は狩の音楽のようにも聴こえますが、三拍子のダンス・ミュージックとして聴いてしまうのは筆者だけでしょうか。その大上段に振りかざした序奏との間の大きな落差はやや気になりますが、そこは真剣に取り組んだロットの想いを汲んであげたいところです。笑顔を満面に湛えた若者達の躍動感溢れる踊り、そしてその周りにはテーブルに腰掛けてビールのジョッキを打ち鳴らす村人達の姿などを目に浮かべながら弾いていました。少し離れた木の下では子供たちがかわいらしく踊っていて、ふたりのヴァイオリン弾きが彩りを添えている・・・(141小節 )。

 この楽章にはヴァイオリンの Solo ではなく二人で弾く Pult solo となっている箇所が2箇所あります。オケ全体は静まっているので音量的にはひとりで十分であるところを敢えて二人にしたロットの意図はどこにあるのでしょうか。全く同じ音符を二人で弾くのは、音程のわずかな違いやポルタメントをかけたいところの微妙な感覚の違いといった面からかなり厳しいところではあります。実際 Solo で弾いている演奏もあるようです。ロットがこの曲の作曲をしていた頃、当時想いを寄せていた女性がいたとされていて、ロットはその女性とこの曲の中で手を取り合っていたと考えるのは考えすぎでしょうか。なお、これに関する資料は今のところ目にしていません。ロットの恋愛の顛末については様々な事情から公にされていないのかもしれません。

 中間部に入ってもゆったりしたテンポで同じテーマが続き、家の戸口の前で椅子に座ったお年寄りが目を細めて外を眺めている様子が窺えます。その後拍子は四分の四に変わると、そのお年寄りはまどろみ始め音楽は夢の世界へと入っていきます。この中間部はわずか46小節しかなく、610小節もある巨大な第3楽章にあってはかなり短いものと言えます。続く再現部が長大なものなので(全体の6割以上も占めている)、もしかしたらロットは再現部の出来に満足する一方全体が長すぎるので中間部を縮小したのかもしれません。この中間部から再現部への移行部は大げさすぎるくらいドラマチックに作り込まれていて、次はどんなステージかと思いきや、再現部にしては元のテーマは断片的にしか再現されず、その主題の変形したものを中心として音楽が進んでいきます。そして、舞曲の音楽の中になんとフーガまで挿入するという実験的なことをやってのけています。この万華鏡のような展開を人によっては「支離滅裂」、「一貫性、統一感の欠如」などと見做すこともあることでしょう。筆者は不思議とジーン・ケリー主演のミュージカル映画『巴里のアメリカ人』でガーシュインの音楽に乗って様々な街の人たちが入れ替わり立ち代り賑やかな踊りを繰り広げるシーンを思い起してしまいます。

 コーダへの移行部ではその変形された主題とこの楽章の序奏部の音型を組み合わせるという秀逸なつくりを見せていて、再現部への移行部も併せて考えるとロットの天才ぶりを改めて実感させられる瞬間と言えます。コーダに入るとようやく元の主題がはっきりと再現されます。再現部でその主題が出てこなかったことを考えると、伝統的なスケルツォ楽章における三部形式の枠を超えて変奏曲的なものを加味して中間にフーガを配置する独自の形式を生み出したという見方もできるかもしれません。まさに渾身の力を振り絞って作曲した楽章とも言ってもいいと思います。もしロットが長生きして交響曲第2番を書いていたら(途中まで書いて破棄されています。)どんなものになったのでしょう。

 サイモン・ラトルは全曲ではなくこの第3楽章だけを演奏していまして、YouTubeで見ることができます(ロンドン交響楽団 2022年)。交響曲のひとつの楽章を単独でコンサートに取り上げることは普通ないので、ラトルは余程この楽章が気に入ったということなのでしょう。しかし、それは逆に言えば他の楽章は演奏する気になれなかったのでしょうか?
Rott Symphony in E major, 3rd movement // London Symphony Orchestra & Sir Simon Rattle

 なお、この楽章は4回も連続して譜面めくりを工夫しないと演奏が中断してしまうとんでもない楽章でして、このパート譜はレンタルなのですが、前回使用されたオケは別紙としてコピーを挟んだりして演奏したようでその苦心の跡が窺えます。演奏中にそのコピーが譜面台から落ちたら大変ですね。


4楽章
 第4楽章に入って長い序奏の最後に奏される金管のコラールはとても素晴らしく、さらにこれに続いて主題に入るところは演奏する度に鳥肌が立つ程でした。その必然性、自然さ、意外性、劇的な場面転換という観点から最上級の作曲技法を身に着けていたと見做さざるを得ません。ここだけでなく、他の楽章でもこうした移行部の見事な仕上げ方には目を見張るものがあります。例のブラームスに似ていると言われている主題は弾いていてどうもピンと来ないところではあります。テンポの違いもありますが、音楽の持つ推進力がロットの方があるからかもしれません。また何故かティンパニがスネアのような音符をずっと背後で叩いているというのも奇異な印象を受けるところです。そのせいかどうかはわかりませんが、音楽に祝典的な雰囲気も感じられます。特に ff になって楽器が増えるとどこか英国の風が吹くようにも思えます。この間ずっと他を邪魔をしないように音量を抑えながらも変化に富んだ音符を叩き続けるティンパニには頭が下がります。この後曲想が変わって八分音符の動きの箇所に突入するとやや高貴な香りがしてきて、ヘンデルの音楽のようにも感じられます。

 これに続くフーガから最後までは音符を追いかけるのに必死で周囲を聴くどころではない状況の連続となります。途中ワーグナーの楽劇『ワルキューレ』第3幕でウォータンが怒り狂ってやってくる音楽が耳をかすめたりしますが、それを楽しむ余裕は全くありません。さらに追い打ちをかけるようにコーダの前にはまたしてもアルペッジョの悪夢が・・・。譜面の1ページ半にわたって山型と谷型の延々と続く六連符、しかも記譜のオクターヴ上を弾けという指示があってさすがにこれはアドリヴという注記があるのでオクターヴ記号は無視しましたが、それでなくても全部の音符を正確に取るのはほとんど不可能なところです(このアドリヴの注記はロットが書いたのではないでしょう。)。ファースト・ヴァイオリンは最後のページでようやく第1楽章の主題の再現する音符を弾かせてもらってクライマックスを築くのですが、そこで曲を華々しく終わらせることはせずに、さらに音楽は続いていきます。なんとここでもアルペッジョをファースト・ヴァイオリンのパート譜に書き込むロットは一体何の恨みがあるのか、いや何を考えていたのでしょうか。ファースト・ヴァイオリンとしては既視感を憶えるところでして、まるで第1楽章の冒頭に戻ったような気がしてくるのです。

 ここで思い起こされるのは、ロットがこの曲を完成した4年前にバイロイトで観て、おそらく衝撃を得たであろうワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』のことです。ご存じの通りこの作品はライン川の流れから物語が始まり、盗まれた黄金が様々な物語を巻き起こしながらも最後は再びライン川に戻るという話です。ロットがこのワーグナーの大作を交響曲で再現しようとしたと考えるのは突飛すぎるでしょうか。しかし、ロットの交響曲の冒頭と終楽章で執拗なまでに弾かれるアルペッジョが、ワーグナーの『ラインの黄金』の冒頭や『神々の黄昏』の終曲における印象的なアルペッジョの影響から書かれたものと考えるのもあり得ない話ではないのではないでしょう。弱冠20歳の若者にここまでの作品を書かれてしまったとなると、当時の他の作曲家たちにとっては、アンチ・ワーグナー派はもちろんワーグナー派であっても、たまったものではなかったことでしょう

 
最後に「たられば」の話しです。マーラーが病気を克服して死を免れハンス・ロットのこの交響曲第1番を演奏する気になったとしましょう。リハーサルを始めたマーラーは間違いなくこの曲のオーケストレーションを改訂したはずです。天才ロットといえども、経験・知識不足からくるオーケストラの取り扱いにはいくつか問題点があります。各楽器の構造からくる得意な音列、苦手な音符進行に関わる知識がないために演奏困難な箇所がかなりあります。さらには、打楽器、金管、木管、弦楽器間のバランスが非常に悪く、指揮者による可能な範囲での修正でも解決できない箇所が少なからずあるのです。筆者が弾けなかったパッセージはそのせいだということにしています。アルペッジョももう少し弾きやすくしてくれれば・・・。

 マーラーの義弟がウィーン・フィルハーモニーのコンサートマスター、アルノルト・ロゼであったことはあまり注目されていませんが、マーラーはロゼから少なくとも弦楽器についてのアドヴァイスは受けていたはずで(「ゼロ」ではなかった)、自作の交響曲のリハーサル中にその助言を得て音符を書き換えていたに違いありません。音楽院を出たばかりのロットにマーラーばりのオーケストレーションができるはずはないのですからロットの作品に改善すべき点があるのはやむを得ないことでしょう。しかし、このために演奏される機会が増えないということであれば、マーラーでなくていいので誰か改訂して欲しいものです。




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