プッチーニ:『蝶々夫人』

第9章 『蝶々さん』歌姫列伝-15
レナータ・スコット

 
                Scotto

  レナータ・スコット


レナータ・スコット( Renata Scotto : 1934年 -  2023年 )
 リグリア海に面したイタリアのサヴォーナで生まれたレナータ・スコットはミラノ音楽院で学び、1952年にコンクールで優勝するとミラノのテアトロ・ヌオーヴォで『椿姫』のヴィオレッタ役に抜擢されました。翌1953年には、ミラノ・スカラ座でカタラーニの『ラ・ワリー』のウォルター役で出演し、その時の主役だったレナータ・テバルディとマリオ・デル・モナコのカーテンコールがそれぞれ7回だったのに対して、スコットは15回のカーテンコールに呼ばれるという大成功を収めています。スコットはスカラ座でさらに多くの脇役をオファーされましたたが、イタリアの地方の歌劇場でより大きな役を演じることを優先してそれらを断ったとされています。こうして彼女は地方の歌劇場でいくつかの主役を歌うことができ、のちに彼女の当たり役となる『蝶々夫人』の蝶々さんを初めて歌ったのはわずか20歳の時でした。

 スコットは1955年2月にローマ歌劇場でマスネの『ウェルテル』のソフィーでデビューし、 1956年にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で『椿姫』のヴィオレッタ、ビゼーの『カルメン』のミカエラを演じています。彼女の大きなブレイク・スルーは1957年8月のミラノ・スカラ座のエディンバラ音楽祭公演でベッリーニの『夢遊病の女』に出演した時でした。その公演はマリア・カラスがアミーナ役でキャスティングされていて大成功を収めていました。そのため劇団は予定外の5回目の公演を追加したのですが、4回の公演契約しか結んでいなかったカラスはその出演を辞退しました。しかしカラスの同意なしに5回目の公演への出演を発表したためカラスは病気と称して音楽祭を去ることになりました。その代役としてアミーナを歌ったのがスコットでした(1957年9月3日)。わずか2日でアミーナの役をマスターし、カラスの代役を歌ったまさにその時、彼女は23歳にして国際的なオペラ・スターの座へと駆け上がったのでした。またスコットは、劇場での活動とほぼ同時期にレコード録音にも参加していたのでした。

カタラーニ作曲『ラ・ワリー』 ウォルター役 1953年
  ワリー:R・テバルディ、ハーゲンバッハ:M・デル・モナコ、スカラ座
ウェーバー作曲『魔弾の射手』 エンヒュエン役 1956年
  アガーテ:L・ジェンチェル、トリエステ
ケルビーニ作曲『メディア』 グラウチェ役 1957年9月(セッション)
  メディア:マリア・カラス、ミラノ・スカラ座
ロッシーニ作曲『セヴィリアの理髪師』 ロジーナ役 1958年10月
  
アルマヴィーヴァ伯爵:A・クラウス、フィガロ:A・プロッティ、サン・カルロ劇場
ロッシーニ作曲『結婚手形』 ファニー役 1959年(セッション)
  トビア:R・パネライ、ブレシアテア、テアトロ・グランデ
ドニゼッティ:歌劇『ランメルモールのルチア』 ルチア役 1959年(セッション)
  エドガルド:G・ディ・スティファノ、ミラノ・スカラ座
ペルゴレージ:歌劇『奥様女中』 セルピーナ役 1959年(セッション)
  ウベルト:S・ブルスカンティーニ、ブレシアテア、テアトロ・グランデ

 上のリストでは4行目からは主役を歌っています。その中の『セヴィリアの理髪師』では、アルフレッド・クラウス相手に見事なロジーナを演じていて、特にアリア『今の歌声は』では、見事な歌唱を聴かせてくれます。


 さらにスコットは、ボローニャのテアトロ・コムナーレでは1957年12月にチャイコフスキーの『スペードの女王』のリーザを、スカラ座で『愛の妙薬』のアディーナ(1957-58年)、1959年には『ラ・ボエーム』のミミ、グリンカの『皇帝に捧げた命』のアントニーダ、『カルメン』のミカエラ、『ジャンニ・スキッキ』のラウレッタ、『ヘンゼルとグレーテル』、1961年には『清教徒』のエルヴィーラ、『ファルスタッフ』のナンネッタ、『ファウスト』のマルガリータ、1962年『リゴレット』のジルダ、1963年『ランメルモールのルチア』、そして『蝶々夫人』(10公演)と立て続けに主役を歌うことになります。

 ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場へのデビューは1962年9月の『蝶々夫人』で、次いで同じ月に『ラ・ボエーム』のミミを歌い、翌1963年にも『蝶々夫人』と『マノン』、1965年3月には『椿姫』のヴィオレッタを歌っています(アルフレード:ルチアーノ・パヴァロッティ)。しかし、その後コヴェント・ガーデンでは歌っていません。

 ローマ歌劇場では1955年のデビューの後、1960年には『夢遊病の女』のアミーナ、『リゴレット』のジルダ、『ランメルモールのルチア』、リムスキー=コルサコフの『見えざる街キーテジと聖女フェヴローニヤの物語』のフェヴローニヤ、翌1961年に『ファルスタッフ』のナンネッタ、1963年には『愛の妙薬』のアディーナ、ベッリーニの『異国の女』のアライデ(1970年)、そして『蝶々夫人』は1975年に7公演歌っています。この同じシーズンで蝶々さん役をガブリエラ・トゥッチと松本美和子も歌っています。ローマ歌劇場でスコットはオペラ8作品に出演しました。ボローニャでのチャイコフスキー、スカラ座でのグリンカ、ローマでのリムスキー=コルサコフと、ロシアの作品に出演しているところが興味深いところです。

 また、そのローマ公演に先立つ1966年8月に『蝶々夫人』のレコード録音がジョン・バルビローリ指揮のローマ歌劇場管弦楽団によって行なわれています(ピンカートン:カルロ・ベルゴンツィ)。1962年と1963年にロンドンで歌い、1963年にスカラ座で10公演舞台で歌っていましたから満を持しての録音だったことになります。名盤の誉れ高いこの演奏は YouTube で聴くことができます。ジュゼッペ・ピントルノは、「スコットは、この役に求められるあらゆる声の資質と解釈の繊細さを兼ね備えた『蝶々夫人』であり、指揮や他の歌唱陣にも同様の資質が息づいています。」と評しています(ジュゼッペ・ピントルノ著『「蝶々夫人」〜プッチーニ的歌唱の理想を求めて』 )。なお、この翌年にRAIトリノ放送管弦楽団で収録された非正規のCD録音もあり、ライブ録音とされていますが、ノイズも拍手もない不思議な録音です(指揮:アルトゥーロ・バジーレ、ピンカートン:レナート・チオーニ)。この演奏も YouTube で聴くことができます。

ジョン・バルビローリ指揮ローマ歌劇場(1966年8月:セッション、ステレオ録音)
Puccini - Madama Butterfly / New master (Renata Scotto, Carlo Bergonzi - ref.rec.: Sir J.Barbirolli)

アルトゥーロ・バジーレ指揮RAIトリノ放送(1967年9月12日:ライヴ録音?)
Renato Cioni Renata Scotto Franca Mattiucci Madama Butterfly full opera (1967)



    Scotto  Scotto
       レナータ・スコットが歌う『蝶々夫人』のCD(1966年と1967年)

 
 上記の録音に先立つ1960年代前半のスコットのレコード録音は非常に多く、しかも常に当時の大スターと共演していました。そのいくつかをご紹介します。ほぼ1年に1枚のペースで録音していて、まさに破竹の勢いと言っていいのではないでしょうか。

ドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』
 G・ディ・スティファノ、ニーノ・サンツォーニョ/ミラノ・スカラ座:1959年9月
ヴェルディ作曲『リゴレット』
 A・クラウス、E・バスティアニーニ、G・ガヴァッツェーニ/フィレンツェ:1960年
プッチーニ作曲『ラ・ボエーム』
 G・ポッジ、T・ゴッビ、A・ヴォットー/フィレンツェ五月祭:1961年7月 DG
ヴェルディ作曲『椿姫』
 G・ライモンディ、A・ヴォット/ミラノ・スカラ座 1962年7月2日‐7日 DG
ヴェルディ作曲『リゴレット』
 D・F=ディースカウ、C・ベルゴンツィ、R・クーベリック/スカラ座:1964年7月 DG
プッチーニ作曲『トーランドット』
 B・ニルソン、F・コレッリ、M=プラデッリ/ローマ歌劇場:1965年6-7月 EMI


米国デビュー
 スコットの米国デビューはシカゴでした。1960年11月にシカゴ・リリック・オペラでで、『ラ・ボエーム』のミミと『カルメン』のミカエラを歌いました。その後スカラ座やローマ歌劇場への出演や上記の録音を行ないますが、1965年10月13日、再び米国に渡ってメトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』を歌いデビューを飾ります。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙には次のような評が掲載されました。

 「ニューヨークではその名こそ広く知られていたものの、実際に歌声を聴く機会のなかったイタリアの著名なソプラノ歌手、レナータ・スコットが、水曜の夜、ついにメトロポリタン・オペラにデビューを果たしました。演目は今シーズンの『蝶々夫人』の初日公演におけるタイトル・ロールです。それは喜びを分かち合うべき好機であり、会場は何よりも際立った個性を放つこの新たなアーティストに対し、惜しみない拍手と歓迎の声を送りました。

 メトロポリタン歌劇場に招聘されるには確かな歌唱力と経験が不可欠なのですが、プリマ・ドンナであるスコット嬢は、ニューヨークでの試金石とは『個性をいかに伝えるか』にあるとされるこの時代を彷彿とさせる存在と言えます。水曜日の夜、彼女はそのすべてを携えて登場しました。青山氏の演出という完成された枠組みにとらわれず、彼女が独自の解釈で蝶々さんを演じたとしても、それを気にする者はほとんどいませんでした。

 彼女の歌声は音楽的で情感に富み、哀愁や色彩、そ​​してユーモアが込められているため、オーケストラ席の最前列から最上階席(ファミリー・サークル)の最後列に至るまで、聴衆を包み込むような歌い手であり、あらゆる価格帯の席に座る聴衆にとっての『歌姫』と言えるでしょう。水曜日の夜、『ある晴れた日に』を歌い終えた彼女に対し、観客は今シーズン、あるいは昨シーズンを含めても最大級と言えるほどの盛大な喝采を送ってその思いを伝えました。スコットとニューヨークの聴衆との間には、瞬く間に愛が生まれたようです。( The New York Herald Tribune )。」

 このデビューに続けて1965-66年シーズンにスコットは『蝶々夫人』を5回歌い、翌1967年には4回歌っています。そのうちの1967年3月3日の公演に対して、『ダラス・ニュース』は次のように報じています。

 「火曜日の夜、メトロポリタン・オペラで上演された『蝶々夫人』は、旧メト時代のプロダクションを新劇場の舞台で観る初めての機会となりました。この『蝶々夫人』(舞台美術:長坂元弘)は初演から10年ほど経ちますが、ブロードウェーの旧劇場で上演されていた時よりも、リンカーン・センターでの今回の方が、むしろ生き生きとして状態も良く見えました。(中略) 蝶々さんの家は依然として魅力を保っていましたが、その背後の木々は相変わらず表面がしわくちゃで、照明の当たり方も適切ではありませんでした(新劇場であろうとなかろうと、変わらないものはあるようです)。

 火曜日の『蝶々夫人』と昨シーズンのそれとの間で際立って違っていたのは、新メトの素晴らしい音響(相変わらず驚異的でもありますが)のおかげで、歌声が見事な輝きを放っていたという点です。昨シーズンに続き、火曜日の公演でも主役を務めたのはソプラノ歌手のレナータ・スコットでした。彼女の歌声はより豊かに響き、無理なく伸びやかに発せられているように感じられ、聴き手は、いわば彼女の発声のメカニズムそのものを感じ取ることができるほどでした。

 この日の彼女の歌声は並外れて素晴らしく、輝きに満ち、聴き手の心に深く訴えかけるものでした。彼女が演じる蝶々さんは現代のオペラ界における最高傑作のひとつであり続けています。その演技はより洗練され、胸を打つ切なさが増していました(実際、上演中に何度もハンカチに手を伸ばさざるを得なかったことを、私たちは恥じるものではありません)。

 近年の上演を振り返っても(過去15年間、マリア・カラスを除くこの役の著名な歌い手は皆聴いてきましたが)、ピンカートンがいかに卑劣な男であるかをこれほど痛烈に感じさせた蝶々さんはいません。スコットは様々な形でそれを成し遂げていました。夫の帰還を疑うスズキに対して彼への信頼を情熱的に再確認する場面、ヤマドリの求婚を誇り高く拒絶する場面、そして何よりもシャープレスとの手紙の場面で見せた愛に満ちた高揚感あふれる表現においてです。

 スコットは、体格的に威圧感を与えるような女性ではありません。小柄で、丸みを帯びた顔立ちをしています。しかし、そうした容姿が、表情豊かな手さばきと相まって、東洋の娘の感動的な姿を創り出していました。彼女は、おどおどと恥じらう花嫁から、気高く毅然とした女性へと成長していく様を、私たちの目の前で描き出したのです。それは真実に裏打ちされた、劇的な名演でした(The Dallas News)。」


レパートリーの拡大
 スコットは1965年から1987年までの間、メトロポリタン歌劇場で315回舞台に上がり、そのうち『蝶々夫人』 を38回歌いました。この回数は、ジェラルディン・ファーラー、リチア・アルバネーゼ、ドロシー・カーステンに次ぐ4番目の記録となります。しかし、この回数は彼女にとってどちらかというと不本意なことと言えるのかもしれません。スコットはメトロポリタン歌劇場の伝説的な総支配人ルドルフ・ビングの時に『蝶々夫人』でデビューをして彼から高く評価されたのでしたが、スコットは自身の自伝の中でこの時期を「ビングの束縛(The Bing Bondage)」という章題で振り返っています。 ビングはスコットに特定の限られた役割、例えば『蝶々夫人』や『ランメルモールのルチア』ばかりを求め、ヴェルディの後期作品などのよりドラマチックな役柄への挑戦は拒否されていたのでした。彼女は自分の声の低音化が進むにつれ、新たな役柄が必要だったのです。ついには、『ニューヨーク・タイムズ』紙にその不満を公然と表明し、既存の契約は履行したものの、新たな契約は一切結ばないというところまでいきました。
*スコットがデビューした1965年は、メトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』を歌い分けていたリチア・アルバネーゼとドロシー・カーステンのうちアルバネーゼが最後の『蝶々夫人』を歌った年であり、ビングとしてはスコットのその後継者にしたかったのだと考えられます。

 しかしその後ビングが退団し、1972年にジェームズ・レヴァインが首席指揮者に就任すると、スコットはメトロポリタン歌劇場に呼び戻され、彼女が望んでいた『トスカ』、『マノン・レスコー』、『トロヴァトーレ』、『マクベス』、『ルイザ・ミラー』、『ドン・カルロ』、『オテロ』など数々の新しい役柄を演じるようになり、その後15年間、同劇場の女王として君臨することになります。ただ、スコットは劇場を去ったわけではなく、1969年は丸一年出演していませんが(元々契約していなかった?)、ゴタゴタのあった1970年(4回)、1971年(6回)と少ないながら既存契約の分で出演はしていました。1972年になると出演回数が急増していますので(19回)、そこで新たに契約を結びなおしたと考えられます。

 スコットは自伝の中で、「自分の見た目が嫌でした。要するに、太っていたのよ!」と書いていましたが、ある時から彼女はダイエットを始め好物のパスタ料理を断ちます。そうしてスリムで魅力的な姿になり、その外見の変化と並行して、彼女の声は深みを増して力強さと音色の幅が広がるようになったとされています。こうしてメトロポリタン歌劇場での役柄は叙情的なソプラノからドラマティックなソプラノへと進化を遂げたのでした。

 しかしスコットは『蝶々夫人』 をその後も歌い続けています。メトロポリタン歌劇場でプッチーニの作品では『蝶々夫人』 の38回をはじめ、『ラ・ボエーム』39回、『マノン・レスコー』17回、『トスカ』9回、『三部作』を14回歌い、ヴェルディの『マクベス』24回、『ドン・カルロ』15回、『イル・トロヴァトーレ』16回、『シチリアの夕べの祈り』10回、『ルイザ・ミラー』5回、『椿姫』4回、『リゴレット』4回、『オテロ』4回を歌っています。さらに、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』21回、『愛の妙薬』8回、ベッリーニの『ノルマ』14回、『夢遊病の女』7回、チレアの『アドリアーナ・ルクヴルール』12回などと様々な役を歌っています。また、めずらしい作品のザンドナイの『フランチェスカ・ダ・リミニ』を22回も歌い、モーツァルトの『皇帝ティートの慈悲』7回でヴィッテリアを役の創出も行ない、さらには『ラ・ボエーム』ではミミとムゼッタの両方の役も演じ(もちろん別々の公演ですが)、『三部作』では、『外套』のジョルジェッタ、『修道女アンジェリカ』のアンジェリカ、『ジャンニ・スキッキ』のラウレッタの三役を一晩で歌い上げ、『ニューヨーク・タイムズ』紙に「アリア『母もなく(Senza mamma)』の歌唱後には、聴衆が深い感動に打たれて拍手をするのも忘れるほど、会場を静まり返らせ、釘付けにしていました」と書かせるほどでした。

 スコットはメトロポリタン歌劇場にデビューした2週間後の1965年10月29日にシカゴ・リリック・オペラで『蝶々夫人』を歌っています(5公演)。その後1965年に『リゴレット』のジルダを、1980年に『仮面舞踏会』のアメーリア、1983年に『マノン』、1988年に『トスカ』を歌いました。また、サンフランシスコ歌劇場では、1974年に『蝶々夫人』(5公演)でデビューすると、1975年に『イル・トロヴァトーレ』のレオノーラ、1977年に『アドリアーナ・ルクヴルール』、1979年に『ラ・ジョコンダ』、1985年に『ウェルテル』のシャーロットを歌っています。米国では『蝶々夫人』が彼女の名刺代わりだったということがわかります。この1974年のサンフランシスコ歌劇場における『蝶々夫人』の録音は YouTube で聴けます。ピンカートンはホセ・カレーラスでした(1974年10月18日)。
Madama Butterfly - SFO 1974 (Upgraded Sound)
  
 
ヨーロッパでのスコット 
 メトロポリタン歌劇場での出演が増えた1960年代後半以降、スコットはミラノ・スカラ座にも出演を続けていました。1966-7年には『カプレーティとモンテッキ』のジュリエッタ(1968、1976年)、翌1967年には『ランメルモールのルチア』、1969年にグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』を歌っています。スコットは1976年までにオペラ16作品に出演しましたが、1962年にレコード録音をしたにもかかわらずこのスカラ座の舞台で『椿姫』は歌いませんでした。また、ボローニャのテアトロ・コムナーレでは1969年1月に『ランメルモールのルチア』、を歌っています。イタリア以外では、ウィーン国立歌劇場において、1958年に『リゴレット』のジルダでデビューしていますが、その後暫く間があいて1970年に『蝶々夫人』と『リゴレット』、1980年に『ノルマ』、1983年に『トスカ』と計14回出演しています。
  
 スコットのレコード録音は1960年代後半以降も枚挙に暇がないほど多数あり、プッチーニ、ヴェルディ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ジョルダーノ、チレア、レオンカヴァレロ、マスカーニ等、イタリアの主要作曲家のオペラを網羅しています。そのうち、正規に2回録音しているのは『ラ・ボエーム』、『蝶々夫人』、『リゴレット』、『椿姫』です。2回目の『蝶々夫人』は下記のステレオ録音です。
* スコットの録音は、非正規盤も含めると135、うちセション録音は56のオペラ全曲(又は20分以上の抜粋盤)があるとのことです( OperaDIS )。
 
 
ロリン・マゼール指揮フィルハーモニア管弦楽団(
1978年2-3月、6月:セッション録音)

Scotto Scotto
     左:マゼール指揮の『蝶々夫人』のCD(ピンカートン:プラシド・ドミンゴ1978年)
    右:メトロポリタン歌劇場の舞台(1986年、右:スコット、ニューヨーク・タイムズより
)


 スコットは、イタリアのヴェローナ・アレーナには1961年に『カルメン』 のミカエラ役でデビューして以来(カルメン:ジュリエッタ・シミオナート、ホセ:フランコ・コレッリ)頻繁に出演しています。1964年には『ラ・ボエーム』のミミを歌い、翌1965年には『椿姫』のヴィオレッタ、1966年に『リゴレット』のジルダ、1968年『ランメルモールのルチア』と毎年のように参加していました。1970年には再び『椿姫』のヴィオレッタ(アルフレード:カルロ・ベルゴンツィ)を歌い、さらに1973年には『ラ・ボエーム』のミミを歌い(ロドルフォ:ルチアーノ・パヴァロッティ)、ヴェルディの『レクイエム』も歌っています。1987年8月28日の『蝶々夫人』の公演の映像が YouTube にアップされています。音声は十分録りきれていないところもありますがスコットの洗練された演技をしっかり観ることができます。なお、この公演の演出も彼女が手がけていて、演出家としてイタリア・デビューを飾っています。
PUCCINI - MADAMA BUTTERFLY - (SCOTTO, MALAGNINI, TAGLIASACCHI, NOLI) KIKUCHI - VERONA 28.08.1987                       
                
        

演出家レナータ・スコット
 1986年9月27日、メトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』で蝶々さんを歌ったスコットは、その日演出家としてデビューをしています。「プロダクション」はこれまで通り青山圭男、「デザイン」は長坂基弘でしたが、「ステージ・ディレクター」のところに彼女の名前がクレジットされています。この日の公演に対して、『ニューヨーク・タイムズ』紙は「スコット、『蝶々夫人』で二役を演じる」という題で次のように書いています(1986年9月29日付)。

 「レナータ・スコットは土曜日の夜、『蝶々夫人』のタイトルロールを歌うだけでなく、同公演の演出も手掛けるという離れ業をやってのけ、メトロポリタン歌劇場の歴史にその名を刻みました。プッチーニが描く、残酷な運命に翻弄されるヒロインを演じた彼女の歌唱は、長いキャリアの晩年にあるこのソプラノ歌手にお馴染みのパターンをなぞるものでした。つまり、演技は情熱的かつ巧みである一方、歌唱にはムラがあり、時に聴いていて痛々しいほど不安定になるというものです。もっとも、この記念すべき夜の彼女の声は、現在の彼女としては最良の状態にありました。軽やかなリリックなパッセージで、極端に幅の広いヴィブラートを制御できている時には、十分に心地よい響きを聴かせてくれたのです。しかし、ドラマチックな表現が求められる場面、例えば「ある晴れた日に(Un bel di, vedremo)」のフォルティッシモで終わる結尾部などでは、声が硬質になり、時に不快な響きを帯びることもありました。とはいえ、多くの熟練したベテラン歌手がそうであるように、彼女もまた、純粋な歌唱技術そのものよりも、ドラマの機微へと聴衆の注意を向ける術を心得ていました。

 しかし、この夜の最大の関心事は、スコットの演出家としてのデビューにありました。これは、メトロポリタン歌劇場が彼女の長年にわたる献身的な貢献に対してこの仕事を任せることで報いようとしたものと見られます。メトロポリタン歌劇場で歌手が演出を手がけた例は彼女が初めてではありません(過去にはレジーナ・レズニックが『カルメン』、ティート・ゴッビが『トスカ』、グラツィエッラ・シュッティが『コジ・ファン・トゥッテ』を演出しています)。しかし、自ら主演する作品の演出を任されたのは彼女が初めてのことです。今シーズンの『蝶々夫人』は大きなトラブルもなく幕を閉じましたが、それでもなお、こうした試みは推奨すべきものではないでしょう。少なくとも言えるのは、演出家としての彼女と主演歌手としての彼女の間に、意見の食い違いはなかったということです。

 全体として、スコットの演出は慎重かつ伝統を重んじたものでした。『蝶々夫人』の伝統的な解釈を大きく逸脱することはないものの、作品を歪めるようなことも決してありませんでした。メトロポリタン歌劇場がリンカーン・センターへ移転する以前の看板演目の一つであったこのプロダクションは、1958年に青山圭男が演出を手がけたものに遡る。その後、舞台装置は簡素化され、いくぶん簡略化されてきた(例えば、蝶々さんの家の愛らしい魚の形をしたクッションは、とうの昔になくなっている)。日本人という設定の男性たちの多くが、驚くほど西洋風の髪型をしていたことなどがその例です。子供の「トラブル」に至っては、黒髪の蝶々さんと、同じく黒髪のピンカートン(ヴァシーレ・モルドヴェアヌ)から生まれたという設定を考えると信じがたいほど金髪でした。

 今回の公演にあたり、スコットはスカラ座から蝶々夫人の衣裳を借り受け、死の場面の演出については主にマリア・カラスの解釈を取り入れていましたが、そのいずれもが効果的でした。ゴロー(チャールズ・アンソニー)を脅すのに使った短刀をスコットが見つめるその眼差しには、やがて自らの命を絶つためにその刃を突き立てることになる運命が予兆されており、これは『トスカ』でテーブルナイフを見つけた際のカラスの名演を彷彿とさせていました。スコット演じる蝶々さんは、台本がそれとなく示唆するような衝立の陰ではなく、カラスのスタイルに倣って黒髪をほどいて腰まで垂らした姿で、フットライトに向かって舞台の前面で自害します。自害の際、子供の「トラブル」(アレクサンダー・マイヤーズ)はスズキ(クラウディア・カターニア)に連れ出されていて部屋にはいません。幕が下りるのと同時に父親に連れられて戻ってきますが、ピンカートンが「蝶々さん!蝶々さん!蝶々さん!」と最後の叫びを上げる中、家屋の外に立つ二人の姿がシルエットとして浮かび上がるのでした。(中略) 演出家からこれといった見せ場を与えられなかったケイト・ピンカートン役のダイアン・ケスリングは、その指示通り彫像のようにただそこに佇んでいるのみでした( The New York Times )。」

 また、この日の演出ではありませんが、その5回後の公演(蝶々さん:渡辺葉子)に対して『ヴィレッジ・ヴォイス』紙(1986年10月付)は次のような評を書いています。

 「『蝶々夫人』の演出が再考されました。かつてこの表題役の最高の歌い手のひとりであったスコットは、今シーズン同役を歌うだけでなく、1958年の青山圭男による古典的な演出を再構築し、メトロポリタン・オペラでの演出家デビューも果たしました。(中略) ニューヨークの聴衆は、プッチーニのヒロインとして初登場の渡辺葉子の歌を聴きました。彼女の銀色に輝くような美声は、わずかな震えによって揺らぎかねない危うさもありましたが、それでもスコットの全盛期以来、この地で聴かれた中では最も美しく歌われた蝶々さんでしたた。(中略) スコットの新しい演出は、物語の整合性を保つために不可欠な細部を忠実に踏襲していました。また、蝶々さんが自害の際に白い衣装に着替え、歌舞伎の悲劇的なクライマックスさながらに黒髪をほどくという演出上の工夫は、ともすれば壮大さに欠けがちなこのオペラに、威厳と重厚さを加えていました( The Village Voice )。」 

 レナータ・スコットは、演出家としてデビューをした公演の翌年、1987年10月28日の『蝶々夫人』で蝶々さんを歌ったのがメトロポリタン歌劇場の最後の出演となりました。その後演出家として手がけたのは、1987年のヴェローナ・アレーナでの『蝶々夫人』の他、ベッリーニの『海賊』(カターニア、ベッリーニアーノ音楽祭、1993年)と『夢遊病の女』(カターニア、1994年)、『椿姫』(ニューヨーク・シティ・オペラ、1995年)のテレビ放送、『ノルマ』(フィンランド国立歌劇場)、『アドリアーナ・ルクヴルール』(サンティアゴ、2002年)、『ランメルモールのルチア』(テッサロニキ音楽ホール、2004年)、『ラ・ワリー』(ダラス・オペラ、ベルン劇場)などがあります。また、シカゴ・リリック・オペラで『ラ・ボエーム』(2007年)と『仮面舞踏会』(2010年)の演出も行なっています。 
 
 日本でのオペラ出演は、第5次イタリア歌劇団(1967年)と第7次イタリア歌劇団(1973年)の3公演で、『ランメルモールのルチア』(エドガルド卿:カルロ・ベルゴンツィ、1967年)、『ファウスト』のマルグリート(ファウスト:アルフレード・クラウス、メフィストフェレス:ニコライ・ギャウロフ、1973年)と、『椿姫』のヴィオレッタ(アルフレード:ホセ・カレーラス、1973年)を歌っています。

 
 
 

*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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