プッチーニ:『蝶々夫人』

第9章 『蝶々さん』歌姫列伝-16
大正ロマン時代の日本人歌手たち

 
                M-Butterfly

 

世界を駆け巡った日本の蝶々さん
 蝶々さんを歌った日本人のパイオニア的存在として三浦環が真っ先に挙げられると思いますが、それに続けとばかりに多くの「なでしこ蝶々さん」たちが海外へと羽ばたいていきました。ここでは、この時代に海外に足跡を残した日本人の蝶々さんたちをご紹介したいと思います。


★ 原 信子( 1893年 -  1979年 )

                 Hara

  ローマ歌劇場出演当時の原信子( Teatro dell'Opera di Romaより )

浅草オペラから海外へ
 原信子は團伊玖磨の『夕鶴』(1952年)の初演者としてその名を残しているソプラノ歌手です(初演は大谷洌子とのダブルキャストでした。)。青森県八戸市に生まれた原信子は上京した後、1903年(明治36年)から三浦環に師事しています。東京音楽学校器楽科に入学し、その後声楽科に移っています。しかし、帝国劇場歌劇部の女王と称された三浦)環の後を追って、同校を中退して帝国劇場歌劇部に入団します。ハンカ・ペツォールトやイタリア人テノール歌手でプッチーニと親交があったアドルフォ・サルコリに師事して声楽を修めたの後、20歳の時に上海のヴィクトリア劇場で『蝶々夫人』を歌って歌手デビューをしています。1917年、原信子歌劇団を結成して浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、田谷力三、高田雅夫、藤原義江らとともに、いわゆる浅草オペラの一時代を築いています。しばらくは浅草オペラで中心的存在として大活躍していましたが、1919年(大正8年)に突然の引退を表明し、翌年には本格オペラを学ぶため米国に渡り、マンハッタン・オペラに出演して『蝶々夫人』を歌っています。若き大正女性の逞しさには敬服せざるを得ません。この時の原の歌唱について、『ニューヨーク・タイムズ』紙(1920年10月9日付)は次のような記事を書いています。

 「昨夜マンハッタン劇場で上演された『蝶々夫人』は ”立ち見席のみ” で、数百人が劇場内に入れず外に取り残されました。プッチーニ=ベラスコ作のヒロインを演じた数人の日本人の中で最年少の東京出身の原信子嬢は、近年の西洋音楽の普及を象徴する存在として何度もカーテンコールで繰り返される喝采で迎えられました。彼女のすらりとした優雅さ、真の東洋人らしい足取りと立ち姿、そして物悲しく未熟ながらも美しい高音を持つ歌声は、観客の心を掴んだのでした( The New York Times )。」

 なお、この「数人の日本人の中で」とは1915年にこのオペラを歌った三浦環をさしますが「数人」ではなくひとりだと思われます。またこの時代、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で蝶々さんを歌っていたのはジェラルディン・ファーラーとエミー・デスティンの二人でした。


ミラノ・スカラ座専属、ローマ歌劇場デビュー
 原信子はその後、カナダを経由してイタリアに留学し、そこでサルヴァトーレ・コットーネに師事します。コットーネはボーカル録音のピアノ伴奏者として活動していて、1902年のエンリコ・カルーソーの最初の録音におけるピアノ伴奏者として知られた人物です。また原信子は、この頃イタリアでプッチーニやマスカーニの知遇を得ています。1928年(昭和3年)、日本人として初めてミラノ・スカラ座の専属となり、 1928年(昭和3年)から1933年(昭和8年)までの5年間にわたり、プッチーニやトスカニーニの指導を受けたとされています。なお、この時代の公演記録はミラノ・スカラ座のアーカイヴには載っていなので具体的にどの曲をここで歌っていたかは不明です。

 しかし、ローマ歌劇場には出演記録が残っていて、1923-24年シーズンに9回『蝶々夫人』を歌っています。なお、その2年前に三浦環が蝶々さんを歌ったばかりでした。原信子はニューヨーク、ローマとで三浦環の後ろ姿を追いかけていたということになります。また時期は不明ですが、原信子の録音が残っていて YouTube で聴くことができます。アリア「ある晴れた日に(Un bel di vedremo)」と「小さな神さま!(piccolo Iddio!)」です。オーケストラ伴奏です。
RARE !! NOBUKO HARA (1893-1971) sings Madama Butterfly



★ 喜波貞子( 1902年 -  1983年 )

                 Kiwa

  喜波貞子( YouTube より)

横浜からミラノへ
 喜波貞子(レティア・ヤコバ・ヴィルヘルミナ・クリンゲン Letizia Jakoba Wilhelmina Klingen の芸名)は横浜でオランダ人官僚のヘルマヌス・クリンゲンと仕立て屋のツル・アントニア・クリンゲンの娘として生まれた日系オランダ人のオペラ歌手です。母方の祖母山口きわは日本人で、「喜波」の芸名は祖母の名前から貰ったそうです。母アントニオ・つる・クリンゲンは後に洋装店を立ち上げ、皇室関係者とも親しく、大正天皇の皇后のローブ・デコルテなども作っていました。しかも幼い頃からオペラ歌手に憧れ、アドルフォ・サルコリに師事したこともあったとのことです。つまり前掲の原信子とは姉妹弟子ということになります。

 喜波貞子は、1920年17歳の時にオペラ歌手を目指して渡欧し、ミラノでスカラ座の声楽教師に師事します。1922年にリスボンのサン・カルルシュ国立劇場において『蝶々夫人』でデビューし、その後ミラノ、パリ、ローマ、ウィーン、ジュネーブ、ワルシャワ、クラクフ、ポズナン 等、欧州各地で公演しました。喜波は、母から送ってもらった皇室御下賜品をはじめとする一級品の日本製の和服や小物を身につけて歌い、常に日本人として毅然とふるまい、日本文化を正しく伝えたとされています。1931年に700回公演、1938年にヘルシンキで1,000回公演 を開き、1953年ベルギーでの最後の舞台までほぼ2,000回の『蝶々夫人』のプリマドンナとして「日本人」を演じたのでした。なお、ミラノ・スカラ座のアーカイヴにこの時代の情報は載っていないので、彼女が出演したかどうかはわかりません。


ウィーン国立歌劇場とローマ歌劇場に出演
 ウィーン国立歌劇場のアーカイヴによると、喜波貞子は『蝶々夫人』を1929年4月11日と15日、1937年2月4日の3回歌い、ローマ歌劇場でも、1939年1月28日、2月2日と5日の3回『蝶々夫人』を歌っています。なお、このローマ歌劇場の同じシーズンにはリチア・アルバネーゼ、翌シーズンにはトティ・ ダル・モンテ、ロゼッタ・パンパニーニらが主役を歌っていました。世界トップクラスの蝶々さん歌いと肩を並べていたということになります。喜波貞子の歌声は YouTube で聴くことができます。
Teiko Kiwa - Butterfly - Puccini.




★ ヒジ・コイケ(小池壽子)( 1902年 -  1991年 )
 

                              Koike 
           ヒジ・コイケ ( University of Washington Libraries より )

東京の下町から海を渡った少女
 「戦前のアメリカで最も著名で才能豊かな日系人のひとりに、サン・カルロ・カンパニーの看板歌手として活躍した小柄なソプラノ歌手、小池壽子がいます。彼女の名声にもかかわらず、舞台裏での私生活に関する確かな情報は驚くほど少ないのです。」と、グレッグ・ロビンソンは Nichi Bei News に書いています( THE GREAT UNKNOWN AND THE UNKNOWN GREAT: Hizi Koyke: Dramatic soprano by Greg Robinson グレッグ・ロビンソン著、2019年9月12日)。ここでは、ロビンソンの記事を抜粋しながら小池壽子についてご紹介したいと思います。なお、米国での彼女の芸名は「 Hizi Koyke 」でした。

 小池壽子は1902年、ガラス製造業者の娘として東京に生まれました。後に彼女自身が語ったところによると、小池壽子は若い頃は歌に熱心ではなかったとのことです。彼女は出産時に母を亡くしていたこともありミッションスクールで育てられました。その後彼女は裕福な宣教師に連れられて渡米し、アメリカ人医師とその妻に養子として引き取られました。夫妻は彼女をカナダに連れて行き、その後1923年にニューヨークに移住します。その時、小池は話し声を改善する目的でボイストレーニングを受けようと、近所のボイスコーチであるエディス・マギーに相談しました。小池は後に、自身のアーティストとしての成長はマギーのおかげだと語っています。指導を行う中で、マギーは小池の歌の才能を見出し、その一方で、小池は音楽に情熱を注ぐようになり、メトロポリタン歌劇場に熱心に通う人物として知られるようになりました。マギーは小池の養父母に対し、彼女にソプラノ歌手としての道を歩ませるよう勧めたのでした。


ニューヨーク・デビューと『蝶々夫人』
 サン・カルロ・オペラ・カンパニーの『蝶々夫人』で主役を務めていた女優が引退することになった際、小池は友人の紹介でオーディションを受け、採用されることになりました。ほどなくして、『蝶々夫人』の蝶々さんを演じるようになり、この役は彼女の代名詞となっていきます。このサン・カルロ・オペラ・カンパニーは、イタリア系移民のフォーチュン・ガロが設立・運営したこの劇団は、大衆向けのオペラを上演していました。他の劇団に比べて低価格なチケットや比較的大きな劇場、短期の公演期間、そして毎年の全国ツアーといった特徴を持ち、コンスタントに黒字を計上していたオペラ・カンパニーでした。彼女のプロとしてのデビューの時期や場所については諸説ありますが、ある資料によれば、シカゴで上演されたギルバート&サリヴァンのオペレッタ『ミカド』がその舞台だったとされています。小池は1927年には、『蝶々夫人』の主役に起用され、それによって、2年前に同劇団で同役を歌った著名な日本人ソプラノ歌手、三浦環の跡を継ぐことになったのでした。

 1927年11月、小池はガロ劇場(現在のStudio 54)で、同劇団の『蝶々夫人』公演でニューヨーク・デビューを飾りました。この日は、このオペラの原作者のデヴィッド・ベラスコが招待されていましたが開幕時は姿を見せなかったとされています。この時の『ニューヨーク・タイムズ』紙には次のような評が掲載されました(1927年11月10日付)。

 「日本人ソプラノ歌手、ヒジ・コイケがデビュー公演で絶賛。サン・カルロ・カンパニーの公演で、ヒジ・コイケは『蝶々夫人』を情感豊かに歌い上げる。 ---- プッチーニの『蝶々夫人』で、舞台奥から登場する際に、舞台照明の向こうの深淵に響くオーケストラの音から、どの音程もずれることなく歌い上げることに成功した国際的なオペラ歌手はどれほどいたでしょうか?昨晩、ガロ劇場でサン・カルロ楽団に初登場したヒジ・コイケは、まさに音楽的な奇跡とも言える歌唱を披露しました。そして、ロマンチックな第1幕の終わりには、彼女は恋人であるアメリカ海軍中尉ジュゼッペ・バルソッティの腕の中に身を預け、若々しくも美しい歌声で二重唱を披露しました。その歌声は、満員の観客の心を捉え、彼らをこの日本人花嫁の可憐な草履姿の足元へと惹きつけたのでした。

 かつては当地で学ぶ学生であり、2年前にはメトロポリタン歌劇場の公演に足繁く通っていたコイケ嬢は、その間に西洋的な発声を身につけた歌手へと変貌を遂げていました。姿を見せずに歌われた見事なアリアでその登場が予告された後、実際に絹の着物姿で現れた彼女の姿は、観客に驚きと喜びを与えました。茶目っ気があり、かつエキゾチックな東洋の魅力を漂わせる彼女は、舞台というものを熟知しており、身のこなしや仕草といった自国の伝統芸を完璧に体現していたのでした( The New York Times )。」


全米各地へ
 小池壽子は「蝶々夫人」での成功により、その後数年間、サン・カルロ・カンパニーの他、フィラデルフィア・グランド・オペラ・カンパニー、デトロイト・シビック・オペラ、セントルイス・グランド・オペラ、シカゴ・シビック・オペラなどで同役を何度も歌うことになりました。マスカーニの日本オペラ『イリス』(1930年、シンシナティ動物園の夏季オペラ)など、他の作品の公演やリサイタル(ニューヨークのバルビゾン、コロンビア大学など)にも出演しています。

 1929年の世界恐慌から暫くの間、ニューヨークのエンターテイメント界はどこも苦境に立たされていましたが、1931年5月、小池はニューヨークのシビック・ライト・オペラ・カンパニーと共にギルバートとサリバンの『ミカド』をブロードウェイで歌った後、カンパニーのツアーに同行してワシントンD.C.のナショナル・シアターなどで公演を行っています(翌1932年と1933年もツアーに参加しています。)。さらに1931年10月、彼女は同じカンパニーで、シドニー・ジョーンズ作曲のミュージカル・コメディ『ザ・ゲイシャ』でも主演を演じています。次いで1932年にはニューヨークのニュー・アムステルダム劇場でサン・カルロ・カンパニーによる『蝶々夫人』の新プロダクションでも歌うなど、精力的に活動を続けたのでした。

 1934年、小池はニューヨークのヒッポドローム劇場で約6,000人もの観客の前で『蝶々夫人』を歌っています。小池は役柄に魅力的な心理的アプローチを展開し、その演技は多くの称賛を得ました。特に、最終シーンの前に長い髪を下ろすという大胆な演出は印象的だったとされています。こうした小池の活動の中、サンフランシスコの日系アメリカ人向け新聞、『Shin Sekai Nichinichi Shinbun(新世界日日新聞)』に彼女の写真と出演の告知が掲載されていました。

 「”史上最高の蝶々夫人”と、演出家のフォーチュン・ガロは小柄なヒジ・コイケを評した。彼女は来月、サンフランシスコ歌劇場でプッチーニの『蝶々夫人』のタイトルロールを演じる予定だ(新世界日日新聞:1935年1月27日付)。」

 ガロは主催するオペラ・カンパニーの経営者ですから、「史上最高の」と言うのは当然ですが、この短い記事を見た読者は偉い音楽評論家と思ってしまいますね。彼女が歌うことで多くの日系人たちはどんなにか彼女を誇りに思ったことでしょう。なお、この日系人向けの新聞は「小池壽子」をその芸名で「 Hizi Koike 」とタイプしていますが、米国の新聞社やオペラハウスなどではすべて「 Hizi Koyke 」としています。

 彼女はこのサンフランシスコ公演を皮切りに西海岸でも活躍の場を広げ、1937年には、ハリウッド・ボウルで約2万4000人の観客の前で『蝶々夫人』を歌っています。また同年、彼女は劇団と共に、サンフランシスコのチャイナタウンを舞台にしたフランコ・レオーニの短編オペラ『オラコロ(神託)』で主役を務めています。小池はこれらのツアー中に西海岸の日系アメリカ人コミュニティと交流し、カリフォルニア生まれの日系二世の歌手トミコ・カナザワを見出し、自分の自称「弟子」としています。


         Koike         Koike
             ヒジ・コイケ ( 右は Cincinnati Zoo Opera )


『ニューヨーク・タイムズ』紙が絶賛
 1938年9月、小池はニューヨークのセンター・シアターでサン・カルロ・カンパニーによる『蝶々夫人』を歌っています。その時の記事が『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載されています(1938年9月17日付)。

 「昨夜、センター・シアターにて、サン・カルロ・オペラ・カンパニーの同劇場における今シーズンの第2弾として、プッチーニの『蝶々夫人』が上演されました。日本人ソプラノ歌手ヒジ・コイケを主役に据えたこの公演は、温かい拍手を送る大勢の観客を夢中にさせるに十分な雰囲気と躍動感に満ちていました。

 コイケ嬢はここ数年、蝶々さん役を幾度となく歌っており、その役柄に求められる表現は彼女にとってすでに身体に染み付いたものとなっています。彼女の演技は繊細な感性に基づき、光と影の対比が見事に表現されていました。物語の穏やかな場面においても、また悲哀や痛切な感情が溢れる場面においても、その表現力は等しく効果的でした。何よりも特筆すべきは、そのシンプルかつ繊細なアプローチでした。西洋の歌手がこの役を演じる際、日本らしさを出そうとして陥りがちな、過剰な身振りや小刻みな歩き方(ちょこちょことした動き)に頼ることは一切ありませんでした。コイケ嬢は確かな歌唱力と実力を発揮し、この夜の公演において真に重要な貢献を果たしました。( The New York Times )。」

 第二次世界大戦中、日本を舞台にした演劇等の上演は非愛国的とみなされたため、小池は演奏活動を中止せざるを得ない状況にありました。FBIの監視下に置かれましたが、強制収容所には送られませんでした。この頃彼女は米国への帰化を申請したとされています。戦争終結後には小池は活動を再開し、1946年5月、センター・シアターでサン・カルロ・カンパニーと共に蝶々さん役で復帰し、その後シンシナティ夏季オペラでも同役を演じています。同じ5月、ニューヨークのロックフェラー・センター・シアターで小池は『蝶々夫人』を歌いました。幕が下りると、劇場を埋め尽くした3,500人もの観客全員が、小池の偉大な芸術に敬意を表して、一斉に立ち上がったとされています。

 翌年1947年、センター・シアターでもう1シーズンの歌った後、彼女は全国ツアーも再開し、シカゴでは若きリチャード・タッカーが歌うピンカートン役の相手をし、その後西海岸へと周り、そしてシアトルで初めて歌っています。1949年と1950年には、ワシントンD.C.を訪れてポトマック川の艀のステージ、Watergate Barge で『蝶々夫人』を歌っています(観客最大15,000人収容)。評論家のポール・ヒュームは、「コイケは技巧的な表現力と自然な優雅さを兼ね備えており、タイトルロールを演じる彼女の姿は何千人もの人々を魅了するだろう。」と絶賛しました。


シンシナティ動物園オペラ
 1955年に小池壽子は舞台から引退することになりましたが、『蝶々夫人』を数100回、ある推計では1,300回も歌ったとされています(最後の公演はワシントンD.C.のカーター・バロン野外劇場)。そのうち6回の夏の間、計22回にわたり『蝶々夫人』を歌ったのは『シンシナティ動物園オペラ( Cincinnati Zoo Opera )』での公演でした(戦前と戦後)。米国で2番目に古い歴史を持つオペラ劇団『シンシナティ・オペラ』は、1920年から1971年までの約50年間、シンシナティ動植物園を本拠地として夏は野外音楽堂でオペラの上演ををしました。厚手の衣装を身にまとい、舞台メイクを施した状態では、夏場はかなりの猛暑に見舞われることもありました。舞台裏で冷房が使えたのはソプラノ歌手だけでした。また、動物たちの「伴奏」が入ることも珍しくなく、特にアザラシやクジャクはよく鳴き声を響かせていたのことです( Cincinnati & Hamilton County Public Library )。また、このサイトには小池の人となりについて書かれていましたのでご紹介します。

 「小池はミッションスクールで英語を重視する教育を受けたため、自身の出自である日本文化からは切り離された環境にありました。日本を題材とした演劇で主役を務めることになった際、自身のルーツについてより深く知る必要に迫られ、大人になってからそれを学びました。『シンシナティ・エンクワイアラー』紙に寄せた記事の中で、彼女は日本の家父長制的な文化を嫌っていたことから、自身の西洋的な生い立ちを肯定的に評価していましたが、一方でアメリカのジェンダーをめぐる状況に対して批判的な視点も持っていました。彼女が日本に戻ることはありませんでしたが、父親とは手紙のやり取りを続け、日本人移民コミュニティとも交流を持ちました。また、小池は地元で愛される存在であり、新聞にも頻繁に取り上げられていました。当初は舞台前の緊張を紛らわせるために始めた裁縫でしたが、やがて自身の衣装の多くを自作するまでになりました( Cincinnati & Hamilton County Public Library )。


演出家として
 歌手を引退した後、小池は『蝶々夫人』の演出家として活動を続け、シカゴやダラスの歌劇場(1960年11月)などで演出を行ないました。小池がシカゴのリリック・オペラで、1955年11月11, 14, 17日に上演された『蝶々夫人』の演出をした時に蝶々さんを歌ったのはかのマリア・カラス、ピンカートンはジュゼッペ・ディ・ステファノでした。1965年、ソプラノ歌手マリア・ディ・ジェルランドを主演に迎えて自身の演出による『蝶々夫人』が上演された際、批評家のチャールズ・クラウダーは、小池が「特殊効果に頼るのではなく、作品全体の流れや一貫性を重視して演出を行うという、極めて優れたセンス」の持ち主であると称賛しました。小池壽子は晩年ニューヨークに住み、1991年9月にそこで亡くなりました。彼女の歌声は YouTube で聴くことができます。
"Gianni Schicchi" ~ O Mio Babbino Schicchi お父様にお願い (Puccini) Hizi Koyke ヒジ小池独唱=小池壽子1950年 太田道子ピアノ伴奏
"La Traviata 椿姫" ~ Sempre libera たはむれ酔ひて (Verdi) Hisako Koike 小池壽子独唱1935年 米国ビクター管絃楽団




★ 長谷川敏子( ? -  1985年 ) 

                 Hasegawa
              長谷川敏子( Teatro dell'Opera di Roma より )

カルフォルニア生まれのなでしこ蝶々さん

 日本人でありながら、日本のWebサイトにその情報がほとんど見つけられないソプラノ歌手です。海外の Nichi Bei Foundation というサイトに『「偉大なる未知」と「未知なる偉人」〜イタリアや世界を舞台に羽ばたいた二世の歌姫、長谷川敏子』というタイトルで詳しくその実績が書かれているのみです( THE GREAT UNKNOWN AND THE UNKNOWN GREAT: Nisei songbird Toshiko Hasegawa soared in Italy and beyond グレッグ・ロビンソン著、2019年4月25日)。彼女については主にそのサイトからの引用となっています。

 長谷川敏子は、第二次大戦前後にイタリアを拠点として活躍し、ミラノのスカラ座などの歌劇場で『蝶々夫人』の蝶々さんやその他の役(『ラ・ボエーム』のミミ、『道化師』のネッダなど)を演じて名を馳せた日系二世のソプラノ歌手です。カリフォルニア州サクラメントで長谷川辰之助・しげ夫妻の間に生まれた長谷川敏子は地元サクラメントでヴェルディの『椿姫』を観劇してその舞台の素晴らしさに深く感動して、オペラ歌手になることを決意します。

 1929年にパシフィック大学に通った後、ニューヨークへ移り、アルトゥーロ・ヴィーニャに師事して声楽を学びます。ヴィーニャは1903年から1907年まで296回もメトロポリタン歌劇場で棒を振ったイタリアはトリノ出身の指揮者で、数々のオペラの米国初演をしていたのですが、なんと1907年の『蝶々夫人』の米国初演を指揮した人物だったのでした。ヴィーニャはメトロポリタン歌劇場を離れた後、1922年までパリ・オペラ座の指揮者を務めたという記録はありますが、その後1930年頃までにどこにいたのかは不明です。しかし、何故か再びニューヨークに戻っていたところ、運よく長谷川敏子も同じ場所にいたのでした。『蝶々夫人』の米国初演ではプッチーニ自身もリハーサル立ち会っていたのですからヴィーニャは作曲家からの直伝の継承者であり、そのヴィーニャから指導を受けた長谷川はプッチーニ直系の蝶々さん歌いということになります。
*ヴィーニャがメトロポリタン歌劇場で米国初演をしたオペラは『蝶々夫人』の他に、『マノン・レスコー』、ドニゼッティの『愛の妙薬』と『ルクレツィア・ボルジア』、ジョルダーノの『フェドーラ』でした。また、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』をオペラ舞台用に構成し直した版での米国初演も指揮しています。
 
 
ニューヨークからサンフランシスコへ 
 ニューヨークとボストンで5年間にわたり音楽の研鑽を積んだ彼女は1935年2月には、サンフランシスコ・オペラ協会から招かれ、大規模なチャリティ・コンサートの一環として『蝶々夫人』の第2幕を上演しました。これは同協会にとって、日系二世による初の公演となりました。このことを日系アメリカ人向け新聞、『Shin Sekai Nichinichi Shinbun(新世界日日新聞)』は、「サンフランシスコで『蝶々夫人』上演」を見出しにして次のように報じています。なお、この紙面には3人の日本人プリマドンナ、小池寿子(Hizi Koyke)、長谷川敏子、杉町みよしの記事が並んでいました。

 「長谷川敏子がプッチーニの名作を歌う。日本人ソプラノ歌手の長谷川敏子が、2月11日(月)の夜、オペラ・ハウスで行われる特別公演で『蝶々夫人』のタイトルロール(主役)を歌う。この公演では『蝶々夫人』の第2幕全編が上演される予定であり、これは常設のオペラ合唱団養成学校の設立に向けた第一歩となるものである。同公演には、長谷川のほか、イヴ・オニンガー、アメリゴ・フレディアーニ、アルフレッド・レヴィ、ジャック・ハウエルらが出演する(Shin Sekai Nichinichi Shinbun、1935年1月27日付)。」


イタリアへ
 同年1935年の半ば、長谷川はさらなる研鑽を積むためにイタリアのミラノへ渡り、指揮者アンジェロ・フェラーリのもとで声楽の勉強を始めます。翌1936年2月には、イタリアのボローニャで客演歌手として『蝶々夫人』のタイトルロール(蝶々さん)を演じ、ヨーロッパ・デビューを果たしました。その後まもなく、ポーランドのワルシャワにあるテアトル・ヴィエルキ(国立歌劇場)で『蝶々夫人』と『ラ・ボエーム』のミミを歌いました。さらに翌1937年には、パリ近郊のアンギャンにある市立劇場での『蝶々夫人』のチャリティ公演に出演し、フランス・デビューを飾りました。同年、ポルトガルのリスボンにあるコリゼウ・デ・レクレイスでも歌っています(Grande Companhia de Ópera Lírica Italiana)。1938年1月にはパレルモでテノール歌手のマリオ・フィリッペスキと共演して『蝶々夫人』を歌い、続いてモナコのモンテカルロ歌劇場でも同役を演じました。1939年には、イタリアのファーノに新設されたアレーナ・デル・コルソ劇場のこけら落とし公演として『蝶々夫人』を歌いました。


南米での活躍
 1930年代後半から長谷川は、Grande Companhia de Ópera Lírica Italiana(イタリア・リリカ・オペラ大劇団)と4度にわたり南米(ブラジル、アルゼンチンなど)への巡回公演ツアーを行っています。1936年11月にはサンパウロを訪れ、『蝶々夫人』と『ラ・ボエーム』のミミを歌い、1937年9月には、アルゼンチンのラ・プラタにあるテアトロ・アルヘンティーノで『蝶々夫人』を歌いました。 1940年には、戦火のイタリアを離れて南米へ再び訪れ、サンパウロで『蝶々夫人』を歌って観客から絶賛を博しました。現地の邦字紙は、彼女を「我らの踊るプリンセス( Our dancing princess.)」と評しました。同年11月にリオデジャネイロで行われた公演の後、新聞『エル・インパルシアル』紙は、「プッチーニのオペラに類稀な解釈をもたらす素晴らしい音色を持ち、完璧な芸術家である長谷川敏子の歌声を聴けるのは喜びである」と絶賛しました。


ローマ歌劇場デビューからイベリア半島へ
 その後1941年6月5日、リヴォルノのゴルドーニ劇場で『蝶々夫人』を歌い、翌1942年にはついにローマ歌劇場で『蝶々夫人』を2回( 2月12日、3月6日) 歌いました。そのうち2月12日の公演ではティート・ゴッビがシャープレスの役を歌っています。スペインでも前掲のイタリア大劇団と巡回公演を行い、1942年5月にはバスク地方のビルバオ、12月にはバルセロナのリセウ大劇場で『蝶々夫人』を歌っています。1949年にも再度巡回公演を行ない、バルセロナのリセウ大劇場、リスボンのサン・カルルシュ国立劇場で『蝶々夫人』を演じています。この時期(1937〜1949年)のスペイン、ポルトガルでの長谷川の活動ぶりは、ペドロ・デ・フレイタス・ブランコというポルトガルの指揮者の功績を書いた書籍の中で、ブランコがオペラを指揮をしたときのソリストに長谷川敏子の名が記載されています(セザリオ・コスタ著『気高く、かつ感傷的に――ペドロ・デ・フレイタス・ブランコとモーリス・ラヴェルの音楽の解釈』)。


ミラノ・スカラ座出演
 こうした中、ようやくミラノ・スカラ座から出演依頼がやってきました。1944年12 月25日の朝、ジェノヴァでの公演を終えてミラノの自宅にいた長谷川のもとに、スカラ座から使いの者が訪れました。その日の『蝶々夫人』公演で蝶々さん役を務める予定だった歌手と、その代役(アンダー)が共に病気で出演できなくなり、その日の午後の公演で長谷川に代役を務めてもらえないかという依頼でした。こうして彼女は初めてスカラ座の舞台に立ち、劇場側や指揮者のアントニオ・グアルニエリから称賛を受けることになったのでした。その後、1951年までスカラ座から『蝶々夫人』の出演が続きました。1944 年12月25日、31日(2公演)、1947年6月18日、21日、23日(3公演)、1951年5月31日、6月16日(2公演)。なお、最後の1951年はリチア・アルバネーゼが、長谷川敏子の直前の5公演を歌っていました。 


ディ・スティファノ、ベルゴンツィと
 彼女は南米に戻り、1948年11月3日にはブラジル、サンパウロ市立劇場でジュゼッペ・ディ・ステファノを相手役に『ラ・ボエーム』のミミ役を歌い、1949年1月にはトリノのテアトロ・リリコで『椿姫』のヴィオレッタ役を、1950年10月10日には再びリヴォルノのゴルドーニ劇場で『蝶々夫人』を歌いました。この公演は、世界的なテノール歌手カルロ・ベルゴンツィの転換点としてオペラ史に刻まれています。当時バリトン歌手(シャープレス役)として出演していたベルゴンツィは、ここで長谷川敏子(蝶々さん)と共演した際、自身の声域はテノールであると確信し、テノールへの転向を決意したという有名な逸話が残されています。

 1950年代前半、長谷川はイタリア各地で『蝶々夫人』をはじめとする様々な役を演じ続けました。中でも彼女が好んだ役のひとつが、レオンカヴァッロのオペラ『道化師』のネッダでした。1951年5月にはスカラ座の舞台に復帰した後、1952年9月にはトリノのアルフィエーリ劇場で、同年12月には同市の名高いカリニャーノ劇場で、1954年にはクレモナで『蝶々夫人』を歌いました。またこの頃、ジェノヴァのアウグストゥス劇場で7回にわたり歌ったとされています。

 長谷川の晩年に関する情報は著者グレッグ・ロビンソンでも見つけることができなかったとのことです。『蝶々夫人』の米国初演者から直接指導を受け、1930年代後半から1950年代半ばまで、米国、イタリア、ポルトガル、フランス、スペイン、ポルトガル、そして南米と世界を股にかけて活躍した日系二世の蝶々さん歌いがいたという事実に驚かされると同時に、日本人として誇りに思わざるを得ません。




★ 杉町みよし( 1905年 -  1983年 )

                                         Sugimoto     
                                            
杉町みよし ( 第1回 日本語放送前史より ) 


 杉町みよしは長野県富士見市で名取家に生まれました。しかし、まもなく一家は渡米してワシントン州シアトルに住むことになり、彼女は幼少期からそこで過ごすことになります。父親(Ryoryo Natori)は日本語新聞『大北日報』の共同創刊者のひとりとして知られていました(1910年創刊)。母親( Oriko Ono :両親とも漢字名はわかっていません。)はイタリアで声楽を学び、イタリア系アメリカ人のオペラ演出家、声楽コーチ、音楽教師のグイド・カセロッティに師事したとされています。このカセロッティは16歳の頃、1900年1月14日に行われたプッチーニの『トスカ』の世界初演に出演したことでも知られています(名の付いた役ではなく、町民の役などか。)。杉町の学生時代のことはわかっていませんが、おそらく母親からある程度声楽の指導を受けたものと考えられます。
*新聞の記事等には、「イタリアから米国に帰国して1924年にデビュー」と「1928年にミラノ留学」と、2回イタリアに渡っていることになるのですが、最初のイタリアでオペラに出演していながら、その後に留学するというのが少し変ではあります。

 その後米国に帰国してからの活動については、1983年9月7日付の『The Great Northern Daily News(大北日報)』に掲載された彼女の死亡記事に詳しいので、ここではその要約に、他の新聞記事に書かれたことを混ぜながら彼女と『蝶々夫人』との関わりを明らかにしようと思います。なお、亡くなった時の彼女の姓は Yorita(ヨリタ:漢字姓は不明)であったため、記事では「ヨリタ」と書いています。

 「Madame Sugi Machi(マダム・スギ・マチ)」という芸名で歌ったヨリタ氏は、米国における日本文化紹介の先駆者でした。彼女の芸術的功績に並ぶ日系人オペラ歌手は、他に存在しません。彼女はイタリアから帰国後、1924年にシアトルのコロシアムと日本館で歌手および舞台俳優としてのキャリアをスタートさせました。イタリアではオペラ『蝶々夫人』と『イリス』のグランド・オペラ公演で高い評価を得ていました。彼女は『日本のナイチンゲール』という異名を与えられ、女優やダンサーとしても名声を得ていました。

 ヨリタの最初の夫は、戦前の『The Rafu Shimpo (羅府新報)』の文化編集者であり、現在の共同日本語学校システムの創設者である故・杉町Yaemitsu 氏です。ビクター・レッドレーベルとジャパン・ビクター・トーキング・マシンカンパニーのレコーディング・アーティストであるヨリタは、シアトル・シビックオペラ、ロサンゼルス・オペラ、サンフランシスコ・オペラ、パシフィック・オペラ、サンガブリエルバレー・オペラ、サンカルロ・オペラ・カンパニーのメンバーでもありました。また彼女は、ロサンゼルスで日本文化放送協会を設立し、さらにロサンゼルスではKRKDとKTYMをはじめ、シアトルのKFOA、KJR、KXAのラジオ局で、30分間の週刊番組に出演していました( Hokubei Mainichi {San Francisco, CA}、1983年9月7日付 )。 
*シアトルのKFOAは1924年3月に百貨店の4階にスタジオを構えて開局し、同年に上杉定(ヴァイオリン)、1925年には藤原義江(テノール)、1928年に佐藤時太郎(ハーモニカ)とアグネス宮川(ソプラノ)らが出演するなど、日本人音楽家に焦点を当てた番組を多数企画していました( Japanese Time ~History of Japanese Radio Broadcasting~ {Seattle Edition} )。

 その後奨学金を得て、1928年11月にミラノ留学へと旅立っています。1931年にかけてイタリアのミラノで本格的な研鑽を積んでいますが、このイタリアでのことについては詳細は不明です。ミラノで蝶々さん役を演じたという記述も一部ありますが、ミラノのどこの劇場かも不明で、スカラ座のアーカイヴにはその時代の記録は載っていないので確認はできていません。

 イタリアから帰国した彼女の記事が、1932年4月22日付の『 Nichibei Shinbun 』に掲載されました。その見出しは、「ロサンゼルスの歌姫、Sugi Machi、サンフランシスコでオペラ『蝶々夫人』の主役を歌う」というものでした。

 「日本人ソプラノ歌手の Madame Sugi Machi は、5月4日(水)の夜、ギアリー通りのカラン劇場で『蝶々夫人』の主役を歌い、土曜日のマチネ公演でも同じ役を演じます。サンフランシスコ・オペラ協会のディレクター、ガエターノ・メローラ氏は、最近ロサンゼルスを訪れた際、彼女の魅力と音楽的訓練に感銘を受けました。彼はこの魅力的な日本人歌姫をパシフィック・オペラ・カンパニーのディレクター、アルトゥーロ・カシリア氏に推薦し、その結果彼女は有名なオペラの主役に選ばれたのでした( Nichibei Shinbun {San Francisco, CA} )。」

 キャリアの絶頂期にあった Madame Sugi Machi は、当時ニューヨーク州知事だったフランクリン・D・ルーズベルト夫妻の招待でオールバニーの州議事堂を訪れ、その後、ルーズベルト大統領の就任式後にはホワイトハウスでも公演を行っています。また、1,500人以上の出演者・スタッフを擁し、全編日本語で書かれた初のグランド・オペラ『サクラ』で主役を務めたことも、彼女の大きな功績の一つです。1933年にハリウッド・ボウルで行われたこの公演は、批評家から高く評価されました。( Hokubei Mainichi {San Francisco, CA}、1983年9月7日付 )。」
*ルーズベルトの州知事在任期間は1929年〜1932年、大統領の在任期間は1933年〜1945年の間ですので、そのいずれかの年ということになります。

 1935年1月27日付の日系アメリカ人向け新聞、『Shin Sekai Nichinichi Shinbun(新世界日日新聞)』には次の告知記事が掲載されています。

 「Sugi Machi、プッチーニの『蝶々夫人』を歌う  ロサンゼルス、1月26日—日本のプリマドンナ、 Madame Sugi Machi が1月20日火曜日の朝、イヘル・ブレットモア劇場でエウテルペ・オペラ・リーディング・クラブが上演する『蝶々夫人』で主役を歌うことが本日発表されました(Shin Sekai Nichinichi Shinbun )。」

 1937年には、ニューヨークのヒッポドローム劇場で『蝶々夫人』を歌う契約を結んでいます。また、1939年にロサンゼルスで、カセロッティの演出で再び同役を歌っています。

 「その後、離婚した杉町は、頼田五郎との再婚、そして第二次世界大戦の勃発により、マダム・スギ・マチの輝かしいキャリアと公の生活は幕を閉じました。戦後、彼女はスポケーンとシアトル近郊で静かで控えめな生活を送りました( Hokubei Mainichi {San Francisco, CA}、1983年9月7日付 )。」 




★ トミコ・カナザワ( 1915年 -  2020年? ) 

    Kanazawa     Kanazawa
                                  トミコ・カナザワ ( Stockholmskällan 及び UCLA より )

メトロポリタン歌劇場初の日本人プリマドンナ
 
米国では Tomiko または Tomi Kanazawa と呼ばれた日系二世のソプラノ歌手が1930-1950年頃に蝶々さんを歌っていました。大正生まれではありますが、活躍していた時期としては昭和初期となります。残念ながら彼女の名前を漢字でどう書くのかは今のところわかっていません。日本のWeb上では彼女の存在が確認できていないのです。しかし、彼女のオペラ界での活躍は当時のいくつかの英字新聞の記事などから確認することができます。しかも、メトロポリタン歌劇場のパーフォーマンス・アーカイヴにその名が刻まれているのです。おそらく日本人初のプリマドンナのはずなのですが、そのことはほとんど知られていないようです。

 ここでは便宜的に彼女の苗字の漢字を「金沢」とさせていただきます。また、彼女の没年を2020年とするサイトがひとつだけあるのですが、年齢を計算すると105歳となってしまいます。ありえない年齢ではないですが他にその年としている例がないので「?」にしてあります。
*マリオ・ランツァを解説する日本の Wikipedia には共演した蝶々夫人は日系ソプラノの「金沢富子」と書いてあります。

 金沢は、カリフォルニア州ストックトンで生まれ、ロサンゼルスで育ったこと、そしてロサンゼルス・シティ・カレッジで学んでいたものの、第二次世界大戦によってその学業が中断されたとされています。金沢は1932年春に、バーカー・ブラザーズ・オーディトリアムで田代愛子というピアニストの伴奏で歌ったということがわかっています。

 金沢の生い立ちから1951年頃までについては、そのピアノ伴奏をした田代愛子がのちに『パシフィック・シティズン』紙に寄稿した『トミコ・カナザワ 日系人ソプラノ歌手、米国の歌い手の中で注目の新星に』という記事に詳しく書かれています( PACIFIC CITIZEN、Saturday, January 6, 1951)。ここではそれを要約しつつ、オペラハウスの公演アーカイヴや新聞記事を交えながら彼女の活躍ぶりを見て行こうと思います。

 「彼女はストックトンで生まれましたが、同地で暮らしたのはわずか数年で、その後、両親と共にロサンゼルスへ移り住みました。幼い頃には、広島出身の母親に連れられて日本を訪れたこともあります。日本での滞在期間は1年にも満たないものでしたが、母親の賢明な計らいにより、彼女は踊りや日本の音楽を学ぶ機会を得ました。プッチーニの悲劇のヒロインを演じる際に見せる、極めて本格的な日本の所作や身のこなしには、その時の踊りの稽古が大きな糧となっていることが如実に現われています。

 ロサンゼルスに戻った若い音楽家は、歌声の美しい少女として知られるようになっりました。トミコ・カナザワはすでに多くのイベントで引っ張りだこでした。高校時代には、エフェビアン賞(カリフォルニア学生連盟)の賞を受賞し、チャップマン大学ではオペラに出演しました。そこで彼女は将来の夫となる男性と出会っています。彼は当時、音楽学部の教員でした。戦前、トミコは自身の音楽活動で多忙を極めていました、彼女は太平洋岸各地でコンサートを開き、ラジオでも頻繁に歌声を披露していました。第二次世界大戦が始まると、トミコはニューヨークへ移り、同じく東部へ出ていたレオ・ミューラーと結婚しました。夫のレオは、コンサートやオペラのレパートリーについて歌手の指導にあたったり伴奏者として、ニューヨーク市内や各地へのツアーにも同行しました。そしてメトロポリタン歌劇場の音楽スタッフを勤めるようになりました。

 1945年5月18日、トミコ・カナザワはピアニストのフローレンス・タカヤマと共演し、ニューヨークのカーネギー・チェンバー・ミュージック・ホールでリイサタルを開いています。この催しは日米民主委員会(JACD)の後援で行なわれました。このコンサートに対して『ミュージカル・アメリカ』誌などの当時の音楽専門誌でも、熱狂的な聴衆に迎えられたことが報じられるなど、温かい反響を呼んだとされています。また、ダラスやフォートワースでも『蝶々夫人』を歌っています。さらに、ダラス交響楽団の指揮者をドラティが務めていた際には、彼の指揮のもと、ドビュッシーの『選ばれた乙女』で独唱パートを担当しました。夫の指揮でミネアポリス交響楽団やバッファロー交響楽団とも共演しています( The Pacific Citizen )。」

 1948年4月8日と12日にニューオーリンズ・オペラ協会が上演した『蝶々夫人』で歌った金沢は、マリオ・ランツァ演じるピンカートンと共演しています。彼女自身の全盛期の声は「繊細で澄んでおり」、「高音域では鐘のような響きがある」と評されました。後の1954年の『蝶々夫人』の公演を聴いた『シアトル・タイムズ』紙のルイス・グッツォは、「金沢嬢はカリフォルニア出身だが、日系人としての血筋を活かしている。彼女のあらゆる動きには、真摯でリアルな演技の証が刻まれている。扇子をひらひらと揺らす仕草から、敬虔な一礼まで、彼女はまさに蝶々夫人であり、この役を演じた数多くのソプラノ歌手の中でも最も説得力のある歌手だ」と評しています( A Mario Lanza Musical Who's Who ) 。


西海岸からヨーロッパへ 
 1949年3月4日、金沢はパシフィック・オペラ・カンパニーによる『蝶々夫人』でサンフランシスコ・デビューを飾りました。会場は満員御礼の立ち見が出るほどの大盛況で、地元紙の批評家からも「感動的で本物だった」、「ブラボーの嵐だった」と大絶賛を受けましたとされています。金沢はその後、同劇団の『ラ・ボエーム』でミミを熱演していますが、これはアメリカ西海岸の主要オペラ・カンパニーにおいて、日系(またはアジア系)ソプラノが『蝶々夫人』以外の役を射止めて歌った歴史上最初の事例となりました。さらに、田代愛子の寄稿文は次のようにヨーロッパでの活躍にも触れています。.

 「トミコと夫は、1940年代後半に3度もヨーロッパへ旅行を行ないました。観光だけでなく、研鑽や仕事上の務めを果たすことに充てられました。最初の渡欧の夏、トミコはブダペストで『蝶々夫人』を歌い、満員の観客を魅了しました。また、オットー・クレンペラーが指揮するオーケストラと共演する機会もありました。パリでは数週間を過ごし、著名なフランス人音楽家のもとで研鑽を積みました。2度目の渡欧の夏もまた、数多くのコンサートや『蝶々夫人』の公演で多忙な日々となりました。多くの場合、ミューラー夫妻は二人一組で出演し、夫は指揮者や伴奏者としてトミコを支えました。

 1949年の夏には、スウェーデンとノルウェーを訪れています。現在この国に滞在している著名なスウェーデン人歌手が、偶然トミコのテレビ出演を目にしたのです。彼はその歌声に深く感銘を受け、ぜひトミコをスウェーデンに招いて実際に歌ってもらいたいと強く望んだのでした。当初は数回のコンサートが予定されていましたが、彼女の最初の公演に対する批評が極めて素晴らしかったため、北欧滞在中は週に平均2、3回のコンサートを行うことになりました。ストックホルムでは、王立歌劇場で『蝶々夫人』を歌いました( The Pacific Citizen )。」

 
ウィーン国立歌劇場デビュー 
 何と言っても金沢のキャリアの頂点とも言うべきことは、ウィーン国立歌劇場で1949年9月22日に『蝶々夫人』を歌ったことでしょう(国立歌劇場は再建中だったため会場はウィーン・フォルクオーパー)。彼女が出演した『蝶々夫人』はその1回きりでしたが、その次の公演(10月13日)の蝶々さんはリザ・デラ・カーザでした。彼女のウィーンでの歌唱について語る資料は今のところ見つかっていませんが、その直後の1949 年 10 月 29 日付の『コロラド時事』は金沢の動向を次のように書いています。

 「 トミコ・カナザワがサンフランシスコ公演のオペラ『蝶々夫人』に出演
サンフランシスコ発 ― 今春、オペラ『蝶々夫人』で大成功を収めた日系アメリカ人のプリマドンナが、まもなくサンフランシスコで再び歌う。パシフィック・オペラ・カンパニーは、11月28日にウォー・メモリアル・オペラ・ハウスで『椿姫』を上演し、大衆向けオペラの第3シーズンを開幕すると発表した。人気の日系アメリカ人ソプラノ歌手が出演するこのオペラは、今シーズン2回上演される2作品のうちの1つです。金沢さんは12月13日(火)と、シリーズ最終日となる12月12日(日)に歌います( The Colorado Times )。」


メトロポリタン歌劇場デビュー 
 金沢は、1952年5月18日にメトロポリタン歌劇場のミネアポリス公演で『蝶々夫人』を歌いました。なお、彼女の名前はメトロポリタン歌劇場では Tomika Kanazawa と記されています。この時の様子を語る記事はないようですが、同じ年の1952年9月27日付の『パシフィック・シティズン』紙には次のような記事が掲載されました。
 
 「トミ・カナザワ、テレビ初のカラー・オペラに出演 ニューヨーク発 — 国際的に高い評価を受けている日系二世のソプラノ歌手、トミ・カナザワが、10月28日に放送される初のカラー・テレビ・オペラに出演することが当地で報じられました。また、カナザワは10月9日、NBCの『ケイト・スミス・ショー』に出演し、今シーズン初のテレビ登場を果たす予定である。この日系人ソプラノ歌手は、今年初めにミネアポリスで行われたニューヨークのメトロポリタン歌劇場による『蝶々夫人』の公演に出演し、同歌劇団の舞台に立った初の日系歌手となりました。彼女は最近、数回のコンサートに出演したサン・サルバドル(エルサルバドルの首都)から戻ったばかりですが、再び同国に招かれ、オペラに出演することになっています。
 
 金沢氏は、ニューヨークJACL支部の次回の会合において、全米JACLの「卓越した功績賞(Distinguished Achievement Award)」のメダルを授与される予定です。同賞は、サンフランシスコで開催された全米JACL大会で彼女に授与されたものです。
私生活において、金沢氏はレオ・ミューラーの妻です。ミューラー氏は、昨年米国を巡演したメトロポリタン歌劇場の『こうもり』公演の音楽監督を務めました( The Pacific Citizen )。」

 1953年11月19日と21日、金沢はオクラホマ州にあるタルサ歌劇場に客演をしていますが、そのホームページには『タルサ・オペラの歴史 – 蝶々夫人 1953年』と題してその時の様子を次のように紹介しています。

 「日本の芸者、蝶々夫人の役は、メトロポリタン歌劇場のソプラノ歌手、トミコ・カナザワが演じました。当時、日本人歌手がこ​​の役を演じるのは珍しいことであり、重要なキャスティングでした。この公演には、メトロポリタン歌劇場から他にもスター歌手が参加しており、オーストリア出身のテノール歌手ジュリオ・ガリがピンカートン役、オーストラリア出身のバリトン歌手ジョン・ブラウンリーがシャープレス役をそれぞれ演じました。ニューヨーク・シティ・オペラからは、リディア・イバランドがスズキ役、ジョージ・タローンがゴロー役で出演し、地元の歌手が脇役を務めました。ニューヨークから初めて演出家が招かれ、アンソニー・スティヴァネロが起用されました。限られたリハーサル時間で効率的に演出することで知られる著名な演出家スティヴァネロは、『即席オペラの達人』として全国的に有名で、その後20年間にわたりタルサ・オペラに頻繁に招かれたのでした(Tulsa Opera History – MADAMA BUTTERFLY 1953)。

        Kanazawa
             トミコ・カナザワ( Tulsa Opera より)

 
 金沢は、メトロポリタン歌劇場と地方公演で訪れたミネアポリスで『蝶々夫人』を歌った翌年に、南へ3時間のフライトで行ける小さな街タルサで『蝶々夫人』を再び歌ったことになります。メトロポリタン歌劇場で不評だったらタルサに呼ばれることはなかったことでしょう。なお、その金沢が歌った年と翌年、メトロポリタン歌劇場では『蝶々夫人』は合わせて21回上演されていて、大御所リチア・アルバネーゼとドロシー・カーステン、ビクトリア・ロス・アンヘレスの3人が蝶々さんを歌っていました。金沢は4人目だったのですが、残念ながらメトロポリタン歌劇場のステージではなく、ミネアポリスだったということになります。 
 
 1955年3月19日、当時サンフランシスコ・オペラで活躍していた金沢が1951年に開始されたウィーン芸術週間に招聘されています。この期間、フォルクスオーパー、ライムント劇場、シェーンブルン宮殿前の野外ステージの3つの舞台で上演されたオペラ、演劇、舞踏などのうち、彼女はライムント劇場で行なわれたシドニー・ジョーンズ作曲の『芸者』の主役おミモザさんを演じました。また、その時の指揮者は彼女の夫であったレオ・ミュラーでした。ミュラーは1926 /27年にウィーン・フォルクスオーパーでリハーサルピアニストを、1927年から1933年までプラハのドイツ劇場で指揮をしたのち、 1937年に米国に亡命し、カリフォルニアでオペラや映画に携わり、1941年からはニューヨークでブロードウェイ作品やラジオ放送などに携わっています。1945年にはメトロポリタン歌劇場の合唱指揮者兼リハーサルピアニストとして活躍しました。
 
 このウィーンでの公演については、1957年1月25日付の『パシフィック・シティズン』紙が軽く触れています。また記事では、サンフランシスコでの彼女の予定を伝えています。 
 
 「トミコ・カナザワ氏は3月、サンフランシスコ・メモリアル・オペラ・ハウスの舞台に再び立ち、コスモポリタン・オペラ・カンパニーの春季公演『蝶々夫人』でタイトル・ロールを歌います。金沢氏は、ウィーン・オペラでの公演を大成功のうちに終え、帰国したばかりです。『蝶々夫人』は3月12日(火)に上演されます。共演者として、ニューヨーク・シティ・オペラのバリー・モレル氏が出演します。また、金沢氏は3月19日上演の『トゥーランドット』でも主要な役のひとつを歌う予定です。この魅力的な日系人ソプラノ歌手は数年前、パシフィック・オペラ・カンパニーでオペラ歌手としてのキャリアをスタートさせ、今や彼女の代名詞ともなった蝶々さん役を歌いました。彼女はプッチーニの『ラ・ボエーム』のミミ役としても出演した経験があります。金沢氏にとって、今回は2年以上のブランクを経ての公演となります。」

 金沢が『ラ・ボエーム』を歌った公演についての記事もありました。『ユダヤ人コミュニティ会報』(カリフォルニア州サンフランシスコ、第102巻、第48号、1950年12月8日)にはこう書かれています。
 
 「パシフィック・オペラ・カンパニー、1ドルオペラの第4シーズンは先週水曜日の夜、オペラハウスで、驚くほど活気に満ちた表現力豊かな『ラ・ボエーム』の公演で幕を開けました。この公演では、若き日本人ソプラノ歌手、トミコ・カナザワがミミ役で大きな成功を収めました。アルトゥーロ・カシリア指揮者とオーケストラ、そして出演者たちは、オペラの定番であるこの演目の使い古された要素さえも、新鮮で生き生きとしたものにする術を知っていました。そして、このオペラシーズンは、初日の夜に受けた評価よりも、地元の観客にもっとふさわしいものとなることでしょう( The Jewish News of Northern California, Jewish community bulletin )。
 
 日本ではほとんどその名前すら知られていない日系アメリカ人のソプラノ歌手のトミコ・カナザワが、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』で歌っていたのは驚きでした。しかも、米国では戦前、戦中、戦後に渡って『蝶々夫人』を歌い続け、さらに『ラ・ボエーム』のミミ、『トーランドット』のリュウも歌っていたのでした。 
 
 
 
★ 今井久仁恵( 1930年 - 2011年 ) 
 
 
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          今井久仁恵( Tamino Autographs より / 愛媛県生涯学習センター より)
 
メトロポリタン歌劇場の舞台に立った初の日本人 
 大正時代に活躍したわけではありませんが、1958年に日本人で初めてメトロポリタン歌劇場でプリマドンナとして『蝶々夫人』を歌った今井久仁恵をここでご紹介します。正確に言うと、「メトロポリタン歌劇場初」ではなく、「メトロポリタン歌劇場の舞台で初」ということになります。実はその6年前にトミコ・カナザワ(金沢富子)がメトロポリタン歌劇場の地方公演で『蝶々夫人』を歌っていたからです。いずれにしても、世界のプリマドンナたちが覇を競い合うメトロポリタン歌劇場で日本人がその存在感を示していたことを知っただけでも誇らしい気持ちになるものです。この後、東敦子(1972年)、渡辺葉子(1986年)と日本人によるメトロポリタン歌劇場デビューが続くことになります。
 
 今井久仁恵は、1930年(昭和5年)、愛媛県今治市で生まれ、今治高等女学校(現、県立今治北高等学校)へ進学しました。その後、音楽学校への進学を希望しましたが両親に反対されてしまいます。この頃キリスト教に改宗した兄の影響で、今治カトリック教会へ出入りするようになり、聖歌隊に誘われ歌の才能を認められます。このカトリック・ドミニコ会の宣教師の支援を受けてスペインへ留学し、1953年スペイン国立音楽大学に入学します。4年の課程を3年で修了、1956年に首席で卒業します。その後、スペインの声楽家の登竜門となるコンクールで特賞「ルクレシア・アラナ賞」を獲得しています。1957年、セビリアで『蝶々夫人』を歌ってオペラ歌手としてデビューを果たしました(『愛媛人物博物館〜データベース『えひめの記憶』)。
 
 翌1958年にはミラノで研鑽を積みます。それからのことは、『ニューヨーク・タイムズ』紙(1958年11月9日付)に詳しい記事が載っています。彼女の米国デビューの1週間前の新聞です。
  
 「ミラノにあるヴェルナ・スタジオで、オペラの役柄を学びました。最初に学んだのは、マスカーニの『イリス』のタイトル・ロールです。この作品は日本を舞台にしていますが、日本ではほとんど上演されないものの、イタリアでは根強い人気を誇っています。続いてプッチーニの『トゥーランドット』のリュウ役を学び、その後『蝶々夫人』のタイトル・ロールに取り組みました。昨シーズン、セビリアでデビューを飾ったのは、この『蝶々夫人』の役においてでした。
  
 昨夏、メトロポリタン歌劇場の総支配人ルドルフ・ビングが、毎年恒例のヨーロッパでの才能発掘の旅の途上で今井嬢の歌声を耳にし、即座に彼女をメトロポリタン歌劇場の『蝶々夫人』のタイトル・ロールに起用することを決めました。音楽院を卒業してまだ1年半という若さですが、今井嬢は非常に順調にキャリアを築いています。セビリア、マドリード、バルセロナ、コモ、トリノといった都市でオペラに出演したほか、リサイタルを開いたり、テレビやラジオで歌ったりもしてきました。メトロポリタン歌劇場での滞在期間は短い予定です。というのも、彼女は他の公演契約を果たすためにトリノ、コモ、ナポリ、ローマ、パルマでの公演契約を果たすために戻らなければならないからです。
  
 今井嬢は、メトロポリタン歌劇場の『蝶々夫人』の舞台装置と衣装が日本製であること、そして公演を監督するためにメトロポリタン歌劇場が招聘した日本人演出家、青山圭男氏の演出に大変満足しているとのことでした。今井嬢によれば、これはヨーロッパのほとんどのオペラハウス(そしてかつてはメトロポリタン歌劇場でも)で蔓延している状況とは著しく対照的だという。そこでは、中国風の衣装、小道具、身振り手振りが、どうせ誰も違いに気づかないだろうという明らかな前提で使われていたのでした( The New York Times )。」


メトロポリタン歌劇場デビュー
 1958年11月15日、今井はメトロポリタン歌劇場デビューを飾ります。演目は『蝶々夫人』、ピンカートンはバリー・モレル、指揮はエーリッヒ・ラインスドルフでした。この時期メトロポリタン歌劇場で『蝶々夫人』を歌っていたのはリチア・アルバネーゼとドロシー・カーステンの二人を中心に、ヴィクトリア・ロス・アンヘレスは最後の年でしたが、アントニエッタ・ステッラとレナータ・テバルディがこの年デビューしたという名前を聞いただけでも怖気づきそうな面々がいる中を今井は歌ったことになります。その時の、『ニューヨーク・タイムズ』紙(1958年11月17日付)は次のように書いています。 
 
 「土曜日の夜、メトロポリタン・オペラによる『蝶々夫人』の日本を舞台とした演出に、日本人ソプラノ歌手、今井久仁恵のデビューによってさらなる本物らしさが加わりました。長坂元弘による美術・衣裳と、青山圭男による演出は、今井嬢が演じる蝶々さんにとって、魅力あふれる背景となっていました。小柄な体躯が彼女の魅力を際立たせていて、その声は、プッチーニが「花のような15歳のヒロイン」に求めた力強く豊かな響きを十分に生み出せるものでした。
 
 低音域は、ヘヴィ・ドラマティック・ソプラノやメゾ・ソプラノに見られるようなチェスト・トーンとは異なり、心地よい暗さと深みのある響きを帯びていました。今井嬢が苦労していた点――おそらくは単なるデビューの緊張によるものでしょうが――は、高音域を無理に押し出してしまう傾向にありました。第1幕の二重唱のクライマックスとなる最後の音と、アリア『ある晴れた日に』の最後の音の2箇所だけは、力みすぎて音程が外れてしまいました。この点は間違いなく改善されることでしょう。何しろ、このソプラノ歌手がオペラの舞台に初めて立ったのはわずか1年前、スペインのセビリアでのことなのですから。すでに魅力的な彼女の蝶々さん役も、今後はさらに磨きがかかり、より余裕のある歌唱になっていくことが期待できます。彼女には温かい拍手が送られました( The New York Times )。」
 
 その月末に発行された日系アメリカ人向けの新聞である『シカゴ新報』紙(1958年11月29日)には、彼女のメトロポリタン歌劇場デビューのことに他の日本人のことも添えて記事にしています。 
 
 「ニューヨーク発――今井久仁恵は、メトロポリタン・オペラ・カンパニーの正規メンバーとして歌う初の日本人歌手という快挙を成し遂げました。彼女は11月15日、プッチーニのオペラ『蝶々夫人』でデビューを飾りました。日本生まれの今井は、スペインで研鑽を積みました。師であるマエストロ・エットーレ・ヴェルナは、彼女の声を ”丸みがあり、豊かで深みのある声” と評している。日本が生んだ最も偉大な歌手のひとりと言える三浦環は、ソプラノ歌手として国際的な名声を得たものの、メトロポリタン歌劇場の舞台に立つことはありませんでした。彼女はサン・カルロ・オペラ・カンパニーに所属し、全米各地を巡演したのでした。トミオ・カナザワもメトロポリタン・オペラの巡回公演に出演した経験はあります。Hizi Koyke(小池壽子)はサン・カルロ・オペラ・カンパニーで活躍しましたが、メトロポリタン歌劇場の舞台に立つことはありませんでした( Chicago Shimpo )。」
*三浦環、トミコ・カナザワ、小池壽子、3人それぞれのメトロポリタン歌劇場との関わりについて触れたこの記事の内容は、筆者のこれまでの調査とピッタリ一致していまして、ホッとしている次第です。

 その後の米国内で精力的に活動していたとされ、その中でアラバマ州バーミンガムでの公演の記録が残っています。1959-60年シーズンでバーミンガム市民交響楽団をバックに歌ったのですが、その公演の対して地元紙は「心躍る素晴らしい音楽の数々に加え、ロバート・メリルやリザ・スティーヴンスといった著名なアーティスト、さらにはメトロポリタン歌劇場で活躍する日本人ソプラノ歌手、今井久仁恵らが出演予定であり、誰にとっても心から楽しめる音楽体験となるはずです( The Hilltop News )。」と書かれていました。

 また、彼女が日本に帰国したことについて、『婦人公論』昭和35年5月号(1960年)に「帰国した蝶々さん」と題した記事が載っています。その後、『スペイン音楽の大使』として「日本・スペイン歌の協会」を設立してスペインの歌の普及に努めました。その功績により昭和61(1986)年、スペインから文化勲章が贈られています(『愛媛人物博物館〜人物博物館展示の愛媛の偉人たち〜』)。2015年に今井の回顧展が松山市で開かれ、その様子が YouTube にアップされています。
故今井久仁恵さん企画展・愛媛新聞
 
   
 

*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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