Touko
瞳子

 「郷愁」そして「憧憬」。吉野朔実をどうして好きになったのかを考えた時に、この2つの言葉が浮かび上がってくる。

 例えば「月下の一群」。同じ大学に通う年上の女性と年下の男性の時に淡く時に苦く、ふわふわと揺れ動きながらもやっぱり落ちつくべき場所へと落ちていく様を描いた物語に、夢とか希望とかにあふれていた学生時代への「郷愁」が甦って笑みが浮かぶ。と同時に、無縁だった漫画に描かれているような恋愛や素晴らしい仲間たちのと出会いといったものへの「憧憬」が心を煽り、どこか落ちつかない気持ちにさせられる。

 「少年は荒野をめざす」も同様。仲の良かった女の子1人に男の子2人の中学生活が、学校はバラバラの高校生活へと移りそれぞれに苦かったり、甘かったりする成長の時間を刻みながらも着実に前へと進んでいく物語に、先のことだけを考えてわいわい、がやがやとやっていれば良かった学生時代を懐かしむ。その一方で、仲間どうしでの知的な会話や甘くて酸っぱいラブストーリー、学生での作家デビューに有名人との出会いといった、実生活では得たくても得られなかった事柄への憧れが引き起こす悔しさや嫉妬心に引っ張られて、うぐうぐと身悶えさせらる。

 それに加えて、あるいは歳を重ねた今でももしかしたら、漫画に描かれているような楽しくもほろ苦い青春の日々を送れることができるのかもしれないという、淡く儚く脆い希望が少しだけれどしっかり心の隅に浮かび上がって、背中をとんとんと叩いてくる。過去に向かった「郷愁」のベクトルと、過去へと立ち返ってそこから再び未来へと向かった「憧憬」のベクトルの絶妙なバランスが、かつて少年だった男たちと少女だった女たちを吉野朔実に惹き付けて止まない理由のような気がする。

 そう考えると、しばらく前に出た「栗林かなえの犯罪」(小学館、505円)が、どことなく肌に合わなかった理由も分かる。描かれているシチュエーションがどこか形式的で繰り広げられるドラマが演劇的で、「郷愁」も呼び覚まさなければ「憧憬」も引き起こさなかったから、なんだと思う。それは「いたいけな瞳」や「ぼくだけが知っている」「恋愛的瞬間」といった比較的最近の作品にもどこか共通している構造で、だからこそ再刊された「月下の一群」なり永遠の傑作「少年は荒野をめざす」に単なる同時代的な支持だけではない、何かを感じで今なお愛読し続けている元少年、元少女たちが多いのだろう。

 ところがどうだ。最新刊として登場した「瞳子(とうこ)」(小学館、990円)では、現代的なテーマで風刺も皮肉も込めながら切れ味たっぷりの心理ドラマを描くようになっていた作家が”原点”に返っていた。「郷愁」と「憧憬」の吉野朔実がそこにいた。なにがあったのか。それはたぶん、20代だったら恥ずかしさばかりが先に立って振り返られられなかった青春の日々を、30代を通り過ぎて40代に乗り、決して冷静という訳ではないけれど、郷愁めいた柔らかい気持ちが恥ずかしさをくるんで、微笑と苦笑の入り交じった気持ちで振り返られるようになったからなんだろう。

 「瞳子」の主人公は、80年代後半に大学を出て就職もせず家でブラブラとしている瞳子、という名の女性。1959年生まれという吉野朔実自身とどこまで重なっているかは分からないけれど、あの時代の空気を呼吸して生きた人たちという意味で、1960年代に生まれた今は30代にさしかかっている人たちにとって、まず大きくて激しい「郷愁」を引き起こす。欲しい皿があるからとバイトを始めた陶器屋でライバルらしい少女とかわす、「アルジャーノンに花束を」は長編が良いか短編が良いか、長編の「エンダーのゲーム」は「無伴奏ソナタ」に所収の短編より良いのかといった話題は、あの時代をSF好きとして過ごした人に激しいくらいの懐かしさを覚えさせる。

 ブライアン・イーノにブライアン・フェリーが好きだという瞳子と、高校の同級生だった今はたぶん働いている男たちとの、学生時代と大きく変わらないように見える日常生活を軸に物語は進む。雅なものを理解せず主婦として忙しい毎日を送り仕事しろ、結婚しろと顔を見れば言って来る母親の無粋さが瞳子は我慢ならない。仕事をして自立して社会に適応して恋愛も不倫交じりでよろしくやっている姉の世渡りの上手さが瞳子は納得できない。社会生活などてんで経験もない癖に世の中のことが分かったような気になり、自立などしていない癖に親に妙に反抗してみせ、詳しく理解もできないのに難しい本を買い、流行り物の歌謡曲とは一線を画した音楽を聴いてみる。

 今にして思えば、しょせんは雑誌やテレビで得た知識の受け売りで、時代の半歩先を行っていると勘違いしていただけなのだ。知的な人たちが知的な場所で話題する芝居や映画といった文化、缶入りじゃない烏竜茶を嗜み高価な陶磁器を愛でる風俗の、中味も意味も歴史もろくに知らないのに受け売りの知識で知った気になって、自分も知的だと思っていたかっただけなのだ。けれども当時はそのことが分からなかった。なんだか格好良いことのように思っていた。バブル目前の微熱の時代に生きていた、微熱少年と微熱少女の雰囲気が「瞳子」の漫画から浮かび上がって来て、恥ずかしさとともにノスタルジックな気持ちを刺激する。

 「年月がたったので距離が出来て、当時の自分や周りのことを他人事のように見ることが出来るようになったのかもしれません」と「あとがき」の中で著者はいう。作家と同様に読者の方も、恥ずかしい気持ちを超えて浮かび上がる懐かしい気持ちの中で、描かれた連作を楽しむことができる。けれども著者はこうもいう。「年齢を重ねると少しづつ人生の謎は解けていきますが、だからといって不安が無くなる訳ではないし、情緒が安定するわけでもありません」。

 「郷愁」はどこまでいっても過去へと向かうベクトルでしかない。過去へと戻って当時を振り返って抱く悔恨と嫉妬の向こう側に生まれる、やりなおせるかもしれないという願望めいたものが歳をとった今もなを残っていることが、単なる過去への郷愁だけではなく、そこを起点とした未来への「憧憬」を生まれさせて、過去に諦めるのではなく、これからも続く未来に望むのだという気持ちを引き起こす。

 あるいは30年くらい経ってから振り返った時、こうした気持ちもやはり単なる「郷愁」の中に飲み込まれてしまうのかもしれない。だからといって吉野朔実の作品が持つ「郷愁」ど「憧憬」が生み出す不安定なバランスを、笑いながらもそわそわしながら読めなくなるのはつまらない。不安な気持ちの中に希望を見出そうとしている吉野朔実が、そんな気分を作品に描いてくれている間は、読み手として達観に諦観の類に逃げることなく、懐かしさに笑い恥ずかしさに身をよじらせる気分を保ちながら、吉野朔実が奏でる「郷愁」ど「憧憬」の音楽に身をゆだねていこう。


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