ぼくだけがっている


 3歳くらいからの記憶がある。柿の木に上って遊んだ。犬に追いかけられて転んだ。フライパンのソーセージが足に落ちてきて火傷した。その時どんなことを考えて、どんな反応をしたのかを、今も鮮明に覚えている。

 たぶんそれは本当の記憶ではない。本当に起こったことは確かだ。写真に残っていたり、体に跡が残っていたりするから。偽の記憶は写真には写らないし、偽の火傷は体に跡など残したりはしない。でも記憶自体は、昔の写真を見ながら追体験したことを、あたかもリアルタイムの記憶のように感じているだけなのかもしれない。成長した脳に新たに刻み込んだ記憶だからこそ、今でも鮮明に覚えているのだ。

 「子供の頃から大人だった」「たとえばそれは 幼稚園に入園する日の朝だった。 おおばこやたんぽぽの下を せかせかと歩き回る蟻を見ていた。 朝日に眩む庭に立つ子供は 真新しい白い帽子や 水色のスモック(女の子は桃色だった) 名前の入った青いカバンが 意味するものを知っていた。 でもそれを知る者はいない。 僕が知っている事を 誰も知らない。」

 吉野朔実の漫画「ぼくだけが知っている」(集英社)の冒頭でつづられる、主人公「夏目礼智(なつめらいち)」のこんなモノローグを読んだ時、もしかしたらこの漫画は、大人になった主人公が、子供の頃の写真や作文などを見ながら、昔を追体験している場面を描いたのではないかと思ったのも、昔を振り返り、今をつづるその筆致から、どこか高みから見おろしたような、客観的な視線を感じたからだ。

 「ぼくだけが知っている」は、「子供の頃から大人だった」礼智が小学4年生になった春から話が始まる。新しいクラスになって、周囲には知らない子供たちが増えた。礼智は相変わらず「ぼくだけが本当のことを知っている」と思っているが、周囲はそのことに気が付かないし、気が付くはずもない。

 いわれなきいじめを繰り返す同級生がいたり、そんないじめっ子を嘘泣きをして撃退する女の子がいたり、大事なものが盗まれてたといっては騒ぐ同級生をなだめるために犯人役を買って出る男の子がいたり。そんな集団のなかで1人浮き上がったような感覚で、礼智は同級生の巻き起こす騒動や、自分が巻き込まれる騒動の成りゆきを、他人事のような醒めた目で見つめている。大人になった作者が、大人としての自分を主人公に投影させて、子供の頃を振り返っているような印象を覚える。

 大人の漫画家が描く話なのだから、そんな視線があっても不思議ではない。だが、連載されている雑誌が対象にしている読者は、子供であって大人ではない。大人を夢見て、大人に近づこうとする子供の主人公に共感する子供はいても、子供になりたいと思って目線を降ろしてくる大人の(ような子供の)主人公に、子供が共感できるものなのだろうかと、「ぼくだけが知っている」や、ほかの吉野朔美の漫画を読むたびに、いつも考えてしまう。アニメになったりして子供たちにブームを巻き起こすことはないけれど、子供というにはちょっと年かさのいった人たちに、吉野朔実が好んで読まれているのも、大人を大人のままで子供の頃に連れていき、記憶を追体験させてくれるからなのかもしれない。

 古くからある住宅地の子供と、新しい団地に住んでいる子供との「ズレ」がしばしば漫画の主題になる。子供のころは何となく感じていた「ズレ」が、漫画の中で改めて示されることによって、明確な記憶となって蘇ってくる。すぐ隣りの部屋に、すぐ下の階に、すぐ隣の棟に友だちがいることが羨ましかったのかもしれない。ショッピングセンターや広場がすぐ側にあることが、ねたましかったのかもしれない。逆に団地の子供は、広い家に住み、そこそこの庭を持っている住宅地の子供が羨ましく、ねたましかったのかもしれない。子供のころには、ただなんとなく感じていた「ズレ」が、ここでも大人の思考によって言語化され、追体験される。

 吉野作品の特徴ともいえる粋なネームは、この作品でも健在だ。班に太った少年を入れるか入れないかで、2人の女の子が「あんた今、世界中の肥満児を敵に回したわよ」「デブなんか何10トン敵に回したって平気よ」と言い争う。別の場面では、立場をかえて「あんたたち今、団地の子供全部を敵に回したわよ」「ネズミなんか、何万匹敵に回したって平気よ」と切り返す。

 こんなセリフが子供に言えるはずはないけれど、大人になったから言えるというものでもない。しがらみにがんじがらめにされて身動きの取れなくなった大人が、自由だった子供時代に思いをはせて、大人の思考で子供に好き勝手をやらせてみたくなるのは、やはり必然なのだろう.


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