栗林かなえの犯罪

 現在進行形の漫画家である吉野朔実の代表作が何かと聞かれても答えることは難しい。これから先にどんな傑作が登場しないとも限らないからだ。しかしけれども自分にとっての、という限定を付けるならばそれは「少年は荒野をめざす」であり「ジュリエットの卵」であり「月下の一群」といった作品群になる。

 数を並べて何が代表作だと言われればごもっとも。作品に時期とか内容といった関連性がないといった指摘も当然。「いたいけな瞳」が入ってないという叱咤も受けよう。それでもやはりここに挙げた作品群が自分にとっての代表作になっているのは、生涯のある時期に熱中して読んだ漫画家の、熱中した作品群だったという理由があるからに他ならない。

 主観的過ぎると笑いたいなら笑えば良い。それでも気持ちは揺るがない。こうあれば良いと大学生活を思い描かせてくれた「月下の一群」、日夏雄高のサロンに集う人々の狂態に憧れた「少年は荒野をめざす」、自立する大切さを見せてくれた「ジュリエットの卵」等々。その時に欲しいと思っていた気持ちを作品の中に見つけ出し、キャラクターたちに重ね合わせて感じて読み込んだ記憶の濃密さは、他のなにものも及ばない。

 だからなのだろうか。吉野朔実が「プチフラワー」や「ヤング・ユー」や「コミック・アンアン」などに発表して来た短編がまとまった「栗林かなえの犯罪」(小学館、505円)は、依然として最高の面白さと内容の奥深さを見せてくれる作品ばかりと頭では理解できても、心がどこか落ちつかない。描かれている感動が気持ちへと響く直前で止まってしまい、妙に冷静な目で作品を見てしまっている

 描かれる不思議なシチュエーションの上で奏でられる、出てくる人々のドラマという旋律の鮮やかさにはなるほど感心できる。けれども出てくる人々のどこか操られている人形のような言葉や行動に、いつかどこかで見た情景を思い出しててしまって感動ができない。作者の責任ではないと分かっている。経験や思い出といった情動が作品と結びついてしまっている以上、その評価は容易なことでは揺るがない。

 携帯電話を拾ったグミという名の女の子が、飛び降り自殺をしようとしていた男の子と出会い、コンビニエンスストアで万引きをして野原で髪を染め、寝転がって1日を過ごして、それでいったい何が得られたんだろうという展開を描いた「誰もいない野原で」は、なるほど大勢の人間が暮らしている世界でも人は孤独感を抱くもの、けれども決して空虚なんかではなく自分というものは確実に存在しているんだという事を教えてくれて、孤独感に奮える都会暮らしの人の心に何かをもたらす。

 けれども投げかけるメッセージに納得できても、それ以前、女の子も男の子も何を考え何が目的でこれまで生きて来たのかが見えず、現実の若い人たちの妙にとらえどころの無い様が重なて見えて、どこか不気味な感じを受ける。凄い漫画ではあるけれど、それを積極的に肯定できるだけのゆとりがこちらに無く、受け止めきれない。

 あるいは短編だからということもあるのだろうか。シチュエーションの面白さ、展開の鮮やかさで見せることが第一義になってしまう短編の構造上、それぞれのキャラクターが持つ心底からの気持ちが、こちらに伝わる以前に寸止めされてしまっているよう感じてしまうのも、作品にのめり込めない戸惑いの原因かもしれない。

 「ピンホール・ケイブ 天然の天窓」には、同居している2人暮らしの男女が、倦怠期なのか気持ちが醒めたのかケンカばかりしているシチュエーションが、やがて本格的な修羅場へとなって、それでもだんだんと収斂されていくエピソードが描かれる。心理劇を見ているような印象があって言葉や行動の重ね合わせから心理が変化していく所が面白く、男相手に蹴る殴るといった暴力を振るう女性のすさまじさも笑える。ただやはり今の自分が必要としている話ではないようで、読んでいて気持ちが浮き立たない。

 そして表題作。会社では二枚目で通っている樋口が水族館で見かけた”栗林かなえ”という名の美少女。口の聞けないその美少女を樋口は好きになり連れだって海へ行き、抱きしめキスをする関係にまでなるが、前編の最後で驚くべき事実が明かとなって樋口を苦しめる、のではと思って読んだ後半。話はなぜか自称”栗林かなえ”の側に物語の主導権が移り、樋口との関係の変遷や日常生活の描写を経て、自分を取り戻すエンディングへと進んでいく。

 思いを入れ込もうとした瞬間に対象が逃げていってしまう感覚が、読み終えて妙な居心地の悪さを醸し出す。樋口と自称”栗林かなえ”のどちらかにスポットを当てるなり、前半と後半でそれぞれが主役になる、といった主導権の受け渡しがあったなら、あるいは理解しやすかったかもしれない。あるいはラストに描かれる、老婆が自分の「女」を最後に打ち出して死んでいくエピソードから、遡って人間の「業」に気づかせようとする話だったら。

 田舎から突然出てきた不思議な少女に自分の立場が脅かされた少女が頑張る「プライベート・ウィルス」が、シチュエーション的にも情動的にも個人的には1番分かりやすかった。主役が比奈という少女に集中していて、比奈がつきあっている男を兄とも慕い、帽子作りをするために上京して来たカメという名の少女の健気さといたいけさが対比として浮かび上がり、2人の間で無神経な言動を取り続ける海という男の脳天気ぶりが明確になっていて、三角関係にあるキャラクターのバランスがしっかりしているように感じたからだろう。

 もっとも、この「プライベート・ウィルス」が1番分かってしまうということは、停滞しているコミュニケーションの中で、多様化し複雑化する世の中の人間関係に、自分がついていけなくなっているからなのかもしれない。いや、だとしたら孤独感を抱きながら街をさまよう「誰もいない野原で」のグミを通して見た世界は分かって不思議はないし、事実よく分かる。それでも手前に引き寄せられないもどかしさを覚えてしまうのは、やはり世代、それも万人を時間で区切る世代ではなく自分が対象とどれだけ濃密な関係を結べたか、という観点での世代の差が、今はどうにも埋められないからだろう。

 それでもこれだけは言える。現実は過去となり経験は思い出となって純化され蓄積されていく。そうした過程を経て再び作品に出会った時、惹かれるにしても反発するにしても何かしら抱いた感情はきっと密度を濃くして気持を突き動かすだろう。その日を信じて今はただ何が描かれているのかを読み込み、ページを閉じて余韻を反芻しながらひたすらに理解に務めたい。


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