縮刷版2018年8月上旬号


【7月10日】 バーみたいなところにプレイステーション4のようなゲーム機が置いてある分にはまだ良くて、それを借りては自分が家から持っていったゲームソフトをぶち込んでプレイするなら別に法律的な問題は起こってこないと思うけれど、ゲーム機とともにゲームソフトまで貸し出すとなるとそれは個人とその周辺が自分たちで楽しむ分以外の上映権の侵害に当たってしまうから摘発されてしまう。そういう例がちょっと前に神戸であっただけに、Netflixがカラオケルームで配信される映画とかドラマなんかを見られるようにするサービスを始めた場合、上映権の問題が引っかかってくるんだろうかとちょっと考えた。

 別にDVDとかBlu−rayのソフトを貸し出して再生させる訳ではなく、家からDVDなりBlu−rayを持ってきたユーザーがカラオケルームにある設備を使って再生紙、楽しむように自分のIDでアクセスをしてネットから配信されたタイトルを見るだけ、となればここに上映権の問題が起こってくることはないんじゃないかというのが目下の解釈。もちろん仲間以外を引っ張り込んで見せてやるからお金を払えとなると上映権なり公衆送信権の侵害になるのかもしれないけれど、身内でわいわいやりながら誰かのIDで再生されたドラマを見ることに法的な問題が起こるかどうかはちょっと判断が難しい。NetflixがJOYSOUND渋谷南口駅前店でNetflixが見られる部屋を作ったくらいだから、とりあえずは大丈夫ってことになるんだろう。

 家だとちょっと難しいドルビーアトモスによるサラウンドでサブウーファーもガンガン鳴らしての大音量での再生もカラオケルームなら可能。そういった環境面での優位性を提供することでカラオケチェーンにとっては歌以外に部屋を利用してくるお客さんを獲得し、NetflixにとってはPCやタブレットやスマートフォンといったデバイスで見ているのよりも良い環境で楽しんでもらえる環境を提供するユーザーサービスの一環があり、また街中でNetflixのコンテンツに触れてもらえる機会を増やすというマーケティング的な戦略があるといった感じ。聞くともう4割だか6割がカラオケルームでは歌は歌わずダベったり会議をしたり映像を見たりして過ごしているというから、その延長線上にあると言えるだろ−。

 ただ、DVDとかBlu−rayのように封切りから3カ月なり6カ月立ってパッケージになった映画ではなく、そこでしか見られない、そこがファーストウィンドウになっているドラマなりアニメーションなんかが揃っているのがNetflixの特徴で、今後カラオケルームのようなそれこそ小規模の映画館とすら言えそうな上映可能な環境が広がってきた時、映画館で映画を観るのと同等のバリューを持ってNetflixのサービスを提供して、映画の変わりにNetflixのドラマなりアニメーションを見るようなユーザーを増やしていくことも起こりそう。映画興行にとっては大々的ではなくても足下を削られるようなイメージか。区分されたウィンドウ、棲み分けられた鑑賞環境が入り交じって融合していった先、映像をハンドリングする企業でどこが生き残るのか。そこへのひとつの岐路にもしかしたらJOYSOUNDでNetflixというサービスはあるのかもしれない。どうなる将来。

 見ればマフィア梶田さんだろうって分かりそうなものだけれど、そこは言わぬが花としながらしばらく続けられてきた「鮮やかに当てろ! 謎のヒットマンは誰だ!?」キャンペーンの正体がついに判明してやっぱりマフィア梶田さんだった。ワーナーが冬に出すゲーム「ヒットマン2」とそのシリーズをPRするアンバサダーに就任。ステルスアクションで忍び込んでは暗殺をするエージェント47というキャラクターが出てくるんだけれど、長身でガタイが良くて等々でサングラスなんかも掛けていたりするそのフォルムを、マフィア梶田さんが見事に再現してみせていた。というかマフィア梶田って誰って言う人のために説明するなら映画「シン・ゴジラ」でカヨコ・アン・パタースンの脇でボディガードをしていた長身で禿頭の男。なるほどそれならいかにもヒットマンだって思われるだろー。

 もともとはゲームライターで「ラブプラス」全盛の折には同じ記者発表にも出ていて見たことがあるけれど、当時から長身で革ジャンとかの強面ではあったのがもうそちらが本職といった感じにヒットマンぶりを磨いてきた。ちょっと前に比べて何か痩せたように見えたのも、ゲームのエージェント47に合わせるためにシュッとさせたんだろう。そのおかげてかっちりと作られたスーツも似合ってそのまま秋葉原に出たら3歩歩く度に職務質問されそーな強面ぶりになっていた。ただゲームライターでありフリーライターとしての立場はちゃんと維持しているみたいで、ゲームについて語っていた。それでも同じ記者発表の記者側でいっしょに何かを聞くことはもうないんだろうなあ。ようやく30歳を過ぎたあたりでのこの出世。対して僕は……まあ良いや、地味でもライトノベル読みとしてひっそり活動していこう。何かのアンバサダーになることはないけれど。

 それにしても自由度が高い「ヒットマン2」。目的はターゲットの暗殺という、それ1点なんだけれどそこへと至るルートを自分でいくつでもどれだけでも設定できそう。デモプレイで見せてもらったのはサーキットのドライバーを暗殺するというもの。その会場へ入るだなきでセキュリティチェックがあって武器とか持ち込めないようになっていて、エージェント47は丸腰で入るんだけれどそこでもめて警備員を殴り倒してもゲームオーバーにはならず、クリアできる道ってのが用意されているらしい。入ってからも関係者になりすまして近づきレーシングカーに爆弾をしかける、直接近づいて刺殺する、遠くから狙撃するとかいった手法がとれそう。

 なおかつそこへと至る道筋でも、警備員を殴り倒したらちゃなとロッカーに放り込んでおくとかいった配慮が必要で、それを怠ると発見されて追われる羽目になる。それでもクリアできる道があるのかもしれない。フラミンゴの着ぐるみを身につけて忍び寄るって手もありそうだけれど、その場合どういうシチュエーションでターゲットをどう暗殺するか、ちょっと知りたくなった。抱いてもふもふの中に埋めて窒息しさせるとか? それはないか。もはやルートの分岐とかいったレベルではなく、あらゆる可能性が無数の次元で詰まった宇宙のようなタイトルが、今は可能になったんだなあ。それでハマるかというと暗殺という目的との親和性か。やりこめば好きになれるかもしれないけれど、自分にとっての楽しさとはとい離れているからなあ。いつかプレイが可能になったら試してみるか。

 合体合体合体合体合体合体ーったい! って歌えたことは歌えたけれどもまだ全員が揃って合唱って感じではなかった「ニンジャバットマン」の応援上映。新宿ピカデリーのスクリーン3は前回よりもちょっとだけ広くなった分、隙間もあって密度いっぱいで応援をする感じにもならなかったけれど、その分好き好きに声を出しては野次ったり突っ込んだり称えたりする声が飛び交って、大勢で見ている感じがあって面白かった。こうであらねばならないといった枠組みがかっちりきまった応援上映って何か窮屈だからねえ。もうちょっと声が出て一体感が出るところもあってなおかつダラッとした感じがあるのがベストかなあ。そこへともうちょっとな「ニンジャバットマン」。次は12日にあるけれど行けそうもないのでその次、岩浪美和音響監督が本気を出して応援上映の音頭を取り出す時を待とう。やってくれるかなあ。


【7月9日】 ヒロとゼロツーは星と散っても魂は残り、長い時間をかけて地球へと戻って復興の進んだ地上に人間の子供として転生しました。というエピローグがついているような感じで幕を下ろした「ダーリン・イン・ザ・フランキス」。1月からスタートして2クールを突っ走った作品としては、滅亡の危機を経て半ばディストピアにも近い感じの管理社会に生きる少年少女たちの中から、規格外れが出てきてそしてより規格を外れた存在と出会い覚醒しては本当の破滅に瀕した人類を救うといったストーリーが1本の筋となっていて、そこに人間としての営みとか社会といったものの構成を知らされない子供たちが、なぜかそうしたものへと興味を抱いて世界にひずみを作って、そこが綻びを生む展開があって、再生へと至る道の大変だけれど大切にすべきといった思いを抱かせてくれた。

 そうした展開の上に、敵対していたはずの存在が実は同じ地球を守ろうとする同志に近くてさらなる強大な敵があってそれと戦うのが本当の人類の未来に必要なことだという世界観のエキスパンションが加わって、こぢんまりとした人類再生の物語が一気に宇宙規模の物語へと展開したけど、欲を言うなら「天元突破グレンラガン」のようにそれこそ銀河系規模でのとてつもない戦いがあったりして、レイヤーが何層にも重なっていくような外連味たっぷりの驚きを味わわせてくれた作品を超えるよう、一致協力して地球の敵を倒すといったストレートな展開に収めずもっと爆発させて欲しかった気もしないでもないけれど、それはもう「グレンラガン」がやっているからこれは人類が自分たちを取り戻す物語に収斂させるというのもひとつの判断か。マグマ燃料を捨て再生可能エネルギーを利用することで人類はどこまで回復できたか。そこに再臨したヒロとゼロツーの生まれ変わりは何を思い何をするのか。そんな外伝があれば見てみたい。あるいは読んでみたい。

 僕にとっての「ストライクウィッチーズ」は2006年に刊行されたヤマグチノボルさんによる小説「ストライクウィッチーズ スオムスいらん子中隊がんばる」から始まるシリーズで、未だOVAとかの姿も見えていない時に、脚にエンジンを取り付け空を飛んではネウロイという得体の知れない敵を相手に、人類を守るべく戦う少女たちの物語に、そのビジュアル的な面とそして敵がだんだんと強くなってきているスリリングな展開で興味を抱かせてくれた。後にテレビシリーズなんかも出るようになって、そのノベライズも出たけれども最初に見知ったスオムスいらん子中隊のメンバーこそがスタンダードであり、その戦いの行方こそが本編だと思っていたけどヤマグチノボルさんの死去でそれを読むのも永久に叶わなくなってしまった。

 そう思っていたら築地俊彦さんが後を継ぐ形で「スオムスいらん子中隊」のリブートに取り組んでくれることになった模様。もともとが島田フミカネさんによる原作めいたものがあったメディアミックス企画だけに、すべてがヤマグチノボルさんの思考の中で紡がれていた「ゼロの使い魔」とは違って続きも描きやすい気はしないでもないけれど、やっぱりヤマグチノボルさんならではの味といったものもあったのだろう、復活の目は見えなかったところに「サイレントウィッチーズ」という名での再展開が行われることになって、「スオムスいらん子中隊」にもお呼びがかかったといった感じ。構想がどこまで残されていたのかは分からないけれど、文章なども含めて築地俊彦さんが租借しつつ取り込みながら描いていってくれるだろう。強大さをますネウロイをどう凌いで人類は次へと進むのか。展開が楽しみ。

 7月5日の時点で気象庁は西日本で記録的な大雨になる可能性をすでに指摘していて警戒を呼びかけていた中で、総理大臣がほいほいと中堅・若手議員の集まりに出かけていっては賑やかな雰囲気を見せていたこと、それ事態もやっぱりどこかユルんでいるなあという気がしないでもないけれど、記録的な大雨が記憶にまるでないくらいのとてつもない被害をもたらすと、誰も予想できなかった状況下で日常の延長を過ごしていたことを真正面から非難はしづらい。翌日のオウム真理教の死刑囚に対する死刑執行を感じていながら呑んで騒いでという態度も、日常の延長とすれば大きく非難することは難しいく、ここでは命に区切りを打つ役割を担う法務大臣にはせめて、身構えて身ぎれいにして事に臨んで欲しかったとだけは言っておく。

 ただ、実際に大雨による被害が半端ではないことが見え始めてからもなお、総理大臣がリーダーシップをとる緊急災害対策本部ではなく、防災担当大臣が本部長となる非常災害対策本部に止めて事を見守るようなスタンスを示しつつ、外遊への意欲を打ち消さないまま引きずっていったことはやはり納得のいく説明がないと世の中はちょっと同意しないだろう。9日になってそれも午後に入って外務省から外遊取りやめが公表されたらしいけれど、そこに至る直前まで行くとは言ってないといった言葉が広まりどこか未練を残しているようなニュアンスが漂い、そして野党から批判が相次いでいるから外遊は止めた方がいいかもしれないといったニュアンスも流れ、自分自身がこの難事にリーダーシップを発揮し挑むべきだといった主体がつたわって来なかった。

 それは総理大臣を貶めたいメディアの書かない自由が行使されてのことなのか、やっぱり総理周辺から漂ってくるように事態の重大さを見誤って外遊に未練を残して態度を保留していたのか、そのあたり総理官邸周辺からの丁々発止のやりとりなんかが伝わってきたらちょっと後に尾を引くかもしれない。自衛隊の儀仗兵によるフランスでのパレードも、多くの自衛隊員が被災地で頑張っているのに自分たちだけ行って晴れやかなパレードに臨むなんて無理だっただろうから、総理大臣が外遊を取りやめたことでそちらも取りやめになると思いたいけれども果たして。しかし本当に辛いなあ、大型台風が直撃して起こった災害とは違い日常の延長のように雨が降ったらそれが非日常へと踏み込んでしまったがために起こった災害で、どうしてこれでといった思いも当事者だけでなく見ていた側にも浮かぶ。事前にどうにかできそうな気もするだけに、気象庁が頑張って出した予報をくみ取り陣頭指揮をとる政治が欲しかった。そう行っても取り返しの付かない現状で、政治が何をすべきなのか。それを考える頭があるかなあ、総理大臣や周辺に。やれやれ。

 魔女たちによる魔法が存在しながらも中世的ではなく、現代に近いような雰囲気の中で魔法を使える人間が、箒とは名ばかりでどう見ても復座のエアボードめいたブルームと呼ばれる乗り物を飛ばしてレースに臨むようになっている。そんな背景を持った六升六郎太さんの「僕の専属JK魔女と勝ち取る大逆転」(HJ文庫)は、名門の家系に生まれながらも魔法の力がいびつで阻害されてきた少女がいて、かつて最速の名をはせながらも栄誉は組んでいた強大な力を持つ魔法使いの少女の方に行ってしまい、自分は無能と思われたかして引退してしまった少年がいて、そんな2人が組んでその時点で最強のチームに挑んでいくというストーリーが繰り広げられる。2人とも決して弱者ではないけれど、どこか歪な力の持ち主たちが重なり合い埋め合うことによって最上を得る。落ちこぼれでも取り柄を見つけて立ち上がれるという希望を与えてくれるストーリーはやっぱり読んでて気持ちが良いなあ。


【7月8日】 インパクトの瞬間ヘッドは回転するという例の奴が出てくるフラッシュみたいなアニメをなぜか2度、音楽付きと説明展開でもって見せられた後に今度は少女のポエムみたいなモノローグが延々と続く中、どこかの森を上空からドローンか何かで撮影した映像が延々と続いてこの広葉樹と針葉樹が混じった植生はどのあたりの地域でもってそしてこれは原生林なのかそれとも人の手が入った森なのか、どういう理由からこうした分布になっているのか、あのひときわ高い木は何なのかを植物学者なり植生の専門家に副音声で開設して欲しくなた映像が流れ、合間に銃器を分解して整備して組み立て直し撃つシーンも挟まって、少女のモノローグだから撃ってる人も少女なら良いのにどう見ても指が太かったりしてギャップに身もだえした後。

 始まった本編とも言えるアニメーションはどうしてフラワーなる存在がピックアップされては家族を人質にしてまで権力側は言うことを聞かせようとするのか、それだけ少女たちに何か重要な能力があるのか、ただの使い捨てならそこまではしないだろうち仕込んだところで筋力の劣る少女たちを戦闘マシンに仕立て上げるのは無理だろうからやっぱり力がって選ばれているのか、家族を人質にとらないと従えさせられないのか、でもってそんなフラワーのひとりがどう見ても江ノ島にある学校に通っている少年を保護する仕事に出向きながら、どういう偶然からか追われている存在があってそれを追って米軍が突入してくるタイミングの悪さがあって、そもそも学校に入る前に状況を話すなり拉致するなりして安全圏へと引っ張っておけば少女は無駄死にせずに住んだのにと思ってそして。

 現れたきっと本当のヒロインが派手に戦いつつおっぱいをポロリしてそして元の黙阿弥めいた状況を経て何がいったい起きているのか類推はできても分からない中でエンディングを迎えたら、本編をなぞるようにした映像が流されおさらいができたというそんな映画が「UNDER THE DOG/Jumbled」という作品。もともとは本編らしき断片のアニメーションをKickstarterでお金を集めて作り上げたものらしいけれど、それを公開するに当たってコメディタッチのショートアニメをなぜか2本もつけ森林観察にグッドな実写映像もつけ本編のダイジェストになっているエンディングもつけて公開。1粒で何度も楽しめるとはいえ本編の断片過ぎる状況は、見られて嬉しかった一方でもっと見せろといった気にさせられる。続ける気があるのか否か。劇場公開をただの慰労会にさせないためにもここからの長編化なりテレビシリーズ化を願いたい。絶対に。

 社畜のサラリーマンだった男が29歳で車にはねられ気がつくと異世界に転生していて記憶を持ったまま成長したものの、特段に勇者ではなく村人でも領主に使える下っ端で、異世界のことを話しては気味悪がられたこともあって黙るようになっていたけれど、そんな話を喜んでいたのが領主の娘。今はもう雲の上のような存在になっていた彼女の飼っていた犬を連れて散歩に出かけたら、なぞめいたピンク色の目をした女が現れ犬を殴って殺してしまう。そして何者かが攻めてきたという話に少年は娘を連れて逃げ出すものの追い詰められて2人して崖から飛び降りる。

 そして気づいたら転生していて記憶も社畜時代を含めてしっかり持っていて、今度は戦士となって戦っていたけど帝国に攻められピンク色の目をした天剣使いによって粉砕されて命を失いリザードマンに転生して森に住んでいたら帝国が攻めてきて逃げていた少女を助けようとしてピンク色の目をした女に切り伏せられ、そしてとある王国の王子の軍師となって帝国に立ち向かい若き将軍を追い詰めるもののそこに現れた元帥でやっぱりピンク色の目をした女の剣に倒され死んでしまった主人公が、次に目覚めて今度は幼くして老婆に預けられその老婆が死んだら傭兵の集団に売られてしまってそこで19歳間で成長して、いよいよ本格的な物語が幕を開ける。そんな十文字青さん「僕はなんどでも生まれ変わる」(スニーカー文庫)

 死んだら異世界というのはよくあるパターンで前世の記憶を使ってうまく生き抜いていく設定もまあ普通。それが何度も繰り返されていき、なおかつ同じようなピンク色の目をした女によって命を奪われた果てに繰り広げられる物語といったひねりというか怒濤の重ねがさすがはプロとして長く活躍する作家だけのことはある。そうやって始まった物語も主人公が傭兵でありながら実は魔王と呼ばれる強大な力を持った王様の子供で消息不明だったのが見つかったとうことで父親に呼び出され王子ということで政略結婚のコマにされて巨人族が治める国の姫の婿にさせられる。

 相手は180センチをゆうに超える少女で倉マラスで性格も良くて純真無垢。社畜時代も29歳まで童貞で以後の転生した世界でも19歳で童貞のまま士に続けてきた彼にやっと春が巡ってきたかと思いきや、ここでも帝国は版図を広げている最中らしく前の生で目前まで迫った将軍が長じた姿で登場し、なおかつ軍師として使えていた王子が国の滅亡後に傭兵をやっていたことも明かされ主人公の転生が異世界ではずっと時系列的に同じつながっていたことが裏打ちされる。だとしたらピンク色の目をしていつも主人公を殺しに現れる女は何者か。この巻の終わりでも帝国を率いて現れ主人公たちが嫁いだ国とか近隣の国とかをまとめ帝国を押し返そうとしていた戦いの中で切り札のように現れる。

 そこで初めて19歳で死なない運命めいたものを掴んだかに見える主人公。いったいどうして。だとしたらこれからどうなるの。退けられたかに見えるピンク色の目をした天剣の少女とか、自分たちこそが人間であるとうそぶき侵略を続ける帝国とかがこれからどういった出方をするのかが注目ポイント。あの魔王ですら倒して一族をすべて斬首し首を容器に着けてさらす残酷さを見せる帝国がいったいどういう理由で侵略を続けるのか、ただ自分たちが他とは違って高等だからという理由で全世界を敵に回せるものなのか。その理由を知りたいところ。そして強大ではあっても圧倒的ではないと分かった帝国軍を退ける展開はあるのか、その中でピンク色の目をした女はまた現れるのか。それは同じ人間なのか。主人公に発動した力は何を意味するのか。繰り返しの転生と関わっているのか。知りたいので十文字青さんは早く続きを。

 直前の堺三保さんによる映画製作決起集会から人が流れてくるかなとも思ったけれどもSFとはまた違うカテゴリーということで、牧眞司さんと吉田隆一さんという日本SF作家クラブの人が2人もいながら細馬宏通さんも交えて荻窪のベルベット・サンで開かれた「語れ!ユーフォニアム」というイベントは原作アニメーションを含めた「響け!ユーフォニアム」のファンと吉田隆一さんのジャズのファンと細馬さんのファンだろう人たちでいっぱいいっぱいな感じ。

 そして語られた内容はといえば、20回は「リズと青い鳥」を見てもちろんテレビシリーズの「響け!ユーフォニアム」も見て「映画 聲の形」を始め京都アニメーションの作品を見ている牧眞司さんがストーリーと演出とキャラクターから作品を語れば細馬さんは音楽の使われ方について話し吉田さんはブラスバンドの経験もあって楽器回りから音楽関連そしてミュージシャンの性格めいたところまで含めて語って「」響け!!ユーフォニアム」であり「リズと青い鳥」が音楽的なリアリズムの上にキャラクター性も含めて成立している作品であることを浮かび上がらせてくれた。

 作画であり作劇が中心となることが多い阿佐ヶ谷ロフトとかでのアニメーション関連イベントとはまた違った方向性で深さがあったイベント。それこそアニメーション関連ムックとか雑誌とかで繰り広げられて欲しいくらいの論考だったけれど求める人がどれだけいるかといったところでお呼びはかからないんだろうなあ。その意味でも貴重なイベントだった。細馬さんはそれこそ第1期の「響け!ユーフォニアム」のオープニングのそれもほんのイントロ部分を丹念に分析してピアノで音階をならしてブラスバンド的なコードで始まりながらもポップス的コードへと転じる音楽の凄さを語り、添えて瞬間に映る黄前久美子が前のめりになりながらユーフォニアムのマウスピースに息を吹き込んだ時の唇の形、すなわち口角の下がり具合がしっかり描写されていることを挙げて吉田さんとともにその観察力であり描写力でありそれらを描こうとする意思と意識の高さを称えていた。

 経験者でないと気にはしないし気がつかないかもしれない部分に手を抜かない。細馬さんはこのOPだけで90分間の授業をやってしまうくらいいろいろと学べる要素があるってことを示してた。あとは「劇場版 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディ〜」なんかにも取り上げられていたテレビシリーズ第2期の久美子と田中あすかの直接的なやりとりの部分で細馬さんは斜め上からの蜘蛛の巣越しに久美子をとらえたりするカメラ位置とかの選び方、そして久美子が長々とアスカへの思いを吐露する場面でのカットワークなんかを指摘してこのモノローグに近い部分だけを渡して生徒にどうカット割りをするか、課題として出してみたいといったことを話してた。横から斜めからぐるぐると変わるカット割りを自分なら考えつくか。そして描かれたものはどういった効果を感じさせるか。漫然とみているとすごいなあで終わってしまうところをどうすごいのか考えてみるきっかけを与えられた。

 背の高いあすかが久美子に対して腰をかがめて下から見上げるようにして言葉を喋るシーンとかも、その心情心理なんかを想像すると面白と面白そう。そこで引き下がるはずだった久美子が直前の姉とのやりとりなんかも経て、やりたいことを諦めるのはだめだといった心理にいたって引き下がらずに自分をはき出す展開なんかも、分かってはいたけれども指摘されることによって揺れ動く心情を考えながら見る意識といったものを植え付けられた。それは「リズと青い鳥」なんかでも同様で、変化していく鎧塚みぞれであり、傘木希美の心情と関係性、立ち位置めいたものをより深く考えつつ、「響け!ユーフォニアム」という作品全体に通底しているしっかりと心情がキャラクター性とともに描かれていることを見ようという気にさせられた。

 ユニークだったのは傘木希美というキャラクターへの分析で、才能がないと自嘲する彼女は実はとてつもない才能の持ち主なのではないかというのが吉田さんの弁。それは事件があって1年生の途中で抜けて2年生の後半に戻ってきて、それから半年経つかどうかといった3年生の段階でフルートのパートリーダーでありコンクールのソロを任されている。社会人の楽団に混じって吹いてはいたけどコンクールを目指すような濃密さとは違った中にいながらしっかりと技量は維持しているのはやはり才能があると言わざるを得ないとか。ただ、みぞれと決定的に違うのは音楽への熱量というか愛にちかい感覚らしい.

 例えば希美が使っているフルートは、ヤマハの割と初心者でも吹けるタイプでキーに穴があいたリングキーモデルではなく全部が覆われたフルカバーモデル。これはしっかり抑えなくてもちゃんと音は出るけれどその分音色を差配するようなことはできない。吹き口も広くて音は出しやすいけどいろいろと感情を込めて吹き分けることは難しい。自分に音楽への思いがあって目指す音色があるなら使わないモデルを使い、キーを握って分解組立をやってしまうがさつさもあるところに才能はあってもテクニックがまだ追いついていないこと、そしてテクニックを追うだけの情熱がないことが示唆される。もしも希美が本気で練習をしてみぞれに追いつこうとして、そして音楽も好きになったらどれだけのフルート吹きになれたか。そうでないからこその希美であり、違う時間線の話になるけど想像はしてみたくなる。

 「三日月の舞」であり「リズと青い鳥」がコンクール曲に使われ得るかという質問があって、ソロパートの技量に極端に偏るところがある楽曲だけにそこにリスクをかけるのは難しいからまず選ばれないだろうとうのは吉田さんの弁。ほんの数小節のソロでも巧いと響くのがブラスバンドの楽曲だけど、それを大きく広げて聞かせるあたりはリアリズムではあってもリアルではないらしい。もちろんコンクール以外の場所での演奏はあり。これからきっと「リズと青い鳥」を演奏してくるバンドも出てくるんだろうけれど、吉田さんによればオーボエ吹きは頭が後退する傾向にあるらしいから、みぞれのような可憐な少女が吹いている姿を見る機会があるかは神のみぞ知るといったところか。

 細馬さんの弁では図書館の本い対してみぞれは平気で延滞し、そして希美は又貸しを肯定するような言があってそれは音楽へのスタンスにも重なるところがあるとか。延滞をしてでも突き詰めるというみぞれと、誰彼無く面倒をみて才能を又貸しする希美、といった構図。偶然かもしれないけれども面白い指摘だった。暗喩なのか偶然なのか分からないけれど、絵として描く以上はすべての図像に必然があるのがアニメーション。ならばいろいろと想像をしてみることは無駄ではない。まだ上映もされているから「リズと青い鳥」を見に行って、指摘されたこととかを改めて考えながら見て見よう。「ふぐ」は「ハグ」といえないみぞれの精一杯の抵抗なのかも含めて。


【7月7日】 振り返れば2016年1月の終わりごろにあったサンリオエキスポで、アニメーション化が決まったキャラクターとして見かけた「アグレッシブ烈子」だったけれどTBSの「王様のブランチ」で4月から放送が始まって、直前の3月に赤坂サカスでライブキャラクター、すなわち着ぐるみも登場してのイベントが開かれ、盛り上げそして放送スタートとなって以降、ブレイクしたかというとそうでもなかったとうのが実際の所。日本ではむしろやっぱり「ぐでたま」の方が人気でTBSでも朝のワイドショーに登場したりする一方、「アグレッシブ烈子」はショートアニメーションは続きながらも店頭にグッズが溢れOLたちが自分たちの理不尽を仮託するキャラクターにはならなかった。グッズもそれほど出なかったのは人気の度合いをサンリオがそう判断したからだろう。

 もしかしたら日本では上司によるパワハラやセクハラもお局さんと呼ばれる先輩女性社員からのプレッシャーも“日常”となっていて、貯まった鬱憤を晴らす烈子のデスボイスによるデスメタルを、もしかしたらそうあったら良いなあという願望として頭の片隅に置きつつも、それを称揚して自分はこんなに理不尽な目に遭っていて、憤っているんだということをオープンにすることを躊躇ってしまっていたのかもしれない。けれども海外は違った。理不尽な扱いも日常的にありながらも、それを外に向かって主張できる環境があり心境もあって見てこれは自分たちだった、あるいは今の自分たちなんだと思い言えた。そして化身であり象徴として「Aggretuko」を取り入れ愛してアピールした。日本と比べて段違いの海外での「アグレッシブ烈子」人気は、そんな彼我の差があるのかもしれない。

 そこに訪れた“MeToo”という運動が、受けてきた理不尽な扱いを暴露し世間に訴えることの正当性を後押しして、そんなポジティブな意識への転換を促すキャラクターとして「Aggretuko」がフィーチャーされた……ってところまでは至ってはいないけれど、日本と違って女性が権利を主張し、また理不尽な扱いを世間が許さないと思われていた欧米で、日常茶飯事に女性が抑圧されていた状況があからさまになるにつれ、「Aggretuko」に自分を重ねて怒りを溜めて、それを爆発したい衝動に駆られた女性が欧米にも大勢いて不思議はないと思えるようになった。日本の企業社会に特有の状況への皮肉と思われていたものが全世界的な問題だった。その驚きはありつつも、だから世界が認めたといった理解も成り立つんじゃなかろーか。

 Netflixでのアニメーション第2期が決まってより広く世界が認めるだろう「Aggretuko」をさて、日本はいったいどう受け入れるのか? 1年ほど前にあのニューヨーク・タイムズが「Aggretuko」を大々的に取り上げたにもかかわらず、日本のメディアでその驚きを伝えたところはなかった。アニメエキスポやコミコンといったイベントで「Aggretuko」のブースが大人気だったことを紹介するメディアも見当たらなかった。今こうして世界が熱狂して迎えている「Aggretuko」を逆輸入してクールジャパンの尖兵として紹介する度量はあるか? クローズアップ現代はアニメーションを作ったファンワークスの山晃社長やサンリオでデザインしたYetiさんを読んで面白さの秘密を聞くか? 見守りたい。それにしても2年半前にしっかり取り上げていた自分はやっぱりいつも3年早いなあ。だからブンカブみたいな流行ったものをより流行らせる部署にはお呼びがかからない。まあ良いか、自分で見つけてこうしてアピールできる時代なんだから。お金にはまったくならないけれど。

 「プレゼント・デイ、プレゼント・タイム」。20年前の7月6日の25時15分にこの言葉がテレビから流れてそして不思議な絵柄の少女と不思議な曲調の主題歌がテレビから流れ始めたのを見てハッとしたかどうかは覚えていないけれど、そうやって放送された「serial experiments lain」の第1話となる「Layer:1 Weird」に何かが起こっているという確信を抱いたのは当時の日記にも書いたとおり。いきなりの眼鏡っ娘の自殺から寡黙な少女の静謐というんはあまりにも不気味にノイズが漂う中での登校、そして学校で知らされる不思議な出来事とパソコンおたくな父親との会話になっているかどうか分からない会話、さらには幽霊のような少女の紐となって消えるビジュアル等々、すべてが衝撃的で展開への期待がむくむくと湧いた。

 結果は今、こうして20年が立っても「serial experiments lain」を愛する人たちが日本のみならず世界中にいて、20周年という日を日本でのテレビ東京での放送開始であるにも関わらず祝ってくれる。いったいなにがこの作品をそこまで押し上げたのか、マイナーでカルトな人気があったのは分かるけれども世界の人たちに今なお印象を与え続けているのは何なのか、キャラクターの可愛さとも展開のスリリングさともガジェット描写の確かさともとれつつそれらを包含して描かれた自分という存在への不安、ネットという存在への驚きを今なお人間が引きずり続けているからなのかもしれない。つながりたい。でもつながったら自分はどうなる。現実につながれるようにあってもそこに生まれたのは頂点のような存在と、たこつぼのようになった小さなコミュニティ。その間を言葉にならないノイズが埋め尽くして大切なこと、必要なことは何も分からない。そんな時代を岩倉玲音は、lainは、レインは望んでいたのだろうか。今になって改めて考えたい、「serial experiments lain」の時代を僕たちは今過ごしているのか、それとも未だ過ごしていないのかを。

 まったくもって問題はない。画面が暗いと聞いていたので、IMAXの2Dで見たらどこも暗いとは思わなかった。噂では「スター・ウォーズ」という映画すべてにおいても重要となるハン・ソロとチューバッカのの出会いの場面で、未だ見知らぬ2人が拳で語り合うようなやりとりが暗くてまるで分からなかったと聞かされていたけれど、泥にまみれながらもハン・ソロがチューバッカと戦いつつコミュニケーションをとって窮地を脱し、そして後々まで肩を寄せ合い命を預け合う仲間となっていく場面が、隅々までしっかりと見て取れた。だから画面が暗いという点において「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」という映画はまったくもって問題はなく、そして物語においてもまるで問題にならないくらい面白く、格好良く楽しくて狡猾で残酷だった。

 狡猾で残酷というのは正史としての「スター・ウォーズ」サーガにはそんな言葉はなかなか当てはまらない。正義のヒーローたちがいて護られるヒロインたちがいて、そして悪の勢力がいて対峙し押しつつ押されながらの丁々発止を繰り広げる。そこに騙し欺き引っかけ貶めるような狡猾さはないし、信じていた存在、愛していた存在に裏切られ貶められるような残酷さもあまりない。皆無ではないにしろそこには後に救済や和解といった展開が待っている。「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」はもとより悪党たちが主人公となって帝国軍からエネルギー源をかすめ取るような設定に正義はないし、裏切り裏切られる展開は狡猾さに満ちている。お坊ちゃんお嬢ちゃんたちによる正々堂々とした戦いぶりとはかけ離れている。

 若きハン・ソロは逃げ出した星に置いてきてしまったキーラに会いに戻るべく帝国軍へと志願し、けれどもパイロットにはなれず歩兵として泥まみれになりながら絶体絶命の戦いの中に身をやつしている。いつか確実に死ぬだろう日々から抜け出るためにハン・ソロは戦場で圧倒的な銃使いぶりを見せていた“大尉”を見つけてその正体を暴き、着いていこうとするもののすぎには信用されないハン・ソロは営巣とも独房とも言えて言えない泥の牢獄に放り込まれ、そこでチューバッカと運命的とも言える出会いをする。さあ冒険の始まりだ。実は悪党だった“大尉”ことドバイアス・ベケットのチームに身を寄せ希少なエネルギー源を奪う仕事をこなそうとするものの、うまくはいかず仲間は櫛の歯が抜けるように消えていく。

 名誉ある戦士でもないその残酷な退場ぶりを慈しむでもないベケットのある意味でのプロ意識の高さには感嘆する。狡猾でなければ生き残れない。残酷でなければ生きていけない世界。それはピュアだったハン・ソロに懐疑の念を抱かせたのかもしれない。それがラスト近くのあの場面、あの行動に結びついているのかもしれないけれど、その振る舞いもまた狡猾で残酷。知らず染まっていったのかもしれない。失敗して命が脅かされる中で差し伸べられた救いの手の意外さは、裏返せばそこに至るまでにあった混沌にまみれたひとりのキャラクターの生きざまの上に立つものだろう。それでもハン・ソロには暖かい手に見えたのか。そう信じ切っていたのか。気になるとしたらその部分だ。

 最後の場面でハン・ソロは裏切られる。捨てられたとも言える。それを驚きもせずに受け入れているような雰囲気は、数年の間にあっただろうその苛烈ともいえる日々の中、傅いて阿って生き延びようとしたキャラクターの心情を感じ取り、認めざるを得なかったのかもしれない。それとも未だ信じ続けているのか。そこを知るには続編があって欲しいのだけれど、興行成績の問題から「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」の続編には黄色信号が出ているという。どうしてなんだという疑問も浮かぶけれど、後にカルト的な人気から生き延びた映画のシリーズはいくらでもある。「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」もそうなってくれることを願う。


【7月6日】 ふと目覚めて枕元のiPadでネットにつないだら、アメリカのロサンゼルスで開催中のアニメエキスポ2018に行っている知り合いの人が、サンライズの偉い人が出てきて「機動戦士ガンダム」の実写映画化を発表したと速報気味に書いていたのを発見。これは大事とTwitterあたりから「gundam」「live action」といった言葉で検索をして、サンライズの宮河恭夫社長がバンダイナムコホールディングスの田口三昭社長ともどおアニメエキスポ2018のパネルに登場し、あのレジェンダリー・ピクチャーズと「機動戦士ガンダム」シリーズの実写映画化を共同で進める旨、契約を締結したというニュースに行き当たった。

 過去に幾つもの日本の漫画であるとかアニメーションであるとかいったコンテンツが、ハリウッドで映画化されるといった話が舞い込んできては潰えていったものだけれど、今回は相手が「パシフィック・リム」だとか「ジュラシック・ワールド」といった作品で世界的なヒットをしっかりと送り出し、最近でも「GODZILLA ゴジラ」を作ってハリウッド版ながらもそれなりの面白さを持った作品だと評価されていた映画会社。そして「パシフィック・リム:アップライジング」では途中に立像ながらもガンダムを出したりしていて、存在は認知している感じだっただけにここに来てバンダイナムコグループのトップも交えた会見を行った以上、計画としてもしっかり進んでいるんだろうと類推できる。

 「パシフィック・リム:アップライジング」とかで動いては戦うイェーガーたちを見れば実写の中、たとえ白昼であっても巨大ロボットを重量感もスピード感も持たせて描くことは可能だと思わされる。そこにだからどういったドラマを当てはめるのかが目下重要なところで、あとは誰が演じるかといったところも気になる部分。「機動戦士ガンダム」ではなく「機動戦士ガンダム」シリーズとアナウンスしているところから、ファーストではない何か特別な設定とストーリーで挑む可能性もある。個人的には「機動戦士ガンダム サンダーボルト」が背景さえ理解できれば対立する連邦軍とジオン軍のそれぞれ1兵卒を中心に激突を描いてシンプルに見せられる気がする。ジャズとオールディズの戦いもアメリカの映画ファンには受けそうだし。

 けれども、それでもガンダムとは、1年戦争とはといった知識は必要。そこまでの説明をしっかりして描くんだったらやっぱり1年戦争の発端から末期をチョイスしつつ、ラストの戦いを描くのが良いのかも知れない。あとはやっぱり役者か。「機動戦士ガンダム」なら少年少女の戦いだったし、基本的にそういうところがあるからキッズ向けになってしまう。アメリカで人気という「新機動戦記ガンダムW」だって子どもたちの戦いだし。そうでなく大人の戦いとなればやっぱり「サンダーボルト」になってしまう。さてはて。そしてレジェンダリーといえばジン・ティエンさんの役どころも気になる部分。必ず出てくるレジェンダリーの姫が演じるにふさわしいヒロインは……セイラさんかララァかハマーン様か。これもまた楽しみなところかなあ。いっそヒロインにして「あたしはガンダムで行く!」と叫ばせるとか。それ違う映画だ。

 そんなニュースに湧いていたら、別のニュースに冷や水をぶっかけられるというか、ひとつの区切りを感じさせられたというか。1995年3月20日に発生した地下鉄サリン事件を始め数々の事件を起こし、幾つもの殺人罪に問われ死刑判決を受けていたオウム真理教の教祖ほか幹部らが7人、同じ日に時間をたどりつつ死刑執行されたという。あれだけの犯罪を犯して死刑判決を受けたのだから、そうした法制度がある以上は執行されるものひとつの筋とは言えるけれど、いつもだったら執行されてから弁護士なんかを通じて公表されているものが、なぜか事前に執行手続きの話が広がり、誰が執行されたかを役所が公表までしてしまうという段取りは、いくら事件が前代未聞であっても扱いに今までとの差があり過ぎる。

 同じ死刑なら同じ段取りを辿るのが、たとえ罪に対する罰だとしても国として権力として死を強いる際のひとつの礼節のような気もしないでもないけれど、まるで公開処刑のように誰が執行されていったかが時間の流れと並行して分かってしまう展開は、そこに衆目を集めさせたい意図でもあるのかと勘ぐってしまうし、そうやることで一部には死をもてあそぶ態度への忌避感が出たとしても、大勢は極悪非道な存在に対する懲罰を与える英雄的な振る舞いとして、時の政治なり政権へのシンパシーを浮かべてしまうような気がしないでもない。

 悪と決めたら何が何でも罰して虐げて死を賜ってもかまわないという意識。それが今回の一件で生まれ育まれて定着していった果て、罪という時の権力によって左右されかねない概念を与えられた存在に対して、おおっぴらに罵声を浴びせ死すら与えて厭わない心理が蔓延りかねないと危惧してしまう。オウムはオウムで他は他かもしれないけれど、たがが外れた心理は常に対象を求めて広がっていくもの。誰であっても本来は守られるべき弱者であっても、公共が敵だとうそぶけばそれがゴーサインになってしまうかも知れない将来をどう防ぐのか。そこを考えて欲しいんだけれど今のメディアには無理だろうなあ、過去を示し今を当然と煽って終わりそう。困ったなあ。

 まさかあの怒りのデスボイスが再び世界を席巻するとは。ガンダムなんかも発表されたアニメエキスポ2018のネットフリックスによるセッションで、あの「アグレッシブ烈子」のシーズン2が作られ2019年に全世界配信されると発表されたとか。商社で働くレッサーパンダのOL烈子が、理不尽な上司や無神経な同僚によってたまった鬱憤を晴らすため、ひとりでカラオケに行きデスボイスでデスメタルを歌う、という設定を持ったキャラクター。上司のパワハラや先輩の女性社員からのプレッシャーなど、日本の会社ならではの構造を描いた内容は極めてドメスティックと言える。

 ところが、TBSの「王様のブランチ」で放送されたショートバージョンのアニメーションに英語字幕がつけられた映像がネット経由で世界に配信されるや自分たちのことを描いているといった声が海外で起こり、日本以上に大人気となった。こうした人気を背景に、ネットフリックスではフラッシュアニメ「やわらか戦車」を手がけたラレコを監督に、ファンワークスでアニメーションを作って全世界配信したのが4月20日のこと。それから2カ月ちょっとで一挙のシーズン2製作発表は、よほど反響が良かったってことになるだろー。最近終わったサンリオキャラクター大賞でも、ブラジルとイギリスで1位になったしイタリアドイツフランスUEAでは2位と上位を席巻。そんな人気ぶりはアニメで情勢されたものだけれど、キャラクターとしての人気上昇も再度のアニメ化を促したって言えるかも。

 デザインしたイエティさんは「いアグレッシブ烈子の世界観や感覚は日本人特有のものかと思っていたので、こんなにグローバルな反応があることに驚いております」と話してるし、ラレコ監督も「現代日本のドメスティックなネタてんこ盛りのアニメを世界配信してみたら、かえって海外のほうで好評をいただいてしまい、正直驚いています」と話してやっぱり不思議な経験をしていることを明かしているけれど、それでもきっとシーズン2は今まで以上に日本の働かせ方改革後の大変な状況を盛り込んで、理不尽な扱いを受けている日本のOLとかサラリーマンの姿を世界に紹介しつつ、いずこも同じという共感を得て世界に広がっていってくれるだろう。次はハリウッドで実写映画化とか? それもまた楽しいなあ。


【7月5日】 スポーツニッポンはブッフバルトの入閣を添えつつユルゲン・クリンスマンの日本代表監督就任を報じ続ける一方で、日刊スポーツは西野朗監督の続投を決定事項のように書き続けている。ロシアからFIFAワールドカップ2018ロシア大会に出場した日本代表の選手とスタッフが帰国し、西野監督や田嶋幸三会長による会見も行われて西野監督の契約満了が公表されたにも関わらず、日刊スポーツは「日本サッカー協会は、西野朗監督に年俸2億円(推定)の2年契約でオファーを用意していることが分かっている」と確定事項のように書き、「日本人路線を継続」して「早ければ今月中に再契約の運び」とまで断じている。

 飛ばしのようにして西野朗監督の続投を書いてしまった以上、その路線を継続させることで他のスポーツ紙とのスタンスの違いをアピールしてポイントを稼ごうとしているのかとも思ったけれど、ここまで西野朗監督の続投を確実視している背景にいったい何があるんだろう。よほど日本サッカー協会に太いパイプがあってその言説が100%確定だと理解できる相手から情報を聞いているとしか考えられないんだけれど、そんなの田嶋幸三会長以外にはいないよなあ。でも会長は退任を表明している。ここから先、再び迎えるなら会長は前言を翻さなくてはならない訳で、そういった恥をかいてまで西野朗監督の続投を隠す必要がないならやっぱり違うような気がしないでも内。だったらどうして日刊スポーツは西野続投で行けるのか。いずれ確定した時にいろいろと想像も浮かぶだろう。それまでは模様眺め。

 予告編が流れていて、以前に北川景子さんが演じていたすずさんから喋りが長編アニメーション映画「この世界の片隅に」ののんさに近づいていた感じがしたTBSによるドラマ版「この世界の片隅に」。あれだけ話題になって今なお上映中の映画だけにそれを参考にするのが1番と考えた可能性もあるけれど、そのまま実写にする感じではないようで、榮倉奈々さんを起用しての現代パートというのが作られることが公表されて原作ファン、というよりも片渕須直監督による長編アニメ映画のファンが首をかしげていたりする。確かに蛇足の感はぬぐえず、現代を出さずともあの時代の暮らしや風景を調べ上げ、再現することで今と地続きのあの時代への感慨を抱き、生きていた人たちの共感を誘うようになっている映画に現代パートは不要といった思いが強いみたい。

 これについてドラマのプロデューサーは「この作品の素晴らしさは『戦時中の広島』という、遠く感じる時間と場所を舞台にしていながら、自分たちと地続きのところにある物語だと感じられる」と行っているのに、なぜか「その素晴らしさを表現するため」「ドラマならではの『現代篇』をオリジナルで作」という展開が分からない。過去と今とをつなぐ必要なんてなく、過去に引っ張り込まれることによってそれを体感させるのがフィクションたるドラマの役割だろう、それができないのは過去の再現に自信がないからなのかと言われても仕方が無い。

 ただ、どことなくコミカルでかわいらしいアニメーションのキャラクターによって描かれることで、苛烈な空襲や運命なんかを半歩退いた目線から感じ取れるのと違い、人間が演じてロケやセットで周辺が描かれる実写では、身も入り込みすぎて共感以前に恐怖が浮かんでしまう可能性もある。だったらいったん、現代へと引き取ってそこから過去を眺めさせ、どうだったのかを問い直させるというのもドラマならではの知恵かもしれない。原作者のこうの史代さんもアイデア出してるそうだし、その意味では漫画版の拡張版と思って楽しむのが良いかもしれない。メディアが変われば表現だって変わる。同じのが見たければそれを見れば良いのだ。ちなみに日本テレビ版もリンさんとの出会いとか桜の木にリンさんが乗っている場面とか再現度高くてそして可愛くて綺麗なんだよなあ。そちらが否定されることにはならないでとも願っておこう。

 しかしテレビドラマ化の後に片渕監督による仮称長尺版が公開された後、動き出すのは実写映画版だろうなあ、知名度があって当たりそうな雰囲気を漂わせている題材に映画人が飛びつかないはずはない。北條サンかあるいは草津のおばあちゃんあたりに吉永小百合さんでも据えて東映あたりが映画化を狙ってくる可能性なんか考えていたりする。すずさんはここで名前も重なる広瀬すずさん登場、と。すみちゃんを実際にはお姉さんの広瀬アリスさんにしたら面白いかもしれないなあ。それはない。

 続いてやっぱり来るだろうハリウッド版。すずさんとダコタ・ファニングが演じこちらは妹のエル・ファニングがすみちゃんを演じて周作さんはライアン・ゴズリング、径子さんはケイト・ブランシェットで北條サンはメリル・ストリープといった布陣でアカデミー賞の総なめを狙う。リンさんはジン・ティエンさんとかどうだろう。美人だしかわいらしいのでマッチしそう。問題は円太郎さんかあ、そこはジェイソン・ステイサムで。力強くて頼りがいのある大黒柱感、出るっしょ。出過ぎるか。 問題はそんなハリウッド版の舞台とどこにするかか、ドレスデンではドイツだしロンドンという感じでもない。サンディエゴあたりか。そこに日本軍による空襲があったこといんして。どういう歴史だ。

 1番好きなのは第2部でリサリサなんてシリーズ屈指のヒロインだと思うけれどもその後に登場することがなく残念な思い。でもってどっぷりハマっていたのは第3部で次から次へと現れるスタンド使い、という概念もこのシリーズから生まれたんだっけ、分身に異能を割り当て戦わせるフォーマットがここから生まれて自分自身を鍛え上げての肉弾戦と知恵を巡らせての心理戦はちょっと影を潜めてしまった。でも異能の多彩さで面白がれたからやっぱりあって成功だったし人気が爆発する要因にもなったから設定としては正しいんだろう。そんな「ジョジョの奇妙な冒険」も第4部までどうにか連載で読んでいたけど、第5部のイタリア編に入って日本人でなじんでいた頭に違和感が濃すぎて遠慮していたのが実際の所。だからどういう話かあまり知らなかったんだけれど、今回いよいよアニメ化されると決まってキャストも発表になったんで、ちょっと読んでみようかなと思っている。

 イタリアでギャングスターを夢見ているジョナサン・ジョースターのボディにディオ・ブランドーの頭が乗った人物の子として生まれたジョルノ・ジョバァーナを主人公に、下克上を狙う若者たちの戦いを描いたシリーズってことで、主役のジョジョことジョルノ・ジョバァーナ役には小野賢章さんが決定。第3部の空条丈太郎が小野大輔さんで第4部の東方仗助が小野友樹さんと小野姓が続いたこともあってネットなんかで取りざたされてはいたけれど、一方でゲームだと浪川大輔さんの名前もあったからちょっと迷っていたらこで小野3代が決定。ならば第6部の空条徐倫は小野早希さんか、それとも小野大輔さんと交際が取りざたされている花澤香菜さんが結婚をして名字を変えて小野香菜さんとなって役を取りに来るか。いろいろと楽しみが増えたけれどそこまでアニメ化は行くのかな。その後は。それも第5部の人気次第か。始まったら見ていこう。諏訪部順一さんの役とかなかなか狷介そうで楽しそうだし。


【7月4日】 新宿ピカデリーで見た「ニンジャバットマン」の応援上映には道化師タイプのハーレイクインが来られていてとっても麗しかったけれど、他にジョーカー様とかバットマンとかいるかと思ったらあまりおらず、ゴリラグロッドもやっぱりいなかったからコスプレはなかなか容易ではなかったか、コスプレ層が来るにはまだ情報が広まっていなかったかどちらかか。「バーフバリ」とかでは散々やられてインド人の格好をした人たちが大勢押し寄せているのを見るにつけ、もうちょっと回を重ねればそうしたコスプレの来場者も増えるかもしれないけれど、やっぱり初回ではその当りの塩梅が掴めなかったのかもしれない。

 それはコールなんかも同様で、臆したりタイミングが掴めなかったりで衒いと照れも混じっていて、「キンプリ」勢なんかが見せる一致団結しての声援だとか、「プリパラ」に来ていたi☆Ris勢の一糸乱れぬコールのような現象はまだあまり聞かれなかった。GAT−TAIって歌での「合体合体合体合体合体合体がったーい」なんかは会場中が唱和しても良かったと思ったけれども聞こえず。ただエンディングではまとまってきてたんで次の応援上映があればもうちょっと派手に騒がしいイベントになるんじゃなかろうか。ってことで7月10日と12月に開催予定。どっちかまた覗いて来ようかな。ハーレイクインさん来てくれるかな。

 Rentaの方で第1巻だけ読んでみたらこれがなかなか面白かったジャスミン・ギュさんの漫画「Back Street Girl」が、なぜかテレビアニメーション化されて「Back Street Girls−ゴクドルズ−」だなんてタイトルで放送スタート。ヘマをしたヤクザの組員が最近流行っているそうだと組長に言われタイで性転換手術を受けさせられ、厳しい訓練の果てにアイドルユニットとしてデビューさせられてしまうという無茶な設定の漫画はそれが漫画ならひとつのカテゴリーとして好事家に読まれ喜ばれていて悪くはないけど、テレビアニメーションという半ばオープンな世界でヤクザで性転換でアイドルだなんて展開を見せられ、ファンでない人は大丈夫かと思ったら案外に受けている模様。

 それは或いはヤクザ社会の掟であり、アイドル世界のルールめいたものをギャグに交えて描いてあるところが面白がられているのかもしれないし、美少女たちが中身ヤクザの兄ちゃんたちな関係で、あられもない格好を平気で見せるギャップでありサービス的なカットが受けているのかも知れない。漫画での面白さは損なわれずアニメになっているというか、ほとんど動かない絵でもって漫画をそのままアニメに置き換えているようにも見えるけれど、細かいコマとか見ていくとアニメはアニメでフレームに合うようなサイズや構図に変えてある。そこはだから漫画感は残しつつアニメで見て違和感のないよう配慮されているのかもしれない。

 そんな演出を担当しているのが「のだめカンタービレ」の第2期と第3期とか「アルカナ・ファミリア」とか「純情ロマンチカ」シリーズなんかを手がけている今千秋監督で、漫画をそつなくアニメにして見せるところは相変わらずの腕前。「美少女戦士セーラームンCrystal」でもデス・バスターズ編のシリーズ・ディレクターを努めて以前のテレビシリーズに近いビジュアルを感じさせつつ原作漫画の色も残した絶妙な仕事をみせてくれた。今回の「BackStreet Girls−ゴクドルズ−」でもきっと安心の仕事ぶりを見せてくれるだろう。

 気になるのはオープニングでシルエットで踊っている女性がどうやら今千秋監督自身らしいこと。最初はゴクドルズでも女性の方の声を担当している声優かと思ったけど、エンドクレジットに「踊り 今千秋」と書いてあってちょっと吹いた。そう言われてみればなるほど同じ体型の3人が踊ってる。以前にセーラームーンのコスプレ姿でイベントに出場するくらいのはっちゃけぶりはあっても、オープニングでアイドル然として踊るとまでは予想はつかなかったかというと、ノリの良さみたいなところがあるから踊っても不思議はないかも。監督作品の中に本人を出していたナベシンことワナタベシンイチさんの女性版みたい。番組のイベントがあったら顔出して踊ってくれるかな。ちょっと見てみたいな。

 今もなお名作として読み継がれている三原順さんの漫画「はみだしっ子」を以前に男性だけの劇団として知られる劇団スタジオライフが舞台化したけれど、その続きがいよいよ舞台版『はみだしっ子 〜in their journey through life〜』として10月から東京都大阪で上演される模様。その製作発表会があったんで見物にいって、脚本・演出の倉田淳さんや三原順さんとデビューが同じ笹生那実さん、三原順ファンクラブを長く運営していた柴咲美衣さんらのトークなんかを聞く。実は前回の舞台版は見れてなかったんだけれど、倉田さんは「休憩があると帰ってしまう人が出るかもしれないと、休憩を無した」とか。そりゃあ恐怖だっただろう、ファンから何か言われるかも知れないと思うと。

 結果、舞台版は大人の名うてのファンも泣かせるくらいのしっかりした舞台になっていた模様。笹生さんは台版を観劇した感想を「大人がやっていると思っていたはずなのに、いつの間にか子どもが4人いるとしか思えなくなって引き込まれた」と振り返っていて、そのシチュエーションに役者をおいてしっかりと雰囲気を出してのける倉田演出がハマっていた感じを教えてくれた。柴咲さんは「セリフのひとつひとつが大切に作られていた。立ち姿や手の組み方、走って行って止まるところの足の角度まで、細かいところに愛があった」と話して、原作マンガを熟読していた人が見ても違和感がない舞台に仕上がっていたことを明かしてくれた。

 これならもう安心、あとはどこまで描かれるかってところになりそうだけれど、前回の舞台版ではそれこそ文庫本の1巻あたりまでくらいしか描かれていなかったそうで、4人の少年たちが身を寄せ合って生きている背景が丁寧に描いてあったとのこと。それ故に上演直後から続編への要望があって、倉田さんは「雪山について聞かれる」ことが多かったと話していた。雪山で4人が遭遇するエピソードは、全体の中でも大きな比重を占めていると言えそう。それが描かれるかというと今回はまだらしく、その手前のエピソード「そして門の鍵は」のあたりまで描かれる見通し。もしも今回の舞台も好評なら、いよいよもってファン待望の「山の上に吹く風は」以降も舞台かされることになる。ならばもう行くしかないよなあ。実は原作をあまり知らず前回も見ていない僕だけれど、予習してからのぞきにいってみようかな。その前に「カリフォルニア物語」も見たいなあ、10年ぶりの舞台化が7月開演。これも期待。

 どっちやねん。サッカー日本代表がベルギーに敗れて終戦を迎え、そして監督がどうなるかに注目が集まる中で日刊スポーツは西野朗監督の続投を記事に書いてきたけれど、スポーツニッポンの方は元ドイツ代表監督のユルゲン・クリンスマンが監督になるかもって記事に書いてきた。就任後、人数が1人少ないコロンビアにしか勝てなかった西野監督が続投なんてあり得るはずもないけれど、ドイツ代表監督として2006年に3位となったのが最高くらいで、アメリカ代表を率いてワールドカップ出場からセカンドステージ新種とまでを果たした代表監督としての成績を、欲しいかというとそれならハリルホジッチ監督の方がましといった思いも浮かぶ。それはさすがにないならもうちょっと、育成と組織力の向上をはかれる監督に来て欲しいところ。それこそ8年後を見据えたチーム作りができる監督なんているかなあ、いたら他国が放っておかないか、ワールドカップ杯出場を決めても解任される国になん来たくもないだろうし。妙なところで尾を引くハリルホジッチ監督解任の余波。参ったなあ。


【7月3日】 そういえば最後にうなぎを食べたのはいつだろうと振り返ると、去年の土用の丑あたらいだったような記憶があるけれど、どこかのうなぎ屋さんにはいて食べたというより、スーパーだかコンビニだかで売られている鰻丼鰻重の類を買って食べた程度で、それがとてつもなく美味かったといった記憶はない。半ば習慣として食べているだけで、別に食べなくても済みそうではあるけれど、これがもう食べられないとなったときに果たしてだったらもう食べないとなるか、最後に食べておきたいとなるかは判断に迷いそう。最後だからと食べてそれが絶滅の決定打となったとしたら……後悔はしないかなあ、早いか遅いかの違いだし。

 そうなんだ、もう遅いんだよというのが目下のシチュエーション。せめてあと10年、コンビニだのスーパーだのが売り出す以前に戻ればどうかと思わないけどもないけれど、中国とかが人口の増加に合わせてうなぎを食べ始めたら日本がどうとか言ったところで止まらない。もう運命なのだと諦め、そして運命だったと悟った未来において人はうなぎに対して何を思うのか。それを考える一助になりそうなのが、倉田タカシさんの連作短編集「うなぎばか」(早川書房、1400円)なのかもしれない。

 老舗のうなぎ屋が店を閉め、店主はベジタリアン向けの料理人になっていて、その息子は将来の培養なりが可能になる時代に向けて、秘伝のたれを受け継ぐべきか否かを問われる「うなぎばか」に始まって、うなぎに限らず海洋資源が枯渇し懸かっている未来に起こる、監督官と密猟者との戦いが描かれた「うなぎロボ、海をゆく」、水産会社の元女子バレー部員たち4人が、持ちこまれた南米の山奥で飼われているという山うなぎとやらを求めジャングルを行く「山うなぎ」等々、うなぎに関わるエピソードが幾つも収録されている。山うなぎの意外な正体にそうなのか、って思ったりもしたけれど、でもやっぱり世界的にはそれを食べるのは厳しかもしれないなあ、日本人だって最近は食べないようになているから。

 拾ったタイムマシンを使い、土用の丑のコピーを考えた平賀源内に会いに行ってそんなことしないでとお願いする「源内にお願い」も、だからといって絶滅の未来は変えられずそれどころか人類の未来にだって関わってくる展開に、地球の生きる生命として足下を見つめ直すべきだと思わされる。そして「神様がくれたうなぎ」。お願いして絶滅が少し伸びるならお願いするべきか、それでどうにもならないなら自分の好みを生かすべきか。迷うなあ。ともあれ読むとやっぱりうなぎが食べてみたくなるエピソード。土用の丑も近いこの時期に発売をして読ませることによってうなぎ屋へと足を運ばせ、絶滅の決定打を放つためにどこかから送り込まれた反うなぎ連合の鉄砲玉かもしれないなあ。絶滅したら作者も早川書房も責任とってと言われるかも。

 さすがにずっと目を覚ましてはいられず、うつらうつらとし始めていた後半になって、ふとテレビに目を向けると得点が入ったシーンが映っていて、先取点かと思ったら2点目で、あのベルギーを相手にサッカー日本代表が2点を奪った状態で後半を戦っていることが分かって、これでもしかしたら勝ってベスト8に進めるんじゃ無いかといった夢がふくらんだ。いやいや、後半に入って2点リードなら夢ではなくて確信だろうと言いたい人もいるだろうけれど、なぜか昔から2対0は危険なスコアといった伝説がサッカーにはあって、あっという間に追いつかれたり、逆転されたりしてリードしていたチームが敗れるケースが多発しているかの如くに伝えられているから安心はできない。

 それが統計的に事実なのかどうかは検証が行き届いていないから分からないけれど、印象としてそういった事例があって、なおかつ説得力も漂わせているのは2点を奪ったチームだけれど、決して普段から圧倒的な強さを発揮しているチームではない関係で、1点を返されたら1点差になてしまうといった不安が、まだ1点差あるといった安心を上回って全体を覆って体を動けなくする可能性があるんじゃないかと思われるから、だろー。そして1点を追加されて同点にされたらもうおしまい。また1点を奪えば良いじゃないかという楽観には傾かず、勢いもそのままに1点をさらに追加されてジ・エンドになる。そんな“確信”を抱いてしまっている。

 そして、FIFAワールドカップ2018ロシア大会のセカンドステージ1回戦、日本代表はベルギーにまさにそうした展開によって敗れてしまった。カウンター気味に前へとスピードアップして攻めて2点を奪ったまでは良かったけれど、そこからグッと守備を固めて試合を終わらせる方向へと注力すれば勝てたような気がしないでもない。グループステージのポーランド戦後半、日本代表は負けていながらもそうした時間稼ぎを長時間に亘って行い勝ち上がった経緯がある。なりふり構っていられないならベルギー戦でも残る20分を逃げ切る覚悟で臨んで欲しかった気がしない。

 ただ、すでに勝利しつつもグループリーグでの敗退が決まっていたポーランドとは違い、ベルギーは負ければ終わりのトーナメントで逆の意味でなりふり構っていられない攻撃を仕掛ける可能性が高い。その圧を凌ぎきれるかというと難しいなら、3点目を奪い決定づける必要を感じたのかもしれない。それも悪くは内けれど、同点にされてもう残り時間が少ない中で、勝ち越しを狙いに出たのはやっぱり間違いだったんじゃないのかなあ。たとえ延長になって選手がおらず体力が残っていなかったとしても、それは相手も同様かもしれないし、勝ちきる覚悟を決めればしのぎ切れたかもしれない。けれども本田圭佑選手は、アディショナルタイムに入っているにも関わらず、コーナーキックを隅っこで保持する戦術はとらずにまっすぐ蹴り込みゴールキーパーにキャッチされ、そこから速攻のカウンターを決められてしまった。

 万事休す。そのままタイムアップとなってピッチに倒れ伏す選手もいればピッチを殴りつける選手もいる。はいお疲れ様。ずっと仰向けで邪魔する選手がいなかっただけましかもしれないけれど、試合が終われば健闘をたたえ合うのが通例のピッチで嘆き続けているのもどこか空しく感じられた。そこで悔しがるならなぜ歯がみしてでも守備に徹しなかった、ってこと。あの時間帯なら誰も非難はしないだろう。ポーランド戦でのあからさまな時間稼ぎですらセカンドステージ進出のために必要だったと一部ファンから擁護された訳だから。

 そして、そうした時間稼ぎをしなかったたベルギー戦は一部ファンは徹底して糾弾するべきなのに、検討をありがとうといった具合に称賛しようとすらしている。矛盾も甚だしいけれど、そういったフローのお客さんを相手にしていれば安泰と思っている日本サッカー協会がいる限り、日本代表に本当の意味でのプロフェッショナルな意識は生まれないんじゃなかろーか。代表選手も半分以上はこのまま代表からいなくなりそうで、なおかつ出場できなかった選手も大勢いる中で次の代表の舵を誰が取るのか、そこにどんな選手が選ばれてくるのかが4年後のワールドカップに向けて注目ポイントになりそう。まずはやっぱり監督だけど。1勝2敗1分けのチームで満足して西野朗監督に託すならそれは無謀だし、受ける側も無茶が過ぎる。でもベスト16になったこと、それをもって続投を依頼する可能性が高そうなのがどうにもこうにも。だったらトゥルシェ監督にもう4年、やらせても良かったじゃないかって話になるし。どうなるかなあ、次の試合は見に行ってみようかなあ。

 京橋で水江未来さんが展覧会をやっているってでのぞきにいく。クラウドファンディングに応じた「WONDER」を久々に見て変幻自在に移り変わっては成長して衰えまた生まれる細胞のようなものどもの動きを見ていると、生々流転の命のことわりを思い浮かべて目先の勝敗とかに一喜一憂しているのがどうてもよくなり明け方のサッカーの試合で揺れた心がふっと落ち着く。新作の「DREAMLAND」は幾何学的な構築物が動く「MODERN」シリーズに連なる系譜の作品だけれど、途中で大きく広がり積み上がった構築物が壊れ朽ちたシーンがはさまれる。いつか訪れる滅亡。でもそこから構築物が動き始めて全体に広がる展開に、しつこさをもって生き延びようとする都市の生命感といったものも感じられる。人は、命は簡単には潰えないし滅びない、ってことなのかも。原画を2枚ほど買ったけど日本で見られる機会はほかにまだしばらくなさそうなんでまた行こう。


【7月2日】 無敵艦隊のスペインも散って残るは既にベスト8へと勝ち上がったフランスと、そしてベスト8入りをかけてコロンビアと戦うイングランドが残るくらいになってしまったサッカー超大国代表チーム。もちろんロシアだってクロアチアだって強いしスイスかスウェーデンが残ってもそれなりに活躍しそうだし日本が勝てるとは思えないベルギーだって上位を狙えないこともないけれど、過去にワールドカップで優勝できた国は欧州ではイングランドとフランスくらいしか残っておらず、南米では勝ち上がったウルグアイとそしてメキシコとの対戦を控えたブラジルくらい。それらが残ってフランスブラジルロシアイングランドがベスト4に残ったあたりで、世界最高峰の戦いめいた様相を呈してくるんだろうなあ、FIFAワールドカップ2018ロシア大会は。

 好みでいうならもうずっと優勝から遠ざかっているウルグアイかイングランドに決勝を戦って欲しい気がするし、フランスとイングランドが残って100年戦争の因縁をここで晴らすと行った歴史ドラマも見てみたい。開催国のロシアが残ってブラジルと激突というのも捨てがたいけどそうした枠に日本が入る可能性が見えないのは、やっぱりああいった試合をしてしまってサッカーの神様が残ってはいけないと思っているんじゃないかってところが大きそう。真正面から戦って勝ち抜いてこそのスポーツであり、かつて村同士の戦争に近かったフットボールという競技でもある。逃げて逃げ延びたチームに栄冠はない。だから今回は諦め次にこそ、って思うんだけれどそういう継続性なんてカケラもないから。いずれエクスパンションで48チームが出場するようになって、日本は出場だけの常連国としてその名を漂わせることになるんだろうなあ。やれやれ。

 顔が近い、というのが真っ先に浮かんだ感想で、エポスカードという丸井グループから提供されているカードのCMから、「夏をやりなおす」の少女から、「おそまつさんVR」の松野家の六つ子たちから、「evangelion:Another Impact(VR)」のエヴァ無号機から登場するキャラクターのことごとくが、観客であるところの僕らの方に顔をぐっと近づけてくる。もう目の前に美少女たちがいて六つ子がいてエヴァがいるというのは、仮想の世界に身を置くVRコンテンツでは当たり前のことかもしれないけれど、それが映画館で体験できるというのは貴重だし希少な経験。いくら巨大なスクリーンでも、そこにどアップで顔が映し出されても普通の2D映画では眼前に迫ってくるような感覚にはならないし、3D立体視映画でも眼前まで顔が飛び出してくるようなことはないからね。

 映画という世界において、ある程度の距離を持って佇んでいるキャラクターが、手前のあらゆる物体をまたいで観客方へと顔を突き出すことはない。それを可能にするVRという技術を映画館へと持ち込み、客席に座ってVRヘッドセットを装着してVRムービーを見るという「映画館でVR!」という興行はだから、映画というこれまでの形式では絶対に埋められなかった客席からスクリーンまでの距離を、限りなく近づけた画期的なものだと言えるんじゃなかろーか。そしてVRという映像技術を映画館で上映するという、これまでの映画興行史においても、また今回上映されるコンテンツからアニメーション映像の上映史においても、ひとつの歴史的な出来事かもしれない。

 ってことで初日初回を新宿バルト9で見て来た「映画館でVR!」。すでに「夏をやりなおす」についてはプレス向けの発表会ですでに見てはいたけれど、改めて見返して一種のサスペンスでありホラーといったカテゴリーの中で、身にグサッと刺さるような怖さを感じられた。それは迫ってきて驚かせるようなものではなく、誘われて引きずり込まれるようなもの。眼前にグッと迫ってくる少女によって誰もいない学校の中を校庭から教室、渡り廊下、そして屋上へと連れ回され、そこでとある行動を共にさせられる。

 「おそ松さんVR」についてもAnimeJapan2018のビジネスデーにアドアーズのブースで体験したから内容は分かっていたけれど、銭湯に素っ裸でいる六つ子のスポットで隠されてはいるその下にある危険な臓器を想像すると知らず口元が緩んでしまう婦女子の方もいるかもしれない。そんな背徳的な映像をたった1人ではなく、大勢の観客と共に見ているというシチュエーションにもなかなかにグッと来るものがあるだろう。

 そして「evangerion:Another Impact(VR)」。前に「日本アニメ(ーター)見本市」のために荒牧伸志監督で作られたフル3DCGによるエヴァンゲリオンの短編アニメーション「evangerion:Another Impact(Confidential )」を元に作り替えられたのだけれど、暴れ回るエヴァを眺めるといった「日本アニメ(ーター)見本市」版の立ち位置から、真下で見上げて巨大さを感じ、リフトで持ち上がって顔に近づいて恐ろしさを感じ、地上で遠目に見えるエヴァにミサイルがガンガンと撃ち込まれていく迫力を感じ、そのエヴァが何事もなかったかのように動きだし迫ってくるとてつもなさを感じるといった具合に、観客とエヴァとの間にある種の関係性ができていた。

 すなわち映像の中の誰かになったような気分。立体視の3Dでも自分が映像の一部になったような感じは味わえない訳ではないし、4DXやMX4Dといった動きや光、風や匂いといった演出もそうした没入感を高める。けれどもVRはもっと直接的に自分自身がその世界に立っている気にさせる。それがVRの特質ではあるけれど、エヴァという元のアニメーションの時から真下から見ての見上げるような巨大感、遠巻きに見ての建物群から半身をのぞかせた巨体感といったものを、その世界にいる誰かの視点から堪能できる。これも館内のスピーカーから流れるサウンドが、エヴァの歩みの重たさといったものを身に伝える。家でVRを見ていては味わえない体感だ。

 3本で20分弱の映像とVR広告、そしてガイダンスなどを含めて30分1500円は高いか安いか。その価値をどう感じるかにもよるけれど、映像的な驚きはあって体験としての面白さはあり、何より映画館という場所でVR映像を鑑賞するという今までになかった体験をさせてくれるのが、この『映画でVR!』先行上映会だ。自分がもしも歴史の一部を感じたいと思っているなら、ルミエールによる映画の発明のような場に立ち会いたいと思っているような人は、避けずに行っておくべきプログラムだろう。次は清水崇監督の本格ホラー「呪怨VR」も上映される可能性があるようで、『夏をやりなおす』のような切なさも感じさせるホラーではない、身にぐいぐいと迫る恐怖を味わわせてくれる場になりそう。怖いけど見たいけど怖いなあ。

 五味彬さんという写真家による、ヌード写真集というよりは女性の体格図鑑的な「YELLOWS」という写真集が出版されようとして断裁される“事件”が過去にあって、すでにヘアヌードだって“解禁”されていたのにどうしてといった謎も浮かんだけれど、紙で出せないならこのごろ流行りのCD-ROMで出そうという話が江並直美さんというデザイナーから来て、それでデジタローグという会社を作ってCD−ROM版「YELLOWS」を出したら売れに売れた過去を振り返るトークイベントがデジタルハリウッドであって見物に行く。紙ではしがらみとかがあって出せないものも、マルチメディアなら出せるんだと行った可能性を感じさせてくれた一件だったけど、それから四半世紀近くが経って見渡すと、逆にデジタルが不自由になってやしないかといった思いが浮かぶ。

 今のGoogleでありAmazonでありAppleといったデジタルコンテンツの流通プラットフォームを握っている企業が、法律とはまた違った基準の見えない規制を盾にいろいろと“検閲”している状況があったりするからで、裸はダメだとか、良くても今度は煙草がダメだったりと制約があって、デジタルパブリッシングのプラットフォームの乗せられず売ることもできないことがあるという。五味彬さんはだからそうしたプラットフォームのシステムに乗せて広く売り稼ぐようなことは難しくなるけれおd、ウェブを使って広く見せて作品や作者を広める方法がこれからは“有効”になっていくんじゃないかと話してた。

 フリー化に近いけれど、そうやって広まることで別の形で対価といったものは得られる。あるいは対価というよりは支援といったものか。ボイジャーを率いてデジタローグとデジタルパブリッシングで共闘していた過去を持つ萩野正昭さんも登壇していて、対価というよりコンテンツ全体をもうサブスクリプション的に取り放題めいた感じにしてそこに対価というより支援金、パトロン的な感じでお金を投じてくれる人たちのサークルがコンテンツを支えていくような可能性めいたものを指摘していた。片岡義男さんのサイトとかそんな感じ。もちろん作品数の多いベテランだからできる話で、新人がそれで食えるかは難しいけれど、知ってもらうためのツールとしてウエブは有効。そのための腕を競いツールを使いこなし作品を溜めて見せる努力をと話してた。変わるマルチメディアであり電子出版の中で、どういった世への出方あるか。そこからどういった人が出てくるか。見ていきたい。


【7月1日】 2005年のU−20世界大会でオランダ代表のクインシー・オウス・=アベイエ選手が本田圭佑選手や水野晃樹選手らがいたU−20日本代表と対戦しては猛スピードの突破でもって日本の守備をぶっ飛ばし、アシストなんかを奪ったりしていったい何だこの選手はと驚かせた。当然にまだ20歳以下の選手だった訳だけれど、スピードもあればテクニックだって持っていて世界にはこれだけの才能がいるのかと驚かせ、日本もフィジカルとスピードとテクニックを持った若い選手を育てる必要があるなあと感じさせてくれた。あれから13年。結果として日本にスゴイワカテが見いだされ育まれる土壌は育たず今回に至っては年配の選手ばかりが重用されて2022年のカタール大会が不安になるほど。もしもこれでアルゼンチン代表を粉砕したフランス代表のキリアン・エムバペ選手と対峙したなら、木っ端みじんどころか完全消滅させられるんじゃなかろーか。

 それくらいの事態に直面して世界との差を痛感し、若手育成の要を感じて欲しいんだけれどそれができるなら2005年のクインシー・ショックを受けて何とかしている。でも変わってなくてあの時に主力だった本田選手が未だ代表として現役とは言え衰えは隠せず、平山相太選手や梶山陽平選手や森本貴幸といった期待されてJリーグなどでそれなにに名をはせた選手も日本代表に定着しないまま晩年を過ごしていたり、現役を引退したりしている。そして続いていった世代から世界に名をはせるスーパースターは未だ生まれていない。やろうとしていないだけなのかもともと無理なのか。そこは議論も百出しそうだけれども少なくとも、次代に据えたい若手に経験を積ませておく継続性だけは保っておいしかったけれど今回はそれもなし。今の不安よりも未来への不安の方が募る中で迎えるベルギー戦、どうなるかなあ、木っ端みじんにされて目覚めて欲しいんだけれどなあ。

 しかしやっぱり凄かったフランス代表のキリアン・エムバペ選手のスピードとテクニック。ただ早いだけじゃなくってすっと抜けだしボールを操り足下に治めてシュートを放つなりパスを出す。だからちゃんと得点に結びつくし、だからこうして19歳ながらもフル代表に選んでもらえる。ティエリ・アンリ選手やニコラ・アネルカ選手といった先達の名も挙げられ比べられているけれど、ことスピードに関してはアンリ選手よりもアネルカ選手よりも上なんじゃなかろうか。今はパリ・サンジェルマンに所属してリーグ1で活躍しているけれど、遠からずブンデスリーガなりプレミアリーグなりリーガエスパニョーラなりに移籍してビッグ倶楽部でチャンピオンズリーグを戦っているんじゃないかなあ。セリエAはフランス系の選手が活躍できる場所かというと。とりあえずワールドカップ後のカルチョ・メルカトーレに注目だ。

 一方で今のサッカー界を2分するとしたら両極に挙げられ、ブラジル代表のネイマール選手も入れれば三つどもえでしのぎを削っていたうちのポルトガル代表クリスティアーノ・ロナウド選手とアルゼンチン代表リオネル・メッシ選手がともにベスト16で姿を消すことになってしまった。アルゼンチン代表は逆転したもののキリアン・エムバペ選手のスピードの前に再逆転をくらい、そこから1点差まで迫ったものの追いつけず終戦。4度もワールドカップに出ながらついに優勝の栄冠を得られなかったリオネル・メッシ選手はそこがディエゴ・マラドーナ選手に追いつけない部分として一生つきまといそう。ポルトガル代表としてたぶん最後のワールドカップに望んだクリスチアーノ・ロナウド選手も同様。あれだけの栄冠をクラブチームで得ながら。とはいえワールドカップよりある意味で栄冠のEUROをとっている分、メッシ選手よりは浮かばれるか。そこが南米選手権とは違った価値なんだよなあ、欧州の。

 暑さの中をまどろみつつどうにか起き出して多摩センターへ。大手町から地下鉄千代田線で代々木上原経由で唐木田まで行ければストレートだったんだけれどまずは列車が多摩線に入らないので終点になってた成城学園前駅まで行ったもののそこから唐木田へと向かう列車は出ておらず、登戸まで行き新百合ヶ丘行きまで乗り換えてから唐木田方面へとどうにかこうにか乗り換え多摩センターへとたどり着く。目的はもちろんサンリオピューロランド、って誰かと遊びに行くはずもなく2018年サンリオキャラクター大賞の発表ってのを聞きに行く。ものすごい人が来ていてめいめいがキャラクターのぬいぐるみなんかを持ったりしていて、未だ根強いサンリオキャラクター人気って奴を目の当たりにする。

 そんなファンの思い入れもあり、歴史などを踏まえた客観的な価値基準もある中で選ばれたり選ばれなかったりしたキャラクターへの嘆息もあれば驚嘆もあったりで、どのキャラクターにどういった支持があるかが感じられて面白かった。10位までに「KIRIMIちゃん.」や「けろけろけろっぴ」が入らなかったことに「えー」ととんだ声なんか、それを意外と感じる人の多さってやつを感じさせる。新しかったり伝統があったりしてどちらも評判になっているからなあ。そんな2つを上回る人気ぶりってことになるベスト10に入ったキャラクターに意外性はなく、「シナモロール」が2連覇を果たし「ポムポムプリン」が連続しての2位に甘んじたことも、「ハローキティ」だけではないサンリオキャラクターへの支持の広さを表す。

 そして「YOSHIKITTY」の3位ランクイン。去年おととしと7位には入っていて人気が高いのは分かっていたけど今年はファンを誘っての投票なんかも多かったみいで見事にベスト3入りを果たした。面白かったのはベスト10を発表する前に結果として4位に入った「ハローキティ」がすっと姿を消したことで、そして順位発表では「YOSHIKITY」が登場してそこに「ハローキティ」はいなかった。つまりは「YOSHIKITTY」は「ハローキティ」が変身したものであって同じ場に2人の「ハローキティ」は居られないっよう配慮されているんだってことが分かってやっぱりミッキーマウス同様に気を遣うんだと知れた。キャラクターはそこがなかなか大変なのだ。

 あの界隈のそれを言われたら信じてぶっこいてしまう態度ってのはいつも変わらないというか。いわゆる潜伏キリシタンに関する様々な遺構や事跡がユネスコの世界文化遺産に登録されたことに対して、日本の恥をどうしてさらす、キリシタン迫害は日本人と日本文化防衛のための正しい行いだったんだと言い始めている勢力がる。いわゆる保守と自称する勢力だけれど神楽日毬が目にしたらこの国よりも己がプライドを尊ぶ似非保守めがと罵倒されそうな一味が言うには、「キリスト教による神社仏閣の破壊」であり「奴隷売買」をキリスト教会が行っていたのを豊臣秀吉が止めさせたというものだったとか。

 そういう説もあるにはあるけど、それですぐさまキリシタンが大弾圧された訳ではない。むしろしばらく秀吉はキリシタンに布教を認めていた。本格的に禁教と弾圧が始まるのは秀吉没後、徳川家康政権になってからで、鎖国政策とも相まって大弾圧が行われては改宗の強制が頻発した。遠藤周作による「沈黙」のような事案も起こった。映画になった、あれ。こうした弾圧も、なるほど日本を守るための行動と言えない訳でもないけれど、どちらかと言えば徳川政権の安泰のためであり、権力基盤の強化のためであってそうした強権の下で信仰が、かつて海外でも起こっていたように抑制され弾圧され迫害されたという事例であって、その結果として世界のキリスト教から隔絶された日本独自のキリスト教的であり仏教や神道の要素も入った宗教が生まれたといった”文化”を遺産として残そうとしたのが、今回のユネスコ文化遺産登録だったりする。

 そこにはある程度、信仰という人の尊厳に対する迫害を批判する意識もあるだろうけれど、弾圧した日本のそれも徳川政権だなんて今の自分たちには関係の無い政体を貶めるというよりは、世界であらゆる場所で行われている人権蹂躙、自由の制限といったものへの警鐘であって、共にここから学ぶことはあっても、弾圧を正当化してホルホルすることはあってはならないと思うのだった。でも界隈の人はサヨク的な反権力の思いが背後にあって日本の誇りが貶められたと言いつのる。どう説明したって聞く耳持たないこの界隈を、けれども教育が諭し政治が正すようなことはない。だって今の政治の下で教育が国粋を尊び自由の制約などあって当然と感じているのだから。やれやれだ。


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