縮刷版2016年4月中旬号


【4月20日】 かけつけた千穐楽は満席のなかで幕を開け、そして「スナモドリ」が流れる中のダンスも交えての登場人物紹介を経て本編へと入り、初日と変わらずところどころアドリブも交えながら進んでいった「クジラの子らは砂上に歌う」の舞台。サミに訪れる運命を大きな転換期にして動乱に巻き込まれていく泥クジラの住人たちの、理不尽に対する憤りがあり強権に対する諦めがあって迷い惑っていく中でも、自分を取りもどしてそこからは見失うことなく前へ、未来へと足を踏み出すことを決意したチャクロによって物語は引っ張られ、そして勝利をその手につかみ取るエンディングへと進んでいく。

 自分にもっと力があったらと悩みながら、それでも記録を残して伝える自分の使命をしっかりとこなすことが結果として、泥クジラのみんなの意識をまとめ引っ張っていったチャクロというキャラクター。漫画版ではそこまで目立った役ではなく、どちらかといえば傍観者であり観察者といった立ち位置なんだけれど、それを舞台では赤澤燈さんが少年らしい熱さを持ったキャラクターに仕立て上げ、演じてくれていた。筋がピンと通った舞台になったのは、そんなチャクロ=赤澤燈さんという存在を立てられたからかもしれない。

 そして周辺にオウニでありスオウでありマソオでありロウやネズといった面々を配置して、結束によって泥クジラを前身させていく物語って奴を作り上げた。短い中で観客を引き付け主題を感じさせるための配置が、本当に巧くいっていた。そんな気がした。ギンシュねえさんやクチバといった面々も、チャクロの物語に勢いを与え理性ももたらし起伏の中から泥クジラに高まっていく結束といったものを感じさせた。だからだろう、見ていてどんどんと気分が高まっていったのは。群像劇の上に年代記も載せた元の原作をギュッと凝縮して短時間の中に詰め込んで、それでいてちゃんと分からせる。舞台って凄いと改めて思った。

 2回目となる観覧では長老たち、ハクジの加藤靖久さんとラシャの田中良子さんの舞台映えする演技や立ち居振る舞いにグッとひきつけられた。加藤さんは老人に見せつつもしっかりと通る声で噛んで含めるような言い回し、そして若者の愚行を嘆くような声音をしっかりと出して、泥クジラに長く生きて感じた絶望と諦観をその身に、そして声に乗せて他とは違った立場であることを示していた。田中さんも老女に見せつつ過去に起こったことを考え、それで良かったのかと自戒しつつ、新しい波にも心を向けて起こることをしっかりと受け止めようとする賢者ぶりを、しっかりと見せてくれていた。この2人がアンカーのように舞台の格調を高くして、ともすれば若さに任せ勢いにあふれてガチャガチャにんらう舞台を引き締めた。配役の妙であり、演技者の技が光った。

 帝国の面々もまた、それぞれに帝国のために忠義を尽くそうとするもの、己の願望を実現させようと画策するもの、失われているはずの感情があふれ出して周囲を染めて暴走するものといった具合に、特徴をしっかりと出しつつそれが総体として帝国となって泥クジラに向かっていく感じを出して、敵としての存在感を持たせつつも決して無情なだけの集団ではなく、一枚岩でもない複雑さってやつをのぞかせていた。つまりは誰もが思いを持って生きていて、願いのために動いている。展開のためだけに配置されたテンプレート的なキャラクターがいない。現実ではあたりまえのことでもフィクションでは展開のためにそうしたことも起こり得るのが、この舞台では全員に意味があり、意思があった。それが見ていてより深い感動を誘った理由なのかもしれない。

 千穐楽、ちょっとセリフを言い直したり、団長とオウニとの戦闘シーンで団長が離した棒が早く倒れてしまってそれうぃサイミアガールがつかめず拾い直したりといったミスもいくつかあったけれど、全体としてはやっぱりしっかりと考え抜かれた殺陣があり、アクションがあって場面の転換があり、それなりの広さをもった舞台のあちらこちらを使って時間と場所を個別につむいで群像がうごめく様子を感じさせてくれた。DVDになってそれぞれの演技がアップにされると、同じ舞台の別の場所で違う展開が進んでいることが分からないかもしれないから、そこはやっぱり舞台として作られ、舞台の上で繰り広げられるのを観客席から見るエンターテインメントってことなんだろー。

 そういう引きの映像なんかも交えながら、ところどころをアップにして、役者の表情もしっかりつかめるDVDになると嬉しいかな。タイシャねえさんだけ追いかけたかめらがあれば最高なんだけれど。それは流石に。ともあれ舞台は終わり、DVDのリリースも決まってひとつ、結末がついてしまったようだけれども漫画はまだ続き、見られなかったファンの声も途切れないとなればあるいは、再演の可能性もあると思って良いのか。続きなんて考えても良いのか。そこは今後の応援次第ってことで、こうして感想を書きつつDVDの予約も行い、つぶやきも思い出したらするようにして燃え上がった火を消さず途切れさせないようにして次の展開を実現へと導こう。まず狙うのは再演かなあ。あり得るかなあ。

 先月もあったドローンの展示会が今月もあって幕張メッセへ。なんで同じような展示会が続くんだろうと思いつつ、それだけ市場が膨らんでいるんだろうかと想像しつつ、決まっていたところにどこかが割り込んだのかもしれないなあと穿ちつつ見た国際ドローン展は、新作ドローンがバンバン登場といったメディア受けするセンセーショナルな発表とかない割に、どうやってドローンを使っていくかといったソリューションの部分で面白い展示があってそうかそうやってドローンは社会に浸透していくのかって啓示を受けた。

 例えば「まごころサポート」っていう、新聞の販売店という宅配チャネルを使っていろいろなサービスを何でも屋さん的に請け負ってもらう仕組みを提供しているMIKAWAYA21では、地域の専売店からドローンを使って宅配するような仕組みも乗せようと提案していた。ドローンで宅配といえばつい最近も千葉市の幕張でもって実証実験が行われて、千葉市長とか副大臣とかが登場してはワインを配達できましましたってデモンストレーションを行っていたけれど、この「まごころサポート」では徳島県で専売店から飛び立ったドローンが50メートルの高度差がある場所に500メートルほど飛んでいっては5分以内に卵と牛乳とパンを届けて帰ってくるという実証実験を行った。

 もちろんちゃんと飛べたようで山間部などに暮らすお年寄りなんか、わざわざ歩いてスーパーとかお店までいって買い物をするのは難しく、かとって配達してもらうにも往復で30分とかは必要な状況で、文字通りにあっという間に届けてくれるドローン宅配への可能性って奴を感じさせていた。ただやっぱり、改正航空法でもってドローンの運用に以前とはちがった規制もかかって離着陸の場所を人家から離さなくちゃいけないとか、飛んでいるのを目視していなければいけないといったことがあってちょっと行って届けて来てって感じに気軽には実用化できない状況があったりするようす。

 Amazonなんかのドローン宅配を見て日本で慌てて同じようなことをやってドローンを産業化するんだと安倍総理が旗振りをしたところで、それ以前に自分家の屋根にドローンを落とされこれは恐ろしいから規制しようと言って航空法が改正されてしまった経緯もあって、いったい規制したいのか活用したいのかどっちなんだと問い詰めたいところ。まあ規制が不要とは言えないんでそこはそれ、枠をはめつつ運用の段階で問題があれば免許とか許可とかの仕組みを作って地域にも特区的なものを設けて、普通に利用できるようにしていくのがひとつの道筋なのかも。どうなるか。

 それ以前に新聞の専売店の活用っていろいろな場面で進んでいるんだなあ、といった驚きも。ちょっと前には街中の企業に専売所から新鮮野菜を配達して置き野菜にしてもらうサービスが始まったってニュースもあったものなあ。せっかく構築された宅配というネットワークのインフラを使わないって手はないという発想はマル。もっともそんなネットワークがすでにボロボロな新聞社とかもあるだけに、ここでも体力差なり実力差が出てくるんだろう。富める会社はますます富はしなくても滅びず、貧しい会社はそのまま滅び去っていくという状況はほら、すぐそこに。やれやれ。

 やれやれついでに、この凄まじくも悲惨な記事なんかを紹介。とある自治体で選挙があって現職の市長が落選したんだけれど、その背景には親族の借金問題があり、そして自身の説明できない資金の問題もあって、それがもとで怪文書も出回り落選したというのがだいたいの経緯。それについて販売店ネットワークが大変な新聞が書いたのが、「慰安婦で論陣『愛国派』市長の“命”奪った紙爆弾 不祥事露見に無残な落書き、『日本に誇りを…』心残りも引退表明」って記事。その身辺に問題があってそれが有権者によって糾弾されて負けた人間を、自分たちの主張にそぐう愛国派だと持ち上げる。

 イケナイことをしても愛国派なら無罪っていったいどんな了見だ。ここん家が嫌っている隣国で、愛国的であるがゆえに法を乗り越えた行為を讃える風潮があることを、口汚く罵っている会社が自分のところでは平気で“愛国無罪”を訴える。総理を呼び捨てにする学生を非難するのとを同じ口で、元総理たちを「病原菌」呼ばわりするメディアらしいといえば言えるけれど、そんな二枚舌を世間はしっかり認識している。結果がだから悲惨を読んで販売店ネットワークの弱体化も招いては、だったらネットでアクセス稼ごうと特定の勢力に阿(おもね)る記事を載せてさらに離反を呼ぶというスパイラル。もう止まらないだろうそんな流れが行き着く果ては。改めてやれやれ。


【4月19日】 「IS」のシャルみたいな家庭の事情って訳じゃなく、単純に気になる彼氏と同じ部屋になりたかったからって男装して入学してくる少女がいて、なおかつそれがバレずに通ってしまうザルみたいなシステムがあって、あの学校大丈夫かとか思わないでもないけれどもおかげで胸が切られてぽろりがあって何と吃驚という興奮を、分かっていながら味わえたから良しとしようか「ハンドレッド」。秘められた力が爆発しては最強となって向かうところ敵無しな様子が今だけれど、その秘められた力がいつか暴走する可能性とか、より強大な敵が現れ仲間が次々に倒れていく悲劇なんかも含み置きつつシリアスに見られて意外性も楽しめる作品になって欲しいけど、そういう風な原作だったっけ。最初はたぶん読んでいたけど最近はごぶさただからなあ。読み返すかこの機会に。

 バンド・デシネって行ったらメビウスすなわちジャン・ジローあたりが認識の中心で、あと「ティコ・ムーン」って映画の原作を描いて監督もやっていたエンキ・ビラルを知っているかなあといった程度だけれど、人によってはそこからとてつもなえ影響を受けてキャラクターに肉感があって背景なんかも緻密でストーリーも奥深そうなものを日本でも漫画の形式で描いてみようという人が現れた。たとえば大友克洋さんなんが漫画家としては筆頭だし、「風の谷のナウシカ」の宮崎駿さんも漫画としてはメビウスからの影響なんかを受けているというか、後半生はお互いに与え合ったと言ったところ。そして寺沢武一さん。よくアメコミタッチと言われるけれどもインタビューでそれを聞いたら違う自分はバンド・デシネが原点だって話してくれた。どこかシニカルでニヒルな感じはなるほどアメコミっていうよりバンド・デシネなのかもしれないなあ。

 そんなバンド・デシネの未だ健在な現役たちが日本に大集合。それもルーヴル美術館っていう世界的な美術の権威が引っ張り出しては束ねて日本に送り込むというからちょっと驚き。その名も「ルーヴル美術館特別展「ルーヴル No.9 〜漫画、9番目の芸術〜」.ってのがこの夏に六本木の森アーツセンターギャラリーで開催が決まって、発表会があったんで言って来たら生田斗真さんの弟さんがアナウンサーとして司会をしていた。なうrほどこの人か。確かにイケメンだあ。でも妻帯者。しっかりとアナウンサー道を行ってる感じでちょっと好感がもてた。そんな司会を受けていろいろとあった説明によれば、フランスでは漫画が第9番目の芸術となっているそうで、4番目とか5番目とか678番目が何なんだ? って調べれば分かるけれどもそこはまあおいおい。ともあれルーヴル美術館も認めるバンド・デシネが日本に来てその神髄を見せつつ、一方で漫画大国日本でもバンド・デシネに負けない画力と展開力を持った漫画家たちが参戦して迎え撃つ。

 たとえば大友克洋さんとは同じ自転車チームに所属してるはずの寺田克也さん。その絵のすさまじさは折り紙付きでペンタブレットでもってパソコンに直接グイグイっと入力していくともう骨格があって肉感を持った凄いイラストができあがるという天才絵師。その作業工程を見せればバンド・デシネの重鎮だってひっくり返るだろうし、いわずとしれた「ジョジョの奇妙な冒険」の荒木飛呂彦さんはスタイリッシュなファッションと奇抜なポーズが不思議と画面にマッチしてとてつもない雰囲気を醸し出す、そんな絵で世界にその存在を示すだろう。緻密な上にプリミティブな雰囲気もある五十嵐大介さんや骨太な作画を見せてくれる谷口ジローさん、フランスの歴史を舞台に精緻な絵で物語を繰り出す「イノサン」の坂本眞一さん、そして活動拠点はイタリアだけれど絵本的絵画的な絵とデフォルメされた絵が混じり不思議な雰囲気を醸し出すヤマザキマリさんといたあたりが並べば、日本のバンド・デシネなんて知らない人でも言ってみたい展覧会だと思うだろう。

 というか残念ながらルーブルの権威をもってしても日本でバンド・デシネの展覧会に長蛇の列はちょっとない。漫画の価値を上げてくれそうな意味合いを持った貴重な展覧会といった意義はあっても、観客は面白い漫画があるかどうかってことくらいしかまずは気にしない。そこに「ジョジョ」があって「テルマエロマエ」のヤマザキマリさんもいて「孤独のグルメ」的な何かもあればまずは行って見ようと思うだろうし、そこで見かけたバンド・デシネの緻密さに圧倒され興味をもって眺めてみようと思う人も出るだろう。そして単行本へ……といくかというと、やっぱり高いし難しいから伸びはしないだろうけれど、そうやって撒かれた芽が次のファンを生みだし寺田克也さん寺沢武一さん級のすさまじい画力を持った漫画家さんを日本から生みだし世界へと送り出してくれるかもしれない。受け継がれる感動。そのきっかけになる展覧会になればまずは成功かな。僕としてもこれでエンキ・ビラルが評価されて「ティコ・ムーン」のブルーレイディスクが出てくれれば嬉しいかも。不思議な赤髪の少女にまた会いたいなあ。

 ぐるりと転戦して早稲田大学へ。最近ちょっと相次いでるとうか、ソフトバンクとクラウドファンディングのプラットフォームで協業したり、乃村工藝社とデザインセクションを立ち上げたりした佐藤オオキさん率いるデザインオフィスのnendoが、今度はあの早稲田大学ラグビー蹴球部のジャージとかプロモーションをデザインしたというんで見物に行く。まず気になったのは早稲田大学ラグビー蹴球部のジャージがアディダスからアシックスになっていたこと。早稲田大学として2002年にアディダスと契約してあらゆる運動系のクラブでアディダス製品を着て構内にショップまで作っていたはずなのに、そんな蜜月もあっさり崩れてしまうところがドライなビジネスの世界。2004年度の大学選手権で優勝した時なんか、大隈講堂前で祝賀のイベントを開いてそこにアディダスが持ち込んだビッグジャージだかが大隈講堂から下がって、アディダスジャパンの偉い人も来場してパートナーシップの深さを見せていたけれど、それも過去になったというか、アシックスがそれを過去にするだけの何かを見せたというか。

 想像するならそれはやっぱり費用だろうけれど、一方で早稲田の方もただ一方的に支援を頂戴するってだけじゃなく、こうしたスポーツ企業との連携を通して日本における学生スポーツのビジネス化にも取り組んでいこうってスタンスを見せようとしているのかもしれない。ケータリングの会社に入ってもらって栄養面でもスタミナ面でも効率的な食事をとれるようにしようとか、クラウドファンディングの会社に来てもらって、これまでのようにタニマチからただ寄付を頂くだけじゃなく、お金をもらったお礼としてグッズなんかも提供してともに歩んでいこうとする、パートナー的な関係を築いて自立の道も探りつつ、学閥に染まりOB界の顔色をうかがい寄付を仰ぐ旧態依然とした体質からの脱却を狙っているのかもしれない。

 NCAAのように大学スポーツを横断的に組織して利益の分配も行い平均的にどこの学校も強くなっていくような、そんな仕組みすら構想しているかもしれないけれど、人気の早稲田が不人気の学校に利益を分配するような展開は、大学OBとかが黙ってはいないだろうから全面的な以降ではなく、ベーシックな部分で協力しつつ個別の努力も乗せられるような日本式の仕組みを、ここから作っていくのかもしれない。そんな意味でも成績とは別に注意したい早稲田大学ラグビー蹴球部の今後。クラウドファンディングとかnanacoカードがもらえたりマグカップがもらえたりと何かファンなら喜んで支援してしまいそうだもんなあ。もうちょっと払うともらえるハングリーベアとか、えんじと黒のカラーリングをした熊が違う色の魚を食べているぬいぐるみだけれど、魚の色が対抗戦のチームのジャージと同じ色になっている。それを全部食らうという覚悟。冗談も混じっていそうだけれど意味は通るそんな今までにない展開を考えたのが、デザインオフィスのnendoを率いる佐藤オオキさんらしい。

 そしてジャージのデザインも。アシックスが提供するジャージは体にフィットするタイムで掴まれづらいけど動きにくくはないといったもの。それだけなら他校とかといっしょかもしれないけれど、早稲田大学ラグビー蹴球部のジャージにはえんじに黒で入るラインの太さを変化させて躍動感めいたものを醸し出している。そして脇に三角形のへこみを付けて、そして着た選手が2人並ぶとそこに「W」が見えるようにしたという。WASEDA愛。それは襟にも入っていて、スタンドカラーの裏側には過去に早稲田大学ラグビー蹴球部が大学選手権で優勝した年が入っていて、着れば過去の影響を感じつつ今こそ再びそこに新しい歴史を刻まねばって気にさせられる。脇から胸に掛けては稲穂も見えるそのジャージ。着て果たして帝京大学におされっぱなしの大学選手権で勝利し「荒ぶる」を唄えるか。もしも唄ってジャージのおかげってなったら佐藤オオキさん、こういう仕事もいっぱい来るようになるかな。ミランで展示会をよくやるからインテルかA.C.ミランのユニフォームもデザインしたら面白いかも。

 なんという至福。なんという喜悦。舞台版「クジラの子らは砂上に歌う」が千穐楽を迎えて、会場となったAiiA 2.5シアタートーキョーがいっぱいの観客で埋め尽くされた。初日に見てサイドがガラリと空いていたりして、来ている人も関係者が多そうだった観客席にやっぱり面白くっても知名度が足りないと、集客に苦戦するなあと悔しがりつつ、それでもこの舞台を見れば誰だって落涙必至と思い訴えていただけに、見た人の口コミが広がって当日引換券を求めてでも見たい人が長蛇の列を作り、そして満席の観客に舞台を見てもらえたことが個人的には嬉しくて仕方が無い。テレビでの宣伝とかに頼れもしない舞台。それでもネットとかでの評判を聞き及んで駆けつけた人たちで観客席が満たされた。繋がった言葉に応えた思いが溢れていた。素晴らしかった。そんな思いが届いたか、予定になかったDVDの発売も決定。ひとつひとつは砂つぶのような思いも固まればそれは大きな海となって世界を動かすのだと知った。また会える。でもできるなら、また舞台でも見たい。その日が来るのを願い、買おうDVDを。


【4月18日】 やあ。白い三角形だ。そんなものを見せていいんだろうかと心配になったけれども、だからこそ見て決して気分の悪いものではないので、録画をとめて何度も見返してしまった白い三角形リボン付き。14歳だとやっぱり色も形もオーソドックスになるのかな。そんな「くまみこ」では、日本海側がいつも薄暗くて冬なんか寒くて雪はなかなか融けないくせに夏はフェーン現象で暑いとか何とか酷いことを言われていた。でも「くまみこ」なんか見ているとほのぼのとして人当たりも温かそうだし、海には直接面してないけど青森県の弘前市も、「ふらいんぐうぃっち」とか見ていると誰もが親切そう。だから決して日本海側って暗いイメージはないんだけれど、なぜかそうしたほのぼの系のアニメーションの舞台に一杯取り上げられるのは瀬戸内海なんだよなあ。

 温かくて風光明媚で温暖で魚も美味しく人も優しげなあの雰囲気が、ハートウォーミングなアニメーションの舞台になりやすいのか、ちょっと前には「ももへの手紙」ってのが作られ、父親を亡くして母親とともに田舎に引っ越してきた少女が、妖怪変化と出会い交流しながら父親へのわだかまりを捨て、周辺に友達も得て成長していく姿が描かれていた。その前の「崖の上のポニョ」では瀬戸内海みたいな街を舞台に少年が人魚の少女と出会い交流しながらちょっとだけ、成長するようなストーリーが繰り出された。ほかにも「たまゆら」とか「かみちゅ!」とか、瀬戸内海らしいほのぼのとした空気感を醸し出す世界で、少女たちが毎日を懸命に、そして明るく生きている姿が描かれていた。都会から来た少女が田舎で暮らす天真爛漫な少女と出会って明るさを取りもどす「マイマイ新子と千年の魔法」って映画もあったなあ。

 そして2017年に登場する神山健治監督による「ひるね姫 知らないワタシの物語」も、瀬戸内海に面した街を舞台にして、少女が父親との関係を見つめ直して成長していくようなハートウォーミングなアニメーションになっていそう。これが日本海側を舞台にしてしまうと、どこか陰鬱とした愛憎劇になってしまいそうな気がするなあ。不倫もあれば心中もあるとかいった。Anotherなから確実に死んでしまうし。中には金沢市が舞台になりながらも明るさがほとばしる「花咲くいろは」のようなアニメーションもあるけれど、中では結構ドロドロとした人間関係が描かれたりして、成長のためのハードルは瀬戸内海側と比べてちょっと高そう。やっぱりあの穏やかな瀬戸内海と、荒れた日本海とでは舞台にして作られる作風に変化も出てしまうんだろう。

 だったら次はこんなアニメーションが見て見たいなあ。もちろん瀬戸内海の島を舞台にして、家族の関係を見つめ直して癒やしを得るといったハートウォーミングなアニメーション。両親を亡くした鐘田元(かねだ・はじめ)少年は、母親が生まれ育った岡山県沖の瀬戸内に浮かぶ島に行くことになって、そこで美しい三姉妹と知り合う。どこまでも純真で無垢な月代、雪枝、花子という名の少女たちとの触れあいが少年にもたらすものは…。そんなストーリー。梅に寄り添い鐘と戯れ萩に埋もれた美しい三姉妹とのそれはそれは心が震えるような交流が描かれることになるだろう。なんつって。同じ瀬戸内海なのに岡山県だけは猟奇があふれているといった感じで、ハートウォーミングの舞台にはしづらそう。誰のせいだ。

 熊本の地震を取材するメディアの振る舞いに、やっぱり現れたその無茶ぶり。関西テレビが大阪から熊本まで、はるばる出した中継車がガソリンスタンドで給油を待っていた車列に割り込んで給油をしていったという。注意されてもだんまりで去ったものだから周辺にいた人の怒りは心頭に達したみたいで、その様子がツイートされては違う関西テレビは持っていたガソリンを預けに来ただけだと行った擁護も起こったけれど、結果はすいませんでしたと謝罪して割り込みが本当だったことが明らかになった。規定だとこういう場合は夜に人がいない時間を見計らって入れることになっているらしく、そういう意味では規定違反。仕事が迫っていたと言い訳しても、それはお前さんたちの都合だろいうと言われれば反論もない。

 ここでもうちょっと頼み込むようにして入れてもらったのならまだ救いもあったかもしれないけれど、それもなかったというからケースとしては最悪。早速引き上げさせられ乗っていた人たちにも沙汰が下りそう。そうなるって想像力が働いていたのか、それともいなかったのか。そこが気になる。なあにいつものことだと軽く考えていたのかもしれないけれど。テレビ局では毎日放送のアナウンサーが現地に取材に入ってようやく買えたとのり弁を1つ、ツイートにあげたことも炎上してた。そりゃあアナウンサーだって食べないと死んでしまうけど、現地の人がまず優先でそれで余っていたから買えたといった体裁をとらないと、報道とはい勝手に押しかけ現地のものを食べるなんてと言われることくらい分かりそう。そんな想像力も働かせられないくらい、メディアの最前線も劣化しているってことなのかも。自重自省。

 しかし弱り目に祟り目というか、関西テレビとも関係の深い東京にあるお台場のテレビ局が、日曜夜9時に満を持して投入してきたテレビドラマ「OUR HOUSE」の視聴率が何と4.8%でテレビ東京にも負けて大爆死となった模様。挑んだ相手は「半沢直樹」や「下町ロケット」なんかを放送して絶好調にあるTBSで、同じ日から「99・9−刑事専門弁護士−」ってのがスタートしたみたいだけれどもこちらの視聴率は何と15.5%。嵐の松本潤さんが主演したってこともあっただろうけど一方で芦田愛菜さんにシャーロット・ケイト・フォックスさんという、凄いっぽいんだけれど是非に見たいかといった決定打にやや欠ける面々をダブルヒロインに据えてしまって固定のファンを引っ張れなかったことも大きそう。芦田愛菜さんが巧いことは認めて、それは子役であり脇役としてドラマを支えた巧さであってやっぱり見たいのは大俳優であり大女優。そこが欠けては人はひきつけらない。

 内容がどんなものかは見ていないからまるで不明だし、「99.9−刑事専門弁護士−」がどれほどかもやっぱり不明ながらもやっぱりそこは嵐もマツジュン。見たいと飛びつく人も多かったってことだろー。そして2回目以降は内容で評価されるようになって、「OUR HOUSE」にも挽回の機会があるかっていうと、評判聞くほどにあんまり楽しそうじゃないからなあ。設定は陳腐で展開も見えている。頼るのは芦田愛菜さんの演技だろうけどそれも1回みればだいたい分かってしまうからなあ。そこの名バイプレイヤーでも現れこの掛け合いだけは見ないとってなれば別だけれど、子役を並べてあとは石田三成…じゃなかった山本耕史さんではやっぱり決め手にかける。

 「真田丸」の山本さんは慇懃な三成を見事に演じているけれど、それは三成って個性に応えたから。そのなりきりぶりにおかしみを覚えられる。「OUR HOUSE」ではまっさらな役を作っていかなくちゃいけないんだけれど、脚本家もダブルヒロインに汲々で脇なんて構ってられないだろうし。どうなることか。これでフジテレビが民放5位へと滑り落ちて収益が下がり関連するメディア会社にお金を回せなくなって何が起こるか。想像すると夜寝られなくなっちゃう。あるいは一生寝ていけなくちゃいけなくなっちゃう。やれやれ。「真田丸」の方は寧さんが出てきて大政所は名古屋弁の女王が君臨していて豪華絢爛。役の個性に役者の個性をマッチさせて見る楽しみってやつを存分に醸し出している。誰1人としてどうでもいいと思わせる役者のいないすさまじさ。さすがは三谷幸喜さんといったところかなあ。ラストまでこのパワー、この密度で突っ走れ。


【4月17日】 そういやあ40年とか昔、家の近所にはまだ日当たりの良い土手があってそこに春になるとツクシが生えていて、よく引っこ抜いては1本1本はかまをとって、水洗いしてゆでたのを炒めて卵と絡めて食べていたっけ。40年前は名古屋市内でもそんなことが出来たけれども、遠く青森だった今もご近所にニョキニョキと、バッケことフキノトウが芽吹いてきてはそれを穫って持ち帰り、水洗いしてから天ぷらにして食べるなんてことが普通に行われているのかもしれないと、テレビアニメーション「ふらいいんぐうぃっち」の第2話なんかを見ながら思ったり。

 どうやら子供には苦さがあってあんまり好まれないみたいだけれど、神奈川育ちの女子高生には塩で味付けしただけのバッケの天ぷらも酒のつまみではなく、おやつ代わりに食べて美味しいものみたい。それとも魔女って味覚がちょっと大人びているのかな。そんなBパートのほのぼの山菜調理エピソードに魔女ものらしさがあったとしたら、真琴が居眠りしていた時に観た夢に、なおさんが出てきてなぜか横浜にいてホラ貝をもってベンチに座っている真琴のところに、青森から海を泳いで主に平泳ぎでやって来たなおが、首筋になにかついているといって見せようとしたくらい。そこに書いてあった「大吉」の文字が、一種の予知夢ってことらしい。

 けれども別になおに何か良いこと、起こらなかったものなあ。本人、期待していたよーだけれど。そんな何もない、淡々とした日常にちょっとだけ混じり不思議ってところが持ち味になっているこの「ふらいんぐうぃっち」ってアニメーション。Aパートではお世話になってくる倉本家の千夏が、誰か尋ねて来たからと玄関に行くとそこに得体の知れないものが立っていて、吃驚して引っ込んでしまうといった展開に、知らず突然妙なものを見てしまった人間の、暴れるより慌てるより落ち着いてしまう性分ってものを見いだした。いや驚きすぎて気持ちが固まってしまっただけかもしれないけれど。そりゃそうかもなあ、どう見たって殺人鬼か変質者だもんなあ。仮面を被った。無表情の。

 そんな得体の知れないものの正体は、春を運んできた運び屋さん。どこかに去るというんで前回、真琴がなおに贈ろうとして多分断られたマンドレイクの先っちょをお土産に渡してた。足の先なんだろうか手の先なんだろうか。っていうかあの蠢めいていたマンドレイクを真琴は始末したってことか。煮たのか。あく抜きしたのか。切り刻んだのか。そのたびに鍋の中、まな板の上で身もだえするマンドレイクを思うとうん、真琴って凄い。そんなマンドレイクの先っちょを煎じて飲むと気合いが入るとか。朝鮮人参みたい。いったいどんな味なんだろうなあ。ってかこの運び屋さん、オープニングにきっちり出ててハンドクラップしているけれど、他にナツの運び屋さんとか秋の運び屋冬の運び屋も同じ姿で出てくるんだろうか。ちょっとワクワク。

 面白い戦記ものがまたひとつ。ノベルゼロから出た新見聖さんの「マッドネス グラート王国戦記」(KADOKAWA)は、表題にあるグラード王国で猜疑心にとりつかれ国を衰えさせつつ病気になった国王の跡目をねらって第三王子が立ち上がり、まずは第一王子の王太子を殺害し、宰相と組んだ第二王子とも対立しなが王を囲って実権を掌握しようとしたものの、王太子の妃と息子の王太孫を王の弟の子で、そのとてつもない美貌もあるけど、むしろ王にはなれない状況から、男であるにも関わらず姫獅子と呼ばれるようになったラインハルトが連れ出して逃亡。後を追って第三王子の配下が迫ったところに援軍がかけつけた。たった一人で。

 それがレグルス。かつてラインハルトは、王弟だった父親が病気になったと教えられ、その特効薬を手に入れにいった途中で父親が王の配下に暗殺される目にあって、そして宙に浮いた形の特効薬を通りがかった村で同じ病気にかかって苦しんでいた8歳の少年に与えたことがあった。その時の少年がレグルス。まずは全治したあとで父王の配下に追われていたラインハルトを助け、そして10年を経て改めて自分の命を救ってくれたラインハルトに忠誠を誓いにはせ参じたといった。羊飼いとして狼を相手に剣をふるっていたというその腕は、武芸者から見ればでたらめだったけれども迫る軍勢を1人で相手をするくらいの能力にはなっていて、迫ってくる敵軍を王太子姫や王太孫に近づけない。

 そうやって時間を稼いでもらているうちに、親戚筋にあたる軍勢の援軍を得て、どうにか逃げ延びたラインハルトはレグルスを配下に加え、そこから第三王子への反攻を始めようとするもののとにかく手勢が足りない上に、血筋だ何だといった感じで揉めていてまとまらない。敵も攻めてきてじり貧かといった中で、レグルスはその天真爛漫で厚い忠誠心をもって歩きまわって、まずは山賊として疎まれていた男たちを手勢に加え、数字に長けて戦略も立てられる女性の文官を引き入れ、さらには密偵にもなりそうな人間をも味方につけながらラインハルトが直面する難局をひとつ、またひとつと乗り越えていく。

 例えば出城を作ろうとすると敵が責めてきて壊すためなかなか出来ない問題では、ある秘策でもって立派に城を立て、1000人の軍勢に100人いない手勢で立ち向かわないといけなくなった場面でも、情報戦を仕掛け欺瞞作戦も使って切り抜ける。まるで織田信長の配下で知略を繰り出し人心を掌握してのし上がっていった豊臣秀吉のよう。山賊は蜂須賀小六だし、文官は竹中半兵衛に黒田官兵衛で密偵は…誰だろう、真田幸村かそのあたり? だけれどもレグルスには、秀吉のようなぎらぎらとした向上心はなくただラインハルトのために命を捧げたいという一心で働いている。そんな彼の正直さとそして身分やしがらみに囚われない判断力が優れた人材を即座に引き入れ、その才能のありったけを発揮させる場を提供する。

 自身にもアイデアはあるし戦闘能力も低くはないけれど、それでトップに立たず仲間の才能を存分に発揮させつつチームで最大の効果を出そうとする、そのスタンスは秀吉でもあり家康でもありそう。上司にあたるラインハルトの身分に拘らず才能を認めるおおらかさも働いている。良いチーム。だからこそ難局を生き延びられた。そこまでの戦いで得た功績で、ひとつの国を任されるまでになったレグルスだけれど先はまだ長そうだし、こちらは織田信長タイプの第三王子に才能を捕捉されてみたった。残酷なようで才能には目がなく構想も遠大な男だけに、レグルスのこともただの凡庸ではないとすぐに見抜いた。そして欲しいと思った。

 そんな第三王子が今後、仕掛けてくるだろうちょっかいをしのぎ、見方にならぬのなら殺してしまえとばかりに大軍勢で押し出してきた時にいったい、どんな才覚をレグルスは見せて危機をしのぐのか。そこには誰がいてどんな才能を繰り出すのか。その総体はどれだけの力となってレグルスやラインハルトを強く、大きくしていくのか。早く読みたい。鷹見一幸さんの「ご主人様は山猫姫」が完結して、危地からの才気による大逆転が楽しめる戦記物があまりなくなっていたけれど、って「魔剣の軍師と虹の兵団」ってのがあるけれど、あれは才能の上に変態力がのるから参考にならないので、こうした本格的な戦記物は嬉しい限り。レグルスとラインハルトの戦いはどこまで行くか。国を奪うかそれとも世界が滅びるか。長大になっても完結するまで読み続けたい。だから絶体に完結させて欲しい。レーベルがどうなっても。どうなんだろうノベルゼロ。

 とある仕事のために就職活動が出てくる小説ってのをひっくり返そうと思って、何があったか考えて思い出したのが三浦しをんさんの「格闘する者に○」。家には三浦さんのサインが入ったハードカバー版があるけれど、せっかくだからと文庫版の方を拾い読んでああ、就職活動がメインってよりはそういう世代にある女子の四方八方に向けられた妄想と憤怒と関心の集大成みたいな内容だったんだと改めて気付く。女子大生の可南子が老人の書道家と付き合いながらも出版社をめざして就職活動を行うてのがだいたいの筋。その様子にそういえばあそこの出版社はそんな風だったなあと、自分の経験も思い出しつつ重ねつつ、自分はともかく可南子の場合は本(漫画だけれど)もいっぱい読んでいて受け答えもそつがなく、大学だって良いところに行ってそうなのに入社できないのは何でだろうって気になった。

 それと同時に自分とはだいたい干支で1周りくらいしか離れてない感じの可南子の、つまりは三浦しをんさんの経験した就職活動が、エントリーシートというものこそ新たに増えていたようだけれど、基本は筆記試験と面接の繰り返しを経て、手紙で連絡をもらってそれで合否が判明するといった具合に、自分の頃とあんまり変わっていないことも改めて気が付いた。今ももしかしたら出版社のような場所はそうした書類選考から筆記試験とか面接を経てそして合否が決まるといった具合に就職活動のスタンダードを維持しているのかもしれないけれど、多くはネットの就活まとめさいとみたいなところからエントリーしてもらった日程にセミナーに出てそこからピックアップされて面接とかに進み、合否がメールで分かるといった感じに近代化されている。

 同時にインターンシップみたいなことも行われるようになっていて、大学4年生の春あたりから履歴書を書いて送って会社訪問をして試験を受けて面接も経て、秋口から冬にかけて内定が出るような僕らの時代とはまるで違って、それこそ大学2年生の冬あたりからセミナーめいたものが開かれているのが今の就活。そこで選ばれれば何週間なり何ヶ月か、社員に混じって働いて適性をみてもらうというか、自分の適性を見極めるような活動なんかも増えている。そこで才能を見せて認められれば、そのまま働き口も得られる上に卒業時から即戦力としてバリバリやれるって寸法。アメリカなんじゃかそれが普通になっている。

 一方で、それって様は体の良いただ働きを就職できるかもってエサをちらつかせて募っているうだけって言われそうで、実際にそういう企業もあって問題化もしているけれど、大変なのは試験も面接のその場その場の1発勝負で勝つか負けるがが決まる出版社的な就職システムとは違い、インターンシップで何をすれば合格できるのかっていった基準もない中で、相手の胸先三寸で活動しなくちゃいけない今の学生さんたちは、不安も大きく憤りも浮かぶだろう。たとえ仕事で才能を見せたところで、上司になった人との折り合いが悪ければハイサヨウナラなんてことも。面接と試験の結果だけが判断基準なら起こり得なかったことがインターンシップでは起こるのだ。

 そうやって紆余曲折を経て自分を削り取られていく感じの中をどうにかこうにか勝ち上がって就職が決まっても、そこから入社まで1年くらいあったりする中でふと、思い返してあんなこともあったと活動での不穏を思いだし、そしてこんなこともやりたいといった新たな希望も生まれて自分の選んだ道を、これで本当に良いのかと思うようになって1年後、そのまま内定先に進まなくなる人だって割といそう。そんな就職の方法が果たして良いのかどうなのか、ってあたりを鑑みつつ今時の就職活動の面倒くささを告発するような、現代版「就職戦線異状なし」ってあったりするんだろうか。あったらちょっと読んでみたいけど、人生ほとんど上がりの自分ではそれが何の役に立つ訳でもない。面接官になるような偉いさんでもないし。だからまあ、今がそうなら頑張り、そして本当にやりたいことはやっておいた方が良いと行っておこう。若いうちでも、歳とってからでも。


【4月16日】 僕たちの、そしての私たち内Pが帰ってきた。「ラブプラス」や「ときめきメモリアル Girls Side」を手掛けて男性女性を問わずファンの心をバーチャルなキャラクター相手にときめかせてきた内田明理さんが、ユークスに移ってウチダラボなるものを創設。そこでもって取り組んでいたプロジェクトがARperformers βLIVEとして秋葉原でお披露目された。いったいどんなものかと見物に行って見た感想は、これはとっても面白い。そして夢がある。バーチャルなキャラクターがステージに現れライブを披露するといったものだけれど、同じような体裁の初音ミクのライブだと、進行表どおりに歌って踊って喋るだけ。でもこのARperfomaersでキャラクターたちはトークセッションではリアルタイムに喋ってなおかつキャラも動く。そこが新しい。

 いやまあ過去にもテレビでCGキャラクターを登場させて手足とか表情なんかを動かしながら、声優さんが声を当てるといったことをやっていた。「みならいディーヴァ」っていう企画では、声優さんたちにマーカーをつけてその動きをセンサーで読み取らせてキャラクターの動きに反映させることで、声優さんが動き喋るとキャラクターも動いて喋って生放送アニメってのを作れるってことに挑戦してた。今回はたぶん、声とキャラクターの動きとではたぶんそれぞれに担当がいると思うんだけれど、動きの自在さが声の受け答えとマッチしていて違和感がなかった。喋りに伴う感情の動きを、体の動きにシンクロさせるなんて同一人物じゃなければ難しい。それをやってのけていた。どうやっているんだろう。そこが不思議だし、大きな特徴でもあるんだろう。

 キャラクターのて背後にはさまざまな応援メッセージが映し出されるようになっていて、それから観客席でスマホを振っている人の応援度をランク付けして讃えることもやってのけていたARperformersのβLIVE。ARでありインタラクティブっていう部分に、来場していたファンも多分に応援し甲斐があったんじゃんかろーか。回ってーといったらシンジくんとかキャラクターがくるりと回ってみせていたし、2人組のロックユニットっぽいREBEL CROSSのダイヤはバク転を披露してみせた。そんな自在なアクションがグッとキャラクターの実在感を高めてくれる。だから大いにのめりこみ、ファンになれるといった感じ。考えたなあ。

 話題のキンプリのように応援できる隙間を映画の中にあらかじめ設けておいて、それにみんなが合わせひとつの興行を作り上げるっていう意識を持たせるのも1つの方法だろー。一方で今回のARperformersのβLIVEみたいに、ライブではインタラクティブな受け答えを行って実在性を持たせ、ファンに参加する楽しさを味わわせつつ、別のメディアでは動きや喋りを仕込んで置いて、バーチャルなキャラとして展開することもできるのが、ゲーム会社の新しいコンテンツビジネスとしての可能性を感じさせる。たとえ架空のキャラであっても、ちうかむしろ架空の2.5次元的なキャラだからこそのめりこめるファンも大勢生まれている状況で、ファンとキャラとのある種の結託の上に形作られるこうしたパフォーマンスがさらに場所を広げて行われるようになった時、アイドルは、あるいはアーティストは、そしてエンターテインメントはどんな姿になるのだろー。そんな思いを抱かせてくれたARperformersのβLIVE。次は何を見せてくれるかな。

 「迷家 −マヨイガ−」も「マギ シンドバッドの冒険」も放送されなかったようで朝、テレビを着けて録画を確かめると報道特別番組が入っていて、何かまた熊本で大きな地震があったみたいと伝えてた。ニュースに切り替えるとまたしても震度6クラスの地震があって、なおかつマグニチュードは前よりも大きくなっていていったい何が起こっているのかを見ていたら、どうやらこっちが本震で前にあったのはその前震だったとうから驚いたというか、そういうこともあるんだというか。さらに驚きなのはそんなクラスの地震がその後も相次いでいるということ。震度だけなら東日本大震災の時だって、震度5がせいぜいで6なんて何度も起こらなかった。それでも結構な揺れを感じたのが、なおいっそうの集中度で襲ってくる。これは現地もたまらないだろう。

 たまらないのは建物なんかも同様で、熊本城ではすでに幾つかの石垣が崩れたのに続いて、加藤清正が築城したころからあったという櫓がついに壊れてしまい、また阿蘇神社の方でも重要文化財の建物がぺしゃんこになっていた。最初の大きな地震でも壊れていなかったけれど同じような揺れが何度も繰り返し襲えばやっぱり、古い建物にはキツかったみたい。あと大学の学生なんかが住んでいるアパートも幾つか崩れてしまって何人か下敷きになった人も出たらしい。最初の地震で大きな被害が出た益城町とは違う場所だからって揺れても大きな被害は起こらないだろうともしかしたら、思っていたのかもしれないけれど最初が本震であとは小さくなっていく余震ではなく、逆に大きな本震に襲われてしまった訳で、結果として被害が出てしまった。

 山では斜面が崩れ豊肥線の線路が土砂に押し流され橋も落ちてと阿蘇のあたりはいろいろと被害も甚大な様子。なおかつ雨も降り出しそうでさらに大きな被害も懸念されるけれど、遠く離れた場所からでは、そして自然の大きな力に対してはいかんともしがたいところがもどかしい。せめてこれ以上の被害が出ないよう、そして地震が静まり噴火も起こらないように祈念するしかなさそう。さすがに中央構造線がイコールで活断層だといって、その延長にある川内原発までもが大きな被害を受けるとは思わないけれど、こちらは活断層が発見されている四国の伊方原発については、対岸の大分を震源とした地震も発生していてちょっと心配。そのあたり、現政権がどう考えているかが問われるし、何が良くて何か危ないかといったことを冷静に判断して説くこちら側のリテラシーも大切になって来そう。あれこもれもより、出来ることを。

 しかしだからといってこっちであれもこれも自粛しては経済も回らないし震災とは直接に関わりのない人たちの生活も滞ってしまう。お祝い事は喜べば良いし面白いものを見て笑えばいい。それで経済も回って活性化すれば寄付するお金も増えるし現地の人だって救われるだろう。にも関わらずスタートしたばかりのAmebaTVでは麻雀番組の放送を中止したとかで、出演を予定していた堀江貴文さんから苦笑を越えた怒り心頭の怒声を浴びている。だってネットの番組だよ。それのほかにニュースも提供するチャンネルがあって、視聴者はまずネットにアクセスして見たい番組を選んで見るという能動的な行為が必要な、決して一方的に垂れ流されて否応なしに見なくちゃいけない形態であるにも関わらず、それを中止するという挙に出た。あれもあるしこれもあるから安心、っていったネットテレビの利点を自ら否定する愚挙。これにホリエモンが怒るのも当然だろう。

 地上波だったら放送できなかったかとうと、これもまた疑問で普通にバラエティー番組を放送している局はあったりする。そんな中で自粛してスポンサーからお金がもらえず経営を圧迫させるより、これで儲けたお金を寄付すればそっちの方がよっぽど被災地の為になるっていうのも道理だろう。なのにAmebaTVは逃げた。サイバーエージェントとしてはやりたかったけれども、いっしょにやってるテレビ朝日の腰が砕けたのかそれとも世間体を気にしてサイバーエージェントが引いたのか、分からないけれどもスタートしたばかりで早々と、世間の風に逆らい何かを訴えていくといった主張なんてまるでない、腰の入っていないメディアだってことを自ら証明してしまった。これで見る人もいなくなるだろう。ニコニコ生放送みたいにあれもあるけどこれもあって選び放題の形態に、人は流れることになるだろう。早かったなあ。いや確定じゃないけれど。どうなることやら。

 酷いと言えば震災をただひたすらに私怨混じりの野党叩きの材料にするメディアも酷い。1面に掲載の看板コラムで「日ごろ、声高に平和や理想を説く人ほど、同胞の命や他者の気持ちに関心が薄くはないか。社民党の福島瑞穂前党首は熊本地震発生の2時間後に、自身のツイッターで『ハッピー!ハッピー!』とつぶやいた」と書いて、自粛に向かわないその態度を非難しているけれど、でもこのツイートは活動するママさんたちと出会って得られた感慨を表明したもので、震災とはまるで関係ない。タイミングが2時間後っていうけれど、震災の発生から以後、すべての政治家は喜びの言葉を発して誰かを祝い激励することは禁じられるのか。余震というより本震も含めて地震はなおも続いて現地の人たちを不安がらせている。けれども一方で日々を努力して何かに向かって生きている人たちがいる。そうした人たちへの激励をも自粛しなくてはいけないのか。そうでもないだろう。

 福島瑞穂さんはこの後から震災に関するツイートを連続して行っている。1つ1つのツイートは独立した言葉であって、こちらに激励を向けて感謝し、こちらに心配の言葉をかけて、そんな言葉が並んでも不思議がないものを、そうした熟慮とかみせずにただ、野党の攻撃のためだけに事情を見ないで引っ張り出しては叩くだけ。何の生産性もない。だったらコラムの書き手はこの休日に何をしているのか。現地の声を届けに現場に向かっているのか。そんなことはないだろう。そんなコラムを載せてるメディアの看板記者は、東日本大震災の直後に辻元清美さんが阪神淡路大震災の時、反自衛隊のビラをまいたとコラムに書いて訴えられて敗訴した。そのことを自省もせずに野党のあら探しをしてそれのみを書く。そのことを知っている人は知っている。真っ当じゃないと分かっているけど内にはそれが受けている。やれやれだ。本当にやれやれだ。


【4月15日】 あんかけスパが名古屋人にこよなく愛されているかとうと、そういうことは多分なくって名古屋に80年暮らしている母親なんかは多分1度も食べたことがないだろうし、50年暮らしている弟もおそらくは行ったことがないような気がする。僕も就職するまで行ったことはなかった。だから「あんかけスパ」なるものが名古屋名物ってことは全然なくって、麺類ならそれこそ味噌煮込みうどんだとかきしめんだとかの方が頻繁に食べられている。あとは寿がきや。これなら愛知県内のショッピングセンターにはたいてい入っていて、どこでも食べられるようになている。対してあんかけスパは栄町とか新栄とか錦とか伏見、あとは名古屋駅前あたりに何店舗か、店がある程度でそいういった地域に通勤しているサラリーマンでもなければ、食べる機会はないだろう。

 つまりは名古屋でもどこの喫茶店で出てくる小倉トーストなんかとは違って、食べる機会が限定されている特殊な食べ物だって程度のあんかけスパを、あたかも名古屋人が主食にしているようなとらえ方があったとしたらそれは大きな間違い。仙台の人が毎日のように牛タンを食べている訳でもなければ会津の人が毎日のようにカレーや生そばを食べている訳でもなく、宇都宮の人が餃子を……これは食べているか、まあ名物とかご当地グルメとか言われるものはその地域でもキワモノで、一部に愛好家がいる程度のものだと思った方が良いだろう。そんなあんかけスパの元祖とも言えるヨコイが東京に初進出するとかでニュースになっていた。ニュースになるんだ、そんなことが。

 このヨコイ、そーれと並んで名古屋ではあんかけスパの元祖だ本家だと呼ばれている店で、名古屋だと錦に本店を構えていろいろとメニューを出している。あとは栄の方にもあったかな。今はフランチャイズもやっているそうだけれど、それでも地域は限られていた。東京では東急東横店で時々開かれていた名古屋の名産展に来てはイートインとか持ち帰りとかで提供はしていたけれど、そんなあんかけスパが六本木にある店でメニューとして提供され、毎日のように食べられるようになるそーで、そうかこれが名古屋名物かと通う人も結構いたりしそう。でもそうじゃないから。とはいえ新橋にある,東京では唯一となったあんかけスパの店、パスタ de CoCoとはまた違った、本家の味が食べられるとなるとやっぱり浮かぶ興味。就職してからというもの、結構な頻度で通ってその味を堪能して来た身としては、1度はのぞいてその味を試してみないと。過去にも来たあんかけスパの店のことごとくが撤退している状況も鑑みるなら、早いうちに行っておいた方が良いかも。週明けにでものぞいてくるか。

 もうズレているとしか思えない。何からって人の道から。そしてジャーナリズムの本道から。とある新聞がネットで書き立てるには、熊本で起こった大きな地震の震源地となった区域へと入ったNHKの人が、たどたどしく中継していたことにネットで非難がいっぱい起こったらしい。なるほど見てその中継を慣れていないなあと思った人がいるかもしれないけれど、それを震災から明けてすぐに拾い上げて記事にして世の中に喧伝する意味って何かあるのか。少しでも新しい情報が欲しい、安否に関する情報が知りたい、震災に役立つ情報は何かないのかといった人が大勢居る状況で、遠く安全地帯から他社のそれも最初くらいに伝えた情報をあげつらって非難している場合なのか。それなら1人でも現場に送り込んで、より的確に意味のある情報を伝えるのがジャーナリズムって奴じゃないのか。

 それはたぶんそのとおり。でもここん家はもはや誰かが求める情報を現地に足を運んで集めて伝えることよりも、遠く安全地帯のそれも部屋にこもってネットを見ながらアクセスの稼げるネタを拾い送り出すことをメーンの仕事にしてきている。バイラルメディアだったらまだキュレーション的なセンスも光るだろうけれど、ここん家がやっているのはネットの掲示板だのまとめサイトだのといった感覚と同等かそれ以下。NHKがしくじっているならそれを世の中に広めることで、アクセスも稼げてNHKをディスれてラッキーといった下卑た根性が透けて見える。さすがに受け止める方もそうした意図はお見通しのようで、何で今なんだとかそんなこと言うならお前がやれとか系列のテレビ局はどうだったんだといった批判が向けられている。それを受け入れ改めればまだマシだけれど、きっとアクセス稼げてラッキーとくらいにしか思ってないんだろう。そんな乖離が何を生むかは常々言って来たこと。結果は果たして。数字は正直だろうなあ。やれやれ。

 渋谷にある丸井にプロダクションIGがオフィシャルストアを開くってんで見物に。行くとあちらこちらのイベントなんかで見たロジコマが置いてあって「黒子のバスケ」の原画なんかも並んだコーナーがあって、ちょっとしたギャラリーみたいになっていた。神山健治さんや西尾鉄也さん、後藤隆行さん、そしてIGの社長の石川光久さんの色紙なんかも並んでいるから見逃さないように。でも黄瀬和哉さんの色紙はまだ来てなかったなあ。描くのが遅れているとか。そんなギャラリーからはや離れてショップがあって、そこには「PSYCO−PASS サイコパス」で使われているドミネーターをCerevoが隅々まで再現した可動モデルが置いてあった。冬のワンフェスで予約が行われて8万円近い値段にもかかわらず長蛇の列が出来た逸品。すぐ買えるのか予約だけなのかは分からないけれど、見ていなかった人は現場で観ると欲しくなるから要注意。

 並んでいるのは「攻殻機動隊」関連や「PSYCO−PASS」関連のほかに「黒子のバスケ」「ダイヤのA」「ハイキュー!」といった女性に人気になりそうな作品のアイテム類。イメージとして硬派でハイエンドなアニメーションばかり作っているように見られがちなプロダクションIGだけれど、実はこうやって女性ファンが付きそうな漫画原作のアニメーションをいっぱい手掛けてしっかりと稼いでいたりするのだった。パッケージをねらって良い作品を作ったところで今はなかなか枚数が出ない。ならばやっぱりグッズで稼げ、それならこういう作品だっていった判断が、きっとあるんだろうなあ。でもそうやって稼いだお金が押井守監督のための税金として支払われる。イケメン男子にキャッキャ言ってる女性のフトコロが押井監督の難解な作品へと注ぎ込まれるこのロンダリング。金は天下の回り物とはよく言ったものだけれど、そこから何か凄いものが産まれるかもしれない可能性に、かけてみたいじゃありませんか。無理かなあ。

 名古屋が舞台のライトノベルなら幾つもあるけれども、鹿児島が舞台のライトノベルってあんまり記憶にないんでこれは珍しいかもしれない銀南さんによる銀南さんによる「くじらな彼女に俺の青春がぶち壊されそうになっています」(電撃文庫)。帰宅部だった少年が高校2年に進学した時、新入生の少女からなぜか誘われマッコウクジラ団に入るように言われて嫌がっていたけれどもどこかなし崩し的に入ってしまうという。そこは表向きは海洋生物の研究なんかをしていたけれど、影では学校のどこかにあって守らなくてはならないトヨタマヒメの宝を守り、そしてそれらを狙う存在と魚をモチーフにした異能を繰り出し戦っていたという。甘い青春と楽しい日常、そして異能バトルがあって兄弟の相克なんてのも絡んですいすい読めつつ結構深い。何より鹿児島が舞台ってところが珍しい。桜島は見えず東シナ海に面している漁港でマグロが名物というから串木野あたりか。分からないけど親の故郷の川内の隣なんで親近感は湧く。続けば鹿児島名物とか出てくるのかな。期待して待とう。


【4月14日】 第2回集英社ライトノベル新人賞を受賞した大桑康博さんの「呪術法律家 ミカヤ」(ダッシュエックス文庫)をようやくやっと読み終える。赤毛ってことでちょっぴり虐げられているけれど、ミカヤは弁護士で呪術も使って法廷で真実を探求する職についている。父親も高名な上に公明な弁護士だったけれども8年前、ある事件に絡んで逮捕されて今は獄中に。それが冤罪だと信じる娘は自分も法律家になってその罪を晴らそうといった考えを持っている。もちろん身内の弁護はできないけれど、自分が頑張ることで父親に向けられた懐疑を晴らすことは可能。そんな意気込みで弁護士となったミカヤが最初に挑んだ事件は、最悪の暗殺者として名高いアイスフェルドが、その国でも有名な人権活動家のサラサンテという人物を殺害した、というものだった。

 何しろとてつもない力をもった呪術師で、99人もの人間を暗殺したと言われそれを当人も認めているから表向きには殺人なんて片手でちょちょいとやって当然の大悪党。けれどもサラサンテ、アイスフェルドは親しみを込めてサリーと呼ぶその男だけは殺していないという。もっともたいていの呪術を跳ね返す箱に入っていながらもそんな箱ですら突破可能な呪術を持っているのが誰あろうアイスフェルド。普段の行いも行いだけあって疑いは強まり、裁判でも極めて不利な状況に追い込まれる。それでもまずは弁護士として被疑者の側に立つことが仕事のミカヤ。さらには移送の途中で襲撃されてもそこでアイスフェルドがミカヤたちを救ったことで、心底から悪党だとは信じられなかった。

 そこで状況を鑑みながら弁護に努めていくミカヤ。圧倒的に不利な条件からひとつ、またひとつアイスフェルドでなければできないといった可能性を排除し、さらにはアイスフェルドには不可能だといった状況も浮かび上がらせ彼の冤罪を晴らそうとする。ではいった誰が真犯人か。散りばめられたさまざまなシチュエーション。人権活動家であるサリーの存在。冤罪に苦しむ者の存在。秩序を維持するためには多少の無理も厭わない権力者たちの存在。そしてアイスフェルドという不思議な存在。諸々の存在の立ち位置を見極め、彼らに何ができたのかを想像していく中でひとつの真実めいたものが浮かんで来る。それは…。

 ってな感じで進む展開はミステリ的ではあるけれど、最初にすべてが開示されている訳でもないんでひとつ、またひとつとステップを踏んで繰り出される状況から、真相に近づいていく物語として楽しむのが良いのかも。暗殺者といわれ嫌われながらもアイスフェルドには違う顔もありそう。そちらをメインにした活動に、ミカヤが絡むことがあるのか。彼女の信じる正義が打ち砕かれてもなお正義のために進んでいけるのか。なんて興味を満たしてくれる続きがあれば面白いかもしれない。まあひとつ、完結しているのでこれはこれで良いのかも。それにしても赤毛が軽んじられる理由は何なんだろう。父母は知られた法律家だったんだから関係ない気もするのだけれど。そうした背景が絡む展開もあるのかな。

 大平透さん、逝く。「ハクション大魔王」を始めとして数々のテレビアニメーションでその声を聞き「マグマ大使」で敵のゴアの声だけでなくスーツアクターとしても出演されていたと後で聞いて、ずっと昔から見てきた声優さんだけに傍らにいて当然、その声があって当然といった気になってしまっていたんだけれど、そんな長い時間を過ごされてきた方だけにやっぱりお歳は相当なもので、ここ数年は体調を崩され入院もされていたみたい。とはいえお歳になっても健在な方も結構おられるし、いつかはまたその声を聞かせてくれると思っていたけれど、もう叶わなくなってしまった。

 喪黒福造とか後半生の当たり役になって今もCMなんかで見たりする。あのニヒルさも持ってニヤけてもいて楽しくもある多彩な声は、確実に日本のアニメーション界、そしてテレビ界にとっての至宝だった。お目にかかったのは多分1度だけで、東京国際アニメフェアの中の東京アニメアワードで2013年3月に功労賞を受賞した際、登壇されたのを見た記憶がある。その時に大平さんがおっしゃった言葉が強く印象に残った。

 「葉隠れ、武士道に、身を捨てて浮かぶ瀬もあれ、といった言葉がある。声優は忍者でなくてはいけないと私は思うんです。自分の名前を出すのではなく、描かれた人物、その人物になりきるんです。かつて有名な声優から、『ハクション大魔王』は大平ちゃんがやっていたの、と言われました。勲章だと思いました。自分の名前ではなく、ハクションはハクションとして受け入れられた。それが声優だと思います」。声を聞いて浮かぶのは、ハクションであり喪黒であり「シンプソンズ」のホーマーでありダース・ヴェイダーでありといったキャラクター。その裏にいたご本人の顔は知らずとも、僕らは声でその人を感じていた。これからもずっとそのキャラクターを見て声を思い出すだろう。有り難うございました。本当に有り難うございました。

 梅田阿比さんの原作漫画をずっと読んでてずっと推してて日本SF大賞にノミネートされないかなあとかマンガ大賞に入らないかなあとか星雲賞くらいとっても不思議はないかなあとか思っている「クジラの子らは砂上に歌う」が舞台化されたんで行って来た。代々木体育館の真横、NHKの真向かいくらいにある「AIIA2.5シアター東京」って場所で昔にマッスルミュージカルとかやるために作られたシアターだけれど今は2.5次元ミュージカルを中心とした漫画とかアニメとかゲームが原作の舞台を上演する専門劇場になっている。

 有名作品とかが原作の時には長蛇の列ができて賑わうシアターだけれど今回は漫画として知る人ぞ知る、といったところがまだある「クジラの子らは砂上に歌う」で、いったいどれだけの人が来るんだろうか、そしてどういった人が来るんだろうか気になった。けれども上演してみればシアターは、中段以降の左右を明けつつ中央と前目はそれなりに埋まったまずまずの入り。もちろん満席が望ましいんだけれど、知る人ぞ知る作品で、どういった設定なのかそれほど知られていない上に、知っていたら知っていたで砂の海が広がる世界が舞台のSFでありファンタジー作品を、どうやって舞台化できるんだ? って訝りもあってか出足が鈍っていたとしても、それはそれで仕方が無い。

 だから本題は幕が開いていこう、どれだけ完成度が高くてすばらしい舞台になっているのか、それを見た人がどう語るかってあたりにかかって来そうだけれど、そうした可能性について見終わった人間として言うなら完璧にして感涙の舞台、見て損はないどころか見ないと大損の奇跡の舞台だと断言したい。そんな舞台の、ストーリーについて言うなら砂の海が広がる世界で、泥クジラという巨大な船というよりもはや島といえるくらいの動く土地に何百人かの人間が暮らしていて、日々を淡々と生きている。一部にサイミアと呼ばれる一種の超能力を操れる印持ちがいて、一方にそうした印を持たない普通の人間もいて、サイミア持ちは強いけれども短命で、印のない普通の人間から出た首長が全体を統括する形で運営されていた。

 周囲に人が暮らしている形跡はなく、誰かが尋ねてくることもない中で、自給自足で生きていた泥クジラの住人たち。そのひとり、チャクロという少年は記録係を仰せつかって泥クジラで起こることを日々、書きためることに全力を傾けていた。そんな平穏で、別の意味では停滞の中を衰退に向かっていた泥クジラに異変が起こる。久々に見つかった島にいくと、そこにひとりの少女が倒れていた。泥クジラへと連れ帰って名を聞いても分からず、とりあえずリコスとつけたその少女を負うように、泥クジラに未曾有の危機が訪れる。

 見渡す限りが砂の海という物語の舞台、そして山のようでもあり森のようでもありなおかつ生きているような雰囲気すらある泥クジラという生活の場所を映画だったらCGで描きつつ発せられる異能もCGを重ねて効果を見せるだろう。けれどもそこはステージ。いったいどういう装置を組むのか、どう言う見せ方をするのかといった興味でのぞいた劇場は、奥にやや盛り上がった斜面をつくってそこを砂のような土地に見せかけつつ、ある時はそこを泥クジラの上であり、ある時は船で渡る砂の海であり、ある時は泥クジラの中であり敵の船の中でありといった様々な場所に見立てて、そこにさまざまな登場人物たちを的確に出し入れしてそのシーンが繰り広げられているんだと感じさせる。

 原作を知っている僕はああ、ここはあの場面をその登場人物たちによってそこで描いているんだなあと分かるけれど、そうでない人もこの巧みな場面の?ぎ方によってしっかりと、ストーリーを追いながら物語について全身に感じていけるだろう。それは日常が変貌する驚きであり、最愛が奪われる悲痛であり、未来を閉ざされる絶望といったもの。それらが出演者たちによって言葉で紡がれ、体で表される。眼前で。これは凄い。とてつもなく凄い。思わず涙ぐんだ。動けなくなった。でも。

 自分たちの運命を自分たちで掴み、自分たちが生きた証を残そうとあがく姿にああそうだ、立ち止まっていてはダメなんだと教えられた、そんな舞台になっていた。漫画に描かれたそんな流れがしっかりと舞台で演じられていた。伝わってきた。漫画の感涙を思い出してまた泣いた。漫画を知らない人でも分かる悲痛を経ての自立であり自覚にきっと、今を諦めることなく、明日を頑張って生きていこうと思えてくるだろう。

 優しい日常が激しい戦いに突き進む原作の通りに舞台上で繰り広げられる殺陣がまたすばらしかった。様々な場所での各人の戦いを入れ替わり見せて流れを作ってた。愁眉はサイアミの表現で、サイアミガールズなる役者たちが肉体でもってその有り様を表現していた。どういう風かは見てのお楽しみだけれど、それが1対1のバトルシーンを拡張しつつ、あちらが勝ちつつこちらも上回りつつと言った丁々発止までをも表現していたのにはただただ驚き。よくあそこまで練り込んだ。そしてしっかりと間違えずに演じきった。感嘆するより他にない。

 原作があってそれが漫画でファンタジー調な世界が舞台だと、そこに暮らす人たちも独特の雰囲気になるけれど、舞台では役者たちがそれぞれの登場人物にしっかりとなりきっていた。赤澤燈さん演じるチャクロは原作と違ってイケメンすぎる感じはあるけれど、迷いつつ優しく意固地で強いところがちゃんとチャクロだったし、前島亜美さんが演じるリコスは失った感情を取り戻し仲間になっていく感じが出てた。山口大地さん演じるオウニと碕理人さんのリョダリは見た目も、そして演技している姿もまるで漫画から抜け出てきたかのよう。強くてキレていて激しい感じがとても出ていた。

 声優さんでもあってアクションも得意な小市真琴さんが演じるギンシュ姉さんが個人的にはお気に入り。漫画のとおりのカラリとした性格を見せてくれたし、何よりアクション凄かった。声優さんというよりもむしろアクション女優といったところ。ステージにも多く立っているだけあって流石の立ち回りを見せてくれた。佐伯大地さんのオルカ。原作のまんまにワルっぽい感じが出ていたなあ。謎の美少女ネリの大野未来さん。声も振る舞いも小悪魔的。なるほど謎の美少女でその胸先三寸で泥クジラの運命も変わるって感じを醸し出していた。

 そしてサミ。可愛くて可愛そうなサミ。その天真爛漫で未来を夢見ていた少女が肉体を持って顕現し、舞台の上とはいえ損なわれてしまう寂しさを、強く感じさせてくれるくらい宮崎理奈さんは役になりきっていた。中盤に来るそのシーンは滂沱必至。どうしてなんだと胸が苦しくなるけれど、そうした日々を経て人は強くなり、そして歩いて行けるのだと思うしかないのだろう。忘れない。でも立ち止まらないで進んでいく。そうやって刻まれていく思いだけが、人を永遠にするのだから。

 そんな感じで役者的にも演出的にも、そして何より物語的にも見どころたっぷりにして驚きと感動を味わえるこの舞台が、話ではパッケージ化されることはなさそうだというのがどうにも辛い。Yuさんによるオープニングの主題歌「スナモドリ」のあの切なさも含んで響き渡る歌声やメロディがずっとリフレインするくらいにすばらしいけれど、それが舞台とともに聞けるのはこの期間限りというのも勿体ない。もしも原作知らないというなら気にせず行って感じつつアクションに驚きつつだんだんと世界に分け入っていこう。知っている人ならあの世界観、あの物語がちゃんと描かれているから安心して行こう。

 個々の役者が好きな人も当然い行くべし.誰1人として引くことなく自分自身をぶつけては、過酷なあの世界を生きる者たちになりきっている。そのパッションに触れて自分もその1員に、ステージには立てないけれども客席にいながらにしてなった気分を味わおう。これは不幸だけれども幸いにしてチケットはまだある。週末の休日もありそうだし、千穐楽だってしっかりとあって10列目くらいだって買えてしまうので、何か最近面白い舞台を見ていないなあと言う人は、行ってこれは掘り出し物だといった感覚を味わおう。その圧倒的なスケール感、その精緻な描写ででもって時代に絶体に刻まれるだろう漫画を原作にした、見れば記憶に永遠に刻まれるだろう傑作中の傑作とも言える舞台を見逃す手はない。絶体に。

 熊本が凄いことになっているようで、震度7から震度6からといった本震余震があいついで、熊本城の石垣なんかも崩れる被害が出ているらしい。どうしてまた熊本が、って思わないでもないけれど、それは神戸にだって言えること。この日本、いついかなる場所であっても何かが起こらないとは限らないのだということを改めて身に刻みつつ、今はとにかく大勢の人が無事でいて、そして震災が軽微で済んで誰もが笑顔で明日からの毎日を暮れるようになることを願いたい。阿蘇山とかに影響がないことも祈りつつ。しかし震度7ってどんな凄い揺れなんだろうなあ。東日本大震災の時に東京で感じたのは震度4くらいで、それでもあれだけ揺れたものなあ。


【4月13日】 おかざき登さんの「都市伝説彼女。」(ダッシュエックス文庫)をようやく読了。幽霊とか信じてない割に出会う確率の多い少年と、幽霊であってもその苦境に同情してしまう少女とメーンに周辺の同級生なんかが学校に起こる怪異に挑んでいくといった展開。呪いとかなく残酷な展開には向かわずカシマさんていう半身がちぎれた女の怪異にとりつかれた少女は、なぜかパンツをはけない体質にされてしまったのを少年が助けたりするといった具合。別の話では地下室に取り残された給油ポンプの付喪神を成仏させるため、少女をポンプにみたててキュコキュコする。つまりは胸をキュコキュコ。ああ羨ましい。でも少年にエロスはなく淡々とこなし少女も仕方が無いと達観している雰囲気が、カラリとした中に日常の不思議を感じさせてくれてこれなら向き合っていけるかもと思わせる。でも本当は怖くて恐ろしくって、とりつかれ引っ張り込まれてしまうかもしれないからご用心。

 日本の新聞はもう本当にダメかも知れないなあ。4月12日に開かれたらしい東京大学の新入生を迎えての入学式で、五神誠総長が「ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです」って言ったらしい。それを受けて新聞各社が「東大生は新聞を読もう」といった見出しで挨拶を紹介し、それを読んだ人からおいおい新聞よりもインターネットやテレビのニュースが劣るって訳ではないし、新聞だけがすべてのニュースを公平に扱っている訳でもないのに、どうして新聞を読もうだなんて言うんだろうかと、昨今の新聞が本当のことを伝えていない可能性なんかも勘案されて批判されていた。自由についてその意味を語って聞かせた京大の総長との違いなんかも取りざたされた。でも。

 違ってた。もうまるっきり違ってた。ネットに公開された東大総長の入学式挨拶全文を読んだら、ネットニュースで見出しだけ見て知った気になっちゃダメだから、新聞もちゃんと本文を読もうね、でもそれだけでもダメだから、外国の報道も読んで判断する自分なりのリテラシーを身につけようね、って話でつまりは新聞各紙が伝えたのとは正反対とまでは行かないまでも、反対側に属するようなニュアンスで、つまりは日本の新聞だけ読んでちゃダメって言ってた話だった。にも関わらず、それが日本の新聞に紹介される時には、新聞を読もうねって話しにすりかえられていた。その見出しだけ読むとそのことしか伝わらないという、文字通りに新聞は見出しだけ読んでちゃダメで、本文を読んでも日本のだけではダメだって事例を、日本の新聞が自ら実践してくれるような顛末だった。

 これはコントかそれともギャグか。東大の総長がわざわざ語って聞かせたメディアリテラシーの必要性を、身を以て体現してみせたんだから、あるいは教育なんてことも兼ねた崇高な使命にもとづいての行動だったのかもしれないけれど、実際のところは新聞社が半ば社是とする新聞購読の拡張に、資するような言説をとらえ引っ張り出して広めようとしたってだけのことだろー。そこで言われているのがそうした話のつまみ食いと、見出しによる印象操作は迷惑千万だってことであっても、そのとおりに平気の平左でやってしまえる神経は、もはや報道を行うに値しないんだけれどそれを咎めるメディアもなし。そして新聞だけ読んで視野狭窄に陥る古老たちと、新聞だけ読んでいては頭がどうにかなってしまうと新聞を捨てる若い人たちの間に、ギャップが生まれていく。困ったなあ。

 ちなみに東大総長が挨拶で言いたかったことは、「新聞を読もう」なんて些末なことでもなければ、メディアリテラシーの話でもない。どんどんと狭くなる地球でみんなが仲良く生きていくには「多様性を活力とする協働」が地球規模で行われることが必要っていう、極めてスケールの大きな話だった。それは「自らと異なるものを理解し、互いの違いを多様性として尊重することが前提となります。そのためには、まず、他者を理解し、他者に心を砕き、そして自分が何者かということをしっかりと認識することが大切です。すなわち、『自己を相対化する視野』が必要なのです」ってことでもあって、今の一国がさも優れているかのような喧伝の仕方、それを土台とした他国との接し方ではダメだよって言ってる感じなんだけれど、そうした博愛で友愛なスピリッツ、挨拶の本質に触れようとしないで自分たちのセールスに使えそうなキャッチだけを抜き出す新聞に、どうして未来なんて託せよう。そう思った人がこれからどんどんと増えていくんだろう。だからもう新聞はダメかもしれない。新聞自身がそうしている。やれやれだ。本当にやれやれだ。

 人に誘われることも絶無なんで新宿のゴールデン街に足を踏み入れたことはないんだけれどもとりあえず、そこがある種の人たちにとって居心地の良い歓楽街になっていることは知っているし、最近は若い経営者たちも増えて外国人も訪れる観光スポットになっていることも認識はしている。でも、酒とか飲まず飲んでも新橋銀座赤坂といった界隈をメーンにしているサラリーマンとかにとって、新宿ゴールデン街なんて歌舞伎町にも及ばないマイナーなスポットであり、また日本全国の人にとってはまったく無縁の歓楽街。そこが火事になったなんてニュースに興味が持てるはずがないにも関わらず、午前8時にスタートする全国ネットのワイドショーがこぞって新宿ゴールデン街の火事なんてものをトップで取り上げている状況もまた、新聞と同様にテレビの世界も自分たちの感覚にのみ従ってバリューを決め、ベクトルを決めてしまってそれが世間から乖離している現れってことになるのかな。

 一定の世代、新宿ゴールデン街に通ってどんちゃん騒ぎをしただろう人たちがメディアの中層からトップにかけていっぱいいて、そうした人たちの感性にとって新宿ゴールデン街の火事はそれこそ世界遺産が燃えてしまったに等しいインパクトを持っていて、世間もそれだけのインパクトをもってニュースを欲していると感じている。でも世間にとっては新宿ゴールデン街が新宿西口しょんべん横丁だろうと無関係。ただの歓楽街が燃えたという意味しか無く、それが全焼でもなければ大勢の焼死者が出た訳でもない火事を全国ニュースで伝えられても関係ないとしか言えないだろう。首都圏には視聴者が多く居てそうしたニーズもあって首都圏が雪で交通麻痺に陥ったというニュースを大々的に報じる意味はあるかもしれないけれど、新宿ゴールデン街の火事は大きくなる話ではない。「とくダネ」はそのあたり、小倉さんが分かっているのか小さく扱っていたけれど、でも他は…。そういうズレがだんだんと広がってはテレビを娯楽の王様から引きずり下ろしていくんだろうなあ。すでに落ちているか。やれやれ。

 「ジョーカー・ゲーム」の第2話は前回から続いて陸軍の参謀本部でスパイ摘発に失敗した大佐の尻ぬぐいをさせられそうになったD機関の佐久間中尉がD機関にいる他の仲間たちの言動に思い直してスパイとして目覚めるといった展開。でも自分は軍人だからと身を退くことによって多分退場し、ここから本格的に愛国心だの忠誠心だのといったものから無縁の、ただ自分の仕事のために冷徹になりきれる男たちのドラマがスタートしていくことになるんだろう。メーンとなってる男たちのキャラクターとか原作にあるようなないような感じだし、どちらかといえば狂言回し的に暗躍しては原作にあるエピソードを順繰りに消化していくことになるのかな。そのあたりはシリーズ構成の岸本卓さんの手腕次第ってことか。「ハイキュー!!」とか「プリンス・オブ・ストライド」とか最近でも結構張り詰めた仕事をしているし、見て楽しめる作品になると期待しよう。


【4月12日】 本編の最終回の最後のページも大概だった「オールラウンダー廻」の番外編が、前号今号と載ってその最後のエピソードの最後のページのコマがさらに大概だった。マキの友人の大関と釜谷による女子トークが突っ走っては行きすぎて爆発してとんでもない場所へ。それが仮に実行されたとしたら廻にはいったいどんな壮絶な事態が訪れるのか、想像したけれどもいつか現実になり得るかもしれないと思うと、それはそれで興奮も湧いてくる。腕を入れるか入れられるか。どっちだろう。その前のエピソードでは桃子がとりあえず勝っていた。あれでやっぱり実力者ってことか。まずは善哉。しかしこれで終わりかあ。残念だけれど仕方が無い。次にも期待。遠藤浩輝さん。

 のぞいてきた。死にかけた。そんなくらいにリアルなバーチャルが揃ってた。バンダイナムコエンターテインメントがVRを使ったアトラクションを実験的に開発して並べた施設「VR ZONE Project i Can」ってのがダイバーシティ東京プラザの3階部分、ちょうどゆりかもめのお台場の駅から歩いて直接ダイバーシティに入るブリッジを渡ったあたり、アメリカンイーグルの向かいという絶好の場所にオープンしてその内覧会があったんで行って6種類のVRを試してみた。

 といってもひとつは半球状のスクリーンに向かって遊ぶレーシングゲーム「リアルドライブ」で、これは東京モーターショーにも出展されていたから試した人も多そう。VRヘッドマウントディスプレイは使わないけれど、全天球のスクリーンと動くシートが臨場感を醸し出し、アクセルブレーキクラッチと3つついたペダルにシフトレバーといったリアルな装置と相まって、本当に車を運転している気分にさせてくれる。東京モーターショーの時よりも進んでいるというから、遊べば分かる人には違いが分かるかもしれない。

 残る5つはHTC ViveのVRヘッドマウントディスプレイを使ったVR。ここん家のは確か位置センサーが取り付けられて利用者が動いたりするとその位置をVRの映像に反映させることができる。そんな特徴を使ったとてつもないVRアトラクションが、極限度胸試しと銘打たれた「高所恐怖SHOW」だ。遊び方は簡単。ビルの屋上から中空へと指し渡された細い細い板の先っぽにいる子猫を捕まえて戻ってくるだけ。ただしそこは地上200メートル。踏み外せば落ちてしまいそうになる場所だけに、1歩を踏み出すだけでも相当な度胸を試される。

 なるほど実際には平地なのかもしれないけれどVRヘッドマウントディスプレイ越しに見える世界は確実に地上200メートルの板の上。その感覚にいったん囚われると、踏み出すべき1歩がどうにも踏み出せなくなる。それこそ膝をついて四つん這いになってそろそろと進んでいきたくなるくらいに恐怖感が身を苛む。ああ思い出しただけでも震えてくるくらいの臨場感。それを視覚とそれから少しの動作によって醸し出している。人間って鋭敏な感覚の持ち主なんだなあ。それだけに騙される。そして恐怖する。なんだこんなものと思っているなら絶体に試すべきアトラクション。おしっこもらしても知らないぞ。

 恐怖という意味ではホラー実験体験室「脱出病棟Ω(オメガ)」も怖い。4人がチームを組んでホラーハウスと化した病院の中を車いすで進みながら脱出をめざすというものだけれど、それぞれが協力し合いながらゴールに集まらないととんでもないことになる。なおかつ途中に現れる異形の者たちの数々。その迫真のビジュアルにVRヘッドマウントディスプレイ越しの目が圧倒されて恐怖に叫び出したくなる。っていうか確実に叫ぶ。うぎゃああああああああ。雰囲気としては「サイレントヒル」に似ているかな、といっても僕はゲームは知らなくて実写版の映画で見たくらいなんだけれど、あの寂しい中をひとり行く感覚。そこに何か蠢いているだけで進めなくなるけど進まなければゲームオーバー。煽られる責任感が恐怖心と相まって、えもいわれぬ感覚に陥るだろう。

 逆に爽快で痛快なのがVRシネマティックアトラクション「アーガイルシフト」。言ってしまえばバーチャロンで戦場の絆で、それをVRで実現しているから自分が本当にロボットに乗り込み操縦しているような気分になる。シートもガタガタと動いてロボットのコックピットに座り込んでいるよう。そして向かってくる敵を撃ち、飛んでくるミサイルを避けてとにかく進んでいるうちに、自分がアムロに、あるいは一条輝になったような気分を味わえる。ちょっとたとえが古いかな。エージェントとして登場する美少女がまた胸もあってお尻もあってついつい見入ってしまう。目の前に本当にいるような感じ。このVRならではの特徴を日常系の恋愛ゲームに持っていかれた時、僕たちはそこのバーチャルな彼女たちをただ眺めるだけの1日に溺れ、出て来られなくなるだろう。格好いい男子がいれば女子も同様。そういう意味では何と恐ろしい、VR。

 急滑降体感機「スキーロデオ」はアルペンレーサーではあるけれども、VRヘッドマウントディスプレイを着けているおかげでそこは雪の急斜面。止まれずただただ落ちていくような感覚の中で左右に振られ岩にぶつかり崖から飛び出して死亡すること幾度となく。そのスピード感とそのリアル感にVR酔い的な感覚がにじんで来た。残る1つはVR鉄道運転室「トレインマスター」で、これはトレインシミュレーターがVRでリアルになった感じ。VRヘッドマウントディスプレイ越しに見える世界は運転室からの山手線。乗客を乗せて走る責任の重さって奴を改めて思い知らされる。安全第一でついゆっくりになってしまうなあ。でもリアル。そこが「電車でGO!」とはちょっと違った部分かも。

 風が出たり水を被せられたりといったプラスアルファはなかったけれど、座席が動いて音が聞こえて視覚が追随するだけで、人は相当にその世界に没入できる。追随性も加わればプレゼンスは抜群。そのリアルさに溺れた頭が現実に戻った時、ギャップについていけなくなってVR酔いみたいな症状になることも予想されるんで、食事とか体調とかを整えて行くのが吉かも。そんなVR、GearVRなんかが手軽なVRヘッドマウントディスプレイとして普及し始めているし、いずれプレイステーションVRも出て来てくるだろう。だからいずれ家でも遊べるものを、わざわざ試しに行く必要なんてないんじゃないかって声もあるかもしれない。

 けれども、ここの施設が提供しているようなHTCのVRヘッドマウントディスプレイが持つ位置センサーを介してのVR体験、そしてナムコ時代からの座席とか稼動させてのアミューズメント的アトラクション性が加わってのVR体験は、家庭用ゲーム機の延長としてのVRとはまた違ったもと言えるのかもしれない。そうした差異を鑑みつつ、VRを使ったアミューズメント機器、あるいはシミュレーション的な体験装置としてのVRが発展を遂げ、一方で視覚と聴覚でもって異世界へと没入させる、家庭用ゲームの園長としてのVR装置が暮らしに入り込んでいく。そんな感じになるのかな。いずれにしてもVRに興味がある人は行って損なし。むしろ行くべき。全部試したあとで体力はごっそりと削られ、頭もくらくらになっているだろう。健康に留意して挑め、VRの荒野へ。

 間合いが面白くって「ふらいんぐうぃっち」の主に後半、真琴がなおのためにマンドレイクを堀りに行って戻ってきて差し出すあたりまでを何度も繰り返してみては、エンディングといっしょにクラップとかして過ごしている夜。それでも新しいのも見ていかないといけないなと、「ばくおん!」の第2話を見て鈴木鈴がどうしてスズキ派になったのかとか確認。でもって三ノ輪聖さんが登場しては早川が乗ったサイドカーでもって川に突っ込みはしゃいでいた。ドゥカティのサイドカーを潰して平気とはいったいどんな財力だ。その少しを「三者三葉」でパンの耳を囓っていた元お嬢様の西川葉子さんに分けてあげたい。その「三者三葉」もオープニングとかよく動く。クオリティ高いなあ。今期はだいたい秀作揃い。でも決定打は? そこがちょっと難しい。「ジョーカー・ゲーム」も捨てがたいし。もう何週か、観察だ。


【4月11日】 歳からいったら17歳とか18歳とかそんな感じか。天正14年の茶々は浅井長政の元を離れて母親共々迎え入れられた柴田勝家の所からも出て、羽柴秀吉の元に出入りを始めたああり。母親のお市の方に惚れていながら勝家に奪われた秀吉が、その面影を娘に見たか、生来の好色が動いたか、若い茶々を側に侍らせやがて側室へと迎え入れたことが後、豊臣家の命運にも関わってくるんだけれどそんな時代の大転換を担った女の魔性て奴を、「真田丸」で演じた竹内結子さんがしっかりと醸し出していた。

 さすがは稀代の名女優。歳だって実際の茶々の倍くらいなんだけれどそんなことは関係なしに、出会った真田信繁の頬に手をあて真正面から見つめて翻弄してた。あれ食らったら秀吉だってメロメロになってしまうよなあ。そんな信繁はだいたい20歳くらいか。この出会いがあったからこそ後々まで、豊臣に仕えたのかそれとも来週以降に本格的に登場してくる秀吉の大きさに打たれたか。そんなあたりも見どころになりそうな「真田丸」の大阪編。いろいろと楽しみ。

 一方では石田三成として登場した山本耕二さんが、「新撰組!」の土方歳三とは違って小役人みたいな姿を見せていた。でも加藤清正と一緒の時は子供っぽい。ずっといっしょに育ってきたクラスメートって感じ。そういう関係を見せつつ表のしゃちほこばった顔も見せるところが、緩急となって視聴者を引き付けて放さない。そして加藤清正を新井浩文さんに演じさせるというあたりも。その経歴を見て、最近の「さようなら」での役どころを見れば新井さん、どうして加藤清正なんてと思われて不思議はないんだけれど、単純に役者として挑戦し甲斐がある役だらと受けたか、自分が演じることでその正体に近づけると感じたか。分からないけどそういう起用も含めて面白い「真田丸」。次は誰が、何で出てくるか。こちらも楽しみ.

つまりは医術者ストレイドッグって感じなんだろうか。草木うしみつさんの「戦闘医師 野口英雄」は、現代あるいは近未来を舞台にしてかつての名医と同じ名前を持った医師達が登場しては、それぞれに持った異能でもって病魔という、文字通りに病気をもたらす魔物たちを相手に戦いを繰り広げるといった展開。その主人公はいわずとしれた野口英世で、現実の存在に重なるようにアフリカに蔓延る病魔を相手に戦いを繰り広げていたらしいけれど、そうした戦闘医師を統括する世界的な組織の意向に逆らい勝手に活動をして大勢の命を救ったことを咎められ、ランクを下げられて危険地帯のアフリカにはもう出入りできなくなってしまった。

 そこで日本に帰った野口英雄は、チームだったら資格を取り戻せるとと医師の仲間を誘って戦争請負会社ならぬ医術の請負会社を設立。そこには大村益二郎という拳銃使いがいてそして女子が2人、参加してはとりあえず横浜港に入ってくる病魔を検疫する仕事を始めていたという、そんなイントロダクション。なぜそこに日本陸軍の創始者と同名の人間が? って言われそうだけれども大村益次郎、もともとは村田蔵六といって長州に暮らす医師だった訳で、壊れて宇和島に行き江戸にも出ながら蘭学を修め兵術を極めた結果、長州の軍隊を指揮する身となって明治維新に貢献した。

 そんな経歴をなぞるように医師で豆腐が好きで長州出身ってことになっている大村益次郎。福島県はすなわち会津出身の野口英雄と張り合うけれど、信頼関係は抜群でかつてない強さを誇る野口がある場所で相手にして倒せなかった唯一の相手として大村益二郎のことを認め、パートナーとして仕事をしている。けれども今度の相手は上海で発生したとてつもない病魔。触れただけで人に毒を流し込んでは死に至らしめる凶悪な病魔がなぜか、船を乗っ取り横浜へと向かって走ってきた。どうする野口。そこに割り込んだのは野口の消された功績の代わりに持ち上げられたシュバイツァーという少女。もちろん実力は折り紙付きだけれども自分が野口の代わりかもしれないという屈辱から突っ走り、その船へと飛び込んでいく。

 彼女を救い船を止めて病魔を倒し船員も助けなくてはいけない厳しいミッションに野口英雄と仲間達はどう挑む? っていた展開で炸裂するさまざまな異能。いずれも元のモデルに関連したものでそうした組み合わせも「文豪ストレイドッグ」っぽさを漂わせる。ただゴマンといる文豪たちと違って医師って歴史上にそんなに多くないだけに、いったいどういう医師がどういう異能で出てくるか、ってあたりを想像するのが難しそう。日本だと北里姓の女子とか出てきたんであとは志賀潔くらい? それとも前野良沢や杉田玄白あたりも含めるか。さらに昔にいたっけ有名な医者達って。そんなあたりのセレクトも含めて続きを読みたいところ。最悪の医師はやっぱりラスプーチンあたりになるのかなあ。医者だったっけ、彼。

売れ筋を狙って作って売ることが二次創作ではないんだ。見て感じて矢も盾もたまらずに作ってしまうパッションこそが二次創作なんだ。それをやるのに許可なんかいらないんだ。感じたら作ればいいんだ。そして自由にみてもらえばいいんだ。表現に枷なんてかけられないんだ。対価は得られないかもしれないけれど、作れて見てもらえればそれで嬉しいんだ。なんて世界ではもうないのかもしれないなあ。とか思った。もちろん表現は自由でも、そこには侮辱や誹謗や中傷があれば別に責任は伴う訳で、どれくらいなら許容されるか、世間も分かってもらえるかは考えておく必要がありそう。それでも一線を越えて描きたいパッションがあるならそれは法律との戦い。挑んで負けるも勝利を見いだすも自分次第ってことで。つまりは自分で考えろ。それだけのことだと思うんだけどなあ。

 自由についてもう1件。とある新聞で京都大学の入学式を紹介していてそこで総長があいさつで自由について話したんだけれど、そこに出てきた「自由」の数が34回だったと記事で触れている。どいういう文脈で語られかといえば、記事にもあるように「「自由は他者との共存を希求するなかで、相互の了解によって作られるもの」といった感じに、ひとりのわがままが自由ではなく誰かとの関係の中で自由は育まれ認められるといった感じに、極めて冷静で真摯なものだったんだけれどこの記事の見出しがふるってた。「自由、多すぎませんか? 京大総長、入学式の式辞で『自由』をなんと34回も」。

 多すぎるって自由が多いと何か問題があるのか。っていうか自由という概念について説明した言葉で自由がいっぱい出てくるのは当然じゃないか。そこには自分勝手はオッケーといった説明はない。記事にもあるように自己責任すら伴う概念だといった感じで紹介して聡し諫めているにもかかわらず、多すぎるといった言葉でもってこの学校が、自分勝手なわがままを推奨しているかのような雰囲気を醸し出す。そして自由を人が言い出すことを牽制している。自分のところの記者が上げてきた記事の中身すら読めずに見出しを付けるこの所業。書いた方だってこれはたまらないだろうなあ。でもお構いなし。見出しで自由を誹ってそれでアクセスが稼げればオッケー。読んだ人から阿呆じゃないかと思われようがアクセスが稼げればとにかくオッケー。そんなスタンスが立て続けでは記者も疲弊し読者も呆然。結果何が起こるのか。考えたくもないけれど、考えないと終わりだぞ。もう終わってる? それはそうかも。やれやれ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る