縮刷版2014年2月中旬号


【2月20日】 安倍晋三総理の補佐官とかいう職責にあるベテラン代議士が、どんな影響があるかも考えなしにトンデモ系の持論を開陳しては反発をくらって、即座に引っ込めるという醜態をさらしたのもつかの間、今度は副総理という座にある元総理が安倍総理の靖国参拝で中国も韓国も正式に抗議なんてしてこなかったと国会で言い放っては、外務省に即座に否定されるという間抜けを見せていったいどんなポン酢がそろっているんだと世界中から口あんぐりで見られている安倍政権。あるいは言ってしまって世間が憤ってはあきれ果ててやがて何も気にしなくなるよう狙ってやっていることなのかもしれない、なんて想像も浮かぶ。

 もっとも、結果として世情はどんどんと悪くなって国益にすら影響が出てきてもなお改めようとしないのは、日本のためとかいった深慮遠謀を持った理性と知性に裏付けられた言動ではないってことの証明。ただただ自分の思ったことを言いたいだけという、自己愛にあふれた言動でしかなく、間違いを指摘されてもそれを認めるのは自分が否定されることだと思いこんで、何を言われても決して改めることはしない。上からの命令なんかでいったんは引っ込めたところで、遠からずまた同じ言動を繰り返すだけ。問題はそんな感性の持ち主たちが、脇でゴチャゴチャやっているんじゃなく、上をガッチリ固めて日本全体がそう見えるように振る舞っていること。いったいどこへと連れていかれるのかこの国は。逃げ出したい。

 うっすらと開いた目に見えたソチ五輪のフィギュアスケート女子ショートプログラムで、日本から出場した浅田真央選手は3回転半を飛んで転び幾つかのジャンプをしっかりと飛べないまま競技を終えて16位という成績。もはや金どころかメダルすら望めない位置にあって後はただただ自分でできる精一杯の演技を見せてくれればと願うばかり。プレッシャーがあったんだねとか誰もが期待をかけすぎたなんて言ったところで、そういう思いを抱いて関心を向けること自体がプレッシャーになっていたりする訳で、だったらもう残念だったとも言わずソチ五輪に出場していることすら気にしないで、何かやっているなあという虚心でもってその競技が終わるまでを眺めるしかないんじゃなかろーか。

 それでもやっぱり思うのはどーして浅田真央選手はうまく飛べず1位となったキム・ヨナ選手はちゃんと競技を終えてしっかりした得点を得たかってことで、ことプレッシャーについては日本人が浅田真央選手に向けるものとは比べものにならないくらいにすさまじく強く激しいものを、キム・ヨナ選手は自国の人たちとそしてライバルと目される浅田真央選手をいただく日本の人たちから浴びてきた。それでいてまるで動じるところを外にはみせず、このシーズンはそれほど練習すらままならなかっただろう中でちゃんとした演技を貫き通してトップに立った。偉大なアスリートでありスケーターとして何のフィルターもかけずに見て称えるべき選手、なのかもしれない。フリーではどれだけのすごさを見せてソトニコワ選手やコストナー選手を抑えるか、それともソトニコワ選手やコストナー選手やリプニツカヤ選手がはい上がって女王を倒すか。面白いじゃないか女子フィギュア。

 とかいってたら安倍総理のお友達ではないけれども同じ穴の狸みたいな元総理の爺さんが、浅田真央選手を負けると分かっていた団体戦には出して恥をかかせるべきではなかったと言い、そして肝心なところでよく転ぶ選手だと言ったとかいった話が聞こえてきた。なんてことを。この爺さんは今や2020年の東京五輪に向けた組織委員会の会長として五輪をJOCなんかといっしょに引っ張っていく立場にある人。そんな人が五輪は勝つか負けるかしかないような価値観を堂々を披瀝し、負けたら恥だとすら言い切ってかつてクーベルタン男爵が唱えた、オリンピックには参加することに意義があるんだという憲法にも近い概念を真っ向から否定して見せてた。

 もうひとつ、この爺さんはアイスダンスで日本代表となりソチ五輪に出場したキャシー・リード選手とクリス・リード選手のペアを米国では五輪に出られないから日本に帰化させ出してやったけど五輪出場の実力なんてなかったとか言ったらしい。大暴言。だってこの2人は母親が日本人で生まれた時から日米の国籍を持った“日本人”でもあった訳で、それを選択の時に日本にしたまでのこと。別に帰化した訳じゃない。それからアイスダンスがソチ五輪に出場できたのかこの2人が予選の大会に出て出場枠を確保したからで、それによって競技がそろって今回が初という団体への参加も可能になった。

 つまりは日本のスケート界にとって大恩人ともいえる2人を五輪出場の資格なし、実力なしと切って捨てるような言動は、すべての競技者に対してとてつもない侮辱と言えるだろー。そんな人間をトップに仰いでいったい日本の五輪は大丈夫なのか。世界に誇れる大会を運営できるのか。不安がいっぱい。辞めてくれないかなあ。だいたいがこの爺さん、日本ラグビー協会の会長もやっていて、2019年のラグビーワールドカップでもそれなりな地位を占めるんだよなあ。でも今のまんまじゃとうてい観客は集まりそうもない。大学の一部が出ないと満杯にならない国でいったいどうやって席を埋めるんだろう? きっと何も考えていないに違いない。そんな人物が体育界の頭に立つ国だからこそのこんな体育状況。そりゃあ転ぶよ誰だって、呆然として愕然として唖然として悄然として。

 何がなにやら。「株式会社KADOKAWA 富士見書房BCは、大人気ライトノベル『織田信奈の野望』の続刊を『織田信奈の野望 全国版』と装いを新たにしてファンタジア文庫レーベルより2014年3月20日に発売いたします」って発表が出回って来たけどそもそもそんな動きがあったのか、ってあたりがひとつの謎。そういえばしばらく出ていないなあとは思っていたけど、内情とかに詳しい訳でもないから何かもめているとかいった話はまるで知らなかった。こうやって移るってことはGA文庫での刊行が続けられないってことであってその理由がどこにあるのか、作者がここではもう書けないと思ったか版元がここではもう書かせられないと感じたか。

 理由はいろいろ考えられるけれども結構な人気作だったからもう書かせられないと思うことは希だから、やっぱり作者が書きたくないと感じた何か理由があったりするんだろーか。それはいったい何なんだ。うーん。いずれにしてもちゃんとあのテンションで続いてそして完結してくれることが今は肝要。本能寺の変という事件を超えて信奈を生き延びさせようとする企みに世界が、歴史がどう動くか、それをちゃんと抑えられるかそれとも。見守りたいけどでもなあ、ちょっと前にレーベルを変えて移籍した某人気シリーズは、レーベルの看板になるはずだったのに1冊出てその後まるで続かずメディアミックスの波にすら乗れていない状況になっているからなあ。KADOKAWAであり富士見というブランド力組織力でもってそういう事態には陥らせないでとお願い。さてもどうなる。



【2月19日】 締め切りも迫って来たんで松田奈緒子さんの「重版出来!」(小学館)を読んでなるほど評判になるはずだなあ、と。漫画業界が抱えるさまざまな悩みに限らず出版業界と書店業界についてのさまざまな課題も含めつつ、この社会で働くこと全体についていろいろと考えさせてくれるストーリーは感動のエピソードも挟んで読む人に自分もがんばろうって気持ちをくれる。そりゃああんなにはうまくはいかない、柔道でオリンピックを目指せるくらいの逸材がけがかなにかで挫折したからといってクルリと目標を出版業界に変えられるはずもないし、その猪突猛進な性格だけで渡っていけるほど世の中は楽ではない。そんなはずはないよねって既に社会に入って壁に突き当たっている人たちからは思われそう。

 でも主人公はそんなに凄いことをしている訳じゃなくって、そう思ったことをそう口に出して行動しているだけのこと。なおかつ思うことが素っ頓狂ではなくってだいたい理にかなっているから世の中はちゃんと動いて進んでいく。必要なのはどうせ自分はとかどうせこの件はなんて考えてしまって諦めてしまわず、とりあえずやってみて進んでみる勇気。これが実は大変なんだけれどもそこを曲げ、傷つくことを厭わないで踏み出すだけで結構世の中、変わるかもしれないなあ。いやそれでも挫折続きでひどいことになったりする可能性もあるけれど。

 気になったのは良い本でも売ろうとしないと売れないからみんなで売ったということがフィーチャーされている場面。それは業界の頑張りへの喝采であると同時に、良い本を見抜けないメディアであり読者である僕たちの怠慢を衝く。現場にがんばらせずにちゃんと良い本を見分ける目をもち、そうでなくても面白さを探して訴える言葉を持つ努力。していかないといくら誰かが一所懸命にがんばったって、部分だけの盛り上がりで終わって後にはただ荒野が残るだけってことになりかねない。そういう方面へと業界を、そして人心を向けさせるような展開があったりするのかなあ。あって欲しい。ただ情報に流され受け入れさせられるだけなのはつまらないから。

 莫迦なのか、それとも莫迦なふりをした戯けなのか。安倍晋三総理の補佐官とかいう役職にあるおっさんがアメリカが総理の靖国参拝に失望したっていうことに「失望」したってことを堂々、ネットにあげた動画で方ってそしておまえらアメリカはむしろ中国に文句を言うべきだなんて語っていたりしたそうで、なるほど持論としてそういう見解を持つことはかまわないけれど、前にアメリカを訪問した時に向こうからいかがなものかねえ、なんて言われていたことを止められなかった上に、筋違いの言い分だったって反撃まで真正面からかましていてはアメリカだって黙ってはいられないだろう。

 それこそ公共放送が経営委員のポン酢な発言でもって駐日アメリカ大使からひじ鉄をくらったように、安倍総理がオバマ大統領からひじ鉄を食らいかねない事態。それを招くだろうと想像すればとても言えないことを堂々、やってしまうところが莫迦というか莫迦を装ったど戯けというか。それでも自分は自分だからと持論を貫き通すならまだしも、官房長官から政府見解とそれは違うと突っ込まれ、分かりましたと撤回して映像も公開を止めるというんだから全面敗北。認めるくらいなら最初からやるなって突っ込みがワールドワイドで寄せられているんじゃなかろーか。

 そんなケースが多すぎるのがこの安倍ちゃんお友達政権。NHKの会長とやらも反省の色をいったんは見せながらも経営委員会の席上で開き直りともとられなけない発言をしたらしく、それを早速バラされている。文脈を無理矢理にとらえたものかもしれないから判断はつかないけれど、そう言われかねない言葉を吐くこと自体がボンクラなこと。任せて大丈夫か、って判断するなら今すぐの決断も求められるんだけれど、動こうとしないところがやっぱり安倍ちゃんお友達ワールド。言って煽って引っ込めて、それでもまた言ってよけいに煽ってみせる切り上げによって社会の血気を上げて宜しくない方向へと引っ張って行こうとでもしているのかなあ。乗りたくないけど乗りそうなんだよ、今の社会は。

 鉄拳さんの作品がついに映画化、って聞いてもう大昔に鳥肌実さんの後楽園で前座に出てきた姿を見てそのパフォーマンスに触れてから、ずっとファンだった身として飛び上がるくらいに嬉しくなったけれど、よくよく話を聞いて何だそれはって思いがぶわぶわ。実写だって。それもあの「振り子」って傑作を実写にするっていったい何を考えているんだ吉本興業は。あれは鉄拳さんが鉄拳さんのテイストで描いた絵でありアニメーションだからこそ誰もが驚き感動したんだ。1枚1枚が手によって描かれた絵がつがって動きながらも鉄拳さんの思うようなイメージで変幻していくビジョンに誰もが惚れたんだ。そのストーリーにのみ関心が寄せられた訳じゃない。すべてがトータルでそろってこその感動だったものを、ストーリーだけ抜き出して有名俳優やらアイドルやらを当てはめて実写にしたっていったい誰が喜ぶか?

 喜ぶと思っているんだろうなあ作り手は、アイドルでも出しておけば。ファンをなめた話。おまけに鉄拳さんが所属している吉本では、そのことを鉄拳さんに話していなかったという。自分のところのタレントが作ったものなら自分たちが勝手に使ってもオッケーだなんて腹があったんだろうけれど、そういう風潮が喜ばれていない昨今、それを平気でやってなおかつ本来のものとはかけ離れた媒体でもって作ってしまう行為はスタート時点から大いなる反発を買っている。もちろん出演する中村獅童さんにも小西真奈美さんにも松井珠理奈さんにも罪はないから応援したいけれど、でもやっぱり違うんだよなあ、いったいどんな風に仕上げてくるんだろうなあ。いろいろな意味で注目。

 「オリンピックになったら突然、何処からともなく湧いて出てきて、ロクな知識もないのに専門家面しちゃって、でも競技なことなんて分からないモンだから、バカの一つ覚えでメダル、メダルって勝手に騒いで押しつけて」by桜野タズサ。まさに今のソチ五輪でも起こっているようなこの状況を、10年以上も前に予告するかのように書いていたライトノベルがあった。その名は「銀盤カレイドスコープ」シリーズ。海原零さんのデビュー作で天才的なフィギュアスケートの技術を持ちながらも口をひらけば悪口雑言の桜野タズサをヒロインにして、フィギュアで成功したり挫折したりしながら乗り越えていく姿を描いてた。

 そこに書かれたセリフがこれ。すでにして世間からそう思われていたにも関わらず、今なおまるで変化しないで押し掛けメダルメダルと騒いでは、とれなかったら何でだと誹るメディアが多すぎる。むしろ状況は悪化する感じで昔ほど専門記者を養成する余裕もなくなって、表層的な話ばかりを連ねて肝心のメダルに至った技術的な理由、逆にメダルを逸した技術的な欠点なんかを分析して書くなんてことは皆無になっている。これでは選手も育たないよなあ。だからこそ今、読まれて欲しい小説。なおかつ女子のフィギュアスケートという注目が集まる競技を取り上げ、リプニツカヤという天才少女の登場をも予言したような内容は今まさに読まれるべき1冊。幸いにしてキンドル版も登場したことだし、売れて再びのアニメ化なり、これこそ実写化なんてことになって欲しいなあ。復活せよ海原零。


【2月18日】 「そよかぜキャットナップ」(講談社、1400円)で田舎を舞台にほんわかとした学生たちの日常を描き、そして「ハイライトブルーと少女」(講談社、1360円)で孫娘を思う老婆の心根と美少女を思う青年の心情を描いた靖子靖史さんの待望の新作が4月に登場。その名も「空色カンバス」(講談社)は講談社BOXというこれまでのレーベルからはずれて「小説現代」に連載された一般小説ってことで、内容面でも少年少女たちではなくって高校生の少女とそして大人たちを登場人物にして、怯え迷う少女が自覚し求め、彷徨う女性が自立する物語ってものを綴ってみせる。

 高校生の少女はお寺の娘で、前の住職だった父親が亡くなった後は、年の離れた兄が住職となって2人でお寺を切り盛りしていたりする。美術部に入っていて絵が得意でそれなりの評価もされているけど先生から美大行きを勧められながらも今ひとつ乗り切れないのは、そんな家庭の事情があったりするから。兄を置いて街を離れられないというのも理由だけれどそれとは別に心理的な理由もあったりするけどそれはおいおい。ともあれ2人でそれなりにやっていたお寺に激震が走る。美人が転がり込んで来たのだった。

 妹を学校に送りだした後、兄が1人で仕事をしていたお寺にやってきた女性は着の身着のままといった感じでお金も持たず、食事もとらずおなかをクルクルと鳴らしながらお寺の前に倒れていたところを兄の住職によって助けられる。泣きぼくろがあるとてつもない美人。そんな彼女が言うには夫から虐げられていて逃げ出して来たとか。なるほどそれは大変。かといって置いておく訳にはいかない。けれども追い出す訳にはいかない兄は結局、彼女をしばらくお寺に置いていろいろと手伝ってもらうことにする。

 驚いたのは妹で、見ず知らずの他人に対して優しすぎるという非難もありまた自分の居場所を奪われてしまうような切実感にとらわれたこともあって反対し、それでも彼女を置くと決めた兄に対して不満を募らせる。一色触発か。なんて思われた暮らしもしばらくすると終わりを告げる。女性が出ていってしまったのだ。いったい彼女は何者だったのか。何しにこの街にやって来たのか。本当に夫から逃げてきたのか。それとも……。そんな謎が明らかになった時、自分自身を前へと進ませようとした彼女の頑張りが見えてくる。同時に迷っていた妹も自分の本当の気持ちを前に出そうと決める。

 鍵になっているのは優しい割に鈍感なところがある兄貴。料理もできないぼんくらだけれど、あれで流石に住職といったところで、仏教の知識を持ちだして諭しては知らず2人の心を導く。色即是空空即是色。すべてはつながり生まれ流れ壊れまた生まれ。だから投げやりにならず未来に後悔を残すことなく今を考えて生きていきましょうねと、そんなことを考えてみたくなる小説。だからタイトルも「空色(くうしき)カンバス」ってことで。マツダスタジアムも登場しては広島カープとオリックス・バファローズの試合が繰り広げられる中で、3人が再会を果たすクライマックスシーンを映像で見たらどんな感じかなあ。映画化希望。是非に希望。

 将棋もあればラップもあるのか電撃小説大賞は。金賞に輝いた真代尾秀晃さんの「韻が織り成す召還魔法」(電撃文庫、590円)はタイトルどおりに韻を踏む、すなわちラップという能力を使ってバトルを繰り広げるというストーリー。超ガチガチに校則を守らせようとする生徒会長の少年が、カーテンを閉め切られた部屋を不審に思って入ったらなにやら魔法陣が書かれていて、そこから美少女が現れた。メフィストフェレスの娘とかいう彼女は20年前にニューヨークに現れた時に惹かれたラップにハマって、呼び出した生徒会長の少年にラップを使ってバトルする能力を与えてしまう。そして少年は部室棟を選挙するラップ同好会を追い出すために嫌々ながらもラップでもってバトルを挑む。

 森田季節さんの「ウタカイ」の時にも思ったけれどもこうやって何か“文芸”を使ったバトルを書くのにはそれぞれの“文芸”に周知していないと大変そう。森田さんは短歌をバンバンと詰め込んではそれを歌人に評価されて書評にも取り上げられた。「韻が織りなす召還魔法」ではさらに高度というか特別な技能がいるラップを書かないといけないから大変そう。読んでそれなりにかっこよくないと投げ捨てられるけれど、本場のラップみたいにアウトロー的なリリックを積んでもストーリーにはつながらない。バトルというからには相手にぶつけて倒すようなリリックじゃないとだめ。それでいてちゃんと韻を踏み読んでスタイリッシュになっていないといけないラップを作者は良く書いた。好きなのかなあ。いつか聞いてみよう。機会はないけど。

 せっかくだからと田原町にある模型塾へとオタク大賞マンスリーを見物に行く。お題が「SF小説のイマ〜伊藤計劃以後を斬る!〜」ではSF村の辺境に暮らす者としてやっぱり見て置かなくちゃいけないと思い、この季節の模型塾が氷点下になって凍えることを前提にキルトライナーを仕込んだM−65フィールドコートを着込んでいったけれどそれでも寒かった。きっと普通に上着だけで登壇していた人たちはもっと寒かっただろう。そんな寒さの中でもちゃんと模型塾の前を猫が通りすぎていってそして戻って行った。行くとたいていそんなシーンが1回はある。それも含めて模型塾ってことなのかも。

 でもってイベントではSF評論家という肩書きの藤田直哉さんが、今回のお題にもなってそして以前から使われていていったいそれはどういう意味なん? と多方面から突っ込まれている「伊藤計劃以後」というタームを、自身として掲げる時の心理なり真意がだいたい分かった。そうだったんだ、ちゃんとそういう風に思っていたんだ。ならば結構、これからは使っていてもそういう事かと了解はする。ただするけれどもそういうタームを含んで繰り広げられている論旨の表層に内奥の真意は関係ないので、論旨そのものについては是々非々に受け止めよう。他の人たちが使う時は真意も心理も分からないからそれぞれに考えるしかないのかなか。

 結果的に到達したひとつの領域としては、伊藤計劃さんという作家の書かれた作品は過去にあったゲームであり映画でありSFといったものの要素を巧みに組み合わせつつエンターテインメントとして仕上げたもので、それはそれで格好いいSF小説として評価できるしファンが多いのも納得できる、ただ何かを決定的に変えたかという意味合いでは少し疑問符がつけられるといったところで、ライトノベル的なストーテリングやキャラクター造形を持ち込みつつ、圧巻のエンターテインメントを仕上げたってことなら、冲方丁さんの方が先行事例としてあったってことになるらいし。

 「マルドゥック・スクランブル」のヒットがあって、ライトノベルなり多方面からあらわれた作家たちがSFを書くようになって発生した、リアルフィクションというひとつの状況が出自にとらわれなずSF作家の層を押し広げ、そこに伊藤計劃さんや円城塔さんといった希有な才能が加わってきた流れができたって意味で、「冲方丁以後」ならあるかなあ、といった見解にほぼ同意。「マルドゥック・スクランブル」かというとそうではなくって「ばいばい、アース」を推したいけれどそれは少数派かなあ。しかし帰宅して洗ってみても、オタク大賞マンスリーでの藤田直哉さんによる「伊藤計劃以後」というタームについての説明をSF界隈やら評論界隈があんまり聞いていた風ではないから、これからも藤田さんは「伊藤計劃以後派」の領袖としていろいろと言われたり見られたりするのであろう。がんばっていきまっしょい。


【2月17日】 っていうか最初の頃って安倍ちゃんこと安倍晋三総理が、官邸にも出ず家に引きこもっては支援者と天麩羅食ってるってこと事態を、いったい何やってんだと憤るってよりは民主党が東日本大震災の時に、あんまり迅速な対応をしなかたったといって民主党を攻撃する材料にして悪罵を吐いていた口が、今回のように支援者を高い高い天麩羅を食ってていて、雪害のことあんまり考えていなさそうな安倍ちゃんを憤らないのかってかことのダブルスタンダード感を揶揄してたんじゃなかったっけ。それが今では安倍ちゃんは天麩羅食べてて雪害をないがしろにしているとか、逆に現場は現場に任せているんだから天麩羅くらい食べたって良いじゃないかって話になっている。自分のことを言われるよりは誰かのことをやいのやいの言ってる方が気持ちも楽だものなあ。そうやって言論のダブスタは進み独裁は是認されていく。困ったものです。

 文庫じゃねえ、ってまず思ったライトノベルの新レーベルらしいSAMURAi文庫は、四六っていうのかそんなサイズのソフトカバーで、星海社FICTIONSよりも単行本っぽさが強いけれども文庫っていうんだから文庫なんだろう。そもそも文庫の定義ってよく分からないし。金沢文庫とか。いやあれは。ともあれそんなSAMURAi文庫の第1弾として登場した梅村崇さんの「スキップ!!!〜僕と彼女が見つけた戦術。〜」は、ライトノベルらしく高校生あたりを主人公にした青春スポーツ小説になっていて、読むと男の子と女の子のラブラブな関係って奴が感じ取れるけれどもそれ以上にカーリングに詳しくなれるし四字熟語に詳しくなれ。何だその組み合わせ。いやでもそうなんだから仕方がない。

 秀才っぽい少年が同級生から依頼されてその妹の家庭教師をすることになって尋ねていったらどうやらその娘はカーリングのクラブに入っていて、誘われていった先で美少女のスキップも含めたチームに出会い、その試合ぶりをみながらなるほど秀才なんで駆け引きの仕組みがわかって試合後にああしたら良かったこうしたら勝てたといったら怒られた。言うは易いけれども実際にやるとなるどどれだけ難しいのか。そんなことも知らない少年は自分がなぜ怒られたのかも分からず、だからどう謝ればいいのかも分からずそれを知るためにカーリングに近づこうと同級生の妹とランニングをし、その先で怒った美少女と再会してカーリングを試してみればと言われて試したらこれがやっぱり難しかった。

 時々刻々、一投ごとに変わる局面で何をどう選ぶべきなのかを決断しなくてはいけない。事後に結果だけ見てああすれば良かったと言うのはなるほど簡単なことで、現場に経ってストーンを投げる身になればまずは判断が迷いそして技術が伴わないといけないんだと気が付いた。それでどうにか仲直りをした少年と少女は、少女がどうしても勝ちたいと言っていたライバルチームのスキップを相手にどうすれば勝てるのかってことを考えるため、カーリングの研究に没頭するというそんな展開。少女は自分の判断について理解を深めつつ少年の戦略も理解に努めて自分の幅を広げてそして挑んだ勝負のその行方は。それは読んでのお楽しみってことで、読めばなるほどその局面、何が必要でどうすれば勝てるのかってことが何とはなしに見えてくる。ソチ五輪で今がたけなわのカーリング競技を見る参考にもなる1冊。4字熟語も学べるよ、って何だそれは。それも読んでのお楽しみ。

 せっかくだからと新宿三丁目に出て「神戸らんぷ亭」でライスの上にハンバーグと牛丼の具と目玉焼きが乗った「ハンバー牛」をかっこんでから角川シネマ新宿へと出向いて「アニメミライ2014」の完成披露試写会ってのを見物する。第1回目の「PROJECT A」って呼ばれていたころだからこの文化庁若手アニメーター育成事業の作品を見るのは4回目。最初の頃は誰がいったい見にくるんだろうという興味と、それからどんな作品が上がってくるんだろいうという関心、それ以上にそもそもがお上がお金を出してまで若手アニメーターの育成ってのはやらなくちゃいけないことなのか、ってプロジェクト自体への業界内外の懐疑もあって、今後が危ぶまれたその上に2011年の3月11日というこの「PROJECT A」の上映最終日に、東日本大震災があって上映が中止になり、そして甚大な被害を前に今後の事業はいったいどうなるなろうかっていう不透明感もあった。けれども。

 翌年も「アニメミライ」と名を改めて若手アニメーター育成事業は続いてそして去年には「リトルウィッチアカデミア」っていう国内のみならず海外のアニメファンにも届く作品が登場したりして、一気にプロジェクトの知名度も上がっていったいどんな作品が出てくるんだろうっていう期待も、前とは比べ物にならないくらいに大きくなった。リポーターもつき進行を報告するネットメディアもできプログラムまで作られるというからもはやひとつの事業って感じ。窓際の記者もどきなんか出る幕もないくらいに、誰もが報じたいと思えるプロジェクトになったのは嬉しい反面ちょっぴりの寂しさもあるけれどもそれは巣立っていく鳥たちへのロートルからの惜別の情。気にせず進んでくれれば良いのです。ただあんまり肥大化し過ぎて期待もふくらみ過ぎたところにそれを裏切るような展開があるとリアクションも大きくなるけれど。

 それは何も作品の質ってことじゃない。実を言うなら作品の質なんて若手アニメーター育成事業という本来の趣旨からするなら二の次でだって良いんじゃないかって思いすらある。もちろん動かず乱れた絵で埋め尽くされても若手が描いた原画なんだからいいじゃないかってことはない。ちゃんとしたものを描いてそれがちゃんとした作品になっていることが最低の条件。ただ全世界が驚き商業レベルで完璧といったものを目指す必要はない。若手アニメーターにとって必要なことがそのプロジェクトから学べてそして、将来のアニメーション作りに反映されればそれで良い。挨拶にたったJAniCAの井上俊之代表理事もこのプロジェクトを進めたことで、アニメーターを育てるとはどういうことかを考える気運が業界に高まってきたって話してた。その意味では着実に本来の成果を挙げているって言えるだろう。

 その上で今回の「アニメミライ2014」にそろった作品を眺めると、4作品に共通するような雰囲気があったなあというのが見終わっての印象。男の子がいじいじしてたりよたよたしてたり、おろおろしてたりこそこそしていたりとどちらかと言えば後ろ向きで、そんな男の子に正対する女の子ががつがつしていたりはきはきしていたり、せかせかしていたりゆめゆめしたりと前向きな感じの関係にあるというか。今の時代は男子はおおむね優柔不断で曖昧で、そんなな男子を強靱だったりわがままだったり決心してたり中二病だったりする女子が引っ張っていくという構図になっていて、それが作品に出てしまったって言えるのかも。

 個々の詳細については公開までまだ間があるから言及を避けるとして、4作品ではシンエイ動画の制作で今井一暁監督による「パロルのみらい島」がビジュアルとしての完成度でもストーリーの面白さでも飛び抜けていたなあという印象。あとA1−Picturesの「大きい1年生と小さな2年生」も知られた原作を持つだけあってしっかりとしたお話をA1にしてはほのぼのとして童話チックなビジュアルでしっかりと描いていた。昭和40年代の田舎ってあんな感じだったよなあ確かに。里芋畑があって舗装されていない切り通しの道があって。そんな空気が良く出てた。子供ってちょっとした先に行くのも冒険なんだよなあ。

 STUDIO 4℃の「黒の栖−クロノス−」は恩田尚之監督ながらも絵は現場に任せて形を整えつつ作劇をどうするかってところに重点を置いて教えた感じ? そしてウルトラスーパーピクチャーズで吉浦康裕監督が手がけた「アルモニ」は「AURA 魔竜院光牙最後の戦い」とか「中二病でも恋がしたい!」の設定を裏返してシリアスな世界に寄せたという感じで胸がギュンギュンした。結論から言うと「たんすわらし」は超えてないけどでもどれも面白くて見入ってしまう作品ばかり。公開されたら何度か通って楽しもう、とある作品の全裸のヒロインを。あんまりピクッとは来ないけどね。


【2月16日】 とくにやることもないので秋葉原あたりにでてあちらこちらを散策。ソフマップに言ったら劇場アニメーション「BEYONETTA BRADY FATE」のブルーレイディスクが出ていたんで豪華版というかサウンドトラックCDが入っているのをとりあえず購入、エンディング曲の英語版も入っているそうで元々はそれで作ったという流麗さをそのうちに聞こう。UDXに回ると東京アニメセンターで「アニ飯屋」だっけかの展示があったけれど「ルパン三世 カリオストロの城」のミートボールパスタとかはともかく「魔法少女まどか☆マギカ」のラーメンとかはあんまり本編と関係ないんじゃなかろーか。「魔法の天使クリィミーマミ」のお好み焼きはどーだったっけ。

 まあでもそれでアニメに興味を持ってもらえて、下の飲食店がにぎわうのは良いことって感じ。実際に「まど☆マギ」のラーメンを出す店には午後1時半からの提供を待って長い列が出来ていたし。ランチョンマット目当てだろうけど。パスタはやってなかったのかな。個人的には「精霊の守人」の屋台もつ煮込丼が美味しそうだったけれどもどうやら提供は終わっていたみたい。早いなあ、そういうイベントメニューじゃなくって定番メニューとして置いておけば、また行こうって気にもなるんだけれど。それとも何か版権が絡んで簡単には提供できないってことなのか。そういうところに介在して取り持つのが行政なり業界なりの役目なんだけど。まあ仕方がない、今回のケースを前例にいろいろと試していっていただければと今後の発展を願おう。

 ふらっと巡って幾つかの店で「空の境界」の1番くじを引いたけれども蒼崎燈子さんのフィギュアも両義式のフィギュアもあたらず、きゅんきゃらと1つもらいブックレットとやらをもらって引き上げる。家の近所の本屋はあんまり人気がないのかフィギュアもたっぷり余っているのでそっちで引く可能性にかけよう。山手線京浜東北線のガード下にあった中古フィギュアを売ってる「エックス」って店がなくなっていたので、移転先を探して総武線のガード下、っていうかゲーマーズの裏あたりい戻ったらあったけれども品数は減っていたなあ、目は店頭にどーでもいいクッションとか山積みで、そういうのを拾うのが面白かったんだけれど。耐震工事が終わって戻る時を楽しみに待とう。戻るのかな?

 たとえ気に入らない言説を垂れ流す人物が頭の方にいたりする組織であっても、その国を一応は代表している公共放送の取材を断ったらしいというアメリカ大使館の態度は決して誉められたものではないけれど、その国が歴史の上において決定事項としている事柄について真正面から無効を訴え、なおかつやられたからやり返したまでという、ちょっぴりやり過ぎという感が傍目には否めないにしても、当人たちにが営々と“正当”を認じて来た事柄を、激しく非難されてはもはや話をするだけの価値もないと感じ、そんな人物を戴く組織に口を開く必要を認めないと思ったところで、それを悪し様に言うことはちょっと難しい。

 結果として公共放送の視聴者たちは、ケネディという駐日アメリカ大使の言説をうかがう機会を失した訳で、これは視聴者に対する裏切りと言っても過言ではないし、世界に対してあのアメリカが半ばカルトとして排除したメディアであるということを、大いに喧伝してしまった形で、今後の取材活動なりが制限されて、視聴者はさらなる機械損失を被る可能性も出てきている。その責任はひとえに立場を忘れて自己主張した人物にあり、そんな人物を任命した安倍晋三総理にある訳だけれど当人たちはいたって平気な顔をして居座り、居直ろうとしているから質が悪い。

 これでオバマ大統領の来日が壊れないまでも、希望する2泊3日が果たされず1泊すらされないで弾丸ツアーにされた日には日本の面目丸つぶれ。それだけでなく迫るTPPの交渉への影響なり、アメリカを含めた世界で行う経済活動への影響なりも心配されるけれどそれでも自分たちの言い分を貫き、世間をそれで屈服させることだけが快感な面々には、場を見て改め臥薪嘗胆するような奇特さは絶無なんだろうなあ。それを支持する面々が一定数いて、それだけを見て絶対の支持を得ていると勘違いするお歴々がぐるぐるとプライドだけを醸成させたあげくにたどり着く尊大国家。たしなめられても改めずだだっ子のように己を正当化するその態度って、どこかの独裁国家に似てないか? そんな国に住んでいる、僕たち。

 しかし上に疫病神が居座ろうとも、現場ではとりあえず踏ん張ろうとする公共放送はまだしも、上から中まで歴史修正主義に凝り固まり、それだけでなく競い合うようにして歴史否定にまで突っ走っていたりするメディアがあるからたまらないというか。あの安倍総理が前に総理大臣をやっていた時代に、日中首脳会談において日中の有識者による歴史共同研究を年内に立ち上げることで一致し、結果生まれた日中歴史共同研究の成果ですら、真っ向から否定して「南京大虐殺はなかった」と言った公共放送の頭の方にいる人物を、その通りだと支持し何も間違ったことは言っていないと認める記事を載せてしまうんだからこれはアメリカ合衆国にとっても、中華人民共和国にとってもたまらない言動だろう。

 いやいや大ではないけど虐殺はあったと書いているならまだしも、記事では数万人の被害者が出たことですら当時の状況で否定されたんだと書いて、まるでなかったかのように誘導している。こんな記事を読んでいたらもはやアメリカに社員が立ち入ることすら困難になるし、中国にだって入れてもらえなくなりそう。というかなっていたりするのかな。まあそうしたリアクションを甘受することも想定しながら、言論の自由を貫くとこは言論機関としての筋ではあるけれど、問題はそうした言説が世界に冠たる米国発のIT企業がバックアップし、その名前を頭に冠した媒体から堂々と発信されていることに、IT企業が気づいた時にどうなるか、ってことか。

 ネット企業が提供しているプラットフォームと、その上で繰り広げられる主張は別、って話もない訳ではないけれど、個人が間借りしてやっているブログとかホームページとは違って、IT企業の運営する情報発信サービスのメニューにその新聞の発信する情報は組み込まれていて、世間からそのIT企業の主張と受け止められかねない可能性をはらんでいる。そんなことはないと言ったところで、こじつけようとすればこじつけられる話。受けてIT企業が言い訳しても、逃れられないくらいの密接さを持っていたりする。本国の政府が顔も背ける主張を、その看板の下でいつまで堂々と開陳し続けられるのか。根性が試されているというか、もはや限界を超えている可能性もありそうというか。結果起こるかもしれない事態が引き起こす事態に、いろいろと注目したくなるけど、その時は他人事ではいられないからなあ。さてはて。

 おお凄い。とても凄い。ソチ五輪のスキージャンプ競技でラージヒルに挑んだ葛西紀明選手が何と2位に入って銀メダルを獲得した。金メダルならこの日限定の隕石入り金メダルももらえたそうだけれどそれはまあ、おまけだから良いとして41歳にして銀メダル。アーチェリーとか乗馬なら年齢が上でも経験と勘でこなせるけれど、踏みだしのところで体力筋力が要求されまた前傾姿勢を保つ筋力も要求されるスキージャンプの世界で20年、トップを保ち続けるのは相当なもの。だから周囲にそれだけの年齢の人がいないなかでひとりトップコンディションを保ち続けてワールドカップで優勝し、オリンピックにも出てメダルを獲得するんだからもはや伝説のアスリートと呼ぶしかない。きっと世界中から称えられるだろうなあ。日本じゃあ金こそが価値って意識が強いけれど、その背景を考えた時に出場したことだって存分に称えるべき葛西選手。ましてや銀なんだからこれは国民すべての誉れとして、称えるべきなんじゃなかろーか。でもやらないんだ政府は。金じゃないから。そういう国に生きている。


【2月15日】 3月21日にTBSラジオが赤坂にある「赤坂BLITZ」で伝説のラジオ放送「パック・イン・ミュージック」の“復活”イベントを開くってんでちょっと前、アナウンサーの小島一慶さんとそれから「金曜ナチチャコパック」のパーソナリティとして野沢那智さんと組んで、15年間の放送期間をずっと出続けた声優の白石冬美さんにお目にかかってお話を伺うことがあったんだけれど実際、名古屋出身の人間にとってこの「パック・イン・ミュージック」ってのはひとつの鬼門。聴いたことがない。TBSとはテレビではネットを組んでいる中部日本放送が、ラジオではなぜかニッポン放送と組んで「オールナイトニッポン」を放送していた関係で、「パック・イン・ミュージック」を聴くことが表向きは出来なかったのだった。

 がんばってアンテナを伸ばして直接TBSの電波を拾えばそれでも聴けないことはなかったけれど、山の端が迫る場所ではなかなか中波をとらえ切れず「オールナイトニッポン」の2部ですら聴くのが無理だった状況で、申し訳ないけど“裏”番組だった「パック・イン・ミュージック」をわざわざ聴くこともなかった。ひとつ「金曜ナチチャコパック」については、折からの声優さんブーム、あるいは「機動戦士ガンダム」のブームもあってミライ・ヤシマ役の白石冬美さんが野沢那智さんと出演しているとうことで、何とはなしに情報は入っていて聞く機会があれば聞きたいなあ、なんて思っていたら1982年に放送は終わってしまい、後に東京(千葉だけど)に出た時にはもう伝説の彼方に置き去りにされてしまっていた。

 いったいどういう放送内容だったんだろう? 白石さんや野沢さんはどんなしゃべりをしていたんだろう? いくらそう思ってはいても、2010年に野沢さんがなくなられてしまってからもはや復活もかなわなくなってしまった現在、もはや聴くことは絶対にかなわないと思っていた番組が今回、「パック・イン・ミュージック」の32年ぶりの復活イベントに絡んでCD2枚組が5巻セット1万5000円で販売されるとあってこれはもう聴くしかないなあと思った次第。何しろあの達人のしゃべりを聞かせてくれる小島一慶さんをして「名人芸」とまで言うほどのお便りの読み。白石さんも後進に勉強のために聴かせたいというほどの話芸は、集まってくるお便りを書いた人の身になって、時にはコミカルさも交えつつ演じて見せたというから凄いもの。そこにはちょっとした寸劇の空間が生まれて、聞いている人たちをどこかにいる誰かの世界に引きずり込んでいたんだろう。

 そして思ったのは、当時の深夜放送という場がもっていたひとつのコミュニケーション空間としての役割で、はがきでも手紙でもそれなりの長文をしたため送り、読んでもらうことによって自分の境遇なり自分の面白さなりを電波に乗せて世に伝えてもらいつつ一方で、そうした声を聞いて自分と重ねて何かを思ったり、それならと自分も手紙を書いて送って世に自分のことを知らしめる関係性が、ラジオという媒体を使って成り立っていた。そりゃあ今もツイッターなりメールを通じて瞬間的にさまざまな意見がラジオに寄せられ、発信されてそれを受けて何かを書くといったやりとりはされているけれどでも、それはどこか瞬間のリアクションに限定されている感じで、人生とか生活といった重たいけれど大切な情報が、まるっと欠けてしまっているような気がする。リアルじゃないっていうか。

 瞬間にいったいどれだけの言葉を紡いで遊べるか、ってことが重要でそれを聞いて「へえ」とは思えても、そこから得られる誰かの経験といったものはない。書く方だってこれを書いていいものか、でも知って欲しいからやっぱり書こうといった葛藤の果て、便せんなりはがきに向かって1字1字言葉を刻んでいくような“覚悟”なんかをそこに抱かない。そうした薄くて軽い言葉が電波を通して、あるいはネットでも動揺に集められ拡散して連鎖していったところでいったい何が生まれるのか。そう思った時にかつてのラジオの深夜放送が、メールどころかファックスすらまだない時代に考え抜かれ磨き抜かれた言葉を媒介していたことの意味、その大切さってものが改めて浮かんできた。そんな言葉を野沢さんはどんな風に語っていたんだろう? 確かめるためにもCDを買って聴くしかないかなあ、「金曜ナチチャコパック傑作選」。ちょっと高いけど。

 とはいえ昔も今もラジオ界アナウンサー界声優界の重鎮に「聴いてませんでしたー」と笑って会いに行けるほど神経も太くないので、せめて話の接ぎ穂にと、「金曜ナチチャコパック」で白石さんが野沢さんと組んで歌った「青山レイニィ・ナイト」っていう楽曲のシングルを神保町にあるレコード社で探して持っていったらこれはと小島さんがしげしげと眺め、白石さんも写っている野沢さんの表情なんかを見て格好いいなあと言ってくれたりと、それなりの掴みにはなったみたい。相手だって百戦錬磨の方々だから、こっちのどこか取り繕うようなスタンスを見通してはいただろうけれど、それでも少しはがんばってみましたってことを受け止めてくれたなら探した甲斐はあったってもの。すべての取材でそれだけのことは出来ないけれど、せめて少しは相手が認めてくれるようなことを出来ればなあと改めて心に刻む。まあ窓際なんで取材で誰かに会うなんてことがほとんど無くなっているんだけれど。

 まどろみつつ時々目を開けて見ていたテレビでだんだんと羽生結弦選手の登場が近づいてきたんでパッチリを目を開いてソチ五輪のフィギュアスケート男子フリーを見る深夜早朝。高橋大輔選手とか出てきてそれほど大過なく滑っても大きくはどよめかないのは演技にやっぱりキレがないからかなあ、技がそれほどダイナミックではないからかなあ、なんて思っていたことろに現れた羽生選手はなるほどたたずまいからして妙にキュート。そして滑り出してからみせる回転の速度や高さのすごさになるほどこれが今の世界トップの姿って奴を見せつけられる。それほど背が高いわけじゃないのに妙にスマートに思えるのは細身で顔が小さいからか。それでいて昔ほどひ弱な感じがしないのは、この1年の間に積み上げた体力筋力があったからなんだろー。

 もちろんその後に登場したパトリック・チャン選手のがっしりとして安定感のある滑りに比べると、羽生選手にはまだ脆さとか儚さって奴がつきまとう。それでもチャン選手ですらグラつくところを見せるくらいに難しいあのリンクでありあの雰囲気の中で、チャン選手と同じ程度には滑れたってことが逆転されないまま、金メダルをつかんだ理由にあるんだろー。人によってはチャン選手が失敗したから棚ぼたで金メダルだったんで言うけれど、逆にいうなら羽生選手が失敗しなければチャン選手は追いつくことはできなかった。そんなコンディションでショートプログラムを完璧以上にすべりフリーをしっかりと演じきった才能と精神力とスタミナは、やっぱり金メダルにふさわしいものなんじゃなかろーか。あとはやっぱりビジュアルか。これでもう完璧に日本のスターになってしまった羽生選手だけれど、もみくちゃにされることなく純粋にまっすぐに成長していって欲しいもの。まだ終わりじゃなくさらに成長できる余地があるってことを見せてくれた訳だし。どこまで行くのかなあ。楽しみだなあ。

 希にみる大雪であちらこちら大変なことになっている最中に、いろいろ吹き出して来る昨今、例のSTAP細胞に関する論文に添えられた写真がおかしーじゃねーかといった話が持ち上がって理化学研究所が調べ始めたって話があって、本当にそうだったら一大事だけれどそういう事態が想定されるにも関わらず敢えてやる意味があるのかといった疑問も。いずれ結論は出るだろーけど妙な話。それからある書の公募展で出された都道府県知事からの賞が実は誰か分からない相手に贈られていたそうで、推薦をした公募展側のスタンスに疑問が出ていたりする。県知事だっていちいち見てこれだと思って出すわけじゃないから、推薦者がズルをしようと思えば出来てしまう。問題はそういうズルがあったのか、あったとしたら何のために実在しない人間に県知事賞なんて出したのか、ってあたりで協賛金とか後援料とか諸々の流れなんかも含めて解明が待たれる。そんな公募展を率いている人物が絡んでいる新聞社の書会に影響が及ばないと良いけれど。さてはて。


【2月14日】 ふんどしの日。女性もきっとふんどし締めてその中に誰かに送るチョコレートを入れて抱えて会社に学校に行ったことだろう。ソチでは五輪のフィギュアスケート競技で我らがプリンス、あるいは氷上のミッチーこと羽生弦結選手がショートプログラムに出て堂々の1位を獲得、その得点が史上初めて100点を超えてしまったとかで世界中が一体何が起こったのかと仰天し、誰が演じたのかを確かめその姿を見てキュートだ何だと大騒ぎしていることだろう。そして地球が1周回った今夜明朝に行われるフリーの演技に熱い視線を送るだろう。

 それにしても、眠って朝に起きたら世界中が知る有名人になっていたとは、誰か偉人がしゃべった言葉だったか。羽生選手もそんな感じにまず1段、有名度を上げそして金メダルともなればさらに有名度を100段階くらい上げて世界のセレブの仲間入りくらいしてしまいそう。もちろんずっとそれなりの有名人だったけれど、五輪という場でのその活躍でスケート界隈以外も知ることになった。これで天狗にならないはずはないけど、当人はいたって冷静に受け止めているようで、きっとこれからも真摯に競技に取り組んでいくんだろう。そんな性格っぽいし。今なお仙台アイスリンクの復興に役立とうとアイリン入りの手袋をして練習に臨んでいるし。真面目で優しい男の子。だからたとえ金を逃しても優しく熱く見守っていこうその肢体を。やっぱりそこかよ衆目の視線は。

 そして仕事の予習にと1998年に公開された映画「がんばっていきまっしょい」のDVDを見返す夜。凄腕のプロデューサーがいると聞いてアルタミラピクチャーズへと取材に行って、既に白髪だった桝井省志さんから今度やるこの映画が面白いよって話をたぶん聞いて、8月にこれもたぶんだけれど銀座の東映本社であった試写を観て、面白い上に素晴らしい映画だと感激して試写室に来ていた桝井さんにそう言った記憶があるけれど、模造された記憶かもしれないのではっきりしたことは言えない。

 ただ試写で観たのは日記に書いてあるから確実で、その面白さから工業新聞なのに紹介記事も書き、そして10月に公開されてからはバルト9が建つ前の新宿東映に何度か足を運んで観に行ったってことも日記に書いてあるからたぶん確実。それほどまでにのめり込んだ映画のDVDが翌年、発売されたんでこれもすぐ買って何度も何度も見返した。それ以降となるとうーん、どうだったかはっきり覚えていなくって、2005年にコレクターズエディションのDVDが出たのを知ってこれもすぐに買ったけれど本編および特典ディスクを観たかというとやっぱりはっきりとした記憶がない。

 まあこのくらいになると過去にじっくりと観たから今さらという気持ちもあったかもしれない。だから本格的に本編を観るのはあるいは15年ぶりくらいになる「がんばっていきまっしょい」は、やっぱり圧倒的に面白かったし素晴らしかった。今観てもまるで古びてないし、むしろ今だからこそ訴えかけてくるものがある。まずモチーフ。1970年の愛媛県にある高校に入った女の子が、何をしたら良いか迷っている中でボート部の活動を知ってやってみたいと言い出して、女子はないと言われてもあきらめず女子の部門を作って男子の中に入り込み、そしてメンバーを集めて本当に女子だけでレースに参加してしまう。

 いわゆる部活物って範疇にくくられそうで、その上で野球とかサッカーとかバレーボールといったメジャーな競技ではない女子のボート部という異色の競技をテーマに選び、そこに取り組む面々の生態を世に知らしめるというフォーマットは、後にアルタミラピクチャーズが矢口史靖監督で作り上げて大ヒットした「ウォーター・ボーイズ」と「スウィング・ガールズ」の一種原型とも言えるもの。もとより周防正行監督で社交ダンスというこれもちょっと異色の舞台を選んで描いた「Shall we ダンス?」という作品を手がけていた会社だけれど、矢口作品で“アルタミラ調”というものをほぼ確立して日本の映画界に存在感を植え付け、後にたくさんのフォロワーを生んだその原点が「がんばっていきまっしょい」という映画だと言える。

 ただし、どちらかといえばコミカルな中に友情もあれば恋もあるような明るい青春映画に流れていった矢口作品と比べると、磯村一路監督は汗とか涙とか根性とかいったものをあんまり前面に押し出さず、割に淡々とボート部に取り組む少女たちを描いて見せる。もちろんそこには努力もあるし、レースに敗れて悔しさに泣く少女たちの姿もあるけれど、感情の起伏をダイナミックに示してそれを情動を煽るような音楽に乗せて見せることはせず、当たり前の気持ちが当たり前の状況の中で滲み出る様をフィルターを通さずに見せようとしている。

 上からでも下からでもない等身大の目線。だからそこでがんばる少女たちの日常にシームレスにフィットしていける。今みてもそれは目新しくそして心地良い。あるとしたら誉田哲也さんの原作を成見璃子さんと北乃きいさんが主演して映画にした「武士道シックスティーン」が、そんな感じに淡々とした映画だったかなあ、成海さんと北乃さんの別れ際、成海さんが「じゃあ、また」と言って離れていくあっさり感は、「がんばっていきまっしょい」のラストで、田中麗奈さんが演じる悦ネエが「ファイト」ってつぶやくシーンに通じるところがあるような。

 観てちょっと驚きだったのは、部員集めの大変さをすっ飛ばしていたってところか。これはたぶん、他の部活物のフォーマットが後に脳内に流れ込んできたから浮かんだ模造記憶なんだろうけれど、悦ネエが構内を歩き回って部員をどうにかこうにか集めるようなシーンがあって当然だと思ってた。それがなかった。気が付くと自分を含めた5人がそろっていよいよボートに乗る場面へ。部員集めではなく集まった部員たちの成長にこそ重点を置きたいって考えが、部活物にありがちなドラマをカットして一気の結成、そしてその後といった流れを選ばせたのかもしれない。

 そして今、改めてそういう展開を観ると逆に新鮮に思えてきた。何でもかんでもフォーマットの上に載せて走らせれば安定した感動を得られるし展開だって作りやすいんだろう。だからそういう話が増えているんだけれど、敢えてすっ飛ばして本番からの努力と向上を中心に描くことで、よけいな山を前半に作らないで後半の葛藤があり挫折があり向上があって成功へと向かう流れを自然に受け入れられるようにしたって言えそう。連続ドラマなら部員集めの苦労もあっていいけれど、これは映画だからね、100分弱の。そんなところにあらためて気づかされた「がんばっていきまっしょい」の久々の鑑賞だった。

 けど何よりの驚きは田中麗奈さんの若さぴちぴちさ。今はすっかり大人の女性って感じになってスリムな手足をのぞかせ、小さい顔を乗っけてあちらこちらの映画に舞台に出演しているけれど、当時はまだ本当に10代のそれもどちらかといえば子供といった感じが強く残って今とはまるで違う動きを見せてくれる。ずっと変わってないと思っていたのは、その成長と平行してその姿をメディアで見ていたからで、こうやって改めて過去へと遡ってみると成長の跡がくっきりと見える。ただ演技に取り組む姿は昔も今も変わらずまっすぐに真面目。しゃべり方とか巧くなったし表情も豊かになったけれど、しっかりとその空間に入り込んでその役になり切ろうという姿勢はたぶん変わってない。そんなことを確認出来たのも見返しての収穫か。

 こちらは初見になる特典ディスクでは、ヒメにリーにイモッチらが愛媛を訪ねボートにも乗る姿が収録されててがんばっている姿を見せてくれる。それもナックルフォアではなく両手こぎの4人乗りコックス付き。けど8年経ってもしっかりと漕げているところに2週間だっけそれ以上だっけかの撮影前の特訓の成果ってものが伺える。とはいえ公開から8年経って出たプレミアムエディションに収録の特典ディスクに出演してから、さらに今まで8年が経っていたりする訳で、彼女たち3人は何をしているんだろうか、ちょっと気になった。

 イモッチ役の人はブログとか読むと子供向けのステージイベントでがんばっているようだし、リーの人も磯村監督の作品に出演していたりする。ただダッコ役の真野きりなさんだけは特典ディスクにも登場しないで消息が不明。「がんばっていきまっしょい」の後にもCMとか塚本晋也監督の作品とかに出演していたけれど、そこから少し離れてしまっているみたい。日本人にしては珍しいくらいにスレンダーな姿態とクールな容貌を持ったキャラだけに、塚本監督の知名度も重なって世界で活躍できる女優になるかもって思ってたこともあっただけに、消息が分からないのはちょっと残念。いずれ復帰を願いたいけれど、果たして。

 まあその分は、「がんばっていきまっしょい」をきっかけに女優への道を歩み始めて10余年を過ぎ、大きく育った田中麗奈さんが八面六臂の活躍を見せてくれるからそちらに期待を乗せるか。4月からはあの明治座で諸田礼子さん原作の舞台「きりきり舞い」に主演するとか。加藤雅也さん演じる十返舎一九の娘としておやじに振り回され、居候で葛飾北斎の娘のお栄に振り回され、転がり込んできた浪人物に振り回される役は元気で前向きでやりたいことにむかって突っ走って来た田中麗奈さんにピッタリ。篠井英介さん板尾創二さんといった面々も加わる奇人変人ばかりの中にあって、ひとり強い女を見せては集まった観客の女性たちに生きる指針を与えてくれるだろー。どんな舞台になるかなあ。見に行きたいなあ。というか行く。「交響劇 船に乗れ」を見逃しただけに今回は。絶対に。


【2月13日】 たぶん1回くらいしか見たことがないような気がする田中芳樹さん原作のアニメーション版「銀河英雄伝説」は、OVAとしてリリースされてされてされ続けて110話くらいいったものをテレビで時々放送してたんだっけ、でももしかしたらまだ1回も見たことがない可能性もあるくらいで、だから誰がどんな役をやっていてその声でなければそのキャラクターではないといった思い入れはまったくない。今回なにやらその「銀河英雄伝説」が再びアニメーション化されるってことらしく、世間ではやっぱり前の声優さんをどれくらいふまえているんだろうかって辺りが話題になりそう。

 例えばヤン・ウェンリーを演じていた富山敬さんは第3期の終わりで亡くなっていて本編では代役を立てなかったくらいでやっぱり他に変わる人がいないんだろうか、その後に演じた郷田ほづみさんになるんだろうかタツノコ系で跡を継いだ山寺宏一さんがやっぱり良いよなあ、なんて具合。オスカー・フォン・ロイエンタールは若本則夫さん以外にあり得ない、って声なんてとても強そうだけれど25年前の若本さんと今の若本御大は違いすぎるからなあ。まあどっちにしたって聞いてないからそれがベストなのか判断のしようがないんだけれど。

 ラインハルト・フォン・ローエングラムなんて宮野真守さんなり福山潤さんなりと二枚目居丈高系をやらせて巧い声優さんはいくらでもいるし、ヤン・ウェンリーなら気が抜けているようで実は才覚の持ち主といった感じの声を櫻井孝宏さんなり浅沼晋太郎さんなり細谷佳正さんならちゃんと演じてくれそう。若本さんの代わりは……浮かばないけどまあいるでしょう、ドスの効いた声を出せる中堅の声優さんならいくらでも。杉田智和さんとかどうだろうラインハルトとヤンが福山さんと櫻井さんなら「コードギアス 反逆のルルーシュ」の再来で宮野さんと細谷さんなら「ちはやふる」の再来。ありきたりかもしれないけれどもそれくらいに今の男性声優陣は二枚目声の持ち主がいっぱいいるから誰が演じてもそれなりな人気を醸し出してくれるんじゃなかろーか。

 だからこちらとしては声よりもむしろキャラクターデザインが誰でどんな感じになって、そしてメカデザインはスタジオぬえが踏襲するのかといった方に興味が傾く。メカはやっぱりあの硬質で壮大なスペースオペラの世界を受けてたてるくらいの構想力と強靱さを持っていないと負けてしまう。キャラクターは長大な作品を通して親しんでいけるような姿でないと飽きてしまう。そこをこなせる人は誰か。メカは浮かぶけどキャラクターはちょっと分からないなあ。道原かつみさんのイラストをより所にした美形キャラ、って感じを踏襲するのかそれとも。そこに注目。それにしてもどのくらいの長さで描くのかなあ、やっぱり100話を越えて来るのかなあ、そんなことを許す媒体ってあるのかなあ。

 予習にと2007年に公開された映画「山桜」をDVDで見る。藤沢周平さんの短編が元となった映画だけれど、たとえば「たそがれ清兵衛」とか「隠し剣鬼の爪」とか「武士の一分」みたいに日本映画として大々的に取り上げられては、各地の映画祭を回ってスタンディングオベーションを浴びただの、レッドカーペットを誰かが歩いただのといった話題からは遠く離れてひっそりと公開され、そしてひっそりと閉幕していった印象。存在すら覚えられているかどうか怪しい映画だったけれど、観たらこれが素晴らしかった。藤沢周平さんが描く地方の城下町に暮らす武士たちの、武家の女たちの、そして農民たちの苦闘と苦悶、生活が虚飾なく描かれていて心にじわっと染みてきた。

 1度目は夫に先立たれ、2度目の婚姻をして嫁いだ野江という女性が主人公。けど金に汚く出世にどん欲な夫と、その父母の間でひとりどうにもぎくしゃくとした暮らしを送っていたある日、実家に戻り前の夫の墓参りをした帰りに見かけた山桜を手折ろうとして届かず、足を痛めていたところに通りかかった武士がいた。かつて野江を嫁にと求めながらも断られたことがあった手塚弥一郎という男で、野江のことを知っていて彼女の役に立とうと桜を手折り、そのまま去っていく。以前は剣術の得意な武士を恐れ、また父がおらず母と2人暗しの手塚の家に嫁ぐことに父母の不安もあって縁談を断わった野江を、それでも思い続ける弥一郎に少し心を動かされた野江。けれども今は夫ある身。だから不倫といった道へとは向かわず日々を淡々と過ごす。

 そんなある日、かねてから私服を肥やして農民たちを絞りたてていた重臣を、手塚が城内で切り捨てる事件が起こる。それを知った野江の動揺が彼女の暮らしを変えていく。一種自立の物語。そして遠くを思う物語。重臣を殺めた罪が消えるはずもない弥一郎は牢に入れられ藩主の沙汰を待つ身。安泰とは言えないその彼を、野江が遠くから慕う気持ちが、淡々としつつ所々に意志の強さをのぞかせる田中麗奈さんの演技によって表現されている。素晴らしい。そして寡黙ながらも義憤を内に秘めて行動に移し、けれども申し開きはしないで沙汰を待つ弥一郎を演じる東山紀之さんの凛然とした姿が素晴らしい。2人が出会うのは山桜のシーンだけ。それでも静かに通う2人の間の思いってものがだんだんと見えてくる気がして、是非に結ばれて欲しいと応援したくなる。

 そんな2人を軸にして、尋ねてきた野江を家で迎える弥一郎の母を演じる富士純子さん、野江の母で優しさと厳しさを持ち合わせた姿を見せる壇ふみさんら、脇の面々の奥深い演技があって地方にある小藩に暮らし生きる人々の日々、そして昔であっても今と代わらない子を思い正義を信じ幸せを願って生きる人々の心根といったものが浮かび上がってくる。そうしたドラマを支える山村や城下の風景が良く、江戸時代の武家の住居を再現したセットがまた良くて、あの時代を今にリアルに伝えてくれる。こういう頃があったんだなあと思わせる。観れば分かるその良さだけれど、当時いったいどれだけの人が観たんだろうか。どれだけの人に覚えられているんだろうか。DVDすら滅多に見かけなくなった作品だけれど、この機会に誰か観て感じて欲しいもの、山田洋二監督だけが藤沢周平作品の映画を撮っているんじゃないってことを、そして山田洋二監督以上の藤沢周平作品の映画があるんだってことを。

 さすが6554作品もの応募作の頂点に輝く大賞を受賞した作品、素晴らしかったよ面白かったよ、虎走かけるさんの「ゼロから始める魔法の書」(電撃文庫)は、魔女たちがいて魔術を使っていた頃から一足飛びに技術が発展し、魔法という簡単に発動する異能の力が使えるような世界を生み出してしまったがために為に迷う魔女の少女と、そんな力を得てしまったがために惑う人間たちの姿が描かれる。魔法の使い方が書かれた【ゼロの書】が密かに世に出て、それを読んで魔法が使えるようになった人類だけれど、生活を便利にするだけじゃなく、武器につかって暴虐な振る舞いを初める者も現れ普通に暮らしている人類と対立。そんな世界を収集に導こうと、【ゼロの書】を書いた少女姿の魔女ゼロは、書がある場所に在処に向かおうとしていた。

 そしてゼロは、過去に魔女の魔術が血筋に入って半獣半人として生まれ傭兵となった男と出会い、かつて同じ穴蔵に暮らしていながら先に出ていった十三番という同胞の魔法使いをまずは探そうとする。途中に魔術を使う少年とも出会い、いっしょに旅をした先で半人半獣の男は知る。魔法の利便と害悪を。そして世界を糺す企みを。かつて原爆を作ったオッペンハイマーは、トルーマン大統領から英雄と称えながらも、その威力のすさまじさに恐れおののき、握手を求めてきた大統領に自戒を告げて疎んじられ、遠ざけられた。人類のためにと思った技術が人類に災厄をもたらすと知ったオッペンハイマーの心には、どんな悲しみが満ちていただろう。同じように魔法を送り出したゼロにも、心に様々な葛藤が渦巻く。

 料理のために魚や獣を焼く魔法は弾圧や戦争のために人を焼ける。山林を切り開いて田畑を耕す魔法は城塞や家々をも破壊する。そんな世界を目の当たりにしてゼロは魔法を回収しようと穴蔵から世の中に出てきた。彼女の目的から問いかけられるのは、便利でありながら恐怖でもある文明の両刃の剣ぶり。そして人類の判断の揺れぶり。そんな重いテーマの上で、半人半獣の男の初め魔女を毛嫌いしながらゼロに惹かれ、けれども仲違いをしつつやっぱり忘れられず、ゼロは仲間を得た嬉しさを隠し冷徹に振る舞おうとする。そんな行き交う心情を味わいつつ、悲惨で深刻さを持ちながらもそこはライトノベルとして少しばかりのコミカルさも持った人物描写を楽しめる虎走かける「ゼロから始める魔法の書」。読み終えた時に人は思うだろう。ゼロの靴下を古着屋の店主はもらえたのかと。違う、良く生きることの大変さを。


【2月12日】 キックスターターが始めた3万ドル集めて「マイマイ新子と千年の魔法」のBDとDVDの英語字幕版を作っちゃうぞ企画はとっくの昔に予定を超えて6万ドルという英語吹き替え版の制作ラインにも到達。そうなると気になるのが吹き替える声優さんだけれど海外の子役の声優さん、または俳優さんってあんまり知らないからとりあえず新子はクロエ・グレース・モレッツにお願いしたいと言っておく。「キック・アス」のヒットガールちゃん。元気で勢いがあって正義感にあふれているあたり、新子にちょっと似てるかも。新子のお父さんについては片淵須直監督がジェームズ・アール・ジョーンズでって書いていたけどこれはなかなかに大物。だってダースベイダーだもん「スター・ウォーズ」の。でもその野太さと頑なさはまじめな新子のお父さんにピッタリかな。

 貴伊子とかお嬢様を演じられるアメリカの声優さんとか誰かいたっけ、って頭を巡らせてもまるで思いつかないけれどディズニーとかピクサーとかワーナードリームワークス等々のアニメーション映画で女の子の声を演ってる人を探せば結構いたりするんだろうなあ、昔と違って日本のどこか幼いキャラクターにもおばさん系の声をあてて聞いて仰天なんてことはないだろうし、っていうか日本の声優さんの声が役柄の年齢に比べて幼すぎるだけなのかもしれないけれど。そんなキックスターターは次の目標を7万ドルに定めて今度はパンフレットを付けるとかどうどかやっている。さらに集まればサウンドトラックを作ろう、なんて話もあるみたいでこれは楽しみだけれどでも、村井清隆さんのをそのまま英語盤にしてもコトリンゴさん「こどものせかい」は入らないからそのあたり、醜態性的なものを是非。

 女子ジャンパーは慣れないソチ型のシャンツェが響いて踏切がずれたかして飛距離が伸びず4位。とはいえまだノーマルヒルだけでラージヒルもあるかと思ったら女子にはなくってこれで高島沙羅選手の最初の五輪挑戦は終わってしまった。蔵王に同じタイプのジャンプ台があるならもっとそこで練習をさせてあげれば良かったのに。ワールドカップを回ったりとかいろいろスケジュールもあって飛ばせてあげられなかったんだろうなあ、そういうところで国を挙げてのバックアップをするべきなのに、しないで期待だけかけてとれないと文句を言うのはやっぱり違うんじゃないのかなあ。まあでもまだまだ未来もあるしここからワールドカップをすべて勝ち、世界選手権でも勝つとかしていけばあっという間に次の五輪も来るから逆風めいた声とか聞かずに前を向こう。もとより向かい風で飛ぶのがジャンプなんだから。

 一方でスノーボードの男子ハーフパイプは平野歩夢が見事に銀でソチ五輪初メダル。3位にも平岡卓選手が入って銅と一気にメダルの数を2枚に増やした。ゼロから2枚はすごい躍進。意外だったのは絶対王者のショーン・ホワイト選手が4位に終わったことか。きっと挑戦してそして失敗したんだろう。滑る場所もあんまり調子がよくなかったみたいでみんな失敗してたし。そんな中でもカッチリと決めた2人が上位に入ったのは凄い。そして素晴らしい。2人とそして金メダルの選手が結構なトリックを決めてそして失敗しなかったってことは、舞台のコンディションが悪かったってことでは決してないわけだし。それにしてもショーンも平野選手もどうしてあんなに高く飛べるんだろう? 他の選手と道具が違ってイオン発生器でも付いているんだろうか。トラパーの濃度が彼らの時だけ濃くなるんだろうか。調べてみたい。

 もう意味不明というか「獄門島」的に言うなら「キが違っているが仕方がない」と和尚さんでも匙を投げたくなるくらいに戯けっぷりが炸裂している日本の総理大臣殿。とあるNHKの経営委員が東京都知事選の際に支持する候補の応援演説にたって別の候補を「人間のクズ」呼ばわりしたことを受け、お友達だってことで推薦した責任をとって総理が国会で答弁に立った際に「自分も人間のクズだと呼ばれているよ。でも気にしないよ」と筋違いの答弁をしてその場をしのいだとか。総理が個人でどう呼ばれ、それをどう受け止めようとそれは総理個人の体感であって選挙という場で対立候補を罵倒する行為の正当化にはいっさいつながらない。

 それが法律違反だとか放送法違反だといったものではないから気にする必要はないって声もあるけれど、公然と戦う明いてを罵倒する人間のクズっぷりは実に明白。もはや人外といっても過言ではないけれどそういう状況を感じ取らずに話をそらして逃げる態度が生むものは、人が人をクズと読んでもかまわないという心理の蔓延。それを分かっているなら諫めるところを自分の任命した人間の間違いを認めることが負けだとでも思っているのか省みず謝るスタンスはまるで見せない。謝ったら負けみたいな態度は総理に限らずその周辺で総理を支えたり群がったりする人たちに似た傾向で、それが国の間違いを認めることが自分のプライドをおられることだと勘違いして憤り、吹き上がる態度を生んでいたりするのかも。間違えたって良いじゃない、人間だもの、たとえクズでも。人外に成り果てたらもう終わりだぞ。

 将棋小説の傑作と言えば野崎まどさんの「独創短編シリーズ 野崎まど劇場」に収録されている「第60期 王座戦5番勝負 第3局」であることに誰も異論はないと思うけれど、電撃小説大賞銀賞の青葉優さんによる「王手桂香取り」もなかなかにしっかりとした青春将棋小説だった。古くから使われている将棋の駒が美少女に擬人化しては、持ち主となっているヘタレ将棋少年をアドバイスして強くしていくというストーリー。あるいは付喪神物の変形とも言えるけれども過去からの棋譜を知り尽くした香車に桂馬に歩の駒が擬人化した彼女たちは、対戦中の少年に1手1手アドバイスをしまくって最強にするってことは避けている、というか少年自身が拒絶している。

 数度、将棋道場で出会った対局態度の悪い子供と、その親のプロ棋士を相手にした時は駒たちの憤りもあってこてんぱんにしたけれど、その後は対局を振り返ってどこが悪いかを考えさせたり、何度も対局をこなさせて少年の自力を上げていくことに勤めている。そこが物語の構造がインフレーションにならない歯止めになっている。これが絶対無敵となった少年が勝ちまくったあげくに同じ異能を持った誰かと対局するような話になると収集が付かなくなってしまうから。そこは将棋そのものへの敬意とがんばることの大切さが滲んでくるストーリー。だから読んで自分も一緒に成長していける気になれる。

 棋譜の1枚もなくって文字だけってのは、将棋の駒の並べ方も進め方も知らない人にはちょっと分かりづらいかもしれないけれど、いちいち棋譜を混ぜると将棋解説書っぽくんり過ぎるし、分かる人にはそれでいろいろと手筋も見え過ぎて、どこかに穴があるかもなあって思われてしまうかもしれないし、将棋を知らない人にはそれで意味不明の図形が載っているようにしか見えないから、これはこれで良いのかも。読んで何かやっているなあ、そしてがんばっているなあと思えれば。今はまだ姿を見せない飛車角金銀玉といった大駒たちが擬人化したらどんなにゴージャスか、って興味も浮かぶけどラストがあれだとそれをオチにして続きは書かないかな。ひとつ筆力も見えたし今度は別の題材でほとばしる青春って奴を描いて欲しいかな。活躍に期待。

 やっと見た「劇場版TIGER&BUNNY −The Rising−」はブルーローズがやっぱり可愛かったよ。けどそれ以上にファイヤーエンブレムことネイサン・シーモアの生い立ちに対する葛藤とその克服のドラマが素晴らしかった。謎の敵によって過去の檻に閉じこめられてはトラウマとなっている記憶を蘇らされ、えぐられ苦しんでいたけれどもそんなファイヤーエンブレムに届く声。自分ほど強くて優しい人はいない。そうなんだ自分は自分なんだと気づいて束縛をうち破っていくストーリーは、視聴率とかお金とか、そういったもののために自分らしさを覆い隠し、ヒーローたらんと身を騙る他の面々にとってもひとつの指針となって、自分らしく戦うことを改めて強く決意させそして見ている人にも自分は自分なんだと思わせた。

 テレビシリーズから数カ月が経って体力の衰えを感じつつ虎徹ことワイルドタイガーは2部でもって仲間たちと街を護る活動をしていたけれど、そこに現れたのがヒーローTVをも含めた企業グループを傘下に治める新オーナー。ワイルドタイガーともども2部に落ちてはいたけれど、人気も実力も十分のバーナビー・ブルックス・ジュニアを引き上げ新しいパートナーと組ませる一方、虎徹たち2部は廃止となってもはや年貢の治めどき、ヒーローとしての活動の場から去っていく虎徹を潔いと見るべきなのかもしれないれどでも、やりたいことをやり残し、やりたいけれどやれない悔しさを持ちながら去っていくのはやっぱり違う。精一杯に頑張り頑張り抜いた姿を見せるべきだと気づかされるような展開がその後にあって、老いた身でも出きることがあるんだと思わされる。まあアニメーションだから都合が良すぎるけれどもそこはそれ、夢を持つのは自由だってことで。それのしても水樹奈奈さん、どこに出てたんだろう? ってそれは言い過ぎだけれどでも、脇役過ぎるよなあ。


【2月11日】 寒すぎたので家から出ないで、玄関先でコンロに火を着けお湯をわかしつつ足下を電気ヒーターで暖めながら読書。いやこれは凄い。面白い。大橋崇行さんって本当は日本の近世文学が専門なんだけれども、魔術とか神秘思想とかにも詳しかったりしながら一方で、ライトノベルの研究やらライトノベルの実作やらもしている人が出した「桜坂恵理朱と13番目の魔女」(彩流流社、1500円)は、どこか懐かしさを感じさせる淡いタッチのジュブナイルSFチックな表紙絵に、女子高生っぽい女の子と美形の男女が描かれていて、きっと青春アドベンチャーしてるSFに違いないと表紙を開けて読み始めたらいきなり女の子が全裸で惨殺されてた。猟奇だった。

 そこから物語は、あまりにもグロテスクなシーンを、ELISという眼鏡をかけてのぞいて没入するようにして操作し閲覧していくネットワークを通して無理矢理見せられた25歳の駆け出しの作家、葉山秀司が前に通っていた大学に顔を出したらそこにいた後輩にあたる4年生の田上愛梨に、お金を貸すことになってそのお礼だからとバイト先に誘われて、顔を出したらSMクラブでSの女王様となった愛梨こと真里亞女王様から、激しい調教を受けたりしてと話がとんでもない転がっていく。もしかして変態? そう思ったのもつかの間、葉山を担当している女性編集者の赤城さんが話に加わってきて、秀司に気があるのか違うのか、誘いかけているのかそうでもないのか分からない態度を見せたりする。

 さらに秀司の先輩で、精神科医の神山桃華という女性も出てきて、前に秀司とはつきあっていたらしく当時の話をあからさまにしゃべったりとエロ炸裂。どこかズレてる美女たちに囲まれ、うらやましいなあこのハーレム野郎かと思ってたら話はがらりと様相を変えて、ELISのネットワークを通じて愛梨に何百通もの不思議なメールが届くようになり、そして秀司にも同じ13番目の魔女からメールが届くようになって、そして2人は「魔女」として同じ魔女たちの集会へと誘われていき、そこで同じようにELISを通して誘われた魔女たちが、何人も死んだり殺されたりしていることを知る。冒頭で殺されていたのもそんな魔女の1人だった。

 いったいネット上で何が起こっているのか。魔女とは何か。ELISを介して秀司に見える桜坂恵理朱とはいったい何者か。魔術の思想をよりどころにして解釈が進められていった果て、たどり着いた場所で秀司は知ることになる。ELISがいったい何を見せていたのかを。神秘思想にあるような肉と魂の関係、それともつながる意識とネットワークの関係が生み出す幻でありながら、真実でもある世界。読み終わったあと僕たちは、今見ている世界が本当に真実のものなのかどうなのかが分からなくなってくる。

 1度読んでまた読めば、秀司に見えている世界と赤城ちゃんや桃華に見えている世界との差異に気づくかも。けれども、それを知ったところで秀司にとっての現実は虚構にはならない。消え去った現実と残る記憶との曖昧さをどう埋め、どう生きていくのだろう。ネットがはびこりそこに依存する人の少なくない今とこれからを、ちょっと考えてみたくなる。そんなSFでもありミステリーでもあり神秘についての知識も学べる充実の1冊。あとはキャラクターがそれぞれに立ちまくっていて素晴らしいというか。赤城さんみたいな編集者っているのかなあ。桃華みたいな精神科医がいたらいいなあ。でもフィニッシュまでの時間を克明に覚えていて、いちいち蒸し返されるのはキツいだろうなあ。Mだから良いのか。

 仕事の予習とばかりにこうの史代さんの漫画を原作にした映画「夕凪の街 桜の国」を見たら泣けてきた。不思議だったのは麻生久美子さんが昭和33年という、広島に原爆が落ちてから13年経って発症して亡くなっていく、その離別のシーン以上に平成19年になって麻生さん演じた女性の弟が、定年になって東京から広島にこっそり帰郷したのを田中麗奈さん演じる娘が、友達の東子といっしょにこっそりつけていって父親がいろいろな人に会っているシーンで妙に泣けてきたこと。どこかコミカルな音楽が流れ、そして堺正章さんがちょこまかと動いて妙なおかしさを醸し出しているのに、泣けてしまったのはそう、前半の麻生さんが演じた「夕凪の街」のエピソードで、いろいろな人と出会い思い出を残しながらも死んでいったこと、そのどこか理不尽で残念で悔しい思いが、時を隔てて残された人たちの間に漂っているのが感じられたからなんだろー。

 被爆した時に妹を失い父親も失い、かろうじて見つかった母親と川岸のバラックに暮らしながら、麻生さん演じる女性はどうして自分は死ねなかったのかと思い、そして自分を殺そうとした人たちがいたことへの恐怖か、あるいは絶望のような気持ちを引きずって生きている。幸せになることを不安に思い、同僚が誘いをかけて来ても逃げてしまう。それでも周囲の応援があり、自分も幸せになって良いかもと思った矢先、つかみかけた幸福はするりと抜けて行ってしまう。そんな悲劇が彼女に限らずたくさんあったってことが、平成19年に広島を歩く男を通して浮かび上がって、いたたまれない気持ちになる。

 なおかつ、そうした悲劇は終わらないで、今もなお続いていることが見えて来る映画になっている。もう誰も、まるで気にしていないように見えても心のどこかにそうした気持ちは残っているかもしれないし、いざというときに浮かび上がってきてためらわせるかもしれない。ちょうど最近、そうした悲劇をディテールとして背負って世の同情を誘っていた作曲家がいたけれど、彼に同情はしてもきっと彼と似た立場になるかもしれない可能性を突きつけられた時、人はその道を選ぶのだろうか? そう考えると同情がいかに薄っぺらいものだったかが分かって来る。そんな薄っぺらな同情を見返してやろう、むしりとってやろうという気持ちが、例の一件における作曲家の原動力になったのかもしないとすら思えてきた。

 なおも続く悲劇に、新たな悲劇を加えようとすることはもはや出来ない。そう考えればこの国に暮らす人々が選ぶ道は決まっているはずなのに、なぜか世間には同じ悲劇をまた繰り返す可能性を持った道へと、妙に進みたがる人たちがいたりする。同情を示して怒りを見せて、拳をふりあげ敵とやらを非難する声もあるけれど、それを言えるのは敵に殺されかけた経験を、記憶を、思いを持つ者たちだけだ。そうでない人間の声は同情に見えて、ただ自分の負けを認めたくない、傲慢で高慢な意識から発せられたものに過ぎない。繰り返さないためにすべきことをしよう。そう改めて決意させる映画だったけれどもやっぱりひとつ思ったのは田中麗奈さん、眉毛は太い方が似合う。そういうことだ。

 うーん、何かとっても事情に詳しそうな人が、いろいろと例の一件について語っていて同意を集めているんだけれどでも、そんな文章の一節に「新垣君は常に最初は騙されて、善意で提供した楽曲に、勝手な名前をつけられ、それを営利に濫用されています」ってのにはちょっと違うなあと思ったんで、喧伝もせずにスルーすることにした。だって別に騙された訳じゃないでしょ、頼まれたから作ってあげたのはなるほど善意かもしれないけれど、それに対してお金をもらった時点で一種契約は成立している訳で、善意があったかどうかって心根はもはや無関係になる。だからそれにどんな名前をつけられようとも曲を買った側の自由であって、意図してなかったと憤るのは筋も違うしだいいち憤っているようには見えない。にも関わらず何が被害者めいた書き方で同情を寄せるのってちょっと友達思いが過ぎる気が。冷静に分析した上で友達にも何か落ち度があったけれどそれを乗り越えがんばろうよって呼びかけて欲しかった。それが友達甲斐ってものだろうから。

 ああシャイニング・ウィザードか、って思ってしまったどこかの記者によるつき合っている彼女への膝蹴り事件。普通に考えれば首を固めて下から膝を突き上げるとか、立っている相手に駆け寄って真空飛び膝蹴りなんだろうけれど、それだと傍目にも地味過ぎる。まずは1発見舞って片膝尽かせたところでいったん離れ、そして駆け寄って横に振り出した膝を食らわすってのが見ていてダイナミズムを感じせるんじゃなかろーか、って食らった方はたまらないけど。そもそもがどうしたら女性を蹴れるのかが分からない。つきあっている女性がいないから分からないってのもあるけれど、そんなに腹が立つものなのか、何を言われたんだ、割り勘にしようとでも言われたのか、でもそれは逆に負担が減る訳だし……。最初から自腹は切らずにたかる気満々だったから、割り勘を求められて腹が立ったとか? そんなに安月給なのか? 安月給みたいだけど。どっちにしても恥ずかしい話。男が働き女性は家を守れって訴えている新聞なだけに、みっともなさも倍増だよ。どうするかなあ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る