縮刷版2014年2月上旬号


【2月10日】 ソチ五輪でのフィギュアスケート団体で、日本の選手団として出場した選手のうち1位を獲得したのは結果的には男子ショートプログラムの羽生結弦選手だけで、ほかは男子フリーの町田樹選手が3位で女子ショートプログラムの浅田真央選手も3位と全体を引っ張れずに終わってしまった。アイスダンスやペアといった普段からそれほど好成績を収めていない競技もそこに加わっては、全体で上位にいけるはずもない。そんなことは開催する前から分かっていたことなんだけれど、どこかに甘い期待があってそして全体で5位という結果に愕然としている昨今、思い込みはやっぱり良くないねえ。あそこで町田選手と浅田選手が1位になっていたらあるいは、イタリアくらいは抜けていかもしれないけれども、メダルはやっぱり厳しかったみたいだし。

 これで分かったのは、シングルの選手にだけ注目していてはフィギュアスケート団体では絶対にメダルはとれないってことで、もしも日本が本当にこの種目での上位進出を狙うんだったら、アイスダンスやペアといった種目でも世界で勝てるような選手を育て送り込む努力をしなくてはいけない。そしてメディアもそうした選手たちが現れ活躍できるような環境を作ってあげなければいけない。目立つ種目の目立つ選手にばかり群がって持ち上げていては絶対に無理。そういう意識を今回の大会から得てくれれば、明日に向けての一歩になるんだけれど、そういう風にはならないのがメディアの心理って奴で3位に終わった浅田選手町田選手を脇において、アイスダンスやペアへと矛先を向けかねないからなあ。自分たちの日頃の脇役扱いを自省せず。どうにか変わって欲しいものだけれど、果たして。

 メダルといえばお祖父さんが皇族だったという兄ちゃんが、オリンピックに出場している日本人選手にいろいろ注文を付けていたりしてちょっとした話題に。うち、メダルを噛むなっていう主張はなるほど噛んで美味しいものではないし、皆がやっている中で真似しても格好悪いからもう止めて、噛みちぎるなり食べきるなり、指で挟んで折り曲げるなりして欲しいなあ、というのは冗談で、普通にもらって掲げて喜んで欲しいと思っているし、君が代を斉唱する時も、胸に手を当てるのはやっぱりどこか違っているから、まっすぐに立って国旗を見つめて歌って欲しいなあという心境。これはサッカーの試合の度に選手たちが肩を組んだり、胸に手を当てて歌っている姿に違和感を覚えていたから賛同できる。

 ただ、メダルが取れなかったならはしゃぐなとか楽しみましたとか言うなっていうのはちょっと違う。なるほど彼女たちや彼ら選手は日本からお金をもらって現地に派遣されていたりはするけれど、それは頼んでもらっているっていうよりは、国が国の威信を代言してくれる人たちとして授与しているといった感じのもの。それに選手が真正面から答える義理はない。それぞれの選手は自分の力でオリンピックへの出場を勝ち取った訳で、そうした努力に国が報いたものだと考えるべき性質のものなんじゃなかろーか。努力して報われたことにまで、さらなる対価を求められる国なんてはっきりいって鬱陶しいし、国だってそこまで傲慢でも吝嗇でもないだろう。すでにひとつのやりとりは終えている彼女たち彼らが何をしようと自由であり、その上で結果を残したらさらなる栄誉と対価を与えれば良い。気にせず精一杯、自分を出して欲しいとこれからの出場選手には言葉を贈ろう、聞こえてないだろうけれど。

   東京都知事選が終わって、東京都民ではない人間にはまるで無縁の喧噪もこれで終焉。当選したのは当然のように舛添要一さんで、その人柄はともかくとして政治学者としての力量と政治家としての経験なんかをふまえれば、他に選択の余地もなかった選挙をどうして世間は何か一大事のように報じたかって事の方が、振り返ってみればいろいろと問題に思えてくる。元総理の小泉純一郎さんをバックに仰いで元熊本県知事で元総理の細川護煕さんが立候補した時には、その2段構えのネームバリューで突き抜けるかもなんて思ったことも事実だけれど、反原発ということしか主張しないで、東京都にとって大切な福祉であったり安全であったり治安であったりといったビジョンを見せてくれない候補に、どーして票を入れる意味があるんだろう? そんな辺りにひとつの世間騒がせな政策では微動だにしない、1000万都民という層の堅実さって奴も見えてくる。「都市博」中止では鳴動したけど。

 そんな細川さんと日弁連前会長の宇都宮健児さんが、候補として一本化されていたら舛添さんに迫れたかというとうーん、バリューがあるのは細川さんの方で、その政策が東京都全域のことを考えたものなら割と良い勝負を出来たかもしれないなあ、というのは特に根拠もない感想。宇都宮さんでは猪瀬直樹前知事と戦った時のような圧倒的な大差ではなくても、やっぱり大差を付けられて敗北しただろう。だって反原発しか言ってないしそれしかやりそうもないし。そうじゃないと言われたところでそういうイメージがついてしまった段階で、もはや候補者として役者不足だったかもしれない。田母神俊雄閣下はまあ、当選の可能性はゼロだったけれど一定数の支持者層がいて、それも若い層に結構至りするのが将来にわたって不気味なところ。彼がやってくれるのはプライドをくすぐることだけで、職にも金にも結びつかないと分かっているのにどーして応援できるんだろう? もうそこにしかよりどころがないからなんだろーか。恐ろしい話。

 以下はもはや泡沫であって6万評が8万評でもそれは変わりがない。そしてそれは支持する世代がまとめて泡沫扱いされたなんてことはなく、その候補者たち自身が泡沫であっただけのことに過ぎない。そこに期待して支持が得られなかったから、世代として見捨てられるなんてことを考えるより先にやることは、普段から選挙に行って世代としての意見を表明してその層が持つ評が、結果を大きく動かすんだということを見せつけておくことだ。そうすれば票田を意識して候補者たとえ年輩の人であっても逆に若い人であっても、支持してくれる層を意識した政策を打ち出すし、当選すれば実行しようとするだろう。

 ポッと出の人物を妙に持ち上げ、それこそが自分たちの代表者だからそこに入れれば何かが代わるなんてことは絶対にない。その世代だけの支持で勝てないのはあらゆる世代が対象になってている選挙では当たり前のこと。そんな選挙で特定層の支持だけ集める候補に入れたところで、完膚無きまでの死に票となって政策立案の埒外に置かれてしまう。泡沫を応援することは、自らの世代を自らの手で泡沫に追い込む愚作だってことを、知ってこれからはちゃんと選挙に行こうと思い直してくれれば、泡沫が立って散った意味もあるんだけれど……。ただ祭りに乗っかり何かやったような気分を味わいたいだけだからなあ。それじゃあずっと変わらないよ、この国は。

 2ページの後書きを入れて801ページだから本文は800ページもない川上稔さんの「境界線上のホライゾン7<上>」(電撃文庫)はやっぱり薄い方だよなあ、なんて思いながら一気読みしたら続々と出てくる新キャラクターに目がぐるぐる。池田・輝政がくだけた感じのチョロい野郎として登場すれば、同じ秀吉麾下の七将から浅野・行長やら長岡・忠興やらが相次いで現れさらに鍋島・茂綱に小西・行長といった辺りもそろって誰が誰やらの状態に。小西・行長なんて関西弁の姉ちゃんだけれど父親が武蔵にいるってことはつまりノブタンとペアを組んでる商人のコニタンで、あの親にしてこの娘ありってな感じのエグさを見せつけてくれそう。オタク趣味かどうかは分からないけど。

 あと鍋島・茂綱は機竜乗りとして結構な戦績を上げていそうだけれどもどれだけの強さを誇るのか。関東解放でただいま絶賛毛利や里見と激突中なんでそんな中で明らかにされるだろう。けど今回の中心はそうした新キャラの中でも長岡・忠興とゆーか後の細川・忠興くん。年齢もまだ中学生ながら襲名者として結構な実力を持っていそうであの本庄・繁長を相手にそれなりの勝負って奴を見せてくれた。本庄それなりに強いのに。北条・氏照らとかをうち破ったのに。まあでもやっぱり負けて倒れて泣くあたりが中学生の少年か。それだけに自分の生き方にストレートで、全力を掛けているところもあったみたいで、それを聞き入れて武蔵が大きく動き始めた。

 果たして長岡・忠興の思いは相手に通じるのか、それ以前に武蔵は関東解放にどれだけの役割を果たしそして里見・義康はどれだけの戦果を挙げていよいよ「八房」の乗り手として認められるのか。なんてことを想像させる一方で、気になるのが福島・正則と加藤・清正の関係か。ラブラブ系なのか友情系なのか、その狭間にあって双方が悶々としているこの状況。間に挟まったカッキー片桐・且元には悪いけれども、加藤・嘉明と脇坂・安治のようには確率していないそのウブな関係って奴を、見せて読者もソワソワとさせて欲しいもの。どうなるのかなあ。とか書いていたらこの日記もまるまる18年が経っていたけど特に有名にもならずお金にもならないままここまで来て、そしてこれからも続いていくことになるんだろう。まあ良いそれが僕の人生だから。


【2月9日】 明けて見渡すと一面の雪景色。調べると雪で道路が埋め尽くされて幕張本郷からバスで海浜幕張方面へと向かうバスが全滅状態になているとかで、だったら京葉線で海浜幕張まで行くことにするかというと、どうやら電車は武蔵野線が動いておらず西船橋から京葉線へと入るルートがなさそう。かといって南船橋まで歩いて京葉線に乗るのも難儀そうだし、聞くところでは東京駅からの京葉線が無茶苦茶込んでいて乗れるかどうか分からないとか。ならば南船橋も同様だろうと見送ったものの、それでは幕張メッセで開かれている「ワンダーフェスティバル」に行けなくなるので逡巡したあげく、幕張本郷のひとつ先にある幕張駅から幕張メッセまで徒歩で歩くことに決定。

 到着した幕張駅にはやっぱり似たようなことを考える人がたくさんいたみたいで、降りたってから一斉に海の方へと向かい歩き出した後をくっつき、まだ残る雪の上を踏みしめ、一部人が歩いて舗装が見えたところに足をつっこみ溶けた雪とか水をはねとばしながら歩くこと約2キロ。途中にあった渋谷幕張高校の前では、生徒たちが出て雪かきなんかをしている姿に青春の1ページを感じつつ、現役の女子高生の体操着姿(冬だからジャージだけれど)に萌えつつ30分弱でメッセへとたどり着いて、ワンフェス会場へと入るとやっぱり人が少なかった。そりゃそうだ。

 まずお客さんでもたどり着ける方法が限られる。東京駅から京葉線での1本ルートで来る人が圧倒的に多いんだろうけど、埼玉とか千葉からだと総武線や武蔵野線を使う人もやぱり居たりするわけで、そういう人が来られない上にそもそも東京駅まで行くのがなかなか大変なこと。あとは車での来場が京葉道路なり湾岸なりの渋滞で厳しかったようでいつもだったら11時になっても続いている行列がほとんど出来ていなかった。そしてディーラーさんにもやっぱりたどり着けていない人が多々いたよーで、ぐるりと回っても誰もおらず何も乗っていないテーブルが散見された。

 いつも伺っているフライングメガロポリスのKAMATY−MOONさんは無事に到着していて、いつもながらに素晴らしい造形のカエルやらワニやらを並べていたけど、そのお隣さんは来られなかったかテーブルが開いていたし、同じ島でも何か1つ置きみたいな感じでテーブルがあいていた。この日のためにとがんばってきた造形物を販売できないのは辛かっただろうなあ。それよりも版権物を売るディーラーさんが当日版権をもらって作った品を売れないって方がやっぱりキツいか。近くある展示会で頒布する訳にもいかないし、かといって次に回すにも旬てものがあって古くなってしまったら宜しくない。そんな問題については何かお達しがあるのかな。天気も含めてイベントと受け止め次の糧にしてもらいのかな。

 午前中はそんな感じに割と空いてた場内をうろうろ。ガイナックスのブースでは米子を舞台にした特撮映像「ネギマン」の監督をしたトレンチコート姿の赤井孝美さんと、それからボルサリーノを被ったガイナックスの武田康廣さんが特撮について対談中。とにかく暑い最中の撮影だったみたいで、粘土で作った家屋の瓦屋根なんかが撮影中に熱でぐにょぐにょになってしまったってことを話してた。そんなに暑いのか米子。でも来年とかそこでSF大会じゃなかったっけ。暑熱対策が必要かなあ。あとややっぱり特撮愛か。「パシフィック・リム」なんかのCGによって描かれた特撮風作品の映像としてのすばらしさ、作品としての面白さを賞賛しながら一方で、物があってそれが撮られ壊されているという部分での物足りなさといったものについて言及してた。

 それはずっとそういう作品を見てきた者たちが、そういう作品がなくなってしまうことへのノスタルジーなのか、そこに物があってそれが壊れていくという“事実”へのどこかフェティシズムに似た情念なのか、分からないけれども言っている意味が何とはなしに分かってしまうところに、自分もそういう世代なんだなあと実感する。とはいえ若い世代にも共通に通じるとは限らないのも事実。庵野秀明さんが脚本を書いて、樋口真嗣さんが撮影した「巨神兵東京に現る」だって、その特撮的な楽しみ方をすっとばしてCGとの比較に向かって優劣を語る人が少なくなかったし。本物に迫ろうとしてがんばった過去の特撮人たちの思いを考えると、もはや伝統芸能としてしか生きられないと言ってしまうのも寂しいけれど、現実がそうならそうとして、巧いところに両者が融合して生き残る道なんてものを探っていけたら面白いけど。いずれ人間だってCGになってそれで良しと思う人も出て来かねないし。

 そんな「ネギマン」に比べると「バ怪獣ゴメラ」なんかは圧倒的な割り切りの産物って感じ。怪獣は着ぐるみによって動かし演技させ、その周辺はCGなんかで作って合成してる。着ぐるみだからこそ浮かび上がる滑稽さや哀愁があってそれが作品のトーンとも相まっていい感じになっている。それを考えた上でCGが持つ完璧さと、それ故の固さを避け、特撮だからこ滲み出る“味”を使おうって意図していたのだとしたらなかなかの策略。単純に予算がなかったのだとしても結果が良ければすべて良し、なんだけれど結果は果たして。とりあえずソフビを1体買ったけど、これが貴重な1品になるよーな活躍をゴメラには期待。どうなるかなあ。

 隅っこでスケルトニクスにカバーを付けたようなロボットがガチャガチャと動いているのを横目で見つつ、適当な時間に退散してさあ、何で戻るかとなって考えたけど西船橋まで行けるかどうか分からないから京葉線は却下。蘇我まで行っても千葉まで戻る内房線が動いているかどうか分からなかったし。でもって京成バスは幕張本郷行きがやっぱり動いてないようだったんで、こちらは朝からちゃんと動いていた千葉シーサイドバスを待ってJR幕張駅まで行く。割と時間通りに運行していたみたいでなかなかの偉さ。去年だか一昨年だかのアニメコンテンツエキスポが大風の影響で京葉線が止まり、幕張本郷にに人が集中して大混雑になった時も幕張まで行ってこれに乗れば良かったかも。ひとつ成長。まあそういう機会が来ないのが有り難いんだけれど。

 やっぱりね、選ぶ言葉ってものがある訳で、ずっと韓流のアーティストを愛して購読して来た人たちにとって常に韓流はブームな訳だし、現実に女性のグループってのは思ったほどに日本で浸透しなかったけれども男性のグループは2PMにしても超新星にしてもBIGBANGにしてもJYJにして、一定以上の支持を受けて巨大なホールを埋め尽くすくらいにファンが来ていてまだまだ元気。そうした状況を自分が韓流アーティストを応援する心の支えにもしている人に向かって、「韓流ブームが一段落した」なんて言葉を使ったらやっぱり反発をくらうだろう。

 ましてやそうしたブームを支え、あるいは便乗しつつ韓流アーティストを応援している人たちに向けて発行されていた週刊新聞を出してきた媒体が、ブーム終わったから休刊しますではちょっと自己否定過ぎるし、読者となっていたファンの人たちへの配慮がなさ過ぎる。現実問題市場は縮小していたとしても、それを言わずに世に韓流アーティストを扱う媒体も増え、またネットにも情報があふれるようになって一定の役割を終えたとか言えば良かったのに。それを言わずブームの終焉を理由に挙げたのは、もうひとつの「諸般の事情」って奴を明かしたくなかったからなのか。それが何かは現時点ではちょっと不明。ただ、そうした諸事情がクリアされればあるいは続けていけそうな媒体だけに、どこか拾わないものかなあ、かつて「ゼッケン」ってスポーツグラフィック誌を出してさっさと引いたのを角川書店が拾って「スポーツヤア!」として出したように。成り行きを見たい。


【2月8日】 合い言葉は「ダメだー私リストの半分も読んでないわー」だったりするのか「SFが読みたい! 2014年版」が送られて来たけれども国内SFはともかく海外SFはバーナード嬢曰く「リストの半分も読んでない」状態で、それはニュアンスとして半分に近いところまで読んでいるかもと思わせつつ、実はまるで読んでいなくても嘘にならなかったりする曖昧模糊としたところに位置づけられていたりする。じゃあ本当はどうなんだと聞かれても答えないのがSF者の見栄って奴でそう答えても許してくださいお願いします。「ライトノベルSF」で「ダメだー私リストの半分も読んでないわー」と言われてもはいはいそうですかそうですねと笑顔を返しますから。まあムックを読む8割以上は「半分も読んでない」んだろーなー、勿体ないなー、面白いのにどれもこれも。

 SF者としてはやっぱり気になる「キルラキル」の展開はバリントン・J・ベイリーが誇るワイドスクリーンバロック「カエアンの聖衣」との重なりが見えてさていったい世界は、人類はどーなってしまうんだろうかってところで一気に来た人類制圧の魔手。鬼龍院羅暁が直々に乗り込んでは本能寺町の住人たちをまとめて服の餌に変えてしまおうとしたところに立ち上がり、立ちふさがったのが誰あろう娘の鬼龍院皐月で手にした刀を羅暁に突き刺し人類を服の下僕にするなんて企みを防ごうとする。何でまた。母親の言いなりじゃなかったのか。って辺りはまあ、そうでもなさそうな雰囲気はあったり元ネタになっていそうな漫画「男組」でも流全次郎に学園のボスとして立ちふさがる神竜剛次も、父親らしい影の総理の言うなりにはならずに純粋に国を良くしようとして全次郎だけでなく影の総理とも戦う。

 そんな構図を知っていたなら皐月もいずれ、って思っていたら案の定。あるいはそこには影しか出てこない皐月の父親と羅暁との間にあった何かも関わっていたりするのかも。分からないけど。とはいえこれだけの急展開を続けるアニメーションがまだ1カ月以上を残している訳で、羅暁があっさりと復活してはいとも簡単に皐月を叩きつぶすものの、そこに入ってきた纏流子によって救われいやされ復活を遂げては、流子とともに羅暁に立ち向かったあげくに宇宙の根元を支配する神にも等しい勢力に、喧嘩をふっかけるなんてスケールアップもあって不思議はないかも。針眼縫も泰然自若って感じだし、羅暁は心配するほど弱い存在って訳でもないんだろー。さてもどんな展開が待っているのか。次が楽しみなアニメだなあ。ブルーレイディスクまだ買ってないけど。金がないんだ。

 目覚めるとやっぱりな雪模様で出かけたくないけれども出かけたい用事もあって悩む中に宅急便で「生頼範義展」の図録が届いたんで早速あけて中を見る。もう感動の1冊。平井和正さんであり「幻魔大戦」であり小松左京さんであり「復活の日」といった、僕がSFを読み始めた頃に日本人のSF作家としてのめりこんだ2人の作品の表紙を多く飾っていた、その絵がふんだんに掲載されていて見るだけで懐かしくなるし、SFをわくわくしながら読んでいた時代の気分が蘇ってくる。もちろん今もわくわくとしているけれど、既に評価の定まった、けれどもまだ読んでいなかった作家たちに出会えてその作品を読みつぶしていく楽しさは、今の新作を追いかけ評価について考え込んだりする状況とはやっぱりどこか違ってる。

 そんなわくわく感を支えつつ引っ張ってくれたのが生頼範義さんの表紙絵でありイラストで、圧倒的な画力でもって描かれた人物でありビジョンは、SF作品から放たれる熱情とスタイリッシュな雰囲気って奴を完璧なまでに、いやそれ以上に増幅して読む僕たちに感じさせてくれた。「幻魔大戦」で石ノ森章太郎さんが漫画に描いた東丈はなるほど石ノ森的なヒーローだったけれど、でも僕たちはその圧倒的に神秘的でそして美しい東丈を生頼さんからのイラストで知ったし、プリンセスルナの美しさもベガの迫力たっぷりのサイボーグ戦士ぶりもやっぱり生頼さんのイラストによって植え付けられた。後にアニメーション映画となって大友克洋さんがデザインした東丈やルナやベガも見ることになったけれど、それはやっぱり僕には別のものだった。今でも僕にとって「幻魔大戦」の世界は、そして「ウルフガイ」の世界も生頼範義さんの筆先によって生み出されたビジョンによって彩られている。

 小松左京さんの世界もしかり。「復活の日」のように映画のポスター然としたイラストも好きだけれども一方で、「ゴルディアスの結び目」だっけ「果てしなき流れの果てに」だっけ、ルネッサンスの時代に見られたような人物像なんかを添えて描いてみせるその構想力が小松さんの深淵にして哲学的な世界観をよく現していた。出来れば今もそんな表紙で読みたいんだけれど、文庫は軒並み絶版だからなあ、勿体ない、本当に勿体ない。ほかにも「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のポスターがあり「ゴジラ」のポスター類があり日本海軍の艦船なんかを描いた箱絵っぽいイラストがあり宮本武蔵のために描いたようなモノクロの描画もあってと多才な仕事が収録されている図録、ってことは宮崎アートセンターの展覧会場にいけばそれらが生で見られるってことなんだけれどとにかく遠い宮崎は。行けたら行きたいけれどもたぶん無理。だから今は図録をたっぷりなめ回してその圧倒的な画業に感じ入り、僕にとっての黎明期であり黄金時代だったSF読みとしての記憶を引っ張り出して感傷に浸ろう。東京に巡回されてこないかなあ。

 夜に吹雪くなんて話もあて躊躇したけどチケットも買ってあったしせっかくの機会だからと家を出て、電車を乗り継ぎ中野サンプラザまで行って「Fiction Junction Yuuka」による2dysのライブの初日を見る。梶浦由記さんのソロプロジェクトとして位置づけられているFiction Junctionは今はもっぱら4人の歌姫を使ってライブなんかを繰り広げているんだけれどそれより以前、南青山少女歌劇団にいた南里侑香さんを迎えて「機動戦士ガンダムSEED」のための挿入歌を作った時に「Fiction Junction Yuuka」という名で活動をするようになって以後、歌物を中心にしたアルバムなんかを作ったりしていた。

 今回はそのユニットが2日間、“復活”してはこれまでのナンバーを2日間に分けてまるまる演奏するっていう企画で、これ以後はニューアルバムを出した「Fiction Junction」の新譜お披露目ツアー的なものになっていくとあって貴重なライブになりそうって予感があったから、雪だからといって遠慮する訳にはいかなかったのだった。そういう人がやっぱり多くいたのか中野サンプラザは雪の中をほぼ満席という状態でスタート。YuukaさんはバックにいつものFiction Junctionで歌姫の1人を勤めているYuko Kaidaさんと、KalafinaのHikaruさんをコーラスに従えつつ高くて粒が立ってる声による、圧倒的な表現力歌唱力を持った歌を存分に味わわせてくれた。

 発端となった「暁の車」もあれば」「.hack//Roots」の「Silly−Go−Round」もあり「MADLAX」なんかのヤンマーニな歌もあってとYuukaのボーカルとしてFiction Junctionに慣れ親しんでいた人には感動のセットリストだった感じ。2日目にはまた違うセットリストも控えていてそろえて聞けばさららなる感動が味わえるはずだったけど、ワンフェスがあるんで明日は遠慮。でもこれだけ聞けて大満足、行って良かった無理してでも。そんなライブの帰りはやっぱり雪で電車が動かず、中野から船橋まで1時間半かかったけれどそれでもたどり着けるなら良い方か。船橋駅で降りたら京成が止まっていてそこから先に行けずビルの床に座り込んでいる人も大勢いたし。こんな時には駅から徒歩三分のところに済んでいる身が有り難い。例え狭くても。寝られる場所があるのは幸せだ。夜を外で過ごす人は凍えないよう頑張れ。日が昇らない夜はないのだから。


【2月日8日】 ソニー、っていったらトリニトロンのブラウン管を使ったテレビであったり、スタイリッシュなデザインを持ったラジカセであったり、ステレオを外へと持ち出したウォークマンであったり、ダイヤモンドを使ったレコード針であったりと、どこかおしゃれでなおかつ尖ってそして高性能の製品を送りだしてくれる会社で、持って嬉しく使って素晴らしい経験を、与えてくれるという思いが1980年代の半ばあたりまではあった。VHSに敗れたとはいえビデオレコーダーのベータマックスも、ある時期まではハイクオリティの録画装置という印象を持ち続け、それが看板倒れではなかったことに今でもベータ方式の敗北を惜しむ声が少なくない。

 そんなソニーにいつ頃からかつきまといはじめたソニータイマーの声。3年だっけ、それくらい使うと壊れて保証が効かず買い換えなくてはいけないという、一種の都市伝説だけれどでも、実際のところ実家で使っていたラジカセは10年を越えても使えたし、AMとFMと短波が聞ける3バンドのラジオも家の台所に10年以上つり下げられては毎日のように鮮明な音を出していた。スタイリッシュで高性能な上に長持ち。それがソニーの看板だったのに、どーしてソニータイマーなんて、って思いたくもあったはずなのに、1990年代になって使い始めたソニーの製品は、テレビも割と早くに壊れてウォークマンもすぐに調子が悪くなった。

 他がデザインと性能に凝った製品を出し始めたってこともれに加わって、値段に見合った性能が得られないソニーの製品を、いつしか敬遠し始めて今、気がつくとソニーの製品が身の回りに1つもない。いや1つあった。プレイステーション3だ。でもこれはゲーム会社のソニー・コンピュータエンタテインメントが送り出した製品であって、ソニー本体の品ではない。どちらかと言えば鬼っ子扱いされていたものが今、堂々のソニーの看板商品となって多くの家庭に鎮座している。この事実が昨日、ソニーが大々的なリストラを発表して本体からテレビ事業を切り離し、パソコン事業を売却して経営資源をゲーム機と、それから携帯情報端末へとシフトしていく戦略が、現実的なものとして支持される根拠になっている。

 もったいないなあとは思う。パソコンのVAIOはその先鋭的なデザインにおいて一時、ノートパソコンの分野を大きくリードしていたし、テレビはソニーのハイファイなイメージを引っ張る一種のフラッグシップだった。でもトリニトロンの時代のような差別化をウラビアでは打ち出せないまま、一時はシャープのアクオスが推す液晶テレビの波に押され、今は東芝パナソニック日立等々に加えてサムソンやらLGといった海外メーカーと横一線に並んでしまっている。4Kで抜け出す、なんて期待もあるけどこれだけブランド力が突出しなくなってしまった現在、どれだけの差異を付けたところで抜け出すことなんて出来やしない。必要なのは価格。それだけだろう。

 パソコンもいくらデザインが良くたって使われなくては意味がない。スマートフォンが登場してタブレットが普及した今、パソコンを取り出しキーボードで文字を打ちメールをやりとりする人間なて、奇特なウェブ日記者くらい。ブロガーだって今はスマホから更新しているだろう、そんな時代にパソコン事業をどれだけ再生できるのか。企業向けの端末に食い込むったってそういうイメージじゃなかったからこそ、パーソナルな分野で熱烈なファンを得た訳で、そこから質実剛健なオフィスユースにも顔を向けたらそれこそ虻蜂取らずになって共倒れになってしまう。そういう予想も含めての分社化ってことなんだろうなあ、最初っから質実剛健でオフィスもパーソナルも打ってたThinkPadには出来たことが、VAIOにはちょっと難しい。

 でも自分たちにはゲームがある、といったところでこれからの世の中、据え置き型のゲーム機にいったいどれだけの需要が見込めるのか。スタートダッシュこそ凄かったようだけれども7年だっけ、それくらいをおいての新製品の登場に一斉に置き換えが発生しただけのことで、新しい市場を開拓して全世界で1億台だなんて状況を再び生み出すことは難しい。かといって家庭におけるホームサーバー的ホームターミナル的な装置としてPS4のテクノロジーを推進していくだけの戦略がソニーにあるのか? 音楽映像といったコンテンツをそこに乗せたいと考えたところでソニーグループ1社だけでは話にならない。かといって他が参画してくれるには台数が必要。その台数を稼ぐには他の参入が必要……といった堂々巡りを打破していくきっかけが今は見えない。

 いったい何をしたいのか。そして何をしていくのか。舵取りを負かされた平井一夫さんが取り組むべき課題は山積みなんだけれど、そのどれもが過去にソニーブランドを作り上げ高めてきたお歴々が成し遂げたこと以上の何かを行わなければ解決されない。それって無理ゲーってことだよなあ。でもやるしかないってところで選んだひとつの決断が今、期待できそうな分野への経営資源の集中。でもそれは未来に期待されそうな分野への投資を阻んでしまうことにもつながりかねない。研究体制はどうなっているのだろうか。新しい物を作り出して世界を驚かせるような気概を持った人材はまだ残っているのだろうか。そういう人たちが能力を発揮できる環境にあるんだろうか。そんな辺りからアプローチされた今の、そしてこれからのソニーを探った言葉を、読んでみたいなあ。たとえ絶望に満ちたものであっても、過去にもらったソニーからの素晴らしい体験は忘れないから。

 そして気がついたらキックスターターの「マイマイ新子と千年の魔法」の英語字幕入りブルーレイディスクとDVDを作っちゃおう企画が、目標としていた3万ドルを1日で楽々と突破して4万ドルにすら越えてしまって、残りの日数を考えれば5万ドルどころか10万ドルだってあるかもしれないなあ、なんて想像が現実になりかねない勢いで伸びている。そんなに見たかったのか世界のアニメーションファンは「BLACK LAGOON」の片淵須直監督による劇場長編アニメーション映画が。アリゾナの老人だってベタ誉めは確かしていなかったけれど言及はしているくらい海外には出ている作品。そこで見せた圧倒的なバイオレンスとスペクタクルにハマったファンなら片淵監督が次に何を作ったのかに興味を持っても当然か。

 なるほど「マイマイ新子と千年の魔法」にはヤクザの本拠地への殴り込みもあれば山野をかけめぐってのアクションもあるし、いたいけな美少女に迫る危機もある。けどそれは「BLACK LAGOON」のよーなバイオレンスとは正反対の、昭和30年代なり平安時代の日本のそれも防府という否かを舞台委繰り広げられる。もっぱら日本人の郷愁を誘う青春のストーリーの上での出来事。「BLACK LAGOON」のファンをストレートに満足させるものでは絶対にないけれど、そんなことは先刻承知の海外のアニメーションファンが、こぞって買っているらしいところに日本のアニメーションが持つポテンシャルの高さってものが伺える。

 とはいえ1000人が買った訳ではないところに、海外でビッグビジネスになるにはほど遠い、アート作品的な位置づけにとどまっているってところも改めて見えてしまった。ディズニーやピクサーやワーナーのアニメーション映画がそれこそ数億ドルの興行収入を得てパッケージもミリオンの単位で売れていくよーな市場。そこで少なくたって1万から10万は売れなければ、海外向けに商売にする意味がないもんなあ。というかそもそもが商売にならない。こういう機会を通して日本にこういう作品がまだまだあって、それは面白いものだという認識が広まり、出せば売れるんだという実績が上がればケタもせめて1つは上がるんだけど。その意味でもどこまでも伸びて欲しいこのキック。目指せ10万ドル。年収超えるなこの僕の。

 佐村河内守さんの音楽を全部作っていたという作曲家でピアニストの新垣隆さんがずっと、出身校の桐朋音楽大学の非常勤講師をしていたことも例の一件で世に知られてしまって、学校ではともあれ世間を欺いていた音楽の片棒を担いだってことで、その去就についていろいろと検討する構え。端から見れば世界すら驚かせた音楽の真の作曲者だったってことを持ってこれは凄いと非常勤講師から教授に抜擢して、その作曲力を後進の指導にあててもらえば良いんじゃないって思えるけれど、こういう時に学校っていうのはとかく異分子なり騒々しい要素を外へと切り捨てにかかるものだから、新垣さんの立場は相当に危ういって考えるのが妥当かも。もったいない話。

 まあでも佐村河内守さんの耳の問題なんかが絡んでくると、欺いていたのが世間だけでなくお役所もって話になってしまって法律にひっかかるような話へとふくらんで、その片棒を担いだって話になっていかないとも限らない。かつて加藤唐九郎さんが起こした「永仁の壺事件」の時も加藤さんは自分で作った陶器を古い物だと言って世間を欺いたことで、人間国宝の資格を剥奪されてその後、芸術院とか文化勲章といった晴れ舞台には上がることはなかった。ただ加藤さんの場合は世間も重要文化財を間違えるくらいの壺を作った実力者とは認められ、その後も陶芸家としてちゃんと活動していけた。新垣さんもアカデミズムの場からはけじめとして離れるおとになっても、その実力を買った世間が仕事を出していけば良いんじゃないのかなあ、映画音楽だってアニメのサウンドトラックだって作れてしまえそうな才能の持ち主っぽいし。今はともあれ大学の出方を静観かな。サイレント映画の伴奏というお仕事はまたどこかで見られるのかな。


【2月6日】 そうか「マイマイ新子と千年の魔法」って英語だと「マイマイ・ミラクル」になるんだと、キックスターターが新しく始めた「マイマイ新子と千年の魔法」の英語字幕入り豪華版ブルーレイディスク&DVDを作っちゃおうぜプロジェクトのページを見て気がつく。新子ちゃんと千年はどこいった、っていうか魔法は千年にかかるんであってマイマイにはかからないぞ、とか思ったけれども「マイマイシンコ・アンド・ミレニアムラクル」では長くなってなおかつ意味不明になるから仕方がない。「千と千尋の神隠し」だって「スピリット・アウェイ」だし、「魔女の宅急便」だって単純に「キキ」だし。だとしたら仮に「虹色ほたる」が英語版になっても「レインボーカラー・ファイアフライ」にはならないかな、何か華々しくゴージャスに燃えさかる虫の映画にしか思えなくなるし。

 それにしても凄い勢いで全世界から支援者が集まっている「マイマイ・ミラクル」のキックスターター。初日ですでに2万ドルを突破し目標の3万ドル達成はほとんど見えたって感じ。初日での到達だってありそうな勢いを見るにつけ、こういう作品を見たい海外のファンがとっても多いんだなあってことを改めて知る。決して派手な映画じゃない。宮崎駿監督作品のように圧倒的な動きの中に想像力の限界を突破するようなストーリーを見せつけてくるって感じでもない。昭和30年頃の周防という地味といえば地味な舞台で女の子たちが日々を生きている姿をとらえつつ、1000年前の日本を並ぶように描いて接続させた、とらえるに難しいストーリー。空想力を刺激するシーンもあるけれど、それには相当に作品に踏み込んで感じ取らなくてはならない。

 そんな作品でありながらも、海外で英語字幕で見たいという人がいて、それも結構な数いたりする状況は何か不思議でもあり嬉しいこと。日本にはいろいろなアニメーション作家がいていろいろな種類の作品を作っているという現実を、世界中の人たちが認識してくれているということが分かれば、世界に売れる日本の作品はこれだ、ってな感じの決め打ちをして持っていっては、惨敗続きなんて事態も起こらなくなる。日本のクリエーターが作りたいものを作り、その良さが世界の人にもちゃんと伝わるんだってことをここから感じて、存分に作ってもらえるようにすれば日本のアニメ状況も豊穣で豊満なものになるんだけれど。どうなっていくのかまずは注目。次は「アリーテ姫」のBD化と「虹色ほたる」のBD化で動いてくれないかなあ、世界。

 なんだかなあな総理大臣だとは思っていたけれど、これほどまでに何が何だか分からない人間だったとは驚くやらあきれるやら。国会の場でもって質問に対して朝日新聞は自分の政権を打倒することが社是だという認識で朝日新聞を読んでいると答えたとか。でも別に朝日新聞が社論にそう掲げて論戦を挑んできたわけじゃない。政治評論家の三宅久之さんが対談した朝日の若宮啓文さんから安倍叩きは朝日の社是だと聞いたという話を、三宅さんが本の中に書いているという話を今度は小川榮太郎さんが取り上げて、「約束の日 安倍晋三試論」という本に書いていたのを産経新聞の記者が読んで書評に書き、なおかつ「安倍叩きは『朝日の社是』」というタイトルで記事にしたのを読んでそのまま信じ込んでいるって感じ。

 でも一国の総理大臣が国会という超絶的にオフィシャルな場で、ひとつの報道機関に対してレッテルを貼り悪罵を浴びせるような言葉を放つ以上は、そこに何らかの確実な根拠がないとちょっとまずい。伝聞の伝聞の伝聞の伝聞で言って良い言葉じゃないはずなのに平気でしゃべって訂正もしないし引っ込めることもない。これってとても大切なことなのに、世間の反応はどちらかといえばNHKの経営委員が都知事選の応援演説で不穏なことをしゃべったとか、別の経営委員が過去に不穏なことを書いていたって話に集まりがち。2人が辞めたからといって世間的には大差はないのに、鬼の首を取ったように追いつめようとしている一方で、総理大臣のメディア弾圧に近い言説は追いつめない。たとえそれが真実であったとしても、自身をまるで省みないで反意をむき出しにするような総理大臣を仰いでこの国は大丈夫なのか。未来が暗い。会社ほどではないけれど。

 そして佐村河内守さんの音楽を全部作ったというピアニストで作曲家の新垣隆さんがインタビューに答えた「週刊文春」が発売されて、本人の記者会見もあってその訥々として誠実な話しぶりに世間もこの人が決してお金が目当てでゴーストを勤めていた訳でもなく、また利権を狙って正体を明かした訳ではないってことを認識したんじゃなかろーか。決して憤らずそして奢らず、ゴーストとしての仕事に誇りを持ち責任を持って遂行した。その事が結果として招いた混乱には贖罪の念を覚えていても、自分の仕事自体、そして佐村河内守さんというキャラクターを通して世に出た音楽に、多くの人が感動を覚えたこと自体は否定しない。なおかつ佐村河内守さんをも全否定せず、音楽を作り上げる上での発端の部分なり、構成の部分なり売り込みの部分で貢献があったことを認めている。

 会見で新垣さんは「彼からは1枚の図表をもらった訳ですけれど、あの表を私が机の横に置くと言うことで、それをある種のヒントとして、私が作曲する上で必要なものだったと思います」と答えていたし、「言葉のみならずクラシック音楽のCDなどを彼は聞いて彼なりに自分の浴したいものを選んでそういうものを私に提示してということもあります。あるいは先ほどの図表であり言葉であったりといったところです」とも話してた。まあすべての楽曲にそうした詳細な設計図があった訳ではなく、どこかの吹奏楽部のために作った曲では「顧問の先生のリクエストで、ゲーム音楽を手がけていたということで、そのイメージで作っていただけないかという依頼があり、その言葉を受け取り作曲した」といった具合に、指示されたのは方向性だけといった楽曲もあるけれど、それでも無に少しの有を与えたことには代わりがない。

 週刊文春で記事を書いた神山典士さんは、あの指示書を作り上げたことをもってして佐村河内守さんに「楽曲のコンセプトワーク(ゼロを一にする能力)に長け」ている人だと評してる。新垣隆さんに対しては「実際の楽曲に展開する力(一を百にする力)に長けている」と評価。拡大した幅は新垣さんの方が大きいけれども無から有を生み出す、ゼロを1にするすごさが佐村河内さんにはあったって書いている訳で、まったくの無能だったという断じ方はしていない。そこは神山さんの優しさなのかあるいは取材を通して得た実感なのか。分からないけれども全体を通して会見にひとつの潔さ、って印象を与えている。

 これを聞いて、新垣さんの何か責任を追求することなんて普通は出来ないんだけれどどこかのスポーツ新聞は、新垣さんが作曲をして受け取ったお金を不当に得たもののように糾弾していたからあきれたというか。18年で700万円なんて1年で40万いかない少額。そして自分の名前も出さず権利も得ないで受け取った正当な、けれども決して多くはない対価のどこにやましいところがあるんだろうか? そう思った人はいたようで、中継していたニコニコ生中継にも同じようなコメントが滝のように連なった。間違いを犯せば即座に突っ込みがはいる世の中。その意味でも言葉には気を付けないといけないと自省しつつ、だからといって臆してもいけないと自覚。

 興味深かったのは新垣さんに果たして著作権があるかどうか、って部分で実際に作曲はしていたとはいえ、それを自分の曲として発表しJASRACに登録したのは佐村河内守さんであって、そのことに新垣さんは何ら主張をする気持ちがないっぽい。「著作権は私はまったく放棄したいと思います」とは言ったものの、そもそもが現時点において発生していない著作権を放棄なんて出来るのか。そこを考えないで著作権の即座の放棄を迫った経済新聞とか、本当に法務報道部の人間なんだろうか。現場で法律論をただ戦わせたいだけとしか思えなかった。答えられないよそんな難しいことにあの場では。

 だから最後にハフィントンポストからの質問があって、新垣さんが「彼の名義で発表されたものはそういうものだ」と今後もCDなんかが佐村河内守さんの名義で世に流通することを咎めることはしないといった発言があったのが興味深かったし、質問としても勉強になった。これならもう何の問題もなくCDは販売再開ができるし高橋大輔選手がソチ五輪のスケート競技で使っても問題ない……とは思えるんだけれどそこに「みなさまが納得されるかどうかわからないので答えられない」という新垣さんの言葉がかかってくる。

 納得。誰が作ったのか、といったところがやっぱり気になってくるんだろうなあ、それが耳の聞こえない人で広島の被爆二世だという物語性を込みで感動した人たちには。なおかつどうやら耳は聞こえていたらしいという話に裏切られたと感じた人たちには。別に気にせず音楽は音楽として素晴らしく、それを誰かが作ってくして世に出てきたから聞く、で良いんだけれどひとつ浮かんだ裏切られたという気持ちは、音楽そのものも含めた全部の否定へと向かってしまう。そして世間の反発を気にしてレコード会社も封印してしまう。そういう流れにならず音楽が音楽として世にとどまり続けることが出来るような道、ってのを世間もメディアも考えて欲しいんだけれど、良い方法ってあるかなあ。教えて偉い人。


【2月5日】 いったい何年前、何十年前から大須演芸場の経営難が言われてたのか、ってことを考えた時、いよいよもって明け渡しの強制執行が行われて世間の耳目が集まった瞬間に、支援するぞと名乗りを上げた高須克也さんへのどこかやっぱりスタンドプレーが過ぎるなあって思いが募って仕方がない。そりゃあ有りがたい。高須さんくらいのマネーがあって人脈もある人が支援に名を連ねてくれることによって、大須演芸場が再生する可能性は強まるけれど、それだったらどうしてもっと早く、今みたいに強制執行が行われる以前から支援しつつ内容を改め集客が成されるような演芸場にしなかったのか。

 それが行われていればみすみす強制執行されて芸人が悲しむこともなかった訳だけれど、それが行われていなかったからこそ強制執行があって世間の耳目が集まりそこに頭を突っ込んだ高須さんへの注目も集まった。どこかマッチポンプ的。あるいは後出しじゃんけん的。自分の名前が最大限で世に出るタイミングを狙っての登場って状況に、どうにも胡散臭さが拭えない。席亭もいっしょにいたりするなら前から知り合いだった訳で、それならもっと早く支援の手だってんばせただろうに。そうしたスタンドプレーも含めて一種の“芸”だと割り切る見方もあるけれど、本来は善意であるはずの行為がおしなべて胡散臭さを漂わせる売名行為だと見なされてしまいかねない行動は、やっぱり慎んで欲しかった。

 そもそもが今の席亭がどうにもこうにも運営に行き詰まったからこそ起こった事態。大須という絶好の場所にあって芸人さんたちの関心も高く東西からいろいろ人を呼べばお客さんだって来てくれたかもしれない演芸場であるにも関わらず、何ら有効な手を打てないというか打たないままでダラダラと経営を続けて来た結果、強制執行へと至ってしまった。そこへと至る道は過去に何度も何度も取りざたされた運営の危機が指し示していたりする。にも関わらず同じ体制を維持させるような雰囲気を持ったスポンサーの登場でいったい何が変わるのか。人脈だけで人が呼べるのは最初だけ。その後をどうするか、ってビジョンもないのに今の賑わいだけを食い散らかそうとするそのスタンスが、どこか信頼のならなさを感じさせる。どうなるか分からないけどせめて良い方向に進んで欲しいもの。あの場所で“芸どころ”の真価が全国に向かって問われるような方向へと。

 うへえ、といった感じで朝から大騒動になっていた作曲家の佐村河内守さんによる実は自分で曲を書いていませんでした事件。もしかしたらすんごい昔にカプコンの「鬼武者」の完成披露会見か何かでミュージックコンポーザーとして参加していた本人を見たことがあるかもしれないけれど、それ以外ではほとんど触れる機会もなかった人がいつしか耳が聞こえないのにすんごい曲を作る人だと言われるようになり、そして出身地の広島をテーマにした交響曲を作曲したと話題になり、新聞雑誌にテレビまでもが取り上げ持ち上げるよーになっていた。来歴なんかを読むと「鬼武者」のあたりですでに耳は聞こえなくなっていたらしいんだけれど、そういうことを世間に訴え耳目を引いていた記憶はなし。それがどしてこんな感じのスターになってしまったのか。その出世プロセスにちょっと興味がある。NHKが持ち上げたからなのかなあ。

 いやいや新聞テレビなんかは盛んにNHKがドキュメンタリーに取り上げたことが人気を煽った訳でよく調べもせずに報道したNHKが悪いなんて言っていたりするけれど、新聞では読売なんかが2011年にCDを出した佐村河内さんを取り上げていたし、朝日だって単眼複眼というコーナーで2010年に佐村河内さんを取り上げていた。大新聞が取り上げる以上はやっぱりその“正体”を調べておくべきか? って言われればそれが最善ではあっても当人がそうだと言うものを否定する訳にはいかない。NHKだってだからそうした流れに乗って伝えたんだろうし、大新聞が報じたことがひとつの保険いなっていたかもしれない。その意味では加害者である以上に被害者って言えるかも。どっかの夕刊紙みたいにNHKがー、なんて非難することはとても出来ない。

 っていうかその夕刊紙、記者らしい人がライブを聞いて感想を連ねるコーナーで堂々、佐村河内さんを取り上げ「闇に光を投じる佐村河内守の壮絶な交響曲 楽曲に満ちた言いしれぬ力」だなんてタイトルで記事を書いていたりするのに、この一件が明るみに出たとたんにページを削除してしまった。古くなったから削ったんじゃなく、同じコラムのリストにあるもっと古い記事にはアクセス可能なのにこれだけが見ることが出来ない。読売は夕刊で自分たちが佐村河内さんを取り上げたことを書いているし、朝日も他のメディアともども取り上げたって話に触れている。さすがは大新聞。そして夕刊紙は逃げの一手というこの差はすなわち力量の差であり経営の差ってことなんだろう。だから今あんな状況になっている。当然だよなあ。

 それにしても佐村河内守さん、今までに聞いたことがないから広島が主題になった交響曲をはじめ、作曲した数々の楽曲がどれほどに素晴らしいものかの判断はつかないけれど、これほどまでに評判になるなら耳が聞こえないとか広島の被爆2世だといったプロフィルとは無関係に、曲そのものが認められていたのかどーなのか。認められていたんだとしたら本当に作曲した人はとてつもない才能の持ち主ってことになる。そうでなくプロフィルの特異性が評価を上増ししていたんだとしたら、本当の作曲者はたいした作曲家ではないってことになる。今までに評価してきた人は自分の耳の良さを傷つけたくないからきっと、楽曲は素晴らしかったと言って言い募って本当の作曲家をもてはやすことになるんだろうなあ、でも実際はどうだったんだろう。フェルメールを模倣したメーヘレンくらいのすごさなのか。これからの評価がとても私気になります。

 あとは冗談として、佐村河内守、という名前はひとつの音楽ユニットであってフロントに立ってメディアの取材なんかに応じているのがビジュアル担当の佐村ケンイチ、でもって実際にスタジオにこもって作曲を担当しているのが河内タカユキでさらにあと一人、DJマモルってのがいて幼稚園の頃からの幼なじみだったそんな3人が、クラシックで世に出ようと結成したのがこの「佐村河内守」だったという。ビジュアルと作曲の担当は分かるとしDJマモルって何だよ何をするんだよって言われそうだけれどでも、ヒップホップとかのユニットでもDJなんとかって人がいるけど何やっているか分からないことって良くあるじゃん、DJマモルもそういう感じ、何をする訳じゃないけどいれば安心という。何のこっちゃ。

 あまりにイケてないサイトのデザインと、そこに登場しているプロデューサーとやらの人物の顔立ちのありきたりさ、そしてキャリアのありえなさからパロディサイトかと思ったら本物だった新アイドルグループメンバー(一期生)募集。過去にAKB48の前田敦子さんをキリスト越えたんじゃねって書いて世界的に大ひんしゅくを買った社会学者の濱野智史さんが総合プロデュースを行うとかでアイドル好きではあってもアイドル業界にはたぶん疎い人間が、いったいどんな言動を見せるのかってことで今から興味がつきない。っていうか売れるのか。知っている人は知っていても知らない人は誰も知らないぞ濱野さんなんて。その名前で売ろうったってそうはいかなさそうなんだけれど。あとはネットの口コミか。それだったらライトノベル作家の桑島由一さんがプロデュースしてブレイクさせた美少女ラップユニットのライムベリーをもっと持ち上げて欲しいなあ、活動再開はあるのかなあ。桑島さんの作家としての活動も含めて。


【2月4日】 長谷敏司さんが書いたコナミデジタルエンタテインメントのゲーム「メタルギアソリッド」のノベライズ「メタルギアソリッド スネークイーター」(角川文庫)をつらつらと読む。ディックだかデビッドだかいった名前で呼ばれている屈強な若者が、新たにスネークというコードネームを与えられて潜入したのはソビエトの原野。そこで何かとてつもない兵器を開発している科学者をさらって来いって命令を受けるんだけれど、待っていたのはスネークがかつて師事したこともある、とてつもない力量を持った女性スパイとその配下の者たちで、武器はつかった攻防はおろか、直接的な格闘でもかなわずこてんぱんにやられて谷川に落とされたりしながらもそこはスネーク、はい上がって再び潜入をするんだけれどやっぱりやられてしまったり。

 ゲームの印象でいうならスネークは圧倒的な強さとそして、強いからといって敵とは不必要なら戦わず潜入してミッションを成し遂げるスキルを持ったスーパースターなんだけれどもこの「スネークイーター」はまだ若い、そしてこれからできあがっていくスネークというキャラクターが愛情すら感じているボスとの関係に終止符を打ち、大きく成長していくための物語。だから苛烈な戦いの中に失敗もありそれを乗り越えていく突破の物語もあってと、読んでいて自分もいっしょに前へと進んでいくような感覚を味わえる。ばったばったと敵をなぎ倒していくカタルシスを求める人にはちょっと違うかもしれないけれど、困難なシチュエーションを肉体と知性を駆使してどう乗り越えていくかを楽しみたい人にはベストな作品かも。こういう小説も書けるんだなあ、長谷さん。

 訳があって埼玉県の草加へと行く途中に時間があったんで押上で降りて東京スカイツリーの下にある東京ソラマチあたりを散策、フードコートが全般に高くて参ったけれども他に食べるものもないので中華料理屋のパーコー麺を頼んでかきこみ昼食とする。これなら肉の万世のパーコー麺の方がボリュームがあるよなあ。そして値段も安いし。やっぱり場所代がかかっているんだろーか。カツカレーなんて1100円だもん。どこかのネット企業の偉いおっさんがJRの秋葉原駅にある牛乳スタンドでSuicaが使えないのは何かの利権かと見当違いのことでぶち切れていたけど、テナントが全般に高い方がよっぽど利権だっつーの。

 ってかJR傘下の施設にあるすべての店で、JRが仕切っているSuicaを使えるようにしろと強要する方がよっぽど利権じゃないか。、それに気づかず自分の気に入らないこと、そして自分が辱められたと感じたことに向かって大声でほえて権力を振りかざす。ネット事業の旗手だのなんだのとおだてられ、移った会社でも前歴をバックに何かやっているような感じを周囲に与えているおっさんの、自分というブランドに寄りかかって周囲を見下すみっともなさが炸裂って感じ。それで実際にいろいろと言われてたりするんだけれどこういうのって、何度も繰り返されていることでそれでも止まないってことはもはや、そういうパーソナリティってことなんだろう。近づかないのが吉ってことで。

 そうか8年ぶりなのか、ってことはパルコギャラリーで開かれた「都会犬」って展覧会以来ってことになるタカノ綾さんの国内での個展「すべてが至福の海にとけますように」が、3月6日から広尾にある村上隆さんのKaikai Kiki Galleryに開かれるとか。少女のイノセントな妄想が形になったような作品で知られたアーティストだけれど8年前でも夢の島とか大都会とかいった風景を取り込み社会との関わりの中で生きている少女たち、って感じの絵を描いてイラストレーションと思われがちだったその画業に深みと重みを与えていた。それが伝わったのか単にカワイイの文脈でとらえられたのかは定かではないけれど、海外でとてつもない人気を誇って描く絵がことごとく高額で売れていくようなアーティストになって、なかなか日本では触れる機会が少なくなっていた。それがここに来ての展覧会。どんな姿になって帰ってきたのか。もう見に行くより他にない。

 8年前といえばそうそう、パルコギャラリーでの展覧会にも合わせた形でSFマガジンに連載されていた書評エッセイ漫画「飛ばされていく、行き先」なんかを集めた画集「Tokyo Space Diary」(早川書房)から刊行されたこともあって、SFマガジンの2006年5月号で西島大介さんと並ぶ特集が組まれたことがあったんだったタカノ綾さん。その時にインタビューは編集者で「九龍」でタカノ綾特集なんかを仕掛けた島田一志さんにお願いしつつ、自分ではタカノ綾論めいたことを書いたんだけれど今となっては誰も知らないし誰も覚えていないかも。画家であり漫画家でありそしてSFを中心とした作品にたいする批評家でもありと、多面的な顔を持ちながらそれをアーティスティックな作品の中に織り交ぜて届けてくれる希有なアーティスト。そんなことを書いたっけ。今はメーンが画家になってしまった感じだけれど、SF作品の根元をえぐるような鋭いエッセイ漫画はまた読んでみたいもの。描いてくれないかなあ。高いから無理かなあ。せかっくだから当時のタカノ綾論を「Tokyo Space Diary」の感想文という形にしてアップ。よく書いたなあと今更ながらに関心。こんなに長い文章、今はちょっと書けないよ自分。

 なんかネットの上で満員電車のせいで人を人とも思わなくなり、ネットのせいで悪口雑言がはびこるようになり、虐待死や自殺が相次いだことが人の死を死と思わなくさせていて、それが明日にでも人を戦争に向かわせるんだよ、ってな内容の詩がやたらともてはやされていたりするのを知っておやおやと訝る。というか正直ムカつく。毎日満員電車に乗って通っていることで、人はそれぞれに息をしてそれぞれに己を示してそれぞれに命を持って生きていることを肌身に感じている人が、人を人と思わなくなることなんてない。そうした人が虐待死や自殺の相次ぐニュースに命が失われていく悔しさを感じて憤る。人にはそれだけの想像力がある。そうだろう?

 満員電車に乗らず人の営みに触れず高みで政治をもてあそぶ者ども。身に世のつらさを覚えないまま福祉を切り捨て支援をうち捨て数字の帳尻合わせに邁進する者ども。そういう想像力無き者どもをこそ指弾すべきなのに、どうして満員電車を、ネットを、悲しいニュースを心の摩耗の原因にするのだろう? そこがどうしても分からない。昭和30年頃からお父さんたちは毎日のように満員電車で会社に通って毎日を勤め上げて定年を迎えて来たこの国で、満員電車が人の命を軽んじる原因になるならなぜ、もっと早くに戦争へと至らなかったのか? 記憶があったからだろう。教育もあったからだろう。それの途絶えこそが問題じゃないのか。そこへと至らず表層的な事象をつなぎ合わせて世情の衰えへと持っていく。

 つまるところ今にも戦争が始まりそうな気分を、無理にも理由付けして訴えたかっただけのこと。満員電車における心の進化、ネットを通じた交流の拡大、悲しいニュースを通じた心の激動といったポジティブな受け止め方を無視して、上辺だけで感じたネガティブな印象を理由付けに使う。それはまあ良い。そうした気分を感じた詩人を、やたらを持ち上げもてはやしている人がいたりすることの方が面倒くさい。単純化された言葉に乗って白黒のどちらにもとれるような状況を黒と断じて糾弾しつつ、自分たちが言いたいこと、つまりは戦争が始まりそうな気分が蔓延していることを受け売りのように語ろうとしている。でもそれでは本当の理由にはたどりつけない。本当の問題を糾弾できない。ふわふわとご機嫌なワードに群がりそれを広めることで、何かやった気になるネットのネガティブな面こそが、明日にもこの国を戦争に向かわせているのだ、ってこういう紋切り型の言説もやっぱり問題か。考えようよもっと、深く、そして広く。


【2月3日】 何がしたいのかそれとも何もしたくないのか。大阪市の橋下徹市長が何でも市議会で大阪都構想に関する話し合いがうまくいかなかったのにぶち切れて、大阪市長をいったん辞職して自分の考えについて市民の信を問おうと市長選を行うらしいけど、でも市長の仕事って別に大阪都構想の実現のためにある訳じゃないし、市民だって都構想実現のためだけに選んだ訳じゃない。それが入れられなかったとしても他の仕事は山積みで、粛々とこなして行って欲しいというのが市民の心境。とりわけ年度末ってのは来年度予算についての審議もある訳で、それが選挙によって滞ったら回るお金も回らなくなるし、それどころか選挙でよけいなお金もかかってさらに切りつめが必要になる。

 額としては大したことない文楽への補助金をカットし、日本に冠たる大阪市楽団を民営に移したほどの倹約家なのに、どーして自分のわがままが通らないからといって、その信任に別になりもしない選挙のために大枚をはたいて平気な顔でいられるのか。恥ずかしさとか後ろめたさとか感じないのか。感じないからこそこうした事態を平気でやってのけられるんだろうなあ。とはいえ今回ばかりは大儀もなければ正当性もない選挙。それを果たして市民がどう受け止めるのか、ってところで本当なら対抗馬が出て丁々発止をやって欲しいんだけれど、それをやってしまうと勝ってしまいかねないからなあ、でもって信任されたと叫びそうだし、かといって無投票当選でも信任は信任とか言って暴れそう。それで変わる議会でもないのに……。恥を知らない人が大手を振って歩く世の中。それは国政も同様か。ひどい時代になってしまったよ。

 とりあえず終わることなく刊行点数を増やしているぽにきゃんBOOKSから、先月の深見真さんに続いて人気作家が登場。「レイン」シリーズで知られる吉野匠さんがアニメ化をも視野に入れて始めたという「アヴァロン42 理想郷に響く銃1」は、ネット上に構築された仮想空間上で少年少女が手に手に銃器を取ってデスバトルを繰り広げるって部分に先例が伺えるけど、地球に人が住めなくなりそうで、寺フォーミングされた移住先の星に行ける人を選ぶために、年若い少年少女が仮想空間に入って生存戦略しませんかと戦っているという部分には目新しさがある。何かそれだけではない裏の事情もありそうだし。

 さて物語。ネット内では学校みたいなところに集ることになる少年少女たち。そこで使える銃器を1つだけ選んで持って登校したら、いきなり銃撃があって射殺されてしまう少女もいたりと大騒ぎ。とはいえこれは反則で、同じ学校の生徒を撃ったら減点されてそれが行き過ぎるとゲームから排除されてしまうという。もっとも撃った側がいきなりは排除されず撃たれた方は即退場って何かおかしくない? って気分なんかも抱えつつ、そうした状況をしのいで学校に通い始めた主人公の少年だったけれど、授業が終わった後に突然鳴り響いたワーグナーのワルキューレ騎行の音楽とともに、怪物化け物の類が襲ってきてそれと戦う羽目となる。敗れたら退場。どうも相当に厳しい設定の“ゲーム”らしい。

 そこで生き延びた後は、いっしょにネット世界に来ている妹と一緒にダンジョンに潜ってポイントを稼いだりすることもあってちょっぴり体感オンラインゲーム的。とはいえ先のような例があり、また隠されたルールもあって人間どうしの殺し合いって奴が始まってしまう。現実世界に比べて凶暴化するのか、すべての権勢を独り占めしようとした野郎が突っ走っては暴力で周囲を屈服させ、その数を頼りに他の面々を襲って支配下に置こうとする。あまりに横暴だけれどそれに屈しては自分たちの権利を守れないと少年は、妹とそれからまだ現実世界にいる姉とそろって架空世界に入り、そこから別の星に移住して生き延びるために必死で戦う。ネット内で知り合ったある美少女といっしょに。

 その美少女は相当なお嬢様で現実世界の権力者が父だからネット内のバトルでもちょっぴり優遇されていそうな感じ。それでも堂々と戦おうとしたあげく、弱いから追いつめられたりもして主人公の少年に助けられるうちに深い仲になっていき、悪辣な野郎の大攻勢をともに手を取り合って迎え撃つ。もっとも、そこで勝ち抜いたら全員が移住の権利を得られるとも限らない。さらにネット内から叩き出されて現実に戻った少年少女に起こっている不思議な出来事。主人公の少年にもそれが起こったりと一筋縄ではいかなさそうな展開が見えてくる。誰かが何かを画策してる? そもそも世界はどうなっている? いろいろ気になるシリーズ。だから続きを読みたいすぐにでも。

 イタリア人についてはセーターの色がありえないくらいに派手だといったことくらいしか知らないのだけれど、そんなイタリア人と宇多田ヒカルさんが結婚したということでいったいどこで知り合ったんだという興味がまず浮かぶ。どうやら相手は普通の人らしく追いかけないでねといったことを自分のサイトから発信しているから、報道なんかもきっと出ないだろうけれどそれでもやっぱり気になってしまうのは仕方がない。せめて想像の中でもどんなセーターを着ているんだろうか、お風呂にはよく入るんだろうか、朝昼晩と食べるのはパスタとピザなんだろうか、ナポリを見ない限り死なないんだろうかといったことを考えよう。サッカーはどのチームのファンなんだろうかとも。それで出身都市くらいは何となく分かってしまうこともあるからなあ。

 ペイトン・マニングが衰えたのかシアトル・シーホークスの調子がとてつもなく良かったのか。デンバー・ブロンコスも出場したアメリカンフットボールのNFL最高峰を決めるスーパーボウルが行われたんだけれど名クォーターバックとして今シーズンのMVPまで獲得したマニングが率いるブロンコスが意外やまるで得点を奪えない中を、シーホークスが着々と点を重ねて終わってみれば大差の勝利。ブロンコスも1つのタッチダウンからポイント・アフター・タッチダウンではなく2ポイントコンバージョンを狙って決めて一矢は報いたものの本当に一矢に過ぎなかったようで、逆にマニングのパスを奪われタッチダウンへと持ち込まれたりと散々な試合を見せてしまった。これでマニングも終わりかそれとも雪辱を果たすか。弟のイーライ・マニングと並ぶ名プレーヤーだけに去就に注目。それにしてもハーフタイムショーでレッドホットチリペッパーズが上半身裸で歌っていたのにはびっくり。真冬の、ニュージャージー州でどうしてそんな真似が出来るのか。レッチリだから。そういうこと。


【2月2日】 実写版「僕は友達が少ない」でたぶん、いちばん体を張っていたのは柏崎星奈を演じた大谷澪さんでもう、登場シーンからしてガラスにその巨乳を張り付けては谷間をくっきりと見せていたし、途中でもミニスカートで四つん這いになって下着のお尻を見せ、そして最後のあたりでは膝を立てて座ってもちろん太股の付け根までをあらわにしてた。今時のアニメーションでは見られないようなものが、実写というリアルな役者が演じる場で見られてしまうこの僥倖を、どーしてもっと大勢の人が味わいに映画館へと足を運ばないのか。それが不思議で仕方がない。

 まあ、大谷澪さんならすでにして金子修介監督の映画「ジェリー・フィッシュ」において、下着どころか全身これすっぽんぽんの姿を惜しげもなくさらしてくれていたりするから、「僕は友達が少ない」なんてむしろ手ぬるい部類に入ってしまうものかもしれないけれど、そっちはR−18でなおかつ首都圏では公開がほぼ終わって、これから見られるのは北海道と沖縄くらい。あとはDVDなりが発売されるのを待つだけなんだけれど、本当に発売されるのかすら分からない。発売されても取り扱いは成人コーナーになるのかな。それくらいな過激な映画。「僕は友達が少ない」に出演と聞いて前のがどんなだったかを見たいと探して、横浜で上映があると知って見に行っておいて良かったよ。

 とはいえ「ジェリー・フィッシュ」での大谷澪さんは、役柄としてどこか臆したところがあって、それが同じ学校の女生徒の誘いによって目覚め火照らされ導かれていくっていう設定で、演技にも言葉にも派手さはなかった。それが「僕は友達が少ない」ではお金持ちのお嬢様でナイスバディで男子生徒からはちやほやされているけれど、女子生徒からは嫌われ憎まれていたりする中で自分自身を本当に友達と思ってくれる人を求めてやまない熱情の人。強気だけれど寂しさも抱えてたりする役をしっかりと演じきっていた。いろいろ出来る人なんだなあ、と世間にも知ってもらえただろーから今後いろいろな役をいろいろな作品で演じてくれることになるだろー。そんな時に転機となった作品として「ジェリー・フィッシュ」と「僕は友達が少ない」が挙げられるとしたらやっぱりどこかで見ておきたい。せめて片方だけでも、ってことでみんな行こう「僕は友達が少ない」に。乳とか尻とかが目当てでも最初はそれで良いから。

 そうそう昨日は「僕は友達が少ない」を見た後に、夕方まで時間があったんで六本木へと回って森美術館でアンディ・ウォーホルの展覧会ってのを見たんだった。といってもウォーホルなんでマリリン・モンローだとかモハメド・アリだとかキャンベルスープの缶だとかが色違いだったりバージョン違いででっかく描かれた例の作品群が、ポスターのまんまに並べられているってだけで見て別に目新しい発見があるって訳ではない。ああこんな色使いのもあったんだ、といった程度であとはこんな人もそういえば描いていたんだなあと思い出すことくらいか。マイケル・ジャクソンとか。坂本龍一さんとか。

 坂本さんの場合は当時、ガンガンと商業的なポートレート作品を生みだしていたファクトリーにどこかの会社が依頼して、坂本さんをキャラクターに何か作ってもらった時のもので、別にウォーホルがその活躍に興味を持って素材にした、って訳じゃない。色使いに何か特殊な意図をこめたって感じでもなく、バージョン違いの順列組み合わせでもって、あとは顔の輪郭線を強調するパターンを乗せて作ったもので80年代の日本が世界に向かってグングンと存在感を高めていた時代、言い換えれば成金趣味が全開だった時代のポップカルチャー的なアイコンとして、若者たちの神々だった坂本さんを取り上げ、ポップアートの大御所と結びつけて生まれたひとつの結節点という意味はあるのかも。

 それは絵画的な価値とは違った商業的文化的社会的な価値。それらをも取り込んで作品にしてしまったところにウォーホルのアーティストとしての凄みがあるんだろうけど。それともウォーホルをそう見せたより大きな社会的気分に逆らわず、ポップアートの大御所を演じ続けたウォーホルという役者の凄みとか。そうしたことが確認できるって面でも行って損はない展覧会だし、子供に向けた作品といったものが当時の雰囲気を再現して、魚の壁紙が貼られた小部屋に子供の目線で展示されていたり、ヘリウムガスが入れられた銀色の方形のバルーンが、良好な日当たりによって軽くなり上にあがっては、吹き出す冷気で冷やされ落ちてきてそしてまた上がるような仕掛けが再現されていたりと、展覧会だからこそ体感できるものがある。銀色の雲がたなびく部屋は窓に接して63階だかから見下ろす東京が絶景だし。

 あとは複製のポスターではあんまり見ないジャン=ミッシェル・バスキアとのコラボレーション作品が展示されていることか。ずいぶんと年の離れた2人だけれど意気投合してずいぶんとコラボレーションなんかをやったみたい。けどドラッグにも奔放な若者だったバスキアと自制心でもって商業と芸術の間を巧みに泳いで渡っていたウォーホルではやっぱり違う部分もあったのか、展覧会への批判なんかを受けて仲違いもしたようでそうこうするうちにウォーホルが手術の経過不良からか突然に亡くなってしまい、聞いてすでにちょっぴりおかしくなっていたバスキアも落ち込んで程なくオーバードーズで死んでしまう。28歳くらいだっけ。数年後に幕張メッセで開かれた「ファルマコン」ってばかげた規模の現代美術の展覧会に出品されてて、その名前とその作品が気になって調べたらもう亡くなっていたことを知って、もったいないなあと思ったっけ。

 ちなみにバスキアの生涯はしばらく前に映画にもなってるからそれで知った人も多いかも。1990年代を目前にして共に世を去った年の離れたアーティストの交合を、展覧会の場で四半世紀を挟んで目の当たりにできるこれは貴重な機会って言えそう。あとはやっぱり「あか、あお、みどり、ぐんじょういろ、きれい」とウォーホルがテレビのブラウン管を抱えてしゃべるビデオテープのCMが流れていることか。例えば「POPEYE」なんかを読んでいてアメリカのポップアートにも興味を抱いていた地方の少年だった人間には、それほどの存在がそんなことをしている面白さが感じら得たけれどもそうではない人にとって、日本語の怪しい白髪のおっさんが何をやっているんだろうとしか見えなかったかも。別にウォーホルの絵が登場する訳じゃないし。そんな無謀なCM企画が提案され通ってしまった時代を懐かしめるって面でも面白い展覧会かもしれないなあ。来場者に美人も多いし、また行くか、美人を見に。

 今日も今日とて天気が良いので外に出て地下鉄でぶらぶら。家にいたら寝てしまうので読めないと思って持ち出した、脚本家の待田堂子さんによる初のオリジナル小説「青い小僧 Knight1」(ぽにきゃんBOOKS)ってのを読んだらこれがまずまず面白い。進入しては一家使用人を皆殺しにいして財産を奪い火を着け逃げる盗賊「蠍」によって父母を殺されながら、やっぱり最後には命を失った使用人の女性によって連れ出され、歌舞伎役者の家の前までたどり着いて助かった少年は、そのまま歌舞伎役者の養子となり長じて笑介という名前ももらって役者の道を歩み始める。破顔一笑といった感じの笑顔が持ち味の良い役者になりそうなんだけれど、今ひとつ演技に身がはいらないのか養父の師匠からは叱られてばかり。それでもせっせと学びつつ、一方で「蠍」への復讐をあきらめることはなくその正体を追っていた。

 もっとも時の官憲ですら正体どころかしっぽすらつかめない謎の組織。それをどうやって笑介が探していたかとうと、自分も盗賊となって闇の世界を動き回ってどこかで接触する時を待っていた。もちろん一家を皆殺しになんてしない。むしろ悪徳商人の家にしのびこんでは不正に貯めた財産を盗み出し、悪事を暴きつつ貧しい人たちに分けて与える一種の義賊。いつしか人は「葵小僧」の名でその盗賊を呼ぶようになっていたけど、やっぱり「蠍」にはたどり着けないでいたある日、笑介はある情報をきっかけにして忍び込んだ屋敷で懐かしい声を聞く。自分を抱いて逃げようとした使用人の女性を斬った盗賊が、彼女に向けた声。幼いながらも覚えていたその声に触れつつ、頭領とやらの存在もあってその場は退散した葵小僧こと笑介は、彼を追っていた長谷川平蔵という官憲につかまり、彼の密偵として働くことになる。

 なんと鬼平が登場。それだけでなく笑介が出入りする蕎麦屋には友人として平賀源内がいて喜多川歌麿がいて山東京伝がいて三遊亭圓生がいたりと江戸文化の担い手たちがオールスターキャストでそろい踏み、っておいおい時代は合っているのかどうなのか。いやいやここは江戸ではなくって江土だから別にそろっても不思議はない。そう、江土。だからちょっぴり文化も違うし城塞都市としての街の外には妖怪なんかも跋扈しているという設定。そんな場所で笑介は、源内の発明や歌麿の絵の才能なんかの助けも借りつつ平蔵が担当した少女たちの惨殺事件の謎に迫り、そして「蠍」の正体に近づくもののその先に待っていたのは大いなる闇だった。

 それは途中から何となく感じられていたことだけれど、改めて提示された時にこの先一体どういう展開がまっているんだろうと想像させてくれる。どうして彼が。そして何のために。単なる私欲や私怨とは違った理由がありそうで、そこに今は徒手空拳の少年にしか過ぎない笑介がどう挑んでいくのかがちょっと楽しみ。一方で役者としての笑介が、今は眠れる才能をどう発揮して観客たちを虜にしていくのかも。葵小僧として出会って一目惚れに近い状態になりながらも、笑介としての自分を知らない柳橋の芸者の付き人めいたことをしている少女との関係は深まるのか。源内歌麿京伝圓生といった友人たちの活躍は。まずはお披露目となった世界観の上で大きく物語りが動くだろう第2巻に期待。しかし圓生の聞かせるモダン過ぎる落語。実際にやったら面白いのかなあ。アニメ化されたら聞かされることになる訳だもんなあ。


【2月1日】 「男組」で「ど根性ガエル」をやっていたと思っていたら「キルラキル」、いよいよもって「カエアンの聖衣」になって来た感じでこれでどーして世界を相手に商売している母親に比べて、全国にある学園の占領だなんてショボいことをやっているんだろうと鬼龍院皐月の言動を中心とした展開に異論を覚えていたものが、ようやくもって「天元突破グレンラガン」に並ぶだけの宇宙的スケールを持った作品になって来たって思えそう。とはいえあっちは宇宙すら突破してふくれあがった化け物なだけに、「キルラキル」ではそういう爆発とは違ったベクトルで、どれだけの驚きを見せてくれるのか。すでにして「カエアンの聖衣」を読んでいるロートルのSFオタクどものをニヤつかせるだけでなくねじふせては、独自の世界観って奴を創造して見せてくれるのか。そこが目下の関心事。

 のっけから総集編だという告知がはいっていよいよ1話を無駄にするのかと思ったら、そこは展開の早い「キルラキル」だけあって総集編もアバンで終わってオープニングも変わって、蛇崩乃音の着せ替えシーンもあってブルマ姿可愛いなあとか思ったりもしつつ本編に入って皐月様とその母親との会話によって明かされた生命繊維の謎。そして大阪に乗り込んだ纏流子にヌーディストビーチの面々が明かした神衣鮮血の真実。そこから想像される設定と展開は今のところはまんま「カエアンの聖衣」だけれど、そのまま行っては面白くないのは作り手だって分かっている。残る話数も限られて来たなかでどんなエンディングを用意してくれているのかを楽しみにして見ていこう、ってBDまだ買ってないけど。

 っていうか、よほどじゃないと録画した奴を今さら欲しいと思えなくなっているんだよなあ、昨今。昔はそれでも月間に3作4作を買っていたのが今は<物語>シリーズとあとは劇場版のパッケージくらい。テレビシリーズを手に出す余裕がなくなっている。BDになって高いから、ってこともあるけどそれだって2000円くらいのもの。10年前に比べてもらえるお金も増えているにも関わらず、そっちへと食指が伸びないのはやっぱり衰えて来ているからかなあ、感性が。TOKYO MX放送で見られていない作品も結構あるんだけれど、それは見てないから別に良いと思って買ってない。これってちょっとまずいかも。なので考えよう「キルラキル」くらいは買うかどうかを。パッケージが売れないといくら良い作品を作ってもお金が入らず次につながらず、そしてテレビから面白い作品が消えてしまうことになってしまいから。でもしかし。うーん。全部貧乏が悪いんだ。

 犯罪だとか不幸な自己なんかで発動されるメディアスクラムのすさまじさ、って奴はたびたび問題になっていて、被害者でも加害者でもその周辺がメディアによって徹底的に取材さ、日常生活にまでドガドガと踏み込まれては洗いざらい持っていかれて報じられ、それによっていらぬ誤解が広まり生活に支障を来すってことが頻繁の起こる。メディアはそれが仕事だからって言い訳をするけれど、やられる当事者にとってはたまらない話で、だから取材を断ったり逃げたりするし、場合が場合だからとメディアも相手の心理を慮って、取材を遠慮をしてみせることが最近は増えている、ような気がするけれども現実がどうかはよく分からない。もっとも、これが慶事なるどお祝い事だからという理由でメディアも足取り軽くなり、相手の為になるからと言って周辺を掘り起こそうとするし、それを受け手としてもおめでたい話だからと逆らいづらい雰囲気がどこかにあったりする。

 とはいえ同じメディアスクラムであることには代わりがなく、その大量な報道陣の殺到がもたらす混乱は周辺の日常をぶちこわし、そして当事者のプライベートを完全なまでにないものにしてしまう。笑顔でもって踏みつけに来るその怖さ。最初は分からなくでもだんだんと見えて来たのか、例のSTEP細胞を発見して世界中の話題になった理化学研究所の小保方晴子さんが、わずか2日ですべての取材をお断りだって看板を掲げてしまった。せっかくの発見なのだからもっと世間に分かってもらい、それについて検証なりをしてもらえればメディアが報じる意味もあったはずなんだけれど、そうした肝心な部分にはまるで口をつぐんで、メディアが伝えるのはやれ割烹着だやれムーミンだといった話ばかり。理系で女子で30歳が世界的な大発見をした、というファクトからそれがどうしてなし得たかという部分ではなく、理系で女子という部分をのみを取り上げ珍品扱いして喧伝する。そこには何の発展性もない。

 同じような境遇にある理系の女性研究者に小保方さんてすごいよね、励みになるよねって言わせようとするメディアなんかもあったけれど、そそもそもやっている研究も違えば環境も違う。言わせるのなら自分たちにはどんな研究をしているのか、そして小保方さんのような恵まれた環境で研究をするためには何が足りていないのか、それはどういう理屈からからそうなっているのかを語らせることによって、理系の女性研究者が物珍しさでもって語られるような雰囲気をなしつつ、待遇の改善なりにつなげていかなくちゃ。それなのにメディアはむしろそうした状況がずっと続いて欲しいかのように、トピックとしてリケジョの特異性をクローズアップして喧伝し続ける。これじゃあ研究者もたまらない。いらぬ反感だって買うだろう。

 あと残念なのはそういう取材の横溢によって小保方さんへのアプローチがとぎれてしまうことで、本当に知りたいことを語ってもらう機会がしばらく訪れそうになくなってしまった。ここでうちだけは真摯に研究についてのみ、聞きますからといって信じてもらえるか。偉いキャスターを連れて行きますから会って下さいと頼んでそれならと受けたら、やっぱり同じようなことを聞かれて辟易なんて図も見えてしまう。だからやっぱり受けないだろう。そうしているうちに世間の関心は薄れ研究への支援も滞って居場所を失った研究者は、本質を認めてくれる海外へと流出していく……。繰り返された構図がまたしても。だからといってメディアが改めるかというと、まるで自戒もしないのは犯罪や事故に関連するメディアスクラムが一向になくならないことからも自明。そうこうしているうちに信頼を失い関心を持たれなくなって衰退していくかっていうと、下卑た部分に向けてよけい下卑ていくだけだったりするという悪循環。一度滅びるしかないのかなあ。

 そして早起きをして新宿はバルト9(ばると・きゅう)で実写版「僕は友達が少ない」の公開初日を舞台挨拶付きで見る。すでに試写で1度見ているからストーリーについての驚きはないけれど、改めて見て主演の羽瀬川小鷹を演じた瀬戸康史さんが本当に言い役者さんだってことが伺えた。面構えこそはどこかふてぶてしいけれども実はおとなしくて周囲とのコミュニケーションが苦手なだけの少年で、押されればびくびくしながらそれでも賢明に答えようと必死に言葉を探るような感じが出ていて、友達がいない寂しさを描く映画の世界に違和感なく引っ張っていってくれた。妹の小鳩に対しては優しいお兄ちゃんで食事を作ってあげたり自転車の後ろに乗せて学校に送っていってあげたり。そんな時は笑顔をみせて優しさを醸し出していたりする。本当の兄と妹みたい。そういう風に撮ったのかそう演じたからそう撮れたのかは分からないけれど、見ていてしっかりと映画の芯になっていた。彼が拙いと全部崩れてしまう映画なだけに、ピタリの役者をはめたって感じ。素晴らしい。

 対する三日月夜空を演じた北乃きいさんも、これがまたベストなハマり具合。すでに予告編なんかでも登場しているから言うけれども、友達がいない夜空が作り出した架空の友達ことエア友達のトモちゃんと教室でしゃべっているシーンから始まって、居丈高で負けず嫌いで強引な性格を発揮して、小鷹を「隣人部」へと引っ張り込んではこき使い、そして入部を希望して来た柏崎星奈を拒絶し追い出そうとしつつ受け入れ、それでも「肉」とあだ名をつけて虐げるその言動のすべてが三日月夜空っていう友達がいないけれども虚勢を張って生きている少女の存在を表している。原作とかアニメに実はそれほどのめり込んでいない身からすれば、それはまさしく三日月夜空というキャラクターそのもの。髪型を似せニーソックスをはいた姿とも相まって、実に良い雰囲気を醸し出している。これが女優さんだったらここまでの存在感を出せたかどうか。そう考えるとやっぱりベストなキャスティングだったって言えそう。選んだ人の選んだ理由をちょっと聞いてみたい。こうまでハマると思っていたのか。演ってみたらピッタリだったのか。

 そんな2人の絶妙な関係性が舞台挨拶でもかいま見えたのは面白かったというか、たぶんに瀬戸康史さんという役者さんのパーソナリティによるもので、カッコイイのに気取らずかといってふざけすぎもしないで淡々と、ぼやくようにしゃべりつつ面白いこともいってのけて、すっかり役から離れてい北乃きいさんを三日月夜空のような突っ込み上等な性格の女子へと引き戻していた。きっと楽しい撮影現場だったんだろうなあ。けど監督によれば最初はみんな人見知りでぎこちなくって、それを承知で順撮りで撮影していくことによってだんだんと分かり合いうち解け仲間のような雰囲気ができあがっていくのを見せようとしたとか。なるほど実際に映画を見ればそんな感じはよくあかる。いっしょになって成長していけるような気分になって最後はガッチリとした結束を持って、「隣人部」という居場所を素晴らしく思えるようになっている。これは人間が演じる実写映画ならではの面白さ。原案の小説でもアニメでも表現できない、リアルな人間のコミュニケーションって奴を是非に見に行って欲しいもの。敬遠しないで。パンツもお乳もたくさんたくさんん見られるから。

 夕方に飯田橋にて日本SF作家クラブの50周年を祝うパーティーに入り込む。10年前に日本SF作家クラブの40周年を祝うパーティーに入り込んで以来だから10年ぶりか、って別に41周年を祝ったり43周年を祝ったりするパーティーはなかったけれど、この時期にはだいたい日本SF大賞の受賞パーティーが開かれていたからそれがない今年はSFな人がこぞって集まるのはこれくらい。それだけにいったいどんな人が集まるか、って気になってのぞいたけれども若いSF新人賞受賞組の人たちがいっぱい歩いていたように見受けられた感じ。最近は講談社BOXとかで作品を発表している人も増えて活動の気配が見えているだけに、その名前にも見覚えが出ていてがんばってって話しかけたかったけれど胡乱な赤いコート野郎だと思われるのも悲しいので遠巻きに応援する。「アルヴ・レズル」のアニメの続きはないのかなあ。

 始まる直前くらいに座ってiPad miniをのぞいていたらタブレット端末について関心を持っているらしい高斎正さんに話しかけられて焦る。だって高斎さんだよ自動車小説の第一人者にしてSF界の重鎮に、話しかけられて緊張しない方がおかしいけれども電子書籍の話しとか、レースの話をしていたからそれほど世代のギャップは感じなかったしついていけた。今もレースとかに関心はあるようで今年のF1の情勢とかお伺いしたかったけれどもオープニングが始まってしまったのでそれはまたの機会。お元気そうだった。60周年にもお元気に登場しては車の世界の話を聞かせてくださいな。会場ではいろいろな人とお話ししたりすれ違ったりしながら2時間半。お開きになって記念のクリアファイルをもらって帰る。いやこれ買ったんだけど。まあいいや。


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