Tokyo Space Diary

 草間彌生というアーティストがいる。現代美術界を代表する女性アーティストで、1998年から1999年にかけてロサンゼルスやニューヨーク、東京で大々的な回顧展も開かれた。作品がオークションに出れば、1億円以上の値段で売れていく。それほどまでの大御所が、「スタジオボイス」の06年3月号に掲載のコラムで「いまにみていろ。私は100才までも生きて、次々と命を盛り上げて革命を歴史の中に立ち上げるだろう」と叫んでいる。

 77歳という高齢になろうと、使い切れない程の金を手にしようと草間彌生の創作意欲は衰えない。アーティストにとっての創作が、時間つぶしでも金儲けでもなく、懊悩を吐き出し形に現す切実な行為だからだ。そしてそれはタカノ綾にも当てはまる。

 アート関連の編集者として、アンディ・ウォーホルやエゴン・シーレの画集を手がけたアイヴァン・ヴァルタニアンが2005年に編集した「drop dead cute日本現代美術のニューエイジ/10人の女性アーティストたち」(グラフィック社刊)で、タカノ綾は草間彌生と並ぶアーティストとして取り上げられている。03年に「パルコミュージアム」で行われた展覧会「girls don’t cry」にも2人は揃って出展した。アート界の専門家から”世界のクサマ”に並ぶと目されているアーティスト。それがタカノ綾だ。

 それほどまでに高い評価を受けている作品とはいかなるものなのか。アートというからには小難しい抽象画なのかというと、実は「SFマガジン」の表紙や「TOKYO SPACE DIARY」(早川書房、2310円)に収録された連載「飛ばされていく、行き先」で繰り広げられていたトーンと大差ない。モチーフとなるのは多くが丸い頭部に細い体を持った少女や少年たち。それがアメーバのような生物と絡み合ったり、都会を動物に載って闊歩したり、50年代、60年代に映画や小説で人々が夢見た未来的なデザインの部屋に佇んだりしている。タカノ綾にお馴染みのモチーフだ。

 けれども、そこにはアーティストの内面にわき上がる情動が現れている。描き続けなくてはならないと感じ実行し続ける、アーティストとしての飽くなきスピリッツが刻まれている。

 幼い頃から幻覚に悩まされる脅迫神経症の病から逃れようと、脳裏に浮かぶ細かいドットをひたすら巨大なカンバスに描き広げ、あるいは男根を象った突起を鏡台やボート一面に植え付けた草間彌生の凄まじさに比べると、スレンダーな肢体の少女たちが佇むタカノ綾の世界には、見て分かるテーマがありストーリーがある。

 SF作品からインスパイアを受けた作品も数多い。「ショイエルという星」なり「星の書」なり「リングワールド」といった、SFの読者なら耳に覚えのあるタイトルが付けられた作品もあるほどだ。しかし。それらは単に小説の1場面を選び、ビジュアル化して誰かにストーリーを説明するために描き出したものではない。小説に登場したキャラクターたちの内面に踏み込み、小説が描こうとしたテーマを咀嚼した上でオリジナルの解釈、というよりむしろ読んで浮かんだ情感を、絵の形にしてぶつけたものだ。

 00年に刊行された作品集「hot banana fudge」(kaikai kiki刊)に収録の、ブライアン・オールディス「地球の長い午後」からインスピレーションを受けて描いた「Hot House:Foot High」に添えた文章で、タカノ綾は「私がこういう風に本から影響を受けて絵を描く場合は、人に見せる前提がなくて描く」と書いている。雲間から光の射し込む空へと伸びた巨大な植物の上に座る少年と少女。植物たちの放つ猥雑なエネルギーに揉まれながら、猛々しく生きる人類を描いた作品に添えるには、優し過ぎるし美し過ぎる構図だが、それでもタカノ綾はこう描かずにはいられなかった。

 あるいはアーサー・C・クラーク「2010年宇宙の旅」を主題に描いた「Dr.chang」。エウロパで生物と出会いながらも死んで行かざるを得ないチャンが、横たわり息も絶えようとしている場面を取り上げて、タカノ綾は「宇宙の深淵や厳しさ、それと陶酔を感じた。どうしても描かずにはいられなかった」と語る。

 「drop dead cute」で、編者のアイヴァン・ヴァルタニアンがタカノ綾にインタビューした時、彼女は「本歌どり」の手法を創作に用いていると言った。すぐれた作品から受けたインスパイアを、自分の中に取り入れた上で自分の形にして描かずにはいられないという衝動。それは単なるビジュアル化を超えた、アーティストならではのものと言える。そうして生まれたドローイングなりペインティングなり造形物は、たとえ可憐な少女や不思議な生物の形を取っていたとしても、見るからに強迫観念のカタマリである草間彌生の作品と同様にアートであり、故に世界のアート界から評価され、受け入れられている。

 昨今、タカノ綾に限らず日本のアート界では、ちょっとした女性クリエーターのブームが起こっており、その活躍が呼び水となって、新たな女性アーティストが生まれる好循環が起こっている。「drop dead cute」自体が、そうした状況に触発されて編まれたもの。工藤麻紀子や束芋、タカノ綾と同じ「kaikai kiki」に所属する青島千穂、坂千夏といった70年代半ばに生まれたアーティストが取り上げられている。少女の人形を造型してそれを写真に撮り、それを見て絵に描く加藤美佳も同世代だ。

 やや上の世代でも、筆のタッチを残して絵の具を塗り重ね、少女の影を描く村瀬恭子がおり、女性から老後の希望を聞いて、CGと特殊メイクで希望を叶えて写真に捕るやなぎみわがおり、宇宙人のようなコスチュームで秋葉原に立つ自分を写した、キッチュなポートレート作品で知られる森万里子がいる。写真の世界でも、00年にHIROMIXと長島有里枝と蜷川実花がそろって”写真界の芥川賞”ともいえる「木村伊兵衛賞」を受賞して話題になった。

 そんな多士済々の中にあっても、タカノ綾の描く作品は独特のカラーを持ち、世界のアートシーンで輝きを放つ。「kawaii(カワイイ)」が世界の共通語となり、世界中の少女から「ハローキティ」愛され、日本の少女マンガが熱烈な歓迎を受けている文化的な状況の中、コミック的な少女がモチーフとなり、SFのテイストがそこかしこからのぞくタカノ綾の作品はストレートに受け入れられやすい。「kaikai kiki」のウェブサイトにあるプロフィルによると、展覧会が開かれれば作品の9割がその場で売れる人気ぶりだという。4月に「パルコギャラリー」で行われる国内久々の個展にも、内外からバイヤーやコレクターがやって来ては、争って作品を購入していく様が見られることだろう。

 もっとも母国・日本でタカノ綾は、依然としてSFテイストの作品を描くイラストレーターであるか、またはコミック作家としての印象の方が強い。それも仕方のないことで、「SFマガジン」の連載「飛ばされていく、行き先」は、コマ割りを持ったコミックの形式で描かれた一種の書評だったし、手に取りやすい単著もコミックの単行本「SPACESHIP EE」だ。

 森奈津子の「からくりアンモラル」(早川書房)や、「飛ばされていく、行き先」でも取り上げられている櫻井まゆ「トランス・トランス・フォーエバー」(新風舎文庫)の装丁は、イラストレーターとしての仕事として見なされている。「SFマガジン」への初登場も表紙のイラストだった。いくら海外でアーティストとして名を知られても、そうしたポジションに「SFマガジン」の読者が気付かないのも無理はない。

 さらに悩ましいのは、SFコミック作家としてのタカノ綾の力量が、見過ごすことの出来ないくらいに高いクオリティを持っていることだ。発表された作品数はそれほど多くはないが、長編でも短編でも、そこに人類の行く末を伺わせるSFならではのビジョンが溢れている。

 02年に刊行された長編コミック「SPACESHIP EE」は、会社の事務員をしていたのしという名の女の子が、失恋から宇宙船を奪い空へと飛び出し漂流していたところを、22万人を乗せて故郷の星を目指して宇宙を航行中の、巨大な宇宙船に助けられるという設定の物語。のしはそこで、他の乗組員から一目おかれるめぐという名の少女と出会う。

 高次な存在が作ろうとしている、この宇宙とは違う「次の宇宙」で軸になる「星を継ぐ者」と呼ばれる存在にされてしまい、宇宙を消してしまえる力を与えられためぐは、「EE」の中で特別な立場に祭り上げられて、腫れ物に触るような扱いに孤独を味わいながら暮らしている。そんなめぐとの出会いが絶望していたのしを変え、のしによってめぐの寂しさも癒されていくストーリーに触れて、読者は孤独に生きる辛さを知り、仲間とともにある嬉しさを知る。

 チューブの中をエアカーが走り回る都市や、カーリングのストーンに似た楕円形の宇宙船。使いたい時に耳から口を覆って生え、使い終わったら落ちる「羽デンワ」といったガジェットと、大麻が解禁となりエコロジーな自転車が再評価されているという近未来のビジョン。宇宙を超え次元すら超えた規模で繰り広げられる対立に翻弄される少女という構想の、いずれをとってもSF好きを刺激する要素に溢れている。

 河出書房新社から刊行されていた「九龍」という雑誌が、第5号でタカノ綾を特集しているが、そこに収録された短編コミック「美しい花」も終末のビジョンでいっぱいだ。温暖化で地表が次々と海に沈んでいく世界で、島状に残った土地に暮らす少女がひとりの美しい少女と出会い、心通わせる。隕石が迫っているという噂にもパニックにならず、淡々と終末を受け入れようとする人々の諦念にもにた情感が、タカノ綾独特のキャラクターたちによって演じられる。

 明るさの中に訪れる終末のテイストは、海外短編SFを読んでいるかのよう。「飛ばされていく、行き先」でも示される、数々のSF作品を読んで来ただタカノ綾の中に育まれた終末への感性や宇宙への空想、そして人間への洞察が独自の物語となり、ビジュアルとなってコミック作品の中に溢れ出している。タカノ綾のファンならずとも読んで欲しい短編だが、あいにくと「九龍」自体が手に入りづらくなっている。アーティストとしての活動が多忙となっている状況では、新作コミックにかける時間も乏しそう。喜ばしい半面、残念だ。

 さらに読者を混乱に陥らせるのが、「飛ばされていく、行き先」でタカノ綾が見せたSF批評家としての異能の力だ。ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「たったひとつの冴えたやりかた」を取り上げた回は、フキダシの中でどんな物語なのか、どんな作家だったのか、そして自分を犠牲にする少女への想いを綴りながらも、絵の方では宇宙船の中で少女が生命体を出会い、戸惑った果てに”冴えたやり方”を選ぶストーリーが描かれる。テッド・チャン「あなたの人生の物語」を取り上げた回は、詩的な文体で作品への果てしない感慨を吐露しつつ、絵の方で少女が生まれ育ち恋をする物語を、本文のように時系列を歪めて描いて見せる。合わせ読むことで、チャンが「あたなの人生の物語」で見せた運命の厳しさと、それでも生きる素晴らしさに気づき、いま一度短編を読んでみようという気にさせられる。

 作品が持つ主題をすくいあげて言葉に示し、紡がれた物語から浮かぶ情景をビジュアル化して合わせ見せようとする「本歌どり」とも言える作業の中で、内外の作家たちの小説はいったんタカノ綾の中で解体され、彼女の感性を加えられた”作品”となって現れる。エッセイコミックに分類されそうな形式を持つ「飛ばされていく 行き先」は、同時にそれ自体がタカノ綾というアーティストのアート作品でもある。連載中、それを一種のコミックと捉えながら読んでいた「SFマガジン」の読者たちは、それとは知らず彼女のアートに触れていた訳だ。

 これからのタカノ綾の活動が、どこへと向かうのかは本人だけが知っている。いや、本人も分からないままアートであったり、イラストレーションであったりコミックを描いていくのかもしれない。けれどもそれらの作品には、想いを形に変えて表すアーティストであるタカノ綾の、SF好きな感性を経たカラーがすべてににじむ。見れば分かるだろうそのカラーに、現代アートのファンはSFを想い、SFのファンは現代アートの可能性を見出しつつ、タカノ綾の活動を見守っていくことになるのだろう。

 タカノ綾がタカノ綾であり続ける限り。100才までも。


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