縮刷版2013年5月上旬号


【5月10日】 ザンネンファイブも卒業となって本格的な戦場に送り込まれる段になると流石に周囲もその意味を、感じ取っているんだろうか、校門を出てバスで走る5人に向かって在校生たちが整列して敬礼する場面には同じ学校で学んだ者であり、また同じ戦場へと出て命をかけて戦うことへの敬意ってものが見えてグッと来た。そんな「銀河機攻マジェスティックプリンス」は敵の幹部連中もズラリと並んで何かこれから本格的な激突が始まりそう。そのヒューマノイドっぷりを見るにつけ、地球人類と過去に関係のあった種族と見るべきかそれとも伝統的スーパーロボットアニメに類して人間的な敵が宇宙には普通に遍在していると見るべきか。古き良さに楽しさを味わえるから別に後者でも良いんだけれど、それが通用する時代でもない今にこうやって作ってみせるところに何か意味を見たいもの。期待しよう。しかし敵にいる巨乳はやっぱり気になる。強いのか。エロいのか。

 ハーロックの声が小栗旬さんだからどうにもイメージがとか言ってる場合じゃなかったことが判明。そのことを思えば過去に幾つもアニメーションの声を担当していて自身も俳優としていろいろな作品で演技をしている小栗さんは存分に真っ当な“声優”だったって言えるかも。何しろ素人。そしてなおかつ決して演技が向いているとはいえない人材。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」で監督をしている庵野秀明さんが何と宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」で堀越二郎っていう零戦の開発者の声を担当することになったっていうから世界が驚いた。あんまり良くない方向で。

 そりゃあ爺さんになってからの堀越二郎ってエンジニアが持つ雰囲気を、あの訥々として頑固にしつこい声音でもって喋るんならそれはマッチしているって言えなくもない。でもこの映画ってまだ青春の堀越二郎が登場するんじゃなかったっけ、それは若々しい上にアニメ映画のキャラ的に美形に描かれているにも関わらず、あの声が重なって乗っかり聞こえてくるのは果たしてどうなんだろー、ちょっと想像もつかない。まだ小栗旬さんが声を演じた方が想像もつくし、むしろハーロックよりマッチしているような気さえする。それが庵野監督。偏屈さは出せても若さ格好良さは出せないよなあ。どうなんだろうその辺り。

 まあ過去の宮崎駿監督が、脇に起用した江川卓さん徳光和夫さんといった面々はともかくとしてメーンに起用した木村拓哉さんも長嶋一茂さんもそれなりな演技は見せてくれているし、拙さはあっても優しさがあった「となりのトトロ」の糸井重里さんはむしろそんな演技というより生の喋りがあの世界観とマッチして、長く見られる傑作へと押し上げた訳で、選ぶにおいて見間違いの少ない宮崎駿監督がただ話題性から庵野監督を起用するとは思えないから、きっとちゃんと相通じるものがあってなおかつ、見ても拙いと思わせるような感じにはなっていないだろうとは信じたい。信じたいけどしかしやっぱり見る間では、なあ。ともあれこうやって話題が出て完成も近いようで公開も無事そうなのは僥倖。あとは高畑勲監督の「かぐや姫の物語」がどうなっているか、か。予告編やらなくなってる劇場もあるしなあ。

 そうか槍道ってのはスポーツとしては存在していないのかと、あとがきを読んで意外に思った天沢夏月さんの「サマー・ランサー」(メディアワークス文庫)。日本武道館で開かれたりする古武道の演武会をかのぞくと、そこに槍持ってヒャッハーな人たちがいるからてっきり剣道や薙刀なんかと同様に武道であり、且つスポーツとして取り組まれていると思ったけれど、実際にはそうした槍術を教える道場なんかはあるし、脈々と伝えられている流派なんかもあるものの、それらを総合して柔道なり剣道にようにしっかりと大会が行われている訳ではないみたい。その意味では「サマー・ランサー」って一種のSF? それは流石に言い過ぎか。とはいえこれがきっかけになって槍で戦う部活動ってのが出来たら面白いかも。目指すのが「グングニル」って北欧神話に由来の称号ってのも面白いし。

 んでもって「サマー・ランサー」で面白いのは、祖父が剣道の8段で範士でとてつもなく強いと評判を取っていたその孫が、小学校の頃には天才的な剣士として大活躍していたのに、だんだんと勝てなくなってそれでもまあ強い関係で、商社マンになった父親の転勤について回って転校した行く先々で、剣道部に引っ張られレギュラーをおしのけ抜擢されては反感をくらい、それが原因で内向きになっていった挙げ句に、祖父の死というものに直面して剣が振るえなくなってしまうという心理的な変化。神童が成長するにつてれ弱くなるってことは無いわけではないけれど、祖父に叩き込まれた技がそうそう錆びるものではなく、準優勝とかベスト4とかの位置にはいける訳だからあとはやる気の問題ってところになる。そこで自分を奮い立たせられないのは何故なのか。そんな辺りで現実に神童と呼ばれ血筋を讃えられながら、長じるに連れてだんだん落ちていった人たちの姿を思い出して聞いてみたくなる。

 期待されるからにはそれに答えたいと思うのは道理。けど1度つまづくとそれが枷になてまた失敗するんじゃないかと自分を縛り、手がでなくなってしまうものなのかも。でもって祖父が死んでそのプレッシャーから開放されると、原動力が失われてさらに動けなくなってしまうというか。そして入学した高校では剣道部に入ることもできず、それでも近寄った剣道場から聞こえてきた槍がかつんかつんと当たる音を聞いてのぞいた槍道部へと、同級生の少女に引っ張り込まれて始めることになって、練習のために祖父の剣道場を借りた時、そこで祖父の声が聞こえてくるようで、体が縮み心が迷ってしまうから単純に剣道が嫌になったって訳ではなさそう。

 祖父が親身になって教えてくれた、鍛えてくれた剣道に背を向ける申し訳ないって気持ちがそこに浮かんで、心身を縛ってしまったからなのか。あるいは何かから逃げている自分ってものが見えてしまって、槍道もそんな逃げ道に過ぎないと分かって情けなくなって体が動かなくなってしまったのかも。考えすぎって言えば言えるんだけれど、何も考えずにやりたいことに邁進できる人間なら分からない複雑な心理であり、そして体面を気にする虚栄を持った人間になら誰にでも起こる出来事。そこを味わいながら自分だったらどうしたら立ち直れるのか、あるいはどういう生き方が出来るのかを考えてみると良いのかも。続きそうなだけに主人公がどういう選手になっていくのか知りたいなあ。映像化されて槍術が実際に見られると面白いから、どこか挑んでくれないか。

 円安かあ、それを安倍ちゃんの成果だと諸手をあげて喜んでいる人たちがいるけれども、円安で企業の決算が良くなったからといって、来年はよりいっそうの円安になっていないと差益とかは出ないし、調整が働いて円高へと触れたら今度は差損だって出る。かといっていっそうの円安はそのまま輸入物価の上昇につながり穀物とか原油の価格に覿面に出て何でもかんでも海外から買っている貧資源国であり貧食糧自給国の日本にとってはいろいろとダメージも出てくる。それを手放しで喜んでいる人たちっていったい何なんだ。ようはただ安倍ちゃんのマッチョを讃えたいだけなんじゃないのか。それで世の中が回ると思っている人の大勢いるこの国が、辿り着くのは“国益”なんて曖昧な言葉の下で個人が蹂躙される未来、なんだけどそれすらも正しい国の在り方とかいって、讃えるんだろうなあ、円安を喜ぶ人たちは。参ったねえ。


【5月9日】 スコットランド出身者が監督を務めた方が成績が良いって伝統があるのかマンチェスター・ユナイテッド、サー・アレックス・ファーガソン監督が優待を決めたその後がまに、やっぱりスコットランド出身で今は同じプレミアリーグのエバートンで監督を務めるデイヴィッド・モイズ氏が座るといった報道が出て、前にエバートンからマンチェスター・ユナイテッドに来て古巣をあれこれ言ってたウェイン・ルーニー選手がチームを出るって話が浮上してたりとシーズンオフに向けていろいろ大きく動きそう。香川真司選手の去就も安泰じゃないよなあ、あるいはクリスチアーノ・ロナウド選手の復帰とかもあるのかなあ、あったらなおこのこ香川選手の居場所が……。ボルシア・ドルトムントに戻るかな。

 しかしマンチェスター・ユナイテッドは、これもやっぱりスコットランド出身で、ダンカン・エドワーズ選手やボビー・チャールトン選手らを要して欧州で勝利を重ねながらもミュンヘンの悲劇で有力選手を多く失い、自らも負傷したマッド・バズビー監督の下で再起して20余年の間に幾度もタイトルを取った。その栄光が一端揺らぎかけたものの再起のために招かれこれまた26年を勤めあげたファーガソン監督が完璧なまでの栄光を積み上げた後だけに、スコットランド出身に験を担いだかそれともその実力を評価したのか。どっちにしたって来年はファギーはもういないチームの未来を誰が担いどう作る。面白くなって来たなあプレミアリーグ。サウサンプトンの堅守を担うディフェンスリーダーの行方も気になるなあ。

 不思議だよなあ。日頃からシナの非礼がどうとか言ってる人たちが、今回に限っては中国側が約束の時間を守らないで急遽入れてきた会談を、これは無礼な話だからけっ飛ばして当然、それが外国から来た人間に対する礼儀だと言いもしなければ、だったらと帰国を1日延ばして会ったけどいったいどこまで成果が上がったか分からない会談をした政府与党の人間を、下手に出て相手に優越感を抱かせたと非難もしない。それでもって国権を担う神聖なる国会をすっぽかしたことを、政治家としてお前は不見識も甚だしいと罵倒しないで逆に素晴らしい外交を臨機応変にしようとしたんだ、それを非難して国会としての筋を通そうとした野党こそが国益無視だと糾弾する。本当に不思議としか言い様がない。

 っていうのはまあ、ひとつの思考の実験みたいなもので、大まかに見るなら国会の委員会をすっぽかしてでもそこにいて、誰かに会っておくことが何か意味を持つのかもしれないなあと大目に見ながらも、ただやっぱり国会という場で担っていた職責を果たせなかったことに対して、すまなかったと謝ってみせて、とりあえず事態を収拾するのが大人の態度って言えるだろー。薄気味悪いのは与党が迷惑を被りそうになった時だけ、そうした大人めいた物わかりの良さを見せて、敵視する中国ですら味方のようにして抱き込もうとする人たちの揺れて惑うスタンスで、そこには柔軟というよりはむしろ右顧左眄して状況によって立場を変えて自らの信仰を正当化しようとする態度しか見えて来ない。そんな信者たちが支え讃えたコミュニティが、いったいどこへ向かい何をしでかすか。それは歴史が語っているんだけれど、気づいてないんだろうなあ、信者なだけに。

 なんというか、漫画とかアニメーションのグッズでもありきたりじゃないのに弱いっていうか、そんなものだから「BLACK LAGOON」に出てくるレヴィのソードカトラスをそれもやっぱりトゥーハンドだからって2挺買って、それからやっぱり必要だろうとレザー製のホルダーも買ってみたりして大枚を払いつつ未だ外で誰かに見せたこともないという体たらくに陥っているんだけれど、その性癖は一朝一夕で治るものでもないってことで、今日も今日とてアニメーション映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」に出てくる信乃がつけてる犬面が、実際に春日部の張子でもって作られているってんで早速購入。でもやっぱり付けていく場所なんかないままに死蔵するんだろうなあ、これでもルフィの麦わら帽子は夏場に重宝したけど、犬面では王子の狐行列にだってちょっと着けていけないよなあ、犬と狐じゃ仲悪そうだし。まあ良いんだこういうものは一種の縁起物、飾って眺めて楽しむとしよう。

 数日前から東京メトロの中吊りに東京ブラススタイルって女性ばかりでブラスユニットを組んで専らアニソンを演じてライブとかをしているグループが、東京もど真ん中の銀座に現れ、日比谷線の上にあるコンコースでアニソンを中心に演奏してくれるってんで、3年くらい前から関心を持って眺めていて、関内ホールでのライブにも1度行った身としてこれはやっぱりのぞいておくかと、2度あったライブのうちの後の方を見に行ったら、帰りがけの会社員の人とかで会場がギッシリだった。いろいろな場所で演奏しているのを見てはいても、場所が狭いのと天井が低いのでこもった熱気はこれまでにないくらい。そんな場所でおそらくは東京ブラススタイルなんて知らないだろう人たちを相手に、いったいどんな演奏をぶちかましてくれるんだろうかと、ワクワクして待っていたところに登場したメンバーは、「宇宙戦艦ヤマト」のイントロをファンファーレ気味に高らかに吹いてそして「ドラゴンボール」の主題歌を演奏して、アニソンジャズのバンドなんだってことを印象づける。

 ただ、この6月にロックをブラスにしたアルバムを出すとかでそっち方面の曲も割と溜めているらしくって、この回ではそんな中から何曲か、ロックの曲を演奏したりアニソンでも「ルージュの伝言」とかいった宮崎駿監督の映画で使われた松任谷由実さんのポップスを流したりして、アニソンには興味なさそうな通りすがりのサラリーマン的な人の耳目を引きつけていた。聞くと最初の回はアニソンが多かったとかいうからその辺り、セットリストを工夫したのかも知れない。アニメでは「巨人の星」の「行け行け飛雄馬」だったかをボサノバ風にアレンジして演奏してくれてこれがなかなか。確かにそうなんだけれどそうは聞こえない格好良さでアレンジ力の高さって奴を見せてくれた。「となりのトトロ」はやっぱり定番で、拍手とともに場を盛り上げ、そしてアンコールでは何だったっけ、ロックの奴をやって40分強のライブを閉めた。

 とにかく格好良かったミニライブ。関内ホール前とかで見たりもしたけれど、狭い空間で低い天井に響いて音像がカタマリのようになってぶつかってきて、場に巻きこまれるような感じを受けた。演奏では古屋ヒロコさんだっけ、ドヤっとした顔で吹くトランペットが鳴り響いていたし、ベースの人も小さくて細いのにしっかりと低音を刻んで響かせ、下からバンドを支えてた。眼鏡がキュートだった井口久美子さんはなぜか眼鏡なし。どうしてだ。でもテナーサックスのソロとか結構あって拍手を浴びていた。そんな面々はこの後にフランスドイツへと旅立ち海外での演奏を行うらしい。キャリアも重ねて技術もあがりレパートリーも増えたところに、ロックという万国共通の言語も持ち込んでアピールしてみせるその先に、世界を相手に大きな飛躍なんてこともあるのかな、あったらちょっと嬉しいかも。6月に日本でもライブがあるみたいなんで行けたら行きたい。井口久美子さんは眼鏡をかけてくれるかな。


【5月8日】 起きたら「宇宙海賊キャプテンハーロック」の新作アニメーションがいろいろなことになっていた。3DCGで作るってことはすでに開かされていてトレーラーも流れて、監督の荒巻伸志さんっぽい映像だなあって世間に思わせてはいたけれど、その声がいよいよ本格的に小栗旬さんだと発表されて世間は七転八倒。これもすでに映画館の予告編で流され聞いてはいたんだけれど、どこの誰が喋っているんだろうと思いつつあんまり井上真樹夫さんぽくないなあと感じていただけに、本決まりとなってそれが小栗旬さんだと分かって、何でまた声優さんではなくって俳優を使うんだろうと訝り、悩む。

 そりゃあ俳優さんだって巧い人はいて例えば「地球へ…」のキース・アニアンを演じた沖雅也さんとか、同じく「地球へ…」のソルジャーブルーを演じた志垣太郎さんなんかは、当人たちが持つ二枚目のイメージをそのまま美声に乗せつつ二枚目のキャラクターにマッチさせて見る人に違和感どころか本人感すら与えていた。小栗旬さんもそれが出来ない訳じゃなくって「グスコーブドリの伝記」では純朴なブドリって役をその好青年ぶりともども声に乗せて巧く表現していたけれどでも、ハーロックはちょっと違う。あれは悪役でなおかつ正義の心も持っていて希望と絶望がない交ぜになった複雑な感情を抱き仲間を愛しながら孤独感も味わっているという、とてつもなく複雑な背景と心情を持ったキャラクターで単に純朴でもいけないし、声を潰し気味にして低くして出してもやっぱり違う。

 決して井上真樹夫さんが最初に演じてそれがピッタリだったからじゃなく、井上真樹夫さんがハーロックってキャラクターの持つ渋さと若さ、暗さと明るさ、後ろ向きさと前向きさを実に巧みに声に込め、なり切っていたから誰もが評価し認めた。そして永遠だと感じた。もちろんそんな声が永遠に出るはずもなく高齢となった今は声質こそ衰えていなくても、どこかにやっぱり高齢者なりの声音が滲んでそれがあのハーロックとはそぐわないってことはある。石川五右衛門の声もだから残念だけれど「LUPIN THE THIRD 峰不二子という女」で変更になって仕方がないかもと思った。

 あるいは演じてみれば、次元大介の小林清志さんと同じようにかつての艶と渋さを持った五右衛門の声が出たかもしれないけれど、そうでない可能性を考えつつハーロックも見て、代わっても仕方がないという気はしている。けどそれがどうして小栗旬さんなのか。ほかに声優として、あるいは俳優でもピッタリの人はいなかったのか、ってところで誰もがいろいろ感じているのが現状。それを覆す演技を本編で見せ切れば良いんだけれど果たして。とはいえやっぱり宮野真守さんだったら、どんなハーロックになたったかなあ、ちょっと考えてしまうなあ。

 コミティアで買った沼田友さんってショートアニメーションを自主制作しているクリエーターの新作「天体観測」をやっと見たら感動した。単純過ぎる感想だけれどほかに言い様がないくらいに感動がじんわりと浮かんできた。前に見た「雨ふらば 風ふかば」でも「15時30分の拍手喝采」でも感動が嵐のように押し寄せてはきたけれど、それらが意味する感動ってのはひとつに人間にとっていいずれ来る、あるいは突然訪れるかもしれない可能性を感じさせ、そして今をどう生きていくのかを考えさせてくれるという意味での感動で、言ってしまえば泣かせのパターンにハマってる。

 今回の「天体観測」もそうかと思ったら違ってて、夜の空を観測にいく兄と妹のストーリーからは、いたわりとか慈しみといった気持ちが漂い、そして山も谷もあるけれど上り越えていく大切さってものを教えられた気になった。がんばったんだなあ兄ちゃん。支えたんだなあ妹。グラフィック的にどうこうっていうのはずっと変わらない沼田友さんの特徴でもあり、言われるポイントでもあるけれど、「15時30分の拍手喝采」でも思った視線の演技、表情の感じの良さは変わらず出ていて流石。その演出力と脚本力と構成力をもっと強く見られる場所、与えられないかなあ。

 おそらくは「月刊スピリッツ」が存在する世界線というものがあって、そして「月刊スピリッツ」が存在しない世界線というものもあって、それらは重なり合って交互に出たり入ったりしているとう、その境界線上にあって唯一、リーディングシュタイナーの能力を持つ出版社だけがそうした時空の曖昧さを理解しているだろう状況下において、一般の人が「月刊スピリッツ」を見つけるのが困難なのも至極当然。ちょうど「月刊スピリッツ」が存在する世界線の上で書店に居合わせ、漫画雑誌売り場に立っていないと見つけ損なう恐れもある。

 っていうか、現実にそういう人が大量発生して存在そのものが疑われていた「月刊スピリッツ」を、丸の内にある書店でようやくにして見つけられて早速読んだゆうきまさみさんの10年ぶりとかいう新作「でぃす×こみ」はBLみたいだった。なんだ「みたい」って。いや、最初の数ページがまさにそんな展開だったんだけれど、すぐにそれが漫画によって描かれたものだと分かってそして描いた少女が新人賞を受賞していたものの、どこかどうにも落ち着かない。その理由は……ってのが漫画のひとつの掴み。だからあとは読んでのお楽しみってことになるんだけれど、読むためにはだから「月刊スピリッツ」がある世界線の上に立たなくてはならない。見つけるのだその痕跡を、つかむのだその尻尾を、エル・プサイ・コングルゥ。

 ユニークなのはBLっていったものを描く上で、どういう思考をめぐらせ段取りを踏んでいけばああいった作品いなるのかってのが、言葉によって解説されているところか。あるいはBLってものを好んで読む人たちの思考が、どういう回路で働いてどういったものを好むのか、とちった辺り。ひとつのアイディアをふくらませ転がし絞ってズラしそしてまとめ上げる思考のラインを学習できるって意味でもこれ、なかなかに面白い漫画かも。だから続いて欲しいんだけれど、続くかなあ、単発で終わりかなあ。せめて単行本1冊までは。ほかの漫画は……森野美幸さんってベストセラーSF作家が登場していた。そんなSF的な存在が。それから「シュトヘル」。そうかこれって「月刊スピリッツ」に載っていたのか。「ザワさん」の小冊子、チアリーダーのザワさん可愛いなあ。

 せっかくだからと新宿のロフトプラスワンで中村亮介監督が登壇しての「ねらわれた学園」のトークイベント。まるまる本編を見られるとは思わなかったよ。これで見たのは何回目だろう、7回目か8回目か、何度みても展開がわかっていてもそれぞれのパートで見どころがあってついつい見ていって仕舞うところに中毒性の高さが現れているなあ、なによりラストシーンでクレジットが流れ終わったあとに来るエピローグ、かかる「銀色飛行船」をバックに2人が再会して思い出してそして「おしまい」と来る場面は何度見てもグッとくる。それを見ようと足を運ぶ。つまりは最後まで見て仕舞わざるを得ないってことで。

 そういえば去年はそんなアニメーション映画が本当にあったなあ、大きくなった2人が再開する「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」もそうだったし、アスカとシンジとレイが砂丘を上る「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」もそうだった、そこを見たいがために劇場へと向かいそこまで見続ける、と。まあ「虹色ほたる」の場合はユウタとさえちゃんが参道を駆け上がるシーンがひとつのピークだし、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」はアスカがガラスにパンチをかますシーンを個人的なピークに見ていたけれど、それでもやっぱりラストシーンにはグッとくる。鉄則。ラストシーンで引きつけろ、それが人気を得る秘密だ、って興行収入では「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」だけ突出してるんだけど。どうしてだろうなあ、同じだけの評価を得てもいいのになあ、そこに何かひとつのボトルネックがあるような気がしてならない。アニメーション映画の場合は特に。

 「ねらわれた学園」も見れば何度も見たくなる作品なんだけれど、見てもらうまでのハードルがやっぱりあってアニメでそして原作は古く監督は申し訳ないけれども誰なんだ的な。だからこそのエロい絵がいっぱいあるよ的アピールでもあり、またAKB48から渡辺麻友さんの声優起用でもあった訳で、それは「キャプテンハーロック」の小栗旬さん起用にも通じるところだけれど、でも小栗さんが声をあてるからといって「ハーロック」のことを知っても行こうと思うかは別の話。同様にまゆゆが声をあてたって、それはアニメな話で行くかは別で、逆にアニメのファンがいったい全体大丈夫かって訝り脚を遠ざける。結果的には起用は大成功だった訳で、行けば抜群の演技を聞けるんだけれど、そこへと至らせる回路がやっぱり乏しいんだ、マイナーでなおかつアニメ映画の場合って。

 大手メディアがもっと走って凄さ素晴らしさをアピールすれば良いんだけれど、そういうところの足腰が極端に弱いからなあ、大手メディアって。でも嘆いても仕方がない、こうやってイベントがあってブルーレイディスクも出てすごい設定資料も出る。ドリパスでのラストチャンス的「ねらわれた学園」上映会も企画されている中で、ファンとして頑張れるところを頑張るしかないってことで、ここにこすいて喧伝しては来て見て思えと訴えよう。キャラクターのエロスでも良いし物語の素晴らしさでも良いし。ちなみに留年した少女のあのガーターベルトは実はガーターベルト風のストッキングだったと判明、キャラデの細居美恵子さんが何でも「絶対領域」って写真集を見て見つけたんだとか。そういうところまで目配りするのかデザインって。大変だなあ。でも楽しそう。どこに注力したって話もイベントでいっぱい聞けたし、次はそこに注意してブルーレイで、そして最後の劇場で見よう。そのためにも是非にドリパスの達成を。


【5月7日】 やっと見た「デビルサバイバー2」の名古屋編は、別に名古屋って感じさせる描写はまだなくって味噌煮込みもあんかけスパも出ていなくって、もちろん喋りも誰も名古屋弁じゃなくって一体どうしたものかと思ったけれどもまだ1回目、これからだんだんと名古屋的な要素も出てくるものだと信じたい、セプテントリオンが鯱の形をして金色に光っているとか。しかし主人公にいきなり死亡フラグが立って、友達に「死に顔」が送られてきたけれどもこれで死んだら話が続かない。友達でもない組織のボスにまで送られてくるのも不思議な話で、そんなところから誰が何を目的にそうしたものを作っているのか、探る話がこれから繰り広げられていくんだろー。とりあえずイオこと新田維緒の胸大き過ぎ。あれでよくダンボール箱の中に入って突き出ずはみ出さずに名古屋まで来られたもんだよなあ。そこまでか? そこまでなんだよ、大きいんだよ。

 ハフィントンポストっていったいどういう語感から産まれた言葉なんだろうねえ、ワシントンポストを入れ歯が抜けた人が発音するとそうなるとか、つまりは老人のためのメディア? いやいや既存のメディアに対して何か物申したい人たちが集い、そこで新しい何かをやろうとして立ち上がったプラットフォームの、その日本版って奴だから当然にして若い層とか狙ってスタートしたみたいだけれども、オープンしたサイトを見てもそこに何か情報を求めようって気がおきないのは、ネットの上に氾濫する情報の波をあえて押しのけ、それを読まなきゃ生きていられないってくらいの情報がないからか、あるいは趣味の疑問を埋めてくれるだけの、濃くて愉快な情報を持ったものがないからか。日常の疑問とか政府への異論とかどーだって良いんだよ。そんなものはツイッターにふんだんに流れてるし、2chだってまとめサイトだって見てれば何とはなしに流れと状況が分かるから。

 問題はだからそこから発信される言葉の中から、世間がリアルに動くような言葉が生まれ育まれ広まるか、ってことなんだけれど今は俺こんなこと知ってるんだぜ、私こんなこと考えていますのよ的な知識とスタンスの見せ合いと自慢のし合いになっているって感じだもん、つまりはジャーナルというよりコラムサイトでしかなくって、それでは新しい読者なんて入っていかないよ、そぞれのライターにずっとくっついている信者以外は。昔はそういう人でも、束になって何か物申せば、何か世間だって動くかもって信じていた時代があったけど、ライブドアのPJニュースとかオーマイニュースとかってのが立ち上がって、これで独占と特権にあぐらを掻いた既存メディアの状況が変わるかと思ったら、何も変わらずむしろ既存メディアの何であれ真っ当なニュースをなるたけ客観的に伝えるスタンスがくっきりと見えただけだった。

 もちろん既存メディアの中にだって、常日頃からバイアスのかかりまくった情報とかを載せ、目的のためには捏造だってやったりするような大手もあったりするけど、それはごくごく一部の話で、そうでない多くのメディアが存在してそれなりに屹立している中で今、再び個人の思想が入りまくってバイアスのかかったコラムを集め流したところで、それに賛意を示す人たちがそこに固まって蛸壺を形成するだけ。当人たちはそれで悦にいるだろうし、反応に何かやっている気になるだろうけれど、世間的にはまるで影響力を持たないのは過去から今にいたるネット上での言説の流れが語っていたりする。だから今、すぐに何かを期待するってのは無理な話なんだけれど、あれだけの人材を集めバックも揃えて来た訳だから、何か成功への仕掛けがあるのかもしれない。本国ではピューリッツァー賞だって取った媒体の、その日本版だけにあるいは……。しばらく横目で見ていこう。

 いやあ格好いい。何かとっても格好いい。藤井太洋さんって人がキンドルで自費出版していたものを長く延ばして紙で出版した「Gene Mapper −full build−」(ハヤカワ文庫JA)に出てくる、テクノロジーを自在に操る科学者とかエンジニアの人たちのだいたいが、正義の気持ちを持っていて曲がったことがあんまり好きそうじゃなくって、すべてに意欲的ですべてに前向きでといった具合に実にポジティブ。科学者とかエンジニアってイメージとして暗くて引っ込み思案で、コミュニケーションが苦手って思われがちだけれど、ここに出てくる人たちは、言葉も達者なら能力も高くって誰とでも理解し合い、なおかつ道にそれないで真っ直ぐ進んで正解へと辿り着く。颯爽としていて自由を愛するナイスガイ。これって何だろう、書いた作者の人がそういう科学者やエンジニアに憧れているからなんだろうか、それとも自分自身がそういう感じの人間だからなんだろうか。

 思い出したのがテッド・ネルソンって学者の人で、「WIRED」って雑誌の表紙にして登場してはデジタルネットワークの中を鮮やかに駆け抜けるカウボーイっていったイメージを世間に示して、すぐそこまで迫っていた電脳社会への興味をかき立て、無限に広がるデジタルフロンティアへと見る者を誘って行こうとしてたっけ。まあ実際はネットだって何ももたない者が一攫千金に至れるような場所ではなくって、現実社会と大差のない階級や権力が蔓延り、巧くやった者たちだけが得をするようなつまらなさにあふれた場所で、多くの失望を誘いつつ、コミュニケーションのためにツールとして粛々と運用され存在しているんだけれど、そんなかつてのデジタルやハイテクへの可能性を、なおも前向きにとらえ活用して何か生みだそうとしている格好いい人たちに、「Gene Mapper」に登場する人たちが何か重なる。

 そんな格好いい技術者のひとりが林田さんという遺伝子デザイナーで、“蒸留作物”って呼ばれている遺伝子から設計された作物を作る仕事なんかを請け負っているんだけれど、バイオテクノロジーの科学者ってよりは、ファッションや建物を設計したり製造したいるすりょうなクリエーター的な雰囲気。研究室にこもって何かとんでもないものを作り出してしまったどうしようとうなだれるマッドなサイエンティスト的な面影はまるでない。そんな林田さん、今回はL&Bって会社の依頼で東南アジアの<マザー・メコン>にある農場に育てる稲が夜になると発光してロゴを描くとかいった仕掛けを施した蒸留作物を作っったんだけれど、それが何かプロジェクトのまっただ中で崩壊する事態に陥ってしまった。

 自分に責任があるとは思えない。とはいえ他に原因が分からない林田さんは、会社側が派遣してくるエージェントの黒川さんとともに凄腕のインターネットサルベージャーがいるホー・チミンへと乗り込み真相を探ろうとする。そんなサルベージャーのキタムラという人物がまた格好いい。何か世界的にインターネットが自分を閉ざしてしまってそこに入り込むにはハッキングが必要になっているらしく、キタムラさんもそんなサルベージャーとして依頼されて<マザー・メコン>に蔓延り始めた謎の稲の素姓を探ることになる。試しに請け負った調査をあっという真に片づけたりする凄腕な上にホー・チミンに暮らして美人の秘書みたいな人がいたりとやっぱり自由人。何かを企むこともなく飄々と仕事をこなしてみせるその姿はやっぱりネットに耽溺したナイーブで陰気なパーソナリティの正反対を行く。

 林田さんとも意気投合してともに挑む事件。その過程で浮かび上がる一種のテロ。科学技術を嫌い遺伝子操作による作物なんかに反発を抱く存在なんかもいたりして、そうした面々を支えるジャーナリズムの何とも明解な悪役っぷりに、1度だって嘘をついたりインチキをしたりしたメディアがなおも存在できるくらいに世間って甘いもんじゃないだろうとは思ったものの、現実ありもしない言葉をでっちあげて記事を書いて名誉毀損で訴えられて完璧なまでに敗訴したのに、身分を問われることもなく命脈を保っていたりする世間があったりする現実があるから何も言えない。ともあれそんな敵との戦いを経てたどりついたひとつの可能性。未来はそこから暗くなることだてたりえるのに、誰もが自由を愛し自省を持って世に向かっていく感じに描かれているのが読んでいて何か気持ち良い。

 あとはやっぱり黒川さんって人のパーソナリティか。裏がありそうでそして実際に過去もあってといったところから、その真実に迫るんだけれど得られた結果は……。なるほど自分が世界に怨みを抱いているからって、誰もが世界に怨みを抱いているんじゃないってことで。人間を信じて良いんよね。科学を信じて大丈夫だよね。そんな風に思わせてくれた物語。でも実際の世界は悪意が知らず蔓延り善意も横滑りしてお節介と化していたりするからなあ。だからこそこういう明るくて前向きな物語も必要なんだってことで。テクノロジーの描写についてはARが常態化して誰でもどこにでも出現できたりして画期的。そうしたテクノロジーをつかって人をどう描くか、そうやって描かれたバーチャルな自分なり他人と、リアルな自分なり他人とをどう区別し、あるいは重ね合わせて見ていくかって辺りも見せてくれる。そういう世界が来るのかなあ、ネット人格が映像化されて外部に染み出たらそうなるんだろうなあ。


【5月6日】 総集編を挟んだだけあってしっかりじっくり作り込まれていた「ちはやふる2」は何といってもクイーンが促され最前列に座った時に隣で桜沢翠先生が発した「えっ」の声がすばらしかった。あの泰然自若とした翠先生でも驚くのか。江室なんかが妄想した中ではジャージ姿にTシャツでもって、前方後方にしっかりを張り出させながらもすっくと立って、部員たちにストレッチしろランニングしろ筋トレしろとまるで運動部みたいな指導をしていたりする美女なのに、やっぱり隣にいきなり来られるとクイーンになれなかった傷が疼くのか。番外編があれば猪熊さんと翠ちゃんが戦った時代とか見てみたいよなあ。きっと今よりさらに凛々しかったんだろうなあ。ドラグスレイブとか使ったのかなあ。それ使ったらかるた場軽く吹き飛んじゃうってば。そりゃそうだ。

 「おまえ女性手帳はちゃんと持ったかい? あと日本国民手帳と納税手帳と国民健康保険料支払手帳と国民年金支払手帳と君が代斉唱励行手帳と靖国神社参拝手帳と徴兵検査合格者手帳と米穀通帳とTカードを持っていかないと、不携帯で国民の義務に反しているからって憲兵さんに捕まっちゃうから気をつけてね」「大丈夫よ母さんリュック大きいから全部入るわ」。なんて風刺画が果たして未来、描かれるのかそれとも未来どころじゃなくって3年後くらいに描かれるのか。そんな瀬戸際にあったりするような気分が最近急にしてきた感じ。アドバルーンとは言え「女性手帳」だなんてまるで戦前の産めよ増やせよ的な政策を、親切という顔を借りて押しつけようとしている日本政府はいったい何を狙っているのか。

 なるほどどれだけ推奨であって決定ではないと言っても、そうやって国が何か歩行性を決めるってことはそれだけで意味を持ちある程度の拘束力を発揮してしまうものであって、そんなものが漂い網を張った世の中が出来てしまった時、そこから逸脱した者にとってとてつもなく暮らしにくくなってしまう。それはもう歴史が証明していたりするんだけれど、敢えて再び導入しようとしてみたりする政府と、そのお先棒を担いで情報をばらまくとあるメディアという組み合わせがもたらすものもまた、明治を終えて大正に入って民権運動だのデモクラシーだのを経てなお全体主義へと傾いていった歴史が証明していたりする。つまりはあの大戦争だ。なのにどうして? っていったところに今の社会的な状況の面倒くささって奴も見えてしまう。

 なるほど少子化高齢化の到来は国にとって疲弊という結果を招きかねない。それを防ぐには移民を受け入れ労働力を確保するのが手っ取り早いんだけれど、どうにもそうした移民受け入れを嫌う輩が政治の上とかとあるメディアの中とかにはあったりする。残るはだから産ませて増やしていくしかないんだけれど、これがなかなか滞っている。どうしてだ、ってそりゃあ決まっている。産みづらく育てづらいからであって、何か仕事をしていたらそれを辞め何年か子育てにがんばっていかなきゃいけないんだけれど、経済状況がなかなか許さず稼ぎに出なきゃいけない。にも関わらずその間の子育てをどうにかできるようにはなっていない。

 未就学児童に対する教育が目的の幼稚園なんざあ、いくら増えたところで定時になったらはい帰宅。当然だれかが家にいて迎えに行ったり帰ってくるのを出迎えなくちゃいけない。でもそんな人ばかりじゃない、というかそんな人が少なくなっているからこその今の少子化って状況があったりする訳で、だから必要なのは乳幼児から面倒を見てくれて夕刻あたりまで延長保育してくれるような場なんだけれど、そういうものを拡充していく方向へと社会が向かない。お金がないし、ほかにもいろいろやらなけりゃいけないことが山積みだし。

 地域の親戚たちとか老人たちが、かわるがわるに面倒を見てくれたとか、そんな時代を思い起こして地域のコミュニティを復活させようって腹もどこかにあるのかもしれない。でも、地方ではそれは可能でも、隣近所とすらつき合いの無い都会では無理だし、地方は地方で若い人が働く場所がないってことで、どんどんと都会へと出てコミュニティが崩れてしまっている。そうした変化をどうにかしないでただ、働きやすく産みやすく育てやすいよう支援しますと言ったところで、やっぱり踏み切れるものじゃないってことくらい政府の有意な人たちはちゃんと分かっているんだけれど、上に立ってあれこれ煽っている古い時代が大好きそうなな人たちの頭の中と、そんな人たちを支え持てはやすとあるメディアの人たちの頭の中には、まるで考え及ばないか、分かっていても知らないふりして世間をオールドスタイルへと持っていこうとしている。それが自分たちのアイデンティティを落ち着かせることにつながるから。

 子供数を増やしたいんだったら、それこそ社会情勢や心情の変化に合わせて事実婚から産まれた子供も婚外子でもなんでも認めて、結婚から家庭といった“家”にはめられなくても子を持ちやすい気分を作って上げたり、そうやって産まれてきた子供がネグレクトされても、他に養子としてもらってくれる人がいたら、的確さ厳格さは保ちつつスムースに移せるような制度を整えてあげることも考えた方が良い。けれどもやっぱりオールドスタイルこそ万全と考える頭の人たちには、そうした“家”の仕組みをぶっ壊し否定すらしてみせるような施策は受け入れられない。夫婦別姓なんてとんでもない。女性は家に居て子供を産み育てるのが役目。それこそが絶対だなんて思い込んでいる人たちだから、威勢ばかりが良くて中身がなく、実効性に乏しいお題目だけが並ぶんことになる。それにあきれ果てた大勢をさしおいて、一部のオールドスタイルの復権を目論む者たちの声高さが響いて政治をそっちに持って行った挙げ句……。面倒くさい国になって来たなあ。

 連休の最終日なんで秋葉原をさっと眺めて「絵師100人展」のなかなかな入りを確認してからアーツ千代田3331って学校を改造したギャラリーというか美術館というか、そんな場所に言って「ANIME SAKKA ZAKKA」というまだ若いアニメーション作家たちが作品を持ち寄り上映しているイベントをのぞく。目的は小谷野萌さんって一昨年に東京工芸大学の卒展で作品を見て気に入った人が、何か出していてそれが見られるってことだったんだけれどなるほどその「」という作品は水彩を重ねて揺れるような絵を作り出している上にさまざまなビジョンを繋げ重ねていく表現でもって見ている人を空想と夢想の世界へといざない。赤ちゃんとか文金高島田のお嫁さんとか脈絡がなく重なるイメージの間で、女性の顔がさまざまなパターンに切り替わったまま動く映像があってそこに幾つか挟まった幾つもの眼鏡っ娘に目がいってしまった。そういう風にできている。

 姫田真武さんていう何かどえらく賑やかな作品を歌声なんかもつけて流している人のs作品があって見ていて陽気になってきたけどでも、こういうのって海外じゃあやっぱり受けないんだろうなあ、むしろ日本の教育番組の中とかでおもしろ映像として盛り上げられるとか。方向性的には谷口崇さんかなあ、「森の安藤」で有名な。それからキムハケンさんという前にも見たことがある人の作品では1本、声優の大友龍三郎さんが声を当てている作品があって渋い男性からゲイから女性めいた声からいろいろな声を出していたのが面白かった。よく頼んだよ。その渋すぎる声を聞きに行くだけでも価値ありだけれど今回、1番気に入ったのがししやまざきさんという人の作品。とりわけ「YA−NE−SEN a Go Go」って作品には見ていてどハマリしてしまって後でネットで探して何度も見返してしまうほどだった。いやあ楽しいわ。

 谷根千ってつまりや谷中に根津に千駄木あたりの風景をバックにして女性が踊ったり地元の食べ物を食べたりしている映像なんだけれど、それが最近流行のロトスコープって手法でもって描かれていて、人間の動きとか表情とかってやつが髪の流れまでも含めてきっちりとアニメーションとして再現されているけれど、だからといって実写をそのまま撮って流している訳ではないところに、フィルターを1枚はさんで見る生々しさを削がれポップさを増した谷根千ってものが描かれ、そこを満喫する女性のウキウキとした気分ってものが浮かび上がってくる。それがオールディーズな感じの音楽とマッチして実に愉快。ロトスコープっていえばどちらかといえば生身のリアルを映像に映して生身以上の気色悪さを見せる手法のように思われてしまって来ているけれど、本当はこんなに楽しくて明るいものなんだってことを、教えてくれる。つまりはやり方。それをドロドロとした青春の心情を現すために用いたのが「悪の華」で愉快さを増すために用いたのが「YA−NE−SEN a Go Go」ってことになるなろう。

 ほかにも様々な作品をロトスコープで作っているみたいで、自分の肉体をそこにさらけ出しつつも絵にすることによって肉体の動きが持つ面白さを抽出して見せることに成功しているししやまざきさん。すでに海外なんかでも評価されはじめているみたいだし、日本でもいろいろなブランドとかPARCOとかが起用し始めているんでやがて遠からず世界に討って出てはコマーシャルなシーンで活躍するなり、アートアニメーションの分野に名を残すなりしてくれるだろう。遅まきながらも注目必至と叫んでおこう。会場には1時間くらいしかいなくってまだ半分くらいのを見ていないんで来週までやっている会期中にまたのぞけたらのぞいてみよう。「祝典とコラール」って作品は切り絵のように端正な絵が動くところがすぐにでも商業で活躍できそうな感じだったけど、どうなんだろう。


【5月5日】 なんか見てたら前にドキュメンタリーでやっていた、冨田勲さんによる宮沢賢治をテーマにして初音ミクも使った音楽が放送されていて、居並ぶ合唱団員たちの中に眼鏡っ娘がどれだけいるんだろうかと血眼になって探したけれどそれほど多くはなかったけれどもやっぱりいたりして、それだけで何か歌が巧いような気がしてしまうのは眼鏡っ娘補正がかかり過ぎている現れだろうかと考えると夜寝られなくなっちゃう。いやそこまでは。っていうか冨田勲Pが作った初音ミクの曲って何かあんまり日本語の歌詞をうまく歌えてないような気がするんだよなあ、無理矢理喋らせているというか。がんばって乗せたらしいことはドキュメンタリーでも描かれていたけれど、実際に曲になると歌詞があんまり伝わってこない。ボーカロイドってそういうものかもしれないけれど、歌曲とするならやっぱり、ね。世のボカロPたちの反応を聞いてみたいところ。

   年上で美人で有能で。そんな女性がいたらもう惚れるしかないんだけれど、有能のレベルがちょっとケタ違いすぎて、安易に惚れられないのが悩むところだったりするのだろうか、ゆかりくんにとって。野崎まどの新作小説「なにかのご縁 ゆかりくん、白いうさぎと縁を見る」(メディアワークス文庫)に登場する西院さんという女性は、大学の自治会にあって総務部長の職に就いていて、学生たちから持ち込まれる諸々の相談事だの大学で起こる諸々の出来事だのをテキパキとさばいてあっという間に片づけてしまう。その速度はといえば誰かがやれば1週間はかかる仕事を半日ほどで仕上げるといった具合。その速度で日ごろから仕事をしているものだから、もしも休んだとしたら大学にとんでもない事態が訪れる。

 それは一切の事務が滞りすべての学生が困り果て裏山で猫が子供を産んでどうしたら良いのか右往左往するといった具合。それでも風邪から治って大学に来た西院さんが滞っていた仕事をあっという間に片づけて、ついでに子猫の引き取り手まで見つけてしまったというからもう素晴らしい。それを誇らずかといって臆しもしないで淡々と粛々とこなしている姿を見れば、誰だって惚れそうになるその一方で、誰だって自分が相応しいのかと思ってしまう。美術研究会の会長もたぶんそんな口だったのか、何か理由を付けて自治会の部屋に来ては西院さんの様子を見ていく。そんな姿を新入生として自治会に参加して雑用をやっている波多野ゆかりという男子は何とはなしに眺めていた。そんなある日。

 うさぎが現れた。おまけに喋った。どういうことだ。聞くとどうやらそのうさぎは、人間と人間をつなげる“縁”を切ったりつないだりすることができるという。訝るゆかりくんにだったらとその太くつながっていた縁をハサミのように動かした耳でチョッキンと切ってしまったからたまらない。いったい誰との縁だったんだろう。それがどうして切れてしまったんだろうと悩むゆかりくんに、だったらまた繋いでやるからと、うさぎは彼に人と人との縁をつないだり切ったりする仕事を手伝うようにと命令する。ほとんどマッチポンプなそのやりとり。でも仕方がないないからと縁はうさぎを連れて大学に通い、西院さんに興味を抱く美術研究会の先輩と、その彼にひきこもり気味だった自分に優しくしてくれたからと交換を抱く女子生徒との間の縁をとりもったり、実家の自転車屋を継ぐからと中退して帰ることになった女子生徒に仲間たちがオリジナルの手作り自転車を見せようとする行動を助けたりする。

 家を出て新幹線に乗って東京へと向かいコミティアへ。まずは沼田友さんが新作のアニメーション作品を出していたので購入してとりあえず、目的は果たされたのであとは会場と何を見るともなしにブラブラしていたら懐かしい「ミサキラヂオ」って小説の表紙が見えたんで近づいたら作者の瀬川深さんのブースだった。「文学の想像力」だっけ、そんな叢書として早川書房から刊行されたんだけれどおそろしいくらいに部数が出なかったとかそんな話を前に聞いたこともあったりして、そこから出た本も幾つかはちゃんと文庫になりながらもこの「ミサキラヂオ」だけは未だ文庫になっていないんだった。アマゾンにはまだあるし探せば書店にだってあるだろうけれど、でもやっぱり見かけなくなっているのも事実。三崎あたりを舞台に未来から聞こえてくるラジオの電波を捕まえいろいろ考えるという内容は、近い未来、停滞した未来、それでも生きている未来の姿が描がれたSF的で思弁的な小説なんで、読んでおいて損はないと思うので見かけたら是非に。あとどこでも良いから文庫化希望。瀬川さんによれば新刊も近く出るそうなんでそっちにも期待。SFかな? 青春かな?

 帰って「宇宙戦艦ヤマト2199」はえっと第5話か、イベント上映だとここまで見られるのに何ヶ月もかかったのにテレビだと1カ月ちょいで辿り着くんだから早いよなあ、っていうかそれをテレビのペースで作っていたらいったいどんなクオリティになったんだか、って考えると毎週ハイクオリティの作品を作り続けているテレビシリーズって何かすごい。さて「ヤマト」は冥王星基地をぶったたきに行く古代と山本のその背後で反射衛星砲が炸裂してヤマトがピンチに。巨大な惑星間ミサイルも浮遊大陸も主砲や波動砲でぶち壊して突き進んできたヤマトだったけれども始めて食らう本格的な反撃が、いきなり高度な死角からの攻撃だったのには誰もが驚いたんじゃなかろうか。普通は気づかずに撃沈だよなあ、でもどうにか切り抜けていくことになるはずのヤマト。そこは上映だとつながっていたけどテレビだとピンチで以下次回。まるで知らない人たちはどうなるって思って見ているんだろう。そしてこの先に何が待ち受けていると感じているんだろう。そんな新鮮な気持ちで「宇宙戦艦ヤマト2199」を見られる人が羨ましい。極力先を知らず枚数ワクワクして欲しいなあ。これだけ有名な作品だと難しいかもしれないけど。


【5月4日】 真夜中にNHKで得体の知れないクイズ番組がやっていたんで見てしまったけれど、野沢雅子さんに古谷徹さんという声優界の重鎮2人を引っ張り出しつつ、戸松遙さんとか若手の人気声優さんも出演させつつ、長島“自演乙”雄一郎さんとかも登場させながらどうしてあんなに盛り上がらないんだろうか。正解してもドンガラガッチャンと騒がず当たりました良かったですねといった感じに流れていき、そうやって勝ち抜いて得られるものが賞金とか商品とかでもない1等賞とう栄誉だけでは、見ていて手に汗にぎって興奮するってのが無理難題。あとは出演者の持っている知識なり経験から滲む答えが、正解だったり蘊蓄につながっていたりして、そこから学べるとかいったらまだ見ていられたんだけれど、別にそういったものもなく、淡々と流れていくだけのクイズ番組のどこに的を絞って見れば良いんだろう。いつもあんな風だったんだろうか。それで視聴率とか気にせずやっていけるんだからやっぱりNHK、親方日の丸だよなあ。次もやっぱりあんな感じなのかなあ。

 そしてBS11とかで自宅では見られない「とある科学の超電磁砲」の第2期なんかを見たりして、そうか「超電磁砲」のシリーズではまだ御坂は御坂はクローンとしてつくられたシスターズの存在に気づいていなかったんだと思い出す。第1期ではそういうのってやっていなかったもんなあ。でも「とある魔術の禁書目録」ではその辺りは通過しているから劇場版にも出てくるし、テレビシリーズにだって出てきて暴れたり騒いだりして楽しませてくれる。そうなるまでにあった諸々が、だから今回の「超電磁砲」では描かれることになるんだとしたら、相当にシビアでシリアスな展開なんかが繰り広げられそう。同名の漫画シリーズだと悲しい展開もあったりするし、それを見るのも辛そうだけれど仕方がない、それを経なくちゃ今はないってことだから。だから御坂には気丈に事態に臨んで欲しいと願おう。見られないからヒリヒリする必要がないってのは、逆に有り難いかもしれないなあ。

 もちろん徳島で絶賛開催中の「マチアソビ」なんかに行ってる余裕も甲斐性もないまま、実家に戻って誰にも会うこと無しに夜はひきこもってネットをうろちょろし、昼間はひとりで近所に牛を見に行ったり、名古屋港にある水族館にペンギンを見に行ったりするだけのゴールデンウィークを満喫中。実家のある名古屋に帰ったところで、中学高校の知り合いなんかから電話もメールも一切来ない埒外ぶりは、つまりリアル“多崎つくる”とも言えるんだけれど、東京に立派なマンションを持っている訳でもなければ、美人で年上の彼女がいたりする訳でもなかったりして、人生における勝ち組っぷりを誇りながらも過去にひっかかりを覚えてうなっている多崎つくるとは、まるで違った心理にも環境にもあったりする。

 日常がほぼ完璧に満たされているとも言えそうな多崎つくるにとって、名古屋の友人たちから拒絶されたってのは、自分の完璧であるべき人生に泥を塗られたにも等しい仕打ち。それを拭い、欠落を埋めなければ完璧な人生をコンプリートできないと悩んだエリート君が、放っておいても実はまるで人生に意味の無かった過去を振り返る旅に出て、自己満足を計ろうとしたのがあの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」って小説だとも言える。そんな多崎つくるとは違って、人生のあらゆる部分が空っぽな当方にとって、今さら1つ2つ欠けたところで気にもならない。誰からの連絡もない帰省を送れていたりするのは、負け惜しみではなく有り難い。満たされなければ欠落なんて見えてこないもの。多崎つくるはだから贅沢で、そんな彼の人生探しを読んで面白がれる世間の人があんなに一杯いるの状況は、やっぱりどうにも信じられないない。何で売れたんだろう。やっぱり売れたから売れたんだろうかなあ。妙な社会。

 でもって今日も今日とてどっかに行こうと思い立って考えて、犬山市にある国宝の犬山城へと向かうことにする。それは「境界線上のホライゾン」に出てくるマルガ・ナルゼのあやかりとも言える成瀬氏が、成瀬正成の時代から居城として暮らし劇場の幕末を抜けて明治時代まで持ち続けて来た珍しい城だってことが気になったから、ではないんだけれど去年の秋に帰省した時は折角だからと岐阜城まで行って天守閣まで上った、その続きめいたものとして愛知県に長く住んでいながら実は昇ったことがなかった犬山城に、この際上っておくのも悪くないんじゃないかと思ったというのがひとつの理由。地元にいるとほんと、名勝とかって行かないんだよなあ、犬山だとモンキーパークや明治村は行っても、犬山城は眺めるだけだった。そういうものだ。

 なので思い立ったが吉日と、平針から地下鉄に乗って名古屋駅まで出てそこから名鉄犬山線に……乗り換える必要がないってのがこの20年くらいで大きく変わったポイント。鶴舞線で上小田井まで行けば、そこから名鉄に乗り換えて犬山まで行けるのだ。うまく電車が合えば乗り換えることすら必要なかったりもするんだけれど、今日は上小田井から普通電車に乗り換え、途中で後から来た準急の鵜沼行きに乗り換えてそれで犬山遊園まで行って、川縁を歩いて犬山城の下まで行ってそして天守閣のある場所まで言ったらすげえ人だった。岐阜城なんてまるでスルーだったのにどうして、って去年は別に日曜日でも休日でもなかったか。今日はゴールデンウィークも始まって2日目の書き入れ時。折からの城ブーム(なのか?)でもあるしこの際上っておくかと各地から集まってきては、天守閣まで待ち時間約1時間って行列を作っていた。

 天守閣の下まで行けたんだからまあ十分と、そこで諦めて帰っても良かったんだけれどやっぱりここまで来たんだからと、暑い中を待ってそしてようやく辿り着いた天守閣の中を、細い階段を伝って上え上へと向かって、そして最上階をぐるりと囲った軒下に出て、犬山市から鵜沼からそんな辺りを睥睨しては天下一になった気分を……さすがに味わえないか、岐阜城とは違って。何しろ江戸時代を通じて藩ではなかった犬山の所領。幕末になってようやく認められたけれど、すぐに廃藩置県の憂き目を食らったというからどこか置いてけぼりな感じ。まあだから盛り上がることはなく改易を食らうこともなしに、江戸時代を営々として粛々と、過ごして来られたんだろうなあ、その天守閣ごと。お陰で日本きっての名城として天然記念物となって、こうやって各地から大勢の人を集めるようになった。藩じゃなかったけれど犬山を今なお栄える街にした。何がどう転ぶか分からないってことを学んだ1日。でもやっぱり華々しく歴史を飾りたかったかもなあ。城として。言葉が話せるならどうよって聞いてみたい気分。


【5月3日】 そうなんだチームドーベルマンって世間から優秀と見なされているチームですら「マンザイスリー」だの「ガッカリスリー」だの呼ばれていたんだ「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」。でもやっぱり「ザンネン5」が世間から浴びている嘲笑と落胆にはとうてい及ばないっていうかどこか謙遜も含めての「マンザイスリー」であってやる時はしっかりやって戦線から外れた基地を叩きに言ったら敵がわんさかといて始まってしまった戦闘で、内部に侵入して破壊を目録チームラビッツを守るために敵を引きつけたチームドーベルマンはたった3人で無数の敵を相手に戦い軽く生き残ってしまう。遺言めいたことを喋っていててっきり死亡のフラグでも立ったかと思ったのに。それはまあどこかコメディ仕立てて進む展開ならではのお約束かもしれないけれど、決して楽観できないのはあのコメディタッチの「機動戦艦ナデシコ」だってダイゴウジガイをあっさり死なせてしまったから。今回だって誰か……。でも5人は大丈夫か、主役級を殺して保つ展開でもなさそうだし。胃痛野郎の影が薄すぎるのは気になるけれど。

 すでに見ていたんで再放送が始まっても他と重なっていることもあって録画していなかったけれど、実家だと他に見るものもないんでダラダラと「刀語」の第4話。ああこれはテレビ放送では録画に失敗して見逃して後でブルーレイディスクを買って見た奴だ。それにしてはあんまり展開覚えていなくって、錆白兵との戦いがああいう風だったってことを改めて思い出してほくそ笑む。よくやったなあ。一方で鑢七花の姉の七実はやっぱり史上最強だけれどそのどこか天然に強いってよりは明らかに自分が強いってことを知っていて、それで敵が何をして来ても軽く蹂躙しては嗜虐してのける冷徹さがまた素晴らしい。時々みせるあの上限の月のようなニヤリ笑いも怖いこわい。でもそんな七実ですら七花に敗れてしまうのはどうしれだっけ、自身が刀となるため本来は無刀であるべき虚刀流が完成形変体刀なんて持ってしまったが故に生まれた弱さが出たからだったっけ、ちょっとまた見続けてみたくなって来た。でも無理だな裏でいろいろやっているんだ東京だ。千葉だけど。

 せっかくだからと近所の農業センターへと出むいて牛に舐められた後で、名古屋港へと回って名古屋港水族館を見物する。実は初めて。オープンしたのが1992年だから東京へ(千葉だけど)と出てからだったんでまだ行ったことがなかったんだけれど、極地を再現してペンギンがいるって話は聞いていたんでそれが名物かと見に行ったらほかにもいろいろ名物があってなかなか楽しめた。まずはイルカか。2匹が背面になって泳いでた。なんで裏返るんだろう。サービスか。そしてシャチがいた。グランパスくんとは違ってた。当たり前だ。あとベルーガってのがいた。自動車にそんな名前の車があったっけ。よく覚えていない。イルカがショーをしていた。たいていショーをするから珍しくはないんだけれど、水中からではしょぼく見えた水槽が実は巨大なプールだったことが屋上に出て判明した。巨大なスタンドに人がびっしり。人気なんだなあ。やっぱり。

 神戸ではサメとか大きな魚の餌になってしまって、水槽に入れたばかりのイワシ玉のことごとくが食べられてしまったらしいけれども名古屋港では逆にあんまり元気がなくなっていたイワシ玉を活性化させようとサメをいれたかどうだかで、活性化したらしくってなるほど水槽の中で大量のイワシが束になて右に左に上に下にと乱舞していてなかなかの見物。実際に海の中で見ることなんてないものを、見られるのは水族館ならではの有り難さ。でもやがてサメが力を持ってくればこいつらも食われてしまうんだろうなあ。補食の瞬間とかも見られるのかなあ。名物というペンギンはいたけどペンペンみたいには触れず。当たり前だ。平温を歩いているペンギンなんていやしないわなあ。陸に上がって立っているとヌーボーとした雰囲気で、おまけに空なんて飛べないのに、水中に潜るとスピーディーに泳ぐあたりはさすがというか、不思議というか、そんな鳥でも鳥なんだ。他の鳥は怒っていいかも。鶏とか。何で飛べないんだって。お前もだよ。

 せっかくだからと栄に戻りヨコイでミラネーズを食らってそれから上前津あたりの古本屋をちょろっと舐めたけれども普通の古本屋だよなあ、安く買って楽しむ分には良いけれど掘り出し物が見つかるって雰囲気でもない。それでも本を読んで過ごす暮らしにはそれくらいでいいのかも、ブックオフでは通俗過ぎるし専門店では読むものがないし、っていったところで。そのまま鶴舞まで歩いていってやっぱり古本屋を何軒か。昔はもうちょっとあったような、それともこんのだったっけ、鉄道と航空機と戦車の古書が並ぶ対面にAVとエロ雑誌が並ぶという不思議な攻勢。女体に向かうエロスと兵器に向かうパトスは同じってことなのか。さらに地下鉄でいりなかへと行き三洋堂書店。昔はここが名古屋の東における本の殿堂だったんだけれど今も確かにそろってはいるんだけれどそれでもやっぱり普通の本屋さんになってしまった感じ、2階なんて中古品とか扱ってるし。平針も駅前の本屋とかなくなって新刊書の大型書店がもはや壊滅状態。東京にいては(千葉だけど)分からないけど地方ではもう、本当に本って“死んで”いるのかもなあ。困ったなあ。


【5月2日】 「誰にも見せないパンツは腐敗するのだ。ダヴィンチ曰く、鉄も使わねば錆び、水も用いらざれば腐敗し、寒冷にあたって凍結する、と。女子のパンツもこれと同じで異性の視線に晒されなければ退化し腐る」と、上級生で美少女の生徒会長が訴え男子下級生に女子のスカート捲りをさせるというライトノベルを読んだ。本当だ。そして美少女生徒会長が「ゲーテ曰く、泣いてパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない。つまり泣いてスカートをめくった者でないと、パンツの真実はわからないのだ」とまで言って、下級生男子にふたたびスカートめくりをさせようと煽るライトノベルを読んだ。本当なんだって。

 美少女生徒会長はこうも言う。「ぞうきんはどんなに綺麗なぞうきんでも布きれの価値でしかない。しかし、パンツはどんなに汚れていてもその価値を失わないのだ」。そう言って嫌がる女子生徒までをも説得して、女子どうしがスカートをめくってパンツを見せ合う行為のどこかに優劣を付けるゲームを繰り広げる。なにのために? それはパンツのためならず、男子生徒が女子生徒のおっぱいを揉むためのチケットをゲットするため。そんなライトノベルがあるのか? あるのだ。あって良いのか? あって良いのだ。そのライトノベルとは土橋真二郎さんの「OP−TICKET GAME」。(電撃文庫)読めば知るだろう。たかがでもなければされどでもない、崇高にして偉大なおっぱいを、相手の了解も得て公然と揉むことができる権利のために、男子がスカートをめくりあい、女子がパンツを見せ合うアクションとパッションが渾然となった青春のスペクタクルを。

 電脳世界を使ってみたり、リアルな社会にルールを持ち込んだり、孤島のサバイバルに当てはめたりしてそこに一定のルールを守った一種のゲーム的な空間を作りだし、そのルールに従いながら行動する者たちがあるいは勝利を目指し、あるいは脱出を目論んで戦いあがく姿を描いてきた土橋真二郎さん。時には人だって死ぬし、権力に絡め取られる仲良しに見えた人たちが仲違いもするようなドロドロとした情念が描かれることもあったけれど、ここまであっけらかんとパッションをぶちまける作品はなかったし、なによりおっぱいを揉むためにパンツを見るという、まるで意味が分からないけれどもそう言われればそうせざるを得ないような気にさせられる設定を持ち込んだ作品もなかった。

 実にばかばかしい。とてつもなく空々しい。けれどもあり得ないと斬り捨てられない説得力がそこにはあって、男子はおっぱいチケットを集めて女子のおっぱいを揉まなくてはならない気にさせられるし、女子はそうした男子のただならぬ雰囲気にスカートめくりをする男子につき合い、さらにはパンツを見せ合う勝負に付き合わなくてはいけない気にさせられる。そんな言葉の持つ不思議な力に加えて、さまざまな道具がそこに持ち込まれたスカートめくり勝負で、勝利を目指す条件を探ったり、女子どうしがパンツを見せ合う勝負で、生徒会長がなにを要素にして勝敗を決めているのかを探る必要がある。まさにミステリー。推理力がなければ勝ち残れないその勝負を登場人物たちといっしょに推理し勝利を目指す楽しみがある。

 なおかつそうやって得られるご褒美が、ばく大な財宝だの世界を牛耳る権力だの誰でも傅かせることが出きる異能だのといった、あって欲しいとは思ってもまずあり得ない実現性の乏しい願いなんかじゃなく、すぐそこにありながらも壁に阻まれ手の届かないおっぱいというところがとても良い。眼前に見えて揺れてみたり谷間を作ってみたりするそれに手を伸ばしたくても、自重という心理的な枷があって手をのばせずまた、猥褻的な行為に対する法律という壁もあって伸ばした手を引っ込めざるを得ない状況を、公然をぶち破ってくれるご褒美を、ぶら下げられれば誰だってやってみようと思うだろう。勝利への道を推理し勝利して得られる喜びを想像しながら読もう、そして考えよう、本当にあったとしたらおっぱいチケット、それで誰のを揉むのかを。いったい誰のを揉みたいのかを。

 せっかくだからと村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の聖地でも巡礼しようと名古屋に来たものの、いったいどこが聖地なのかが分からないので名古屋にいるってことがすなわち聖地にいることなんだと理解して、どこにも行かずとりあえず名古屋駅前のチャオであんかけスパゲッティでも食べて良しとする。さすがに村上さんが名古屋のルポで行った店にはいけなかったけれども、だいたいどこで食べても似たようなものなんで良しとしよう。ああでもヨコイだけは麺もごってりならソースもスパイシーな気がするかな。ちなみにチャオは菱信ビルがいつも行ってた場所だけれども込んでたんで始めてミッドランドの裏にある店を利用、広くはないけど新しい作りで普通のパスタ屋さんっぽかった。でも出てくるのはミラカンやらピカタやらバイキングやらのあんかけスパ。ヨコイ的なサラリーマンのお友だち的店が苦手な人はこっちに行くのが良いかも。

 20年前とか30年前なら確実に新書から伝奇ノベルズとして出て、夢枕獏さんや菊地秀行さんたちのフォロワーとして人気が出たような気がする天沢彰さんって人の「霊障探偵白狐」(桜ノ杜ぶんこ、780円)だけれど、今は新書市場が架空戦記と有名人たちのご当地ミステリくらいしか売れない状況では、なかなかに参入も難しそう、ってことでライトノベルから出たのかどうか、分からないけれども読めばなるほどこれは伝奇。ある事件があって新宿に大穴が開いて異界とつながり、漏れ出た霊障で人 間が化け物になってしまう日本にあって、新宿に迷い込んだ人を探す探偵をしている白狐と名乗る少女を主役に化け物とのバトルが描かれる。

 白狐の父親は代々受け継がれていた血筋にある強い霊能力者で、新宿に大穴が開いた事件で将門を甦らせようとする宗教団体の企みと戦って日本を破滅から救ったものの、そのまま消えてしまって新宿はあの世とこの世がつながる場所になってしまった。その責任を感じたのか、新宿から離れずモーターサイクルショップを買い取り改装して住んでは、これも一族が受け継いできた九尾の狐の金駒を相棒に、新宿へと迷い込んだ人を見つけだす探偵の仕事をしていたけれど、それを良く思わない公安の刑事に絡まれたりしてなかなか大変。けれども決して逃げようとしない。

 なぜなら白狐は父親は生きていると信じていたから。そこにいればいつか会えると思っていたから。そして今日も舞い込んだ依頼を受け、財閥の御曹司がなぜか新宿へと向かい消えた事件を追ったその先で、白狐は異国から日本へと何か追ってやって来た奴らの計画に巻きこまれる。その計画とは。白狐に危機が迫りそして救いの手も伸びる。その意外だったり嬉しかったりする救いの手があったり、引き締まった肉体をレザースーツで全身を包みバトルを演じる女刑事の活躍もあったりして、読んでいて楽しい物語。最愛の女性のために身を犠牲にする男の格好良さなんかもあったりして、決断を求められた時に自分ならって考えも浮かんでくる。

 出たレーベルがライトノベル系だけあってバイオレンスもソフトでエロスはなし。伝奇だったら例えば下水道に引っ張り込まれた被害者の女性とか、すごいことになっていたかもしれないけれど、そうした描写を目的にしてしまうとそっちばかりに目がいって、ストーリーが描きたかっただろう真意ってものが後ろに引っ込んでしまう。だから魔界となった新宿に生きる者たちの姿を描き、霊障とならざるを得ない者たちの苦しみも描きつつ、派手なバトルと人間ドラマで読ませる作品として、これはこれでで良いのかも。いったんの決着はみたものの作りあげられたキャラはこれで引っ込みそうもないだけに、是非に続きを、早々に。

 何が護憲派には対米追従が多いだど戯けめ、そう書く筆が讃え崇め奉って足すら舐める改憲万歳な最高権力者が誰よりもアメリカ万歳であれだけやらない参加はしないと言っていたTPPに乗っかり日本のすべてをアメリカに売り渡そうとしていたりするから何をか言わんや。けどそういう指摘を一切しないで最高権力者の考えに弓するものはすべて悪だといった姿勢で筆を進めているから、その最高権力者が無様にもさらしてしまっている矛盾って奴が、まんま筆にも絡んできては支離滅裂ぶりをまき散らす。いったいそれを分かって書いているのか、それとも最高権力者と同じように分かってないで、ただひたすらにお追従を延べているのか。分からないけれどもどっちにしたって世間は見ているしっかりと。その結果何が起こるか、ってのは言うまでもないことなんだけれど、しかしやっぱり困ったなあ。


【5月1日】 ああそうか、五輪の東京招致で先頭に立って他の立候補国を貶めるような発言をして、それを指摘されても即座には謝らず、指摘したメディアが何か陰謀をめぐらせているんだ的な反応を示して苦笑を買い、反発もくらって慌ててすいませんあれは言葉が足りませんでしたと取り繕ってはみたものの、その後も味方してくれた人がいて、敵もいてそれが分かっただなんて嘯いている都知事こそが、東京への五輪招致という大目的に立ちふさがる最大の敵であって、そんな都知事に味方している人たちも、つまりは東京への五輪招致の足を引っ張る敵だってことを言いたいんだな、都知事のあのツイートは。なかなか分かっているじゃないか、自分の立場ってものが。その勢いで五輪招致をクラッシュして東京の平穏を守りたい反対派の味方として、讃えられ崇められてやって下さいな。

 しかし訳が分からない一連の言動。本当はやりたくないことを、前の知事から任されてしまって仕方なくやっているけれども、それをどこかでぶっつぶすチャンスを画策していて、ああいった感じに失敗を所々で披露しては、東京から五輪を遠ざける方向へと持っていっていたりしているのか。それは冗談としても現実問題、東京に五輪を招致したいという立場にあってそのリーダーとして行動している人が、何を言って良く何をやったらいけないかをわきまえていなかった、ってのは相当なダメージ。なおかつそんな自分の失敗を、とりあえず謝ってみせたものの、心底では今なお失敗と認めていないからこそ、自分の言い訳を支えてくれた人たち、すなわちアメリカの報道の仕方を非難した人たちを味方と言ってたりするんだろー。

 そんな内向きさが今回の国内向けに言い訳しても世界では通らず、全面的に謝るというみっともなさを生んだことを、分かってないような雰囲気。もしもこのツイートが翻訳されて全世界に広まってしまったら、敵っていったい誰なんだ、それは掲載したニューヨークタイムズのことなのか、もしかしたら蔑んだことに反発を食らわせてきたイスラムのことなんじゃないか、なんて憶測を呼んでさらに激しい炎上をまねきかねないし、たぶん起こるだろう、それだけ注目されているってこと、イスタンブールにとっては勝利を掴む上での相手の大きなウイークポイントに見える訳だから。そうはならなくても、同じことをきっとまたどこかでやらかしそう。これが五輪なら良いけれど、都民の生活に関わるようなことだといったいどうなってしまうんだろう。まあ都民じゃないから関係ないけど。関係ないで済むかなあ。

 愛する形の様々ってのが描かれた漫画って言えるのかなあ、藤ちょこさんが描いて倉田英之さんが原作を手がけた「R.O.D REHABILITATION」(集英社)は。言わずと知れた倉田さんによる小説であり漫画でありアニメーションにもなった「R.OD」を下敷きにしたものだけれども読子・リードマンって大英図書館に所属した紙使いにして本好きの眼鏡巨乳美女が大活躍したそれとは違って今回の漫画は読魅子なる存在が主人公。やっぱり眼鏡をかけた本好きの美女に見えるんだけれどそれは紙でもって作られた外側の姿で、それが剥がれ落ちた下にはまだ幼い姿態を持った子供がいたりする。やっぱり眼鏡をかけているけど。

 そんな読魅子が目指しているのは世界のあらゆる本を読み尽くすこと。そして世界には本がいくらだってあるから読み尽くすまでは死ねない読魅子はずっと生き続けて本を読み続けている。とはいえ世界は電子の時代で本なんてものは特殊な物になっていて、愛書都市(ビブリオポリス)って場所に集められ持ち込まれてそこで愛書家たちの所有物だったりして収蔵されている。読魅子はそこに乗り込んでいっては、稀代の愛書家たちが自分のためにだけ書いた本とか、誰にも読ませることなく自分ですら読むことをしないで厳重に保管した本へとあらゆる手練手管を使い迫っては順々に読んでいく。

 そんな読魅子の冒険と探索のストーリーは、本というものに対する持ち主のさまざまな愛情の形が描かれ、そして読魅子の“読む”という本への愛の形が描かれぶつかり合ったりする。勝つのはどっち。そして読み尽くされた後に残るものは。凄まじいばかりのバトル描写とそして成人から少女から幼女へとさまざまに描かれる読魅子というキャラクターのビジュアルも楽しい1冊。すべてが読み尽くされた後に果たして読魅子はどうなるのか、ってところも興味だけれどそこはさすがに人間だけあって表現が衰える時はない。だから……。そういうこと。これ1冊で完結だけれどこれを拠り所にして倉田英之さんもリハビリを終えたみたいでいよいよ文庫版「R.O.D」の完結へと動き出した模様。いったいいつごろ出るのか。それはどんな形になるのか。待とう今年中って話だし。今年度中じゃないよなあ。

 やっぱりスベスベマンジュウガニは食べちゃだめって辺りしか覚えられない主題歌を過ぎて「あいうら」は遂に先生たちがひとそろい登場。男性教師は良いとして女性教師の1人はまるで学生といった面もちで制服まで着てそれが似合ってもうクラクラ。でも三十路。どういうことだ。って「とある魔術の禁書目録」の小萌先生を見ていれば何だってありか。彼女がとんでくるりと回ったシーンはとっても良かった。そしてやさぐれた感じの先生も登場。きっとやさぐれているんだろうなあ。スタイルは抜群なのに。そんな2にと男性教師を入れてこれでだいたいオープニングに出てきた面子はそろったかな、始まって1カ月くらい。でも進んだのはアニメのエピソードの1話分にも及んでいない。それなのに結構な話数を見た気になっている5分アニメ、恐るべし。そういう形態がこれからも流行るのかなあ。「クレクレタコラ」の時代よ再びって感じかなあ。「タコラ」は別にアニメじゃないけど。「ウルトラファイト」? それもアニメじゃないってば。


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