縮刷版2013年3月中旬号


【3月20日】 お兄ちゃん大好きってな妹に迫られるって話にしても、妹の様子が兄として気になって仕方がないって話にしても、世にわんさかと溢れかえっていて正直だからどうしたってな感じになっているから、ここに三木なずなさんって人の「チェリッシュ! 妹が俺を愛しているどころか年上になった」(集英社SD文庫)って本が、並んでいるだけではまたそういう話かよって気分になって、ちょっと手を伸ばしづらい。よほどそいういうジャンルを専門に攻めているか、あるいはそういうジャンルに魂を惹かれている人でなければ、展開よりもむしろ絵を見て作者を見てレーベルを見て、買っておくかどうするかって分水嶺に立つだろう。

 だから言っておく。「チェリッシュ! 妹が俺を愛しているどころか年上になった」はちょっと凄い。よくある妹物の先鋭化かと思っっていたら意外や妹の兄への深い愛にあふれていて、そのために身を賭して挑む妹の少女の強い信念が響く作品だった。なるほど自分が兄より年下なのが気に入らないからなのか、もとよりの天才と発揮してこれまでいろいろ兄に対して重ねてきた実験の新たな段階として、兄をコールドスリープで眠らせその間に自分が成長して、年上になってしまおうとする手段もぶっ飛んでいるし、そうやって目覚めた兄を、ことある事にちょい成長した姿態で挑発し、授業参観があるからといって保護者として姉みたいな妹として見物にいって、さらに持てる天才を生かして講師として檀上に立って、兄ばかりを贔屓したりもする愛しっぷりも弾けている。

 中学生のまま2年眠っていたから、やっぱり中学生として通う学校で、自分が作った部活部に顔を出したら前は後輩だった2人がまだ残っていて部活として続いていて、そこに目覚めた兄はそのまま部長として就任して、目の悪い癖に度の合った眼鏡をかけようとしない部員の少女のドタバタを受けたり、別の少女のクールなツッコミを受けたりしながらやっぱり前は部員で、今は高校生になって講師にもなって顧問になってしまった妹がやって来るのを受けたりする、楽しげな学園生活を送り始める。けれどもその“復活”の裏にあった諸々が、浮かび上がってくるに連れて妹の、兄への強すぎる愛情ってものが見えてくる。

 妹が見せた天才を手放したくないと、彼女が研究に協力して来た企業から送り込まれてくる少女との戦いも挟んで、そこまで強引に兄を引っ張り回そうとする妹の言動にも納得してあげたくなる。そんな妹が、いわゆる「お兄ちゃん!」な舌足らず系でなく、「安心しろ兄様。年上になっても最愛の妹だ。(性的な意味で)」って感じに上から目線の居丈高系なのも、読んでいてまとわりつかず責められるようでなかなかに好感、っていうのもちょっと変態っぽいか、でもカラリと慕われているのはなかななに気持ちいい。そして妹の持つ天才が、企業のみならず国家レベルにまで絡んでいそうな雰囲気もあって、その総力が詰まった兄の存在をめぐっていろいろ動きもありそう。書いた人は完全なる台湾の人なのに、よくもここまで達者な言葉と物語を作りあげられたものだと感心しつつ、そうした条件を別にした筆力だけでも、ちょっと期待したくなる。さてどうなるか。続くのか。待とうその筆先から物語が生まれる時を。

 この前はアーウィン・ブルーメンフェルドを見たわ、今日はエドワード・スタイケン、って言葉が何かの本に載っていたかは別にして、ファッション写真に斬新と革新をもたらしたアーウィン・ブルーメンフェルドを見た関係もあって同じように商業写真の分野で、それもブルーメンフェルドと同じファッション誌で活躍していたエドワード・スタイケンって人の仕事に興味を抱いて、展覧会が開かれている世田谷美術館へと向かう。ここに行くのってもしかしたら10年ぶりとかそんなもん? 久しぶりに降りた用賀はサンマイクロシステムズの看板の代わりにオラクルの看板がくっついたビルの下が整備されて人がいっぱいいたりして、そしてそこから美術館へと続く道も陽光にあふれていい感じに散歩道となっていた。20年くらい前から行ってたように思うけれども当時も整備はされていても、賑やかさより静けさの方が上にあったからなあ、そんな頃に住んでおけばと思うけれどもそんな頃は高すぎて。そして今もやっぱり高すぎるという、情けない状況に。上に行けない自分が悪いんだけれど。

 んでもって「エドワード・スタイケン写真展」。写真家として何か強烈な仕事をしたって感じではなくって、1920年代とか30年代とかってあたりのファッション誌に、端正なモデルとファッションの組み合わせを、モノクロ写真で提供していたって印象。ポーズはだから背中を見せてちょい見返り美人だったり、足を重ねてすっくと立ったりと標準的で加工を施し歪めたりして、画として極めつつファッションの印象もしっかり残すブルーメンフェルドの前衛とは、やっぱり時代が1つか2つ違ってる。それでも写っている人は当時の女優や男優や歌手やスポーツ選手だったりと有名人が揃っていて、そういう人が撮られたがった写真家であると同時に、そういう人の当時を今に伝える貴重な仕事をした人なんだって思わせる。チャップリンにチャーチルにフレッド・アステアにゲイリー・クーパー。その人たちの1930年代とかって銀幕とかニュースとかじゃない顔はあんまり見かけないし。

 ただ時代が経つにつれて普通に立ちのポーズじゃないポートレートが増えてきたのも面白いところで、無地のバックに顔だけ見えてそれも腕で頭を抱えたようなグレタ・ガルボとか、顔を大きくして角度もまっすぐじゃなく傾けたマレーネ・デートリッヒとか、ポートレートであってもブロマイド的じゃないというかそんな感じになっていて、ただ美女を撮るだけじゃなく美女の何か内なるものまでをもそこに現そうって思ったような雰囲気が感じられた。突き詰めていった後にあるいはズラリと並ぶポーズ写真とは違った活動があったのかもしれないけれど、この展覧会は「モダン・エイジの光と 1923−1937」って副題にあるように、そうした時代のモノクロ写真だけで構成されていたんで分からず。結構長生きした人みたいなんで、その後に何をしたかをちょっと調べてみたくなった。ブルーメンフェルドとは交流、あったのかなあ。いずれにしても比べてみると時代の流れとそして進化が分かって面白い2つの写真展。こういうのがまとめて見られる東京って良いなあ。

 そして気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉が順調にJ2と中位で突っ走っていてこのままやっぱり昇格争いに加われないままJ2に沈んでしまいそう。20位にさらに沈みきった東京のチームがあるから救いといえば救いなんだけれどもともにいっしょにJ2を賑わせ続けるのもオリジナル10としてどうなのよ的な思いも昨今むくむく。落ちてきたばかりのヴィッセル神戸が最新では負けたとはいえちゃんと上位にいて京都サンガも頑張っていてと順調に戻る構えを見せている。ガンバ大阪はといえばガイナーレ鳥取に松本山雅より下だったりとちょいヤバめだけれどまあ、そこは何とかなるような、ならないような。そんなことよりやっぱりジェフ千葉だけれどいつもスタートダッシュできないのは何なんだろうなあ、負け癖というか萎縮というか、そんな気分が拭えないのかなあ。まああと2カ月は様子見。その頃に変わらないようなら替えた方が良いかもな、選手を? 監督を? 贔屓のチームを、ってそれはないけど、でも……。

 このネット時代に広く自分の存在を世の中に認知してもらって、それで評判を呼んで仕事ももらって食いつないでいくためには、いささかの自己顕示ってものも必要なようでそれがなければ有象無象が跳梁跋扈するネットの中で、次から次へと現れる人たちによって押し流されて忘れ去られてしまう。だからとあるアナウンサーの辞めたのどうだのっって記事が出たその日に、当のアナウンサーが「駅の売店で朝日新聞を二部下さいと言ったら店員さんが『二部? 誰か載ってるんですか?』と聞くので小銭を探し俯いたまま『僕です』と言ったら…」ってツイッターに書いて、自分が新聞に載るくらいの話題の中心地にいるんだってことを、世の中に改めてアピールするのも戦略としては至極真っ当だったりする。

 けれども、自分のことを取るに足らない人間で、たとえネットで20年近く物を書いていようとも、そしてそれ以外の部分でいろいろ発信して来たとしても、それは遙か以前より活動している先人たちのつま先にも及ばないものなんだと、謙虚さを通り越して自虐の域で思ってウジウジしている人間には、ああして自分の存在をさりげなく自慢げにアピールできるのってひたすらに眩しく映る。ああ目が眩む。新しいローマ法皇なんかと自分を比べてしまえるってのもまた凄い話で、店員さんの冗談だったとしてもそれをそのまま紹介できるのって相当な勇気がいりそう。いやそれは自己アピール力が足りていない人間だからそう思うだけなのか。前に出るにはそれくらいのパワーが必要なのか。

 なるほど地味に生きている人間だったら、自分がそこに載っていようと普通は黙ってラックから2部抜いて、駅の売店の店員さんに渡してお金を払うだけで、向こうが何で2部なん? と聞いてきたら自分が載ってるんでと言うかもしれないけれど、アナウンサーの人は恐らくはラックとそれから雑誌群を挟んで奥にいる店員さんに、新聞を2部取ってくれって言ってしまうんだから偉いもの。向こうもそりゃあ何事かって思うだろうなあ、自分で取れよとかってことは商売なんで口には出さないけれど。いろいろな人に支えさせて上に行く人は上へと駆け上がっていく。それができない引っ込み思案は一生地べたを這いずりまわりながら、それでもささやかな自己顕示欲をこうして小出しにしていくのです。寝よう。


【3月19日】 なんか「BLACK LAGOON」のブルーレイボックスが6月とかに発売になるって情報が回ってきて、オフィシャルサイトを見てもそういった予定はあっても日程とか内容とかにはまるで触れられていないんで、どこまで本当なのかは分からないけれどもアマゾンのページに行くと、何でも第1期と第2期とそれからロベルタちゃん大爆発のOVAがセットになった上にスペシャルブックレットが入り、アニメオリジナルサウンドトラックが入り、それからOVA第3期のサウンドトラックまでセットになっているとかでこれはもう、買うしかないんだけれども僕、すでにDVDで出た第1期と第2期を全部揃えている上に、それらがブルーレイディスク化された時も全部初回でかってそして、OVA版もすべて初回で買いそろえているんだよなあ、その上にボックスってやっぱり買うべきなんでしょうか? レヴィ。「ったりめぇだッ!」。そりゃそうだ。

 アンディ・ヒノミヤも兵部京介もESPを使わなければただの人間な訳で、鍛えられていたところで追いかけ回してくる兵器を相手に大立ち回りを演じたり、撃ってくる弾とかを避けたりすることなんて出来ないはずなんだけれどもそこはそれ、スーパーヒーローは傷つかないってことで、敵の本拠地へと潜入した2人はどうにかこうにか逃げおおせ、ちょっぴり追いつめられたけれども味方の登場でどうにかこうにか切り抜けそして最後の敵を相手にいよいよ最終決戦へと望む模様。そこに現れたのが操られたユウギリちゃん。他人に悪夢を見せる力をフルに発揮してあの不二子ちゃんまで沈めてしまうんだから相当な能力者って言えそう。兵部だってこれじゃあかなわないかも知れないけれどもそこはそれ、ESP能力をゼロにするアンディ・ヒノミヤの存在も加わって2人で切り抜けていくことになるんだろう。さすがはスーパーヒーロー。って2人とも悪の組織の一員ってことになっているんだけれど。世界はやっぱりクイーンによって破滅させられるのかなあ。

 雪風か、あるいはキャシャーンか、といった感覚がふわっと漂った十文字青さんの「果てなき天のファタルシス」(星海社FICTIONS)は、何か外敵によって攻められた人類が幾つかの分断された都市に別れて暮らすようになる一方で、まだ学生のうちから手に武器を取って攻めてくるファタルという怪物を相手に戦い続けているという設定のストーリー。主人公の少年は何か理由があって意識を失っていて目覚めたらそれまでの記憶がまったくなくなっていたけれども、それでも学校に復帰してクラス単位での戦いに身を投じることになってそれまでの自分の立ち回りを知らず、周囲の戦いに参加できず貢献できない自分に不甲斐なさを感じて身もだえする。とはいえ戦えば傷つく周囲を見渡し自分ならではの立場を考える主人公。そこにかけられるひとつの声。世界の謎。そして……。

 人類を追いつめるような敵なのに、一気に攻めてくるって感じじゃなくって戦力を小出しにしながら人類の気勢をそぐような感じなのはなぜなのか。そういえば似たような設定の話を少し前にも読んだ気がするけれどそれはどちらかといえば人類にある悪意が集合無意識となって敵を生みだし拮抗した状態から永遠の戦いを求めていたから。「果てなき天のファタルシス」の場合はもっと別の理由もあったりしそうなんだけれど、都市が地下を長いトンネルで繋がれながら互いに助け合い、存在できていることの不思議とも合わせて敵の正体って奴が示唆される。雪風のジャムみたく人類とすれ違いの双方向性を持っている感じでもないし、キャシャーンのアンドロ軍団のように人類を明確に滅ぼそうとしている訳でもない、その中間にありそうな不思議な敵との戦いで人類はいったい何を知るのか。それを読んで僕たちは何を感じるのか。乾いた空気感の中にそんなことを思わせる1冊。

 冷めた目で状況を見るなら、巨大なメディアの軒先を借りて発言していたことによって衆目を集め、それに気を大きくして衆目に向かって受けそうなことを言い続けていたら、そうした衆目でもよりリアクションの大きな勢力が関心を寄せて喝采を浴びせ、それにさらに気を良くして気持ちを大きくしてそうした勢力に倣うような言葉を吐き続けていたら、知らずいつのまにか世間の中心からズレてどちらかといえばカルト的な方面へと足を踏み入れてしまていたにも関わらず、そうした喝采の中にいればそれが中心線だと思い込んでしまった挙げ句、メディアに携わる者として絶対に必要な中心線から左右を眺める公平性が殺がれてしまって、けれどもそれに気付かず自分は正しいんだと思い思わされてしまった結果、起こったのは組織との軋轢。それを自分の正義からずれた悪だと認識し、断じてしまってはもはや組織としてもかばいだて出来ないから排除したという、それだけのことなんだけれど偏った側に立つ者たちにとって、そうした真っ当な振る舞いさえも弾圧に見えてしまうという、何というかどうしようもないというか。

 っていうかどうして反原発ばかりがジャーナリストとしてのイシューなんだろう、見渡せば世界には貧困の問題もあり、飢餓の問題もあり、差別の問題もあり、個々の生活が脅かされているような問題が山ほどあって、そうした方面も原発問題に限らず早急の解決が求められている。にも関わらずそうした方面いんこそ傾注して大きなメディアを通じて改善を図り豊かさを求めていこうっていう信念にはならず、ひとつの“正義”が否定されたらそれは自分が否定されたに等しいと、考えて弾けてしまうのははっきりいってもったいない、だってそういった数々の問題にアクセスして発進できる立場にあった訳だから。料理番組だっていいじゃないか、そこでの1言が何かを変えることだてあるし、立場が維持されれば、そこから発進される言葉にも私的なチャネルを通してでも意味が生まれる。力もついてくる。なのに捨ててしまった。

 あるいは自分にとってやりたいことが反原発という問題だったのかもしれないけれど、それだって長くもう何十年も前から頑張って調べ報じてきたフリーのジャーナリストがいっぱいいるし、団体だってある。そうした人たちに大手のメディアで得た発進力だけを持った人間が、発進力を失った状態で入っていったい何ができる? むしろ自分の立場を守りつつ、そこから頑張ってきた人たちを取り上げ世に広めていくことのほうが、“正義”の遂行に早道だし大きな威力も破棄する。それこそがパブリックアクセスというものの実践じゃん、外からこじ開けるより中から開いたほうがよほどか楽だし、可能性もあるんだけれどそれでは自分はヒーローにはなれない、裏方にしかなれない。衆目を浴びて吹き上がってしまった頭には、自分こそがという思いがはちきれんばかりに詰まってしまたんだろうなあ。でもしょうがない。あとは活動のための活動にならないことを祈りつつ、遠目に様子を眺めていこう。


【3月18日】 ええっ、KTって女性だったの、て知ってたけど知らなかったかもしれないというか、どっちにしたってそれが披露される機会もなかったからどっちでも良いっていうか、そんな「イクシオンサーガDT」は先週の太陽に大都会な展開をまるで無駄遣いするかのようにして、本筋へと戻って紺たちが帝国と領主と教団の3方に戦いを挑もうとしては、マリアンデールにセングレンにエカルラート姫のそれぞれの兄が現れ、これはかなわないと撤退する始末。なおかつ紺には不運がおこってそれで汲々としていたところに謎の女が現れ治療を施しさあ最終決戦だ、でも死兆星見えてるなあ。しかしいったどこが落としどころになっているんだろう。このまま「俺たちの戦いはこれからだ」で終わっても文句はいわないけれど、でも何かひとつ結末って奴を見せてくれたら今期1番のアニメーションになったかも。かもってそうはならないって確信が? 割とある。

 でもって「問題児たちが異世界から来るようですよ?」は、なぜか10話で放送が終わって一般的な1クール12話にすら届かないという不思議。でもこの先を何話かオリジナルで埋めて無駄に制作費を使い、そしてユーザーに大変な金額のパッケージ代を支払わせるよりは、すぱっと終わって買いやすいサイズにした上で続くストーリーをどうやってアニメ化するのかに力を注いだ方が良いって判断も成り立つんじゃなかろーか。この後は戦いもどんどんと激しくなって話数も欲しくなるだろうし、ってどんな戦いがあったっけ、十六夜が例のヘッドホンを失ったりして春日部耀の父親がかつて箱庭世界に来ていたことが分かってそしてど派手な戦いがあったってことは覚えているんだけれど。まあそれもまたアニメの第2期が始まれば分かること。きっとやってくれるんじゃないかと期待した待っていたら何年経っても始まらないとか、あるのかなああるだろうなあ、「神様ドオルズ」なんてどうするよあそこで終わってしまって。

 総武線が使えないみたいで東葉高速鉄道の海神駅から乗ろうとする前にコンビニで平野耕太さんお「ドリフターズ」第3巻を買ったら、中に「月刊ヤングキング」が8月19日発売号から大きく変わるとかリボーンとかって書かれたチラシが挟んであった。いったいどうなるんだろう。想像するなら東京ひよこって漫画家による「プロスパイ」って新連載が始まるか、神戸さくみさんの「龍一くんライブ」の続編が始まるか五十嵐浩一さん「ペリカンロード」の新作がスタートするかなんだけれども、意表をついて「サイクル野郎」が新構想のもとに「サイクルお嬢」として女性を主人公に買えて今どき珍しいランドナーでもって日本全国を一周する話とかが連載されたりするに違いない、ってある訳ないか流石に。今の「月刊ヤングキング」ってSFもあったりエロもあったりと不思議なポジション。それを整理してどちらかに偏らせるのかな、あるいは「ヤングキングアワーズ」との統合とか。むしろそっちかなあ、今どきの出版事情からすると。うーん。「ワイルド7」再連載とかあったら逆立ちするね。

 そんな「ドリフターズ」の第3巻はだいたい連載で読んでいるから覚えているけども改めてみてもオッパイーヌはおっぱいだなあ、ってそこかい見るのは。そのとおり。でもって活躍するのは主に豊久信長与一の漂流者チームがドワーフ救出に乗り込む場面で、得意の石版作りの腕前を存分に発揮しては間接的に鎧をまとった重騎士たちを焼き殺すお手伝いをしちゃったり、壁に石版を生やせて豊久が駆け上るのをお手伝いしたりとなかなかなもの。そんなオッパイーヌを率いる安倍晴明からも実は実力ナンバーワンとかお墨付きをもらっているけれども要は用兵次第ってことなんだよなあ、ってことに織田信長も気付いたみたい。稀代の軍略家にして戦争マニアの信長が気付いたってことは連戦連勝? すでにヒトラーもそうやって国を作ったりしているから。でもあんまりそういうのに興味なさそうだし。どこに落とすつもりなんだろう、この話。帰着が見えないってのもまた楽しいということで。

 そして気がつくとWBCが終わってた。プエルトリコを相手に1点で抑えていたところまでは良かったんだけれど、2点を追加されその一方で日本は打線がまるで繋がらないまま1点をどうにかこうにか返しただけでゲームセット。最終回で1人出したもののその後で三振に凡退ではどうしようもない。というか失点も別のキャッチャーだったら防げたかもって話も出てきそうだけれど、それでもやっぱり3点を超える点を取れなかった打線がやっぱり悪いってことで、っていうかその打線の湿りもリードでのミスも同じ選手じゃん、ってやっぱり阿部が悪いってことなのか。TPPでは安倍が悪いんだけれど。これで3連覇の夢は破れ山本浩二監督もお役ご免。広島カープの監督になる目もなさそうだし、現場に出るとしたら次の楽天の監督とか? それもないかなあ、星野監督はあれでチームでちゃんと勝っていたからなあ。お疲れさまでした。次はやっぱり落合監督を。せめて古田監督とか。

 桜ノ森ぶんこでは「かんづかさ」に「屍は美少女の香り」といったシリーズを出して活躍しているくしまちみなとさんが、創芸社クリア文庫から「緋の水鏡」を上下巻で出したんで読んでみたらメイド姿の美少女がケブラー繊維の傘の柄にショットガンを仕込んで敵をぶち抜いてた。ロベルタかい。それはそうとして展開は地方の旧市街で長く暮らしていた一族の主人にその甥が、両親の事故死をきっかけに招かれ一色に暮らすことになった矢先に叔父が惨殺されてしまう。甥の少年が行って調べるとどうやら得たいのしれない怪物が跋扈していた様子。そして少年を狙ってさまざまなバケモノの類が現れるという展開は、学校の50数人が一気に惨殺されたりと壮絶な展開を含んだ上巻を過ぎて下巻に入って、知人や友人が次々に惨殺されていく中で保てなくなる正気ってものが描かれる。そうした状況を経て少年は自分を取り戻せるのか、それとも闇に落ちるのか。クトゥルフ的な設定に日本古来の民俗学的要素も入れこみ描いた伝奇ストーリー。自分を捨てて全てを救うことが君にできるか。

 都会から逃げちゃった少年が逃げちゃダメだと田舎で巨大ロボットに乗せられて、何処からともなくやってくる敵と戦い渋谷を壊滅させたり復活させたりした下村智恵理さんの「エンド・アステリズム」(集英社スーパーダッシュ文庫)に2巻が登場。開いたら口絵で少年が男の娘から告られていた。羨ましいなあ。それはさておき最初の登場で敵を倒すためとはいえ、渋谷を砂に変えて大勢の命を奪ったりしたことで負い目を感じていた主人公の少年。彼に優しくしたのにコンパスをくらい目を潰された同級生の少年までもがそこで死んでいたことを、彼女だった同級生から聞いてさらに気分を落ち込ませるけれど、敵は待まってくれず現れ日本に東京に迫ってくる。別に男の娘もいろいろあって戦線離脱。果たして主人公は戦えるのかといったところで理解されてもされなくても、戦う勇気というものを試される。しかしいったい敵も味方も何をしたいんだろうなあ、そこが見えてくるとさらに深淵なストーリーになっていくのかも。でも長大シリーズ化は勘弁。「マルセル・プルースト『失われた時を求めて』」「読んだ?」「いや。だってライトノベルみたいに巻数あるんだもん。君は?」「読んだ。確か……中一の頃だったような」って会話もあるくらいだし、そうはならないと思うけど。うん。


【3月17日】 やはり原典を見て置かねばと、東京都写真美術館で見たアーウィン・ブルーメンフェルドの写真展にあったナタリア・パスコをモデルにした「アフター・ラファエロ」の、多分大元になっているだろうイタリアの画家、ラファエロの絵を見に国立西洋美術館へ。ロダンの像を見上げつつ入ったラファエロ展の冒頭に掲げられたそれは、なるほどブルーメンフェルドの写真の大元として衣装とか構図とかがそっくりだったけれども顔が違った。栗原類さんだった。ナタリア・パスコのように凛として強烈な眼差しを向けてくるというよりは、どこか気怠げにネガティブな表情を湛えつつ世間を下目使いで高い背丈の上から見るという栗原類さんの表情がそこにあった。現代においてようやく世に出た栗原類さんを、500年も昔に再現していたとは驚いたよラファエロ。さすがは綿の国星の王子様……ってそれはラファエルか。野沢那智さんが声をあててたんだよなあ。

 いやだからラファエロだ、その自画像はなるほど栗原類さんだったけれども掲げられた絵はどれも精緻に滑らかに描かれていて、ルネッサンスに期にあってダヴィンチやミケランジェロといった画家と並び称されながらも他の2人とはまた違った優しさと完成度を持った画家だったんだなあと思わせる。それ以前の背景も人物も様式化されているのとは違っているし、それ以後のタッチが粗くなりながらも人間の本質をそこに定着させようとする技法とも違う写真に近い美。それでいてしっかりと絵としての様式も盛り込まれて普通に見たのでは見られない風景なり宗教上の人物をそこに描き上げる想像力と技術力が、合わさって産まれた奇跡のような作品っていうことなのかも。なるほどだからフォトジャーナリズムとは違う様式を持ちながら形式におさまらない写真を目指したブルーメンフェルドが真似たのかもしれないなあ、って勝手なことを言ってみる。どうなんだろうその辺り。

 何か有名らしい「大公の聖母」という作品が来ていてこれが背景が真っ黒な中に聖母子が浮かび上がった作品で何となく、ブルーメンフェルドが「アフター・ラファエロ」で採用した真っ黒な背景に真っ黒な衣装の女性の顔がぼっと浮かび上がる写真を思い起こさせたけれども、説明によればどうやらその塗りつぶしは後年行われたそうで描かれた時点では別の背景がちゃんと描かれていたんだとか。どうして塗りつぶしたかは汚れたか、あるいはそういう様式が流行っていたからか分からないけれども結果として、見て深淵にしてシンプルな印象を醸し出す逸品になっているのは何だろう、後年になってそれがラファエロとして評価されたことを受けて気持ちがそう判断してしまっているからなのか、それともやっぱり写楽の銀バックな大首絵じゃないけれどもシンプルなものを愛でる傾向が日本人にはあるからなのか。大公はずっとこれを持ち歩いて掲げ続けたっていうから気に入ってたんだなあ。いつか模写でもいいから枕元に掲げられるような身分になりいたいなあ。無理だって。

 出た足で国立科学博物館でやってる干し首を……見に行くのはパスして東京都美術館で開かれている「エル・グレコ展」へ。改装されてからのここは中の上下の移動がエスカレーターになって年をとった身にはとってもありがたいのであった。あとエスカレーター脇にスペースがあって椅子がおかれて休むのにもちょうどいいというか。国立近代博物館の4階にある皇居を見下ろす眺めのいい部屋に継ぐ美術館での休憩どころ。とはいえ特別展を見終わった後でしか入れないのが残念。んでエル・グレコ。別にメル・ギブソンとならんでギターのクラフトマンという訳ではないしそもそもメル・ギブソンは俳優であってギブソンのギターを作った人ではない。それをいうならエル・グレコだってグレコとは関係ないけれど、でも同じ名前なのには何か理由があるんだろうか。うーん。

 いやだからエル・グレコ。その作品を入って見た感想はといえば「顔色が悪い」。灰色だったり沈んだ青だったりといろいろあるけれど、すぐ前に見たラファエロのどれも血色の良い顔とはまるで違った色をしている。描いたモチーフは同じ宗教家であったり権力者なのに、こうまで違うのは何だろう、ルネッサンスとはガラリと変わって当時は栄養状況がぐっと悪くなってそれをリアリズムでもって絵にしたからなのか、それとも人間が本質的に抱える原罪を顔色の悪さでもって表現しようとしたのか。うーん。というのはまあ妄想に近い解釈なんだけれども、産まれたギリシャのクレタに過ごしたイタリア、そしてスペインの陽光降り注ぐ環境に在りながら、そこから湧き出す陽気を抑え、あの色を使ったのにはきっと強い理由があるんだろう。衣装の赤とか背景の青とかとのバランスの中に、自分物を置いて沈ませつつ存在感をちゃんと出すために。とかいった。

 人物表現も胴体が引き延ばされたりポーズが歪められていたりと、端正で精緻なリアルを追求したラファエロとはまるで違った雰囲気。ミケランジェロの方が特徴とした構図とかポーズとかが広がり発展したマニエリスム様式の渦中にあって描かれた作品ってことなんだろうなあ、美術史とかよく分からないけど事典によればそういうことらしい。あとはタッチも粗くなっててさらに100年後に出てくるスペインの画家のゴヤのよう。きっとそうやって繋がって行っているんだろうけれど、だったらラファエロはどこに行ったんだというとそれはブリューゲルとかが使った工房のシステムに引き継がれてフランドルへと流れてルーベンスとかフェルメールとかに繋がっている、ってことになるのかな、ちょっと勉強したくなってきたけど、あんまり役に立ちそうもないからいずれ引退してからでも。

 とくに立ち寄らずに帰って戸梶圭太さんというライトノベル新人作家の人の「おじいちゃんもう一度 最期の戦い」(オークラ出版)の感想を書いたり同じNMG文庫から出た清水文化さんの「紅ヴァンパ ようこそ紅浪漫社へ」を読んだり。清水さんの方は事故から奇跡的に回復した少女に実はひっそりと行われていた謎の治療が少女を変質させていて、それが古くから生きる錬金術師的な存在による策謀で、勢力を集めるその錬金術師にとらわれる前にそこから目覚め逃げ出した勢力によって少女は保護され、そして戦いの渦中へと放り込まれるのであった的なシリアス展開を予想したら、割と双方とも馴れ合って楽しげに戦っていたりするのが目新しいところ。というか錬金術師も決して悪事を働いていた訳ではなく、本当に命が危なかった少女を出来うる限りの技術で猶したその結果が一種のヴァンパ化だったということ。その後に来るのが理性を失い本能のままに暴れる獣人化か、意志をなくして言われたことだけしかしなくなる天使化か、ってあたりにヤバさはあるけどそれも含めて治療され導かれる展開が描かれるものと期待。8歳から年をとらずに幾年月の中身大人な見かけ少女が「竜魔杖のコンダクター」に続いてこちらにも出てまーす。


【3月16日】 早起きしたんでこれは僥倖と家を出てバルト9で午前9時10分から始まる「アニメミライ2013」を見に行ったらすでにロビーに大行列。何だと見たら今日から始まるプリキュア映画のグッズを買う人たちだった。もちろん男子。あるいは元がつく男子とか。おかげで買えない本当のプリキュア好きな子とか出たかというと案外に新宿の朝1番では見かけなかった感じでなるほど、棲み分けは出来ているってことなのかも。郊外では「ドラえもん」の映画と並んでこれを見る子どもが大行列を作っていたんだろうなあ。まあ見ないけど。でも「ドラえもん」はちょっと見たいかも、予告編の出来とかとっても良かったんで。

 そして見た3度目の「アニメミライ2013」はやっぱり「龍−RYO」は猫が可愛い。でも龍馬はいったいどの瞬間に猫を捕まえたんだろう。新選組に囲まれた瞬間? そこにちょうど猫がいたのか、うーん。あとRYOといっしょに修行していた黒のその後めいた説明がやっぱり少ないなあ、龍馬はともかく慎太郎を斬ったのはそっち? その辺はだからこれをパイロットとして作られる長編があれば語られるんだろうけれど。それから「アルヴ・レズル」はシャットアウラ、じゃない敵のメカドッグ使いがやっぱり格好いい。でも朝早かった関係でちょっと居眠り。まあ4月にこれのDVDが入ったバージョンが売られるからそっちで見るか。4作が入ったブルーレイは買えるかなあ、イベント限定とかにされても困るよなあ。

 「デス・ビリヤード」はやっぱり2人ともどっかに行ったってことか。バーの女がだから最後で出迎えに行ってそこんに被さった声は新しく降りてきた人の驚きの声だっていうことで。やっぱりあの「ひとーつ」から始まる勘定とそれからどこか気怠そうな表情が最高。バーテンの目玉の模様にはどういう意味があるんだろう。いろいろ謎はあるけどそれをぜんぶ解説する作品でもないってことで、まあいろいろ想像をめぐらせよう。こういったちょっと不思議系な作品ばかりを連作してパッケージにまとめてみると案外に面白いビジネスになるかもなあ。問題はだからそれのための資金調達と販売ルートの確保か。その意味でも1度であってもこうやって形にしたのは“新生”マッドハウスにとっても良いことかも。

 そして「リトルウィッチアカデミア」は安定の1作として末永く語られることになるだろう、ってこれで終わっちゃ本当に困るんだけれど、大好きな人間たちにとっては。相変わらず高いところから登っても落っこちてもスカートの奥が見えない魔法が掛かっているのは仕方がないとして、場面場面で見せる表情とか仕草とかの豊かさには頭が上がる。いったいどういう指導をしてああいった絵になったのか、そしてそうした成果がこれからのトリガーの作品にどういう風に現れているのか、ってあたりは「アニメスタイル003」で語られていたりするのかな、26ページの大ボリュームで吉成耀監督のことが取り上げられているみたいだし。冒頭のシャイニーシャリオのショーを見る観客の中にまだ幼いダイアナがいるようにも見えたんだけれど気のせいか、いたって不思議はないんだけれど。ともあれ傑作。まだ数日公開しているし見に行ければ見に行きたいなあ。

 そして外に出たら天気も良かったんだけれど新宿三丁目から地下の渋谷を抜けて中目黒経由で恵比寿に出るのも面倒なんで普通に新宿駅からJRで恵比寿へと行ってガーデンプレイスにあるホールで開かれたテディベアの販売会をさらりと見物。前に取材したこともある「トイズフィールド」を手がけている大塚勝俊さんがブースを出していたんでご挨拶。ってて覚えていてもらえたかどうかは分からないけれど。ブースではすでにオリジナルのベアは売れてしまって商品としての「トイズフィールド」が並んでいたり手作りのプレートが並んでいたりした中から「EDWIN」のトイズフィールドコラボにつけられるようプレートを1枚購入する。ってどこに仕舞ったっけEDWINくま。

 中はしかしさすがに手作りベアのオンパレードで素人にはどれが優れてどれが有名なのかはさっぱり。ただシュタイフ的なベアもあればぬいぐるみ的なベアもあったりと様々で、それぞれが造形にかける思いがどれもぎっしり詰まってその意欲に当てられた。すごいなあ。そして買いに来る人たちも。テディベアに限らずぬいぐるみってカテゴリーでいろいろなものが出ていて狐とかがいたり猫もいたりとモフモフしたものが好きな二にはたまらないイベント。ワンフェスかデザフェスでみかけたドラゴンを作っている人もいたような。そんな中では横道佑器さんって人が作ってた、手編みのあみぐるみ系な作品なんだけれど中をつめず手を入れマペットとして遊べるベアっていうのかクリーチャーめいた造形の作品が面白かった。色彩もフォルムもユニーク。使って飾って楽しめる。そのセンスはちょっと注目かも。価格もなかなかだったけれど、いずれはと思うと……やっぱり手は出せないや。

 そして隣の東京都写真美術館で展覧会を3連発。北海道や東北の写真黎明期に撮られた写真を並べた会場では、あの新選組元副長で明治維新に幕府側として函館まで戦った土方歳三が写った写真を生で見られた。格好良かった。「龍 −RYO」にも出てきて恰好良すぎるところを見せているけれど、咸臨丸か何かの上でRYOと向き合っている洋装の土方と写真の土方は実によく似てる。決して美形化なんかじゃないってことがよく分かる。函館の戦争で死なず生きていれば榎本武陽みたく明治の重鎮になれたかなあ、無理だろうなあ幕臣というよりアウトロー的な存在だったから。あと明治期の三陸津波の被災写真もあって結構な被害が出ていたことが改めてよく分かった。ああいった被害を受けて分かっていながら時間は人に安全を確信させてしまい、そして繰り返される悲劇。仕方がない部分も一方にあるけれど、学べる部分も多いんだということを改めて過去をふり返ることで知ろう。

 そして2階に降りて「アーウィン・ブルーメンフェルド 美の秘密」ってのを見物、というかこれが目的。世間的にはヴォーグとかハーパースバザーといった超有名なファッション誌の表紙を飾る写真を撮ったことで知られるフォトグラファーで、見ればああこれはどこかで見たことがあるなあって写真がいっぱい。モデルと衣装を単に美しく撮るってだけじゃなくっていろいろと細工をして腕を4本にしてみたり顔を歪めてみたり構図を凝ってみたりと実に様々なことをしながらも、それがちゃんと1枚1枚完璧なまでに作品になっているところなんか、モデル撮影に長けたファッションフォトグラファーってよりは、ダダイズムとかマン・レイ的なシュールレアリスムをファッションという素材を使い表現したアーティストといった感じで見た方が良いのかも。

 あんなに歪められたら今だとブランドからもモデルからもクレーム付きそう。でもブルーメンフェルドが撮ったそれらは作品となって半世紀以上も経ってなお残っては、こうして展覧会が開かれ世の中に強くいろいろなことを訴えかけている。そう半世紀以上。それは1940年代というまだ日本がアメリカと太平洋戦争をしていた時代から撮られていたりしたもので、にも関わらずモダンでクールでシックな雰囲気をしっかりと持ち、カラーもくっきりと出た美しい写真になっている。そんな写真を撮らせそしてそれを表紙にした雑誌が溢れている国と戦争してたんじゃあ、勝てるはずもない。そんな雑誌の1冊も日本に渡せばこれはかなわないと帽子を脱いだんじゃなかろうか、いや無理か、表層だけ見て退廃と叫び排除すりだけで、そこにかけられた資本力技術力には目を向ける余裕なんてなかっただろうから。

 ヌード系もいっぱいあるけど真っ直ぐ裸をロバート・メイプルソープ的なりヘルムート・ニュートン的に撮るかっていうとやっぱりいろいろ凝っていて、歪めたり布で覆ったり砂をかけたりと一筋縄ではいかないのはなるほどというか。そんな中にあってひときわ目を引いたのがナタリア・パスコという人をモデルにした「アフター・ラファエロ」って題だっけ、海外ではそういうタイトルが付けられたポートレートで黒をバックに黒を来て黒い帽子を被った女性の顔がみょうにくっきりと浮かんでこちらを見ているという写真。同じナタリア・パスコを題材にした上半身ヌードも横にあるけれど、こちらの1枚は何か絵画のように静謐さを持って見る人を引きつける。あるいはラファエロから題をとってのポートレートなのかな、フェルメールを題材にしたような写真も撮ってるし、ブルーメンフェルド。

 実はこの写真、昔にまだ仮の建物だった時の東京都写真美術館で見たのか、それとも別の展覧会で目黒美術館で見たのか、はたまたワタリウムのポストカード売り場で見たのか、はっきり覚えてないけれど見て瞬間に魅入られたかのように大好きになった1枚で、その黒に浮かぶ白い顔という強烈なコントラストの中から放たれる、モデルとなった女性の強くで美しい視線とそして唇をキュッと引き締めたその表情が醸し出す美は、有名人から芸能人から美少女から二次元から、すべてを含めた他のいかなる女性のポートレートをも凌駕して、今なお僕のナンバーワンの女性像として君臨している。目黒美術館でも記憶だとこれを見たさに図録を買ったけれど、今回もやっぱりこれを見たさに購入、印刷がよくってくっきりとした黒と顔の白とのコントラストが出ているのが嬉しい。でもやっぱりプリントには黒の深淵さでかなわないかなあ。いつか欲しいなあプリントが、無理だろうけど。

 それにしても凝った上に美しさを残した写真をまだ、デジタルもない時代にこれだけ作り続けていたブルーメンフェルドの展覧会を見たあとで、日本の最新鋭の広告写真が集められた地下1階のAPA展を見てうーむと考え込んでしまう人もいたりするかも。なるほどコミュニケーションツールとして文字でありモデルを並べてそこから情報を発信する術には長けて来たけれど、単体の作品として見た美しさ、それが半世紀の後も見られ語られるだけの強さを持っているかというとやっぱり、時流を捉えてその瞬間に輝くことを目的としたツールって所を抜けていない。ドラえもんを実際の俳優に演じさせた広告にしても、AKB48のメンバーが大写しにされた缶コーヒーの広告にしてもその時代のその瞬間の了解から産まれるコミュニケーションでしかないからなあ。30年経って懐かしさは惹起しても美しさとなると。

 まあ目的が違うといえば違うから良いのか。いやだったらブルーメンフェルドだって時々の目的は果たしつつ表現としては事態を超克していたし。ってな視点から見てこれはと目に飛び込んできたのは新プリなんだけれども強い視線とそしてポージングを持ったポートレート群。モノクロでもってでっかくビートたけしや山本耀二の顔がプリントされていたり、女優やモデルやChim↑Pomのエリィがヌードになって胸を押さえつつ動きをつけて撮られていたりといった写真はメイプルソープ的な静謐さともヘルムート・ニュートン的な構築ぶりとも違ったモデルの生を空間に定着させたようなインパクトを持って見る者に語りかけてくる。

 撮影者はレスリー・キーンさん。そう、最近男性器がばっちり写った写真集を刊行したということで逮捕もされた写真家だけれど、その後に行われたインタビューによれば処分保留で釈放されて別に罪には問われていない。それはだからお目こぼしなのか猥褻ではないという認定が下されたのか、分からないけれどもそうした情報は広まらずに、ただ逮捕されたということだけが強く印象づけられ、世間的にヤバい人かもといった情報だけが広まっていくのはこの一件に限らずやっぱり拙い。逮捕された後のこともだからマスコミは伝えなくちゃいけないし、それが出来ないなら逮捕された時点での嵐のような報道は控えるべきなんだけれど、出来ないんだよなあ、なぜか。そういう風に作られているから、頭も組織も。困ったものです。

 もとい、レスリー・キーンさんの話だ、インタビューでも逮捕された時のことを答えているけれど、それ以外の写真家として依って立つ信条なり、好む技法も語られているので必読。なるほど逮捕時にあれだけ大勢のモデルとなった人たちから支持を受けたってこともよく分かる。せっかく日本に来てくれたこの才能が、騒動によって日本という国に嫌気を感じて、別の国へと逃げてしまったらと思うとただひたすらに残念。そして勿体ない。こうやって東京都写真美術館が作品を取り上げ展示していることで、写真という世界ではその才能への正常な理解もあると分かったかれど世間では未だ抜けない猜疑心もあるだろうから、これを取り払う術ってのを考えて欲しいなあ、ちゃんと作品として新聞が取り上げるとかすれば良いんだけれど、そういうことをする記者がいる新聞がどれだけあるんだろう。やっぱり出て行った方が活躍のためにも良いのかなあ。難しいなあ。


【3月15日】 今日から渋谷のパルコで始まる「シブパル展」のレセプションに前夜、行ってみたら有名人がいっぱいいたように見えたけれども有名人の顔を知らないので誰が誰だか分からなかった。たぶんこの人は箭内道彦さんかなあ、と思った人もいたけれども大昔に1度インタビューしたくらいでは向こうもこっちを覚えてないだろうから遠巻きにして眺めるだけに止める。ここで食らい付いていければもうちょっと顔も売れて仕事も増えてお金も稼げるんだろうけどなあ、引っ込み思案で人見知りはやっぱりライター系に向いてないかも。あとはサイケな田名網敬一さんだとおぼしき人もいたりして、サイケというよりコラージュに近い作品を10点くらい並べてた。

 あれやこれは張り付けて描かれた作品は横尾忠則さん的なコラージュとはまた違ったレトロフューチャー感。何がどこにどう配置されているかを眺めつつ全体としてどんなトーンに見えるかってのを確認するのも面白いかも。ほかでは「週刊SPA!」でみうらじゅんさんとリリー・フランキーさんが連載している「グラビアン魂」のページを壁中に張り付けたコーナーとかあって見ればたわわな房とかいっぱい。でも中に男子とかも混じっているんで注意。白い石が敷き詰められた通路の奥にあった四畳半の部屋は誰の作品だったんだろー。そこにずっとたくなった。上がっていいみたいだけれど。でも観察されること必至なので覚悟が必要。ドットを壁に貼り付けていく作品はきっと終わり頃には壁中が埋め尽くされるんだろうなあ。インタラクティブ。

 東急東横線の渋谷駅が地下で地下鉄の副都心線と連結するために今日で地上のは使用が終了するそうで、80数年もの間使われてきた場所がなくなるというのは寂しい話ではあるし、東京の神奈川方面に対する一種玄関口として使われ、渋谷に井の頭線とか田園都市線を含めて郊外から人を集める昨日も果たした終着点であり、そこへと向かう出発点とも言える場所が、これで終わってしまうというのも何だか感慨深いものがある。個人的には東横線は地下鉄の日比谷線を使って中目黒から入っていく場合が多かったんで代官山に行くとかいう時ではないと滅多に渋谷からは乗らなかった。いつも人でいっぱいだしどれ乗っていいか分からないし。その意味では切り替わることで利便性が大きく変化するものではないけれど、終着駅としての渋谷と通過点としての渋谷ではやっぱりどこかに変化も出てきそう。渋谷パルコのあの空気感もそんな渋谷だったからこそのものだもんなあ、おそらくは。

 それがいったいどうなるか、っていうところは実はあんまり分かってなくて、過去に副都心線が出来たことで池袋が、あるいは新宿が通過駅になるとか言われながらも現在、とくにそんなことはなくって池袋で降りる人は降りてあちらこちらに出かけるし、新宿三丁目もそんな感じに降りて新宿のあちらこちらに散っていく。その意味では案外に、粛々と利便性だけ享受しつつそのまんまの光景が続くのかもしれないけれど、ただ渋谷の場合は東京へと向かいたい意識が、終着駅という形をもった場所に溜まり凝縮して爆発して、ああいった雰囲気が産まれた感じもあるからなあ、そこに来てそこに居てそこから帰るという。そんな意識が通過点化することで薄れるのか、散らばるのか。もっと別の経済なり流行といった別の要因で変わるのか。見ていこうこれからの数年を。

 用事で銀座に行ったら何か展覧会をやっていたんで見たら野村佐紀子さんの写真展だったんで入ったら野村佐紀子さんらしさのあふれたモノクロのベッドルームとか街とか空間を撮影した写真が並んでた。去年に出た「NUDE/A ROOM/FLOWERS」という1000部限定の写真集に収録されているものが並んでいるようでそこには男性のヌードもあれば女性のヌードもあったり花もあったり街もあったり。荒木経惟さんの弟子ってことで知られている野村さんだけれど割と荒木風なかちっとピントがあった写真よりはアレてブレ気味な中に人物の営みとか光景を、とらえプリントする作品が多くって傾向としては森山大道さんに近いかな。見ていると引きずり込まれそう。せっかくだからと写真集も購入、エディションは310番で表紙が男性のすっぽんぽんのやつ。1000部中でそれだけ200部なんだとか。なんで少なめなんだろう? みんなそれが1番だと思うのに。

 安定した仕事っぷりを見せてくれた野村さんだけれど以外や木村伊兵衛賞はとってなかったんだなあとふり返って。HIROMIXさん蜷川実花さん長島有里枝さんの揃い踏みがあって、異様で不思議な気分を覚えた年もあったけれどもそれ以前にとってて不思議はなかった存在感を持っていながらとれなかったのは何なんだろうなあ、既視感の中に陥ってしまっていると思われてしまったのかなあ。一方で“3人娘”では蜷川実花さんがひとり飛び抜けてあちらこちらに出ている様子でシブパル展にもチームラボと組んだインタラクティブの装置なんかを提供してた。花にまみれたプリクラ写真が撮れるやつ。長島さんはまだ見るような気がするけれどHIROMIXさんはちょっと写真から遠ざかっているといった印象。ガーリー系ではトップを突っ走ってたような印象だったけれども時代と連携したその存在感は時代が進んで離れてしまったってことなのか。でもそんな時流とは離れ撮った「光」という写真集は今も見て本当に深淵な感じが漂うんだよ。これがずっと続いていたら或いは。でもそういう傾向なのがこれ1冊ってことはやっぱり求められていなかったのかなあ、そのパーソナリティには。勿体ないなあ。

 テレビでは激ヤセして元に戻ったクイーンが新から「誰?」と言われて泣き出したりして可愛らしいところを見せている「ちはやふる」だけれど単行本の20巻では周防名人に家まで押し掛けられて迷惑しているかと思ったら、サイドカー乗りたさか何かで家を出て、名人とクイーンへの挑戦者を決める西日本の大会にやって来た。とはいえそこに当然ながら千早はおらずそれどころか千早は東日本の大会にも出てなかったりして京都を修学旅行中。その脚でかけつけクイーンとの対面があるのか分からないけれど、話の方では滅多に姿を見せない周防名人がいっぱい出てきて新とも喋ってどうもあんまりピンと来てない感じを現していた。シャープさとも熱さとも違う海底の中でとらせているような雰囲気は周防名人であっても恐ろしさを感じさせないのかそれとも本当に周防名人が凄すぎるのか。いずれにしても対戦できるのは1人だけ。そこに果たして現れるのは新か太一か、って太一修学旅行サボってやんの。本気見せたのはやっぱり千早絡み?


【3月14日】 2試合も続けて枠内に飛んだ球がなく、その真価が未だに見定められないと評判のサッカー日本女子代表ことなでしこジャパンのゴールキーパー、山根恵里奈選手だけれどそれは決して相手チームが弱かったからではなくって、たとえば順位決定戦の中国だって中盤の早いプレスからボールを奪ってたびたび日本陣内に攻め込みながらもシュートへと持っていけなかったのは、ディフェンス陣が体を張った守備をしたこともあるけれど、実は山根選手があまりに巨大でボールを奪った瞬間にゴールを見るとそこに岩のような山のような星のような銀河のような山根選手が立ちふさがっていて、もうこれは絶対に無理だという思いが攻撃の脚をひるませ、そこにディフェンス陣が絡んで押さえ込んだからであってつまるはすべては山根恵里奈選手が巨大だからこそなし得た枠内ゴールゼロだったという、そんな理解をしているんだけれど、どうよ。

 印象として中盤でボールがキープできないのとあと、連携がうまくとれていないからなのかボールの受け渡しがうまくいかずに流れたり、慌てたかのようにトラップミスをするシーンが頻発。これでは流れるような攻撃が作れるはずもなく、その上に中国の早いチェックも重なり全体として押され気味だったって印象のアルガルベカップ。サイドからの攻撃もあんまりなくってそこは流石に1戦目の途中から出た鮫島彩選手の凄さってやつを際だたせた感じ。加戸選手も悪くはなかったんだけれど攻撃参加からクロスの精度ってなるとやっぱり近賀ゆかり選手の方が何枚も上かなあ、でも近賀選手だって元は中盤から前目の選手だったのをコンバートされ慣れない中であれだけのスタミナとスピードをつけた訳で後から入っても努力次第でどうにでもなる、って思うんで加戸選手にも他の選手たちにも是非に頑張ってとエール。

 それにしても大儀見優希選手がこんなに凄くなっていたとは。前戦から中盤に下がってもそこでボールをキープして前に出しつつ自分も前にあがってシュートを打ったりと縦横無尽な活躍ぶり。後から入った田中陽子選手とかが前目で活躍できたのも後ろに大儀見選手がいたからで、その意味では視野の広いボランチというよりも守り攻めてキープもできる軸として大きく活躍してくれそう。澤穂稀選手だってそうやって年齢の上昇に合わせて存在感を増しなお強い存在感を持っている訳だし。一方の展開は宮間あや選手もまだまだやれるし阪口夢穂選手だって復活してくるだろうから大丈夫、だと思いたいけどされはて。アタッカー陣はなあ、こういう説きに見せないといけない岩渕真奈選手がやっぱり怪我で出て来られず。肝心な場所で肝心な仕事をできないのは巡り合わせの悪さかもしれないけれど運も実力を考えるとちょっと無理なのかなあ。まあ養生して。その後に判断ということで。

 気がつくとスタジオぴえろの社長でアニメーション演出家としても知られる布川ゆうじさんが演出家を養成するための「NUNOANI塾」ってのを立ち上げていた。すでに映像の業界で働いている人からあるいは映像に関心があってそれなりな知識もある半分プロみたいな人が対象で、学生とかがこれから演出の世界に進みたいから学びたいといった感じには受講できそうもない本格的なもの。講師も奥田誠治さんを始め「BLEACH」の監督とかいたりしていろいろ学べそうだけれども1年続くそんな講座にいったい現在の現場で働いている人たちが、どこまで参加しきれるんだろうかとも思ったり。それでも何かを学びたいからと都合をつけ、お金も稼いでやって来るだけの向上心と情熱が、求められているのかもしれないなあ、30万円、それで学べることと得られる伝はとても貴重。何より演出という感性が先立つ現場で方法論を学べるということが大きい。海外から来て日本のアニメ演出の方法論を持ち帰りたいと願う留学生とかもいそうだけれど、それは日本語が問題になるか。いずれにしても画期的な試み。興味を持って見ていこう。

 「敗走記」が痛くて面白い「イブニング」ではしばらく前から始まっている佐々木拓丸という人の「Eから弾きな。」がまたなかなか。どうにかこうにかビルメンテナンス会社に就職できた27歳の青年の前に突然現れた、眼鏡の片方を割って頬を張らした女がいきなり彼を引っ張っていってギターを弾けという。何でもバンドをやっているんだけれどギターとの相性が悪くことごとく首にしてしまったんだとか。んでどうして三蔵という名の青年のところに来たかというと、彼が働いている会社の社長の娘がそのフミとうい女で、会社に来ていた履歴書をひっくり返して趣味に「ギター」と書いてあった三蔵に目を付けたんだとか。なるほどそれは。いやしかし。個人情報が云々という以前に実は三蔵、ギターなんてまるで引けなかった。落ち続けてダレていた時に友人が適当に履歴書を記入した時にそう書いてしまっただけだった。

 つまりは素人。まるで経験もない三蔵だったけれどもフミは諦めず弾かずそれならと三蔵に無理矢理ギターを弾かせることにする。期間はライブまでの1カ月。それで人前で弾けるくらいに鍛え上げるという。そして始まった猛特訓のプロセスは、まったくギターに経験を持たない人にもいいチュートリアル。ヘッドの下にある牛骨を削り弦が乗る場所を作るところから始めてコードの押さえ方を学びその感にガンガンと曲を聴いてリズムを体に覚え込み、そしてコードチェンジまで来たのが単行本の第1巻のだいたいのところ。とはいえ未だドラマーの前では演奏を見せていないし他人の前で弾いたこともない。だいたいがコードチェンジだけで立てる優しい舞台でもない。どうするの? だったら初代ギタリストに聞いてみよう、でもどこにいる?

 ってところで1巻は終わってその後、ストーリーはそこからさらにライブに向けて同じライブに出る他のバンドの目にかなうかを試してみせる試練なんかが待ち受けているんだけれど、そこは2巻で語られバンドの最初のギタリストだった男との邂逅があって特訓もあってといった感じな展開の中、三蔵がだんだんとギタリストに成長してく姿が描かれていく。本当にだから1カ月でそれなりな形になるかは人それぞれだろうけれど、そこまでやればそうなりそうな気も。ほんとどフミとの同居ながらもそうした方面への展開はなく、ひたすら特訓というのも青春していて面白い。近づく本番にどんな演奏を見せるのか。その前に浮かぶ初代ギタリストに絡む山をどう乗り越えるのか。連載も単行本も楽しみな漫画。追いかけよう。

 総理はTPPの交渉に参加するかどうかどうかをまだ考えているだけであって、決してTPPに参加するとは言ってないなから嘘つきじゃないとか言っていたのが、TPPの交渉に参加すると言っているのはマスコミであって総理が参加すると明言した訳じゃないからやっぱり嘘つきではないって話になって、それがTPPの交渉に参加はするけれどそれを受け入れるかどうか決めた訳じゃないからやっぱり嘘つきじゃないって話にだんだんとなってきている昨今。総理個人を応援するあまりにそのやっていることに不支持したい部分があってもそれを面と向かって指摘できず、さまざまな言い訳を作って総理の立場を正当化しようとしている。

 こんなロジックってそういえば何か最近読んだなあ、と思ってふり返って思い出したのが「インテリぶる推理少女とハメたいせんせい」。文芸部の顧問の先生が生徒を相手に繰り広げた強姦をそうじゃないんだとあれやこれや勝手に理由を付けて想像を膨らませて、正当化しようとしていた推理少女みたいだ。フィクションの上での言語実験としては面白いけれどそれが国益に関わるTPPで繰り広げられているのはなあ、でも何か未だに安倍総理への支持を引っ込めずTPP参加をのみ非難しようとするアクロバティックな言説が動き回る。これで本当にTPPに加盟するなんてことになったらどんな言い訳が飛び出すか。このタイミングで政権を投げ出し安倍政権に責任を押しつけた民主党が悪いんだ説か。言いかねないからなあ、本当に。


【3月13日】 あれはニャロメの大竹宏さんと2代目バカボンのパパの富田耕生さんと2代目イヤミの肝付兼太さんとそれからひみつのアッコちゃんの太田淑子さんという、アニメーションの赤塚不二夫作品に出た声優さんたちに話をうかがうという、貴重すぎて鼻血が出そうだったインタビューの場所で、声優という仕事について大竹さんだったかが「格好良くなくても良いんだよ。声を変えればいいと思っている人がいるけど、そうじゃないんだよ。内面から喋らないと」と話したことがとても気になった。それとも肝付兼太さんだったっけ。肝付さんはイヤミの先代に小林恭二さんがいて絶妙の雰囲気を出していただけに、その真似をしようかどうか考えて結局はそうはしないで自分の声で、自分なりのアプローチでその声を出して最初は赤塚さんに違うと言われ、それでも貫いて認めさせたといった話をしてた。

 つまり声優という仕事は単に物真似ではなく、そのキャラになり切るということ。耳にたとえそれが格好いいと聞こえても、その役になりきっていなければ意味がないんだってことを、テレビアニメの黎明期から活動して来た声優さんたちはみんな共通のことのように感じていた。太田さんも「私たちはお芝居の基礎を踏まえてやっていたから」と言い、富田さんも「良い声なんで出そうとしない、背中曲げたりして難しい芝居をやったよ」と言ってアフレコの現場でその役に相応しい声を出そうと苦労し、葛藤して挑戦した。役になりきる。舞台の上に立って芝居をすることで培われた技術と経験があったればこそ、その延長であり、拡張の場としての声優があったんだろうなあ、それはだから亡くなった納谷悟朗さんも同じように感じていて、その訃報に際して改めてあちらこちらで語られている。

 東京スポーツがそれを指摘したことに続いて、あの朝日新聞の天声人語までもが3月13日付の朝刊で納谷さんの訃報を取り上げ「自在に対応できたのは、人物を一から作っていく舞台経験のお陰と顧みる」と書く。「『舞台をきちっとやるべきだと思いますよ、声優さんも……ラジオドラマだけやってた人だって、ちゃんと芝居やってたんですからね』。ベテランたちの独白を集めた『演声人語(えんせいじんご)』(ソニー・マガジンズ)にある」って、そんな部分をわざざわ抜き出して書くのは何だろう、ウィキペディアに声優と呼ばれることを嫌い、俳優だと言い続け芝居に立てと訴え続けた記述を読んで辿ったものだとしても、滅多にお目にかかれない本を引っ張り、そこから抜き出し書いたのは、昨今の声に関する芝居について含むところが筆者にもあり、また雰囲気として漂っていたってことなのかも。

 それを単純な下への非難だという、事大主義な新聞社ならではの上から目線的な考えによるものだって見ることも出来ない訳じゃないけれど、一方で、実際に第一線で活躍している人たちは、たぶん芝居をやらせてもちゃんとやれるだけの技量は持っていて、けれどもそうしたことが語られず、ただ声が良いだけだと思いがちな世間に対して、声優というのは本当は凄い仕事なんだと知ってもらいたかったのかもしれないって考えも浮かぶ。どっちだろう。いずれにしてもこうやって語られることによって、後輩たちの身もきっとギュッと引き締まるだろう。舞台に立ちたいって思う声優さんも増えるかも知れない。そんな人たちが立って演じる舞台を見られる機会が増えそうなのは嬉しいし、そこを経て戻ってきた声の現場で、大きく進化した姿を見られるのも楽しそう。その意味で納谷さんの訃報は悲しいけれども、未来に繋がる”事件”だった。あとを継ぐのは貴方たちだ。

 「オールラウンダー廻」に登場する養護施設のみすず先生が、眼鏡でポニテで巨乳っぽくってあれなら園長先生も不倫したくなるよなあと思いつつ読んだ「イブニング」では、しまたけひこさんという人がしばらく前から連載している「敗走記」って一種の実録漫画が凄かった。関ヶ原の戦いで西軍に与しながら敗れ逃げた島津の退路を、漫画家が徒歩で辿るという内容でそもそもが何で島津なん? って疑問から入らなくっちゃいけないところに漫画としての存在のグラグラした感じがあるんだけれど、それに加えて延々と、歩く作業が漫画家の体力を削り気力を削ってどうして俺こんなことしているんだろう的な空気が漫画からあふれ出してきて、読んでいて颯爽と逃げる爽快感もなければ、圧倒される中を走る悲壮感もなく、ただただ虚無感ばかりが漂い始めてそれがまた、人生の退路にあるような世代なり状況の人たちの心を刺激して止まない。つまりは読んでなかなか面白いってこと。苦い面白さだけれど。

 その中で雨中の行軍に疲れ果て、雨宿りをしていた漫画家が出会ったのが15歳の少年で、聞けばいきなり僧侶になってしまった父親に反発して、家を親の了解も得ながら飛び出し旅をしているんだとか。そんな意欲満々に自分探しをしている少年に、いろいろ描きたいものがあっても描けず、今こうして歩きながら雨に打たれながら漫画のネタを探している漫画家が漏らした言葉が「とっくに『終わった』漫画家の卒業力みたいなモンで フヒヒ…」という自嘲に満ちたもの。受けて少年はアリとキリギリスの説話を持ち出し「キリギリスは潔く…冬に歌いながら死ぬべきです そうした覚悟を持つべきです」と言い、止まない雨の中であってもこの天気は変わらないと言って「こんな雨の中を進むことでしか得られない経験も有ると思います」とひとり先に行く。

 その去り際。「でも…この旅もし乗り気でないなら無理せず引き返した方が良いと思います…」「あなたの人生だけでなく…あなたの周りの…家族の為にも…」と言う展開がどうにもキツい。見透かされているようで、諭されているようで。やりたくないのを何でやる? やりたいことを何でやらないという、若さに溢れた言葉には世間はそんなに甘くはないという言葉を返してみても、そんなに外れではないけれど、一方で自嘲と自虐にまみれながらも、そこから誇りを浮かべることもなく上を見上げることもなく、泥の中をはいずり回ることしか出来ないしやろうとしない人間にとって、まだまだ頑張れる余地があるのかもしれないという思いを抱かせる。フィクションとしての漫画だからどこまで本当にあった話か分からない。自問自答する漫画家が作り出した架空の存在なのかもしれないけれど、書かれていることはとても重く、そして強い。聞いたらさあ、どうするか。上を見るか下をうつむくか。決めるのはだから貴方たちであり、僕だ。そろそろ決意しようかなあ。

 せっかくだからと勝ちどきで開かれている「宇宙兄弟トリビュートアート展」ってのをのぞいたら、放送中のアニメーション版の第1話が流れていてその横に絵コンテも置いてあったんで、見たらカラーだった、ってそこまで大げさじゃないけれど、色が塗られている部分が割とあったのは何だろう、色も含めた雰囲気をそこに描き出そうとしたのか絵コンテを切った渡辺歩さんに独自のものなのか。分からないけれども丁寧で緻密な絵コンテは、漫画とはまた違って映像として動き喋る人を迎えてちゃんと見られるような流れで組んであるから、眺めているとここでこうやってタイミングを作り映像を見せるんだってことが分かって勉強になる人にはなりそう。素人は見てああ絵コンテといってもマルにチョンで表現している訳じゃあないんだと驚きそう。トリビュートではトイズフィールドの大塚さんが作ったムッタ熊とか可愛かったりザリガニワークスの2人が描いたムッタと日々人が格好良かったり。他にも様々な絵があって楽しい展覧会。なおかつだいたい売っているのでグッズとして、そしてアートとしてファンの人は是非にお買いあげを。トイズフィールドムッタはでもやっぱり高いかなあ。


【3月12日】 氷室と名字を間違えてご実家が大変なことにと言ってあげたくなった「THE UNLIMITED 兵部京介」は実家よりも本人が大変なことになっていて、船ごと沈没した挙げ句に力を失い沈みそうになっていたところを裏切り者のアンディ・ヒノミヤによって助け出されてそれでもやっぱり八方ふさがりのところに現れたのが不二子ちゃん。まとめて助けてB.A.B.E.Lへとは連れ帰らないで自分の昔住んでた家に連れて行って治療をほどこしどうにかこうにか命は助かりそして浮かぶ憤り。アンディ・ヒノミヤを問いつめ最大の裏切り者、早乙女の影をそこに見出しひとり乗り込んでいこうとしてそこに裏切り者でも今は違うアンディ・ヒノミヤを連れてさて最終決戦へ。戦後何十年も経ってそれなりな若さを保っているように見えたのは早乙女自身も何か能力者だったりしたのか、単に長生きなだけなのか。分からないけれども激しいアクションと能力者対一般人の関係にもひとつの光明を見られそう。スピンオフ企画なのに本編よりも充実して面白いアニメになったなあ。

 気がつくと大学読書人大賞2013の最終候補作が決まっていて見たらSF好みだった。まずは神林長平さんの「いま集合的無意識を、」があってそして野尻抱介さんの「南極点のピアピア動画」があってハヤカワ文庫的に美味しい上に伊藤計劃さん円城塔さんによる「屍者の帝国」があってSF直球ど真ん中。さらに日本SF大賞の受賞者でもある貴志祐介さんによるSF作品の「ダークゾーン」があってSFにも造形が深い高橋源一郎さんの「さよならクリストファー・ロビン」があってさらにSFとミステリの界隈で絶大なる人気を誇る皆川博子さんの「倒立する塔の殺人」が並ぶという、過去にないSF&ミステリなラインアップはそっちの方面でも結構な話題になりそう。

 そして「ダークゾーン」には作家から評論家から編集者から何から何までを輩出して来た丁目ジャーなワセダミステリクラブが最優秀推薦文を寄せていて実際の討論会の檀上に上がりそう。新月お茶の会とはまた違った伝統を持ち衆目を集めるサークルの代表者がいったい何を喋るのか。それを見に行くだけでも価値がある、っていうとプレッシャーがかかるかな、そして「南極点のピアピア動画」が伸び伸びと喋って1等賞を獲得するかな。そう、この大学読書人大賞は単純に推薦文が優れていて、それを朗々と読み上げられれば価値って訳じゃないのが面白いんだ。檀上ではまず推薦演説をしたあとで、参加している他の本を推薦したサークルの代表者からそりゃいったいどういう意味だとツッコミが入って、それに狼狽えたりすると途端に点数も下がるんだ。書けて喋れてなおかつ切り返せるというバーチャルとリアルの技があってこその大学読書人大賞。だからこそ討論会は見に行く価値があるし、それを見なければ真価も分からない。今年は何月何日になるんだろう。行けるか分からないけど行く方向で。ワセミスどうかなあ。また伊藤計劃さんが取るのかなあ。

 中国で問題となってるPM2・5とかが実は煙草の喫煙可能な部屋では中国の外気なみに濃いんだからもうちょっと日本も屋内での喫煙の禁止なんかを進めようぜって意見なんかが新聞を賑わせていたのを読んで、それってつまり中国は日本の喫煙室くらいに凄まじい状況が街全体をすっぽり覆っているってことだから、まずは日本人のわざわざ喫煙室に入っている人のことを考えるより先に、中国で苦しんでいる大勢の人のこともちょっとは考えてあげようよって思ってしまうのってちょっと同情が過ぎるかな。でも実際、政府の無策によって何も責任のない子供たちが大勢、体に重大な影響を被ってしまうのってちょっと悲しい気がする。かつて四日市ぜんそくが猛威をふるった時代に、引っ越したくても親がそこに住んでいるから越せないままぜんそくにかかって、綺麗な空気を吸える修学旅行に行く日を指折り数えながら亡くなったって話も伝わっていたりして、そんな悲劇がたとえ外国でも繰り返されることへの絶望を、日本に限らず世界がもっと表明して良んじゃないのかなあ。悲劇を経験した日本が率先するような形で。

 だいたいが日本は公害を克服して今は綺麗だ、それにつけて中国は、って嫌味で下品なことを書いている新聞が発行されているこの国だって、中国に負けないくらいに無策を貫き通して大勢の被害者を出し、今もその悲劇を引きずって生きている、あるいは悲劇から記憶が遠ざかっているのを幸いと無理矢理に埋めようとさえしている。水俣で、富山で、新潟で、四日市で事が起こりはじめてどれくらの年月を、政府も企業も無為無策で通したのか。10年20年といった単位で知らん顔を決め込んで、海が汚れ川が汚れ空が汚れきった挙げ句にどんどんと積み重なっていく死を見てようやく、自分たちを間違っていたと認め倍賞して公害をなくそうという方向に舵を切った、見かけの上では。でも新しい認定はせず古い人たちも極めて限られた範囲に押さえ込んで全体像を把握させず広がりも認めず、そのまま風化させようとしているのもまた現実。そんな国を誹らず海外の、今は非難より避難が必要な国を誹って何の得がある? けど下卑た心は彼の国の右往左往に喝采を贈り嘲笑を贈って悦に入る。それが武士道か。それが大和魂か。くだらない国のくだらない人間にならないために、何をすべきかを問おう、己に。

 可愛らしい表紙絵にファンタジー系ラブコメディかと思って手に取った早矢塚かつやさんの「竜魔杖(ドラグケイン)のコンダクター1」(角川スニーカー文庫)が思った以上にSFしていて嬉しかったというか興味がわいてきたというか。何か生物の遺伝子情報を持った金属<魔杖>ってのが各地で掘り出されてその力を見に得た人たちが産まれるようになった未来が舞台で、中でも相当な力を持っているらしい<系統樹の根>という世界に11本しかない魔杖の在りかを追ってひとりの少年が学園に潜入する。都合良く双子の弟がそこでモテモテな日々を送っていたので入れ替わり、モテ過ぎる毎日に弟への羨望と迫る相手への対応に追われつつ学園にいた姫神レイヤという少女との共闘なんかもしつつ<系統樹の根>に迫ろうとして現れた幼なじみの少女。ちょっと前まで普通だったのになぜかとてつもない力を秘めていた彼女のその理由と、それを狙う奴らの暗躍を撃退して終わった第1巻だけれどこの先も派手な戦いとかありそう。子供っぽい姿でエロ満載な天才科学者の姉妹のアタックとか愉快で楽しげ。迫られたいけど後怖そう。弟はあれでただの一般人なのか。いろいろ浮かぶ疑問も起きつつ読んでいこう。


【3月11日】 お見かけしたことは多分なくって、幾度かテレビ出演されている時も見たという記憶がないからそのお顔が、どんなだったかをあまり知ることはなくってただその声だけが、様々な役柄と重なっていつも耳に響いていた。「ルパン三世」の銭形警部を誰もが挙げるだろう代表作として、「宇宙戦艦ヤマト」の沖田十三艦長に「風の谷のナウシカ」のユパさま、「空飛ぶゆうれい船」のゆうれい艦長とあと「新造人間キャシャーン」で有名なあのセリフ、「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体。 鉄の悪魔を叩いて砕く、キャシャーンがやらねば誰がやる」を毎回喋って、聞く人の身を引き締めてくれたっけ。あとは「仮面ライダー」の首領か誰かか。

 ちょっと育つと普通の洋画でチャールトン・ヘストンなんかを持ち役として、「猿の惑星」から「ベン・ハー」といった、よくテレビでやっていた洋画の声として俳優の張りの有る肉体と重なる張りのある声を聞かせて、不屈の人間というものの凄みを感じさせてくれた、そんな俳優であり声の出演者でもある納谷悟朗さんが死去。ただただお疲れさまでしたといった思いが浮かぶ。世に格好いい声の人はもちろん何人もいて盟友だった山田康雄さんが聞かせてくれたシニカルな声も野沢那智さんの砕けた声も、それはそれで格好良かったし、鈴置洋孝さんの声も落ち着きの中に染みてくる凄みがあって聞き惚れたけれども納谷さんは、そうした格好良さの中に情念があり暖かみもあって聞いていてすがりたくなった。頼りたくなった。そんな声の人を見渡して誰、と即答できないくらいに唯一の声だっただけに一線から聞かれなくなったのは寂しかったし、こうして聞く訃報はさらに寂しい。

 もちろん離別はいずれ来るもので、すでに山田さんも野沢さんも鈴置さんもなく、モンティ・パイソンで競演していた青野武さんも先年になくなり黎明期のアテレコ現場を支えた人たちが重ねた年齢と向き合おうように世を去っている。そうした人たちの業績を讃えつつ切りひらいてきたことを今に残し未来に伝えられているのか、といったところできっといろいろ考えることもあるんだろう。声優さんは大人気でイベントが開かれれば大勢がかけつけ応援してくれる。でもそれで50年、後にその声を聞かせられる人がいったいどれだけいるんだろうか。テレビアニメが50年を迎えた今年だからこそ、そして納谷さんの訃報を受けた今だからこそいろいろと、ふり返ってみたい気がしている。50年を超えて残る声。それを慈しみ支持し続ける僕たちの気持ち。合わさって産まれる芸があり作られる伝統がある。改めて合掌。未来に敬礼。

 嗚呼。嗚呼というしかない「ジェネレイターガウル」の第10話「落葉のふる森」はタイトル通りに落ち葉降りしきる森がシーンとなってそこに佇む千明ナツメがとてつもなく美しいんだけれどその後に来る衝撃が、最初に観た1998年12月の時と変わらず心に突き刺さってきて胸がキリキリと痛んでくる。どうしてそうなったという物語の上での展開上の憤り。どうしてそうせざるを得なかったという物語を作りだした者たちへの憤り。2つが重なって半ば苛立ち半ば怒って身もだえした思い出があったけれど、15年近くが経ってもやっぱり同じように感じられてしまうのはそれだけインパクトのあるエピソードだからなんだろう。もちろん作劇上、そうせざるを得ないことは分かるし書き手達がそれをニヤニヤ笑いで描いたんじゃないだろうことも感じられる。でもそういう物語からしか産まれ得ない感慨というものもあり、放てないメッセージというものもあってだから、僕たちはそれをしっかりと受け止め、現実を生きていくだけなのだ。誰をも犠牲にしない社会を目指して。

 ああ。2年か。といっても個人的には特に変わらず、帰れず大変だったあの日の夜とか帰ったら帰ったで混乱した部屋を片づけるのに数時間をかけた翌日とかが苦労したピークでその後にとりたてて何か災難が降りかかったということはないんだけれど、だからといって何も影響がないかというとやっぱりジワジワと身に迫る景況がありこれから後にどういう具体的な影響を被るか、ってあたりに不安も浮かんで消えない。それ以上に直接間接を含めてとてつもなく大きな影響を被った人たちへの浮かぶ思いはやはり多大で、同情とか共感とかいった類に過ぎないと言われてしまうかもしれないけれど、それでもいつかわが身にといった打算的な思いも裏に抱えながら、大勢の被災者への感情にぐっとした思いを噛みしめる。今なお影響はのこり大勢が避難生活を送りそして同じことがまた起こるかも知れないという恐怖を感じている中でいったい何が出来るのか、何をしてきたのかを今いちどふり返り考えいたらないところを埋めて行こう、出来る限り。

 サーカスといったらオーランドのディズニーワールドに常設してあったシルクドソレイユの公演を見たくらいでいわゆる木下とかキグレとかボリショイみたいな伝統的なサーカスって奴を見る機会は今にいたるまでなくって、空中ブランコとか玉乗りとかはともかく猛獣使いなんていったいどんな感じに猛獣たちを使っているのか、見てみたい興味もあるけれども目の前で何かアクシデントがあったらそれも怖いなあと不安に怯えていたりもしそう。それがスリルでありエンターテイメントなんだけれど。ともあれ華やかながらも厳しいサーカスの世界に生きる者たちの、徹底して抱く強い矜持って奴が問われるのが、紅玉いづきって人の「ブランコ乗りのサン=テグジュペリ」(角川書店)という話。朽ちかけた経済を立て直すため作られた特区で興行するサーカスには、代々名を受け継ぐ芸人がいる。その1人がブランコ乗りの”サン=テグジュペリ”。今は涙海という少女が名乗り人気者となっていた。

 けれども、実は違った。練習中のアクシデントで怪我をして脚が動かなくなった涙海に代わって、双子の愛涙が団長にも団員の誰にも言わないままステージに立っていた。かつては同じように体操の訓練をしながらも、涙海の才能と芸人になりたい執念を見て自分はそうはなれないと思い、また家計のことも考えて身を退いた愛涙。それでも普通は涙海につきあっていっしょに自主練習していた彼女は、涙海ほどではないにしても普通にブランコに乗れてしまった。だからこそサーカスの花形という場に立ちながらもしっかりと演技をこなし、ちょっぴり失敗もするけれど、完全に違うと思われるまでには至らなかった。それってちょっとあだち充さんの「タッチ」みたいな感じ。つまりは天才って奴、努力も鍛錬もしなくても出来てしまうという。

 まさにそう。「タッチ」では克也は死んでしまって達也の天才に触れることはなかったけれど、この物語ではベッドに伏せながらも涙海は愛涙の演技を見る機会を得る。評判も聞ける。だから悶える。葛藤する。動かない足を抱えて。そんな涙海の心情が痛いほどに伝わってくるストーリーを挟んで、同じサーカスで名を受け継ぐ猛獣使いカフカと歌姫アンデルセンのそれぞれの“戦い”も描て、芸に挑む覚悟を示した「ブランコ乗りのサン=テグジュペリ」。チャペックというパントマイムの少女をめぐる動きから浮かぶ、サーカスをめぐり取りざたされる“事件”が必要だったかどうか、芸に生き芸に死ぬプロと天才であっても矜持を持たない者の道を対比させる展開でも悪くなかったんじゃないか、とは考えるものの事件が覚悟を動かす所に必然と見ることもできそう。凄い女優が1人2役で愛涙と涙海を演じてみせるとかすればすごい映像になるかもなあ、猛獣使いに歌姫にパントマイマーに団長に、年相応の女優を並べ絢爛にして暗黒のサーカス模様。映像化に挑むところはないかなあ。

 そしてアルガルベカップに巨大な山根恵里奈選手が先発出場、そのキックしたつま先が相手ゴールに届くくらいの巨体なんだけれどもそれをさしおいてもちょいんと蹴ったボールがらくらくとハーフラインを越えてしまうキック力にはちょっと驚いた。女子サッカーのゴールキーパーってやっぱりキック力が足りなくて、ハーフライン手前に落ちてそこから奪われ攻撃されるなんてこともあったりする。だから焦らずディフェンスに渡して最終ラインから組み立て直すようなこともするんだけれど山根選手のキック力があれば普通にセンターあたりからの高さ勝負が出来そう。さすがに日本が攻め立ててキャッチの妙を見せる場がなかったけれど、下手は打たなかったからきっと次も出場の機会はあるだろう。それにしても大儀見優希選手、やっぱり巧すぎる。中央で治めキープする力もあれば飛び出していくスピードもありゴールキーパーをかわして流し込むテクニックもある。たった2年前のワールドカップでは唯我独尊を非難され孤立が目立ったあの選手が五輪で化けさらに今回大化けしてた。落ち着いたメンタルが技術の向上にもプレーの上昇にも繋がったんだろうなあ。あと10年は戦えそう、ってそれは流石に。


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