おじいちゃんもう一度 最後の戦い

 訳あってかつての快活さを失い、落魄してしまった父親がいて、そんな父親を嘆かわしくも疎ましく思っている母親もいて、その間に立って進路と生き方に迷うひとりの少年が、祖父の暮らす田舎へと行ってそこで、常に前向きでパワフルな祖父の姿に感化されながら、家族を大事にする美しい女性と友人になり、祖父の知り合いだという魔女から魔法を教わり、そして水の中で暮らす人魚姫のような少女と知り合って良い仲になる。

 そんな、世知辛い現実を忘れさせてくれる、フラワーでハッピーな青春ストーリーが、ライトノベルと呼ばれるカテゴリーの小説にとってひとつの真髄だとしたら、戸梶圭太という人による「おじいちゃんもう一度 最期の戦い」(NMG文庫、648円)は、完全にして無欠のライトノベルと言えるだろう。読めば心に花が咲き乱れ、青春という時代を前向きに頑張って生きていこうという気力がもりもりと沸いてくる。

 訳がない。何しろ戸梶圭太の作品だ。すでに一般小説の分野で、上品さとはほど遠い奴らがわんさか登場しては、本能と欲望のままに暴れ回るワイルドでグロテスクで、狂気と惑乱にあふれた作品を、次から次へと発表している作家。その戸梶圭太が書いた小説が、たとえライトノベルであろうと童話であろうと、時代小説であろうと何であろうと、優しさとか切なさとか愛おしさといった言葉と縁があるはずがない。

 そのとおりに戸梶圭太の「おじいちゃんもう一度 最期の戦い」は、普通に戸梶圭太の作品であった。いや違う、通常の社会が舞台では描き得ないアイデアが、何でもあって構わないライトノベルというカテゴリーを借りて億兆倍に膨らんで炸裂した、過去に類をみないほどに凄まじい、戸梶圭太ならではのライトノベルであった。それがどういうことかは読めば分かるし、こちらを先に読んで過去の戸梶圭太の作品に戻った人は、なんて優しく愛おしい小説だと逆に思うかもしれない。

 主人公は専門学校を出てまだ就職が決まらない直人という少年。ツイッターで女性に絡んで炎上させた挙げ句に出版社を解雇された父親が、ギターのリペアマンをやってるその父親、つまりは直人の祖父が住んでいる団地に引っ越すことになる。

 そして移り住んだ団地は、まともな人間がほとんど暮らしておらず、何か事件が起こっても警察はまたあそこかと投げ出すくらいの荒廃地。そこで直人は経験豊かな祖父に導かれるようにいろいろな人と出会い、さまざまな事件に巻きこまれながら、成長していくというか、どうにかこうにか生きていくというか。

 団地で知り合い仲良くなった、産まれて6カ月の娘がいる25歳のシングルマザーから、痴漢をやって2度捕まり、これはダメだと離婚した元の亭主が部屋を尋ねて来ると言われ困っていると聞かされた直人は、自分ではどうにもできないからとじいちゃんに相談に行く。じいちゃんはあれやこれやと聞いた挙げ句にどうにかこうにか立ち上がり、そのシングルマザーの部屋で身長が195センチはあるという元亭主を迎え撃つ。

 その直前には日当たりの良い屋上に現れ絡んできたデブに蹴りを入れ、ぶち倒して放り出しておくワイルドさを見せた直人のじいちゃん。強さと思い切りの良さは直人とも、ツイッターにワルクチばかりを書きなぐる陰険な父親ともまるで違った快活さ。時に落ち込むことはあっても、すぐに立ち直っては敵に容赦なく拳を振るうその強さに憧れない人はいない。多分。いやきっと。

 挙げ句に見せる技は、なるほどギターのリペアマンならでは。その設定がそこでそういう風に生きてくるとはと驚かされる。人間の限界すら超えていそうなその技は、どこか魔術とも異能とも重なりそう。どうだいライトノベルだろ? そして第2話では、直人の隣の部屋でエロいチャットを大声でやって暮らしている女性を黙らせる方法を探ろうと、相談した直人にじいちゃんの知り合いだとう魔女が呪いの方法を助言する。魔女が存在する世界。やっぱりライトノベルだろう?

 さらに第3話では、双頭のコブラに追いつめられた直人とじいちゃんと、そしてムスタングという名を付けられたじいちゃんの弟子が、給水タンクの上で急場をしのごうとして、そこでタンクに閉じこめられた少女を発見して、直人が頑張って救い出すというライトノベルに必須のボーイ・ミーツ・ガールもあって楽しめる。どうして少女がそこにいて、そしてどんな状態におかれていたかは気にしない。水槽の人魚姫と出会い恋に落ちた少年の物語。そう思え。

 読み終えて浮かぶのは、いったいどんな心境だろう。これが戸梶圭太なのかという驚きか。これはライトノベルなのかという困惑か。いずれも正しい反応なのかもしれないけれど、大切なことが忘れられている。これは戸梶圭太のライトノベルなのだということ。それがどういう意味なのかを、まずは読み終え、そして続くだろう展開をすべて追いかけた上で考え、答を出そう。

 その頃にはきっと、戸梶圭太の色に染められ、何がライトノベルというのか、何が正義で何が上品なのかも、まるで分からなくなっているだろうけれど。


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