縮刷版2013年11月中旬号


【11月20日】 目覚めると国歌斉唱が始まっていてそして組まれた円陣の真上から見れば背中のガムテープがぐるりと綺麗な円を描く、訳はなくってガタガタとした線がチラチラと見える程度とあんまり意味を成していなかったサッカー日本代表のユニフォーム。でもまあ実戦投入で2試合目ともなると目も慣れ袖口の赤いラインと馴染んでそういうものかと思えてくるから人間の眼って不思議。FIFAワールドカップ南アフリカ大会の時に使われた首の下に赤い真四角が張り付けられたユニフォームもすぐに慣れたものなあ、最初はよだれかけとか言われていたのに。だからもう気にしないけどでもやっぱり、いつでも格好いいドイツとかイングランドみたいなユニフォームを作ってくれないものかなあ。誰がデザインしてんだか。

 そして試合は攻めきれないまま素速く攻撃される展開に相変わらずの日本だなあといった印象。ほぼほぼカウンターから突出したゴールキーパーの川島選手をかわされゴール前に送られたボールを蹴り入れられた失点なんかも、攻撃に手間をかけすぎて前掛かりになった裏を突かれた格好で、不用意っちゃあ不用意だけれどそれを許してしまうところに時間をかけすぎる攻撃の欠点めいたものが見えてしまった。それでも前半で1点を返したのはさすがというか、本田選手が右のサイドに送ってそれを走り込んできたどっちかの酒井選手が綺麗なクロスをゴール前に入れたところをそこにいた柿谷陽一郎選手がズバリとヘッドで決めたのにはただただ感心。サッカーにおけるサイド攻撃の有用性ってやつを目の当たりにできた。

 それが右のサイドでも見たかったけれども左サイドバックが長友選手ではなくてもう1人の酒井選手だったことが影響したか香川慎司選手の調子も影響したのか左サイドからの厳しい攻撃はあんまり見られなかったなあという印象。とうか香川選手いたっけか、ってな感じにとけ込んではいたけど埋没していたような雰囲気もあってちょっぴり先行きが心配される。ゴール前に切れ込んでシュートって場面もなかったし、それを本田選手にやられていたし。というか本田選手、フル出場だったよオランダ戦に続いて。頑健なのか調子が良いのか。ここで怪我でもして1月の移籍がパーになったらかなわないけどそれを厭わず自分を見せつけようとしているところに気分の上向き加減も伺える。

 逆に香川選手はどこかビクビク。怪我1発でマンチェスターユナイテッドの暮らしもパーになりかねないからなあ、それがプレーにも現れているのか。1月の移籍でユヴェントスが興味を示しているって話も出ているし、注目されることになりそう。そして3点目は途中出場の岡崎選手がひょいっと出てキーパーの脇を抜けるシュートを蹴り込み獲得。ああいう俊敏さはさすが岡崎選手ってところかも。外さないんだよなあ、そこが凄い。そういう意味ではプレーオフに出てスウェーデンと戦ったポルトガル代表のクリスチアーノ・ロナウド選手もゴール前へと走り込んでキーパーと1対1とか相手ディフェンスも含め21対2になった場面でも確実にシュートを枠に入れている。冷静でありかつテクニシャン。そして俊敏。だからこそもう何年も世界のトップに君臨できているんだろう。見習わないとねえ、柿谷陽一郎選手とか。

 そんなこんなで勝利した親善試合の表ではワールドカップ2014ブラジル大会への出場をかけたプレーオフが行われていてクリスチアーノ・ロナウド選手のハットトリックが炸裂したポルトガルがイブラヒモビッチ選手の2ゴールが炸裂したスウェーデンを破って出場権を確保。でもこの試合の方がワールドカップ本大会のグループリーグよりも面白いような気がしないでもない。見られた人は幸運。でもやっぱりワールドカップで戦うイブラヒモビッチ選手を見たかっただろうなあ、世界の誰もが、きっとこれが最期だし。そしてフランス代表はウクライナ代表を破りこちらもかろうじて出場。3点奪わないと抜けられない試合で3点を決めてみせたところは凄いけど、どうにもオフサイド臭い得点があったりして後々いろいろ言われそう。これがプラティニパワーだとか。

 他はクロアチア代表が出場を決めたみたいで旧ユーゴからはオシムさんがいるボスニア・ヘルツェゴビナとそしてクロアチアが出場ってことになるのかな、モドリッチ選手とか凄いけど今ひとつ世間的に知られてない選手もいるだけに晴れ舞台でデカく輝いて欲しいもの。そしてルーマニアと対戦したギリシャは引き分け2試合の合計でルーマニアを上和待って出場権を確保、と。UEFAのEURO2004で優勝した時のメンバーなんてカラグニス選手くらいしか残っていないっぽいけどでも、2010年の南アフリカ大会にも出ているし欧州ではやっぱりしっかり強いチームなんだろうなあ、ギリシャ代表、リーグもそれなりの存在感があるし、そういうところがちゃんと結果を出すところが激戦の欧州。日本はリーグが衰退して代表のみ栄えるなんて構図にならなきゃ良いけど。

 電子出版で大儲け、って訳ではないけどでも確実に読者を増やして収入を得ている鈴木みそさんや藤井大洋さんらが登場して語っている朝日新聞11月20日付け朝刊の隣で萩原健太さんがポール・マッカートニーの日本公演について寄稿、観たのは18日だから僕と同じみたいだけれどその時に感じたバリバリ現役なポールの雰囲気を萩原さんも感じた様子で「同じキー『現役感』全開の2時間半」という見出しでもってキーを変えずアレンジも動かさないで歌い続けたポールを絶賛している。「時に高音部をコントロールしきれない局面もあったりもした。が、それでも彼はオリジナルのキーで歌い続けた」と書いているのはなるほど確かに。僕ですら耳慣れたトーンで届いてくるそれは半世紀とか聞き込んできただろう萩原さんにはもっとシビアに聞こえたはずで、その耳がオッケーを出すんだからよっぽどの凄さだったんだろー。

 「最新のビートにすり寄ることも、意表を突く新編曲を施すこともない」というポールのライブはすなわち過去に作られたそれらが「今の時代にも有機的に機能する『現役の音楽』であることを思い知らせた」とも。その音楽的天才性をここまで如実に語った言葉もないかもしれないなあ。そして「彼が50余年の歩みの中で生みだしてきた楽曲そのものの現在」とし「前人未踏のキャリアの威光によりかかることなく、頑固に、真摯に、一音楽家であり続けようとするポールの心意気。改めて圧倒されるしかない」と締める。まさにそのとおり。誰もが聞いてああ凄いと思ったのも当然かもしれない。そんなライブをあと1回、観られそうだというのは自分にとって貴重な経験。それほど聞き込んで来た訳ではない人間を1度で大好きにさせる音楽の魅力を味わった今、これからの人生にとてつもない喜びがあるだろうと信じたい。本格的にビートルズとポール・マッカートニーの曲を聴いていくという喜びが。

 これは素晴らしい。文化庁が行っている今年度の文化庁長官表彰にあの海洋堂創業者で今は海洋堂ミュージアムの館長なんかをしている宮脇修さんが名前を連ねていた。読むと「永年にわたり、精巧なフィギュアを生み出すとともに、それらを現代アートの域にまで高める活動に尽力し、日本初のフィギュアミュージアムをオープンさせるなど、日本のメディア芸術の新しい分野を開拓し、我が国の芸術文化の振興に多大な貢献をしている」ことが認められての受章みたい。工芸の職人とか古典芸能の人とは違ったメディア芸術枠って感じで、そういえば前にメディア芸術祭の特別賞か何かを受賞していたこともあったから、そうした方面からのプッシュもあったんだろう。つまりは今までとはちょっと違った新しい文化であり芸術の代表という意味合い。

 とはいえ居並ぶ面々は女優の三田佳子さんもいれば歌舞伎の女形のいたりと凄い名前ばかり。そこに入っての受賞は、そのままフィギュアというものが文化として、芸術として認められたって意味でもあるし、和紙の職人や仏師も並んでいる。お上がくれるお墨付きなんてと思う人もいるかもしれないけれど、古来より続く文化であり芸能であり芸術といったものの系譜に、いよいよフィギュアも同列として並べられたんだということが、こうやって示されるのは決して悪いことではない。本当だったらそうしたフィギュアのひとつひとつを作り出した原型師の方々に受賞して欲しい気持ちもあるけれど、それはまだちょっと先、今はそうしたムーブメントの大元を作り出し、守り育ててきた館長の業績を、讃え後進なりファンとしての励みにしたい。おめでとう御座います。


【11月19日】 朝日新聞のサイトとか見てたら「ツタヤの『知恵』を図書館に 山口・周南市、協力を要請」なんて記事があって九州の武雄市の成功なんかを横目に周南市でも駅前の再開発にあたって集客力のあるツタヤ図書館をぶったてたいということらしく、そんなツタヤを展開する会社の役員とかいう人が「地方の駅前はどこも(にぎわいのなさに)苦しんでいる。街に合った図書館をゼロから考えたい」と話したというからそうした賑わいを取り戻す集客装置としてツタヤ図書館が有効だって考えを、会社の側もそして市の側も抱いているってことが伺える。でもなあ。

 図書館というのは単なる集客装置なのか。それによってお客さんがいっぱい駅ビルとかに来たとして、なるほど周辺の食堂なり店舗は嬉しいし、交通至便で利用者も嬉しいだろういけれどもたぶん1軒や2軒はあるだろう本屋さんはどうなるんだ、そして本が売れなくなってしまう著者の人たちは。もちろん図書館という機能が作者なり書店なりといった存在と時に対峙することは今に限らずずっとあったテーマだけれど、そこを図書館では単なる売れ筋ばかりではなく、少部数だけれども読む人がいるだろう本も集めて並べ保存しておく知の集積所としての機能によって書店とは位置づけを異にし、また著者とも読んでもらえることで将来の売り上げにつながるという知のショウケースとしての機能でもって、存在を認めてもらっているところがあった。

 駅に至便のツタヤ図書館はそうした既存の図書館が書店や著者と“共存”していた構図を真っ向からうち崩してただ自らの利用者をのみ増やし、中に入れているだろう喫茶店とか周辺の店舗への集客を増やすだけの装置になってしまっているように見える。武雄のあれがまだ図書館としての機能を持ちつつイメージを一新したのと違ってより根深い問題を抱えていそうなんだけれどもそうした意識をまるで持たないで誘致を急ぐ自治体と、そうした配慮をまるで考えない企業、そして問題意識をそこにまるで抱いていなさそうに見えるメディアのスタンスがどうも気になる。なし崩しのように商業の論理だけですべてが回っていく世界に生まれる知の地平って、どうなってしまうんだろう。怖いけどでも、そうなっていくんだろうなあ、このままだと。

 あれは何を見に行った時だったっけ、予告編で「ジョバンニの島」っていうアニメーション映画の紹介が流れてどうやら戦争中の北方領土に関する話で子供たちがソビエトの子と仲良くなりながらも戦争によって引き裂かれたり攻められ大変な目にあったりするような話が繰り広げられるみたいだったけれどもそれを作るのが音事協という日本の芸能事界を支える事務所が所属する団体だったところにちょっと驚いた。何でこういう企画が持ち上がったんだろうということと、それから内容がどうしてこういう物になったんだろうということがまず不思議。領土問題に絡めて何かを主張したがる団体でもないしなあ。

 とはいえスタッフでは脚本が杉田成道さんだというあたりで、「北の国から」のプロデューサーということもあって北海道に絡んでの泣かせのストーリーが出てきたってことになるのかも。そんな杉田さんは北海道ではなく愛知県は豊橋市の出身なんだけれど。やっぱりちょっと謎。ちなみにアニメーションの監督はタツノコ四天王でもどちらかといえば堅実な作風の西久保瑞穂さんだから、ちゃんと手堅く感動と感涙のストーリーにまとめてくるだろうとは思いつつ、アニメーション好きが見てくれるものになるのかどうか、ってあたりはなかなか不明。声優を務めるのがいわゆるプロの声優さんではなく、音事協ならではの大物の俳優さんに女優さんというところもアニメの側から訝る視線を受けそう。どんな映画になるのか。まあ見に行くけど、仲間由紀恵さんが劇場版「機動戦艦ナデシコ」のラピス・ラズリ以来の声優を務めるってこともあるし。

 というか「ナデシコ」じゃあほとど喋ってなかったという記憶。むしろ仲間さんの声優業といえばあの「HAUNTEDじゃんくしょん」での朝比奈睦月役が番組でもメイン級の扱いで出番も多く、そしてその擦れてない演技がなかなか楽しくって番組自体の出来の良さとも相まって、あの時代のひとつの代表作としてとらえていたにも関わらず、レーザーディスクが出てVHSのビデオは出ても後にDVDになることはなくそして当然のようにブルーレイディスクにもなっていない。一時は仲間さんが歌う主題歌が入ったファーストアルバムすら世間から消えかかっていたものなあ、それはアンティノスってレーベルの存在の行方に関わったからかもしれないけれど、とにかく歴史から抹消されていた唄に声優のうちの声優がこうしてひとつ話題になってオープンにされたんだから、「HAUNTEDじゃんくしょん」も一気のBD化なりせめてDVDボックス化をお願いしたいところ。花子さんをでっかい画面で見たいよう。

 あの鉄拳さんが作ったパラパラ漫画というよりもはやアニメーションとちゃんと呼ぼうとすら思う新作「家族のはなし」(新聞印刷機アニメーション)が感動のストーリーだと話題になっているけれどもまあストーリー自体は田舎から夢を見て都会に出てきたけれどもうまくいかず実家に帰って金をせびっていた若者が、親の思いやりを知って泣きつつ頑張ろうと思うというベタな話でそりゃあ泣けるし家に帰ろうとすら思ったりもするけれど、それ以上に面白かったのはこうした作品が信濃毎日新聞の広告局によって作られたということ。一種自社のPRとも言える作品はよくよく見るとアニメーションが動く枠組みの周囲には常に新聞のニュース記事が出ていてそれがアニメが動くのに合わせてぱたぱたと切り替わっていく。

 どうやって作っているのかを紹介するメーキング映像を見たらこれが何と新聞社にあって長いロール紙から1日分くらいの紙面を次々に差し替えて印刷していく機械を使って作られていて、合計で1917枚あるというアニメーションの原画をまず取り込み、それを1枚1枚異なる紙面の中にはめ込むようにした上でおそらくはコンピュータに記録しそして、印刷機を使い長いロールの上に1枚1枚、可変させて印刷していったものをそのままカメラで映像ではなく画像として撮影して、それを連続再生させることでアニメーションとして動くようにしているらしい。印刷されて巻き取られていく1枚1枚異なる原画およびその周辺の記事が、カメラの正面に来た段階でパチリと撮影させるようにシャッターを押す感覚を調整し、紙が流れる時間を調整しているところがひとつの味噌。どれだけの試行錯誤を繰り返したんだろうかと興味が沸く。

 なおかつ、そうやって1枚1枚違う記事を可変で印刷して巻き取っていく印刷機が新聞社にはあるということも大きな特徴で、新聞社ならではのリソースを使いつつ喧伝しつつ、信濃毎日新聞というローカル紙ならではの都会に行ってしまった人に対して帰郷を誘い、地元への愛着を誘うメッセージを持ち、それらを総体として日本全国に訴えかけられるバリューを持ったクリエーターによるアニメーションをこうやって作ってしまったというところに企画した人の冴えってものを感じてしまう。地元にラーメンがないから作りましょうというのとは本当、訳が違う。羨ましいけどそれにしても鉄拳さん、2000枚近い絵を描くのにいたいどれだけの時間をかけたんだろう。大昔に鳥肌実さんの前座として後楽園のステージに立ったのを見てから幾星霜、すっかりパラパラ漫画の人になってしまったけど、それが大売れに売れて今や大御所人気者。頑張ればいつかはかなうんだと信じて僕も頑張ろう。何を? うーん。


【11月18日】 「マージナル・オペレーション」シリーズも第5巻でとりあえず終えて新田良太はジブリールを嫁にすることをほぼ決意したように見えたものの、ジニとかいるしソフィだって心が快復すれば黙っていないだろうし中国軍の剛胆な指揮官だって気に掛かる。あとイトウさんだっけ、任務に忠実でどこか冷淡だから靡くってことはないだろうけど、必要とあらば色仕掛けだってしかねないその忠実さを考えるなら新田良太の周囲は美少女やら美女やらで埋め尽くされて人生なかなか楽しそう。でもそんな厚遇を絵ながらも知らん顔して淡々と生きてはジブリールを泣かせジニを苛立たせソフィを喚かせイトウさんをやれやれと言わせるに違いない。なぜならそれは新田家の血だから。血の呪いだから。

 それというのも同じ芝村裕吏さんの「遥か凍土のカナン1 公女将軍のお付き」(星海社FICTIONS、1250円)に登場する新田良造。おそらくはニートで30過ぎでようやく戦場へと出て軍事的才能を発揮した新田良太のおじいさんにあたる人らしいけれど、その性格は良太に負けず冷静というか淡々というか戦場にあってロシア兵が塹壕へと迫る中で冷静に戦況を見極めつつ、相手が白兵戦を挑んできたら手にした日本刀でバッタバッタと切りたおす剛胆さを持ちそして本来は馬が得意で日本にあってコサックのお姫さまも認める乗馬の腕前を持っていたりする才能の持ち主であるにも関わらず、決して奢らず威張らず誇らずむしろ軍人を止めようとすら考える。

 そんな新田良造が暮らす習志野にある家へと突然、ロシアから美少女がやって来た。名をオレーナという少女はどうやらウクライナのコサックの公女らしく日露戦争で良造と対峙していたロシア軍を指揮していたクロパトキンという大将の紹介で、新田良造を婿に迎えるために犬を連れてはるばる日本へとやって来た。何だそれは。というかどうしてロシアの大将が良造のことを知っていたのだ。それはどうやらかつてクロパトキンが日本に来た時に暇があったんで釣りに行った先で、千葉から出てきていた良造と並んで釣り糸を垂れつつ会話を交わしたことがあったから。後に内務省あたりがずっと渡りをつけていたらしく、良造を日本で知る少ない人物と見込んだクロパトキンは教え子にあたるオレーナの望む血の承継に相応しい相手と良造を紹介した。

 けど良造にとっては寝耳に水も良いところ。上官の秋山好古と同時にロシアから勲章を貰っていったいどういう事情か分からなかったけれど、それも良造がコサックの公女の婿にふさわしい格を付けるためだと分かって気分は巻きこまれたという感じ。とはいえはるばる日本へとやって来たオレーナを無碍に扱うわけにもいかずまた、自分が騎兵として戦場では活躍できなかった悔いもあり、そんな戦いの才をふるいつつ見知らぬ自分を婿にまで迎えて国を、一族を立て直したいと願うオレーナなの思いも果たせる場所を求めて良造は決意する。大陸へ行こうと。

 そこでも絡んでくるイトウさん、といってもこちらは男性の情報官が暗躍もしてロシアに反攻する日本に友好的な国を作る助けを良造に求めて一種スパイ的な役割も担って大陸へと行くことに。そしてオレーナには相手が自分にだんだんと好意を感じるようになっても決して靡かず認めようとせず、子供扱いこそしなくてもスタンスとしてはそんな感じでオレーナに当たるものだから、流石の彼女も自分の想いが通じず届かないと思って泣きだしてしまう。やっぱりそのあたりはジブリールと同じかも。罪作りな奴め。ともあれ動き出した2人が向かった先でいったい何があるのか。それは後の世界にどう絡んでくるのか。楽しみだけれどそんな中にあってやっぱりオレーナを悶々とさせるんだろう、良造は。もげればいいのに。本当に。

 マッカートニーだマッカートニーだポール・マッカートニーが日本にやって来るってんで東京ドームへ。グッズ売り場の長蛇の列をどうにか乗り越えパンフレットは手にしたけれどもどうも版面がズレているように見てたんでどうしたんだろうとページをめくったら赤と青のセロファンを張った3D眼鏡がついてた。21世紀にもなってそんな飛び出すアニメだの立体グラビヤだのといった技法を世界のポール・マッカートニーのパンフレットで観る羽目になるとは。とはいえ偏向式の眼鏡を使って映画みたいな立体表示を印刷物で再現する訳にはいかないからなあ。まあひとつのお楽しみとして受け止めよう。Tシャツは1枚4000円で種類も豊富でどれを買ったら良いか分からないけどとりあえず会場限定っていうグレーのを1枚。まあ記念ってことで。もはやこの後に20世紀で最も名の知られた音楽グループ「ザ・ビートズル」のメンバーを目の当たりにする機会なんてないだろうから。

 しかし御歳71にもなると声も枯れ果て動きもヨタヨタで見るに耐えないことになっているかもと、69歳にしてでっぷりと太り動きはぎこちなく話す内容は嫌味ばかりで面白みに欠けてしまって、なおかつ声も響かないみのもんたさんの朝のワイドショーでのやらかしっぷりを見つつ思ってしまったけれど、登場したポール・マッカートニーは声もちゃんとのびのびとしているし動きだってユーモラスさはあったけれどもちゃんと動いて周囲のギターとも絡むしフロントからバックにあるピアノへの移動も、そこから戻ってセンターに立ちギターを受けとり弾いて歌うこともちゃんと完璧にやってのけた。というかギターが他に2人であとはドラムとキーボード兼パーカッションといった5人だけのメンバーで、分厚い音を出してそこにサウンドに負けないボーカルを乗せてくる。怪物というより他にない。

 そうやって歌われる歌はザ・ビートルズ時代の名曲もズラリと並んであの「エリナ・リグビー」から「レット・イット・ビー」から「ゲット・バック」から「デイトリッパー」から「ヘイ・ジュード」から「イエスタデイ」に至るベストアルバムにだってなりそうな曲目がズラリ。なおかつCDなんかで耳にする声質そのままに歌って聞かせてくれるんだからまさに伝説が目の前に降臨したような感覚と感動を味わえた。前に「ザ・ポリス」を東京ドームで見た時も大好きなバンドが目の前にいて大喜びだったけれど、ポール・マッカートニーの場合は20世紀を通じて音楽史上最大にして最高のグループの中心人物が、21世紀になって目の前に立っているという軌跡にひたすら感嘆するしかなかった。

 それも顔見せとか行楽とかじゃなく2時間40分を越える本格的な興業としての降臨。それがやっぱりエンターテイナーとしての凄さであり、誠実さって奴なんだろうなあ。だったらどーして前に大麻でとっつかまったんだ? 若気の至りって奴なんだろう。若くもなかったけれど。ほんと「イエスタデイ」を震災の被災者たちに捧げて終わっても良いライブなのに、その後に「ヘルター・スケルター」やら「ゴールデン・スランバー」やらをくっつけてくるんだからもうビートルズ尽くし。これが最期の本格的なツアーでそしてビートルズをステージでやれるのも最期かと、思っての演目なんだとしたらちょっぴり寂しいけれど、現実を考えるとそういう可能性もあるだけにここは意気を君で楽しみ尽くししかないってことで。そんなライブでありました。次は木曜、今度はアリナーほぼ正面。堪能してくるぞ。


【11月17日】 まさかそこまで引っ張るか、と思いつつそこまで引っ張ってこその物語、なんだと思わされた沼田友さんの短編アニメーション作品「むすんで、ひらいて」は、17日に上映会が開かれた原宿にある喫茶店のクリスティーを舞台に、3人のあれは女子高生がくっちゃべっている場面から始まって、高校生にはちょっぴりお高い紅茶とケーキのセットをえいやっと頼んだ後、卒業してもまだ会えるかなあなんて不安を抱きつつ未来を見据えた感情が、交錯する会話が繰り広げられる。そして流れるようにちょい時間が過ぎてやっぱり3人が集い喋る場面へと向かってそしてそしてそしてそして。後は見てのお楽しみだけれど、その長さを勘案するなら当然の、そして不可避の帰結が訪れる。

 それはとても悲しさと寂しさを含んだ光景で、自分だったらどういう感情を抱くだろうかと思う一方で、どういう感情を抱かせられるんだろうかとも考えてしまう。いやまあ自分の場合はそこまで深く関係を得た人間がいるかどうかという部分で引っかかってしまうんだろうけれど、紆余曲折あってもなお繋がり続ける人間どうしの関係性があるならば、やっぱり見ていろいろと感じるところも多そう。あとやっぱり羨ましいという感情も浮かぶかな。あそこまで、ああいった関係でいられ続けられるんだということへの。それ以前に喫茶店がずっとあるってことも凄いけど。クリスティーのチーズケーキそんなに美味しかったのか、食べれば良かったかなあ。

 ほかの作品では、あれは零戦ではなく九六式単座戦闘機だったかもしれない、脚が収納式ではない戦闘機が爆弾腹に抱えながら空へと舞い上がるまでを描いた作品が、沼田友さんにしてはな緻密なCGでもって描かれていて、その風景とそのバックに流れるダイアローグの痛さ厳しさが相まって、物作りに挑む大変さって奴を感じさせてくれた。ちょっと不思議な作品。2ndアルバムに確か入っているんで買ってみよう。次に売るとしたらコミケだろうか年明けのコミティアだろうか。上映会で見た作品では座敷わらしが列車に乗って帰郷する作品がひとつの希望を与えてた。あと、外国で銃器とともに育った少年兵が愛用の銃器に抱く感情の複雑さを垣間見せてくれた作品が、不思議な味わいを感じさせた。紛争で最愛の妹を失う話かと思ったらそうでない、けどそういうことに似た感情を子どもたちが銃器に抱いてしまっている恐さってのがにじみ出る。世界平和って大変だ。

 オランダにとっては守備陣の連携を考え直す良いチャンスになったに違いないサッカー日本代表との親善試合。日本にしてみれば相手に得点されることは分かっていたけど、それでも前半のうちに1点を奪って後半へと向けたのは気持ち的にも良かったし、相手をまだ緊張の中に置いて守備陣を下がらせなかったことでも良かったんじゃなかろーか。あそこに大迫選手が入り込んでそこにパスが出て、間髪を入れず蹴り込んで得点にしてしまうセンスは、似たようなチャンスをもらいながらも外してしまった柿谷選手との対比でも大迫選手を上へと押し上げそう。そして後半にゴール前で入れ替わりつつ持った本田選手のこれも瞬時のシュートの素晴らしさ。あそこで打ててあそこで決められるところが本田選手の凄さって奴なんだろう。それが代表の香川選手にはないし、柿谷選手も追いつけてない。ベルギー戦でその辺りを調整して来るのかな。出来れば無敵に近づけるんだけれど果たして。

 しかしやっぱり見て背中に何のガムテープを貼っているんだと思った日本代表の新ユニフォーム。あれで円陣を組めばまあるい円に繋がるんだろうけれど、そんなの試合が始まったらまるで関係ない。天秤棒でも担ぐための当て布程度にしか見られない。それとも試合が始まっても日本代表は円陣を組んだまま、ボールをラグビーのスクラムよろしく足元に置いたまんまで、相手ゴールへと運んでいく気だったりするのか。それが出来たら得点だってバンバンで、一方で失点はゼロに抑えられるんだろうけれども過去にそういう戦術を使ったチームが存在しないことを考えると、やるに難しい方法なのかもしれない。円陣が崩れてしまうとか。だからそうならないための円陣を組んだら円になる線を付けて意識を強くした? 次のベルギー戦でそんな戦い方が見られるかを期待して見守ろう。でも朝早いんだよなあ。試合の開始が。

 必要ってことで幕張に12月20日グランドオープンするイオンモール幕張新都心の周辺へと侵入して、チーバ君とかが歩いているのを横目で見る。風太くんらしき歩くレッサーパンダもいたけれど、今の千葉市動物公園はハシビロコウが人気ナンバーワンらしく、ポスターなんかにも堂々使われポストカードとかトレーディングカードも出てきているらしい。やっぱり1度は見に行かないといけないかなあ。それはさておきイオンモール幕張新都心のデカいことデカいこと。幕張にある運転免許センターでバスを降りて幕張メッセの西の端に通じる道路を海側へと向かうと、そこに現れるのがイオンモール幕張新都心の東の端。そしてそこから歩いてようやく道路に達すると思ったら、さらに先まで廊下と建物が繋がっていてバスに乗ってコストコとか越えてちょい行って、ようやく到着できるくらいの大きさを誇っている。

 前にイオンレイクタウンへと「TEMPRA−KIDS」を見物に行った時に歩いて歩いて1キロくらい歩いて、ようやく奧までたどり着けたことがあったけれど長さではだいたいそれくらいの距離を歩かされそう。なおかつレイクタウンは駅前からすぐ建物に入れたけれど、イオンモール幕張新都心は海浜幕張駅からやや距離があって、そして西の端まで行けばそれこそ新習志野にすら近づいていそう。いっそだったら京葉線に途中駅を作って、そこからすぐにイオンモール幕張新都心に入れるようにしてしまえば客にとっても運営会社にとっても万々歳なんだろうけれど、そういう“私物化”を果たして京葉線がやってくれるかなあ、ああでも越谷レイクタウンだって駅新しく作ったわけだし、やってやらないこともないのかなあ。住宅とか会社とか学校とか施設がいろいろ増えてくればあるのかな。

 頑張ったら間に合ったんで明治記念館で第1回ハヤカワSFコンテストの授賞式とかハヤカワのSFレーベルの新作プレゼンテーションとかいろいろ。小島秀夫さんが神林長平さん東浩紀さんと檀上に並ぶという現在の多様化するSF状況を表すようなビジュアルを目の当たりにしたけれど、そんな東さんが候補作となった作品がSFSFしてなくってどうしたものかと思ったという話を聞くにつけ、世代によっても認知の異なるSF観といったものを感じたり。授賞式では受賞者にモノリスが手渡されたけれどもあれは素材は何なんだろう? 鉄かプラスチックか木の板か。触ってみたいけど遠いなあ、いつか自分で手にするか、その方がよっぽど遠いけど。


【11月16日】 あたし千代。お兄ちゃんは吉田松陰って言って、頭は結構良いみたいだし顔だってそこそこイケてるんだけど、性格はサイアクで頭の良いのを鼻にかけて威張りちらすもんだから、だんだん友達いなくなって今ではずっと家に引きこもって本ばっか読んでいる。いい歳なのに彼女の1人もいそうもない。あれ絶対に童貞ね。そんなお兄ちゃん、やっぱり世の中のことが気になるのか、あちらこちらから瓦版とか取り寄せては、読んで、外国船がやって来たとか幕府が外国と手を結ぶ気だとかいった話に「このままじゃあこの国は大変なことになる!」ってブツブツ叫んでは、あちらこちらに手紙を出して自分の意見を広めようとしているみたい。

 でもそれって自分に溜まった鬱憤を吐き出しているだけ。先頭に立って世の中を動かそうなんて気はまるでなし。安全な場所からキャンキャンと言ってるだけのいわゆるネット攘夷ってやつ? ちょっとキモいよね。だから周囲の人たちも気味悪がって近づかなかったんだけれど、最近ちょっぴり名前が世の中にでたせいか、同じような根暗で引きこもりの童貞クンとか、世の中に何か言うなんてカコイーじゃんと勘違いした夢想家クンとかが集まってきて「先生」なんて呼ばれるようになっちゃった。

 お兄ちゃんもお兄ちゃんで、いっぱしの師匠面して「松下村塾」なんて看板出して「攘夷だ倒幕だ」なんてエラそうなことを言い始めたけど、貧乏人しか集まって来ないから月謝なんてもらえない。逆にご飯とかお酒とか出すばかり。あたしを入れて3人いる妹たちにあれ持ってこいこれ足りないって威張りちらすばっかり。でも良いの。弟子にひとりだけ玄瑞さんってとってもイケメンの男の子がいて、どうもアタシに気があるみたい。お医者さんの息子で彼だけはちょっとお金も持ってそう。頑張って玉の輿狙ってこんな暮らしからサヨナラできたらいいナ。でも妹の文も彼のこと狙ってるの。ちょっと手を出さないでよアタシが先に見つけたんだから。それからちょっぴりお兄ちゃんのことも気になるかなあ。せめて童貞だけは卒業してネ。でないとアタシが恥ずかしいから。妹からのお・ね・が・い。

 なんて話になるらしいと聞いたけれども、本当のことは知らない2015年の大河ドラマ。それとももっとライトノベル寄りにして、イケメンで頭が良くって正義感も強い松陰お兄ちゃんのことが本当は大好きなのに言い出せないでもじもじしている妹ちゃんたちのストーリーにでもするんだろうか。どっちにしたって吉田松陰が刑死して久坂玄瑞が蛤御門で憤死し戊辰戦争が始まり高杉晋作が病死して大村益次郎が幕府軍をうち破り江戸が開場されて桂小五郎が木戸孝允となってそしてやっぱり病死して明治維新にケリがついて以降に吉田松陰の妹が関わるドラマなんてありはしない。3人いる妹の誰が主役になっても多分そうだろう。だって聞かないもん、明治の歴史でそんな人物の存在を。

 それでも続けるとなると、それは会津の鉄砲娘がそうでなくなって以降の大河ドラマ以上に物語性を失ったままになってしまうんだけれど、NHKはどうする気なんだろう。もうそこは一足飛びに婆さんが子供たちに「そういうことがあったのよ」と語って聞かせて終わるとか。バックに徳永英明さんの「夢を信じて」でも流しながら。それどこのドラクエだ。でもそうなることが分かり切っていながら、敢えてそうした主役を設定せざるを得ないところにNHKの、大河ドラマであっても視聴率を狙いたいだから女性層を取り込みたいそのためには女性を主人公にしたいという思惑が、絡んでいたりするんだろう。でも現実に「八重の桜」で大失敗していてどうしてという気も。まずは長州ありきだったのかなあ、誰か長州関連のエラい人におべっか使う意味から。それもそれで嫌な話だなあ。

 「serial experiments lain」の中村隆太郎監督が亡くなられて4カ月と少し。体調を崩しながらもいろいろと画策はしていたんだろうそのクリエーター人生の、結果的に最期を飾ることになった感じの長編アニメーション映画「十五少年漂流記 〜海賊島DE!大冒険〜」が公開されたんで、「lain」者として新宿は歌舞伎町にあるシネマスクエアとうきゅうまで見に行くことにする。今どき珍しく座席指定ではない場内の、これも珍しい細く縦に長い劇場のおそらくは小さいスクリーンを見越して前目に位置する、割と座り心地の良い椅子に腰掛け待つことしばらく。始まった映画は紛う事なきジュール・ベルヌの「十五少年漂流記」であった。

 って原作なんて読んだのはそれこそ35年とか昔になってしまうけれど、子供たちだけが乗った船が嵐の中を海に出てしまってそのまま無人島へと流れ着き、そこで子供たちが仲間割れをしつつ海賊達の襲撃なんかもしのぎながら生き抜いていくってストーリーをわりと忠実になぞりつつ、自分が見栄を張ろうとして突出して起こる危険なことなんかを知らせ、不安にビクビクとして秘密を抱えたままでいることが結果として大勢に迷惑をかけてしまい正直であろうと思わせたりする展開を入れて、子供たちが難事に協力して立ち向かっていこうという気持ちを盛り上げる。「死」という不安もそれなりに混ぜて決して世の中がハッピーだけでは行かないことも。それでいて救いを差し伸べ安心を与える。そんな辺りは巧いなあと思う。

 潜水艇だったりコンピュータによる通信が使えたりするのは現代的。そして不思議な島の様子はファンタスティックでただ古い原作をなぞっただけじゃないところも今の子供たちに見て貰うには良い選択かも。そんなアニメの絵柄もちょっと凝っていて、たぶん3DCGでモデリングしたんだろうキャラクターをセルルックに近づけて動かしていてそれがしっかりと馴染んでいて、東映の漫画映画的な子供っぽさとはちょい離れて、大人が見てもしっくりと来るような画面作りになっている。デザインも割とファッショナブル。そんな辺りのこだわりが監督にあったのか演出にあったのかキャラクター設定者にあったのか、分からないけれどもそういうところを突っ込んで聞くメディアもないんだろうなあ、この規模の作品では。

 中村隆太郎監督らしさ、ってのも掴めるかというと「lain」くらいしか見てない目にはちょっと不明。ひねらないで真っ直ぐに描いてあるって意味で監督のクリエーター性を楽しむより、過去の名作を今のテイストでしっかりと描いた作品として楽しむ方が良いのかもしれない。声優さんも豪華だし。松方弘樹さんやっぱり巧いし。あとエンディングが懐かしいチェリッシュで松崎悦子さんのボーカルが実に澄んでで耳に響く。いるのかいないのか分からない旦那さんの声も重なりなかなか良い雰囲気。そういう起用とかも含めてどういうところがどういう狙いで作った映画なのかも気になるなあ。ともあれひっそりと公開されてはパッケージにもならず埋もれていきそうな予感もあるだけに、見られるうちに見ておくことが吉。監督名でしんみりしてしまうことは覚悟しよう。

 そして完結した芝村裕吏さんの「マージナル・オペレーション05」(星海社FICTIONS)はミャンマー国境にあって中国からまず4万もの兵隊が向かってくるのを3000人の子供たちを指揮するアラタが地雷を使って鼻先を押さえ補給を断ち切る戦術によって釘付けに。けれどもそれが中国軍を本気にさせ、ミャンマー軍を戦かせてアラタたちを孤立の道へと向かわせる。頼みにしていた日本からの支援も打ち切られたけれど、そこは子供使いにして稀代の戦術家。手にした端末を操りヘッドセットから子供たちに指令を飛ばして中国軍を森に引き込み殲滅し、ミャンマー軍にも退路を与えないまま本格的な戦争を覚悟させるところまで追い込み一種の交渉の場へと敵の指揮官を引きずり出す。

 とはいえ単独で行動しているところをヘリに見つかり攻撃を受けヘリの数も増えて絶体絶命であったことは確か。まさにギリギリの作戦(マージナル・オペレーション)。けれどもそうした戦術の冴えが相手の指揮官にも通じたのか、あるいは生来のフェロモンが相手の指揮官をも引きつけたのか互いに相手の顔を見るという戦国時代のような対峙の場面に至り、そこにジブリールたちも間に合って殺し合いとか奪い合いには行かず別れてまずは一段落。以後にいったいどういう戦いが繰り広げられ、そこをどうやって生き延びた果てにアラタが日本へと戻って「この空の守り」へと至るのか、分からないけれどもそういう未来を想像させつつ、ひとまずの終幕とするところに子供たちを泥沼の戦いに引きずり込まないアラタの、そして作者の優しさめいたものが見える。気にはなるけど仕方がない。いろいろあった。そして平穏を手に入れた。それで良い。あとは戻ってアラタの先祖がコサックの国を作ろうと奮闘する物語を楽しもう。こいつもなかなか、凄そうだし。

 コミティアとか文学フリマとかで短編アニメーションを打っていたりする沼田友さんというアニメーション作家の人がいて、前に多分一昨年くらいの学生CGコンテストの上映会で見た「雨ふらば 風ふかば」って作品があまりにも素晴らしくって泣けてしまって、死んでしまった自分を思う男の子を見守る少女の視点から死んでしまうことへの恐さと寂しさ、死んでも思ってもらえることの嬉しさと切なさを感じてこれは凄い作家が現れたと思い、名前を知って追いかけていたら今度は「15時30分の拍手喝采」だなんて作品を作って、これまた涙ものの完成度で同人誌即売会に集う気持ちを実に完璧に言い表しているなあと思って昨今の、同人誌即売会を狙った攻撃によって出展を断念せざるを得なかった人たちへの感情が浮かんだりして涙ぐんでいたりしたらいよいよ何か新譜の「伝える」ってのが出るとかで、それを記念した上映会があったんで原宿へ。

 新海誠さんとかいった自主制作アニメーションのスターがトリウッドを満席にしたとかいった伝説はあっても世の中そんなに自主制作アニメーション作家に優しくはないのは「荒波 LOVE LETTER」って作品を見れば分かるもの、自嘲しつつ自虐にはならないで自主制作アニメーション作家の境遇を語りつつ、それでもやっぱり作っていこうとする気持ちを言い表そうとした作品の世界そのままに、いつか分かってもらおうと頑張っている姿はそのまま華やかさとは縁遠い地道な活動の大切さって奴を表している。だから会場もこぢんまりとして数人が集まる程度かと思ったらこれがどうして、喫茶店にぎゅうぎゅう詰めの人が集まり中には若い女性もいたりと結構な人気ぶり。もうこれなら僕等が応援しなくても、なんて感じたりもしたけれどもSNSで大きく話題になっているかというとそうでもないのが世の大海、その中でささやかに立つ波に過ぎない活動を、せめて荒波にすべくこうして言及してみる次第。作品については後日。とりあえず新作「むすんで ひらいて」は素晴らしいと断言。


【11月15日】 FC岐阜にいた服部年宏選手に続いて、元サッカー日本代表の戸田和幸選手も引退ということで2002年のトルシェジャパンを知る選手たちが次々を退いていく感じ。楢崎川口曽ヶ端のゴールキーパー3選手こそ元より息の長いポジションだけあって全員が現役を保ってるし、稲本潤一選手や鈴木隆行選手や柳沢敦選手といった当時の若手と呼ばれる面々も現役でプレーしてはいたりするけど、GKの3人を除けばもはや主力といった感じではなく、市川大祐選手のようにリーグを移したり小野伸二選手のように海外でもメジャーではない地域へと出たりして、サッカーは続けながらもそろそろ現役としての幕を閉じようとしている感じが漂っている。

 戸田選手も今はシンガポールのリーグにいるそうで、ちょっと前までジェフユナイテッド市原・千葉にいいてそして栃木だって群馬だっけのチームに行ってJ2に落ちたジェフをたたきに来てくれていたけれど、そんな姿が見られなくなってしばらくしてのこの引退。ジェフ千葉ではJ1残留に大きく貢献してくれただけに、少しばかりの寂しさも募る。とはいえワールドカップ日韓大会でのムーブメントにすらなったその存在感からするならば、ワールドカップ後にトッテナムへと移籍しそれなりの活躍を見せつつオランダリーグのデンハーグに移りそして日本に戻って清水エスパルスから東京ヴェルディ、サンフレッチェ広島なんかを渡り歩いたサッカー歴に、2006年のワールドカップドイツ大会で引退を決めた中田英寿選手のような煌びやかさはない。

 というか2002年以降のジーコ監督時代には代表として呼ばれることがなくなり、中田選手の孤立を招いてしまったなあという印象。松田直樹選手もジーコ監督に時代に少しだけ呼ばれてはいたけれど、前任者のチームで貢献した選手にどこか冷や飯を食わせていたジーコ監督の下でひとり、商売的に有効な中田選手だけが尊ばれてしまったことでチームは硬直化し、軋んだ果てに2006年のドイツでの惨敗という結果を迎えてしまう。あそこに戸田和幸選手がいれば、松田直樹選手がいれば、なんて思ってももう後の祭りだけれどでも、そうした経験は今にだって活かせるはず、ピッチで強いリーダーシップを発揮し浮き立つチームを抑え導く重鎮がいれば……って思った時に見渡したザックジャパンの層の薄さよ。せめて楢崎正剛選手がゴールキーパーにいればなあ。でも仕方がない。ともあれありがとうと戸田選手、服部選手に。代表と無縁だった櫛野亮選手もそういえば引退かあ。寂しくなるなあ。

 ふと気がついたら三浦しをんさんが三重県だっけかの山奥で林業にいそしむことになった都会育ちの若者の話を描いた小説「神去なあなあ日常」が、あの「スウィングガールズ」に「ウォーターボーイズ」の矢口史靖監督によって映画化されることになっていたみたい。予告編ではメインタイトルになっている「WOOD JOB!」の方がでかく掲げられて目に飛び込んできたけれど、よくよく目を凝らせばサブタイトルに「神去なあなあ日常」もちゃんと残っていたりするところから原作のファンも意識して劇場へと誘おうとした作り手の意図めいたものが見えた。なるほど「神去なあなあ日常」より「ウッジョブ」の方が森なり木に関連する映画って分かりやすいものなあ、だからそういうタイトルになるのも仕方がないけど一方で原題が持つのほほんとした空気感も残したい。そんなところから出た折衷案かも。

 主演は「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」とか「ヒミズ」で異色っぷりを見せてくれた染谷将太さんだけれど、テレビドラマの「みんなエスパーだよ!」ではエロに興味を抱いて悶々とする田舎の高校生を見事に演じきったりもした若手切ってのホープ。それだけに「WOOD JOB!」でも都会暮らしから一念発起したというか無理矢理放り込まれたというか、そんな事情で田舎に送られ林業だなんて経験もなければ勘所も分からない仕事に就いて苦労しつつも成長していく姿って奴を、存分に見せてくれそう。田舎での苦労って意味では実写版の「銀の匙 Silver Spoon」も公開を控えていたりして、ちょっとした田舎農林畜産業ブームってのが来るのかも、というか既に「おおかみこどもの雨と雪」がそうだったし、ライトノベルが原作のアニメ「のうりん」だってそんな感じ。意識して若者を田舎へと向かわせ自給率を高めた果てに、来る戦争に備えるなんて国是が裏で陰謀宜しく蠢いていたりしたりして。まさかなあ。いやまさか?

 気がつくと第19回学生CGコンテストで最優秀賞に久野遥子さんの「Airy Me」が輝いていた。手描きでもって作り出された人が動き得たいの知れない怪物が蠢くアニメーションは気怠い音楽に乗って見ている人をメタモルフォーゼの世界へと引きずり込んで今いる場所をドロドロに解かす。取り繕った人間の心に潜んでいるエゴや憎悪といった感情を形にして引きずり出すような不思議な映像。見れば誰もが納得の作品がこうして納得の結果を得られたことを喜びたいけどでも久野さん、映像作家として作品を作り続けているって訳ではなさそうだしなあ、どっかの会社に入ってしまったんだっけ、そこで加藤久仁生さんみたいに自分の作品を作れるのか違うのか。個人の才能を支え世に送り出す仕組みは機能していないのか。ちょっと気になってしまう。

 「彼女と彼女の猫」のような佳編から始まる「ほしのこえ」でブレークした新海誠さんはコミックスウェーブというバックを得て支援者も多く集まりずっと作品を作り続けて来られたけれど、その後を襲う人となると生まれては消えていったというか新海さんほを名を挙げていないというか。「秘密結社鷹の爪」のFROGMANさんや「やわらか戦車」のラレコさんは4コマ漫画のような芸でもって世を賑わせて今も活躍を続けているけど新海誠さんとはタイプが違う。名字が同じ新海岳人さんもそう。アート系のアニメーションでは世界的な山村浩二さんだって大学教授の傍らで作品を作っているしベルリンで銀熊を取った和田淳さんだってその後にメディアで話題にならない。あまりに一過性。支え続けるといった空気がこの国には存在しない。

 そうした中でようやく吉浦康裕さんが「イヴの時間」に続いて「サカサマのパテマ」を劇場長編アニメーションとして作りあげ、上映されてそれなりの観衆を集める成果をあげているし、「寫眞館/陽なたのアオシグレ」でベテランのなかむらたかし監督とそして新鋭の石田祐康さんがひとつのスタジオで仕事をして世に作品を問い、これもしっかりとファン層を広げて石田さんが次にいったい何を作るのか、興味を喚起するところまで来ている。山本蒼美さんはテレビシリーズの監督にまでなってしまった。こうした現象は嬉しいけれどもだからといって次が続くかどうか、ってなるとやっぱり話は別。今を盛り上げても継続して盛り立てていくことをしないメディアのムーブメントに消費され、消えてしまいかねない。だからこそより鮮明にムーブメントを印象づけ、次への投資を可能にするような雰囲気を作らなきゃ。僕が出来ることは何もないけどせめて作品を見て、こうして感想を書いて次につながる手伝いをしていこう。


【11月14日】 普門館、といって通じる世間はそれほど広くはなさそうだし、僕だって吹奏楽が盛んな中学校にはいたけれども吹奏楽とは無縁だったし在学中は全国大会なんて夢のまた夢だったから、その名前が中学生の吹奏楽部員にとって野球の甲子園に匹敵するくらいの“聖地”なんだと知ったのは、アニメーション監督で知られる山本寛さんの小説「アインザッツ」(学習研究社)を読んでから。そういう場所が代名詞になるくらいに憧れられているんだと分かって、いつか見てみるのも良いかなあ、でもチケットは割と争奪戦になっているらしいなあと思っていたら、今年の学生の全日本吹奏楽コンクールが名古屋で開かれるとあってあれれ普門館ってのはどうなったの? って訝ったらどうやら事情が。

 2011年の東日本大震災を受けて全国的に見直しが行われた建物の耐震度合いで普門館は強い地震があると天井が落ちてくる可能性があって、それで改装が行われなければ使うのは拙いということになったとか。でもって名古屋にある国際会議場センチュリーホールが代替会場として去年と今年、使われたみたいでそれでも修繕が済めばいずれ普門館に返ってくるだろうと信じてた大勢の吹奏楽関係者の期待とは裏腹に、費用的な面というより何か法律的な面もあって耐震補強が出来ず、ホールとしての使用が難しくなってそれでとりあえず永久に、普門館での吹奏楽コンクールの開催はなくなったんだと朝日新聞が書いていた。

 朝日新聞といえば全日本吹奏楽コンクールを主催している新聞社だからそれはもはやひとつの方針であり決定事項。甲子園に立ち黒い土を持ち帰るのと同じ意味合いで、普門館の黒いステージに立つことをひとつのシンボルとして日々連取に励んでいた全国の吹奏楽部員にとっては、半ば絶望とも言える気分が今、ひろく漂っているんだろうことは想像に難くない。たとえ音響は悪くても、そして宗教団体が持つホールであってもそこがいったん聖地になれば、容易に引き下がれるものではないんだろうから。天井もない真夏の甲子園で炎天下、高校野球が行われ続けているのと同様に。どちらかといえばこちらの方が教育上、宜しくないにも関わらず。

 じゃあこれからは、ってことで来年も名古屋国際会議場が使われることになっているようだけれどそれ以降は未定。ならば名古屋を吹奏楽の聖地にしてしまえば、って名古屋出身者としては思うけれどもそういう思惑とは別に、東京都内では普門館に匹敵する規模のホールが東京国際フォーラムくらいになってしまってそこは都心のど真ん中にあって全国から駆け付ける吹奏楽部員のバスや楽器を止めて置いて出番を待つだけのスペースがない。かといって代々木の体育館とか4日間も借りうける訳にはいかないのも現実となると名古屋という田舎のそれもはずれの熱田にあって駐車場は広々として人もあまり歩いてない白鳥の国際会議場を使う、ってのが次善で目下の最善ってことになるんだろう。再来年以降もそうやって定着して聖地化すれば、名古屋の吹奏楽が盛り上がって我が母校も普門館に続いて全国進出ってことになるのかな、逆にならないのかな。

 雨女vs晴男ってどこかの「ほこ×たて」ではないけれども対決させたらどっちが強いか気になるところ。そしてそんな対決を実現させたのが久楽美月さんの「青と黒の境界線」(電撃文庫)って小説で何か世界に異変があって雨女という存在が生まれその存在の下に良く、雨が降るようになったことから世界は雨女を囲おうとし、奪い合おうとして紛争まで引き起こす。そんな雨女は1人が亡くなったりすると後に継がれるみたいでそして今はどうやら1人の少女が雨女で、それも水道局の管理を逃れて世界を逃亡しているらしい。そんなバックグラウンドを感じさせつつ物語は、1人の男がトラックにヒッチハイクしてある街へと向かうところから始まる。

 アスールという名の彼こそは晴男。道を行けば決して雨などに降られないにも関わらず、何故か傘を手に持った彼は並々ならぬパワーを発揮してトラックへと荷物を軽々と載せてそして変わりに載せてもらったトラックで辿り着いた街で、出会った男や少女といっしょに食堂で巨大なパフェを食べ終えた直後に追われるジュビアという名の少女といったんは擦れ違いつつ、さらに追われるジュビアと再会して彼女が雨女だと知る。伝説が現実になった瞬間、世界はどうにかなると言われていたにも関わらずアスールにもジュビアにも何も起こらない。爆発は起きず降ったり止んだりもしない状況はジュビアにアスールの雨男としての存在への懐疑を抱かせる。

 それでもどうにか誤解を解き明かし、トラックの運転手も連れだって街を脱出してアスールの知り合いがいる情報都市へと辿り着いた2人を取り囲むように追っ手が。もはやこれまで? けれどもジュビアは諦めず、というより過去の雨女たちの運命を知った今、自分が諦めるなんてことはできないと奮いたって立ち向かい、そしてアスールも晴男としての存在を改めて世に訴えて当面の戦いにケリをつける。とはいえ伝説は現実とならず2人にとりついた呪いのような運命は変わらない。いったいどうすれば良い? それを探す旅がこれから始まりそうだけれど、巻きこまれた形のトラック運転手はいったいどうするんだろう、そのままじゃあ商売上がったりだしなあ。まあいずれ絡んでくるんだろう。続きがあれば。あるのかな。

 大災害が起こって募金が話題になるたびにやり玉にあがる日本ユニセフ協会だけれど、生きて食べて作業してやり玉にあがるくらいに世間に存在感を持ってもらえるようにPRする費用を手元において、残りをちゃんと上納しているにも関わらず、そうした費用すら不要と言われてしまってはきっと立つ瀬もないんだろうなあ、大使として活動しているアグネス・チャンさんへのネット系の嫌悪感が先に立ってのことなんだけれど、今はそうしたネットの嫌悪が増幅され拡散されて伝わる仕組み。だからといって別に誰かが個人で開いている口座に入れたところで、本部に回った募金はやっぱり手数料だの運営費だのPR費だのをさっ引かれるのは日本ユニセフ協会と変わらない。そう山形浩生さんがコラムに書いてはや7年とか経っても変わらないネット世論。むしろ酷くなっているか。困ったねえ。

 せっかくだからと電撃小説大賞の授賞式を見物に行って受賞者の喜びのコメントなんかを聞いていたら、どうして電撃に応募したのっていう質問に対してひとつには「最難関の賞でこれで受賞したら自信になる」といった前向きの答えもあったけれども気になったというか気に入ったのは、「電撃は何でもありだから」といった意見。よくライトノベルの賞ってライトノベルかくあるべしといった固定観念からキャラクターなり設定なりを整え、それにターゲットを合わせチューニングしないと下読みにも本選考にも通らないって話が跋扈していたりするけれど、そういう発想とはまるで違って書いたけれども他にどこに送っても通らないかもしれないけれど、電撃だったら間口が広いから大丈夫かもって送ったら本当に通ってしまったという。

 これってとても大切なことで、売れると分かっていそうなものを書かせ出して売れたところで所詮はブームなんて一過性、次に来る物をそこから生みだした訳ではない。でも電撃は今そこにないものを探し出して世に問い、そこから次のムーブメントを作っていこうとするスタンスが賞の運営側にもあるし、応募する側にもあってそれが今、巧く絡み合ってライトノベルというカテゴリーの中心域を占めていたりする。じゃあ他も見習ってあれやこれや出せば良いかというとそこは大量な応募があり、大量の発行もある中で売れ筋を出しつつそうでないのも問うて様子を見られる余裕ってものが、電撃ってブランドにはあるから出来ることなのかもしれない。メディアワークス文庫だって2年くらい頑張って、ようやくヒット作が出たもんなあ、それだけ頑張れるレーベルがあとどれだけあるか、ってことで。今年の受賞者は誰もがなかなか楽しげでそして作品も幅広そう。博多があったり将棋があったりSFがあったりいろいろあったり。そんな中から次代のスターは生まれるか。発売されていくこれからが楽しみ。


【11月13日】 「これはスカイラインじゃない」というのは過去においてもたびたび繰り返されてきた言葉でそれは箱スカと呼ばれるGC10がケンメリと呼ばれるGC110にモデルチェンジした時も、スパルタンだった外装が流麗なラインに変わりインパネも当時としてはなゴージャスさが加わったケンメリに対して、走り屋たちから異論も起こったことだろう。でも今にして思えばケンメリもコンパクトさの中に走りの味をちゃんと仕込もうとした車で、排ガス規制という高い山もあってパワフルさを大きく殺がれなければ箱スカにも負けない颯爽とした走りを見せてくれたことだろう。

 一方でケンメリはそのモダンさも手伝ってセールス的には大きく箱スカを上回って、スカイランが今に至る人気シリーズになる後押しをした。その後のジャパンからニューマンへと続いた系譜ではターボも加わって走りの性能も大きく向上。いよいよ箱スカのイメージも復活か、なんて思われたところに登場したR31が「これはスカイラインじゃない」といった声を再び呼び起こす。これからいよいよバブルに向かおうかという1985年に登場し、ラグジュアリーカーとしてトヨタのマーク2やらクレスタが大人気となるなかで、スカイランにもそうした味をくわえようとした挙げ句にローレル化が進んでそれならローレルを買うしマーク2を買うしプレリュードを買うといった層からそっぽを向かれてしまう。

 だから続くR32では角に丸みを持たせつつも全体はコンパクトにして走りのイメージを復活させたスカイランはR33でまたしても「これはスカイラインじゃない」と言わしめつつR34で体面を保ってそしてV35以降、まるで訳が分からない状態になっていたんだけれどもそれでも一方でクーペがあって雰囲気を守り、そして「GT−R」という車名を持った車を別のラインとして投入し、スパルタンな体面だけは守って来た。スカイラインにラグジュアリーさは不要だし、スカイラインに鈍重さは絶対にそぐわない。そこを守ってくれさえすればどんな不格好になろうと許すと思っていた人もいるだろう。

 だから今度発売になるV37と呼ばれる車両がインフィニティという高級セダンの日本版としてスカイランの名を冠して投入されたのをみて、いくらGT−Rがあれば良いといった意見があったとしても、スカイランという名を冠する車が鈍重な象にも似た車として世に送り出されることに、我慢ならないという層がいても当然。そもそもマークがインフィニティだし。いったい日産は何を考えているのか。フェラーリという名の車が4ドアセダンではありえないように、スカイラインが鈍重であってはいけないのだ。でもそんなフェラーリだって次に何をしてくるか。ポルシェにだってSUVが登場したし。そういう時代なんだろうなあ自動車メーカーも。せめてトヨタのセリカに……ねえよそんな車はもう。

 朝のZIPで石田祐康監督の「陽なたのアオシグレ」が紹介されててサンキュータツオさんが青春があって疾走があるって感じに見どころを的確に紹介していた。妄想と現実が重なり合ってそして気持ちの速度感が妄想に乗っかり空を飛ぶシーンとして描かれるという映画ならではの面白さに、ちゃんと触れていたのは流石というか。あれをいきなり見せられると混乱する人だっているのが分かりやすさを求めてしまいがちな現代。そこであらかじめ触れておくことで身構えをとって観ることができて理解も進むといった次第。ネタ晴れを厭う人もいるけれどでも、一般層がそれで逃げては勿体ない作品だから「陽なたのアオシグレ」は。

 朝の情報番組という大勢が観る時間にこうして決して大作ではなく、上映館数も少ない短編映画が紹介されるってのも画期的。それだけアニメーション作品が持つ視聴者へのアピール度を日本テレビが認識しているって現れなのかもしれないなあ、「宇宙兄弟」だって未だに夕方の午後5時半から放送しているし、これは読売テレビだろうけど「名探偵コナン」も土曜日だけど夕方に放送されているし。そういうのを観つつ子供はチャンネルへの意識を育てやがて大きくなっていくにつれ、同じチャンネルの他の番組に移っていく。だから一杯ゴールデンにアニメを放送していたフジテレビは80年代90年代を席巻できた、なんて仮設がふっと浮かんだけれどもどこまで信憑性はあるのかな。実際に今、フジテレビって子ども向けの番組がまるでないんだよなあ。将来が不安。現在ただいま不安まいれなんだけど。

 すでに東京国際映画祭のスクリーニングで観てはいたけど、改めて劇場で「イヴの時間」の吉浦康裕監督による最新長編アニメーション映画の「サカサマのパテマ」。設定とか結末とかもう全部分かっちゃいるけれど、そちらが正しいと分かっていても途中でぐるりと視点をひっくり返されるとそっちが主になって足元がぽっかりと開く恐さに揺さぶられるから人間って不思議。観ている景色こそが全てなんだろうなあ。そんな映画をいわゆる「正」の視点だけにして、そうじゃないところはひっくり返して繋ぎ直すといったいどんな感じになるんだろうとか思ったり。怖がってないのが不思議に見えるとか。

 あとあの空間は密閉されて物質が循環されている訳ではないってことは、いったいどういう仕組みでサカサマ人にエネルギーが供給されているんだろうかと気になった。物質の全ての重力が反転しているとして、空気だって分子だって原子にだって重さがある訳でそれが反転している物質が拡散仕切ってしまったらあとは滅びるだけ、だもんなあ。うーん分からないけどそこをSFみたく厳密性を追求することはせず、整合性とかは考えないのが吉なのか。SF者より今はライトノベル者なので許容範囲は海より広いから。とはいえやっぱり気になる世界設定。追求すべきか否か。むしろあの2人はカップルになれるのかなったらどういう暮らしをしていくのかを考える方が夜寝られない度が高まって良いのかな。そういう映画って好きです。

 しかしテレビあたりはしっかり情報として流す「寫眞館/陽なたのアオシグレ」だったり「サカサマのパテマ」だったりするのに新聞の主流を行く映画覧とかはどちらもまるで無視といったところがテレビ以上に日本のテレビの衰滅っぷりを表しているような。もはや読者に若者はいないって開き直りからおっさんじいさんに受けるネタしか載せなかったりしているのかもしれないけれど、それだと未来はないって分かっているのに目の前のお金を掴みに行かなきゃいけないから仕方がない。だったら若者向けの新聞とか出せば良いのに出しても作っている人間がおっさんじいさんだと結果は似たようなもの。クールジャパンだ何だと政府の音頭に煽られたところでそれが何を意味するのか、分かりもしないでおっさんじいさんの趣味で作って間抜け呼ばわりされるんだ。困ったねえ。


【11月12日】 現場の担当者に土下座までさせたのは来場者側の“強要”が過ぎるとしても、その原因となったジェフユナイテッド市原・千葉に所属する森本貴幸選手のチームによるファンサービスへの不参加問題はやっぱり後に尾を引きそう。何しろメインスポンサーどころか運営母体のJR東日本が展開しているコンビニでの一日店長という仕事をすっぽかしてしまった訳で、関わる人たちの潰された体面は怒りとなって選手へと向きあるいはチームへと向いて来期以降の支援停止とかを招きかねない、冗談ではなく。

 ただでさえ長く面倒を見て貰っていながら、J2へと落っこちしてまったままでなかなか昇格という結果が出せていない状況。今年こそはと期待させながらももはや自動昇格は果たせないと決定し、だからといってプレーオフに向けて調子が上がっているかとうとここに来ての連敗とはいったい何をしているのか。そんなチームに親会社がこれはもう運営していく価値はないと、見切りを付ける理由にされかねないシビアさを選手として感じていたらすっぽかすことなんて出来ないんだけれど、それをやってしまうのがキャラクターって奴なのか。さてどうなる森本選手。それよりチームはどこへ行く。

 自衛隊が機密情報を扱う隊員に対して思想信条や交友関係や趣味嗜好の類を記入して提出させていたってことがニュースになっていたりして、けれどもひとつはそれくらいのことをやらなければ機密は守れないよなあと思った一方で、そういうことも把握できないくらいに人事って他人任せになっていたりするのかってちょっぴり呆れたりもする。いくら本当のことを書かせようとしたところで、本気で騙そうとする人間ならそんなことは簡単にくぐり抜けてくる。むしろ完璧な書類を作りあげて提出して書類でしか判断できない上の覚えも目出度くして、出世していった果てにでかい案件を持ち逃げとかってなったらいったいどうするか。

 そういう可能性の方がむしろ怖いんだけれど入り口で、とりあえずチェックしておけば後は安心というのは大学入試も入社試験も同様で、それが受験莫迦とか学歴社会とか生みだして組織には成績優秀者ばかりがズラリ並んで、それが当たり前となった世代がやっぱり人を観る目がないから分かりやすく成績優秀者を選ぶというスパイラルの果て、人治は廃れ柔軟さは失われて衰退を辿るという。そういえば日本版NSCなんて作るとか政府が言い出しているけれど、受験をくぐりぬけ書類でふるいにかけられた上っ面の身綺麗な奴らがいくらがん首並べたところで、スパイは紛れ込み情報は漏洩する。それを防ごうと法律作ったって人がスカスカじゃあ意味ないよ、だってスパイはバレる前にとっくに逃げているから。そんなもんだ。

 スタジオコロリドが「ファンタジックチルドレン」や「パルムの樹」のなかむらたかし監督と、それから「フミコの告白」「rain town」の石田祐康監督を引っさげ世に送り出した『寫眞館/陽なたのアオシグレ』を劇場でやっと観る。前は試写でそれも第1回目だったんで観客もあまりおらず周囲の反応が分からなかったけれど、劇場だとこれが観たいと観に来てそして観て思い感じることを態度なり、言葉なりで表してくれるその雰囲気が肌身に感じられるんでやっぱり行くしかないのだった。でもって改めて観た「寫眞館」はやっぱり泣けた。もう泣けた。

 積み重なっていく時間の中で得られた出会いがあり、別れがあって思い出となりそれもやがて消えていく。その無常さを写真という形の中に都度都度に残していく大切さ、そして共に同じ時間を生きてきた物たちだからこそ得られる感慨といったものが映像から滲み出てきて過ぎていく時間を自分として、どう生きていくべきなのか、なんてことを考えさせられた。大正デモクラシーから関東大震災を経て戦争となり高度成長へと向かう日本に生きた2人の軌跡。一方は撮り続ける者でもう一方は撮られ続けてきた者だけれどもそんな2人が最後に並び撮られる者となって未来に姿を繋ぐ。その写真を見る者は何を思い、そして映画で写真を観た者はどうすれば良いと感じるか。そんなことを聞いてみたくなった。

 初見ではどこか平面での紙芝居的な画面に見えてしまったけれども予告編とかを経て映画として改めて観るとなかなかどうして、描かれる人間にちゃんと奥行きがあって動いて立体感が崩れないというのがとてつもなく凄いことなんじゃないか。笑わない赤ん坊であり少女であり女性に向かっておどけたりする店主も、そんな店主から人形を受けとって喜び駆ける女の子のそれぞれが理に適って動いてる。それこそ空間で演技をしているように。けれどもそうしたテクニックを意識させない画面と物語。エフェクトの凄さとかを讃えられることも多いなかむらたかし監督だけれど、動きを動かすんじゃなくって動きを収めてみせるその能力こそが優れたアニメーターとして世に讃えられる理由なのかも。凄いなあ。本当に凄い。

 そしてこちらは石田祐康監督の「陽なたのアオシグレ」は究極的に言えばハシビロコウなんだけれど、それで伝わる面白さの範囲って限られてしまうかな。かといって「ををっ! 宮崎駿ーっ!!」って叫べばもちろんニュアンスとして伝わることも多いんだけれど、ひとりのクリエーターを有名過ぎる監督に当てはめて語っても、ひとつの側面をエッセンスとして伝えられても本質は伝えられないような気もするし、だいいち何か言葉を使って伝えようとすることを生業としている人間が、安易に“代名詞”に縋るってのもちょっと違う気もする。だからこここは「ををっ! 『フミコの告白』−っ!!」って叫びたいんだけれどもなおいっそう分からなくなてしまうからなあ。難しい。

 どういうことかと言えば広く世に知られるきっかけとなった「フミコの告白」っていうショートアニメーションで石田監督が描いて見せた、果てしなく駆け抜け飛び上がり突っ走っていくその動きと、そこに思いっきり込められたキャラクターたちがそうせざるを得ない心情って奴が、「陽なたのアオシグレ」にも目一杯詰め込まれていたってこと。とはいえ両方を観れば瞭然の例えでも観ていないとやっぱり伝わらない。早く世間が“石田走り”とゆー言葉、をそういうことだと認識するようになれば良いんだけれど。無理かなあ。

 ただ思うに宮崎監督のタッタッタッといった走りと、石田監督の全身が引き延ばされるようなぐうぉーーんとある走りは似ているよーで違う気が。走りから漂うのも速度より心情ってところも。そいういう個人的な印象なりを大勢が感じとって言葉にし、すりあわされていくことによって1人のクリエーターの特色が浮かび上がり、味となり代名詞となって世に広く伝わるようになる。2世だの2代目だの後継者だのといった惹句抜きに1人の存在として。そういう風にしていけるような言葉を僕は紡ぎたい。足らなくても。届かなくても。

 空を飛ぶ者たちの孤高と、戦場に集う者たちの虚無が重なり合ったところに生まれる凄絶な空気。それが実に良く出て慄然とさせられた「緋色のスプーク」
続くササクラさんの「アジュアの死神」(講談社BOX)は、前作にも増して空戦と謀略と恋情と憎悪が入り混じる異色のラブストーリーになっている。ヒメノという国で“緋の死神”の異名を取っているパイロットのニケを専属で見ていた整備工のアガヅマが、謀略に巻きこまれ自ら入り込んだ果てに敵国とも言えるヘルティアへと亡命して、似たような境遇だったり占領下の生まれだったりする人間たちの部隊で黙々と任務に就きつつ、基地を仕切る女性の中尉ともいい仲になっていたところに動きあり。

 基地で働く女性整備工の姉が歌手として慰問に来たらそこにヒメノからの空襲があって歌手は爆死し、さらに戦いは続く中で“緋の死神”ことニケもヒメノを裏切りヘルティアのスパイとして合流。そして大国をバックに復興途上にあるヒメノを本格的に攻略するべく反攻していこうと動き出した海上で、裏切りやら寝返りやらが起こってもう組んずほぐれつといった具合にめまぐるしく変わる立場の中、アガヅマとニケの関係だけが変わらない。寝返ったからといって味方になったとは限らない立場。寝たからといって信頼を預けたとは限らない関係。誰をも信じられない状況にありながら、ただ空を飛び敵も味方も落として平然としている少女と、彼女に熱を上げる訳ではなくただクールに守り機体を整備する男との関係が貫かれる。

 そして迎える最後まで関係は変わらず続き、“緋の死神”の軌跡にひとつの幕が下ろされる。雰囲気なら「緋色のスプーク」の時にも思ったように森博嗣さんの「スカイ・クロラ」シリーズに似たところがあるけれど、空戦の迫力は負けていないしそれ以上にドロドロとした謀略と諜報がある。何よりどこか希薄さを漂わせる「スカイ・クロラ」のキャラクターよりくっきりと際だつ登場人物たちの存在感。そこがライトノベル的であり、かといって一筋縄では読みとれないストーリー、淡々と綴られる描写あたりはサスペンスであり文学といった薫りを漂わせる。犬村小六さんの「とある飛空士」シリーズとも違うニュアンス。早くアニメ化して世に知らしめるべきだと思うけれど今ひとつ、読まれていなさそうなところがあるからなあ。だからこうして喧伝。読もう2冊まとめて。


【11月11日】 ジュビロ磐田がJ1からJ2に陥落とうことで、すでにジェフユナイテッド市原・千葉の陥落を経験している身には後に続いて大変ですが頑張って下さいとしか言いようがない反面で、頑張られると今度はこちらが上がれなくなるので頑張らない出下さいとも言いたくなってしまう複雑さ。ってことは既に今年にJ1へと上がることを諦めているのかって言われそうだけれども現実、連敗とか喰らってしまうといくらプレーオフ圏内にいたところでそれで上がっていったいどうなる? J1で戦えるの? といった疑問も先に立ってしまう。無理かもしれないなあ。でもやっぱり観たいJ1でのその躍動。だから残る試合で調子を上げて、来るプレーオフに是非勝ち抜いてと蘇我に向かって礼。どうかなあ。

 というか鬼虫復活しすぎだろうと思わないでもない九岡望さんの『エスケヱプ・スピヰド伍』(電撃文庫)は、とっつかまえた日足に久留守といった甲虫の特機から情報を聞き出そうとしてもよく見えず、それでもどうやら帝都に敵と通じてる勢力があるといったことが見えてきて、どうにかしなきゃと会議に入ったまらまるでほとんどが敵だったという、そんな有り様。帝國とやらとの戦争がほぼ終結して20年経ってどうにか情勢も落ち着き復興に向けて動き始めている世界で、どうしてそんなに帝国相手に決着を付けたがる人がいるんだろうって思わないでもないけれど、前線から遠のくと楽観主義が現実にとって代わるのは今も未来も代わりがない。

 勝ちたかったという後悔が勝てるはずだという根拠のない願望にすり替わって、負けたことを認めたくない気持ちもそこに加わり、戦いの場へと人を向かわせていく。なんというくだらなさ。敵の帝国だって鬼虫たちの登場とか観てもはや戦ってもどちらかが殲滅されるだけだと感じ、厭戦気分の中に終戦の締結を模索しているというのに、退けられはしても反攻の余力すら亡かった国がただいたずらに負けたままでは嫌だとか、戦えば勝てるはずだと妄想を抱くとかして、無謀な戦いへと挑み無辜の民を大勢苦しめようとしている。そんな状況は、今のこの現在にあっていつかの戦争の敗北を認めたくない気分を外に向け、醜い言葉で世間を煽って戦いへと持っていこうとしている輩とどこか重なる。

 何とも鬱陶しい、そんな勢力への牽制にこの物語がなっていってくれたら嬉しいんだけれど、そのためには九曜と仲間たちが目前の敵のみならず、国内上層部に巣くう好戦派をも暴き退けないといけないからなあ、それがなかなか大変そう。国体としていったいどういうスタンスでいるのか、それを司っているのは誰なのか、といった辺りが未だ見えづらいこともあるし、鴇子の本体ともいえる殿下が相手方に付いているってこはそうした統治機構をも巻き込み戦争遂行へと突き進んでいるとも言えそう。中心の見えないまま気分だけが先走っていく今の状況ともこれまた重なって見えてしまう。メディアも何を遠慮しているのか反動的な政策に異論を唱えようとせず、まるで役に立たないし。

 果たしてそうした流れに逆らって、九曜と<蜂>はさらわれた叶葉を救い出し、かつての仲間を翻意されるなり倒すなりして国内をまとめあげられるのか。内紛につけ込み帝国が進撃してくる可能性は。考えるとさらに大きなクライマックスが待っていそう。そんなデカい物語の傍らでは、叶葉がかつて仕えて伍長さんのやっぱりな再登場とかあったりして、九曜も気が気じゃななさそうな三つどもえの状態になる可能性も芽生えて恋のドロドロとか繰り広げられるかな、しないかな。そういう恋愛だの嫉妬だのといった感情が九曜に残っているかは知らないけれど。でもあの美味しいご飯を1度でも食べれば彼女に従わざるを得なくなるみたいだし。久留守もそうだった。食は偉大なり。

 そうか11・5%だったかTBSのドラマ「安堂ロイド」の第5話の視聴率は。始まる時にはいろいろと話題にしていた僕の周辺の人たちはもうあんまり「安堂ロイド」について関心を向けていないようで、ツイッターのタイムラインとか眺めていても「艦隊これくしょん」について離していても「安堂ロイド」については誰も話題にしていない。SFなのに。特撮なのに。桐谷美玲さん本田翼さんが出ているのに。そりゃあSFとして穴があると言えば言えるし演技だって展開だってどこかに無茶はある。でもそんなおおざっぱさと、ストーリーを貫く信念みたいなものは、かつてNHKなんかで放送されていた少年ドラマシリーズのよう。青臭いしチャチなところがあっても観ていてワクワクして放送を楽しみにしていたあの感じが、「安堂ロイド」には実にたっぷり漂っているのだ。

 泣ける展開もいっぱいあって先週は安堂ロイドという名を付けられた木村拓哉さん演じるアンドロイドがかつての仲間と戦い、そして感情を芽生えさせていく展開が描かれいったいどうなるんだと期待させた。そして今週はそんな感情が安堂ロイドの動きを縛っているのを観るに見かねたサプリが動いてそして悲劇的な結末へと進んでいった。涙なくしては見られないその展開。一方で刑事の遠藤憲一の周囲でも悲劇は積み重なって1人だけになってしまうのにそれでも諦めないで真相へと迫ろうとする刑事魂を見せてくれる。

 さらに大島優子さん演じる沫島の妹には桐谷美玲が演じる謎の少女が絡んで誘い導こうとしてる。そんな群像がひとつに絡み合っていった先に描かれるのはどんな場面か? どんな世界か? 今から気になってしょうがない。感情らしき者が芽生えインストールされてちゃんと抱くようになって安堂ロイドを演じる木村拓哉の表情とかちゃんと変化していたりするところもなかなかの見どころ。今からでも遅くないから見ないともったいないとらんど。本当だって。

 理由は明白なのだけれどもふと思い立って大昔にアメリカで買い帰って来た「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のDVDを観てうん、アメリカのラムちゃんの声優はそっくりだなあとか思ったりもしつつ、やっぱり良く出来ている話だなあと思ったよ、ああ思ったさ。そして想像した。目覚めたラムとあたるが関係を確かめ合おうとして邪魔が入ってあたるが突っ張った時に、ラムの無邪気さではなく邪悪さが浮かび炸裂していたらあの後世界はどうなったのだろうか、なんてことを。その理由はだから明白なんだけれどまだ観ていない人のために詳細は省く。でもアレを観る前でも観た後でもとりあえず観賞おいて損はないと思うよ。

 きゃぴきゃぴとしたラムちゃんに対して面堂の声は神谷さんとはちょっと違った感じのハスキーさ。あれで暗いよ狭いよ怖いよと騒ぐ声とキリリとした二枚目声をどう使い分けているんだろう。今度は日本語オリジナルではなく英語音声で観てみるか。ちなみにアメリカ版のDVDはわが家のアナログ旧型液晶テレビの4:3の画角めいっぱいに映像が出てた。調べると日本で出たブルーレイは映画と同じ横長のビスタサイズに上下が切られているそうで、その意味では作られた時の雰囲気とか、大昔に売られたレーザーディスクの雰囲気を残しているって言えるのかも。でもエンディングが切られて余韻がちょっと違う感じ。1度発表になりながらポシャったブルーレイ版が出て16:9とそれから4:3の両方が入れば良いのになあ、英語音声ももちろん入れて。どーして出ないんだろう?


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