縮刷版2012年7月中旬号


【7月20日】 まあしょうがない。フランスの女子サッカーは昔っから強くってモンペリエとか女子サッカーでも名を挙げているチームもあるしリヨンだっけかは女子版のチャンピオンズリーグでも確か3年続けて決勝に出て2年続けてドイツのチームを相手に優勝もしていたりする。そんな下地も持ったチームが弱いはずもなくって日本のなでしこジャパンは調整中ってこともあってずいぶんと翻弄されてしまった様子。あるいは得点を奪う方策が見つからなかったのかもしれないけれども、いずれ対戦するかもしれない相手に手の内をさらさなかったのはむしろ僥倖ととらえつつ、来るロンドン五輪へと望んで順繰りに調子をあげてそして、フランスアメリカの撃破といって戴きたいところ。しかし赤いユニフォームは日本代表には縁起が悪いよなあ、悪くはないんだけれど、でもやっぱり。

 たぶんデビュー作の「渚のロブスター少女」(ファミ通文庫)は読んだことあるよなあと、名前を調べて過去作を思い出したあきさかあさひさんの最新作「まだなの? マイヒーロー」( 集英社スーパーダッシュ文庫)は戦う美少女たちの物語。高校受験に失敗して第一希望の学校に行けず滑り止めで受けたところに通い始めたもののどうにもこうにも居づらく1週間で家から出なくなった少年の千石寺旬。大企業を経営する家族がいて妹なんて天才発明家でお金に不自由なんてないのにプライドだけが肥大して、経営をしている訳でも発明で突出している訳でもない、ただの秀才がたった1回、失敗したからといって引きこもる愚は愚として、だからこそ出たくなくなるというのも分からないでもない心理。そして周囲は心配して、一緒の学校に通うことになった少女は毎日のようにプリントを届けにきては門前払いを喰らわせられ、旬が行きたかった学校に行った少女はツンとしながら心配の電話をかけてきて、やっぱりすげなくあしらわれる。

 どうしたものか、といったところで妹の発明家は、夜逃げした父母においていかれたところを千石寺の家に拾われ学校に通わせてもらえる代わりにメイドとして働き始めたかなめを誘い、彼女が戦闘美少女として活躍する姿を旬に見せることで彼の心を動かそうとする。一方で彼が行きたかった学校に通い始めた松本という少女の家もまた大きなメーカーで、父親は旬の妹に負けない発明家でライバル家の動きに反応して娘を反逆のヒロインに仕立て上げては町で善行をふりまくかなめと対立させる。そんなバトルを見ながらも動かない旬に見えた、戦うヒロイン達を襲う何者かが設置した爆弾による危機。そして動き始めた彼は彼としていったい誰がそんな仕掛けを施したのか。第三者の乱入もあって見えなくなった展開の中、高校受験に失敗した程度のことで引きこもっていた旬はどう代わり、どう成長していくのかって辺りが今後の展開から楽しめそう。続くかな。続くよな。

 童貞力万歳。ライトノベルにあって童貞の屈辱を力に変えた少年たちの戦いを描く作品として、幾谷正さんの「神童操機DT−O」と双璧を張る八針来夏さんの「覇道鋼鉄テッカイオー」に最新作がいよいよ登場。暗黒武侠によって死に至る病をもたらされたルゥランという少女に力を分け与えることと、そして強くなることを目的に童貞だけが使える憲法を無理矢理にでも取得させられたカザンという少年が、ルゥランとともに銀河武侠として宇宙を旅してそして起こったテレバスの力を持った人間の断末魔を爆弾にして周辺の人々を殺そうとする暗黒武侠の企みを、旅の途中で発見した覇道鋼鉄「鉄塊鳳」を復活させることでどうにか阻止した第1巻から続く第2巻。1発使われた精神爆弾の信管にされた少女の思いを叶えようと、信管にされかかったお姫さまを連れて宇宙を旅していたところに現れたのが新たな暗黒武侠が2人。

 ひとりはその名をミャウ=ガーといって「神算魔女」の二つ名を持つ電磁を操る力を持った少女で、もうひとりは彼女の義父ともいえる「凶凶暴星」ガーナクラ。ともに十絶悪鬼と呼ばれる暗黒武侠の10人衆に名を連ねる存在ながらもそれだけに、主義主張もあって同じ暗黒武侠の「蛇渇横行」が企んた非道な振る舞いのフォローをしようとしていた。実は同じ目的に経ちながらも、方法論が違い対立するカザンたち銀河武侠とミャウ=ガーら暗黒武侠の戦いは、善でも悪でも同様に貫かれる信念の強さ、重さといったものが問われる。そのうえで誰かを犠牲にしてでも誰かを救いたいと思う気持ちの尊さ、強さをさらに乗り越えそのいずれをも救ってみせるという気持の凄まじさってやつを見せつけてくれる。それが常にできれば世話ないんだけれど。でもやっぱりそうしたいのが正義であって、妥協してしまった時点で正義ではないんだろうなあ、きっと。ともあれ貫かれた正義と守られた童貞をねらい新たな参戦者。果たして守られるのかカザンは。童貞の癖にモテモテだなんて許せないけど、それは一方では試練だよなあ。頑張れカザン。魔法使いになるその日まで。

 なんか茫洋としていたら鳩山由起夫元総理が官邸前での反原発デモに現れたとかでいったい何なんだこの人は。国会議員という国の政を行う場所に代議士としていて、なおかつ今は党員資格停止中かもしれないけれども離党はしていない歴とした民主党、すなわち政権与党側の人間で、それも結構な高位に立っていてそして何より総理経験者という大きな大きな力を持っているなら何かやるならまずは国会という場においてであって、あるいか党という場においてであって、そこでもてる権限なり権力のすべてを動員してことに当たるべきであって、それでもなお動かないと分かったのなら政権与党の人間という立場も、国会議員という立場もうち捨てて外に出て、平場に立ってデモに参加する人たちと同じ目線で訴えるのが筋ってものじゃないのか。何か党内で、あるいは国会内で努力した節も見せないで、運動の上に立って見方してます的な言説を垂れ流して、それで信じる人がいたらむしろそっちの方が異様だけれど運動が運動のために運動となっている時には、その運動を肯定してくれる人は仲間であるという意識に拘泥した集団は、気づかず騒いでそして傍目から苦笑を買うことになるだろうなあ。あるいはそうした苦笑を招くために、刺客となって送り込まれたのか元総理。だとしたら敵はなかなかしたたかだぞ。


【7月19日】 けんかはだめーっ、って単純極まりないけれどもその単純さが何か打開の鍵になるとヴィラジュリオも期待していたいするんだろーか「輪廻のラグランジェ2」。鴨川上空へとやってきては戦い始めたランとムギナミの間に割って入らず通り過ぎては戻ってきて、止めたまどかだったけれども事はそれで収まるような単純さではなく、星の生き残りをかけての対決にまどかを武器として使うかあるいはそれなら殺してしまって使えないようにするかといった謀略が進行中。その尖兵となったかあるいは逃がしたり、守ったりするために来ただけなのか、分からないけれどもそれでもやっぱり敵同士のランとムギナミを、あっさりを仲直りさせ自分のペースに持っていてそのうち何とかなるだろうと吠えてみせるまどかがやっぱり最強ってことで。ランちゃん相変わらずお尻の形がすばらしい。さても明るいエンディングを迎えられると良いなあ。

 沢穂希選手が今の日テレ・ベレーザに入ったのが1991年ってことだから、当然ながらキングこと三浦知良選手とは東京ヴェルディですれ違ったりしているんだろうけれども当時のカズは日本でも1番くらいに有名で多忙なスポーツ選手でまだ中学生だかだったの女子サッカー選手が近寄って会話したりする余裕なんてなく、アトランタ五輪で代表に選ばれた1996年あたりになっても今度はカズ選手がイタリアに行ったりしていて日本におらず、男女のスターめいた扱いから並べ対談させるようなこともなかっただろう。その後にカズ選手はチームを離れて点々として今は横浜FCに。一方で沢選手はベレーザからアメリカなんかを経て戻りINACへと移ってそしてなでしこジャパンで世界制覇を成し遂げ、名実ともに今の男子も含めたサッカー界の頂点を、香川真司選手と分けあっているといった感じ。

 とはいえ燦然と輝く過去の栄光、そして今も変わらないサッカーへの情熱からカズ選手はやっぱり沢選手にとって仰ぎ見る存在だったって感じ。Numberの最新号でこの2人が意外にも初めてのツーショット対談が実現。カズ選手にはいじってもらえなかったけれどもラモス選手とはパス回しをして遊んで本気で削りに来られたって話を沢選手がしているところに、ラモスさんらしさを見たり誰もが競争相手というヴェルディの伝統を見たり。それがどうして今のあのJ2暮らし。分からないなあサッカーって。最後にメダルの栄光を得たらなでしこジャパンの面々にキング・カズ選手が自ら仕立てたレストランにて食事を奢るという話。豪奢な。そこには佐々木監督も呼ばれるとか。できればバックアップメンバーも入れてあげて下さいな。そういう機会から未来を感じ伸びていくはずだから。でもいっぱい食べそうだよなあ、山根恵里奈選手。

 ウナギが捕れなくって値段が上がっているって話に絡めてどうも川にあらかた河口堰が作られたんでウナギが上にのぼって生育しなくなったって話が出回っているんだけれどでもなあ、どちらかといったら河口堰があるなしに関わらず、川に戻ってきたシラスウナギをまとめてごっそり獲っては養殖場へと回してもらうものだから、河口堰の魚道をのぼって淡水で生育するウナギの数が減り、それがまた海へと戻ってグアムだかフィリピンだかにあると言われるらしい産卵場で卵を産んで、そこから生まれたシラスウナギたちが戻ってくる数も減ってなおかつ、やっぱり一網打尽的に戻ってきたところを獲られてしまうというスパイラルで、収穫量が減っているってことが原因なような気がしないでもない。

 ようするに乱獲。だって昔に比べて本当にいろいろな場所でウナギが食べられるようになったもん、日本。コンビニでもスーパーでもファストフードでも普通にウナギが売ってる時代。そりゃあ数も減るってば。欧州でも似たような乱獲が起こっているらしくっていっそウナギを禁漁にしようって勢い。いずれアフリカあたりでも同様になってマダガスカル産だかのウナギですら食べられなくなるんだろうなあ。今年が食べ収めになるのかなあ。そして次に起こるのは数年前からコンビニあたりでも売られるようになった「恵方巻」の乱獲による収量源から販売停止か。川から海へと出て中に魚介類を抱き込み川へと戻って干瓢とか入れ込んで大人になる「恵方巻」をこれだけ乱獲しているんだから、いずれ獲れなくなるのは必至。1本1万円とかになってしまうんだろうなあ。来年の節分あたりが食べ収めかなあ。そんな訳はない。

 大人って……、ってただの先輩だけれどのその先輩の挑発に乗っかり漫画にレビューが必要か否かの議論を始めた漫画研究会。けどその時にはこっそりと乙女たちが熱い議論をコスプレ姿で行っているといった張り紙が。何だ客寄せのためのやらせかよ。それを知って挑発する部長なかなか策士。けど摩耶花にはそれが分からず分からせてもらえないまま何やら古い漫画を持ってくるといっては部屋中を家捜し。出てこないからといって折木に相談するんだろうか、どこにしまったんだろうかって、別に占いの部屋からタロットカードの運命の輪だけが消えたり囲碁部から碁石が消えたりと事件も頻発。それをきっとまたしても千反田の「気になります」攻撃をくらって折木が解決に乗りだしついでに刷り過ぎた文集も売りさばくんだ。濃密にして繊細にして奥深い学園祭描写は最近の学園祭アニメの中でも最高峰か。まだバンド演奏がないけど。


【7月18日】 案の定のお祭り騒ぎ。受賞した人には何の責任もないものの、それだけが何か特別なものだと持ち上げたがるメディアの阿呆らしさは、さらにエスカレートしていく一方。芥川龍之介賞を受賞した鹿島田真希さんに受賞までの年限を「苦節10余年(14年?)」とか言わせてしまってだったらいったい、その間に受賞した三島由紀夫賞はいったい何なんだ、受賞してもまるで生活も作家としての尊厳も、満たしてはくれない泡沫の賞なのか、野間文芸新人賞もやっぱりとっても何の足しにもならない賞なのか、って会見の模様を見たり聞いたりした人に思わせてしまいそう。賞を出している新潮社も講談社も徒労感を味わっただろうなあ。それが作家にとって何の助けにもならなかったと知って。

 もちろん鹿島田さん自身が三島賞にしても、野間文芸新人賞にしても、まるで助けにならなかったと思っているのとは違って芥川賞というポイントをクリアするまでにかかった期間を苦節かと聞かれそうだと答えたような雰囲気があったりする。むしろ聞いた側に芥川賞こそが至上であってそこに至る過程で与えられた賞など泡沫、といった意識が根強くこびりついている現れでもあるし、だからこそ芥川賞とあと直木賞だけがテレビのワイドショーとかで報じられて騒がれるんだけれど一方で、そうした風潮を文学の側が何の是正を求めることなく、また自ら働きかけることなく野放しにしてしまっているからこそ、受け取った側にも三島賞ではまだ足りない、野間文芸新人賞ではどこか及ばないって意識を、持って質問にそれを窘めることなくそうだと答えてしまうんじゃなかろーか。

 三島賞や野間文芸新人賞をもらって嬉しい賞にするにはやっぱりそれなりの数字をつけてあげることだし、世評を持たせてあげること。あるいは逆に三島賞だろうと野間文芸新人賞だろうと芥川賞だろうと、それを取ろうと取るまいと世間が支持して数字も上がる作品を世に送り出して書いた人が満足感を得られるような環境をどんどんと整えていってあげること。電撃小説大賞出身ではあっても、まるで世間的には無名だった三上延さんが「ビブリア古書堂の事件手帖」でシリーズ300万部超えなんて、オバケのような数字を叩き出したり、講談社Birthだなんて知る人すら知らない賞から出てきた青柳碧人さんの「浜村渚の計算ノート」シリーズが文庫刊行即増刷という快挙を達成してこれからおそらく「ビブリア古書堂」に迫る勢いで売れるだろうことを思えば、賞なんてそれをもらってようやく箔がつけられる人のためのもの、なんて目で見てあげる風潮も、いずれは出てくるかというとやっぱり。そこは何かに頼らないと報じられず評価できないメディアと読者の双方にあふれた世間。むしろその結託はなお強まっていくんだろうなあ。

 4月からスタートした番組で実は1番面白かったんじゃないか的進展を見せていた「世紀末オカルト学園」がいよいよ最終回。もちろん前に見えるし海外版のブルーレイボックスも買っていつでも好きに見られるんだけれどそれでもやっぱり放送されたものを即見てドキドキとしながら見守っていたノストラダムスの鍵の謎に決着がついて、そして未来から来た文明が自分を輝きに変えてでも過去の文明を守り未来に繋げようとする活躍があって、平穏な日常が取り戻される展開にはぐっと来る。はじき出される形になった未来から来た文明がどこへと向かったのか、戦いの未来が消えてアジトから出たマヤの父親に10数年を苦戦して来た記憶はずっと残るのか、あの平穏な浅草に足を踏み入れたあたりで消えてマヤが大人の文明を失い、子供の文明を助けて世界を破滅から回避してそして戻ってきた父親と、それから平穏に暮らしてきた記憶が上書きされるのか、なんて想像も浮かんでくる。それだけ考えさせる設定を持ったストーリー。日本SF大賞だって星雲賞だって授賞はともかくノミネートくらいされても良かったんじゃなかろーか。まあどちらも時の話題がノミネートから受賞につながり易いからなあ。僕だけは愛し続けるこの作品を。

 北朝鮮が何か重大発表をするってことでその時間に至るまで巡らされた想像のあれやこれや。いよいよもって日本のアニメーション文化を視察に金正恩第一書記が日本を公式訪問する、ついては当日の東京ディズニーワールドは新しいアトラクションの「トイ・ストーリー・マニア」をせめて200分待ちにしておくこと、さもなければ悲劇的な事態が起こると宣言するとか、あるいは金正恩第一書記がコミックマーケットに出展するので当日はこぞって買いに来るように、ジャンルは女性向け創作で半島のプリンスと呼ばれた好青年が、南に暮らす美しい女性に心奪われ向こうも同様に彼に好意を抱くものの、38度線に寄って引き裂かれたその恋が、やがて成就するまでを描いたラブロマンスを金正恩第一書記自ら描いた全15巻にも及ぶコミックスを販売するといった内容かと、思ったら案外に普通に元帥になって党的にも軍的にも第一人者になるって話だった。見えてる路線を発表されても世界は驚かないので次は是非に世界が震撼するような発表を。「ももいろクローバーZは俺の嫁!」といった無理矢理な宣言でも良いから。

 まあそりゃ当然だろうなあ、たとえ5億円近い赤字が出たところでそれをやってことが報じられたことによって得られた知名度アップを広告費に換算したらとてもじゃないけど5億円じゃあきかないはず。日頃からそんなにテレビとか使って宣伝している訳でもない会社にとって、これはやっぱり相当に大きいって見るべきで、だからやっぱり開催が決まった来年4月の「ニコニコ超会議2」開催。赤字になったすごいイベントという宣伝効果もそこに乗っかりきっと大勢が集まるんだろう。

 あとどこにどれだけ突っ込めば良いかっていった目算も立てられるし、その集客効果を狙った協賛企業もいっぱい出てきそう。2年をトータルしたら黒字って事態だって考えられる。そこまで睨んでの開催だったとしたら相当な策士もいそうだけれど、あんまり考えずに突っ走っているところがニコニコでありドワンゴの軽やかさに繋がっているんだろー。地方の祭をめぐるイベントとかも持ち出しだろうけどそれで得られる何かがあるって判断。何より楽しんでもらえれば。そんなマインドがあるうちは大丈夫。むしろそんなマインドが衰えつつある世間の明日が不安。

 「天使な小生意気」とか「鋼鉄の華っ柱」って漫画を描いている西森博之さんがなぜか小説を刊行。あとがきによれば「お茶にごす」の前に描こうとネームを切ったら、何か編集者から半笑いされて引っ込め「お茶にごす」に切り替えたとかで、半笑いする編集者も編集者だけれど、そこで怒らず逃げずに「お茶にごす」を描いた西森さんもなかなかの胆力。編集と漫画家との意志疎通にいろいろと悩ましいところが出ている「週刊少年サンデー」だけに、一触即発も心配したけどそれはどうにか回避して、引っ込めた安も無事にこうして小学館から小説の形で出た訳で、そのあたりは西森さんが一挙両得だったとも言えそう。

 半笑いされた時にこれなら漫画で描かずとも小説で書けると思ったのは、逆にいうならこれは漫画ではちょっと描けそうもない題材だって思ったこともあったのかな。これが漫画になったらそれこそ「サンデー」きっての問題作になったこことは必至だから。それだけ凄まじい作品。小説で読めるだけで本当に良かった。どう凄まじいって少年少女たちの殺し合いが演じられるところが凄まじい。何やら空から隕石が落ちてくると世間は大騒ぎ。もっとも隕石は落ちず塵だけが広まったような感じだったけれども、その塵に大変な秘密があった。金属を喰らうバクテリアらしいものが付着していたのだった。酸素を得て急激に増えたその金属喰らいのせいで、世界中ではあらゆる文明が崩壊へと向かう。

 そんな最中に修学旅行で京都に行っていた少年少女たちは、東京に戻ることもできないまま孤立した状況の中で一種のサバイバルを繰り広げることになる。そんなひとりの中澤信吾という少年は、感情が希薄でドキドキしたことがないという性格。一方で水上鈴音という少女は小動物のようにおどおどとして親切で優しく、研究者だった父親からバクテリアの話を聞いて食糧を買い集めろといわれ、信吾や彼の友人らしい横川と相談してとりあえず、食糧を買いだめしたものの事態が深刻化して食べ物が尽きて殺伐としてきた旅館で、保存してあった食料を平気で分け与えてしまう。

 何てこそするんだと憤るはずの中澤も、なぜかそれを面白いと感じ、横川も殺伐とした空気が収まったことでまあ仕方がないと受け入れつつ、とりあえず東京に戻ろうとして旅館を出て歩き始めた生徒たちのうち、金閣寺を見たいと言いだした中澤についていった鈴音や横川、北島、榎本、中川祥子と木幡理英子の7人は、金閣寺を見てそれから本格的に東京へと向かい歩き始める途中、食糧を求めて襲撃してくる少年たちと戦うことになる。もっとも、獣性が露わになりそうな食べ物をめぐる戦いが、やがてプライドをかけた戦いへと横滑りしていくのが不思議というか面白いというか。

 人間ってのは本能を暴走させて野獣と化す存在というよりは、その尊厳を守ろうとして暴虐へと向かう生き物だからなのか。満たされればそこでやめ、敗れればそこで諦めるのが本能というものなのに、しつこく中澤たちを追いかけて来る片岡ら一党のしつこさに、妙な人間らしさを見てしまう。そんな奴らを撃退し、立ち上がれないようにしたがる心を持たない中澤を、けれども押しとどめようとする鈴音の心理も、どこかに人間としての第一線を守ろうとする情動が見て取れる。暴虐へと向かうのは困るけれども同盟へと向かう心理がある限り、何があっても人間は野生へとは戻らず、生き抜いていけるのかもしれない。しかし強いな中澤。未来はどうなるんだろう人類。


【7月17日】 渋谷のシネパレスで長編アニメーション映画「グスコーブドリの伝記」が始まる前にずっとかかっている一種の主題歌として小田和正さんの「生まれ来る子供たちのために」があるんだけれど、何度も繰り返し聞いていてところどころテンポが違うなあ、歌い出しが早かったりするなあって感じたのは最初のオフ・コースによるバージョン「生まれ来る子供たちのために」がしっかりと頭に刻まれてしまっているから。ベストアルバムに入っていたそのバージョンを聞いて鳴り響くサウンドやコーラスも含めてそうだよこれが僕の「生まれ来る事もたちのために」だよって思ったところで現実、それを使うことって今の状況では難しいんだろうなあ。まあそれでも小田和正さんバージョンのであってもこの曲が使われるのは嬉しいこと。また聴きに行こう。そして映画も観よう。グスコーブドリのお母さんが家を出ていく場面で映る影がどうなっているかに注目して。そこにあるいはこの映画の象徴があるらしいから。

 坂本教授が「たかが電気」って言って大騒ぎになっているらしいけれどもあれは違うって、坂本教授は石川浩司さんがローランドの電子ドラムを叩き、知久寿焼さんがギブソンのレスポールをハイスピードでかきならし、柳原幼一郎さんががヤマハの電子ピアノを華麗に弾いてそして、滝本晃司さんがフェンダーのジャズベースをチョッパースタイルでガン鳴らすライブスタイルをふと想像してこう言っただけなんだ。「たまが電気!」。どうだい想像するだけで何か言いたくなるだろう。言葉が口をついて出るだろう。「たまが電気!」それがたまたまあの檀上になってしまっただけ。だから坂本教授は悪くない。だいたがい電気自動車のCMに出ている人が「たかが電気」だなんて言うはずないじゃん。言ったら自己否定じゃん。だから「たまが電気!」が本音で本心。とうかたま、本当にやらないかなあ、エレクトロニックライブを。

 しかし怖くて口にできない「たかが伝奇」って言葉。そんなことを言おうものなら菊地秀行さからヴァンパイアハンターを送り込まれて串刺しにされ、朝松健さんからは異形の神々を送り込まれて祟られ呪われ狂わされる。そして夢枕獏さんの方面からは、九十九乱蔵が2メートルを超える巨体でもってランドローバーに乗ってやって来てはその特注らいしダナーのワークブーツでもって蹴られたり踏まれたりするんだ。だから伝奇だけは「たかが」なんて言っちゃいけない。それらの世界をかれこれ30年40年かけて育ててきた偉大な人たちを冒涜するものだ。なんつって。そんな面々に加えて富樫倫太郎さんと藤木凛さんを加えたあたりが今の伝奇のトップランナー? この2人からならやっぱり式を打たれて身辺をあわただしくされそう。だからここは悔い改めて言おう。「されど伝奇」。されどかよ。

 ずいぶんを端折っているなあって印象が強い第2期の「境界線上のホライゾン」。割とトゥーサン・ネシンバラとトマス・シェイクスピアの戦いに尺を割いた一方で、落下する船の下敷きに子供がなりそうになってそれを避けようと傷ありが船に何かをぶち当てようとしたところで点蔵が、とどめてそして船の先っぽを二代とか誰かがどうにかして、子どもたちを救い出した場面でどうして点蔵は傷ありを押しとどめたのか、そしてどうやって子供たちは救われたのかがはっきりしないからあそこで点蔵の行為に対して傷ありが、何か感情を抱く理由にちょっと至らない。それが点蔵に誰もがもげろと思うようになるきっかけなのに。あとフェリペ・セグンドの存在感の薄さをアピールする全員集合場面で彼がお掃除おじさんになっているシーンも最初になかったから、いきなり登場した彼がセグンドなのかという事実も、その存在感も初めて見る人にはあんまり伝わっていないような気がしないでもない。まあそれは原作読んで補完しろ、ってのがこの作品だから良いんだけれども高密度が行き過ぎて意味不明となるとせっかくついたファンが離れて第3期第4期が作られなくなってしまうからなあ。そのあたり、もうちょっと段取りをしっかり取って欲しいもの。

 空に突然現れ、全天を埋め尽くした花の下で、人間たちは降り落ちる花粉に影響されて理性のたがを外して殺し合う。そんな花粉病が発生した中で、転がり並ぶ死体を踏み越え男女が歩く最中にどこかから、少女が助けを求めて電話をかけてくるエピソードを発端に話が始まる佐藤友哉さんの「星の海に向けての夜想曲」(星海社FICTIONS)は、四半世紀が経って未だ続く花粉病の恐怖から罹患者はすべからく殺すべしって仕組みが作り上げられた中を、それでも七夕の日の空を見たいと少女が学校に居残り、空を見上げて花が割れ、星空を映し出す瞬間を待ち望むエピソードへと向かう。それからしばらくたって、花粉病にかかったからと殺されるはずの患者たちの中にも病気の発症を逃れ理性を取り戻す者が能われるエピソードがあり、100年が経ってシェルターの外にいってそこに寝ていた老人と出会い花粉病と花の正体に迫る除法を得るエピソードがあって、800年が経って人工的な存在が思考するエピソードへと至る展開で、根本的な花粉病の問題は解決せずとも人類は、いろいろな手法で生き延び空の花と対峙している様が描かれる。

 全天を埋め尽くす花が現れたのが3月11日というところに仕込まれた大震災への暗喩があるとして、その後のこうした展開にもまたいろいろな暗喩があるのだろうか。花粉病はパンドラの箱があいて飛び出してきた狂喜にとりつかれてしまった人類であり、何百年が経とうとも消えない毒があってそれに核兵器まで加わった人類にはもはや処置の施しようがないというメッセージがあったりするのだろうか。それにしては人類はなかなかにしぶとく1000年の後にも存在しているような印象。そこに希望を見出すべきなのか、ただひたすらにだらだらと衰退していく人類の姿を見るべきなのか。空に一面の花というビジョンはある意味で華麗だけれど別に思うならグロテスク。そんなビジョンが暗喩するものも含めていろいろと読み応えがありそう。普通にSFとしても。


【7月16日】 ドアを1センチほど開けて換気扇を回し部屋の方も窓を少しだけ開いてそして扇風機を上に向けた体に直接当たらないようにして回しながら眠り起きてもやっぱりびっしょりを汗をかいたのか体が水を求めていたので、脇に置いたペットボトルから水分を補給してそして目覚めて電車に乗ってはるあばる来たのは国分寺。いつもだったらタツノコプロとか前だったらプロダクションI.G.のある南口へと降りるんだけれど今日は京都て武蔵野美術大学ってところに行かなくちゃならないからそっちに出たらまるで見当がつかない。バス停どこだ。探したら西武の方にあったというか国分寺まで来てたんだ西武鉄道。どこへと繋がっているんだろう。単線ってのも凄いなあ。

 ようやく探し当てたバス停から武蔵野美術大学行きに乗ったら割と綺麗なお嬢さま風の人がいっぱい乗ってこれらは今敏監督のファンなのか、それとも武蔵野美術大学は綺麗な人が多いのかと思ったら途中の白梅学園というところで綺麗そうな人は大概が降りていったという、そんな話。西武池袋線で江古田あたりでおりていく女性とは違って当然とは思っていたけどそこはやっぱり美大ってことなのか。それとも学校が開いていれば白梅にも津田塾にも負けないお嬢さまアーティストがいっぱい、武蔵野美術大学のキャンパス内を闊歩しているのか。見てみたいが見に行くには余りにも遠すぎるのであった。どうやって通っているんだろう、みんな。

 そして到着した武蔵野美術大学では「夢の人 今敏」とう展覧会を観賞。卒業生の今敏さんがなくなって来月24日でちょうど2年。それに向けた回顧展でそれなら去年にも新宿眼科画廊でも開かれたけれども今回は、卒業した母校だけあって在学中に描かれた作品とか、卒業制作作品なんかが飾られ漫画家として、あるいはアニメーション監督として描かれたものとは違う今敏さんの“画力”ってものを目の当たりにすることができた。たとえば卒業制作として作られたクラシックのCDジャケットは、サン・サーンスとかシューマンとかチャイコスフキーといった作曲家の楽曲にマッチした、どこかクラシカルな雰囲気のイラストというより図案家された絵が描かれててい、それに文字が載ってジャケット風の装丁にされたものも飾ってあった。店頭にそのまま並んでも、遜色のない美しさ。それを若干22才とかで作ってしまったんだからやっぱり聡明な人だったんだなあ。

 っていうかこれは新宿眼科画廊にも飾ってあった、コカコーラの紙パックだとかマグリットの旧態なんかを取り入れたマンガ風の作品は、だいたいが20才とか下手したら19才の時に描かれたもの。それでいてコマ割りも構成もモチーフの取り入れ方も完璧以上だから恐れ入る。もちろん絵は敬愛していたんだろう大友克洋さんに似ていてそれがキャラクターを描いた時にくっきり出てはいるんだけれど、そうしたリスペクトから入って画力を高め構成力を育んだ延長に「OPUS」とか「海帰戦」といった漫画作品があり、「PERFECT BLUE」のような映像作品があるんだから、これはこれで通るべき道だったんだろう。その後の「千年女優」から「東京ゴッドファーザーズ」、そして「パプリカへと至るともはや大友らしさは抜けてすっかりと今敏さん的スタイル。なおかつそこに加わるあのストーリーライン。希有な作家となってさあこれから、って時の訃報はだからやっぱり惜しまれる。心の底から惜しまれる。

 在学中の作品では動物の頭部の骨か何かのデッサンがあり木の根っこのデッサンがあり裸婦像があってとそれぞれにしっかりと描かれているといった感じ。デッサンの巧い下手については語る口をもたないから分からないけれど、質感とフォルムって面ではちゃんと整っていたんじゃなかろーか。裸婦像は色もついててあれは何だろうピカソの青の時代風? 分からないけれども普通の塗りでなはなかった。故郷の釧路にある川にかかった橋とかは周辺の風景は描かず橋だけ描いてそれがちゃんと奥に続いていく感じ。空間を描く遠近の力って奴を持っていたことが、後のアニメーターとして役立っているとかいった解説もあったけれどもデザインを出てなおかつ奥行きのある絵も描ける今敏さんという人の、持っている力の一端を見た気分。ほとんど最後の作品となったNHKのアニクリ作品「オハヨウ」は小さいモニターで流されコンテとかレイアウトなんかも飾られ比べられる。やっぱり巧いなあ。巧すぎる。それだけに……ってやっぱり思う、夏。来月は「パプリカ」の上映会もあるんで行こう。

 基本的にオフコースの「生まれ来る子供たちのために」という歌が大好きなのでそれがあのイーハトーヴの世界に重なって、そして「グスコーブドリの伝記」という物語と重なって聞こえてきた時の効果ってものに胸打たれ感動してしまっていた人間なんで、それが気になって気に入らないという見解はまるで想像ができなかったりするのだけれど、1回目は一番最後の静かに終えていくような雰囲気を持ったパートを削られ、なおかつあの切り取られたようなクライマックスだったことも重なって、あれっといった気分を味わったことは事実。けどそうした懐疑は2回目に映画「グスコーブドリの伝記」を見たときに、むしろああいったすっと抜けていく終わり方こそが、感動のクライマックスを重ねて絶叫から感謝、そして感涙へと引っ張るよりも心に染みるんじゃないかという思いを抱いた。そして3回目。国分寺から吉祥寺を経てたどり着いた澁谷で見た「グスコーブドリの伝記」でこれこそが相応しい終わり方だという境地をいっそう強くする。

 原作を知っている人にはあるいはクライマックスの自己犠牲的な振る舞いが、悲劇的で情動的な展開で語られるのではって想像にあっただろうけど、そこで示されるブドリに何かあった、あるいはブドリが何かしたということはあれだけでも十分に伝わってくるし、そうでなくても噴火するカルボナード島の上を、ブドリが敬愛していたクーボー博士が跳んでそして誰かに感謝の敬礼を捧げているという行為から、そこで何かが行われたんだろうという想像はつく。その前後に示された何かしたいというブドリの意志、そして温かくなって誰もが幸せそうにしているイーハトーヴ世界の様子が、ブドリの”偉業”への感謝を覚えさせ、感涙を引っ張り出す。それも静かに。じんわりと。だから十分なんだ。これで十分なんだ。もう見てしまった人はだからもう1度見ると、きっと違った感慨を味わうんじゃないかと思うし、見ていない人もそういうものだと感じて見れば、そうなんだという感動を覚えるんじゃなかろーか。まあ無理にとは言わないけれど。でも批判され否定されて終わっていい作品ではないことだけは確か。せめて1回は。劇場で。見よう杉井ギサブロー監督の「グスコーブドリの伝記」を。

 こっちでガリガリ君がアイスキャンディーのPRをする向こうの方で連なる赤い旗の大行進。暑いねえ。労組とか連合とかいった看板も居並び標準的なシュプレヒコールが飛び交うオールドスタンダードな行進には頑張ってください暑いのにといった思いは浮かんでもその先に得られる果実がどうにも思い浮かべない。かつてそうだったように。仮に得られるだろう果実も今この瞬間という時間では可否を付けられない話。長いスパンからビジョンを立ててプロジェクトも組んで考えて行かなくてはいけない問題を、一過性の運動の中に放り込んで行為のための行為という閉じた系に引きずり込んでしまいかねないこの流れの、未来はだから今なんだろうなあ。困ったもんだ。

 なんて考えながらNHKホールでKalafinaのライブ。ここで見るのは2回目。Kalafinaが演じるのも2回目。やっぱり音響が段違いによくって隅々まで声が響き渡る。バックバンドの音が余計な音に聞こえずそうした歌声をちゃんと支えている。良い音響スタッフがついたのかやっぱりNHKホールの音響が良いのか。そんな中で今回は「空の境界」からは演じず「魔法少女まどか☆マギカ」の「Magia」と「Fate/Zero」の「to the Bigining」くらいしかアニメーションの主題歌はやらずにもっぱらアルバムからオリジナルを展開。これがどれを聞いてもはまるくらいにすかりKalafinaっていうスタイルを作り上げている。もうアニソンに頼らなくても良いんだけれどそれでもアニメから出てきたユニットっていう、それは“強さ”としてこれからも展開していって欲しいなあ。キッチュなサブカルのアイドルだったPafumeはもうずいぶんと遠くへ行ってしまったから。

 久々のライブってことでHikaruの声が良く出ていてそれにKeikoの低音が支えて鳴り響く。Wakanaは相変わらずに乱れないハイトーンボイス。シンガーとしてはやぱり超一流なんだけれども歌に乗っかる表情、って意味ではやっぱりHikaruの方が耳に響きやすい。そんな両翼の個性に負けじとKeikoが支え盛り上げ貫き引っ張るこの絶妙なユニットを、どうして世間は、そして世界はもっと注目しないんだろうなあ。「めざましテレビ」ってのはそんなKalafinaをしっかりテレビで伝えるくらいに、先見性がある番組なんだけれどもやっぱりテレビって文脈の中に一種の流行、それもメインストリームではない場所での流行めいて報じがちだからなあ。NHKの紅白歌合戦に出るしかないのかなあ。「みんなのうた」もやってることだし今年がチャンスかなあ。


【7月15日】 レントンとヤっちまったエウレカってテレビだっけ映画だって。それすらも覚えてないんだけれどもそんなレントンとの子供がお腹にいるエウレカが月光号とともに現れ、アオと共にあれは多分沖ノ鳥島あたりに着水した日本領海。日本軍とアメリカ合衆国のプレッシャーも迫る中で一足早く駆けつけたゲネラシオン・ブルイビチャおっさんの目には、かつてスカブバースト日本を救ってくれたエウレカに見えたけれどもその時から、ちょい時間を遡っていたらしくっておっさんのことも、日本軍のエンドウ一佐のことも当然ながら覚えてない様子。切ないねえ。でも仕方がない、それが時間のイタズラって奴だから。

 あるいはそこかでいったん「エウレカセブンAO」の世界の地球が、未だスカブコーラルの発生期にあると知って自分たちの世界へとと戻り、そこから再び「AO」の世界へとやって来てアオを生んで2年後に、イビチャのおっさんとかエンドウ一佐の部隊を助けて自らクオーツを空へと運び上げて消えていくのかも。スカブコーラルの倒し方はだから今、アオたちがいる来ている時に学ぶという時間差攻撃。なのかな。分からないけれども入り組んできて面白い。そんな中で冷静なのか直情径行なのか定まらないなあレントン、じゃなかったアオは。ガキだからしょうがないけど。

 「うぽって」を観た。なるほど銃器を持って攻撃に出るときの持ち方とか足の運び方とかチームの組み方とかが実にミリタリーしていて面白い。もしかしたらこれを自衛隊の教習とか警察の特殊部隊の教習なんかに使えば飽きず楽しみながらしっかり銃器について学べる教則になるかもしれない。けどそうでなはなくって普通にこれをテレビでアニメとして放送して、ノウハウを全国民に植え付けようとしている日本を観て海外では、日本は本気で銃器を使った戦いに供えていると思うかも。ロボットの操縦の仕方とか盗みの仕方とか教えてくれるしなあ、アニメでは。フルオートスナイプの反動を抑えたじーすりの「はしたない」裏技。観てみたいなあ実際に。美少女たちの手によって。

 やっぱりだなあ、昨日の「ヘルタースケルター」での舞台挨拶についてメディアが書きたてるのは沢尻エリカさんの言行に「別に」とかいった不機嫌な様子がなかったって話をあと、髪が金髪になっていたってことくらいでその作品がどういうもので、そこで沢尻さんがどれだけすごい演技をやっていて、だからああいった状態になったかもしれないといった観た人なら誰だって考えるような話はまるで書かれてない。映画を既に観た人はだからどうした的な不足を感じる記事だし、これから観ようという人にも大きな誘いになっていない記事を、書いて乗せてスポーツ新聞とかいったい何がしたいんだろう。そんなに世間は沢尻エリカさん個人に興味があるのか。あるかもしれないけれどもそれで映画のファンは増えないし、映画を目的にスポーツ新聞を買う人も増えないよ。絶対に。

 テレビのワイドショーも沢尻さんがお気に入りのシーンをカットされたという話を監督にしていたところに不機嫌そうな印象を重ねようとしていたけれどもその口調を聞けばまるぜ全然、全幅の信頼を置いた監督に対する軽口のようなものだとすぐ分かるし、あの舞台挨拶を全部観ていた人なら蜷川実花監督と沢尻エリカさんの間にある信頼関係みたなものをしっかり感じ取ったはず。だからカットされてもそれは不満じゃないし不機嫌にもならないのに、あらかじめ決められたストーリーの上に、あらかじめ想定しておいたキャラクターの文脈を無理矢理乗せて、体裁を整えようとするワイドショー。それもすでにバレてるし、飽きられてるのに平気で続けるスタンスが分からない。多分彼らもそれのどこが妙なのかを分かってない。

 まあそれは映画を宣伝しようとする側にも責任の一端は多分あって、そうやってスキャンダル的な報道でもなされないよりはあった方が絶対的に世の中に情報が広まって、興味を持った人が映画館に来てくれるからっていった感じに構えてしまって、その作品がどうかを伝えてもらうことを放棄してしまっている、ってこともあるのかも。洋画なんかだとキャストともスタッフとも関係ない芸人の人たちが、応援団長的な立場で起用されては一発芸とか見せたり、スキャンダラスな話題を降られて答えたりしてそれがニュースとして載って、その一部に映画の題名なかが記される記事が圧倒的に多いしなあ。宣伝の側もそれが結果的に映画のファンを増やさず一瞬の認知度だけを上げる方法に過ぎないって分かっているんだけれど、やらないとさらに忘れられてしまうという恐怖と現実がある。取り上げるメディアの意識の改革、そして伝えてもらいたい側の批判されてもそれも情報を開き直る覚悟が必要なんだけれど、それとは逆方向に進む世界が向かう先は。哀しいなあ。

 出かけるには暑すぎるからと近所に出来たイオンモール船橋へと行ったら巨大だった。イオンだったら新津田沼駅前にもあるけれどもあそこはどちらかといえばショッピングセンターといった感じで巨大なスーパー的な雰囲気。対して船橋の方は湾岸にある「ららぽーと」みたいにスーパーはあるにはあるけどもっぱら個別の店がいっぱい並んであれやこれやとショッピングを楽しめる。昔は東武の新船橋なんて何もなかったところなのにイオンモールが出来たからなのか、住人も増えたからなのか、中には割と人がいっぱいいた。フードコートなんてゴーゴーカレーもあればリンガーハットもありステーキにうどんにスパゲッティといろいろ試せて楽しそう。混んでたんで食べなかったけれども早い時間に言ってゴーゴーとか食べてみるのも悪くないかも、千葉じゃ多分ここだけだろうし。そうだっけ。アニメイトもあったんで「織田信奈の野望」の最新刊とか購入。熱い展開だなあ。相楽良晴。誰も失わせずに進んだ先に果たして何が来るのか。結末が楽しみで怖くてそれでも楽しみ。


【7月14日】 青柳碧人さんの「浜村渚の計算ノート3と1/2さつめ ふえるま島の最終定理」(講談社文庫)が出たんで早速買って帯の渚シールを切り取って、前の「3さつめ」のシールと合わせてハガキに貼った。これでピンクのシャーペンは俺のものだ。前は講談社Birthで「3さつめ」が出た時に、あのさくらんぼノートのプレゼントがあって応募して見事に当選したんだけれど、これと合わせて使うんだったらやっぱりピンクのシャーペンは必須だから。あとは髪留めか。ってわたし、止める髪、なんですけどお。ブルックかよ。にょほほほほ。

 そんな青柳碧人さんの短編が載ってる講談社文庫のPR誌「IN☆POCKET」も買って所収のデビュー前に書かれたらしい短編「聖マリア・ペレッティの方程式」を読んでおおいに笑う。なんだこの超魅力的な公式やら定理やら予想やら展開やらは。「恋するウサギちゃんの予想」だの「いちごあんみつ・抹茶シフォン展開」だの「えび・いか・ムール貝予想」だの「ペスカトーレ定理」だのが何を意味するのかは分からないけれども聞くほどにいったい何なのかを調べたくなってくる。何もないんだけれど。というかお話の方はそれらとはお構いなしに、とある死刑囚が天才数学者でもあった場合を想定して、法の下の平等と赦されるべき才能のぶつかりあいって奴が繰り広げられる。なるほど後の「判決はCMのあとで ストロベリー・マーキュリー殺人事件」でも主題にされた法への考察がいち早く。デビュー前から数学と法律に興味があったんだなあ。そして示されるひとつの謎解き。面白い面白い。ファンならずとも読んでその才に驚き賜え。

 何かぴあから案内が来ていて登壇者の並びに(予定)となっていたりしたんで、あるいは出てくるかもしれないなあ、そうでなければ最初っから書かないよなあと思って申し込んだ蜷川実花監督による映画「ヘルタースケルター」の舞台挨拶付きチケットが当選したんで果たしてと期待してたら、前日になって(予定)が取れて本当に沢尻エリカさんが登壇しそうだと分かってちょっと興奮。とはいえやっぱり当日になるまで分からないと、不安も抱えながら電車に乗って朝の銀座へと向かう。途中、地下鉄の向かいにANNA−SUIってオシャレで可愛いブランドとして知られる所の黒いトートを手に持って、フリルのついたジャンパースカートと、際にバラが施された黒い膝上まであるストッキングを履いた女の子が乗ってきた。

 やあ可愛い。上も襟元や前身などにフリルがついたブラウスを着ていて、首からはゴールドの細い鎖のネックレスを下げペンダントもぶら下げて、頭に白いヘッドホンをのせ、鞄には黒猫の顔をしたポーチをぶらさげて、何やらプリントアウトされた小説めいたものを読んでいる。自分で書いたのか同人誌向けの原稿か。そんな痩身で物憂げな少女が手に持っていたのが、なぜか竹刀袋。誰もが知っている緑色で草のような紋様が施された竹刀袋で、中には当然やっぱり竹刀が入っているンだろうけれど、いったいこの少女は何者なんだ、どうしてサーベルとかではなく竹刀なんだ。いやサーベルでも妙だけれど。ついついギャップ萌えしてしまったけれどもやっぱり気になるなあ、謎のロリータ剣道娘。

 そして到着した丸の内ピカデリー1には上映開始の1時間も前にはすでに大勢のメディアが詰めかけ大行列。だってそれから1時間他って予告編も含めた上映が2時間半くらいあってようやく舞台挨拶が始まるんだよ。下手したら4時間待ちとかってくらいの状態なのにそれだけを集めてしまえるってだけでやっぱり、沢尻エリカさんにはバリューがあるってことなんだろう。けどそれはあくまで沢尻エリカさんという個人が持つ、スキャンダラスな部分でのバリュー。映画そのものとはまるで関係がない訳で、そういった部分だけをピックアップして騒ぐ風潮が、映画そのものを伝えるよりも、周辺のスキャンダラスだったりハプニングだったりするような要素を前面に押し立てた宣伝を横行させて、まるで無関係なタレントが何とか大使に任命されたりするような悲しい事態を招いたんだろうなあ。もしも本編を見ていたら、とてもじゃないけど登壇したってだけの話を書いて良しには出来ないもん。その演じた役柄の凄さも含めて紹介したくなるもん。そんな映画だったよ「ヘルタースケルター」は。

 言わずと知れた岡崎京子さんの漫画を原作にした映画で、時代のスターともてはやされているりりこって女性が実は全身整形によって作られたイミテーションみたいな存在で、そのために体のあちらこちらが時々崩れかけては手術を重ねてどうにかこうにか保っていたけど、次のスターが現れプレッシャーをかけて来る中で混乱を来して、なおいっそうの改造に励んで挙げ句に自滅の道をたどる、といった内容は、そのまま演じる沢尻エリカさんという女優にとって、今を懸命に生きたとしても、明日には誰かにとって代わられるかもしれない可能性を示唆してる。そんな役にだから没入していけばいくほど、自分とりりこという境界線が見えなくなって一体化してしまって、やがて来るかもしれない簒奪される恐怖、あるいは今はもてはやされている美貌が衰える時への恐怖といったものが、自分のことのように思えて来てしまうし、りりこほどでなくてもそうなる日は必ず来る、人間なんだから、老いる存在なんだから。

 そんな役を沢尻エリカさんは、まるで妥協せずむしろ漫画すら超えるような過激で過剰な演じ方でもって表現してみせていた。それがこの映画「ヘルタースケルター」。撮影をすべて終えて後、明日からは普段着の沢尻エリカに戻って次に役が来ればそれに挑みますってことにはなれないのも当然だし、役を離れて客観的に映画をPRするようなこともすぐには難しい。だからしばらく休養して、りりこという役を抜いていたんだって思えばなるほどこの休養期間もうなずける。むしろ女優なら当然あってしかるべきインターバル、ってことにもなるだろう。それを別の理由なんかを引っ張り出すなり作り出して、あれやこれや言ったところでやっぱりどこか及ばない。

 映画を見終わった後ならなおのこと、当然の休養であったと言えるしむしろ出てこない方が、どこか他人事のような言葉で役をふり返られるよりも、観た映画そのものから価値を判断できたんじゃなかろーか。ここしばらく出ている劇評が、ゴシップではなく中身から、演技から高く評したものになっていることが、そんな影響を実は裏付けているとも言えそう。でも日本のメディアはスターが演技で語ったことよりも、素に戻って言葉で語ったことの方をありがたがるし、重く見るからなあ。だから映画そのものの価値ではなく、出演者のバリューの方ばかりがメディアに大きく扱われ、それを読んだ方も映画そのものの価値を判断する方法を訓練されることなく、スターのバリューだけで価値を云々する方法だけを育んでしまう。そんなスパイラルが映画をつまらなくしてることに、いい加減気付けば良いのにまったくもう。

 それを「ヘルタースケルター」に当てはめる人もいそうだけれど、沢尻さんの演技はいうに及ばす彼女のマネージャ役で登場している寺島しのぶさんも、彼女の恋人役で出演している窪塚洋介さんも、検事役の大森南朋さんもメイク役の新井浩文さんも事務所の社長役の桃井かおりさんもプロデューサー役の哀川翔さんも、ほかのいろいろも含めて素晴らしいキャスティングでもって作品を支えている。その集合体である映画がたった1人のバリュー、というよりゴシップに帰され語られてしまうのは勿体なさ過ぎる。だから観て、そして感じて欲しい、沢尻エリカさんという女優がみせた演技の凄まじさを、蜷川実花が撮った映像の絢爛さを、岡崎京子さんという今なお沈黙を続ける漫画家が伝えようとした変わりたい、しがみつきたい、永遠でいたい、けれどもそうはなれない矛盾に潰される人間の怨嗟の叫びを。


【7月13日】 いやあ凄い。鎌池和馬さんの「簡単なアンケートです」(電撃文庫、630円)が凄い。ぶっちゃけてしまえば24本ばかりの作品のアイディアを、長い小説にしないで短いプロットというかショートショートのような形で並べ立てたものなんだけれどその1編1編がショートショートとして面白かったり4コマ漫画的なギャグとして楽しめたり、ハードなSFだったりソフトなミステリ的だったりピンチョンな不条理文学だったりしてどうしてこんなに多彩な小説を書けるんだって、その才能への畏敬がぶわぶわっと湧いてくる。そしてこうしたものを常に書き暖めていたりするっていう前向きさにも。

 だって鎌池和馬さんだよ、「とある魔術の禁書目録」とか出せばきっと何十万部とかは売れてしまう超ベストセラー作家だよ、別のシリーズの「ヘヴィーオブジェクト」だっておほほ姫の人気で(?)グングンと人気を挙げていたりして、最新刊ではハードな国際スパイ物ってな雰囲気すら見せてしまってなおいっそうの売れ行きは期待できそう。そんな作家がちょっと前には妖怪と科学とが入り混じった「インテリビレッジの座敷童」(電撃文庫)だなんて新しいシリーズを唐突に作り、今またこうやってプロット集をそれにとどめず1冊の本に仕立て上げて出してしまう軽快さ。人気シリーズを書いてれば稼ぎも上乗せになるだろうものを、それに頓着しないで常に新しいことに挑戦しようとする心意気が、才能と結びついてかつてない本になっている、この「簡単なアンケートです」は。

 24本から選ぶとしたら1番好きなのはどれだろうなあ、自分がそういう立場になったらという感情移入の面ではファイル02の「お気軽にご相談ください」で、婚活サイトに書いた適当な属性を全部持った幼女で中身は2万歳ってのが現れ結婚させられ異世界の統治者にさせられるっていう流れは、そうした喧噪の日常を遅れていない身をとっても魅了する。あと棚ぼた的な幼女(見た目)との婚姻とか。ストーリー的にはファイル18の「料理人鯉太郎の飽くなき挑戦」で魔獣だなんてとんでもない存在を相手に彼らが人間を食わないようにし向けるには、彼らにとって最高の江戸前を用意することとなってそして鯉太郎が挑み逡巡し曲折した結果生みだしたものの意外というか笑えるちうか。そりゃあ落ち込むわ鯉太郎。

 「運命は矢印の形をしている」とか夢があるし「人面シリーズはいかが」はテクノロジーと人間の関係について考えさせる。これらを本気で長編へと持っていったらどれだけのSFが書けファンタジーが書けミステリが書け文学が書けてそしてライトノベルが書けるのか。でもあくまでプロットにとどめているところが作家として、満足のいく長編に仕立て上げられるかという葛藤だったり、人気シリーズを抱えてそうした可能性に挑ませるリスクとはとれないといった版元の抑制だったりがあったりするからなのかな。勿体ないけど仕方がない。そんな24本を順番に並べることで挑めるチャートから、選ぶ短編たちも多彩。こずえの場合にとんだけれどもこれも大概だったなあ。他はどうなんだ。ともあれ異色のライトノベルというか現代文学の金字塔。ライトノベルの人ならずとも読み逃す手はない。絶対にない。

 久々に「エル・ゴラッソ」を買ってなでしこジャパンのオーストラリア戦の記事を読んだら西森彰さんが書いていた。エルゴラにはよく出てたっけ。とりあえず今はまだ調子も不明なオーストラリア代表に勝っても果たしてってあたりは同感で、冷静に見るならアメリカのようなあの怒濤の攻撃が見られなかった関係もあって圧倒できたけれども今後、前線からの早い潰しと放り込みへとスピーディーなフォローが増えてきたら日本のディンフェンスラインも押し下げられ、そして崩壊させられる可能性もあるからやっぱり気を引き締めてかからないと。試合にはそうか丸山桂里奈選手も出ていたのか、瞬間のスピードは凄いけれどもそれがどこまで持続するかで使われ方も変わってくるかな、終わり10分の切り札的な。そこまでアシスト役として宮間あや選手が保ってくれているっって条件も付きそうだけれど。

 香川真司選手のマンチェスター・ユナイテッド入りが発表されて会見もあってサー・アレックス・ファーガソン監督とともに並んで会見に応じている姿に日本のサッカーもまたひとつ、歴史を刻んだなあという感慨、とはいえそれが至高かっていうとすでにインテルミラノで長友選手が活躍してたりするわけだし、香川選手自身もブンデスリーガでマイスターシャーレを獲得していたりする。マンチェスター・ユナイテッド入りをだから評価するならサッカーが生まれた国にあるチームでも長い伝統を保ったチームに入ったってことかなあ、野球に例えるなら大リーグのニューヨークヤンキースに松井選手が入ったような。松井選手はそこでチャンピオンリングを獲得して大リーグの歴史に名を残した訳で香川選手にもだからまずはプレミアリーグでの優勝と、そしてチャンピオンズリーグでの優勝といったタイトルを狙って欲しいけれども、それ以前に出場できるかな。そこが大事。プレミアリーグでレギュラーってイメージがないんだよなあ、日本人選手には未だ。

 やっぱりお膝元ってことなんだろうか、長く8週間に渡って上映してくれていたTジョイの大泉でいよいよ東映アニメーションが作った長編アニメーション映画「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」が終映を迎えるってことでやっぱりこれは最後に劇場で見ておきたい、それから尻上がりに評判を挙げていった映画にいったいどういった客層が集まるのかを確かめておきたいと思って大泉まで早朝から出むく。待っているとあのロッテリアはいつからあくのと自転車に乗ったおじさんに聞かれる。しらんがな。つか普通だと早朝から開くファストフードなんだけれど大泉学園のは9時くらいにならないと明かないみたい。何でだろう。まあ劇場が開かないと人も来ない場所だしなあ、スタジオの人も東映アニメーションの人も早朝だからといって起きていたってそれが仕事の時間な訳だし。そうなのか。

 えっとこれでもう7回目になるんだっけ、大泉では3回でバルト9では2回で丸の内東映で1回であとは試写で1回。合ってるな。それだけ見ていてもやっぱり楽しい映画。セリフのひとつひとつと描かれる表情、そして奏でられる音楽のマッチングがもう実に隅々まで計算されているようにぴったりあってて、どこにも隙のなさって奴を感じさせてくれる。テンポも良くってまるでダレない。編集の妙味って奴かなあ。思い出しつつ眺めつつ、さえ子ちゃんがカブトムシを捕ろうとケンゾーがユウタを迎えに来たといってユウタを起こそうとしている場面で、後ろからケンゾーの懐中電灯があたって影になりつつほんのりと見える髪をおろしたさえ子の表情が、寝ぼけ眼で妙に可愛らしかったと確認。青天狗に呼ばれた子どもたちの中で最初から最後までずっといる眼鏡の娘が伸びたり縮んだりしているのも楽しめた。終わって明るくなった時、母親と来ていた娘さんが嬉しそうな表情を見せていいて、そういった層に見せればささる映画だって分かったけれどもそういった子供たちがいっぱい来られる夏休みになって東京で、首都圏で「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」はもう上映していない。これが一番、悲しいなあ。どうにかならないかなあ。


【7月12日】 しかしやっぱりちまたに溢れる「国民の生活が第一」党へのあれやこれや。っていうかそもそも彼らの言う「国民」って定義がまず分からない。富裕層なのか中間層なのかそれとも貧困層なのか、そうした人たちに向けた政策ってのはやっぱりどこかに矛盾も出てしまうところをどうにか均し、あっちを立ててこっちに我慢を強いるとかいって運営していくのがまさしく政治ってものなんだけれど、ここで「国民」だなんて言葉を掲げてしまうとあっちを立てようとしてこっちが立たない齟齬がどうしても生まれて、どちらにもいい顔をしようとすれば結果として瓦解してしまう。そうした声をあるいは聞き入れ、あるいは我慢してもらって未来にいい目を見て貰うための「説得」と、それでもなお批判される「覚悟」って奴が、あの八方美人で曖昧模糊とした党名からは漂ってこない。

 それは「みんなの党」って党名からも感じたことでそうした誰かに媚びるようで結果として毒にも薬にもならない党名を、妙な覚悟と確信のもとにつけて臆さない党首も党首なら、それに喝采を贈る党員も党員といったところ。「消費税引き上げ阻止」。ああ結構。だったらこのいかれぽんちな福祉だの何だのをどうにかする財源ってやつをひねり出してみろ。「脱原発」。そりゃあ大切。でもこれって50年100年といった国家の大計に組み入れ議論すべき話であって今の風潮から“原発嫌い”の眼を向けさせるために掲げて良い政策じゃない。それを押し進めるには今ある原発をどうにか稼働させ、エネルギー供給の逼迫を招かないようにしながらも、その先に代替エネルギーをどうにかして導入し、あるいは開発していくビジョンって奴が必要になる。けどそうしたステップはまるで無視して、大飯の再稼働の是非という「脱原発」に向けて大切なステップへの見解をすっ飛ばし、いい顔をしようとしているだけ。そう見える。

 まあそうした看板だけで中身の曖昧模糊とした状態を、世間って奴も敏感に感じ取ってのあれやこれや。「国民の性生活が第一」ってのがやっぱり結構出回っているようで、これによって少子化問題を解決し、結婚が出来ない男性に女性の悩みってのも解消していくような、そんな政策を出してくれそうだし実はこの日本に1番求められていることかもしれなかったり。具体的には何をしてくれるんだろう。美人キャリア官僚がある日家に来て嫁になってくれる? イケメンキャリア官僚が毎朝起こしに来てくれる? ああ夢の用。ホントはイヤなんだからねオーラを出しつつ舌打ちなんかもしつつそれでも作ってくれる朝ご飯。美味いだろうなあ、ドMな人にとっては。うん。あるいは「国民の就活が第一」。この不況で就職もままならない人たちを採用につなげる政策なんかを出してくれそう。公共工事のタコ部屋とか。国策炭鉱会社とか。職にありつけ肉体も鍛えられて万々歳。ああ何てブラック&ブラック。

 すげえな「TARI TARI」第2話。江ノ島電鉄の鎌倉の駅前に立ってる時計台の下で歌っていた宮本来夏と見守る沖田紗羽のところに坂井和奏が通りがかり田中大智とウィーンも集まったシーンでめいめいが勝手に自分の言いたいことを良いまくってそれらがまるでかみ合っていなくって、すれ違っているシーンの喧噪さって奴を完璧なまでに再現していて、見ていてなるほどそういうカオスってあるけれども、劇だと普通はやらないことをそれでもやってしまったクリエーターの人たちに感激。そこからするっと女子3人が抜け出して、近況を語り合いつつどうにか和奏を合唱部に引っ張り込むことに成功したその先に、いきなりコンクールをぶつけてくるとは何というスピーディーさ。普通ならまずは集まり特訓とかあるけどそれを飛ばして山場を持ってきては、乗り越えさせてみせたところにトラウマで引っ張らず、その次に起こる何かって奴を描きたい作品なんだってことが見えてくる。巧いなあ。そして美しい。

 感心したのはなでしこジャパンこと日本サッカー女子代表が去年のワールドカップで優勝した時のツイートで、プロじゃないから仕事が終わった午後7時からだいたい練習があって、見知った選手を食事に誘っても、断られることが多いといった実状を紹介しつつ「好きな事があるなんて幸せですね、命を賭けてやるって素晴らしい。そう世間に言われるたびに言いにくくなる。恋人と過ごす時間や遊ぶ時間が欲しいとは」って彼女たちの気持を代弁しつつ「これから彼女達は脚光を浴びるだろう。お金も動くだろう。しかし一体どれくらい彼女達のもとにお金は入るのか」と心配を寄せていた。「世の中は言う。金のためじゃなくてもちろん名誉のためにやったんだよね? 何も言えなくなる。世の中を感動させた重宝人ではないところにお金が流れこんでいく」。実際どうもそんな風になりつつある。

 自身、陸上選手としてオリンピックにも出て注目されたアスリートの為末大さんのツイートは、言葉に含みがあって哲学があって面白いってことをこの一連のツイートでもって改めて知らされた。「準備は自分達でさせる。そして感動はみんなで分けあう。それではあまりに切ないじゃないか」。昔に比べればそれでもなでしこジャパンの待遇は良くはなっているけれど、全体を見渡した女子サッカーが依然として厳しい状況におかれているのは事実。世間はスターにばかり注目してそこばかりを応援して、それはそれで頑張りに見合ったものだとはいえるけれども、果たしていつまで続くものなのか。もっと根本に目を向け構造そのもの、意識そのものを買えないと一過性に終わってしまう心配が女子サッカーにはあるし、それに限らずマイナーなスポーツは常に抱えている。為末さんはそうした頑張っても報われないアスリートたちへの視線をしっかりと持って、短い言葉から改善を呟いてみえた。

 「走る哲学」って本が扶桑社新書から出て、過去から最近までのツイートを拾い集めているのを読んだけれども他の言葉もやっぱり深い。そして重い。「諦めないよりは諦めたほうが行きやすい仕組みが一度出来てしまうと、諦めた人が諦めを勧め、諦めたほうが生きやすい方向に組織を加速させるので、組織は力を失い衰退に向かう。多くの場合、人が諦めるのではなく仕組みが諦めさせる」。至言。個人としてその脚力だけで勝負できるアスリートではあるけれども、そうした頑張りが報われない状況が決してない訳ではない。それが組織というもので、為末さんに限らずそうやって諦めさせられたアスリートもいただろう。どうしたらいい。「自分を貫き通し自分が必要とされるかどうかの判断は社会に委ねる生き方への転換」。難しいけれどもそうしないと生きていけないならそうするしかない。その道筋って奴があるいはこの「走る哲学」から読みとれるような気がする。編集に当たったスイスイからは完全版のアプリも出ているそうだけれども抜粋された本にも至言は満ちている。持ち歩いてたまに開いてそこに言葉を見つけて読み込み同意するなり反意を抱くなりして、そして考えよう、自分ならどうするかを。


【7月11日】 「火事よーっ」って叫ぶフアナさんが見られて良かった、本当に良かった、このまま第2期とか作られなかったら一生聞けない叫びだった、本当に良かった、売れて良かった「境界線上のホライゾン」のアニメーション。すでに第1期の終わりで三征西班牙(トレスエスパニア)と武蔵との戦いは始まっていたんだけれども、そこから本当に続くように「ほえ」ってトーリがうなってそして逃げ出す中を、ミトツダイラが走り浅間が討ち、マルゴット・ナイトが飛んで武神の地摺朱雀が道征き白虎をどうにか抑えてそして現れたホライゾン。大罪武装をぶっ放そうとおもったらそこに我らがフアナさんが立ちふさがった。いやあ大きいなあ。浅間も喜美も大きいけれどもフアナさんもなかなか。これが大人の魅力って奴か。

 んでもって「嫌気の怠惰」を超過駆動させては本田・正純のない胸を責め立て、ミトツダイラのぺったんこな胸を責め立て、全身これ人形のホライゾンを屈服させてさあ勝利も確実と思わせたところで、現れたトーリの禁じられたあそこに手をあてがってもみもみとしたフアナさま。いったいそこには何があったのか。そしてどんな感触だったのか。きっと柔らかかったに違いない。それともカチンコチンだったのか。だんだんと硬くなっていったのか。それを知るのはフアナさんただひとり。それでも「火事よーっ」って叫んで周囲に変態の出現を知らせるくらいには、やっぱり複雑な感慨が全身に去来したんだろうなあ。しかし純情なんだなあフアナさん。握りつぶしもせず蹴り飛ばしもしないで可愛く叫んでみせて。だからみんな着いていくんだろうなあ。

 それで終わらないのが、川上稔さんによる「境界線上のホライゾン」の小説第2章上巻冒頭。逃げ込もうとした英国からも特務にあたるトランプたちが現れ、武蔵アリアダスト教導院の前に立ちふさがる。いやあ何というかイロモノばっかに見えるけれども、これでやっぱり強い強い強すぎる。動くとやっぱり怖いダッドリーに、丸いセシルに、狷介なベン・ジョンソンに、取りあえずだんまりのトマス・シェイクスピア。そしてセシルの重力も竜族のキヨナリ・ウルキアガには通じず、ダッドリーの槍もアデーレの軌道甲殻のは貫けず、ベン・ジョンソンすらトゥーサン・ネシンバラによって退けられようとした時、現れた眼鏡っ娘が微笑みそして因縁の対決が始まるという第1話。盛り込みすぎだ。

 でもこのシリーズでの見どころは点蔵とメアリとのラブストーリーでその辺り、しっかりとオープニングから表現されてて、内容を知らない人には何で忍者が目立っているんだトーリとホライゾンよりも、って訝りそう。でもってすべてが終わった後に叫ぶんだ。「点蔵もげろ」。それと同じよーなことは第4部でも起こることは確実なんだけれど。「ウルキアガ爆発しろ」。第3部ってのはそういうのってなかったんだっけ。まあ考えても第4部がアニメーション化になるとも思えないしなっても4年先か5年先か。だったら今は目の前の第2部でもって嘆き叫ぶ姿を可憐に見せてくれているフアナさんと、彼女が目で追う後ろ姿の格好良さげな男性の正体を、期待して見守ろうではありませんかと。正体はバレバレなんだけど。あとはその男性とフアナさんとの絡み合いか。このマチスモめ。

昨日はスカイツリーを征服し今日は東京タワーを破壊する、俺  まだ大学生も高校生も本格的な夏休みには入ってない今なら大丈夫だろうと、午前にちらりと東京都現代美術館に寄って「館長庵野秀明 特撮博物館」をのぞいてみた。それでもすでに長い行列がチケット売り場にできているかと思いきや、特に人もおらずそのままスッキリと会場に入って、まずは庵野秀明館長のポートレートを見物。別にいらんがな。そして居並ぶ轟天号とかマットジャイロとかマットアローとかウルトラホークとか、マイティジャックとかローレライとか乗り物系。そのスタイリッシュな形に眼を見張る。今の戦隊ヒーローの乗り物がどうなっているかは知らないけれど、往時のウルトラ系な乗り物って「ウルトラマン」から「ウルトラマンタロウ」辺りまで世代が下がっても、どれもちゃんと格好良かったんだなあ。「帰ってきたウルトラマン」のマットジャイロとマットアローなんて「ウルトラセブン」のウルトラホークに負けてないもん。「ウルトラマンタロウ」のスカイホエールだって実に現代美術的。今なら玩具にならないってけっ飛ばされそうだよなあ。そういう時代なんだよなあ。

 キャラクター系になると「ウルトラマン」やら「ウルトラセブン」の顔が並んでしばらく前に六本木ヒルズで開かれた時のウルトラ系な展覧会をちょっと思い出した。あの時は「ウルトラセブン」のマスクがずらりと幾つか並んでいた記憶があるんだけれど、どうしてそんなにあったんだろう。そして嬉しかったのはそれら意外の特撮ヒーローにも目配りがしてあったことで、例えば「サンダーマスク」がり「スペクトルマン」があり「シルバー仮面」があって「ライオン丸」がある。そして「トリプルファイター」。1色だけ実物のプロップがなかったのをちゃんと造形して3つ並べそして「トリプルファイター」も加えて4つ、並べてみせたところがひとつのこだわりなんだろうなあ。欠けてちゃトリプルにならないもん。

 それとあと、凄かったのはヒーロー物ではない特撮関連のプロップもちゃんと集めて展示してあったことで、納屋とも倉庫ともつかないような場所に、戦闘機が並び戦車が並び機関砲がならびそんな合間にゴジラがいたりキングギドラがいたりして、何もかもが特撮によって作られていた時代の喧噪って奴を感じさせてくれた。そんな中には「巨神兵 東京に現る」で吠えていた犬のぬいぐるみも。映画の中では紐に縛られた姿できゃんきゃんと吠えていた犬だけれども案外に大きかったのに驚いた。けど「巨神兵 東京に現る」で使われたミニチュアはもっと大きなものだったようで、ドールハウス何て眼じゃないサイズのものをかき集め、街並みを整備していくメイキング映像を見てよくあんなに集めたなあ、そして並べると本当に街並みに見えるんだなあと感心。そこに今は失われつつある特撮の魂ってものがあって、その結集が「巨神兵東京に現る」って訳で、これはやっぱり見ておくべき作品なんだろう、特撮ファンもそうでない人も。

 そして見た「巨神兵東京に現る」は、3DCGを使わず特撮の技術でもって撮られた作品ってことでなるほど、そう思えば迫力はあるし凄みもあって楽しめる。とはいえリアルさを完璧以上に出せるCGの技術がハリウッドでばんばんと使われている時代に、ミニチュア撮影と模型の撮影にこだわるっていうことに、こだわっていること以上の意味があるのかどうなのか、って考えさせられることも事実。手足に棒をつけてその先に巨神兵をつけて人間の動作を伝えて人形を動かす仕組みとか、あのぎこちない巨神兵の動きを出すことにとっても成功しているんだけれど、だからといってアニメ「風の谷のナウシカ」に現れ世界を蹂躙した巨神兵の迫力を越えているかというと、これは判断に迷うところ。

 あるいは3DCGだったらどこまでの迫力と、リアル感を出せたかと考えた時、なぜ特撮なのかを特撮だからというトートロジー的な答えでなく、例えば見た目とかあるいは効率とかいった面から説得できる答えってのが、どうしても必要に思えてくる。技術の承継もそんなひとつか。かといって特撮が伝統芸能化するとは思えないし。過去の栄光を博物館的にとらえることについては、とてもとても成功していた展覧会。一方で今のこの特撮をマストととらえて今後につなげていくために、ノスタルジー以上の何かを提示し得ていたかというと、1度ではちょっと掴めなかったんで様子を見がてらまた行こう。ファション展が始まる月末移行がいいかな。ヴィネットの残り3種も欲しいし。売店では図録とあと庵野秀明監修による「円谷特殊技術研究所」のDVDを購入。一般小売価格が1万2000円なのが会場だと8080円。安過ぎだ。

 先週はダイジェストだった「輪廻のラグランジェ」がいよいよ新シーズンに突入して、あんなに劇場公開のインターミッション的作品「鴨川デイズ」では仲睦まじげだったランとムギナミがまさかの対決。ランはまどかをウォクス・アウラに載せようとしているけれどもムギナミは別の考えがあってそれぞれにいったい何を目的としているか、後ろで動いているディセルマインとヴィラジュリオの考え方なんかも含めていろいろと見えていないところもまだ多い。そしてこのまま何で彼らが地球を狙っているのか、ウォクス・アウラが2万年前に起こした騒動の真相とは、アスティリアの本当の年齢は、なんてことも後に放り出されて終わってしまったら流石に拙いんでいろいろすべて明らかにされると信じたい。完結編は映画でね、ってのだけは勘弁。BWHで出されてたおらが丼はいったい何の丼だった。


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