縮刷版2010年5月中旬号


【5月20日】 寂しくて儚くて哀しくて。そんな2人の少女が出会って生まれた親愛が、育まれて広がっていって世界を包み込んでくれれば、こんなに嬉しい結末はなかった。けれども……。だから寺田とものりさんの「魔人探偵 夜凪砂傷那」(朝日ノベルズ)の物語、を心から喜んで受け止めることはできない。できないけれども寂しくて儚くて哀しかっただけの少女に、刹那であっても明るさをもたらした優しさを、喜んであげるのがたぶん正しい態度なんだろう。そんな物語。

 時は大正18年。15年までじゃなかったっけというならそれは現実の話で、こちらは大正がまだ続くもうひとつの世界。あの関東大震災で崩壊した街もようやく復興して来た東京に、金沢から真昼崎朱杷という16歳の少女がやってきた。文学の道を志したいというのが理由だけれどももうひとつ、空に赤い6つの星が見えてしまうという特質が彼女を普通の人から遠ざける要員になっていて、寂しさの中で暮らし続けることに耐えられず、誰も彼女のことを知らない東京で、新しい人生を始めようとしていたのだった。

 そんな朱杷が住んだのは叔父が暮らしているアパートで、行くと部屋が用意されていて親切そうな女性の管理人がいて、案内された部屋に入ると若い男が裸でシャワーを浴びていた。誰? それが夜凪砂傷那。仕事は探偵。そして、いなくなってしまった叔父の行方にも関係する捜査に関わっているとあって、心配になった朱杷は、同じアパートに暮らす女性新聞記者のヨネに連れ出され、叔父をさらったらしい南郷少佐邸の事件の捜査に乗り出したところで、稲垣伯爵と呼ばれる魔人に襲われそうになる。現れたのが傷那。助けられた朱杷は知る。東京に謎の魔人が跋扈していることを。その魔人に朱杷が狙われていることを。

 そして物語は稲垣伯爵との戦いと、そしてもうひとつ、木霊斑七狼なる名の魔人との戦いへと進んでいって、朱杷にもいっそうの危険が迫る。一方で、日常ではアパートによくやって来る房子という少女と仲良くなっていき、途中で傷那の危険な仕事をめぐってちょっとした喧嘩も起こるものの、お互いが抱えた寂しさに気づき惹かれあって友情を取り戻す。違う。取り戻したかのように見えたのだけれど……。そして結末。浮かび上がる寂しい気持ちが生んだ一種の怨念が、寂しさを超えて認め合う心によって埋められ鎮められていく様に、そこへと至る過程でもう少し何とかできなかったんだろうかという憤りが身を苛む。それでも幸せを得られたことへの同情が生まれて、いささかの安らぎを取り戻す。

 人に見えないものが見えてしまうことがそんなにいけないことなのか。親が咎人ならその子までもが虐げられてもいいのか。今でも消えず残る異質な存在への畏敬なり、当人とは無関係な部分での迫害といったものへの憤りを喚起させ、それがもたらす破滅への可能性を示してくれる。あそこで朱杷はちょっぴり足を踏み出しかけた。寂しい気持ちが認めてくれる領域へと向かわせようとした。止めたのは? 友情の強さに心が潤う。

 それは木霊斑七郎の方にもあてはまること。自立できるようで人はやっぱりひとりではいられないもの。認めてくれる人がいて朱杷は自分の存在を喜べた。言葉を交わせる人がいて房子も心を静められた。認め合おう。理解しよう。それが平穏をもたらし繁栄へと導く。けれども帝都にはまだ不穏が渦巻く。魔人も跋扈し続ける。朱杷は人間の大切さを信じ続けられるのか。アパートに暮らす人たちもずっと幸せでいられるのか。答えは続きの物語にある。続けばだけど。続くよね。

 なりふり構っていられないのはアディダスジャパンの方なのか。もう1カ月も開幕までないのに、まるで盛りあがりを見せていない「FIFAワールドカップ2010南アフリカ大会」の日本代表。その責任が岡田武史サンのチーム作りのよく分からなさにあったりする可能性は極めて高いけれども、そんな岡田サンに何もせず誰も動かず責任だってどこか遠い空の星って感じの日本サッカー協会を、それでも支え続けているのがアディダスジャパンだったりする。

 だから代表ユニフォームが2002年の頃とはまるで比べものにならないくらいに売れなくたって、自己責任というか自業自得でもあるんだけれどもそうはいってもスポンサーが口を出してはやっぱり何かがねじ曲がる。だから応援せざるを得ないというジレンマの中で代表ユニフォームを売るには何が必要か。ってところで浮上したのかどうなのか。「サッカー日本代表ジャージーを着てAKB48と一緒に応戦しよう!!」企画なんてものが出てきて、48人だかいるAKB48のメンバーの、ネームが入った日本代表ユニフォームを作ってファンに売りまくるって手段に打って出た。

 何しろ日本で1番お金を注ぎ込むと言われているAKB48のファンたちだ。全種類のポスターをコンプリートしバージョン違いのCDを買い秋葉原のショップを回って買い占めチャート上位へと送り込む。そのパワーと購買力を見込めば代表ユニフォームだって一種のアイドルグッズとして売れて売れまくるに違いない、1人が48種類を買ってそれが1000人いれば4万8000枚だって売れるだろうって踏んで声をかけたってことも考えて考えられないことはない。

 いやしかしやっぱりそれはないか。いくらなんでも1万5000円もするものを48枚も買いそろえるだけの財力はないよなあ。ぜめて1人1枚。それでもいったい何人くらいが買うんだろう。それを思うと400人が招待されるコートジボワール戦のパブリックビューイングが埋まるのか? って心配もあるけど濃い方向から400人くらいはいたって不思議はないか。日本代表のファンにだって、ちょっぴり物珍しい代表グッズってことでアピールしそうだし。するのかな。

 問題はそれほどまでに濃いAKB48のファンが、どれだけサッカーのコートジボワール戦を見たいかってこと。会場に来るAKB48のメンバーは見たいけれども、さして眉目秀麗な奴もいない日本代表なんて見たくないよなあ、普通。果たしてサッカー日本代表とAKB48は重なり合うのか。それを確かめる意味でもここは参加すべきと1枚、買ってしまった篠田麻里子バージョン。前に「戦う司書」のキャンペーンで見たこともあったし名も知っているからって理由。試合までに届いてそこに会場へと行くチケットが入っていたなら、是非に着込んで会場に乗り込んで、サッカー中継にマッチしたオタ芸を打つファンの姿を楽しみたい。サイドバックを駆け上がる内田に向かってOAD、遠藤のフリーキックに合わせてロマンス。

 モーセン・マフバルバフは語った。「亀有の麗子像は破壊されたのではない。巨乳のあまり傾いたのだ」と。そんなことはないか。しかし受難続きの「こちら葛飾区亀有公園前派出所」関連像。ちょっと前に両さんの手がへし折られたと思ったら今度は麗子像がななめに傾いてた。土台からぐいっとねじ曲げられたってことなんだろうけれど、相当な力を入れなければ傾かないって思えるだけに、いったい誰がどうやったのかがちょっと不思議。キックでもしたか。まさか持ち帰って添い寝したいと思って引っ張ったけど無理だった? でもさすがに像なんで冷たいんで添い寝は勘弁。麻里愛だったら流行の「男の娘」として持って帰りたがる人もいそうだけど。いないかやっぱり。


【5月19日】 「僕と彼女が魔王と勇者で生徒会長とゾンビ」を読む。違ったゾンビはいらなかった、ほら、接続詞で結ばれたタイトルの最後にゾンビを付けると、まったく新しい作品になって売れるって伝説がアメリカの方から伝わってきてこれから、そういう作品がいっぱい作られるって聞いたんで。「ヘンゼルとグレーテルとゾンビ」とか。これはまあありそう。森に行って帰ってきたヘンゼルとグレーテル、実はすぐに餓死してしまったところを怨念でゾンビになっていまって、お菓子の家もその魔女も貪り喰らって人里へと戻り、人間どもを喰らい尽くしたって説がドイツの方では研究されているっていうし。いるのかな。

 それはさておき「僕と彼女が魔王と勇者で生徒会長」だ。電撃文庫の新刊。受賞しなかった最終候補組からの抜擢。多いねこういうの。作者は哀川譲さんって人。昆虫探偵かどうかは知らない。ストーリーはこんな感じ。人間と人外が共存する世界。とはいえ互いに反発もある。学校も別々。でもそれではいけないと、モデル校として人間と人外が一緒に通う学校を作られた。但し生徒会は双方にあって、2年次の生徒が会長こと勇者を務める。人間の生徒会長は美少女。容姿端麗で成績優秀な上に運動も完璧。性格も真っ直ぐ。そして幼馴染みにぞっこん。問題はその幼馴染みが人外の生徒会、すなわち魔王の会長に選ばれてしまったこと。彼は人外? 違う人間。でも選ばれてしまった、先代の魔王、サキュバスの少女に。

 理由は不明。面白そうだったから? それは人外も人間も一切区別しない、そういう心理を持たない人間だったから。そして始まる生徒会どうしの戦い。それは2年から選ばれる人間と人外の生徒会長が対決して、仮面を被った人外の会長の正体をばらせば人間側の勝ち、逆なら人外側の勝ちとなって、実質的に生徒を取り仕切る3年の生徒会長(いるんだこっちににも)に就任できるというもの。皮肉にも幼馴染みが実は好きな人間の生徒会長は相手をそれと知らず人外側の会長と戦うことになる。

 完璧超人なのに長馴染みに弱くって、朝っぱらからマウントポジションで起こしに来る美少女生徒会長のキャラがまず良い。魔王側の補佐で吸血鬼の娘でツンケンとしているようで、実は心根は優しげとか、完璧に任務をこなす人造人間とかドジっ娘の狼少女とか、まるでどこかの怪物ランドか怪物王女かいちばんうしろにいる魔王なシチュエーションだけれどもまあそれはお約束。そんな楽しげなキャラとは別に、物語の核の部部で人間と人外、お互いの反発をなくそうと頑張る人外側の会長の振るまいが潔くってメッセージとして強く響く。

 勇者の少女が相手のことを幼馴染みで知り抜いているんだったら、それがいくら完璧であってもコピー人形になっていたら築きそうなものなのに、って謎はあるけどあるいは案外に事態に気づいていながら、その気持ちをくんで築かないふりをして、戦いつつ学校を良くしていこうって思っていたりするのかも。ありがちに見えるけれどもすらすら読めて楽しい1冊。題名はしかしやっぱり長すぎか、せめてゾンビはいらない(ついてないって)。

 発売されたジャンプSQって雑誌に、内藤泰弘さんの「血界戦線」が表紙も含めて一挙80ページの掲載となって、タイトルにあるような血煙たなびかせた戦いから一変し、ゲームを使って命をとりあう心理戦の迫力が打ち出されて、「マルドゥック・スクランブル」に優る勢いの作品となっていてひたすらに堪能させられる。その内藤さんは「ヤングキングアワーズ」に久々の「トライガン」が載り、劇場アニメーションの方も絶賛公開中と完全完璧に第一線に戻ってきた。そして同じく発売されたサンデーGXには、広江礼威さんが「BLACK LAGOON」を連載していて、デコ眼鏡大慌てな上に乳眼鏡の悪さが浮かんできてちょっぴりデコ眼鏡への同情が増したところに、乳眼鏡から逃げ出したロックとレヴィが絡んでいきそうで楽しさ5倍増。第3期のアニメーションもOVAの発売を控えて、こちらも絶好調の極地にいる。

 そんなサンデーGXには高橋慶太郎さんの「ヨルムンガンド」も新章に入って、爆破のワイリーの過去話しとなってどれだけ凄い奴なのかが見えてきそう。単行本も出て黒坂のやられっぷりがなんだかかわいそうになって来た。あれで日本だったら最強なんだけれども相手が悪かった。けれども挑まずに入られないし、挑めばあるいはと思っていそうなところに、サッカーの日本代表を見る思いがしてきて泣けてきた。ヤングキングアワーズでも平野耕太さんが「ドリフターズ」を連載して、最初は静まった雰囲気だったのがいっきに戦いの雰囲気を増して爆発の兆し。こちらにも乳眼鏡が現れキャラクターにも不足はない。

 そんな感じに内藤広江高橋平野といった希代のアクション漫画のスターたちが、最前線に立って世界のどこにもないアクションの凄みって奴を描いている、その戦列にどうして伊藤明弘さんがいないのだ? 誰よりも早くそして誰よりも精緻にアクションを描き武器を描き戦いを描きドラマを描いて来た伊藤明弘さんが、誰しもの戦闘のさらに先を言ってアクションの面白さを描いてくれていないのだ? 「ワイルダネス」が途切れ「ジオブリーダーズ」が新章へと入ってほどなくして途切れてもうすぐ1年。その不在が周囲のアクション漫画大隆盛の中でぽっかりと空いた穴のようで、とても気になるしとても不安になる。ただひたすらに待つしかないのだけれど、それでもやっぱり早の帰還を祈りたい。

 フィルムは神楽だった「銀魂劇場版 新訳紅桜編」。これって当たりなの? っていうか漫画もアニメも実は一切みたことがなくって、誰が誰なのかさっぱり分かっていない状態で見た劇場版。けれども冒頭のお遊びな予告のところでとりあえずなキャラの配置が説明してあって、状況なんかも話してくれるんで万事屋の銀さんが凄腕でかつて高杉晋作桂小五郎のパチもん(じゃないけど)といっしょに攘夷戦争とやらを戦ったものの、敗れ今は高杉はハードにテロして桂は忍び新撰組に追われてて、そして銀さんだけが惚けたような感じで万事屋を営んでいる、ってことが分かったところに配慮があった。偉いぞ。WB兄弟がどうとかって遊びよりそうした“一見さん”への配慮に感心したぞ。

 んでストーリーは冒頭とラストの爆笑な仕掛に比べて全体にハードコア。シリアスなシーンが多くってギャグまみれを期待していくと物足りないかもしれないけれど、アクションの鋭さはたっぷりあるんでそっちが好きな人には嬉しい作品か。偽鉄雄がやたらと活躍しているのはなあ、あと刀を作った大声兄ちゃんも本筋に絡んで来ているのはなあ、2人とも決して眉目秀麗じゃないだけに、眉目秀麗な男たちの絡みが見たい人にはこれも不満な所なのか、それともそうではないのか、観客席ほんと女性ばっかりだったし。でもってエンディングはオールスターキャストで大騒ぎ。眼帯男装侍とか眼鏡女忍者とか良いキャラいるのに本編には絡まず。まあ出しすぎるとややこしくなるんで仕方がない。次だ次、って次あるの? そこはそれ流行っている鳴門やら脱色やらの漫画(侍じゃないけど、忍者に死神だけど)だを騙して作ってしまって、開けて吃驚って奴をやってくれたらもう最高。大丈夫だって「銀魂」ならできるって。


【5月18日】 だからマカ・アルバーンの頃から小見川千明さんは凄い凄いと言い続けていた、かどうかは記憶に定かではないけれども、その演技の巧みさよりもむしろその声の特質に耳が惹かれてしまって、聞き逃せない声優だなあといった印象は強烈に抱いていて、それが「夏のあらし」で上賀茂潤の焦りつつ秘めつつ縋りつつ立ち上がりつつある心情がこもった声を演技も含めて出してくれるようになって、もうこれは次代を担う声優さんになること間違いなしって思っていたらすでにして時代を担ってしまっていたと感じた「荒川アンダー・ザ・ブリッジ」のP子役。神谷浩史さんに藤原啓治さんの特徴ありまくりな人たちを相手に堂々としておどおどとした声を聞かせてくれて、もう絶対に助けてあげなくちゃって思わせられたけれど、下手に手伝えば鍬が飛んで来るんだよなあ。ドジっ娘は恐ろしい。

 戸松遙さんや沢城みゆきさんといった、天才系で何でもありな声優さんもなるほど凄いし実際に仕事の幅も半端じゃないけど、そういったオールマイティな人の凄さとは違った凄みが声に特徴のある人にはあるんだよなあ。男性だったら田の中勇さんなんてあの「おい鬼太郎」の声だけで何十年も食べて来られたし、中尾隆聖さんとか大塚芳忠さんといった人たちも、その声が特徴的であればあるほど起用され続けて今にいたる。特徴があるのって限定されるって意見も一方にはあるけれど、そこから聞こえて来るだけで背筋がピンと立つって声は、限定性を超えた何かを聞く人に与えて耳を話さない。女性だったら島津冴子さんなんてそんな声の持ち主だったし、今だと能登麻美子さんが筆頭に来そう。そんな系譜に連なって小見川千明さん、ヒロインでも脇でも様々な役をもらってその響く声質で見る人の心を引きつけ続けてくれるものだと信じたい。自分ならどんな役にあの声をはめるか? そんな挑戦意欲を監督さんとかにそそらせそうだし。どんな役が楽しいかなあ。

 何でも政府には暖房機密費というのがあって、対象にした人の暖房に使うクーラーとかの電気代ならこっそり1割まけて請求し、石油ストーブとかファンヒーター用の灯油代だと、買うときにスタンドに手を回して多目に注いでもらうようにして、対象者に体もフトコロも暖かくしてもらって、世の中に世知辛いことなんて書いたり言ったりしてもらわず、明るくって前向きなことを言ってもらおうとしているらしいんだけれど、ちょっと見たことがないなあ。あと政府には厨房機密費というのもあって、対象者の奥さんが買い物に行った先のスーパーなんかで、たまたま9割引なのに新鮮な本マグロが手に入ったり、ちょと試しに引いた福引きでファミレスお食事券3万円分が当たったりして、対象者の食卓を助けてお腹をいっぱいにしてもらって、世の中に楽しいことを言ってもらおうとしているっていうんだけれど、これもあんまり見たことないなあ。やっぱりマイナーだと暖房も厨房も気にされないか。

 さらに政府には翻車魚機密費というのがあるとかで、対象者の一家をサンシャイン水族館に招待して水槽を悠然と泳ぐマンボウを見てもらって、心平らかになってもらって政策の些事など気にしないようになってもらって大局から物事を言ってもらおうとしているということがあったらそれはちょっと興味深い。でも翻車魚って見ていると本当に和むんだよ。おまけとして政府に池林房機密費ってのがあったら、それはあやしい探検隊とかめったくた書評家とかが行う突発的座談会の回数をもっと毎月ぐらいに増やしてもらって、面白いことをあれやこれや言いまくってもらうようにして、政治とか社会の喧騒から世の中の目をそらしてもらおうとしているって話が、本当だったら池林房もウハウハだよなあ。ああでも書評群な面々を抱き込むには必要な工作費なのかも、池林房機密費。冨山房機密費では絶対にない。

 上海で水木の兄貴が「ズェーットッ!」と叫ぶ日が迫っていることが明らかにされた発表を見て、上海と日本の女子高生がクロスして描かれた実写映像の3Dっぷりの良さに日本の技術もなかなかかもと感じたりしてから虎ノ門へと向かって三島由紀夫賞の発表待ち。長くかかるかと思ったら案外に早く三島賞が決まってこんなに早いんだったらきっと異論もなさそうな村田沙耶香さんかなあと思っていたらとんでもなかった東浩紀さんの「クォンタム・ファミリーズ」(新潮社)の受賞だった驚いた、ってさもそれでは受賞がなくて当然だって思っていたかと言われそうだけれども、そのクオリティを脇に置いて文学賞って割に順序があったりするもの。前回に続いての候補となった村田さんがやっぱり第1候補で、11年前に候補にはなっていても小説は今回が初の東さんが、批評家といsて前よりいっそう名を挙げた中で受賞するってことはまずないって考えるのが普通だろう。

 それが受賞。それもけっこうな評を集めての受賞。選考の経過を話してくれた町田康さんによると「小説のその前提自体はさほど重要ではないが、インターネット中心の社会の可能性や、複雑な社会の中で生きることを正面からとらえた作品、物語外という部分が重要な役割で配置されている。受賞に値する」ってな感じのことを喋って高く評価していた。「一方でストーリーテリングが通俗的ではないかという話があったり、村上春樹に触れた部分にちょっと問題があるのではないかといった意見もあったが、世界を最後まで描ききって読ませる力が良いとなって決まった」とも話してた。なるほどねえ。批評家としてすでに有名だってことについては「議論になっていない」と即答。村上春樹に関する部分も「意見が分かれた。拘泥し過ぎだが、最終的に村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドッワンダーランド』がキーになって出てきても、結末でそうではない、自分たちはハードボイルドの世界に生きるのではなく、世界の終わりを生きるという話しになっている。という話になって、村上春樹問題は結論が出た」と不問に付してた。

 選考委員の5人が一致かというと4人が指示して1人が反対したそうで、それが誰かが気になるところ。ちなみに次点で村田さんが入ってそこのあたりは下馬評通り。SF界からは東浩紀さんにも増して受賞の期待があかっていた円城塔さんの「鳥有此譚」についてあ「世界そのものを言葉で増殖していくところがあって、わざとあえてやっているのだけれど、こういうモデル的、発生的なものを言葉でやるには芸をもうちょっとやるべきで、小説として面白くしていく部分が必要だ。一方で評価する人もいて、言葉そのもので言葉を増殖させていくのは評価する、やりたかったところで、それに注が入って関わって来ることに意味がある、という意見もあった」と講評。やっぱり実験的過ぎるんだろうって印象で外れてしまった。あるいはこっちが日本SF大賞へと回ったりすることもあったりするのかもしれないけれども、東さんもSF大賞は本気で狙っていそうなだけに、年末の選考会で再びの対決って奴が見られたりするのかも。そこをあっさり「星の舞台からみてる」がかっさらっていったら、それはそれで面白いんだけど。


悲鳴ならずともつぶやきだけでダゴン沈黙 【5月17日】 抜くときには犬を使って自分は悲鳴を聞かないよう耳栓をするってのが常道なんだけれどもその度に犬が1匹づつ死んでしまうってのも面倒な話。今だったらロボットに引かせれば住むんだろうけれどもそこは万病に効く秘薬でもあるマンドラゴラ。ロボットだったら電子頭脳を狂わせ破壊するくらいのことは平気でするのかもしれない。だとしたらいったい空想魔学展ってところはどうやってマンドラゴラを抜いて干物に仕立て上げることができたんだろう。ちょっと不思議。今だってその薫りだけでクトゥルフの異神ダゴンをほらこのとおり、コロリとさせてしまうんだから相当に強力なパワーを持っている訳だし。まあそれだけ飲めばいろいろと効くんだろうなあ。これが2000円とは安いなあ。なんてな。

 とてつもなく穴だらけで隙が多くて突っ込まれどころが山ほどあってそれが実際に問題になっているってことは、これまでの議論でも明らかにされていて周知のとおり。にも関わらず、未だに東京都あたりが漫画やアニメーションの性描写なんかをゾーニングといいつつ規制をかけようとしているのか、って部分が実はとっても分からなかったんだけれども巷間、あくまで風聞として伝わっている東京都に警察の方から来ている人が、仕事として何かやっておかなくっちゃと練り上げ進めて、それに都知事が訳もわからずほうほうそうかいと乗ってしまっているって構図が、実は案外に正しいのかもしれないってことが分かっただけでも腑に落ちたかな、豊島公会堂で開かれた「どうする!? どうなる? 都条例−非実在青少年とケータイ規制を考える」って会合での1幕。

 喋ったのは宮台真司さんでいろいろとポップな雰囲気が前に立って誤解されがちな人だけれども、こと政治と向かい合って必要なことを遠そうとする時に示す言説はとてつもなくロジカルで感情とか打算とかは絶対に左右されない。その人がこういった大勢の人が集まる場で、隣に法社会学の権威で警察なんかにも呼ばれて研修を行う人を置いてそう呟いたんだから、よほどの自信となにがしかの裏打ちがあってのことだと思うのがここは妥当。つまるところはそうした功名心の部分を突破しない限りはいくら周囲から無理筋だ何だと攻め立てたところで、揺らがず言い抜けに終始した挙げ句に条例として成立させてしまいかねない恐れすらあるから悩ましい。実際問題、条例が出てきてから浴びた批判に対して、だったらと改める姿勢を見せるどころか東京都は“誤解ある”と言ってあれやこれや言い訳を巡らして来ている。それで世間を説得しようとしている。

 ここで「誤解であると言っている時点でこの条例はだめ」って宮台さんが一刀両断したところで、届かず未だにそうした説明が通ると考えているっぽいからら難しいというか。それで納得させられると思われている世間も舐められたものだけれども、都の人だって阿呆ではないからそういう説得がいずれ人が変わった時点で水泡に帰するものだってことは多分承知。それでも自分が阿呆と思われながら主張を通して行かなくてはいけない板挟みっぷりに、いずれだれか心を壊す人とか出るんじゃないかって心配になってくる。あるいは新宿西口公演に夜中に穴掘って口を叫んで埋める職員が続出して、そこから生えてきた草で笛を作って吹いたら「誰が阿呆だ彼が阿呆だ」って言葉が流れ出てくる奇跡が起こるんじゃないだろうか。ヤな職場だなあ。

 そうした条例の中身から位置づけから狙いから何から何まで含めた問題点を立て板に水と話した宮台さんが明日には東京都の方でいろいろ証言をするみたいで、そのロジックにかかれば誰だって納得せざるを得ないはずなんだけれどそこで最初の問題に立ち返って、通したい人がいる以上は通ってしまう状況をどうやったらせき止められるか、ってあたりでやっぱり上からドッカンと雷を落としてもらうしかないんだろうか。あと印象に残った話ではボーイズラブ作品をいっぱい出している水戸泉さんが、まだ条例が通ってもいないどころか継続審議になって問題点がいろいろと指摘されている中で、出版社の方はナーバスになって水戸泉さんの書くものにいろいろ注意を向けてきたというから何というか、業界のビクビクっぷりは凄まじいというか。

 なるほどそこで、権力なんざあ関係ねえぜと突っ張り現時点で決まってすらいない条例に配慮するなんてこたぁ臆病者のすることだっていきり立って、あらゆる制約を排除し作家の創作意欲をあおり立てることが編集の仕事だって言ってしまうのは感嘆だけれど、将来において制約を受けるかもしれない内容を持ったものを、無理に出すことによっていずれ普通の書店では売られなくなって、それが買う側を減らしてしまって結果として会社に損害が出てしまうってことも、企業で働く身としてはなかなかにやりづらい。だからそこで共に戦い最高裁にだっていって表現の自由を訴えるんだと宣言できるほど、企業の体力も個人の発言力もないならやっぱりお上の差配を入れつつ仕事するのが最善ってことになるんだろう。

 条例が現実に通ればそうした萎縮もまた現実になり、それも予想を上回る規模で広がってありとあらゆる分野で萎縮が進み、個人の才能や国民の思考の可能性が閉ざされてしまって未来永劫にわたる禍根をしっかりと歴史の上に刻みつけることになるんだけれど、そうした1000年2000年後の教科書に焚書に優る非道と書かれ語り継がれることへの畏れを、どうして都の人たちとか推進する人たちは抱けないんだろうかってこともやっぱり不思議に思えてくる。刹那の手柄が永劫の罪悪になりかねない可能性に、どうして怯えないんだろうかと謎めいて思えてくる。つまるところはやっぱりそうしたことへの感受性が極めて鈍ってしまっているってことなんだろう、それは現在の多くの日本人にとって。今しか見ない短絡の向こうに待ち受ける暗黒を想起せよ。今がその分水嶺にあると知れ。

 1人目のニートは就職した会社を2年で辞めて、遼を追い出されて行き先をどうしようかと迷っているタカシ。実家に帰ろうにも曖昧な暮らしをずっと続けて大学にも行かず専門学校を出て親の奔走で就職できた会社を特に理由もなく辞めてしまおうとする息子に父親はお冠。帰れる当てもなければこれから生きていく糧もない中を、それなのに切迫感もなく荷造りをしている。2人目のニートは割に真面目で仲間が莫迦をやったらたしなめるような性格で、数学が得意で大学に行ってあとは普通に就職かと覆われていたのに何故か2年で学校を辞めて、家に戻ってずっと部屋にひきこもりになってしまう。誰ともつき合わず食も細って学生時代の太った見かけにちなんだキノブーというあだ名がまるでそぐわなくなっている。

 そして3人目のニートが現れる。レンチという名の彼はとにかく自由奔で破天荒。というか何も考えなしに突っ走っては、あちらこちらで自爆を繰り返す男で、就職もせず商売もせずそれでどうやって来ていられたかというと人当たりの良さやら口の美味さで女性の家に転がり込んでひも生活を続けていたから。ところがそんなひも相手の女性の彼氏にヤのつく人がいて、捕まりそうになって逃げようとして思い出したのが学生時代の2人の仲間。まずは引きこもりのキノブーの家へと行って母親を籠絡しドアを蹴破ってキノブーを縛って連れだし、彼が親に買ってもらった車に乗せてその脚で会社を辞めてしまったタカシの社員寮へと家へと向かってそのまま引っ張り出す。

 向かうは北海道。途中の仙台で女好きのレンチがキープしていた女性を乗せていくはずだったのが、現れたのはどう見ても小学生でおまけに口調も超生意気な月子という名の女の子。捨てていこうとしたらそこにひも野郎を追うヤクザが現れ人質をとって脅そうとしたところを女の子との機転で逃げ出しそのまま車で4人で北海道へと向かっていっては、少女が言う宗谷岬や阿寒湖といった北海道の名所をとくに合理的でもないルートで回る旅を始めるおとになる。三羽省吾さんって人の「ニート・ニート・ニート」(角川書店)はそんな小説。

 尋ねてきてくれる友だちがいて、騙されているようでも頼られている感じを抱けるような関係にあるような奴をニートって呼ぶのはちょっとはばかられるけれど、そんな3人(プラスあと1人)の世間とのズレっぷりを見るに、やっぱり誰もがニートで、それがたまたま集まっただけって思うのがとりあえず良さそう。あと言動も無茶なら失敗も頻繁でなのに反省なんてゼロのひもの性格が時にうっとうしくもなるけれど、それでもどうにか突破していってしまうところに羨望も募る。あんな性格だったら世の中、生きててきっと辛いことなんでないんだろうなあ。

 とはいえ働かざる者くうべからずの例えに乗って働いてみた3人が得られたものが、いつまでも親に逆らってはいられないし、絶望から引きこもってもいられないんだってことを教えて脚を歩ませる。でもレンチは相変わらずに適当な感じ。それもまあひとつの確固とした生き方か。真似したくはないけど。最後に明らかになる月子が旅した理由は、悲しみを聡いつつ大人の犠牲になる子供の悲劇も浮かび上がらせる。子供は身勝手で世間知らずかもしれないけれど、大人は手前勝手で恥知らず。それを分からせたこともタカシとキノブーの2人に何か良い影響を与えてくれるかもなあ。レンチを除いて。ホントどうしようもないもんなあ。


【5月16日】 5・16事件がなかった日。あったとしたらどんな事件になったんだろう。闘争を経て帰宅して眠くて眠って見られなかった「いちばんうしろの大魔王」を録画で見たら悠木碧が復活。でもっていきなり謎のノイズ爺さん。誰? 魔王に対する勇者も登場。バトルスーツ系かよ。刀を使うんじゃないのかよ。そして物語は魔王になりたくない勇者と、勇者になりたい気持ちを表に出せない勇者との相克へと向かっていくのであった。悪のお嬢様もちびっ娘の生徒会長も登場しない回なんでどうでもいいや、次いこう次。

 ゴー、ゴー、デザインフェスタ。もう軽く20回くらいは来ている感じだけれども未だに始めて見るブースが多くってその密度に驚く。尋ねると10年出てますとか5回くらい続けてますってところばっかり。なのに見かけなかったのはそれだけ出展者数が多いのと、それとあと毎回のように規模を増殖していて広がる宇宙の彼方に人間が永遠に到着できないのと同じ理屈か。それはちょっと違うけど。でもそれが新しい発見をもたらしてくれる訳で、だからこそ毎回通う楽しみもあるのだデザインフェスタ。

 今回はとくにキャラクター系を中心に見物しようと入ってまずは2階から回っていきなり名古屋方面在住の怪獣プロップを発見。廣田慎太郎さんって人で、聞くと名古屋じゃ似顔絵師をやっているんだけれども怪獣が大好きで、とりわけ成田亨さんの描く怪獣らしい怪獣、ごてごてとしたデザインが施されているんじゃなくって何がが変化したように生々しくってそれぞれに来歴を持っていそうな怪獣が好きで自分で描き、やがて作って前回に続いて2度目のデザインフェスタに持ってきたんだとか。見るとなるほど昆虫らしいベースがあって目とか表皮とかを変えることで恐ろしげな雰囲気を出した怪獣がいたり、オウムガイのような軟体動物のようなフォルムをした怪獣がいたり、蜘蛛が変化したような怪獣がいたりしてそのまま特撮映画に出てきたって良さそうなクオリティを見せていた。

 夢は怪獣デザイナー、だけど今ってどうやったら怪獣デザイナーになれるんだろう? どっかのプロダクションに入ろうにも居住が名古屋方面ではそんなところない。かといって自分で1本の特撮映画を取り上げ名刺代わりに持っていくような、「プランゼッド」の粟津順さんとか「大怪獣G」の田口清隆さんのような振る舞いを全員ができる訳じゃない。監督じゃなくってデザイナーだから。だからこそのデザインフェスタ出展ってことで、ここでこうして見てもらうことによって関心を持ってもらって依頼を受けるなり評判をとるなりできればって期待があるんだろう。問題はそうした存在を伝えるメディアか。10年以上通っているけどデザインフェスタをフィーチャーしたテレビとか新聞ってあんまり見ないんだよなあ。話題の宝庫なのになあ。

 たとえば今なら武将ブームに歴史ブームに戦国ブームなんかをとらえた品々とか。4回くらい前から出てはいたみたいだけれども気づいたのは前回だったかさな工房って所が出している刀の形をした傘なんて、まさに戦国ブームのど真ん中を貫きそうな商品なのに取り上げたのは「MONOマガジン」くらいとか。最近バラエティショップなんかで似たような傘も出回っているけれど、ここん家のは孫六な関市の模造刀製造会社からパーツを取り寄せ束の部分を作ってあるから質感も手触りも本物そっくり。とりわけ鍔の部分の造形は真に迫って美しく、手にして提げているだけで武将の魂が心に降りてきたような気分になってくる。でもってそれで過あを振りまわしていると何やってんだとお巡りさんに取り囲まれるという図。人前で傘を振りまわしてはいけません。

 聞くとデザインした人は刀が好きで模造刀を下げて歩いていたらいろいろ言われたんでそれなら堂々と持ち歩ける刀みたいな傘を作ろうと考案し、作って売ったらこれが人気に。今は旬ってこともあって坂本龍馬の愛刀の鍔が人気らしいけどほかにもいろいろそろっているんで「戦国BASARA」が始まった暁には伊達政宗に真田幸村あたりを取りそろえては、向かい合って斬り合ってはいかが、ってだから傘でチャンバラしてはいけません。欲しいけど荷物になりそうだったんで今回もパス。梅雨に備えてネットで注文しておくか。は誰がいいかなあ。やっぱり龍馬ってオシャレだよなあ。

 戦国関連では鎧の垂れの部分を皮とそれから紐でそっくりに再現しつつ今風のバッグなり携帯ポーチなりに仕立てる福岡の城後屋人もいて、ちょっと前にテレビにも出て評判になったらしいけれど、これからもどんどん行って欲しいもの。犬用の衣装とか笑えるんだけれど面白い。このデザインでiPad用のポーチとか作ってくれたら嬉しいかなあ、持ち歩くには大きいけれど鞄から出すのは面倒って人に、下げた鎧の薄手のポーチからiPadをさっと取り出しさらさらさらってスタイル、受けると思うんだ。とくに外国の人なんかに。作ってくれないかなあ。でも高くなりそうだよなあ。

 しかし99年から出展していても気づかないのがあるんだなあと、ウィンナー型宇宙人のフィギュアを出しているイトウケイイチロウさんと話してデザインフェスタの間口の広すぎぶりに改めて気づく。文字通りにタコさんウインナーのフィギュアなんだけれどもこれがかわいい。絶妙にかわいい。そして美味しそう。食べられないけど。でもかわいいし楽しいグッズがちゃんとグッズになったら売れそうな気もするんだけれど、1発では世の中になかなか広まりにくいんだろうか。でも「たれぱんだ」だって1発が5年10年のキャラになった訳だし。どうプロデュースしてくかって人の判断と力量にかかってくるんだろうなあ。タコさんウインナー宇宙人。どうすれば超メジャーになれるんだろう?

 バリエーションの大切さってことを気づいて最初っからそれでいこうとしている集団があって、そこん家が出していた「もにまるず」って品物は、見た目は指できゅっとつまめるサイズの動物フィギュアなんだけれどもポリウレタン製で手触りが妙に弾力があって、そして手に吸い付く感じがして面白い。造形に引きつけられ手にして大喜びする女子とか見ていると、もうそのまま商品にしたって良さそうな感じだけれど果たしてこれでブレークするか。今回の出展を誰が見たかによるよなあ。そうやってスカウトして歩いている企業っているんだろうか、デザインフェスタ。ぜったいにネタの宝庫なのに。そうでなくても楽しい1日2日が送れる場所なのに。

 こちらも5回目くらいの出展らしいeskimoってデザインユニットのブースがあって、エコキモーだかって雪男みたいなぬいぐるみを出していて、近寄り触るとふわふわの表があって、きゅっと閉まった裏面があってクッションとしても抱きしめるぬいぐるみとしても楽しく使えそう。さらに10回以上は出ているらしいんだけれどようやく気づいたエグ・エッグって工房は本荘隆さんがずっとやってるフィギュアのプロジェクトみたいなのがあってイルカとかタコとかサメとかが急に進化して武器とか持って海を暴れ始めるっていった設定の上で作られたイルカやらサメやらマンタやらのフィギュアがかわいい上に恰好良くって、これに新しく作り上げたストーリーを乗せることによってひとつの絵物語ができてきそうな感じだけれどもとりたててメジャーに乗っかる予定はないみたい。

 でも今はネットだって携帯だって自在にメディアを選んでコンテンツを発信できる時代。そこから生まれるメジャーな品もあったりするから、そういう所へと展開していけばあるいは遠くない将来に口からバルカン砲を発射するヘリコプターなサメに出会えるかもしれない。期待したい期待してます。あと見かけたのは自分でロボットを持ち込んでいた石渡昌太さんか。キャラロボって工房をひとりでつくって音とかに反応したり喋ったり歌ったり踊ったりするコミュニケーションロボットを注文生産しているとか。こういうのってビジネスデザイン研究所とかココロとかが企業でやっていたりするんだけれど、自分で部品を揃えて外側も造形して磨いてた上に中身も設計して組み立てて提供するなんてちょっと剛毅。でも面白そう。実際にひとつケーブルテレビのキャラクターのロボット化って仕事をやっているくらいだから腕は確か。でも独力ってのはあんまりいない。将来どんな人になっていくのか楽しみ。こういう人がいるからデザインフェスタって毎回行くっきゃないんだよな。

 カエルフィギュアが素晴らしい鎌田光司さんとか「透明標本」が女性に大爆発して喜多冨田伊織さんとかに話を聞いてから脱出して渋谷へと向かい東急東横店で機能に筒井で「大なごや祭 でらうま市」でヨコイのあんかけスパゲティ。昨日と違ってちゃんと中に入って普通に食べたけれども量とかそれほど違わないから別に弁当っぽいのを買って食べても良かったかな。午後2時くらいで列がないのは昼時を外していたからか、それともやっぱりひつまぶしい比べて知名度が少ないからか。でも客足が途切れるってことはなかったんでそれなりに認知はされているらしい。だからここで一気に大ブレークを狙って河村市長はお昼の給食にあんかけスパを出すよう全学校に指示しCOP12で集まってきた外国の人たちに朝はモーニングセット名古屋式を出し昼はあんかけスパで夜は味噌カツと味噌煮込みとどて煮の味噌トリオをぶつけて一気に世界に名古屋飯=NAGOYA FOODを広めるのだ。のだ。


【5月15日】 5・15事件のあった日。んで5・15事件って何があったんだっけ。 名前は残っているけど4年後に2・26事件って帝都が震撼したクーデター未遂があって派手さ規模の大きさで世に名をとどろかせ、小説やら映画にもなっていたりするだけに、そこへと至る重要なポイントでもあった5・15事件がまるで目立たなくなっているのは、5・15事件自身ににとって不幸だったというより他にない。かわいそうな5・15事件。でも大丈夫。世間にはメジャーよりマイナーを愛する人たちがいて細々ながらもちゃんと5・15事件を愛して、密かにその日をお祝いして祈ったり花を捧げたり踊りを踊ったりしているだろうから、5・15事件には決してしょげず拗ねないで、今年も来年もその後もずっと5月15日を迎えていって欲しいと言っておこう。んで5・15事件っていったい何があったんだ。問答無用か。話せば分かるか。

 名古屋に帰る機会があったらかならず食そうとは思って実行していたけれども、家へと向かう通り道にある名古屋駅の地下とかにある「チロル」をメインにしていた関係で、元祖というが本家というか、あんかけスパゲティのルーツを新栄の「そーれ」と分け合っている感じもある錦三丁目の「ヨコイ」にはなかなか行けず、それでも同じあんかけスパだからってことで「チロル」のを貪っていたり、東京にもできはじめた「パスタ・デ・ココ」のあんかけスパを嗜んだりしていたけれど、東急百貨店でちょっと前から始まっていた「大なごや祭」って催しの食品関係展示即売会「でらうま市」に、名古屋からはるばる「ヨコイ」が来訪。イートインには入れずとも弁当風にして売っていたのを食べたらなるほど「ヨコイ」の味だった。そして他のあんかけスパとは決定的に違う美味さだった。

 もちろん「チロル」のバイキングとかも好きだし「パスタ・デ・ココ」も悪くはない。よくやっているとは思うけれども、「ヨコイ」はやっぱりソースが違った。辛い。そしてとろみがしっかりしていて麺に実に巧みに絡み合う。その麺もぶっとくって噛みごたえがあるんだけれど、固すぎるって訳でもない絶妙な塩梅。なおかつ絡められた油の量に添えられたタマネギやらウインナーの炒まり具合と大きさも、口にすればパスタと辛みソースと溶け合って絶妙のハーモニーを醸し出す。これが「ヨコイ」のミラカンだ。そしてあんかけスパの代名詞中の代名詞だ。

 他の店でもなるほどミラカンはちゃんと出る。でもそうやって出てきた似たものとはやっぱり違う「ヨコイ」のミラカンの味。それをこの東京で確かめられるとは思わなかった。これを食べてしまうと味恋しさで「パスタ・デ・ココ」とかに通っていた身に、ストップもかかってしあいそう。まあ行くだろうけど。でもせっかくの機会はある種の奇跡。これを逃しては次にいつってことおあるんで、会期中を見計らって今度はイートインで熱いところを食べて本場の味を舌にじっくりと刻みつけよう。味噌カツ丼も興味があるけど矢場とんは銀座に店、開いているからなあ、だからまあいいや。カレーうどんも東京にけっこう来ているし。だからやっぱり「ヨコイ」には、東京にアンテナショップを出して欲しいところ。行列だってできてたんだから、きっと成功できると思うけどなあ。だったらどうして秋葉原の「パスタ・デ・ココ」はなくなったかって? うーん。

 最高のスポーツ剣士も最強の戦士の前ではやっぱり赤子同然ってことなのか。奴隷にさせられた祖国の50万人を金で救い出すため、王族の少女の元で元騎士の男が飄々としながらも根はストイックに鍛え上げ、大人気の格闘イベントにプレーヤーとして参加し根っからの強豪ぶりを発揮して、リーグのランクを上げていくってストーリーが核となったあわむら赤光さん「無限のリンケージ」(GA文庫)最新刊の第3巻で、選手のラーベルトの敵としてひとりの剣士が登場。ラーベルトのチームに参加している人物とは学校時代にフェンシングの部で先輩後輩の間柄だった少女で、その先輩が学業に専念するようにあなった後は銀河にかなう者がないフェンシングのチャンピオンとなって、もう戦う相手がいないとて飽きてすぐに止めてしまう。

 その先として進んだのが先輩やロバートがいる戦いの世界で、使用できる武器でも最高の飛翔能力を持った武器を身に着け連戦連勝を重ねてまたたくまに最高クラスのリーグに参加できる身となってロバートに挑戦する。ロバートの方はそんな相手にとりたてて関心は見せなかったものの、ロバートの側にいる先輩や、その後輩で天才的な武器の設計者の少女にとって、相手は決して見ず知らずではないそれも女の子。その子の既婚者である先輩に向ける視線に、ロバートへの思いに迷う武器設計者の少女は、いろいろもやもやとした気持ちを抱えるものの、そうした葛藤を共に経て迎えた戦いの場面。相手を事故と称して殺害しない戦いを絶対的に心がけているラーベルトが、そのリミッターを外して全力で迎え撃った。果たして少女の運命は?

 ってところでやっぱり浮かぶのは、本気の殺し合いを経て生き延びたものの強さって奴か。剣道の上段者が真剣での斬り合いに長けているかって問題とも裏腹で、そうした結末を経てロバートの強さが引き立ち、それでも彼がやろうとしていることの大変さも見えてきて、この先にどうなっていくのかって心配が募る。敵の新たな暗躍もありそうだし、ロバートとその仲間たちに未来はあるのか。ロバートをうち負かした最強の戦士ディナイスだけは、何も感ぜずに娘可愛さの親ばかパワーで行き乗り続けるんだろうなあ。親バカ最強。娘はたまったもんじゃないけれど。


 歴史は変わらない。けれども変わり始めた歴史が、いったい何を求めてどう動くのかってSF的神学的興味も立ち始めて来た春日みかげさんの「織田信奈の野望3」(GA文庫)は、上洛も果たした織田信長ならぬ美少女うつけ者の信奈は、木下藤吉郎が参戦した桶狭間の戦いで死んだ場に居あわせた、未来から過去へと送り込まれた高校生、晴信があの戦いで助命嘆願して生き延びたやっぱり美少女の今川義元を将軍に据えて、天下統一に向けて動き出そうとするものの、京都に巣くう公家の反発もあって思うように進まない。金を求められ調達に赴いた堺では、信奈を思う一方で彼女が重用する晴信を快く思わない明智光秀と晴信が、堺の新名物開発競争を戦うことになったりして、そこで繰り広げられた策謀と対応が晴信の真っ直ぐさを引き立て光秀の弱さを浮かばせ、これなら反乱もあるのかなって思わせながらもそうはさせまいって頑張り、歴史の運命に挑戦をする晴信の主人公っぷりを指し示す。

 堺で競争の行く末とか楽しい要素もあったりするけど、そうやって一段落して落ち着いた京からちょっと遠くへ遠征に出かけた織田信奈を待ち受ける運命の苛烈さを、それに気づいた晴信の思いが押しとどめて引っ張り戻して、そしてむしろ晴信に苛烈な戦いを強いることになる。歴史的には秀吉はその戦いを生き延びるんだけれど、「織田信奈の野望」は歴史どおりにいくべきなのか、それが改変されるなかで最善手が選ばれるべきなのかってテーマも突きつけられている感じがして、戦いの行く末がちょっと見当付かない。その先に現実には起こり得た本能寺の変が、誰の責任において実行されるかも不明なだけに、実際の歴史への収束を測りたい勢力があったとしたなら、それとの戦いへとどう描いていくのかってあたりに興味が向かう。クライマックスは「さあこれからだ」的ノリだけれども、その中で何が起こり何が変わっていくのかってあたりも、現実にこれかの歴史を生きる僕たちへのヒントが感じられそう。さてどうなるか。信奈と光秀の関係は歴史を超えるのか。興味津々。もう津々。


【5月14日】 大人の人間としての正しさを証明するために、大人の人間として正しい読書をしようと本屋に行って出てきて手に持っていたもの。浜田よしかづさんの「つぐもも」第4巻と、私屋カヲルさんの「こどものじかん」第8巻と、それから塩野干支郎次さんの「ブロッケンブラッドV」。浜田さんの「つぐもも」は付喪神の話で、反物か着物に付いた桐葉って女の付喪神が目覚めたものの主人だった女性はすでに亡く、その息子がいて結果としてご主人みたいな形になったけれども、力を失っていたためか幼い女の子の姿になっていた桐葉は、それでも性格は前のままの剛毅さで小さい体を時にあらわにしながら少年を叱咤し、股間を握って攻め立てるという、まあ何というかビジュアル的にも物語的にもいろいろな作品。

 最新巻ではライバルが登場して戦いを挑んで来て大変な中で桐葉がちょっぴり成長。これって嬉しいの? それとも? まあそっちの興味は相変わらずちっちゃいまんまのくくりが引っ張ってくれるし、お世話係りでちゃんと爆乳な人もいるんでよりどりみどりのバリエーションが、これまで以上にマニアの幅を広げそう。何のマニアかは大人の秘密だ。それから私屋カヲルさんの「こどものじかん」は言わずと知れた作品で、前にイベントで買ったTシャツの言葉が凄すぎて、外どころか家の中でだって着れなさそうな作品だけれど、漫画の方でも相変わらずの突っ走りぶりで読む手がぶるぶる震え出す。アプリケーターって便利だなあと教えてくれる漫画なんて今時そうはないからね。黒ずんでいるかを確かめようと小学生が一所懸命に手を伸ばして撮った携帯写真を見て、先生はいったい何を思うのか。それを想像するだけで何というかこみ上げてくるものがある。アニメになったらいったいどんなしぐさになるんだろう? 新作の登場を祈りたい。

 でもって塩野干支郎次さんの「ブロッケンブラッドV」は、ノイシュヴァンシュタイン桜子ちゃんって華奢だけれどもとっても可愛い女の子をセンターに、2人の美少女が挟み込んだ超人気アイドルグループ「カッシュマッシュ」の素晴らしさが炸裂したエピソードが満載。丈の短い衣装を着ているだけじゃなくって、異能の力を発揮するブロッケンの血を引くか何かして発生する能力でもって透明になって、カッシュマッシュの衣装のパンツを脱がして回る怪人が現れるエピソードなんかもあって、ビジュアル的には「つぐもも」にも「こどものじかん」にも負けない壮絶ぶりを見せてくれる。いやあもう官能。鼻血もの。でもなあ。こいつらみんな男なんだよなあ。まあいいか。可愛ければ。それで良いのか?

 とまあそんな3冊を貪り読んだ上に、枕元には「チェンジH」って企画本がピンクブルーイエローと積まれDISTANCEさんって人の「ミカエル学園」なんてものも混じってて、そしてもりしげさんって人の「フダンシズム」も積まれていつでも読めるようになっていたりする所に、果たして大人のベッドルームがこれで良いのかってことを、ふと考えてみたくなるけどそこに超合金のアポロが立ってたって、レミーマルタンのVSOPがバカラのショットグラスといっしょに置かれていたって、楽しいかっていわれると楽しいけれども嬉しさでは及ばない。むしろ既刊の「BLEACH」44巻を積み上げてある方が喜ばしいって感情にここは素直になって、残る人生をひたすら本を積み上げていくことに費やそうと決意。そうする以外に何ができるんだとは聞くな。あとはそれらが地震で崩れてこないことを祈りながら、夜に没入して夢にノイシュヴァンシュタイン桜子ちゃんが現れるのを待ち望もう。

 我勝てり。なのかな。前に先行リザーブが始まっていた山下達郎さんのツアーに応募した結果がいよいよ発表。昨日の夜から寝られずまんじりともしない朝を迎えたってのは大嘘だけれど、それでも気になる発表の時間を待って待ってさあ発表。まずは8月8日の宇都宮、ツアーでいうなら2カ所目が当たっていたのが分かってこれで1つは確実に達郎さんを見られることが分かってひゃっほうと小躍りをする。たとえ南アフリカで日本がこてんぱんにやられたって、っていうかそうなるだろう可能性が高いんだけれどそれでも達郎さんを見られて2010年を幸せな気分で送れることになりそう。SF大会の2日目だけれどSFな達郎さんを見るのもやっぱりSFだよねキーボードが難波弘之さんならさらにSFだよねってことで許してもらうSF大会。

 そして発表になった中野サンプラザは落選。しゃあない。1度は中野で達郎さんを見たかったけれども東京のファンの数を考えるとこれも仕方がないってことで達観モードに入ったら、何と10月の大宮ソニックホールも当選していたことが判明してこれで2回は確実に達郎さんが見られることになった。何という幸運。これなら例えジェフユナイテッド市原・千葉がこのままJ2に残留しても気分は……いやいやそれだけは別か、やっぱり1部に上がって欲しいけれどもたとえ上がらなくっても幸せ気分を少しは(少しかよ)埋めてくれそう。来年は一緒にやろうよ大宮って予告? 問題はそれがどこかってことか。でもって今日からスタートの特別抽選にも応募。もちろん狙いは東京3公演。当たれば僥倖外れても保険はすでにある。その上で全部当たったら……金ねえなあ。

 沖縄料理のやんばるでポーク卵を喰らって丸井の上にある映画館で「マイマイ新子と千年の魔法」。別に丸井の上だからって「マルイマルイ新子と千年の魔法」にはなっていなかった。当たり前だ。んでもってえっとこれで何回目? 分からないけどたぶんシネコンでは4回目くらいの「マイマイ新子」は音響が最新鋭だからか聞き入る人たちの静けさが行き渡っていたからか、新子の家の周囲から響く鶏の鳴き声がずっと聞こえて田舎の家らしさを醸し出していたり、貴伊子の家に行った新子が2階に上がっていた時に、外から聞こえてくる犬の鳴き声とはやし立てる子供たちの声が位置も含めて立体的でクリアになっていたりと、音でも存分に味わえる作品だてことを思い出させてくれた。ラスト付近でのカエルの鳴き声もケロケロケロケロって声とタマタマタマタマギロギロギロギロドロドロドロドロクルクルクルクルって声……はないか、そうそうブモーブモーって感じのウシガエルの声なんかが重なって、田圃に囲まれて建っていた我が家の夜の空気を思い出させた。やかましかったよなあ、あの家。でも普通に眠っていられた。自然の音って人間、慣れるんだよ数日あれば。

 時間帯の良さとロケーションの便利さに設備の立派さと、そして作品について広まる評判が招き寄せたか、1回だけの上映ながらも席はほぼいっぱいで、都内でちょっとだけ途切れる上映の最後をここで存分に味わいたいって人が来たみたい。中に一見さんはどれくらいたのかなあ、ちょっと興味。こちらはといえばもう次の場面もセリフもすっかり入ってはいるんだけれど、それだけに細かいシーンで何が描かれているのか、どうレイアウトが着られているのかってあたりも意識して見ることができたかっていうと、やっぱり物語に引っ張り込まれ、重ね合わせて描かれる1000年前と昭和30年との巧みなつなぎ方に感嘆して、じっと見入ってしまった。流石だなあ。DVDで見直してもやっぱり同じように引き込まれていってしまうんだろうなあ。

 貴伊子が父親と始めて国衙へとやって来た時に走った田舎道で車とすれ違う警察官は、やっぱりタツヨシの父親なんだろうなあ。その時はああなるとは思わなかったし、新子の妹の光子を捜し出してくれた時も、立派そうに見えて新子も貴伊子も仲間たちもキラキラとした目で眺めてた。タツヨシだけは顔をそむけていたけどあれはテレなんかじゃなくって、少しは父親の行状も知って素直に尊敬できなかったのかもしれないなあ。でもってそんな大人への憧れがあっさりと崩壊したあの夕方。叡智の源として尊敬していたおじいちゃんも、タツヨシの父親を弁護せずにその行動や心理をさも知ったように分析してみせる。大人の対応と言えば言えるけれど、全てにおいて潔癖で真っ直ぐなおじいちゃんだと信じていた新子にはちょっとショックだったかもしれない。そうやって人は大人の世界をちょっとづつ覚えていくのです。けど新子の母親だけはずっとふわふわ。ある意味で立派。ああいう大人に私もなりたい、かも。

 そんなおじいちゃんが入っていた五右衛門風呂の形は、父親が生まれ育った鹿児島県川内市にあった父方の祖父母の家にあったのとそっくりだった。本当にでっかいお釜みたいのがタイルに埋まってってて、それを下から薪を燃やして火であぶる。田舎に帰省した時に焚いてみたけどど対流式ではないんでけっこうはやくわき上がる。あとそんなに大きくなかったし。問題はやっぱり水をどうやって抜くかってことで、釜だけあって下に栓なんてついてないから汲み上げるしかないのだ。それも面倒だから水も毎回変えない。だからちょい濁ったお湯につかってた。新子の家ではどんな感じにお湯を替えていたんだろう? 片渕須直監督なら答えてくれるかな。それとも高木のぶ子さんなら教えてくれるかな。聞く機会もないけれどいつかあったら教えてお願い。


【5月13日】 明け方にかけて「鳩とクラウジウスの原理」について考察を巡らしてから眠って起きたら良い時間。早めに赤坂プリンスホテルに行く用事があって、割に真っ当な恰好をして出たら好事魔多しというか、好事でもないけど珍しく真っ当なことをやろうとすると足を引っ張られるというか、電車の中で眼鏡を拭こうとしてレンズをキュッとやったらチタン製の眼鏡の枠がぶちきれた。溶接部分から剥がれたんじゃなくって枠がきゅいっとねじれて切れた恰好。いくらチタンが固くて頑丈だからって、細い針金ならひねれば折れるのは当たり前。問題はそれがレンズのはまった眼鏡で起こったってことで、ここに至る2001年5月18日の購入日からのほぼ9年で、レンズを吹いた回数の数だけ歪みがたまってそれがついに限界を超えたんだろうかと、想像はできたけれどもはっきりしたことは分からない。工学部でもないんで。

 そういやあちょっと前に折れたフレームにはまっていたレンズが外れたことがあって、普通だったらネジが緩みでもしなければ外れないレンズが落ちたのは、だからフレームに歪みが生まれていた現れだったんだろうと今にしては思えるけれども、当時はそれとは築かず力を入れすぎたのかと考え無理矢理レンズをはめ込んで事なきを得たつもり。でもそれがさらに歪みを生む原因になったのか、程なくしての今回の事態はだからある程度は予言されていたものとして、そうなったらこうなるんだってことを知識に刻んで次からの破損に備えるのが幸いってことになるんだろう。でも9年後にそれを果たして覚えているのか。9年後なんていったい幾つだ。それまで同じ度数の眼鏡を使っていられるか。最近ちょっぴり進んできたんだよ老眼が。さらに進んだ9年後に作り替える眼鏡なんて、きっと老眼に近視に乱視も混じってとてつもなく面倒なレンズが必要になるんだろうなあ。

 幸いにして今はまだ老眼の度合いも軽かったようで、忘れもしない(日記に書いてあるから)2001年5月18日に眼鏡を買った銀座の「999.9(フォーナインズ)」に持ち込んで修理はせずに新しいフレームを見繕い、ついでに見えにくくなっていたレンズの度数を今の状態に合わせようと検眼をしたら、これがとってもハイテクノロジー。ある程度までは自動で視力を計れる上に、乱視も利き目もそのた諸々までをも計測できてしまう。奥行きが分かるかを確認したり、文字も縦だけじゃなく横にも見たりして視野とかいろいろを計測するから、作り出す眼鏡もちゃんとしっかり視力の矯正につながっている。眼鏡は顔の一部ではなくオシャレの道具でもなく、視力矯正の道具であるってフォーナインズの哲学を、工学として実践できる体制がちゃんと整っているところがやっぱりそこいらの安売り眼鏡屋さんとは違うと感心させられる、って安売り眼鏡屋さんでも今はそれくらいのことをするのかな。9年前のカルテもちゃんと残っていたし。

 そんなカルテに書かれてあった、今の状態からやや弱めにしてあった左目の度数をちょい上げたらどう変化するかも測ってレンズを決めようとして、近くを見たらあんまり見えずどうしたものかと尋ねて、だっったらこれはと進められたのが上が近視で下が老眼のレンズになった遠近両用って奴。だけどもさすがにそれを使う歳ではまだないと矜持が働き、本を読むときは眼鏡を外しますから大丈夫ですと言い訳をして、普通のレンズを選んで加工してもらってはい完成。手際の良さと仕事の深さに、9年前もそうだったけれども今回も改めて感心した次第。なるほど支持される訳だよフォーナインズ。でも高いよなあ相変わらず。でも9年保つならそれも安いか。だから9年も視力が保つのかってえの。そこが肝心。悲しいなあ、老いって。

 眼鏡が完成するまでの間をちょっと秋葉原まで回って「ガンダムカフェ」の今の様子を視察。ちゃんとお昼時に行列ができていて、しっかり地元にとけ込んでいる上に人気も衰えていないと分かる。休日だったらさらに行列も多いんだろうなあ。幸いというかガンプラ焼の方が行列もなくすぐ買える状態。鯛焼きとおもえばちょい高い値段がネックになってあんまり人を寄せ付けないのかな。でも休日に手軽に買える一品ったらこれだから、やっぱりそれなりに混むんだろうなあ。実際に美味しいし、小豆もベーコンマヨネーズも。お土産売り場にはセリフ煎餅もはいってハロ巻ならぬハロールもならんで充実度アップ。でも軟弱者の濡れ煎餅は売り切れだった。何でだ。そんなにみんな軟弱者か。買って食べるとセイラさんにビンタされている気分になれるのか。それなら買うなあ。言って欲しいもんセイラさんに僕も「軟弱者!」って。

 もとい真っ当な用事は折れた眼鏡を外したまんまで向かった赤坂プリンスで叙勲に臨む家族の見物。同じように叙勲を受ける人たちがホテルの上から下までいっぱいにいて。モーニング姿で歩いていてあちらこちらで記念撮影をしたりしていて、こうした人たちが来年の同じ時期にはいったいどこに泊まることになるんだろうかとちょっと考える。もうずっと同じことを繰り返してきたんだろう、ホテルの人たちの手際は実に良くって叙勲ならではの年輩の人たちに向けたサービスから、着物の着付けから写真師さんを手配しての記念撮影から何から何までしっかり組まれて、流れるように案内や対応が進んでいく。

 このノウハウは同じプリンス系でも皇居に近くて叙勲に使われやすい赤坂プリンスホテルに伝わるもの。なくなったからといって東京プリンスに移せるか、高輪プリンスに持っていけるのかというと、いけないこともないんだろうけどホテルそのもんがなくなり人も減らさなくてはいけないだろう状況で、まるごと再現はできないだろう。ましてや他のホテルでは。その意味でもホテルが失われるってことは歴史と伝統とノウハウも失われるってことなんだなあと思い至って感慨に耽る。傍目で眺めている第三者ですらそうなんだから、働いている人たちの思いはいかばかりか。そんな慚愧を笑顔に隠して残る時間を疾走するホテルの人たちのドキュメンタリー。どっか作っているかなあ。いないかなあ。


【5月12日】 聞いた話の10分の1も書けてないけどとりあえず記事も出て、梶浦由記さんのライブCD発売に花を添えられたかと思うと「ノワール」あたりからその深淵なサウンドに惹かれるようになり、「空の境界」の静謐さと喧騒さが入り交じった多彩なサウンドに驚き、Kalafinaの華麗な歌声の底を支える詩とサウンドの幅広さに感嘆していた身としては、なかなかに嬉しいものがある。店頭には昨日あたりから並び始めていたライブCDだけれど、さてはていったいどれくらいの売上枚数を稼げたか。高橋真梨子さんの「VOCALIST」ならぬ男ソングを女が歌うアルバム第2弾も確か出ていて、週間チャートは厳しいだろうけれどもそこそこ行ってくれれば喜ばしい。

 もっとも、たったの1週で落ちてしまってはあんまり意味がない。なるほどアニソンがいくらチャートの上位に入ってくるようになったからといって、発売日前後にいっせいに買ってあとはしょんぼりって状況は、アニソンが歌としてではなくって単にグッズとして売れているだけって証明でもある。良い歌なら何週もランキングに入って聞かれ続けるし、そうなってこそアニソンもその音楽性を認められるようになったんだって胸を張れる。普遍性を持ち得て多くの理解を得られる。

 梶浦さんの作品は、グッズとしてファンがわっと群がり数字を押し上げることはなさそうだけれど、スタジオジブリの作品を担当する久石譲さんの音楽みたいに一般荘からも認知され、長くランキングに留まり続けるかというと、そこまでの普遍性は残念ながらまだあまりなさそう。それでもじわじわと知られ始めているネームバリューが功を奏して、それなりにランキングに入り続ければ、さらにあと1段ステップを踏めさえすれば、久石さんに並び追い越していくくらいのアーティストとして歴史に名を刻めるじゃなかろうか。そうなって欲しいと願いつつ、そうでなくてもそうなるためにできることを、これからも頑張ってやって行こう。

 空気さなぎなんかよりも、背中の張り付いた麻袋の方が不気味で怖くて恐ろしい。藤谷治さんの「ぼくらのひみつ」という小説は、人間の内に顰めた悪意を固めて空気さなぎに変じて吐き出させるんじゃなく、押し殺された願望を背中の麻袋から引きずり出して白日の下にさらしは、停滞から前進へと心のギアを入れ直させるる。

 1984年なんかよりも2001年を語りたい。藤谷治さんの「ぼくらのひみつ」という小説は、バブルの喧騒を目前に控えてちょっぴり浮かれていた1980年代へと人を回帰させず耽溺もさせず、2001年を発端にして今なお泥沼のように続くアジアでの、中東での、世界での戦いの始まりが何だったのかを改めて示して、今へと至りこれからも続く混沌の正否を問う。

 2つの月が空に浮かぶ世界なんかよりも、2001年10月12日午前11時31分が永久に続く社会に憧れる。藤谷治さんの「ぼくらのひみつ」という小説は、幻想の中に果たされる10数年ぶりの邂逅なんかではなく、繰り返される1分という瞬間のうちに結ばれる永遠に等しい結合がもたらす愛のあり方を示してくれる。だから言う。読まれるべきは村上春樹さんの「1Q84」(新潮社)よりも、藤谷治さんの「ぼくらのひみつ」(早川書房)なのだと。

 冗長の中に甘美な再会を描いて僕たちを感涙に喜ばせることはないかもしれない。けれども、刹那の内に陶然とし幻滅し、歓喜し荒廃する心の無常を描いて感嘆に震えさせてくれる。「ぼくらのひみつ」とはそんな物語だ。読めば絶対に感じ入る。そして思う。そうなっていって欲しかった村上春樹がどこかへ行ってしまった代わりに、藤谷治がやって来てそれ以上のことをやり始めたんだと。

 次々に発表になっていく各国のワールドカップ代表選手だけど、なぜかインテル勢といいACミラン勢といいミラノのチームの選手たちから割に代表入りが果たせていないっぽい雰囲気。もちろんインテルでもスタンコビッチはセルビア代表となりマイコン選手にルシオ選手にジュリオ・セーザル選手といった守備の要の選手たちはブラジル代表に選ばれているけれど、そんなインテルからはイタリア代表にトルド選手も選ばれなければマテラッティ選手は選ばれず、ACミランからはロナウジーニョ選手もアレシャンドレ・パト選手もブラジル代表から落ちてしまった。

 アルゼンチン代表は割にインテルの選手が入っているけどカンビアッソ選手は落ちたかな。そんな余った選手を集めてミラノ連合軍を作ってのぞめば果たしてワールドカップでどれだけの成績を上げられるのか。ああでもスナイデル選手もエトー選手もカカ選手もいないからやっぱり無理か。選ばれる人は選ばれる。そうでない人がそうなるというシビアな世界。それがワールドカップなのだなあ。パトだけはでも納得できんぞ。何かあったのか。嫁さん関係をドゥンガ監督が嫌がったか。

 日本では新たに7人のバックアップ選手が発表になっててドルトムント移籍が決まった香川慎二選手に、リーダー役を期待されつつ落ちていた小笠原満男選手に、サイドを切り裂く石川直宏選手にあと、アーサー・C・クラークが「高度に長髪にした田中達也はハイキングウォーキングの鈴木Q太郎と区別がつかにあ」と言ったかどうか分からないけどとにかく長髪な田中達也選手と、リーグ得点トップを走る前田遼一選手と、うっちー内田篤人選手が裏を狙わまくるのを防ぐためには不可欠と言われる徳永悠平選手と、そして得点を奪えるディフェンダーの槙野智章選手が並んでこれそのまま加えてあれとそれとこれとどれを落とした方が強くなるんじゃないのって、1億人くらいが思ったけれどもそう思ってない人が最低でも1人、それも肝心要のところにいるから日本にガッカリ感が広まっているのが何というかやるせないというか。

 そんな肝心要のところにいる人について週刊文春が「岡田監督知られざる『スピリチュアル伝説』」って記事を書いている、って誰かバレバレ。曰わく「中村俊輔『岡ちゃんはもっとやると思ったのに…』」。まあ「Number」とか出しててスポーツ界とつながりもある出版社だけに、あからさまに罵倒するような内容にはなっていないけれど、それでも岡田サンが脳科学っぽいことを持ち出して、精神論を繰り広げるようになった原因については調べて乗せている。そんなひとりに上がっていたのが天外司朗って人。誰? ってつまりはソニーでAIBOとか作った土井利忠さんのことで、その私塾みたいなところでフローがどうの、脳の新皮質がどうのってことを教わったらしい。余計なことを。

 なるほど電子工学とか機械工学については専門でも、脳科学とか心理学となると専門でやったことのなさそうな人が、人間の脳に秘められし強大な力を妙に高く買ってそれを引き出すあれやこれやを考えたくなる時に出てくる“火事場の馬鹿力”的な発想が、偉い人ってフィルターを通して岡田サンへと転移して今の代表をとんでもないものにしてしまっている。どうせだったら押せばちゃんと動くロボットの如くに選手たちを変えてしまって、、コントローラーで自在に思い通りに操作できるようにすればまだ救いもあったのに。もちろんコントローラーを握るのは岡田サンでなくってウイイレが得意な選手の誰かなんだけど。誰が1番なんだろう今の代表で。


【5月11日】 ブレービーが注目を集めなかったら、たぶんその後の日本のプロ野球に、着ぐるみ姿のマスコットが登場して観客に笑いと癒しと興奮を与えてくれることはなかったか、あっても相当に遅くなってしまっただろうし、その流れとして生まれたJリーグのさまざまなマスコットたちも、現れなかったかもしれないし定着することもなかったかもしれない。つまりは、阪急ブレーブスが抱えていたマスコットのブレービーは、トラッキーが大暴れしてドアラがブログを書いてパルちゃんが飛び回ってグランパスくん一家が愛されまくるという、今のこのスポーツマスコット大隆盛の源流だったと言って決して言い過ぎではない。

 想像してみよう。ドアラがいない中日ドラゴンズの試合の虚ろさを。想像してみよう。グランパス一家が現れない名古屋グランパスの試合の殺伐さを。彼ら彼女たち、愛されるスポーツマスコットがいるからこそ、スポーツに感心を持つ子供がスタジアムへと駆けつけ、スポーツに触れてスポーツ選手となるなり、スポーツのファンとなってスポーツ全体の隆盛を担っていく。その意味で、ブレービーの中に入ってあの陽気でスタイリッシュで軽快なブレービーを演じた島野修さんという人物の功績は、ひとつの球団にファンを招き寄せたに留まらず、この日本におけるスポーツ文化の底上げに、決して小さくない貢献をしたってことになる。議員に立候補を宣言した柔道の金メダリストにだって絶対に負けない、殿堂入りにも国民栄誉賞にも相応しい功績。そう断じても構わない。

 その島野修さんが亡くなった。享年59歳は早すぎるし若すぎる。病気でなければさすがにブレービーなりその後を受け継いだオリックスのマスコットのネッピーに入り続けてこそいなくても、野球に関わり後進の指導に関わっていただろう年齢。それを惜しんであまりあるものがあるけれど、嬉しかったのはそんな島野さんの訃報に、とても大勢の人たちが感慨を浮かべてブレービーなりネッピーの思い出を語り、スポーツマスコットの持つ意義を絡めて島野さんの偉績を語っていたことだ。選手のそれも一部のスーパースターにまとわりついて、一挙手一投足を伝えがちなメディアに毒されそうした見方しかできない人ばかりになっているかと思ったら、スポーツが選手だけでなく周辺でいろいろと働く人たちも含めて成り立っているんだと理解し、その一翼をスポーツマスコットが担い、そして源流として島野修さんが多大な貢献をしたんだと分かっている。スポーツの心はちゃんと広がっているんだと伺える。

 ドラフト1位で天下の巨人軍に入団したという栄光から、解雇され“ピエロ”扱いされる挫折に至って、そこからはい上がったと見なされがちなストーリーも興味を引きやすいところだったけれども、それも1980年代に語られた程度で、90年代にブレービーなりネッピーを見て育った人たちは、そのコミカルさ優しさに触れたことを良い思い出として持っていて、球団やスポーツマスコットへの愛着を抱いていて、そうした喜びを与えてくれた人の死をそのことそのままに悼んでいる。そこに栄光からの挫折というストーリーはなく、付随して醸し出されるマスコットは選手に比べて下といった意識もあまり漂わない。これも嬉しい。マスコットをチームの、スポーツファミリーの一員として認めている現れ。そうした意識の“底上げ”にも島野さんは立ち向かって成功した。やっぱり偉大だった。とってもとっても偉大だった。

 スポーツマスコットに長い歴史を(って言っても島野さんが手本にしたサンディエゴ・パドレスのフェーマスチキンは6年の先行に過ぎないし、有名さではさらに上を逝くフィリーズのフィリー・ファナティックだって3年先行しているだけなんだけど)持つアメリカだけあって、スポーツマスコットの活躍ぶりを讃える「マスコット栄誉の殿堂」なんてものが作られては、チキンもファナティックも早々に顕彰されている。日本にはそういう場所はなくブレービーが収まることはあり得ず、ましては中に入っていた人間が、人間として表彰されることもない。中の人なんていないのだから。

 だとしてもやっぱり何か感謝の気持ちを表したいというのが、スポーツマスコットを愛する者たちの気持ちだろう。あるいはその訃報にプロ野球やJリーグのマスコットたちが追悼の喪章を付けて試合の現場に立つとかいった行動があれば、ファンもきっと心からの喝采を送り喜びを表し、スタジアムに集まる子供たちの笑顔を楽しみにしていた島野修さんへの追悼に変えるだろう。果たしてそんな動きは起こるのか。スポーツ新聞がちゃんと支えればあり得るけれども、そうしたところに気を回せるメディアでもないからなあ。何とかしたいなあ。

 言葉が持つ時に豊穣さも醸し出せば、時に醜悪さも漂わせる力を考えに入れているなら、喋る言葉に気を付けて決して世間にネガティブな印象を与えがちな言葉なんて、たとえそれが内容を言い表している言葉であっても使わないのが教養って奴だけれども、残念というかやっぱりというかサッカー日本代表の監督を負かされている岡田武史さんは、代表の戦い方を蠅のようにとたとえてまとわりつく鬱陶しさを表現した。なるほどそうかもしれないけれども、日本人にとって蠅っていうのは決してポジティブにはとらえられず、ましてや愛することはできない。そんなものにたとえて平気な心性って奴は何だろう? やっぱりあれか、エレガントさの欠如って奴か、うーん。せめてだったらどう猛さで鳴るピラニアに例えるなり、鬱陶しさでも抜いては生える雑草に例えるなりすればまだ気持ちを寄せられたのに。

 まあ考えようによっては蠅は悪魔王ベルゼブブの姿であって最強の現れといえなくもない。そんな蠅のチームが迷信深いアフリカのチームを怯えさせ、キリスト教文化に彩れたデンマークにオランダ代表を萎えさえれば勝ちって言えなくもない。そうたとえてしまった以上はもはや臆さず堂々と「蠅の王」を標榜し、規律のたがを外したどう猛さを露わにして敵に挑むくらいの凄まじさを見せてやって欲しいもの。そうやって外へ心を向けないと、ゴールディングじゃないけど「蠅の王」を気取ろうとする奴らの間に争いが起こって不和が増すだけだから。さしづめトゥーリオ選手とか暑苦しいからって真っ先に排除されそうだよなあ。逆に遠藤選手はしたたかそう。そこに明神選手がいれば絶対に最後まで生き残ったよなあ。見えないんだから手の出しようがないし。ねえ。

 とかなんとか考えながらも原稿書き。やっぱり入れて置かなくっちゃと本田透さん「明日葉−Files season1」(幻狼ファンタジアノベルズ)を読み返して大笑い。御陵一郎は東大の物理学を出て新聞社に入り政治記者として首相番になりながらも曲がったことがきらいという性格から首相の秘密に気づいて黙っていることができず、言ってしまって左遷されて関連会社の出版社へと飛ばされ、そこで出版社が身売り前に経営者だった一族の娘が残って運営している超常現象専門誌に配属されることになる。その娘が蹴上明日葉。とにかく根っからのオカルト好きで2012年にマヤの暦が差し示すところの文明崩壊が訪れると信じ、石川県にモーゼの墓が本当にあると信じ、そしてUFOも宇宙人もしっかり存在すると信じている。

 一方の一郎は曲がったことも嫌いならオカルトも大嫌い。嫌いがこうじて相手を論破するために徹底して学ぶ性格も左様して、否定の側にたちながらも明日葉の繰り出すオカルト知識のその上を行ってそうな知識をぶつけて対抗したことが怪我の功名がそれとも墓穴か、そのままオカルト雑誌に引っ張り込まれて石川県は羽咋市、の隣にある市が画策したUFOによる街おこし事業を手伝う明日葉とともに北陸へと向かってそこで事件に巻き込まれる。それは実は首相の秘密を暴露したことを隠れ蓑にして一郎をとばした理由とも重なる謀略でもあったんだけれど、そうした人間の手が絡む事柄を見ない明日葉はMIBの存在を信じUFOの存在を信じ、超常的なことが起こっていると信じてかけずり回って危険にのめり込む。

 そうした行動にも別の意図があったんだけれどそれはそれとして一件落着した後で、のぞいたちょっぴりオカルトな現象の原因はいったい何だったのか。曲がったことが大嫌いな割に幽霊が見えてしまってそれを否定したいがために物理学を学んだけれどもやっぱり見えっぱなしの一郎なだけに、あるいは否定したいけど仕切れないことがあったのかもって内心では気づいていたりするのかも。月刊ムーお墨付きのオカルト知識が得られ、石川県名物の金沢カレーのルーツにも迫れてそしてゴーゴーカレーが羽咋で出してるUFOカレーの存在も知れる1冊。そんなUFOカレーに刺激された明日葉が生みだす自分オリジナルのUFOカレーがまた凄いんだけれど、それがどう凄いかは呼んでのお楽しみ。貴方ははたして食べられるか?


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