鳩とクラウジウスの原理

 愛の言葉を伝えたい。でも直接なんて言えはしない。メールがあるじゃないか? でもどこか無味乾燥。顔文字を使っても? 冗談だと思われる。やっぱり手紙を書くのが1番。それは良いけど受け取ってくれるかが心配。毎日いっぱいのラブレターをもらっている彼女。普通の手紙では他の手紙と一緒に捨てられてしまう。

 そこで鳩だ。伝書鳩にメールを届けてもらうサービスだ。白くて可愛い鳩が届けてくれる手紙だったら、きっと手にとってもらえる。そして読んでもらえる。そんなサービスどこでやってるの? ご用命は鳩航空事業団(PAC)へ。レター1通につき大阪府内なら3000円。11枚綴りの回数券なら10回分の料金で購入できます。詳しくは……。

 詳しくは、松尾佑一の「鳩とクラウジウスの原理」(角川書店、1300円)に書いてあるから読んでみよう。そこには、鳩にラブレターを運ばせる「ハトコイ」のサービスの内容から、鳩航空事業団が繰り広げている他のさまざまな事業までが詳しく書かれていて、そんな便利がサービスがあるなら使ってみたいと気持ちを誘う。そんなサービスが実在すればだけど。

 しがない広告会社でコピーやイラストの仕事をしている磯野という25歳の青年も、最初はそんなサービスが実在するとは知らなかった。それが折からの不況で職にあぶれかけ、ぼんやり公園で鳩に餌をやっていたところに現れた、紺色のブレザーを着てなぜかアフロ頭の柳田という老人から聞かされて、鳩航空事業団の存在と、そこが行っているサービスのことを知った。

 このご時世、メールで手紙は送れるし、書類だってメール添付で送信できる。大きい荷物だったら宅配便が発達していて、世界のどこにだって翌朝には届けてくれる。近い距離ならバイク便だって自転車便だって利用できる。それなのに伝書鳩。どういうことなのか。それはこういうことだ。

 書類でも印鑑が押してある書類はメールでは送れず、かといって郵便ではちょっと遅い。鳩に運ばせれば、数十キロの距離なら5分10分で届けてくれる。形あるものも同様。郊外の工場で作った団子を、都心部の親方まで届けるのにバイクでは30分から1時間はかかるところが、鳩ならたったの10分だ。これは速い。だから使われる。なるほど。

 それに加えて、鳩が届けるロマンチックさも使う側の興味を引いた。ラブレターを運ぶ「コイハト」のようなサービスも生まれた。事業も順調で人手が足りない。そこに上手に鳩に餌やりをする磯野が現れた。やってみないかとスカウトした。磯野の方もちょうど食い扶持が増えたこともあって、鳩航空事業団に参加を決めた。

 食い扶持とは? それはかつて大学でともにクラウジウス原理主義者の会を結成していたロンメルなる長身の男との再会だ。着ているものがロンメルの名の由来のとおりにドイツ軍の軍服ばかり。卒業しても変わらない。これでは周囲がドン引きしてしまう。コミュニケーションもままならないまま派遣先を首になり、どこにも雇われないまま社員寮を追い出されたロンメルは、大学時代に大の仲良しだった磯野の家に転がり込んできた。

 コミュニケーション下手なロンメルが、どうして磯野と仲良しになったのが? その鍵となるのがクラウジウスの原理だ。熱は低いところから熱いところには流れない。常に熱いところから冷たいところへと流れていく。これを変じて易きに流れると解釈し、女性は常にいい男のところへと流れる寂しさを、心底から噛みしめたオタク男たちが結成したのがクラウジウス原理主義者の会だった。

 主人公はその創始者であり突撃隊長として会を背負い、ロンメルは行動部隊を率いて散々悪さをしでかした。カップルが等間隔で並ぶ鴨川に飛び込み、おしゃれな奴らが集まる場所にオタクな扮装で乗り込み大暴れ。これは引く。引きまくる。

 そうやって誰もが引いて青ざめる姿を居て大喜びしていたクラウジウス原理主義者の会に、たった1人、下級生ながら挑んできた女がいた。それが犬塚こと犬さん。「ギャハーン、電車男の方々ですね?」。実にストレート。そしてメガトン級の破壊力。とても居たたまれないと泣きながら飛び出たクラウジウス原理主義者の会。存続も危ぶまれたものの、そんな犬さんとも仲良くなって過ごした大学生活も終わって就職した世界は、クラウジウスな奴らにやっぱり優しくなかった。

 だから磯野は大企業に行かず、広告会社でデザインを手がけそして鳩航空事業団で鳩を相手に仕事を始めた。ロンメルはそんな主人公の家に転がり込み、さら犬さんまでもがやってきて懐かしのクラウジウス原理主義者の会再結成? とはならないのが経った時の短いようでそれなりの長さか。

 主人公は鳩を飛ばす仕事に興味を抱き始め、自分が過去に埋めてきた他人とのコミュニケーションの至らなさを思い浮かべ、立ち直りに向けて動き始める。クラウジウス団なるかつての自分が組織していた会を彷彿とさせる団体が、ラブレターを飛ばす鳩ばかりを襲ってラブレターを書き換える妨害に出て来たのに挑み、戦おうと頑張った果て。世界との関わりを取り戻し、新たな人生に向けて動き始める。

 そんな主人公の物語を中心に、一人称で通して描いていくなら十分に足りただろう179ページの物語。とはいえ一方に、クラウジウス原理主義者の会が解散した後に、どうやら新たに生まれたらしいクラウジウス団なる存在の暗躍があったり、ロンメルと犬さんとのどうにもこうにももどかしい関係の端緒が示されていて、そこに至るまでにどういうドラマがあったのか? といった部分を知れず、枚数に足りなさを覚えてしまう。

 クラウジウス団の暗躍を描くのだったら、彼らがこれまでどういう活動を続けてきて、それが今どうして過去との対峙に至ったのかを描いていて欲しかった。ロンメルと犬さんとの関係も、そこに向かうきっかけめいたエピソードがあれば、あれだけの魅力的な犬さんを、どうすれば籠絡できるのかというヒントが得られて、現実にクラウジウス団を結成したくてたまらない身を喜ばせた。なれそめがあって紆余曲折が描かれていたら、怒濤のクライマックスのスリリングな展開に味が出た。

 実際には、クライマックスもあっさりと描かれ、興奮にのめりこみ歓喜にむせる前にすんなりと終わってしまう。ラブレターを運ぶ鳩をつかまえる算段と、その実行の巧みさなり、そうした行為を出し抜くために主人公が行った企みの凄まじさなりを、もっと描きこんであってこそ、クライマックスシーンでの荘厳ともいえそうなシーンに、濃さが滲んだことだろう。

 主人公の過去との対峙と、そして回帰もやはり唐突だ。半年の邂逅から分かれといった記憶がどうして、後にいたるまで彼にコミュニケーションを拒絶させ、そして今へといたる孤高さを生みだしたのかを、理解するのに相当の想像力を求められた。そこがあってそして小瓶を拾っての記憶のフラッシュバックがあって、なおかつそれを乗り越えようとする葛藤があって、ラストに彼が会社の命令に背いてまでも、ラブレター鳩を飛ばそうとしたのかが分かってくる。それが他人のためであっても、自分の思いが重なって行動に向かわせたのだと思えてくる。

 そうしたエピソードの積み重ねがあれば、濃さも増し読み応えもたっぷりだったかもしれない「鳩とクラウジウスの原理」。これだけの奇想をめぐらせ、そして圧倒的なキャラクターを作り上げ、とりわけオタクを怖がらないで近寄ってくる犬さんであり、鳩航空事業団で磯野を指導するボンデージファッションの間宮さんといった、男性だったら誰もが興味を抱かざるを得ない女性キャラクターを創造してみせた筆だけに、それが存分に振るわれて、読者の想像が及びもつかないさらなる奇想が描かれていたら、得られた驚きもさらに凄まじかっただろう。

 もっとも、これがデビュー作の「鳩とクラウジウスの原理」。新鋭どころかベテランにすら厳しい文芸の世界では、まずは手にとってもらえる量、読んでもらえる質を見せることが不可欠で、その上でこのページ数が最適だったという見方もできる。ここで示されたキャラクターも展開も書ける力が、思う存分に振るわれて描かれるだろう次の作品が、いったいどれほどの奇想と展開を持ち、どれだけの魅力的なキャラクターに溢れているものになるかについて、疑いの余地はない。

 だから次はたっぷりと枚数を取って、ジェットコースターのようにあふれ出る娯楽が連続した作品を、読ませて欲しいと心から願う。信じない? ならば鳩航空事業団に頼んでリクエストの手紙を届けてもらおう。どこに行けば頼めるのか? それはだから「鳩とクラウジウスの原理」を開けば……。


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