縮刷版2009年5月下旬号


【5月31日】 新編であっても劇場版の「機動戦士Zガンダム」は本筋が大きく代わることはなく、大半をテレビ版に沿って進んだ上でエンディングだて「ZZ」へのつながりを否定する雰囲気で進んでこれにて完結といった趣を出した。半ば規定方針として商売上の要求から「ZZ」を作らされただろう当時に感覚を今になって払拭する意味での改訂だったという理解も成り立ちそうだけれどもテレビシリーズからわずか3年で大きく改編されていた「交響詩篇エウレカセブン」の劇場版「ポケットが虹でいっぱい」のような展開が、もしも「機動戦士ガンダム」の劇場版でとられることがあったとしたら、どんな劇場版になるのだろうかと考えてなかなか思い浮かばない。

 「ポケットが虹でいっぱい」はテレビ版とほぼ登場人物を同じくしながらも立ち位置や属性に変化が持たせてあってストーリーもまるで違ったものになっていた。あるいはレントンとエウレカという少年と少女の間柄を、よりクッキリと見せるための改編だったとも言えそうだけれども一方で、本編のラストから流れていったもうひとつの世界で、そこを人類とそうでないものとの楽園にしたいといった願いが広がってはみたもののうまくいかず齟齬を来してしまったところから、再生をやりなおそうとしたものだという解釈も成り立つらしいことがテアトルタイムズスクエアでのトークショーにて判明。ならばそのメソッドを「機動戦士ガンダム」に当てはめたとしていったい何が起こり得るのか。

 ひとつにはシャアをメインに吸えて彼がジオンという組織の中で物理的にも観念的にも仮面を被りながらのし上がっていくストーリーをメインに据えつつ、ガンダムという連邦の秘密兵器の始動を横目で見ながらもそちらはサイドストーリーとして流すにとどめて、あくまでも一度はザビ家に簒奪された権力をその手に取り返しが上で、スペースノイドという存在を世に再び問い直していくサクセスストーリーを描いてみせれば一種の厳窟王的物語として成り立つような気がしないでもない。問題はガンダムというモビルスーツがまるで活躍しないことか。ちょっかいを出してくる嫌味なアムロという小僧をいなし撃退してくシャアの恰好良さばかり際だってしまうし。

 世界設定そのものをイフの向こう側へとおしやってみるのもありかもしれないけれども、劇場版「交響詩篇エウレカセブン ポケットが虹でいっぱい」のようなもうひとつの世界からテレビ版とは裏表の関係としてエウレカの世界を描くような芸当は、「機動戦士ガンダム」という世界設定やキャラクター造形からは少し難しそう。いっそならばモビルスーツが意志を持って人間を相手に反乱を起こすといった物語にでもすれば驚きは増すもののそれこそ「キャシャーン」になってしまうからなあ。アムロがテムから改造されて白い戦闘服に身を包んだ姿になってまっ赤なモビルスーツを戦闘に突っ込んで来るジオンのモビルスーツ軍団を相手に戦うという。古谷徹さんならピッタリの声をあててくれそうだけれど。やっぱり「ガンダム」の劇場版は総集編のままが1番だという結論で。

 そこが夢の中だと分かっていて、夢の中なのにテレビがついてGMの破産についてのニュースがやっていたりして、そんな囲われた夢の中から自分たち(だれた知人らしき人間がいっしょにいる)を夢の外へと引っ張り出すために、夢の中へといろんな人が入ってきてたとえばそれが大学の学長だと分かっていて(もちろん後で気がつくとまるで知らないどこかの外人)、そして大学の同窓生がやって来て(これも後で会社の後輩だと気づくのだけれど)、そいつに学長が本物かどうかを確認したりするハチャメチャさが意味するものは何なのかを考えたけれどもまるで思い浮かばない。強いていうなら昼間に夢の中で起こることの現実との関わり具合と、それを夢の中ではまるで気づかない客観性について考察したことくらいか。ともあれいろいろあるってことだ。自分にも。そしておそらく職場にも。

 お台場に出来るらしー漫画やアニメーションなんかを収拾する施設についてあれやこれやと反論めいた言説が出ているけれども総じて中身がダル過ぎるのは何なんだろう、そうした反論を敢えて紹介することによって政府に反対したい人たちの至らなさを顕在化させて結果的に政府を応援しようとするスタンスの現れだったりするのか。民主党とかの偉い人の「漫画喫茶」呼ばわりもレベルが悩まし過ぎて呆れたけれどもそうした懊悩が浮かぶレベルに合わせるかのようにあれやこれや言う人が出てきている模様。例えば「国立マンガセンターに女性漫画家激怒『最低のギャグ』」って意見なんかも漫画喫茶呼ばわりが中心だったりして、国立図書館に行って読めば良いだの漫画を買えなくって古書店で買っている人が増えているといった微妙にズレた反論なんかが連ねてあって、それを反論として成立させたいのかって意識に不思議な空気が漂う。

 誰がそんな場所に漫画なんかを読みに行くものか。そりゃあ読めにこしたことはないけれども、こうした施設が目的としているのは大量に発行される先から消費され、消滅していくばかりの文化としての漫画なりアニメーション(できればゲームも)を全部とはいわないまでも網羅的に収拾・保存し研究していくことなんじゃないのか。だとしたらあってそう悪いものではない。むしろ必要とすべきもの。本来ならば国会図書館がすべきものなんだろうけどそこまでのアーカイブ化を出来ていないから研究する人たちは困っている。だから京都精華大学なんかはミュージアムを作ったし、明治大学も作ろうとしている。大阪府のはその必要性をまったく理解しないおっさんが人気取りからぶっつぶしてしまった。なればこそ国が作る意味ってのは確かにある。世界が認める漫画とアニメの大国に、そうした施設がない方がむしろ恥ずかしい。右よりの人なら我が国固有の文化を護り育むべきだと讃え支持する類の話だったりもする。

 それなのに、そうしたアーカイブ施設としての意義とかまるですっ飛ばして官営漫画喫茶呼ばわりする人たちが多すぎるのは何だろう。おまけにそうした文脈での報道ばかりが先行するのはなぜだろう。そうした見解が世間に同意されると思っているのか。何でも反対な勢力の人たちは、中身がどうとかなんて考えないでとにかく反対から入って、その理由付けにあれやこれやと分かりやすい文脈を持ち出して来る。でも見る人が見ればそのおかしさに気づく。当然に支持は下がるんだけれど何でも反対な人はそこに気づかない。気づかないからこそいつまでも何でも反対するしかできない立場に置かれっ放しになるんだろうけど。問題はそうした扇情的なタイトルに引きずられない人たちが増えて来ている中で、未だにそうした付和雷同的な報道しかできないメディアが多いこと。これって半ば自殺行為なんじゃなかろーか。

 まあ政府の施策の出し方も、そうしたメディアの受け止め方と五十歩百歩で読んでもらって楽しんでもらえるような施設と言っておけば受けるんじゃないの的な軽さがあるんだけれど。映画のフィルムを収拾する場所があり、近現代の絵画や彫刻を収集する施設もあるんだから漫画にアニメにゲームといったものを収集して管理し分類し、研究する施設も必要なんだを訴えていけばもう少し、建設的な議論も出来るんだけれど。その上でやっぱり国がやることではないとか、文化というより風俗に類する物なんだから保護するよりは時代に流れるに任せ、市場原理の中で残る物だけ残っていけば良いという判断を下すべきだといった意見が生まれて来るなら文句はない。

 普通の人がまるで知らない漫画家が怒っているって話を出しても世間は動かない。もっとロジカルに語れる人たちを持って来て語ってもらわなくっちゃあ、扇情的で情動的な意見ばかりが先走ってまとまる話もまとまらない。漫画への悪感情も醸し出しかねない。その辺り、近くシンポジウムめいたこともあるみたいなんでどんな話が出るのかを待って、どうすべきなのかをもう1度、考えてみることにしよー。研究員にしてくれないかなあ。

 おおすごい。とってもすごいぞ日日日さんの新刊「ビスケット・フランケンシュタイン」(メガミ文庫)はライトノベルのそれもマイナーに位置するレーベルから出ていたりするけれどもここん家って前に木村航さんの「ミラクルチロル44キロ」みたいなとってもエンターテインメントしているのにとってもスペキュレイティブしている小説なんかも出していたりするから侮れないなあと思っていたら、日日日さんの新刊はそれに負けず劣らず内容に人類の限界とフランケンシュタインの可能性、みたいな思弁性が盛り込まれてあってそのまんまハヤカワあたりで新刊として出されたって良いんじゃないのって気がしてた。80年頃だったらJAでこんな感じの話とか、出てたよねえ、ってあんまり覚えてないけれど。

 1999年が起点で妙な病気が女の子たちの間に流行始めていることが判明。お菓子めいた匂いを出しながら体の一部が腐れ落ちては別の何かに変わっていく病気で、それは癌細胞ともまた違い強靱無比な細胞なんだけれども腐れ落ちてしまう過程で元の肉体との親和性に問題があって、ショックで体がバラバラになってしまう人もいれば脳が腐れ落ちてしまう段階で息絶えてしまって先に進まなかったりして、結果的に死んでしまうから問題になっていた。ところがそんな生まれ変わった体のパーツばかりを集めて縫い合わせてみたらあら不思議。1人の少女が出来上がってはひょこりと起き出し動き始めた。脳はどうした? ってあたりはひとつの鍵なんだけれどもともかく生まれた意識を拠り所にして思考し、吸収しながら滅び始めた世界を少女は生きていく。

 少女を作り出した研究者と少女との邂逅のエピソードやら、少女の病気の治療法を探そうとした女性とその娘が少女と対峙するエピソードやらが間に挟まりつつおよそ50年後に少女が誰かに捕らえられ、切り刻まれながらも平気な顔で行きながられて自分がどうして生まれたのか、何のために生きているのかといったことを哲学的科学的知識なんかも交えながら語るエピソードが繰り出され、命とは何でそれを伝えていく意味とは何だってあたりがだんだんと浮かび上がって来る。ややもすればグロテスクで猟奇的なビジョンになりがちなところを聡明な少女の語り口と、あとビスケットとかプティングといったあまやかな香りの中に奇病の状態を描いたことで全体に漂う香りは甘くて静か。そんな空気の中に退廃の果ての末路とそして再生へのビジョンを見いだせる。「ギロチンマシン中村奈々子」とはまた違った死と再生の物語。


【5月30日】 たとえば「1Q79」て本が出たとして作者は時代を現すアイコンとして「機動戦士ガンダム」をそこに入れるだろうかと考える。たぶんないだろう。ひとつには1979年にはまだ「ガンダム」は新聞沙汰になった「ガンプラ」発売のような狂騒的ブームにはいたっていなかったことがあるし、いくら感覚としてブームになっていたってアニメで社会現象的なブームが起こるのはもっと後のおそらくは「美少女戦士セーラームーン」が大流行し始めた辺りのこと。風俗と結びついていないアニメ作品を取り入れるのはやはり無理があるような気がする。

 入るのならばゴダイゴのヒット曲と結びついて世間にも広がりを見せた「銀河鉄道999」がまだ適切だろうけれどもこれだって、「ザ・ベストテン」で唄うタケカワユキヒデは分かっても黒い帽子を被った女性が佇む姿がどれだけ分かったかというとやはり疑問。今でこそそれがメーテルだとみな知っているけれど、これは見ていた当時は子供だった世代が記憶を抱いたまま大人になったからであってリアルタイムでの広がりは、やはり誤差の範囲でしかなかったのではないか。スポーツなら輪島北の湖に若乃花三重ノ海といった4人の横綱が番付に名を連ね、揃い踏みもあったのが79年から80年にかけてのことで世間的にも結構な賑わいを見せた記憶がある。

 事件事故でいうならイランでの米国大使館人質事件があり、韓国での朴正煕大統領暗殺事件があったりソ連でスリーマイル島の原発事故があったり東名の日本坂トンネルで火災事故があったりして新聞を賑わせてくれたもののこと“時代”を象徴して“歴史”に関わり“未来”、すなわち“現在”に何らかの影を残しているような事件事故だったのかというと、もちろん影響は残っているものの直近に(といってもすでに8年以上が経つが)起こった「9・11」の呪縛の方が色濃くそれ以前はかすんでいる。

 イラン革命とその後の大使館人質事件を生み入らんと米国の対立を招きイラクへの肩入れを生んで……といった流れもあるから「9・11」への遠因が生まれた年、と見ることも可能だけれどもそれとて古から続く中東での情勢不安の流れに組み入れられること。遡ればモーセにバビロン捕囚にイエス・キリストといった時代から続く対立が根底にあったりする訳で、1979年だけをことさらに挙げて歴史を変えた年だと象徴化することはやはり難しい。だからおそらくは「1Q79」といった小説は書かれ得ないし、そこに「機動戦士ガンダム」が出てきて人類に宇宙という希望を見せつつ対立という愚行を感じさせるような物語も提示されない。

 ならば。「ガンダム」によって啓蒙され導かれた者たちが、その年を「ガンダム・センチュリー」の起源に位置づけ明示されたさまざまなこと、人類の進化と宇宙の可能性、避けられない対立とそれを乗り越える叡智の大切さを「ガンダム」より導きだし、学んでいくのがひとつの身の処し方として適切なのかもしれない。あらゆることが「ガンダム」から語られる世界。社会も経済も歴史も文化も「ガンダム」が拠り所になって示される世界。それはそれで面白いのかもしれないけれども今に至ってもやはり世間的には亜流のサブカルより出た文化が世間を覆うのは難しそう。やがてカルト化して先鋭化して宗教化していった果てに立ち上がる染まらない人類への苛立ち。起こるコロニー落としのような愚行。 やはり「ガンダム」は何の象徴にもならず楽しいエンターテインメントのまま時代の中を自然に生き続ける方が良さそうだ。

 そして村上春樹さん「1Q84」は読み終えてもそこが1984年なんだって感じがまるで漂って来ない。チェッカーズのような流行歌もロサンゼルス五輪のようなスポーツも、グリコ・森長事件のような事件もファッション自動車髪型といった風俗の類も何も出てこない。かろうじて出てくる音楽はジャズで別に時代とは関係ないし、バーで飲まれるのはカティサークのような高級とは今では言い難いウィスキーにトム・コリンズのような通俗性を帯びたカクテルといった具合。そこに時代を反映させるようなスノッブさはなく気取りもない。

 あるいは25年の昔には、これらが何かしかスノッブの象徴として描かれていたのかもしれない。物語の中に描くことによって今の時代の最先端を描いていると賞賛されていたのかもしれない。その感性を今に引きずってズレたことを書いてしまったのか、それとも当時のスノッブを思いだしてそこに再び現出させてみせたのか。ちょっと分からないけれども印象としてはやはり妙なズレがあるような気がする。敢えて固有名詞を出さなくても、カティサークがジョニ黒でも構わずトム・コリンズがソルティ・ドッグでも関係無しに進んでいくシーンで敢えて持ち出されるこれらをどう解釈すべきなのか。気にしない。それが1番なのかもしれない。

 むしろ1984年の当時にようやく立ち上がったばかりのオウム真理教的な集団を描いてみせたりするあたりに時代性を描くのではない、別の目的がこの小説にはあるのかもしれないってことを伺わせる。1984年の当時にとりたってクローズアップされた訳ではない、それ以前かもそれ以後もいろいろと話題にはなっているヤマギシ会のようなコミューンを持ち出していたりするところにも、時代に何かを象徴させるんではなく人間に普遍の問題を、そこに現出させて指摘しようとした物語なのかもしれない。

 それはあるいはオーウェルが「1984」に象徴的に描いた、ビッグ・ブラザーという独裁的な個人によってあらゆる物事が管理され監視されている社会なんて、分かりやすすぎて今はなかなか起こらない。むしろ問題はビッグ・ブラザーへの対比として持ち出されるリトル・ピープルによって、動かされ支配され絡め取られているのだということをオーウェルの「1984」を踏み台にすることで語ろうとしたということなのかもしれない。

 ならばリトル・ピープルとは何なのか。他愛のない個々人のささいな意識が方向性を持ち絡み合った中から生まれる群衆意志のようなもの。誰が責任を負うのではなく誰もが無責任なのに誰にでも影響を及ぼし世界を動かす力のようなもの。ネットが生まれて形としてやや顕在化したところもあるそうした集合意識によって知らず導かれ、しらず取り返しの付かない場所へと誘われているかもしれない奇妙な感じ。それを果たして言い表したかったのかそれともまったく違うのか。いずれにしても完結しているようで投げ出されたいる感もあるBOOK2の後に続くだろう、完結の物語の先に現れるメッセージを今は待ちたい。そんなものないのかもしれないけれど。

 仕事しなくちゃと出かける途中で「ONEPIECE」のW7編総集編の第2巻目を買って読み始めたら止まらなくなって地下鉄を降りてもベンチでずっと読みふける。ニコ・ロビンかわいいかっこいい。やっぱり最高のキャラクターだぜ。しかし2冊続いてこのあと2冊も続いてだいたい40話から50話? 1年をまるまるテンションを下げないで物語を続けてさらにこの後でスリラーバーク編を描きシャボンディー諸島編へとつないで一切、テンションを落とさずむしろ引き上げていたりする尾田栄一郎さんってクリエーターの凄みを今さらながらに感じる。単にエスカレーションする訳じゃない力の描写も良好だし、誰かに任せず自分で描き切っているのも凄い凄い。あとはもっといっぱいニコ・ロビンが出てくれればってそれは個人的な願望過ぎる。ジュエリー・ボニーの大食らいっぷりも悪くはないけど。でも彼女ってメインとして絡んで来るのかなあ。ルーキーたちが多すぎるって気もするしなあ。んで明日はアニメか。偽バーソロミューくまとの戦いは果たしてどーなる?

 でもって「ヤングキングアワーズ」は電話機と思ってつかんだのが猫だった時にいったいどんな顔をしたくなるのかを想像。きっとニコニコしちゃいそう。ああ猫触りたい。福井だかに引っ込んだ田波くんは化け猫とは無関係なところでトラブルに見舞われながらもそんなトラブル、神楽総合警備ん時にくらべりゃあ何のことはないと無事に解決。トラブルシューティングの腕があるからちょい微妙でもずっと会社勤めをしていられるんだろうなあ。そんなちょい微妙さが夜に発生。取りだした拳銃を手に向かうのはいったい? そこにいるのは何かってあたりも含めて来月号に注目。遅れそうになった荷物を届けられる運転手ってことで夕ちゃんがさっそうと現れるんじゃないかと期待した自分がやっぱり未練だった。そんなことはもうないんだよなあ。せめて高見ちゃんと竜には今いちどの登場を。


【5月29日】 実写ゲームでの無様すぎるシャアだとかは別の意味で伝説にはなっているし実写とCGを組み合わせた「G−SAVIOUR」って作品もあって大昔に「東京国際フォーラム」あたりで試写を見た記憶もあるけれども、「機動戦士ガンダム」のオリジナル版をそのままストレートに実写映画にしましょうって話があんまり持ち上がらないのややっぱり誰が演じてもどこかコスプレっぽさがにじみでるからなのか、それとも巨大なロボットを実写に交える不可能さが。

 そのあたりは昨今の「トランスフォーマー」の実写版のように本物かと見間違えるようなリアルなCGを実写と合成させる技術をどんどん取り入れることでいつかの「G−SAVIOUR」のような至ってなさを乗り越えることは出来そうだし、コスプレの無様さだって昨今のアメコミの実写映画化によって随分とこなれるものが作れそうな感じは出てる。ようは金さえかければということで、それにはつまり世界市場で売れる見込みのある原作でなければどこかに至らなさが生まれてしまうということの裏返しでもありそう。

 いくらアメリカで放送しても今ひとつ火が着かない「ガンダム」では世界展開を見越した金額を注ぎ込むにはやや不安がある。かといって日本だけではとうてつっこめない。「ヤッターマン」のようにお約束の中でギャグに走るという手も使いづらいだけにやはり「ガンダム」の実写化はあと30年は難しいと思っておくのが精神的にもソフトかも。何しろ世界で売れてる原作を持ってきて作られた「ドラゴンボール」の実写映画があれほどまでに無様な結果しか招かなかった訳だから、監督とシナリオと俳優も含めてはやりそれなりのリソースを注ぎ込まないと、まともなものにはならないということで。「新世紀エヴァンゲリオン」の実写化も果たしてどうなることやら。まだ動いているんだったっけ。

 伝説とまで言われる押井塾の中から生まれた企画として立ち上がっては北久保弘之さんを監督に迎えて映像化され、2000年に公開されたアニメーション映画が「BLOOD THE LAST VAMPIER」。寺田克也さんの描く立体感のあるキャラクターがまんまアニメになって動き回るっていう事例も希有なら、世界中が騒然として見入りクリエーターの間に大勢のファンを作り出したって事例もなかなかに希有。なにしろあの「パルプフィクション」のクエンティン・タランティーノ監督が大絶賛し、作ったプロダクションI.G.のスタイリッシュな映像美にいたく観劇して自分の「キル・ビル」のためにアニメパートを作って欲しいとノーアポで飛び込んでいったって程だから、その完成度の高さって奴が伺える。

 技術的にも2Dながらフルデジタルによって奥行きを出しスピード感を出しってあたりで凄みがあったけれどもそれよりやっぱりセーラー服の少女が手にした日本刀で日本の中に潜む鬼を狩りだし、斬り伏せていくって展開のビジュアル&アクションに惚れ込んだって人が多かった模様。その迫力は実写にしてこと映えると思った人も多かったんだろう。I.G.辺りには実写化の話も世界中から舞い込んだ模様だったけれども、最終的には「グリーン・デスティニー」とか「HERO」なんかを手がけたプロデューサーが映画化権を獲得。韓国で記録的なヒット作となった「猟奇的な彼女」のチョン・ジションさんを小夜ことサヨの役柄に迎えて実写版「ラスト・ブラッド」ってのを作り上げた。

 ご多分に漏れず傑作アニメの実写化が果たして巧くいくのかどうかといった懐疑もあったけれども、これについてはとてつもなく長い時を生きるバンパイアの少女サヤが、人間を喰らうオニたちを狩るという展開はアニメのまま。都営浅草線でオニを追いかけ斬殺し、まだほかにもいるってことを聴いて米軍基地に潜入して、生徒に化けていたオニを引きずり出して斬り伏せるって展開もアニメと同じだけれど、45分ほどしかないア二メではそこで終わっていたストーリーが「ラスト・ブラッド」ではサヤがオニを狩り続ける理由も含めて、さらに先まで描かれるから、ちょい短いなあって思って心に残念さを抱えていた人にはちょっぴりのお得感があるかも。逆に蛇足と感じる可能性もないでもないけれど。

 とはえいアニメが絵こそ寺田さんでど迫力ながらも全体に淡々と進んでいくのとは違って、アクションなんかは香港テイストなんかを入れて派手になってて違う人には違うと映りそう。でもこれはこれでとっても楽しい。背に負った筒の底をかかとで蹴って日本刀を上へと放りだし、それを掴んで鞘を抜いて切りかかっていくステップは儀式めいてて妙に恰好良いし、ワイヤーをつかって跳びはねながら向かってくるオニたちを切り伏せていくシーンもアニメにはないたっぷり感を覚えられる。ただ順繰りに斬っていくだけじゃなくって時にはピンチに陥りながら、おまけに基地司令の娘を護りながら戦っていく段取りはとってもハラハラドキドキで、長いんだけれどあんまり退屈さは覚えない。

 外国映画のくせをしてセットに組まれた昭和40年代の街並みなんかはとてつもなくリアルで吃驚仰天。アニメなら絵を極限まで描き込めばそれなりなリアル感は出せるけれども、これが実写の場合では絵だからって心理的な妥協が働かない分、リアルさのハードルが高くなる。そこを映画はしっかり作り込んであるから見ていて薄っぺらさがない。CGで軍勢とか城塞とか描いて薄々な日本映画とは、そこの辺りで思想とそれから金のかけ方が違ってる。米軍基地のセットにいたっては、まるでアメリカのミリタリー青春映画なんかを見ているかのようなリアルさで、あんまり描き込まれてはいなかったアニメを凌駕しているといってもいい。作った場所はアルゼンチン? 日本映画じゃそこまではとてもできないもんなあ。

 チョン・ジションさんの他のキャストも例えばサヤの剣術の師匠には日本が誇るアクションスターの倉田保之さんがいたり、サヤの父親の仇で、妖しいまでの美しさを見せるオニゲンを「ラスト サムライ」で世界が認めた小雪さんが演じていたりと、アジアの至宝たちが見せる壮絶なバトルがあってこちらお楽しめる。人によってはワイヤーアクションなんざぁ見飽きてるとか小雪さんがアクションに至っていないとかいった声もありそうだけれどCGIで作り込まれて蜘蛛がはい回る小雪ワールドはこれでなかなかの幽玄さ。作り手のセンスの良さを感じられる。

 あとはやっぱりサヤのアクションか。セーラー服なんでスカート姿ではね回り飛びまわるから当然見える。スタントで中身は別人かもしれないけれどもそうじゃないと思いこむことによって得られる楽しさってものは確実にある。たとえスパッツだったとしても。ともあれ同じプロデューサーが映画化した某「昴」よりもずっと真っ当。見てそれからブルーレイが発売になったアニメ版を見て比べてみるのも面白いかも。北久保さん今そういやあ何やっているんだろう?

 東京都庁は重厚だし日光東照宮は絢爛だし姫路城は美麗で荘厳。およそ建築物といわれるものには、誰かに見てもらい、何かを感じてもらおうという建築家の意図というか下心が当然のように形にこめられている訳なんで、見ればたいていの人は心をぐらぐらと揺さぶられる。けれども最近、そんな仕組まれた感動なんて本当の感動じゃないってばかりに、ダムや水門といった構造物、すなわち「ドボク」にこそ見るべき価値があると感じて訴え追いかける人たちが増えている。

 ある者は、高速道路のジャンクションを追い求めて全国各地をまわり、よくある航空写真のように上から見てクローバーだ何だと喜ぶよりも、下かから眺めてカーブの大きさを体感する方がジャンクション見物は楽しいって悟りをひらいた。またある者は、送電線を支える鉄塔をたどって山野を歩き、鉄塔の形に女性美やジャミラやドナウ川なんかを見いだすまでに感性を極めた。パイプやタンクがぎっしりと建ち並ぶ工場に美を感じ、コンクリートが天まで届く壁となって迫るダムに威圧感を覚え、赤や青に塗られた扉を上下させて水を出し入れする水門にひたむきさを見る。

 別に奇をてらっている訳じゃあないんだ。ドボク好きにはドボク好きなりの理由があるんだ、って主張がそれぞれの「ドボク」を愛する者たちの代表者によって武藏美術大学あたりで繰り広げられた「ドボク・サミット」の記録が1冊にまとまって登場した。ひもとけば、写真とともになぜこの鉄塔は吸血鬼なのかが分かるし、なぜ煌びやかな意匠が施されているマンションではなく、無機質で画一的な団地をそれも窓側ではなく通路側から眺めるべきなのかってところが、説得力も十分に語られていてそうかドボクって面白いものなんだと、非ドボク者の蒙を啓いてくれる。まさか鉄塔をそう見るとは思わなかったなあ。ダムはまあデカさで伝わるものがあるけれど。

 よーするにドボクは求められる機能だけを形に映したものだから、シンプルで美しいのだとってゆーのも一理。いわゆる機能美って奴なんだろーけど、そーした理由は後付けに過ぎなくって、見れば浮かぶフォルムやサイズへのストレートな感嘆が、ドボクへの入り口となりドボクへと引っ張り込み、そしてドボクへの愛を育むのだといった声もある。つまりは人それぞれってことで、だからこそ探求のしがいもあるってもんだ。ドボクとは何か? でもってその美とはどこにあるのか? 糸口は示されているんで、読んで感じてそして後は自分の目で確かめていくしかなさそー。身近だとやっぱり麻布十番あたりのジャンクションか。近いし。

 おお高千穂遙さんは今は日本SF作家クラブの今は会長を務めていたのか。縁がないのでまるで知らなかったけれどもそんな立場で5月29日付けの「産経新聞」に長めの栗本薫さんの追悼文を寄せていた。ひとつには「美獣」でヒロイックファンタジーを先行させたことに栗本さんが「やられた」悔しがったというエピソードを持ち出し「『やられた』と思う必要などなかった。彼女の才能は、桁違いであった」って書いてその速筆ぶりその完成度ぶりを讃えている。あと「グイン・サーガ」を舞台化した際にシナリオから演出まで手がけた実行力も賞賛。そんなマルチな才能ぶりを讃えて故人を偲ぶ一文にはなっているけれども物足りないのはSF作家としてどうだったのか、時代に何を残したのかってことをあんまり書いてくれていないことか。作品だって「グイン・サーガ」だけじゃなくってもっと面白いものが数々あるのに、とてつもなく長かったってことをもって「グイン」ばかりが世に残っていくのはどこか寂しいものがある。そんなあたりを是非にいずれ。


【5月28日】 高千穂遙さんといえば「機動戦士ガンダム」がSFであるかどうかを論じて後生に評判を残したことがあるけれども、一方でスペースオペラを日本でも描きたいと「クラッシャージョウ」シリーズを発表し、ヒロイックファンタジーを日本人として描いてみたいと「美獣 ハリィデール」を書き上げたくらいに新しいジャンルに対して積極的なスタンスを持つ人。おまけにアニメーションについては半ば仕事にしてしまうくらいに愛情があり「ガンダム」にいたっては半ば以上に仕事で関わっていた訳だから評価しこそすれ、批判するはずがないといった気持ちが先に立つ。

 もっとも一方で強烈なまでにSFというジャンルに対する愛着も持っている人で、その定義において確固たるものがあって不思議ではなく、そんな定義に照らし合わせた時に、商業アニメーションとして作り上げられ、妥協も媚態もさまざま持っている「ガンダム」とSFを同じ括りで考えるのはそもそも違うといったスタンスから、何か言いたかっただけなのではないかといった想像も浮かぶ。「ガンダム」はSFであるかどうかとは無縁に面白いもの。そういったことなのかもしれないけれども果たしてその辺りは、どういう言及のされ方がされちているのだろうか。当該の「月刊OUT」を読んでもないので何とも言えない。結局のところはどっちだって良いのだけれど。「ガンダム」は面白くSFは楽しいのだから。

 高千穂さんといえば同輩の栗本薫さんの死去について何か発言をしていたかも気になる。コメント陣では同世代で数少ない女性SF作家だった新井素子さんや中島梓名義で評論を書いた筒井康隆さんが訃報にコメントを寄せていた。文芸評論の細谷正充さんの名前もコメント陣には見えるけれどもヒロイックファンタジーで競い合い、エンターテインメント作家として80年代のSFシーンを大いに盛り上げた高千穂さんはいったいどんな追悼を贈っているのか。やっぱり誉めて悲しんでいるのか、それとも高千穂さんなりにジャンルへの熱情を土台に清濁合わせて語っているのか。いずれ遠からずどこかが特集するだろう追悼の中に高千穂さんのコメントが見られることを願おう。

 雨中を久々に「花やしき」。前に言ったのは2001年の12月で「ゴジラvs花やしき」ってイベントが開かれているのを見に行ったって記録があるから実に7年と半年ぶり。それだけ経てばアトラクションだって超近代化されているかと思いきや、そこは創業から150年くらい代わっていない(訳はないけどそういう雰囲気すら感じさせる)日本最古の遊園地。ジェットコースターとかタワーといったアトラクションはそのままで、園内のレイアウトにも大きな変化も見られず懐かしさって奴を存分に味わわせてくれた。それで良いのか? って疑問はあるんだろうけれど。でもこれで繁盛しているのなら良いのかな。雨の平日ではちょっと判断不能。いずれ機会を見て休日に足を延ばしてみるか。

 先々週だかの「東のエデン」で滝沢朗がまたがっていた動くパンダみたいな乗り物は「花やしき」でも名物らしいけれども今日は休業。2台が隅っこで休養していた。この巨体であの園内を闊歩すると相当の迫力だろうなあ。でもってバンダイナムコグループの配下に入っているってことで案内する若い人たちなんかにはアメニティの部分で「ナムコナンジャタウン」的な雰囲気が。明るくって陽気。それが歩き回っては話しかけてくる。楽しい人にはそれが楽しく映るのかもしれないけれども雨で誰もいない中でやられてしまうとちょっと居場所に迷う感じ。「ナンジャタウン」でもナジャブがいきなり出てこられると気恥ずかしいもんねえ。

 あとバンダイナムコグループ入りってことでフードテーマパークのノウハウを取り入れたのか余勢をかったかでご当地キャラメルの自販機って奴が導入。ロシアンルーレットみたく何が出てくるか分からない奴を1回回したら「新潟限定笹だんご風味キャラメル」ってのが出てきた。何か普通。でもってもう1回やると今度はオーソドックスな「夕張メロンキャラメル」が。仕方がないのでこれは決め打ちって「ジンギスカンキャラメル」って奴を狩って食べてみたら……ジンギスカンだった。タレにまみれた肉っぽい味が最初の数噛みの間に滲んできて口中をじょろっと動き回る。何とも微妙さに溢れた味だけれども1個食べ2個食べ3個4個と食べているうちに何となく慣れて来たみたい。これはこれであり、って言うと何か負け惜しみっぽく聞こえるなあ。次は塩ラーメンキャラメルが欲しいなあ。

 そんでもってバンダイナムコゲームスがハンゲームといっしょに戦国が舞台のオンラインゲームを作って会見を見物。バンダイナムコの人が額に「愛」の字がついた直江兼嗣バージョンの鎧姿で登壇し、ハンゲームの人はたぶん武田信玄の鎧兜で出てきたけれども信玄ったら最近は「戦国BASARA」のあの肉体美を誇る姿態が頭についてたりするんで背丈とか迫力とかにちょっぴり不足を覚えてしまう。それを言うなら兼嗣はNHKの大河ドラマ「天地人」のイメージが先行するんで登壇した人では……なんだけれども一方で体系的には実に武将っぽかったんでそれはそれでありなのかも。どちらの鎧兜もなかなかの作り込み。これだけの逸品が着られる折角のチャンスだったんで、いっしょに登壇した鵜野澤伸さんも鎧兜を着れば面白かったのに。顔立ちからしたら坊主系武将の上杉謙信? でも「BASARA」だと謙信はアレだしなあ。

 内容は戦国武将を集めて戦うってものだから一種の戦略シミュレーションか。でもたぶん「信長の野望オンライン」なんかとは違っていたりするんだろう。知らないけど。武将はだいたい100人くらいが揃っているとか。中に豊臣秀吉もいて会場には秀吉が描かれた垂れ幕もかかっていたんだけれど、会場にはハンゲームってことで本国の韓国からも記者が大挙して来場。母国にとって悪鬼羅刹に等しい秀吉の姿がいったいどう目に映ったのかを是非に聴いてみたかったけれども質疑応答では韓国メディアは別になっていたんで反応は聞けず。あるいは韓国版には李舜臣が登場して秀吉に加藤清正小西行長といった武将を相手に八面六臂の大活躍を見せてくれるとか。見てみたい。

 大学に入った年だからとっても印象に強い1984年を舞台にした村上春樹さん「1Q84」(新潮社)を買ってつらつらと読み始める。おもしろいなあ。でもって巧みだなあ。タクシーに乗ってるスーツ姿でキャリア風で顔をしかめるとすっげえ顔になるアラサー女で始まる章と、作家未満の予備校教師が下読みで気になった作品を編集者の悪巧みで書き直すことになるって話が交互に続いていく感じ。するりと抜けたらそこはリボルバーではなくオートマチックの拳銃が警察に正式採用されていましたってエピソードがあってちょいSF? いろいろと仕掛けもあるみたいなんでそのあたりを覚えつつ読んでいく必要がありそう。問題はあんまり1984年っぽくないってことか。あの年って何があったかなあ。音楽だと「チェッカーズ」かなあ。映画だと「風の谷のナウシカ」に「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」。相変わらず趣味狭すぎ。どんな風俗を出して本編と絡めるのか。それとも絡めないまま「1984年」を描くのか。オーウェルのディストピアとどうリンクするのか。興味は尽きない。


【5月27日】 「機動戦士Zガンダム」の劇場版新章で見せてくれた古谷徹さんによるアムロ・レイの当時と遜色のない演技を聴いて、果たしてだったらファースト「機動戦士ガンダム」のアムロを演じられるのかどうかと考えてみる。やっぱり大丈夫なのではないのだろうか。大人になって愛人もいる「Z」のアムロはあくまで大人のアムロとして演じたもの。まだ子供で繊細だった「ガンダム」の頃を演じて演じきれるのが古谷徹という声優なのだと、時折記者発表などの場に現れて演じてみせる古谷さんを見ていつも思う。

 シャア・アズナブルはどうだろう。池田秀一さんも当時と遜色のない美声を誇ってはいるが、やはり年齢もそこそこの人だけあって艶は増しても抜けが生まれて違ったものになるのではないのか。いやいや「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」のデュランダルを聴けば十分にシャアも務まるといった声も出そう。そのあたりはやはりやってみないと分からない。白石冬美さんについては心配はいらなさそう。古川登志夫さんも大丈夫そうだ。

 ホワイトベースのクルーでやはり難しいのが鈴置洋孝さんで、すでに「Z」の頃から衰えが見え、そして逝去となって御本人による再演は不可能。かといってコンピュータ合成すればあの演技が消えてしまう。代われる人材は果たしているのか。あの圧倒的な美声を誰かカバーできるのか。これからの永遠の悩みだろう。敢えて上げるなら藤原啓治さん。ただし剽軽抜きでと限定。こうした悩みはセイラ・マス役の井上瑤さんにも言えることなのかもしれないが、絵としてのインパクトでまだ引っ張れる女性キャラクターの場合は、ほかの誰かがあるいは務まるといった可能性もまだ高い。では誰が良いのか。雪野生天目田中理恵……良さそうで難しそうで。そう思うとやはり偉大な人だったのだと今さらながらに嘆息してしまう。

 とりあえず杉田智和さんも平野綾さんも後藤邑子さんも茅原実里さんも小野大介さんもしっかり前の雰囲気をちゃんと出してて頑張っていたっていうか、平野さんはこっちが割と本来であって「ヒャッコ」の能々村歩巳や「キディ・グレイド」のリュミエールは作り系で踏ん張って「絶対可憐チルドレン」の明石薫系だから復活もそれほど苦ではないといったところか。あとはちょい鼻にかけつつぶつくさ言うあたりの演技性。そこもしっかりなぞってあったんで前のシリーズに挟まれても違和感を覚えず見られそう。突っ込まれて省みたりせずひたすら唯我独尊を貫くのがハルヒなんでそこんところはよろしく。

 後藤さんは何って言ったかタイムマシンみたいなのをなくしてへなへなとうずくまるあたりでへなちょこさが出ていたんでまあ安心。やさぐれた役とかもこれまでの間にやってたりしてたんで戻って来られるかどうかが心配だったけれども大丈夫そう。茅原さんは踏みとどまる演技なんでこれも大丈夫。小野さんはセバスチャンになっておらずニヤけっぷりが出てたんでまあ安心。そして杉田さんはちゃらちゃらとモノローグを発しつつ時折会話につなげる演技がちゃんとキョンだったから大丈夫。芸域の拾い人だなあ。あのう、塩ください。

 ってことで「涼宮ハルヒの憂鬱」は完全新作「笹の葉ラプソディ」が無事に放送されて新局面へと突入。どんなタイミングで何が出てくるかって楽しみをしばらく味わえそうだけれども、また出るDVDにはどんな順番で収録されていくのやら。そのまんまか。つかまたDVDか。買うのかなあ。買うんだろうなあ。千葉テレビだとどっかで評判になってる超額縁じゃなくって上下だけ黒帯のワイド画面で前からの4:6のアナログテレビで見られるんで再放送だけなら録画分だけでも良かったけれども、新作が交じるとなると話は別だよなあ。

 あとはどんな映像特典が収録されるかってあたりだけれども、さすがに昔の平野さんがまだ不思議系な容姿言動だった頃に京都アニメーションを訪ねた映像を、まんま収録する訳にはいかんよなあ。違いすぎるもんなあ。別人だよなあ。「ギャラクシーエンジェル」関連の会見に現れた時にひっくり返ったもんなあ。誰なんですこの美人わ? ってひっくり返ったもんなあ。お陰で世間が知る声優ナンバーワンになれた訳だけど。時はとっとと流れ行く。

 薫が死んだ。死んでしまった。感慨があるかというとうーん、「グイン・サーガ」は100巻に届くかどうかってあたりから読まなくなって幾星霜、今いったいどうなっているのか分からない上にとんでもないことが起こっていることも知らないでいて、その意味では幸福な栗本薫さんのファンなのかもしれないけれども、そうしたあれやこれやも含めて呑み込んでこそのファンだという声もあるから判断は保留。いずれにしても栗本薫さんという不世出のエンターテインメント作家が5月26日に死去したというこの現実。若い頃に貪り読んだ数々の作品群から受けた感銘が、今も余韻として確実に残っている身には、なかなかに重たく受け止めがたいものだということだけは確実だ。

 文壇的には「ぼくらの時代」での江戸川乱歩賞受賞がやっぱり衝撃で、あの文体あの内容の物語でもってさっそうと登場した才媛に集まった注目には相当なものがあったのだろうけれども、個人としては出会いはやっぱり「グイン・サーガ」で、それも最初の巻が出てから数巻を経た81年頃ではなかっただろうか。単行本としては81年5月刊行の「アルゴスの黒太子」あたりからが同時代。とはいえまだ第1巻目での表現問題による書き換えが行われる以前だから割に初期からのファンだっと言って言い過ぎではない。

 そこからわくわくとして読み始めていってだいだいどのあたりまでだろう、とりあえず「パロへの帰還」までがひとつの山場だったような気がする。それ以降にいったいどんなストーリーが展開されたのか。イシュトヴァーンがアリと出会ってどう変わっていったのか。アムネリスとアルド・ナリスとイシュトヴァーンはどんなトライアングルを描いてたのか。スカールはいいったいどうなったのか。即答できない辺りに薄さが漂う。まあどうだって言いっちゃあ言いのかもしれないけれど。だってもう完結しないんだもん。絶対に。どうあっても。

 それはなるほど残念だけれど、一方に終わらないからこそ楽しいのかもしれないという気持ちが50巻を越えたあたりかたあったのも事実。結末のその後については外伝によって描かれているから大丈夫。そこへと至る過程を辿っていたストーリーが本編だった訳で、途中で途切れたところで気分としてはあまり脱力感はない。読んだところまでが、書かれたところまでが「グイン・サーガ」だったのだと理解すれば良いという気がするし、今後はそう思うしかない。もう絶対的に。これまで30年近く、楽しい時間を与えてくれて有り難うというのがだから「グイン・サーガ」についての感想であって、むしろその手から次なる新しいエンターテインメントが生まれなくなってしまったことの方が、実はもったいないと思っている。

 地球に暮らすひ弱な少年が、宇宙の男や奔放な女性の導きによって精神的にも、肉体的にも目覚めていく「レダ」は本当に素晴らしい話だった。想像力に富み官能的で勇壮でもあった。「ぼくらの時代」と「ぼくらの気持ち」と「ぼくらの世界」の3部作。モラトリアムに耽溺しないで社会へと足を踏み入れるための前向きさを与えてくれた。「真夜中の天使」から「翼あるもの」といった作品群は、三島由紀夫や渋澤龍彦らが啓蒙しつつあった耽美への憧憬をもっと切実でシリアスで身近な物語として顕在化してくれた。「終わりのないラブソング」はさらに実直さを増した物語として描かれ、世にそうした物語が蔓延る礎となった。だからこそ今のこのセクシャルに自在な物語りたちの豊饒な大地が、この日本に存在し、世界から着目されるようになった。

 「魔界水滸伝」の奇想天外もあった。「たぬきの方程式」のような軽妙もあった。「火星の大統領カーター」の装丁は銀背を真似て面白かった。中島梓として書かれた「コミュニケーション不全症候群」はどうにもならない胸苦しさに喘ぐ若者の心の拠り所となった。広くて激しく、深くて鮮やかな活動に触れて来られたことの幸せを、改めて感じないではいられない。哀しいかといわれると微妙だし、残念かといわれてもこれだけの作品を残してくれたのだから、読み返していくだけで10年は楽しませてくれるから残念という気とも少し違う。もったいない、かここはやっぱり。どう転んでもこれで終わりという事実を前に、だから今は感謝の言葉を捧げることでその偉業を讃えたい。ありがとう。本当にありがとう。

 尻尾がふかふかとした狢とそれから小さい女の子の姿をした座敷わらしがケサランパサランの所有権を争っていたらどちらを応援するのかって普通は即答「座敷わらし!」となるところだけれど、妖怪変化の間で起こる紛争をすっぱりと双方に納得のいく形で調停することを求められている調停人にはそんな感情は禁物。アルゼンチンでふとしたはずみで事件に巻き込まれた中で調停人になる才能があると認められたケンは、日本に帰ってそして英国に留学して本格的な調停人になると決意。そんな旅立ちの幕間に日本で起こっている紛争を解決している現役調停人たちの仕事ぶりを見てにいった先で起こった出来事が木下祥さんの「鬼の哭く森 マルゴの調停人」(中央公論新社)には描かれる。

 そのひとつめが狢と座敷わらしの紛争だけれど共に願っていることがひとつだと分かって話は解決。3方1両損ではない誰もが得した気持ちになれる解決法ってのがあるんだと教えられる。それがどうして一般の世間では遣えないのかという残念さにも。もう1つは富士の樹海をめぐる土地争い。火車と鬼との争いだけれど最初にロシアから日本にやって来ている調停人が間違えた後で、ナノなんて微細なズレだけでまっぷたつに解決してしまう才能を持ったケンが勘を拠り所に真相を探り出し、次なる調停へと持ち込んでいく。どうして中間が分かるのか? ってあたりの理由付けは曖昧ながらも何とはなしに落としどころが見えてしまうって人はいるもの。そこから帰納法的に理由を考えていくのが天才って奴だとしたらまさしくケンは天才なんだろう。その天性がいったいどの段階まで通用するのか。それとも蹉跌を味わうのか。世界へと再び打って出る次巻以降に期待大。


【5月26日】 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」の公開も近づく中で箱根町観光協会が観光パンフレットで「エヴァ」とのコラボレーションを行い「ヱヴァンゲリヲン 箱根補完マップ」を配布するという。19箇所ものアニメ登場シーンを箱根の地図で再現したものだというが、第3新東京市のように存在していない都市やそこに並ぶ建物といったものが、現実の地図の上にどう位置づけられるのかには興味深々。問題はそこで興味を惹かれたからといって、ではだったらあの碇シンジが綾波レイの幻を見たような通りはどこか、使徒が叩きつけられた山肌はどこなのか、といった所を訪ねて行けるのかどうかといったあたり。行って何もない山野を見て、楽しいと感じられるかどうかによって箱根補完マップを遊べるかどうかが決まって来そうだ。

 この「エヴァ」に限らず先だっての日曜日に秋葉原で米や笹かまぼこといった関連商品が並べられ売られていた「戦国BASARA」や未だに鷲宮町に人を引きつけて止まない「らき☆すた」といった作品が街おこしに役立っているのと比べると、「機動戦士ガンダム」はおよそ街おこしといった昨今のムーブメントに役に立たない。それも道理で現時点において宇宙にコロニーは存在していないし。辿った場所は北米から中央アジアに欧州、南米といったあたり。例えば南米にいって「ここがジャブロー」と楽しもうとしてもジャングルの奥ではたどり着くのに苦労が多いし、「ここでガルマが散ったんだ」とおそらくはその地であったシアトルを訪ねたところで、何の感慨もわきははしない。

 せいぜいが来たアイルランドのベルファストへと赴きここからミハル・ラトキアがホワイトベースへと乗り込み、カイ・シデンと短い逢瀬を重ねた果てに大西洋を血に染め、散っていったのだと思い同情することくらい。あの兄弟姉妹はその後、幸せな人生を歩めたのだろうか、ミハルの死を知らないで帰りを待ち続けたのだろうか、といった想像をめぐらし涙したところで、ベルファストのどこにもミハルがいたような証は見いだせない。

 「ガンダム」は街おこしには徹底的に不向きなアニメであり、実在した戦艦大和を拠り所にして、沈没地点や建造場所、博物館といった縁の場所を辿ることができる「宇宙戦艦ヤマト」にすら及ばない。あるいは「機動戦士ガンダム00」ならもう少し、当該の地域を訪ね歩くような遊びが可能なのだろうか。シリアスであっても現実の国とはほど遠い設定だったからたぶん無理だろう。それは勿体ないことなのか。否。ご近所ではなく世界を、宇宙を描いたからこその不可能性だとこころは理解し、そのスケールの大きさを讃えるべきではないだろうか。のぞむならこの地球のどこかに「ククルス・ドアンの島」とやらを作り、平和に生きたい人たちが集まれるようにして欲しいものだが。どこにあるべきなのだろう。「ククルス・ドアンの島」は。

 「ヱヴァンゲリヲン」といえば「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」のブルーレイディスクが登場していたので朝方に石丸電器へと寄って拾う。ダイドーリミテッドのそばにあったソフト店も閉まり総武線のガードのすぐ下にそびえていた本店も日曜日で閉まって秋葉原における戦線縮小が続く印象の石丸。DVDやCDを買う場所が万世橋わきの店しかなくなってしまったのは、探す手間が省けた反面でこちらになければあちらにはといった楽しみも消えてしまった気分は複雑。とはいえ近場に似たような店舗を構えても効率がいいはずもないので仕方がないと言えば言えそう。ガード下のアダルト店は残っていたからこちらをメインにして万世橋横の6階は邦画なりアニメなりをよりいっそう、充実させて欲しいものだが。邦画もちょっと前のがことごとく消え去っているのだ。

 さらに「鉄腕バーディーDECODE02」のDVDも。本編を見ながらスケールの小さい復讐話だ何だと貶してはいたものの、事務服姿のカペラちゃんの幼気さが気になってついつい買ってしまったのだ。第2巻が最新かと思っていたら同じ月にすでに第3巻まで登場していたとはちょっと驚き。ボーナス前に一気呵成に畳みかけようというアニプレックス側の判断か。ほかに「エデンの東」のオープニングとエンディングをともにDVD着きの限定場んで購入。とはいえオアシスなんてまるで聞いてないアーティストなんで「エデン」絡みだからといって買うほどのことはあったのかと迷い。マンチェスター・ユナイテッド嫌いな所は好感が持てるけど。マンチェスター・シティ派なんだよね、リアムとノエルのギャラガー兄弟。今は経営があれなんで気が気じゃないんだろうなあ。

 でもってエンディングの「スクール・フード・パニッシュメント」はエンディングでも聞かせてくれるようにノリがよくってビートが格好いいバンド。ボーカルの女声も耳に響いて来るあたりが単なる女性ボーカルで可愛らしさを出してみましたって感じのバンドとは違う、音楽への真摯さって奴を伺わせるって言うとちょっと誉めすぎ? でも良いんだよね、あのいろいろあって謎を残してぶったぎられる展開の後で奏でられるこの曲。不整脈気味に揺れて漂う気持ちをビートで整え興奮の中に冷静さを取り戻させてくれるんだ。意味不明? でもこういう感覚ってあるんじゃないのかなあ。アルバムとかも聴いてみたくなって来たけどタワーやHMVのインディーズで漁ればヒットするかな? 探してみようそのうちに。

 まん丸焼きを食べたいといっていたらまん丸焼きになってしまったいもちゃんに黙祷。でもきっと生きているんだ。太陽の側で消えてしまったつつじだって次回予告にはちゃんと登場して虎縞ビキニ姿を披露しているからいもちゃんも反物質の爆破の中でホワイトホールを抜けてどっかへと現れ生き延びているに違いない。だってあのダルダルな秋葉がいもちゃんの爆散くらいで目覚めて宇宙を救うために闘い始めるなんて前向きなことをするはずがないもん。説得され知ったされあまやかされて動くのが秋葉。それをするのがいもちゃんというコンビは永遠に不滅ですって。そんな「宇宙をかける少女」では高嶺の首のマークが消えた模様。これで覚醒? というかどうしてナミの波動で消えてしまうの? 意味不明が多すぎるけどそれもまた味。何が何だか分からない中を楽しんで行こう。

 電気を止められ寒い日に冷たい水で体を洗わなくては行けなかった理不尽さにキレて電力会社のロビーで2人を殺害した通り魔と、飲酒運転で2人をひき殺してしまった有名漫画家と、恋人だった女性が弁護士の男に乱暴の末に妊娠させられなおかつその相手に暴力を受けている場面に居合わせ半ば助けようとしてサーフボードを振り下ろし弁護士の男を殺害してしまった男性とがしかし同じ“人殺し”という事実、それをもって死して償う罪だと言われるのは果たして妥当か。否か。

 人を殺した人にたいする死刑の制度がなくなった日本ではその度合いに応じて手足の力を奪われ、指なり手なり足なりを逆さに付け替えられるようになっているという設定の松島健作さん「逆さ」(講談社Birth、1000円)なんだけれども、そうした刑罰自体は死刑廃止という条件下であり得るとして、その上で社会に出された”逆さ”たちが同じ人殺しだからとナナシなる人物に狙われ、殺害されていくことの是非が本編で強く問われていないあたりがどうにも悩ましい。あるいはすべてにおいて人殺しは人殺しなんだから殺されて当然でそうやって殺した奴も殺されるべきだという連鎖を描いて人が人を殺さざるを得ない社会の面倒さを、浮かび上がらせようとしているのか。そんな感じもないものなあ。エンディングも今ひとつ印象派。何とはなしに伺えるけどどこか曖昧なまま切断されてしまってもやもや感が残る。いろいろな意味で問題作。


【5月25日】 「ドラえもん」や「クレヨンしんちゃん」といったキッズ向けのアニメーションが映画になる時に最近は、決まって誰か芸能人が初めて声優を担当しましたといった話題がスポーツ新聞なんかを賑わせる。巧いか下手かは関係ないし、その役が必要なのかどうかも不明確。というよりむしろ本編のストーリーにおいては不必要なキャラクターを無理矢理に放り込んでは声優を芸能人なり誰かにして、アフレコを行いましたといって記者を集めて紙面化させるプロモーションが横行している。

 何か釈然としない。もちろんそうすることによってより宣伝の範囲が広がって、本来だったら届かなかった層に作品の情報が届いて観客が増えるといた効果は期待できるだろう。作り手もより多くの人に見てもらうためには少しの無理だって通しても、別に構わないのではといった気持ちで自分を納得させられる。けれども1度2度ならまだしも、毎回のように何らかのゲスト芸能人が現れ声をあてました、主題歌を担当しましたといっといって喧伝してはいつか飽きが来る。というよりすでに来ている。そうですかそれは良かったですね等々。それならば見にいかなくてはいけないという気持ちにはなかなかなれない。またやっているのかといったネガティブな感情すら抱かせかねない。

 「機動戦士ガンダム」が劇場映画化された約30年前のアニメーション映画に、そうしたゲスト芸能人などという考えは主流ではなかった。だからこそ松竹が配給を手がけたという縁もあってか、倍賞三津子さんがアムロの母親を演じて、ちょっとした話題になった。もっともそんな話題が映画そのものの動員につながったといったかというといささか疑問。本編の良さが観客を呼び込み盛り上がった。第2作と第3作ではだからなのか、芸能関係とのリンクはほとんどやられなかったのではないだろうか。

 もっともやろうとしたところで、よほどの訳ありでもなければ誰も出うとはしなかっただろう。俳優や女優がわざわざアニメに出て名を売る必要なんてないし、むしろ名折れと考える人もいたかもしれない。起用されるならよほどの役でなければ引きつけない。例えば「幻魔大戦」で神に近い存在を演じた美輪明宏さんのように。今は宣伝のために半端な約でも喜んで出る。それだけ時代がアニメに追い風になったと前向きに捉えても良いのかもしれないが、だとしたら端役のようなものではなく、本編において必要なキャラをその人だからこそできる演技で演じて欲しいという気がしてならない。それがアニメそのもののファンへの礼儀であり、芸を糧にする者たちへの礼儀でもあるのだから。

 この程度ことをやっておけば、メディアは引っかかるといった安易さが、どこかに透けて見えるプロモーションではいつか廃れるし、観客もそっぽを向く。芸能人が宣伝大使に任命されたといった騒動も、一時の喧伝にはなっても作品への関心を増大させる効果が果たしてあるのか、といった検証を行う必要がある。宣伝の側にそうした考え方が浸透し、より本質に近いところでアニメと芸能のシンクロが起こって欲しいと願って止まない。映画化が進む「機動戦士ガンダム00」では果たして何らの“仕込み”が行われるのかにも注意していきたい。

 えっとオリジナルだよなあ「夏のあらし」の「転校生」パロ。ガラリと扉を開けて真正面から潤の素っ裸を見てもまるで気づかなかったってのはまあ、生来の薄さとあとはとっさに腕で隠したことが目くらましになってそうとは気づかせなかったって考えられるけれども、階段から転がって中身が入れ替わってしまった一が潤のそこを触ってただただなくなってしまったとだけ言い募り、もとからなかったのだということには終ぞ音も言い足らなかったところが無理も無理。なんだけれども心底から潤は男だと信じて信じきっていたりする一にとって、潤にだってついていて当たり前なところがついてなかったらそれは異常以外の何物でもないんだろう。その意味で実に純粋な少年。純粋過ぎて真っ直ぐ過ぎて暑苦しくってウザったい時もあるんだろうけど。やよいと可奈子の漫才は「んちゃ」に「へのつっぱりはいらんですよ」。またもやジャンプか。それだけ心に残る作品が多かったんだなあ。

 それでふくろうの正体は? ってあたりは次巻以降のお楽しみってことになるのか小学館ガガガ文庫のライトノベル大賞を受賞した渡航さんの「あやかしがたり」(ガガガ文庫)。江戸で学んでいた次男坊の主人公が国元へと戻る途中で視覚に襲われたところを道中で連れになった修験者みたいな風体の拝み屋のふくろうに助けられ、また渡し船で飛び込んできた真っ白な少女のましろも役に立ってどうにか国元へとたどり着くと、そこは瀕死の藩主の後継者をめぐる争いのまっただ中。主人公の師匠で藩主の弟を立てようとする一派は主人公に敵対する勢力を引っ張る家老を暗殺しろと迫るものの、すぐに聞くのは拙いとその家老の家にも出向いて話を聞いていたら、いよいよもってぶち切れた師匠側が決起したからたまらない。

 人ならぬ存在の力も借りて企む簒奪に立ち向かおうとするものの、なかなか一筋縄ではいかず往生する主人公。そこをやっぱりふくろうが立ち上がりましろも手伝ってどうにかこうにか大団円へと至り、そして物語はおそらく江戸へと移るのかどうなのか。悪役面をしていかにも悪そうな筆頭家老が実は聡明で藩のことを大事に考え最善の策をとろうとしていたってあたりに人は見かけが9割なんかじゃ絶対ないって教えられる。名前の元になった田沼意次だって言われているほど悪人でもなかったようだし。書き慣れていてるような文体で楽しめる歴史時代エンターテインメント。続きはやっぱりふくろうの正体あたりで描いて欲しいなあ。ましろとあとは犬神の少女の諍いなんかも是非に。両手にケモノとは羨ましい?

 「夏のあらし」のはじめも大概に物知らずの子供だけれどもどこか信念めいたものが通っていてワガママってよりは頑固ってイメージが先に経って嫌悪よりは好感が上回るけれども壱月龍一さんの「七夕ペンタゴンは恋にはむかない」(ガガガ文庫)の湊の態度はガキっぽさの上に周囲を省みない唯我っぷりが湧いてでて、もうちょい空気読めって言って諭してやりたくなる。仲の良かった幼なじみとずっといっしょにいたいと、夜に迷い込んだ森で出会った神様らしい存在にお願いしてから幾年月。5人の幼なじみは小学校から中学校へと仲良く進んだけれどもその中の1人であかりという少女が何故か急に転校してしまい、2年ほどして戻って来たものの昔のような誰もが仲良くできる関係ではなくなっていた。

 あかりが転校した理由を湊とそれから同居している伊織意外の2人は何とか知っていて、その切ないまでの運命を苦渋の思いで見守っているのに、何も知らない湊は何だ帰ってきたんだったらもとどおりにいっしょに遊ぼうと言い出し、あかりが無理な運動をするような羽目に意図的ではないにしても追い込んでいく。無為の善人というよりも無作為の悪人とすら言えそうなその振る舞いは、あかりの苦渋が明らかになってからも続いて、伊織って同居していた少女の身に降りかかったどこか自業自得にも似ている運命めいたものと、リアルに命がかかわっているあかりの運命とを天秤にかけてみたりする。

 いくら身近にいたからってそっちを選ぶのか? ってな感じ。いっしょにいたかったのはずっといっしょだった幼なじみであって、途中から紛れ込んできた存在はそれとして除外するのが筋。なのにそんな存在が居場所を求めたことがあるいは、めぐりめぐって他の少女の運命を途切れさせようとする。でもってそんな存在をこそ上だと湊は認めようとする。何か同意できないよなあ。割り切ってひとときの安らぎを受け入れつつ新しい出会いを認めるってのが人間の有り様。でもってそれを許し見守るのが神様の有り様。予定調和かもしれないけれどもそれが必然といったところに収まらない展開が、どこか気分を不安にさせる。まあそういう生き方もあるのかもしれないと、そこは認めつつ自分だったらどっちを選ぶかを考えよう。やっぱりあかりだよなあ。見目麗しいし。ツンデレだし。

 本屋を歩いていたら講談社から「Birth」とかいう三冠王みたな名前の叢書が出ていたのを発見。新人っぽい人たちを乱暴にも出してしまうってスタンスは、ソフトカバーの体裁も含めて在りし日の「角川NEXT」を思い浮かばせる。とすると末路もやっぱり……。いやいや出たばかりの叢書にそれは不吉だからここは言わない方が吉。ファンタジーみたいなのが1本と大和朝廷が舞台の歴史物が1本と、“本格ミステリ”とやらが1本とあと死刑にされる代わりに手を裏返され足を後ろ向きにされる刑に処せられるようになった日本が舞台のSFっぽいサスペンスが1本。とりあえず買うったけれども次はあるのか。6月には女子サッカー物もあるみたいだけれどもちゃんと出るのか。出て欲しいけどなあ。「NEXT」にはネクスト、来なかったもんなあ。Birthは生まれてそれで終わりってことはないよなあ。

 でもって「月刊アフタヌーン」で「武士道シックスティーン」の漫画が始まっていた。「しおんの王」を描いた人。表紙になっていたけど武士道ガールな剛の磯山香織が何が眼鏡っ娘になっていた。何でだろう。ってかいつの間にか「武士道シックスティーン」の映画化が決まってた。剛の香織は成海璃子さんで、日本舞踊をやってた柔の早苗は北乃きいさん。最近の出演作からいうとほんわかとしておっとりとした成海さんに、ケンカっぱやくてキック上等な北乃さんってイメージもあるけれど、背丈や風貌からすればこれで正解なのかもしれないなあ。問題は成海璃子の立派さを増しつつある体型か。保つのかクランクアップまで。しかし出た当初から追いかけて来た作品がだんだんとじわじわとヒットしていくってのは面白いなあ。あとはしっかり「武士道エイティーン」も出してピタリと閉めきって欲しいなあ。7月下旬刊行か。ってかこんなウェブ連載があるなんて知らなかったよ驚いた。


【5月24日】 コロニーのそれ事態が構築物として機能性とデザイン性を見事にマッチさせたものではあったものの、いわゆるビルなり建物なりといった建築物が「機動戦士ガンダム」の中で存在感を放っていただろうかと考えるとこれがまるで思い浮かばない。アムロの家はごくごく普通の住宅だったしジオンのザビ家が暮らしていた場所もコロニーや要塞の中といった感じで、部屋の調度は整えられていても豪奢な権力者の家といったものではなかった。ドズル・ザビが妻と娘を訪ねた部屋は守備していたソロモンの中の一室だったはずで、そんあ最前線に、今に照らすなら皇族なり王族の家族を住まわせて平気だったのかと疑念も浮かぶ。

 権力者がその権勢を建築物にして示したがるのは世の常で、ナポレオンはアウステルリッツの会戦に勝利したことを記念して、パリに巨大な凱旋門を立てようとしたし、その凱旋門に旗をひらめかせたアドルフ・ヒトラーはアルベルト・シュペーアを重用してニュルンベルグでの党大会の会場を作らせ、ベルリンを世界に冠たる都市へと作り替える「ゲルマニア計画」を進行させた。1936年のベルリンオリンピックでも巨大なスタジアムを作らせ、これは現代に至るまで残って2006年の「FIFAワールドカップ2006ドイツ大会」でメイン会場として使われている。刻まれている歴史はさておいて、素晴らしい造形は今なおベルリンの象徴として輝いている。

 日本も権力者が数々の建築物を建てているが、これなどはゼネコンに土木事業者を潤すハコ物行政の一環とはいえ、権勢を示そうとしたものだと言える。もっともそこに美意識といったもはなく、ただただ画一的で無機質で中身は空っぽな箱ばかりが並んではすたれていくだけなのだが。敢えて言うなら鈴木都政の末期に計画された新宿の東京都庁は、その形状といいその迫力ある外観といい、権力者の心性を世に顕現させたものと言えそう。はなはだ上から目線の建物ではあるけれども、ケルンの大聖堂にも似てそびえる2本の尖塔といった面もちは、なかなかの美しさだと言って差し支えはなさそう。バブルまっただ中という時期だからこそ得られたその威容。時代の象徴として100年の後も残っていて欲しいものだが。

 「機動戦士ガンダム」ではそうした権力者による権勢を現す建築はまるで見られなかった。本拠にしているスペースコロニーには場所にも資源にも制約があって、どこかに無駄を見込まなくてはならない建築物にリソースを与える余裕がなかった、といった推測もそこには成り立つ。無理でも無茶でも通してしまい無駄な彫像を建てて平気な大統領も中央アジアにはいたから、狭いコロニーでも押して先代ジオン・ダイクンの彫像を建てて国民を慰撫し権力の簒奪を正当化して不思議はないが、それをしている節もないところを見ると、そうしたものにリソースを割く意味を見いだしていなかったのかもしれない。もしもジオンが勝利し地球にギレン・ザビらが脚を伸ばしたら、そこに巨大なモニュメントを建てただろうか。宇宙に生まれ狭いコロニーで暮らし宇宙の大海に畏怖を抱くスペースノイドだ。重力の井戸の底にある地表にこだわり匂い付けのような無様さで建築物を残すような真似はしなかった。そう思うのがとりあえずは妥当か。

 ダイエットせにゃあともっぱら「カロリーメイト」を中心に夕食くらいは真っ当なものにして空腹を埋めているとどうにも気力が萎えて眠ってしまうので、これはいかんと体を奮い立たせて電車に乗って上野へと向かい「ネオテニー・ジャパン」って現代医術の展覧会を見物に行く。「高橋コレクション」って別に着いているように医者の高橋さんって人が買い集めた現代美術を集めて並べた展覧会。言うなれば人様の自分はこんなにいっぱい現代美術を買えるくらいのお金持ちなんだよって自慢をその人の応接間の代わりに美術館へと行って見せられているような感覚で、はいはいそうですかそれはようございましたってやっかみも浮かぶし、1997年に草間彌生さんに気づいたのがコレクションのきっかけだなんって遅すぎるのも良いところ。せめて90年の初頭にまだ河田町にあったフジテレビギャラリーが、草間作品を積極的に展示していた頃から集め始めたんだって言えれば目利きなんだなあって気もして敬意も生まれるんだけれど、そうでもなさそうなところにお大尽の道楽感が抜けきらない。

 とはいえ、それはあくまで端緒でその後はなかなかにしっかりと“現代”を追いかけていたりするところには好感が持てる。なるほど村上隆さん奈良美智さん会田誠さん山口晃さんの”四天王”を筆頭にしていたりするところに、情報やら流行に影響されやすい人あのかもなって気もしないでおないけれど、流行っているから劣っているとは限らない、むしろ流行っているからこそ優れているってのがコンテクストの上に成り立つ現代美術のセオリーで、それは流行っているから購入するってコレクターの存在もあって成り立つサイクルでもあって、高橋龍太郎さんは私財を投じ身を挺してそうしたサイクルの一翼を担い、総体としての“現代美術”を構成する要素になっている。外から眺めて揶揄するだけでは絶対に追いつけない高みがそこにはある。間違いなくある。

 持っているものもそれなりに気が利いていて、例えば会田誠さんなら「大山椒魚」って巨大な山椒魚に肌の少女2人が絡み合った名画中の名画を所持して展示している。見上げればその巨大な素っ裸に女性は赤面して男性は屹立しそうな迫力。欲しくたってあのサイズを保持するのはとても無理なところをやってくれている。小谷元彦さんの良いところも持っていたり西尾康之の群像なんかも持っていたり三宅真太郎さんのスター・ウォーズ物を持っていたりと保管にも大変だけれど散逸しては意味のない貴重な品々をまとめて持っている。

 なおかつそうしたこの10年から15年を象徴する品々を、カタマリとして持っているところが何よりも重要な点で、例えばこれが半世紀経った時に、世間で名前が残っているのは時代と併走して名前を売った村上隆さんがせいぜいで、カウンターとしての奈良さんがそこに重なるかどうかといったところ。けれどもここに高橋コレクションが残っていれば、いわゆるアートバブルと言われた時代において、生み出された数々の品々をカタマリとして見ることができる。60年代のポップアートがアンディ・ウォーホルとロイ・リキテンシュタインだけではなくってオルデンバーグやジム・ダインやローゼンクイストやジェフ・クーンズもちゃんといたんだと(まあこの人たちは今の名前が残っているから50年後も残っているんだろうけれど)知ってもらってえるようなことが、90年代から2000年代のアートバブル期についても起こり得る。大変に素晴らしい行いだとここは素直に讃えつつ、ならば今を、そして10年後を見てさらに新たな才能を買い集めるべきではないかと指摘したい。大畑伸太郎さんとか、良いよとっても。

 出たら雨でさらに脚を伸ばして東京芸大まで行くのが億劫だったんでそっちは諦め上野御徒町辺りを散策してから有楽町へと出回り適当に見たりして何も買わずに退散しつつ、移動の電車で三浦しをんさんの新刊「神去なあなあ日常」(徳間書店)をぺらぺら。巧いなあ。都会でフリーターになりかけていた高校生が親のだまし討ちに似た形で和歌山だか三重だかの山奥にある林業の集落へと放り込まれるって展開が、昨今の”農林水産回帰”なんかを見事に捉えた題材としてとっても巧いし、そこに書かれてある林業に勤まざるを得なくなる少年の日々に苦労しながらもだんだんと良さを覚え、コミュニティの良さを感じていく展開がやっぱり巧い。時にはウザく鬱陶しくもある密なコミュニケーションだけれども、それに慣れてしまうとそこから離れてしまうのが何だかとっても寂しくなる。

 一所懸命に仕事をして、溶け込んだようでも村で最大の神事から余所者だからと排除されかかって浮かぶ寂寥感。読んでも伝わってくるその感情を実際に味わったとしたら果たしてどれくらい気持ちにこたえるのか。そこに巻き起こった山火事への献身的な取り組みが一種の通過儀礼として働いて、村に認められていくようになる過程を読むと今の都会でひとり寂しく生きている身を投げ出して、農家や林業家や漁業家のところに飛び込み何も考えないで体を動かし、得られる収穫とそして仲間の承認に身を委ねてみたくなる。それは逃げだ、都会で成功できなかった自分を偽りたいだけだって言われればなるほどそうかもしれないけれども、一方に林業なり農業なりに従事する人を求めている集落もあるわけで、そこに請われて出向き自ら溶け込み共に成長していくことは決して逃げではない。

 読めば林業を試したくなる物語。途中に神隠しがあり、またスピリチュアルな出来事もあったりしてとファンタジックな要素も出てくるけれども本編のリアル感を損なうことはなく、むしろそうした場所だからこそ起こり得る集合無意識の現出といった解釈も成り立つ。皆が見たいから、皆が見てみたいから見える神の姿、といったところか。それにしてもいったいどうしてここまで林業について書き込めたのか三浦しをんさん。都会育ちの都会暮らしで林業になんてとんと無縁な人なのに。文楽のように都会でながめて映像を甘藷うして済む題材でもないのに。かといって山林へと分け入ってもそこは男の職場であって立ち入り体験することなんてとっても難しいのに。取材の過程と物語にした動機を聞いてみたい。ややもすれば山は男の職場であって女は黙ってついて来い的な内容にもとられかねない題材を、選びそこに男たちの恰好良さと女たちの潔さを描いてみせた理由なんかも。


【5月23日】 武士は食わねど高楊枝、ではなく武士道とは死ぬことと見つけたり、死んで生き恥をさらさずといった観念が、いつ頃からなのか分からないまま日本の中に醸成されては戊辰戦争での白虎隊の悲劇を呼び、また太平洋戦争にあっての特攻隊といった存在への同情なり、憧憬なりといった感情に根ざした前向きな評価を招いたことが、戦後に創作されたさまざまな作品の中に、自己犠牲の尊さとして描かれるようになって今に至る、といった感じだろうか。

 科学を信じ、医学者でもあって無為な死を嘆く立場にあって不思議ではないはずの手塚治虫からして、代表作の「鉄腕アトム」でアトムを太陽へと飛び込ませ、「ジャングル大帝」でレオを氷雪の中にヒゲオヤジを救うべく往生させた。アニメーションにもそうした観念は引き継がれているようで、戦後最初の大ヒット作となった「宇宙戦艦ヤマト」のクルーに死を賭した旅をさせ、そして続編「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」でクルーごと白色彗星へと飛び込ませて共に散らせて涙を誘った。

 そうした情動をどこか醒めて見ていて不思議ではない言動が、昨今は感じられる富野喜幸監督が、「機動戦士ガンダム」では幾度となく自己犠牲を見せるキャラクターたちを描いて涙を誘っている。まずはガルマ・ザビ。親友と信じたシャアの裏切りに遭いながらもジオンの栄光を叫んでガウをホワイトベースへと特攻させる。脱出してでも再帰を期するべきとっころをいともあっさりと散っていく。イセリナ。ガルマの仇を討とうと軍人でもないのに船を駆って無謀にもホワイトベースへと挑み、撃破される。ランバ・ラル。もはや策も尽きたとばかりにホワイトベースに白兵戦をしかける無謀さは、どこか特攻の気概が見て取れる。

 リュウ・ホセイ。死んだランバ・ラルの後を追って突入してきたハモンがガンダムに向けた砲塔へと突っ込み共に散り、アムロ・レイとガンダムを護る。マチルダ・アジャン。やはりガンダムを狙った「黒い三連星」のドムへと輸送機で突っ込み、操縦席ごと叩きつぶされる。まことに死屍累々。特攻のオン・パレードはその旅に涙を誘い、感動を招いて見ている僕たちを引きつけた。けれども折り返し地点にすら届かない間でこれだけの自己犠牲を頻出させる必要があったのか。そういえば武器の装備もろくにない初期型のザクでガンダムに挑んだガデムという男もいた。これとて特攻に似た行為。補給の任務を成し遂げたのならそのまま離脱すれば良かったものを、老兵としての矜持が戦場を去らせなかった。こんなにも自己犠牲を強いる必要があったのか。

 後半にはシャアを護ってガンダムのビームサーベルを受けるララアも現れる。ビグザムの攻撃を受けるガンダムを援護しようとGファイターで突っ込んだスレッガー・ロウ中尉も登場した。それほどまでの数々の死を、当時は感涙とともに見て楽しんでいたところに、それを普通と受け入れていた精神的な土壌があり、またそれを普通を受け入れさせる作劇の巧みさがあった。「ヤマト」と「ガンダム」の直撃を受け、その後の脱洗脳を得られなかった者たちが、内心に抱える自己犠牲を前向きに見る心理には、どれだけの強さがあるのだろうか。しっかりと客体化できてさえいれば、あれはあれでありこれはこれと思えるようになっているのだろうが。調べてみたい気がある。

 後生になって「ガンダム」のあまりな自己犠牲の多さに安彦良和は、漫画版「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」でリュウの特攻を変えていると聞く。ドラマとして多くを引きつける上での必要性が、重なりすぎて招く得体の知れない空気への、レジスタンスと言えるのかもしれない。生き恥はさらし生き続けて汚名をすすぎ、その後で前を向く。世間もそれを認めて受け入れる。そうした空気の大切さこそが求められるべきところを世は、未だに責任を求め糾弾を行い無為な死を呼び込む。自分がそうなりたくないために他人をそうして溜飲を下げる。寒い時代はまだ続く。

 毎週に2つのお題で1ページづつ作り起こす作業の、労働量的には簡易でも心理的には重なる圧力もあって疲れも溜まっていたりするのか、単に夜更かしが過ぎているだけなのか、はたまた歳相応に体がガタついているだけなのかは判然としないまでも、いったん眠るとなかなか起きられない状況にあって目覚めたら結構な時間。やれやれと思いつつウェブに向かうと、韓国で盧武鉉(ノムヒョン)前大統領が転落死したってニュースが出ていて、追加で遺書もあって自殺じゃないかって報も到着。日本でも疑われて憤死した新井将敬さんや、ライブドア偽メール事件で議員を辞めた永田寿康さんのように自ら死を選ぶ政治家ってのが何人もいたりするけれども、トップに立った人でその後に責を問われて死んだ人はここんとこ終ぞ出ていない。

 というか歴代の総理で自殺した人って、戦中に総理をやった近衛文麿あたりを除いていたっけか? いないよなあ。ならば韓国に残る儒教的なスピリッツから恥を恥だと知る空気が、未だに残っているのかというとそうでもなくって、歴代の大統領で逮捕されたり告発されたり暗殺された人はいても、自死を選んだのは今回が初めてではなかったか。死刑判決を受けても特赦で減刑されて、生き延びた元大統領だっているんだから、せいぜいが数億円って金額にかかわる汚職を問われ、刑に服したところで命までとられる訳じゃないし、前任者のあら探しをしつこくやれば、いずれ自分にも降りかかってくるだろう現政権が適当なところで落とし前を付けるって、そんな考え方もあっただろう。

 いずれにしたってたいしたことにはならないはずなのに、選んだのは自死。選挙であれこれ苦労した果てに、世論の盛り上がりに乗ってトップに立った人だけに、政治家に必要な人間性なんて超越した頑固さ強靱さがやっぱり足りていなかったのかもしれないなあ。気になるのは世間の論調がこれをどうとらえるか、ってあたりで現政権の糾弾が招いた悲劇といって、現政権を攻める方向へと向かうのか、逃げだと誹って死後も糾弾を続けて現在を改善された状況だと言い募るのか。普通のおじさんを持ち上げ大統領なんて地位につけてはその気にさせた挙げ句に破滅に招いた世論。そのピースとなった自らを省みて沈思するのか。そんな反応を見れば彼の国に暮らす人たちの心根も何とはなしに見えてくるし、反応する此の国の心性も伺えそう。はたして。

 4冊同時刊行、って惹句が踊るといかにも凄い新人がやって来るって印象を与えてくれるけれども、実際に手にとって読んだ河内遙さんのそのうちの1冊「河内遙時代短編集 チルヒ」(小池書院)はやっぱり凄かった。現代が舞台になったちょいエロっぽい内容の作品を描かせても立派な人な感じなのに、江戸っぽい時代を舞台に髷やら着物やらを身に着けたキャラクターたちを描いてもまるで違和感がなければ、そんな時代に生きている男女の機微や心理を描いてもやっぱり読んでいてズレがない。

 杉浦日向子さんが例えば、現代の中学校を舞台にラブストーリーを描いて読める作品になったのか? ってあたりを考えれば分かることでそれぞれの時代にはそれぞれにマッチしたタッチがあるし、ストーリーもある。でも河内さんはちゃんと時代物をこなしている。例えば冒頭に収録の表題作「チルヒ」は、川岸に繋いだ船の中で春をひさぐ遊女というか夜鷹の女が登場する物語。見目麗しいんだけれどもどうやら脚が不自由らしく、そこでしか仕事ができない彼女を買いにやって来る男も結構いて、大店の主人なんかもやって来ては縄で縛り打擲する遊びに勤しむ。

 打ち据えられて傷だらけになっても、払いが良いため退けられない遊女の立場の弱さに哀しさがまず染みる。そんな女をいつも川岸から見ていた若い髪結いの男が見初めて時に抱くものの、次にやって来た大店の旦那が代わって女を縛り、叩き川へとたたき落として平気な顔。怒った髪結いの男は手に担当を持って旦那を刺しては、女を置いて江戸からどこかへと消えていく。決して添い遂げられることのない2人の哀しい間柄。弱い立場にありながらもそれを糧につなげなくては食べていけない女の悲しみ。格差社会と昨今は呼ばれるけれども今と代わらない、むしろ命の重さでははるかに軽く見積もられていた江戸の昔の弱者たちの生き様が浮かんで心を揺らす。

 2人の男が橋の上から飛び降りようとしていた着物姿の女を助けると、どうやら蓮根を探しに来ていたというから2人は泥の沼へと入って蓮根を探すと、その間に女が服を持って消えてしまう。もしかして騙された? そう思ったのも束の間、女が戻ってきては男たちの衣装の中にあった女の財布を差し出してみせる。同業者たちの化かし合い。さらに女の見かけとは違った正体も明らかになって、あの時代に生きる大変さといったものが浮かんでくる。

 迷子になっていた鴉天狗の子供と仲良くなった少女がしばらくいっしょに遊んであげたものの、やがて鴉天狗は仲間に引き取られて返っていく。せっかくできた友だちがいななってしまう寂しさに無く少女に鴉天狗の子供は薬と烏帽子を預けて消える。一期一会の哀しいけれども温かさが染みてくる。そんな感じの短編たちがつまた作品。夏の遊郭に雨宿りに入った男が経験する不思議な出来事などもあって、科学だ何だといってくっきりと現実と不可思議を分けてしまっている現代とは違い、限界と異界が背中合わせにあった時代の面白さって奴を感じさせてくれたりもする。江戸でこれだけの話を描いて、現代が舞台の「ケーキを買いに」ではどんな話を描いていたりするのやら。こりゃあ読んでみるしかないなあ。多分面白いに違いないなあ。

 フクダ電子アリーナへと向かう前に秋葉原を歩いていたら伊達政宗がいた。でも英語は使っていなかった。オールライトとか。「戦国BASARA」関連のコラボ商品があったんでさっそく噂の「笹かまぼこ」を食べてみてまずまずの味を堪能。そのあとは交差点あたりをめぐってあと2週間でちょうど1年になるんだなあと慨嘆。あの日もあるいは時間があったら秋葉原に寄ってからフクアリに行っていたかもしれないんだよなあ。2週間前ってのに1周忌に向けた話が聞こえて来ないのは、もはやあのあたりでは1年前をなかったことにしたいと思っているのかどうなのか。誰かが花束でも起き始めれば積もっていくだろうとは思うけれども、何かにつけてうるさいお上が早速撤去とかしそうだしなあ。そして集会とか追悼すらも許さない、と。ならばだったらと動き始める人たちはいるのか? いそうな感じ。要観察。


【5月22日】 今でこそあれやこれやとアニメ関連の主題歌やサウンドトラックを買い込んで聴いているが、アニメに本格的にハマるきっかけになったはずの「機動戦士ガンダム」なり、先んじてアニメへの関心を大プッシュした「宇宙戦艦ヤマト」に関連した音楽を当時はまるで一切買わなかった。買おうにもまず小学生中学生で手持ちの金がなかったということがあり、さらに家にLPレコードをかけられるようなプレーヤーがなかった(という訳ではなくシングルをもっぱら掛けていたポータブルのステレオプレーヤーでLPもかけられると後に知ったのだが)こともあって高額なレコードに手を出そうとは考えられなかった。

 ちなみに「ガンダム」関連でレコードを実際に買ったのはおそらく「機動戦士ガンダムSEED」のコンプリートベストが最初であり、また最後であって「ヤマト」に至っては未だに講習したことがない。さらに言うならアニメ関連のレコードを買ったのは「重戦機エルガイム」の「風のノー・リプライ」がたぶん最初。鮎川麻弥さんという人が唄っていたドーナツ版を買って家のプレーヤーで何度も重ねて聞いたっけ。この後に確か「機動戦士Zガンダム」の主題歌「Z・刻を越えて」を確か唄って一段の人気を得るのだけれどもそちらは買わなかったのは、楽曲として「風のノー・リプライ」の方が好みだったからに他ならない。高らかと伸びる澄んだ声質。それを活かせる楽曲だったということか。ニール・セダカよりも筒見京平の方が作曲家として一枚上、ということなのかもしれない、日本人のアニソン好きには。

 とはいえだったら「ガンダム」のサウンドトラックは聴いていないかというと実は聴いていた。近所に住んでる割と金持ちで漫画とか自転車とかアニメとかも好きな同級生が持っていたのを録音してもらってカセットテープで聴いていた。たしか1枚目とそれから2枚目。主題歌もあれば「シャアが来る」も確かあってそれからうっすらとした記憶ながらもテレビ版のラストに流れるすべてを包み込んで未来へと誘いようなサウンドも入っていたような奇がしている。勇ましい主題歌もあればコミカルな主題歌もあってそれらが中心だと思いこんでいた(ガンダムのオープニングもそうした系譜に連なる1曲だ)アニメーションの音楽が、抜き出して聴いても音楽と音楽として素晴らしいものだと気づかされた。そんなきかっけになったのがその2枚のアルバムだった。

 なかでも2枚目「戦場で」に入っていた戸田恵子さんの唄う「いまはおやすみ」がとてつもなく心に響いて、聴くたびに涙がにじんでしかたがなかった。本編での感動のシーンと重なって記憶に刻まれたということもあるかもしれないけれども、そうではなく単純に楽曲としての素晴らしさ、唄う戸田恵子さんの声の良さが耳に響いて記憶に深く刻まれたということがあった。聴けば本編の映像ではなく宇宙での、アムロとララアの邂逅と別離の悲劇が浮かび、けれどもそれを乗り越え分かり合おうとする2人の前向きさに打たれ、ひとりよがりを続けている人間の小ささを嘆きつつ未来をどうしたらいいのかと自問させられる。名曲中の名曲。これを今再び、戸田さん自身の声でステージにおいて見るこができれば嬉しいのだけれど。30周年という節目の年だからこそ、実現を働きかけて欲しいものだ。

 アニソンといえば今や業界でも屈指の勢力を誇るようになったランティスが1999年の創業から10周年って節目を迎えて富士急ハイランドで野外フェスティバルを挙行するってことで発表があって見物へ。我らが影山ヒロノブさんを筆頭に茅原実里さんや平野綾さんや緒方恵美さんや岩田光央さんやほかわんさかと集まったアニソンの人たちがならぶ壇上を見つつ、唄えば多分耳にしたことがあるだろう楽曲の持ち主達のこれほどまでに揃った現実を鑑みアニソンが、いかに僕の暮らしの中に入りこんでいるのかってことを強く激しく実感する。

 普段から聴いているって訳じゃないんだけれどどこかで耳にしていて、それが不思議と記憶に残っているという触れ方。これにはひとつには自分のアニソンへの前向きな指向性があるんだろうけど、一方にアニソンが持つインプレッション力の高さってものがあるんじゃなかろーか。聴かせれば刺激される音に声。だからこそ詞を知らない外国でも受けたりするんだろう。「サクラサクミライコイユメ」とか、アニメはじっくり見ていないのに知っているもんなあ。

 冒頭では「LAZY」のポッキーこと井上俊次社長も挨拶。平凡パンチとかにグラビアまで載っていたのを見ていた大人気の「LAZY」がいつのまにかハードロックバンドになっていて(っていうか元はそっちだったのを一時アイドルしていただけ)、驚きながらも聞き入っていたら解散してしまってどうしたんだろうと思っていたら「ネバーランド」とかで井上さんは活動していて、そこでアニメの曲なんかもやっていたのが縁でアニメのサウンドトラックなんかを本格的にやり始めてレーベルまで作ったのが90年の初頭ぐらい? それでもやっぱりいろいろあった中から99年に自分たちの会社を発足。

 前にレーベルの時に使っていて、麻宮騎亜さんが「アトランティス」を元に考案してくれた「ランティス」の名前をそっちでもつかってから10年。間に「冒険でしょでしょ」とか「ハレ晴れユカイ」やら「もってけ!セーラー服」のヒットなんかもあって世間的な関心を惹きつつ、しっかりと栗林みな実さんや新谷良子さんやeufoniusやらALI PROJECTやらの楽曲を作ってファン層を広げつつ影山さんを擁しつつ他にも重鎮を呼んで「JAM Project」なんかを推進して来たことが功を奏して、アニソン界のみならずレコード業の分野でもそれなりの存在感を示すようになって来た。これってなかなかに凄いことだと思うんだけれど一般メディアじゃあそんなサクセスストーリー、アニソンってなあに? って無関心からお呼びじゃないんだよなあ。せめて自分だけはと頑張ってみたいけれども世間への影響力は激無だし。なかなかないフクザツ。でも頑張る。eufoniusが世界に認められるその時まで。

 また悪夢の中へと堕ちるリリアーヌ。「怪物王女」は9巻となって「マンガ大賞」のノミネート資格を失ってしまったけれどもそれでも地道にアニメが終わっても本編はちゃんと続いていて、兄弟姉妹のケンカは極まっていて新たな兄ってのが現れ列車砲を操ってエミール兄が回収して来たフランダースって巨大なフランケンをぶち壊そうとするものの、どにかこうにか頑張って撃退しつつもとの世界へと戻って再び怠惰な日々、って展開に行くかと思ったら唐突にどっかの温泉宿でリザと姫がお風呂に入っているシーンが現れる、って姫は脱いでいないけど。もっとも脱ぎそうで前の闘いでも黒いすけすけな三角を見せまくっていた令裡がいなかったのは理由があったみたいでそこから逆襲が始まり敵を殲滅。さあ館での日常が戻ってくるかと期待したらやっぱり別のフランを作った博士の話に向かってしまった。そこでも兄弟姉妹げんかが勃発。当面はそんなバトルロイヤルばかりが続くんだろうなあ。まあ良いや闘いが多ければ令裡さんもいっぱい見せてくれそうだし。

 やっぱり形が素晴らしいなあ、白鳥・D・黒羽さんのお尻は丸みがあってややふっくらしていてそれでいて触れればぶよって感じじゃないみずみずしさを持っていそうな雰囲気。それを2次元の絵で描いてしまえる「東のエデン」の作画スタッフの力量に何より関心するけれども、脚本の方も輪をかけてぶっとんでいてもしかしたらと思っていたミスリーディングがそのまんま活かされていてまず吃驚。さらに空中浮遊なんて大業も見せては痛みに倒れた滝沢朗を見守る森美咲の前から飛んで去る、ってしっかり最後にちゃっかりイリュージョン代ってのがさっ引かれていたんだけれど。あのそんなにない時間にどーやって仕込んだんだろう。でも滝沢を脱がせ治療し包帯を巻く時間はあったのか。その間にすぱっと切ってたりは……しないよなあ、デカそうだもんなあ、滝沢のジョニー。いよいよ5%くらいの視聴率を確保し始めたみたいで繰り出される謎に引きつけられ、それでも解決しない謎に引っ張られて見る人が尻上がりに増えていきそう。上がり尻は黒羽さん。何のこっちゃ。


【5月21日】 脱走したアムロ・レイがランバ・ラルとの邂逅を経てホワイトベースに帰ってきた時に待っていたのは営倉入り。ちょっぴりだけど成長し、ガンダムの操縦も巧みになって活躍したにも関わらず、喰らった仕打ちにアムロは憤ったもののすぐさま考え直してラルの強さに自分をどう高めようかと思案した翌週に、ラルのホワイトベース突入があって撃退するためにアムロは営倉を出されてガンダムに乗り込み、侵入してきたジオン軍をビームサーベルで一網打尽にする活躍を見せた。

 気になったのはアムロがどうして軍律にのっとった営倉入りなんて仕打ちを受けたのか、といったあたりでなるほど後に軍人となって曹長から少尉へと昇進していったアムロだけれど、もともとは民間人でそれも一介の学生で、ホワイトベースには半ば逃げ込む形で乗り込んだだけでその過程でたまたまガンダムの操縦を任され、誰よりも巧く扱えるということでパイロットを負かされていただけの身。徴用されたかどうかかも定かでない民間人を権限で縛り、営倉に入れられるものなのか? といった制度的な疑問が昨今の裁判員制度開始といった状況から浮かんで来る。

 もっともそれが喫緊の事態であり、且つ生き延びるためにはガンダムを使ってジオン軍を撃退する必要があって、それが成されてはじめて大勢の乗組員が生き延びられることになっている。にもかかわらずガンダムを操縦できるほとんど唯一の存在であるアムロが、ガンダムもろとも逃げ出したということは残る人たちに半ば死を申し渡したようなものであって、これは軍律に則っているかどうかに関わらず、人道的に問題ではないのかという見方もできる。軍人だから、違うからといった理由ではなく人間として間違った選択をしたアムロが、戻ってきた時に罰を受けるのは半ば当然。そんな見方も出来るのかもしれない。現実の戦場ではそうした輩は営倉入りどころかすぐさま銃殺。アムロはむしろ幸せだったのかもしれない。

 恵那のあんな巻き付けただけのものがどうしてずり下がって来ないのか、という根元に関わる問題について考えてみたくなる「ワイルダネス」は単行本が出たばかりのところから続いて日本人一味の国境越えがクライマックス。追われるもののそこはスティーブ・マックィーンでも成し遂げられなかったフェンス越えを果たしてどうにか追っ手を振りきりアメリカへと侵入したのかどうなのか。デニースにデシーレの女2人は単行本では逆さになって踊っていろいろ麗しいものを見せてくれていたけれど、本編では望楼に立って見張って逃げられたと分かって遁走の用意。しかしあっさり殺ってくれちゃったりするあたり、ロベルタ以上におネジが飛んでたりするのかも。長く連載は続いていても展開自体はゆっくりだった物語にこれで一気呵成の展開はあるのか。来月が楽しみ。載るよねちゃんと。

 でもって「ヨルムンガンド」はヘックスちゃんの過去話。そうか陸軍士官学校出のエリートだったけれども梯子を外され憤っていたところに彼氏が911で死んでどっかでネジが外れてしまったんだろうなあ。軍を辞めCIAに入った先で前にココ・ヘクマティアルと一悶着合って、そこで今はもういないエコーとやらを挟んでヘックスとココとの間になにかいろいろあった模様。満月の夜に眠れなくなっちゃうほどの。一方ではCIAの億で人形使いことブラックはヘックスを牽制。実はブラックとつながっていたアールの身辺も慌ただしくなる中でヘックスがいったいどんな攻撃を仕掛けてきて、その過程でアールはどんな道行を辿るのか。こっちも楽しみだけどこっちは載る例が多いから心配はしていない。「BLACK LAGOON」も含めたガンアクション3銃士の揃い踏みに期待。「ゲッサン」はなくともそれだけは守って欲しいとお願い。

 ウルトラギャラクシーな大怪獣バトルのお兄さんが体操するってんで浜町スタジオへと向かう途中の公園で、近所のあれはたぶん中学生らしい一段が運動会めいたことをやっていたんで通りがかりに見物。さすがに写真は撮れないんで我慢しじっくりとは見ず横目でチラチラと眺める中で気になったのはやはりブルマーではないといったあたりか。小学生だった途中からブルマーなるものが蔓延り初めて中学生では全盛だったけれどもいつの間にかとんでもない品物と呼ばれるようになって潰えてしまった運動着。21世紀の現在で果たしてどれだけの学校が正式に採用しているのだろう。調査しようにもすれば色々謂われそう。悩ましいったら悩ましい。

 というよりブルマーって運動着には、歴史をひもとけばとてつもなく伝統があって女性解放といった歴史の上でも重要なものらしいんだけれども、それって提灯になってた奴でいわゆるブルマーとは似て非なるものだからなあ。そっちは死滅してくれてよかったんだけれども現代ブルマーについてはやっぱり維持されて欲しかったかも。体操を見て背後に流れる中西圭三さんの音楽にこれは中西さんが自分で唄いながら踊るべきだと思ったのは内緒。出てまた公園にいくと今度はリレーをやっていて男女混成で女性がコーナーをものすごい勢いで走っていく様を横目で見る。なあるほど。

 走っていたのは「究極超人あーる」でも屈指の運動家だった大戸島さんごとはとりあえず逆な娘で、大戸島さんごとは逆にいろいろ弾んでいたけど割に太めなタイプだったんで違うところも揺れていた。最終ランナーでトップを走っていた青がゴール手前で転んだのは恰好付け? それともマジ? 聞いてみようにもどこの学校か知らないし。裏なサイトにいけばコケた理由とかが自慢げに語られていたりするのかな。あそこでコケるのが恰好言いってまるで中二な奇の衒い。でもねえ。10年後くらいに何であんなことしちまったんだろうと後悔することになるんだよねえ。気を付けようねえ中二な病には。

 「あーる」といえば登場したのが史上最強の凶器にして体力向上の道具にもなる粉砕バット。その威力その形状のどれをとっても魅力的に映り、実際に過去に幾人もの人頭を粉砕して来たにも関わらず、未だ販売が規制されたことがないバットがずらりと120本もならんでいるとあって見ない訳にはいかないと買ってしまった「ベースボールマガジン」の2009年7月号は「一冊まるごとバット特集」ということで冒頭から元中日ドラゴンズの谷沢健一さんがバットについてバット名人の久保田五十一さんと対談。最初は圧縮バットを使っていたけど禁止になってしまったのをきっかけに、当時は今ほどマイスター扱いされていなかった久保田さんのバットを使い始めたらしい。

 そんな逸話のあとにはこれまた中日ドラゴンズOBの大島康徳さんが駒田徳広さんと対談していたりと70年代、80年代の野球に土地勘のある人なら読んでなかなかに楽しそう。落合選手はそうか柾目のすきっとしたのじゃなくってぐちゃぐちゃっとした目のバットを好んで使っていたのか。そして120本の一挙掲載は見ていると同じバットでもさまざまな形状があることがよく分かる。ぼいんとして太めのバットもあればイチロー選手のように逆三角形の細身のものもあったりといった具合。ひとつひとつに使った選手との辛味で物語が生まれそうなところは野球というスポーツがいかに個人の力量にかかっているかといった辺りとも繋がりそう。サッカーのスパイクを100個並べたところでそこには選手ひとりひとりの極端な個性や道具に対する愛着から染み出る物語って生まれて来ないから。その意味で野球ってやっぱり特別なスポーツなのかも。


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