縮刷版2008年5月上旬号


【5月10日】 後藤の日。特車2課隊長の日。戦争なんてとっくに始まっているのに前線から遠い安全地帯で楽観主義に凝り固まって阿呆を晒している輩にビスケットハンマーを。というわけで現実から気持ちを遠ざけ涅槃に浸るためにひたすら「紅」第6話「貴方の頭上に光が輝くでしょう」を繰り返して鑑賞、夕乃登場で本当に気分が涅槃に片足突っ込んだような気持ちになれるのは肉体のみならず声音にもそれだけの破壊力を秘めているからなのか、恐るべし裏十三家崩月流格闘術。妹の散鶴もきっととてつもないミラクルボイス持ちに育つだろー。真九郎さんも大変だ。

 しかし繰り返し見てもまるで飽きず次の展開が分かっているのに楽しめるのは見れば見るほどに感じる新しさがあるからで、例えば冒頭の町内会かお祭りの実行委員会と真九郎との会話なんかでも、五月雨荘にいる他の2人のことを説明しようとしている辺りのぶっちゃけるでもなく、かといって包み隠すでもない含みほくそ笑むようなニュアンスが、声音とあと言葉の重ね方なんかに伺えて真九郎って人物の、真正直でもないけれど悪人にはなれない性格なんかが浮かんで来る。演技する沢城みゆきさんのこれも力量か。廊下で夕乃に電話をかける場面の尻に敷かれっぷりも実に尻に敷かれてたし。そんな様をしっかり絵にして見せた作画スタッフも素晴らしい。

 演技と言えばぷちこな沢城さんの八面六臂ぶりに隠れてしまった感もあるでじこな真田アサミさんも、実はな真価を多分に発揮。エロっちい割にたびたび真理を口にしてはいたいけな紫を、まがった方にも真っ当な方にも導く役を実に好演してる。真九郎が闇絵をおいかけ出ていった部屋の中で紫と2人残された時に「うまくいかないねえ」って喋った口調は、その言葉とは違ってあんまり落胆してはなく、状況を楽しんでいる風のニュアンスが感じられたし、紫の歌のうまさを誉める口調は、優しげで子供を不安にしないで気持ちを前向きにさせようって姉貴的な包容感に溢れてた。夕乃にぺこぺこする真九郎の姿を解説する口調は意地悪さが滲んでた。

 ああいったセリフを買いて言わせる脚本の人も凄いっちゃあ凄い。廊下で紫に男と女の異性に対する感覚を解説する場面なんかは、本当なんだか嘘なんだか分からないイタズラな気分を匂わせながらも割と真理に近いことを言ってたりするからなあ。他にも学校で真九郎から架空のミュージカルを見に来てと誘われ、「どうしよっかな」って迷いながらもその気を見せたりする銀子を演じる升望さんの声音に可愛らしさがいっぱい。それにぴったりの横目でちらっと見てくっと笑う銀子の表情の素晴らしさと合わせて何度も何度も見てしまう。

 闇絵さんに抱きかかえられているダビデのゴロゴロと喉を鳴らす声も良いなあ、聞いてて幸せな気分になって来る。猫触りたい。闇絵の歌声に尻を向けて去っていく時とか、紫に松の木はお前がやればいいって言われて映し出された時とかに妙な人間くささを見せないのも良い。「DARKER THAN BLACK」のマオじゃないんだし、それやっちゃうとリアルの次元が1枚づれてしまうから。猫はどこまでも猫ってことで。あと丸宝公園ってネーミングとか。並んだ委員会の3人の中央の背広を着て眼鏡をかけた人といったいどんな関係が? とまあそんな感じで秒単位に堪能する部分たっぷりな第6話の完成度に今後の展開が追い付いているのか。原作どおりの激しい展開に溺れてしまうのか。等々を想像しつつ残る話数を楽しもう。何が起こるか分からないからリアルタイム視聴は必須だな。

 同様に「マクロスF」もリアルタイム視聴が必須な感じ。いよいよ始まった「フロンティア」とバジュラとの対決に繰り出すアルトや仲間たちの命運は。ミシェルがマックスだとしたらミリアならぬクラン・クランと結ばれ「マクロス777」あたりで新たな旅へと繰り出すだろーから死なないとするとやっぱりルカが柿崎か。スカルリーダーってだけでオズマもやばいしなあ。そんな展開に加えてギミックにも楽しみ所。上に物をおくと信号が出るテーブルなんかはメディアアートの分野なんかで既にあったりするけれどもそれが実用に供された時に与えられる機能が、コミュニケーションの際の賞賛だったり祝辞だったり異論だったりといったものになるとはちょっと考えつかなかった。突っ込む相手はどうやって選んでるんだろう。最初にベクトルを指先でちょんとつけてからタッチ、かな?

 というわけでアニメざんまいでまるで本の読めない中をゆっくりと起き出し千葉へ。しばらく金沢系ばかり食べてたんで久々にCoCo壱番屋に入ってあの味を思い出しつつ「フクダ電子アリーナ」へと入ったら寒いさむい寒すぎる。これで5月なら6月はいったいどれだけ寒くなるんだ8月なかは零下になるんじゃないか、ってそれはないけどでも寒い。これで試合も寒かったらもう2度と蘇我へは足を運びたくなくなるところだったけれども瀬戸際を過ぎて瀕死な状態からどうにか三途の川を戻ろうとするあがきも出ていて熱い展開に。

 最初こそ左サイド偏重で右サイドバックに入った青木良太選手を使おうとせずサイドに張っても駆け上がっても中央からボールが出てこず無駄足になる場面が散見されて、頑張る青木良太選手が可愛そうになったけれども後半になると指摘があったのか逆に右サイドが活性化するよーになって、おかげで左サイドの負担も減ってバランスが発生。そして中央をディフェンスから1枚上がってボランチに入った斎藤大輔選手が守り奪い散らす動きで固めて安定感を出し、その周辺から左右前後に工藤浩平選手が走り回ってボールに絡んで相手をフリーにさせない。

 これまでだったらラインが下がり前戦が前がかりになって開いた中央を相手に席巻され迫られシュートを撃たれて破られていたものが一気に安定したのは流石に沢入ヘッドコーチ、なのかアレックス・ミラー新監督の差配のお陰なのか。とはいえなかなか得点に結びつかずいずれはって心配に、これは気持ちを景気づけなきゃと持ってた「iPod」でジェリル・ノームの「射手座☆午後九時 Don’t be late」なんかを鳴らし始めると途端にピッチの中が活性化、しているように見え始めたのはやっぱり歌のデカルチャーな力か。つでに坂本真綾さんの「トライアングラー」なんかも鳴らし同じ坂本さんの「ヘミソフィア」も鳴らしビートに乗せてて内心の応援気分を高揚させる。負ける気がしねえ。

 そして2度目の「射手座☆午後九時」の時に遂に得点。カウンター気味からレイナウド選手が放ったシュートがポストに当たったところに今日は1番の走り屋だった工藤選手が詰めてゴール! これはやっぱりラッキーミュージックだと以後も繰り返しシェリルさんの歌を聴きつつボールをゴールに「もってっけー!」、ゴールにボールが「とんでっけー!」と声には出さないけれども脳内で声にしてピッチを見続けてそしてようやくたどり着いたゲーム終了のホイッスル、初勝利! 遅すぎって気もしないでもないけどとりあえずつけた一息に、今後への期待もぐっと高まる。ありがとう選手たち。そしてありがとうシェリル・ノーム。もはやこれは欠かせないと今後は90分を通して脳内に「射手座☆午後九時 Don’t be late」を響かせ続けることにしよー。場内でもかけてくれると有り難いけど試合中にそれは無理だし。応援ソングにゃしづらいし。夕乃さんの歌をかけたら逆にどーなるんだろー。みんなへろへろ。相手もへろへろ。負けないならそれでも良いかな。


【5月9日】 見ているうちに笑いが噴き出し止まらなくなってそのまま一気呵成に30分。終わってすぐさまどんな反応が出ているのかを飛び起きて確かめずにはいられなくなるくらいに画期的で衝撃的で末期的で混沌的だったアニメーション版「紅」は、過去に数多あるアニメーションの突拍子もない回のうちの番付上位に置かれて21世紀を走り抜き、永遠の殿堂入りを果たすであろうとここに断言。並ぶのは伝説の「新世紀エヴァンゲリオン」の第24話「世界の中心でアイを叫んだケモノ」とか、「天元突破グレンラガン」の第4話とか「十兵衛ちゃん シベリア柳生の逆襲」のトリーシャvs十兵衛断崖の戦いが描かれた第話とかになるのかな。まあ探せば幾らだってあるけれどもその中でも「紅」第6話が頭を抜けて飛び出して飛び上がっていたりすることは間違いない。絶対に絶対に間違いない。

 もう爆笑のシチュエーション。町内の祭りの余興に出てくれと頼まれた辺りはまあ普通に見えたんだけれどそのあたりでくねくねと踊る真九郎の動きが不思議だと言えば不思議だった。でもって表で舞台に立って良いかを紅香に尋ねる場面で横から入ってきた弥生さんの動きが二次元だった。1枚ペラが横にスライドする感じ。動きのリアルさで売ってる作品にしてはあまりにギャグ的で記号的な動きに今回は違うぞと感じさせてさあいよいよ始まったお歌の稽古は上手い人下手な人のカオスから子供ならではの残酷な言葉を口に出す紫のちゃんちゃさが輝き、追い込まれた真九郎が助っ人を呼ぶ場面で環が紫に男の甲斐性のなさぶりを教え追いつめられた闇絵がプライドをかなぐり捨てて教えを乞い、受けた弥生が寡黙な忍びぶりをやっぱり払って爆発する。

 普段が普段なだけにこの2人とすっとびぶりが目に輝いたけれどもそれを上回って夕乃さんの超音波ぶりが炸裂して脳内破裂。やっぱり子供ならではの率直さで突っ込む紫だったけれども返す夕乃の目に沈黙。おそらくはそこに夕乃が秘めた裏十三家のひとつ崩月家の闇を渡り拳を血に染めて来たパワーが込められ表を歩む紫にぶつけられたんだろー、いや単に普段から真九郎と一緒に住んでる紫に女の情念を夕乃が炸裂させただけなのかもしれないけれど。そしてさらに始まる狂乱五月雨荘日記。うぷぷぷぷぷぷぷぷって含み笑いが喉まで挙がり腹筋を奮わせそして一気に噴出へと至って真夜中のひとり部屋に異様な空気を沸き立たせる。似た光景がおそらくは同時刻に千葉の全域で繰り広げられ、遅れて神奈川でも吹き上がったことだろー。取り残された東京はご愁傷様、ってまあいずれすぐさま遅れて見られるから大丈夫なんだけど。

 松尾衛監督には「ぐっじょぶ」と切彦ちゃんに代わって喝采。というかそのあまりの耽美な暗さにほとんど見ていなかった「RED GARDEN」との共通性を取りざたされて、これは改めて見ないことにはと強く想った次第。問題は値段が高すぎることか。セリフなら間合いを作れたけれども延々と歌と掛け合いの続いた今回のエピソードで、いったいどんなプレスコが行われてそれに遭わせてどう絵がつけられていったのがが最大の興味。舞台なら観客との間で呼吸を計りながらセリフや歌のタイミングを操作し誘導できるけれども、テレビの向こうにいる様々な番人相手にまず演技するのは大変なこと。それがアニメーションとして絵がつけられて来た時に、演技の間合いをそのまま動かして視聴者に感覚のズレを引き起こさないかが気になった。

 でも杞憂。動きがあってポーズがあって睨みがあってと言ったキャラクターの演技力、つまりは演出力と声優さん自身の演技力があって、見ている人を引きずり込んでいったってこの回についてあ言えそー。その意味でもやっぱり歴史に残るエピソード。繰り返し見ても気恥ずかしさは抜けないけれど飽きないもんなあ。全体ではひとり蚊帳の外の銀子が可愛そう。学校で真九郎と話している時の声のトーンの可愛らしさといい、真九郎が紅香にひっかけられてたと知って憤るあたりの激しさといいあの頃の女の子の真理って奴がとっても出てた。すれっからしの環さん闇絵さんとは大違い、もちろんまっくろくろすけな夕乃とも。だから銀子には幸せになって欲しいんだけどなあ、原作はどこに向かって進んでいくことになるのかなあ。そこらあたりは町内会のうちの1人として声を担当していた丸宝さんって人に聞くのが早道か。プレスコなだけに良い味、出てたねえ。

 しかし昨晩は何というかアニメの連続超新星。「×××Holic」じゃあ耽美なキャラクターたちが何故か麻雀卓を囲んで本格的な麻雀を延々と繰り広げるだけのエピソードで、飛び交う専門用語は麻雀素人には分かりづらかったものの緑一色だの国士無双だの大三元だの何だのと役が乱れるその様に、画面を消したらそこは「哲也」か「カイジ」か何かと間違えそうな気さえした。なおかつ登場したのは片山まさゆきさんのイラストが入った入門書。すっ飛ぶ飛びの擬音も「づがーーん」といった感じに懐かしさ炸裂で、それをCLAMPさんのキャラクターでやられてしまってもはやアニメにやれないことはないって誰もが思ったんじゃなかろーか。同じCLAMPさんってことで次はナイトオブラウンズのスザクとジノがルルーシュとC.C.を相手に卓を囲んでチェスならぬ麻雀で勝負をつけるシーンとか、出てきたら愉快。でもそこは本場の中華連邦からシンクウが横入りして全部持っていくんだろうけど。あと神楽耶とか何となく強そう。

 でもって町田へ。3月に「幕張メッセ」で開かれた展示会の「フーデックス」で見たマテ茶の飲み方の楽しさ格好良さと何より唄われた効能に興味を持って町田で日本茶をメインにしながらマテ茶も茶器を含めて扱う「老舗ひじかた園」って所に出かけていろいろ教えを乞う。あのホセ・ルイス・チラベルトも来日した際に立ち寄ったとゆー見せなだけに置いてある壺もボンビーリャって言われるスプーン型のストローも、そして何よりマテ茶の葉っぱも充実していて話を伺ったついでに買って帰って家で嗜むことにする。ビタミンミネラルが豊富な上にカフェインならぬマテインといった成分も入っていて健康に抜群。なのに日本であんまり広まっていないのは飲み方が知られていないからってことで、お店の人からお湯で出すのと水で飲むのと両方の飲み方を教わった。

 壺に6分か7分ともうほとんど中が葉っぱで埋まっている感じに葉を入れてから口を手のひらでふさいでしばらくシェイク。それによって細かいところが手のひらの口側にたまり大きな部分は底に残ってお湯をそそいだ時に急激に茶が出たりすることもなく、ボンビーリャの小さな目に茶葉の細かいところが入って詰まることも防げるとゆー。南米陣の知恵袋。

 それからカップの中の茶葉を片側に寄せてそこに出来た空間にボンビーリャを差し片側を乾いたままにしながらお湯を注いでちゅーっと吸って吸いきってまず1杯。そこから再びお湯を注げばまた飲めるって寸法で、これを次から次へと手渡していって1杯づつ飲んでいくのが南米流のコミュニケーションなのだという。同じ吸い口を使うんで抵抗もある人もいそーだけれど、考えていれば日本の茶道だって同じ茶碗で回しのみをしてたんじゃなかったっけ。お店の人が言うにはキリスト教を源流にワインを飲み回した作法が洋の東西へと別れ伝わったんだということで、そんなに驚くことでもないらしー。なるほどなるほど。味はしっかりとマテ茶。というか大昔に缶入りのドリンクとして飲んだマテ茶よりも渋みがあって深みもあって普通にお茶を飲んでる感じに近いかも。

 お湯で出す「マテ」ではなくって冷水をそそいで出す「テレレ」だと味わいもまた違うみたいだけれどもこれもミントに近いハーブを混ぜたものだとスーッと口に入って来るからマテ茶ならではの味もまるで気にならない。夏ならこっちのテレレがおすすめ。カップに茶葉を埋めて買ってきたペットボトルから水を足し足しちゅうちゅうとやれば1日だって楽しめる。喫茶している作法が気持ちを刺激し成分が体に働く一石二鳥。夏はオフィスで冷マテ茶。できれば美人OLのカップから同じボンビーリャで回し飲みしたいんだけれどさすがに日本じゃあ広まらないよなあ、間接キッス。

 小田急線を使ったついでだとばかりに下北沢で降りて三島由紀夫賞候補にあがった藤谷治さんが経営する書店「フィクショネス」をのぞいてご挨拶。該当の本を買ってサインを頂き来週の発表が良い結果になることを祈念する。伺うとご本人もそうだけれども小学館の本が三島由紀夫賞とか芥川賞直木賞の候補になったってことは過去になくこれが初めてらしい、ってか芥川賞は文芸誌に掲載の短編が対象だから文芸誌のない小学館は最初っからお呼びじゃないか。三島賞は単行本でもオッケーなんだけれども小学館が大プッシュして世に出した嶽本野ばらさんが候補になった時も対象は集英社の「エミリー」と新潮社の「ロリヰタ。」だった。「二都」って中央公論新社から出た本もあったからこっちだって入って不思議はなかったんだけれど小学館からデビューし小学館で文芸を頑張ってきた藤谷さんだけあって小学館から出た作品が候補になったことには当人として意義があったんじゃなかろーか。そして小学館にとっても候補になり得るんだってことが分かって文芸にだって力を入れようって動きが満ちれば新たな勢力として台頭して来てくれる、かも。「ガガガ文庫」で人気の人を文芸にスライドさせて売り出す、とか。田中ロミオとか。中村九郎とか。川上弘美さんとかロミオをどう読むか興味あるなあ。


【5月8日】 渋い渋い渋すぎるぞアレックス・ミラー新監督。誰? ってのがまず先に立つくらいに知名度的には乏しいけれどもキャリアだけ見れば直前の職があのリバプールFCのヘッドコーチ。チャンピオンズリーグで準決勝まで残りプレミアリーグでも上位4チームには入る名門にして古豪にあって、ころころと代わってきた監督たちの下で10年に渡ってそれなりの地位にいた人だから、ことフットボールの感覚については日本に今いる監督たちの誰にだって負けないものを持っているって言えるんじゃなかろーか。

 また今はコーチでも前にはスコットランドのプレミアリーグのチームで指揮を取り、96年から97年のシーズンでは「コベントリーシティフットボールクラブ」ってチームでコーチとして働き今は水野晃樹がいるセルティックの監督を務めるゴードン・ストラカンの下、コーチを努めて「就任時19 試合10ポイントのチームで、残り19試合で32 ポイントを獲得」したってんだからこいつは期待できる、っていうか期待させるためにわざわざ書き添えたとしか思えない記述なんだけれども、立て直す手腕にかけてはそれなりなものを持っているんだって証拠にはなるだろー。残り22試合もあるんだから33ポイントは固いね。ってことは今の2ポイントと合わせて35ポイント。うーんちょっと危ないかな。まあ期待するしか他にない。

 選手としちゃあセルティックじゃなくってレンジャーズの方で15年もずっと変わらずいたって所が気になる点。いくら水野選手が好きだからって背番号29のあのグリーンのストライプ入りユニフォームなんか着ていったら途端に不機嫌になりそーなんで注意が必要かも、ってかセルティックとは縁がありそーなジェフユナイテッド市原・千葉がいったいどーゆールートでリバプールのヘッドコーチなんかと接触を持ったのかが気になるところ。代理人が間に入っていたのは確実みたいだけれども今だってなかなかに万々歳なリバプールを出てまで日本に来たがるには、それなりの思い入れがあったかあるいは相当な金額を張り込んだか。

 まあ真相は分からないけど想像するならあれで結構リバプールも中でごたごたしているってことなんだろー、帳尻は合わせたけれども途中は今ひとつだったし。クラウチとか試合に出られず腐ってるし。まあ良いやその辺りはサッカー誌のリポートに任せてとりあえずは、こちらもどーゆールートかは知らないけれどもヘッドコーチに来て代行監督も務める澤入重雄さんに10日の京都サンガ戦を是が非でも勝ってもらおう。せめて引き分けを。トヨタ自動車の社員から選手になった苦労人。ゴードン・ミルン監督やアーセン・ベンゲル監督の下でプレーしたこともある人だから、サラリーマン経験を生かして忍びつつイングランド流なりリバプール仕込みの監督ともうまくやっていける、かな? やってくれないと困るんだ。

 読んだのはもうずいぶんと昔の話だから藤野千夜さんの「ルート225」の結末がどんなだったかは覚えていないけれども何かの拍子でズレてしまった世界へと迷い込んでしまった姉と弟が、それぞれに前の世界で抱えていた問題が解決していたり逆に複雑になっていたりする状況に直面し、逃げ出したいと思いこのままでありたいと願いながらも生きていく確かさをつかもうと頑張る話だったって記憶しているけれどもどーだったのか。なので志村貴子さんが漫画で描いた「ルート225」(シリウスコミック、648円)を読んでなるほどそーゆー話だったかと記憶を掘り起こしつつ、文字で読んだ時に感じたどこか非現実的な日常を浮いてしまったような感じで生きていく姉と弟の迷いや不安が、絵だと表情なんかも含めてビジュアルで迫ってきて心に刺さる。

 みずみずしくって健気でそれでいてどこか残酷な所も持っている子供の姿を描かせては誰にも負けない志村さんの絵柄やキャラクターの動かし方とこれほどまでにマッチした小説もないって言えそう。新潮文庫で文庫化された時に確か志村さんが表紙を担当したんだっけ、選んだ文庫の編集者も慧眼だったけれどもその線で漫画化を進めた講談社の「月刊少年シリウス」の編集の人も頑張った。思い返せば「少年と少女のポルカ」も漫画家の岡崎京子さんのイラストが表紙絵で、心や体の悩みに迷い苦しみながらも懸命に生きている少年少女の姿が本編にぴったりのトーンで描かれていたんだっけ。この線で漫画化が実現していたらって想うけれども刊行からわずかに数ヶ月の後に事故に遭い、長い療養へと入ってしまって難しそう。あるいは「放蕩息子」の志村さんなら、岡崎さんにも並ぶトーンで漫画化を達成してくれるかもしれないなあ。ご一考を。

 子供たちならではの大変さが描かれているって点では水森サトリさんの「星のひと」(集英社、1600円)も近いかもしれないけれども藤野さんが徹底して少年少女の目線からとらえた社会や世界を描いているのと比べると、連作のように話が広がっているところが「星のひと」の特徴であり可とも不可とも言えそうなところ、か。発端は中学生の少女で仲間を作りあるいはハブにしたりして日々を立ち位置の確保をキャラ作りに明け暮れるいかにも現代の子供たちって感じの中にあってややウンザリとしていた所に、同級生の男の子からちょろりとした関心を持たれてしまってやや戸惑う。同級生の女の子が片思いしている少年だから手を出さないようにと釘をさされたばかりでこの状況は面倒を招くこと必死。なのにそうした社交に明け暮れる女子を気にせず少年があっけらかんとして迫る。

 少年の家に隕石が落ちて大騒ぎになっても事態は変わらずいっそう複雑に。けど隕石の騒動が気持ちを高揚させたのか、事態を打開するイベントが起こってそこでちょっとだけ前に進むことができたという1話目の次がいきなり少年の父親が主役の話になってしまって、会社では汲々として家でも一流会社に勤める妻の陰になってひいひいとしていた所に隕石の落下。それを見て父親が母親を妊娠させてしまって堕胎もやむなしとなっていた時にそれはダメだと叫んだ隣家の少年が、ニューハーフとなってやって来ては一家をさらに混乱させてそして極めつけの事態を招いてしまう。あんまりハッピーエンドではないけれど、上っ面だけの幸福よりもさらけだされた悲劇のあとに来るさっぱりとした空気の方を尊ぶならばこれもありなのかもしれない。

 でもって次はニューハーフの一代記となり、最後に少年の喧噪の話が入るんだけれどそれぞれにいろいろなことが起こるきっかけになっている割には隕石の立場が弱いのが気にかかるところ。別に隕石なんて思わせぶりなことでなくても何かの事件だとか事故だとかで良いよーな気もしないでもなかったけれどもありふれた事態で起こる変化はやっぱりありふれたものにおさまりがち。宝くじよりも希な隕石だからこそ起こった変化たちなんだと見ておくのがここは正しいのかもしれないなあ。本当はやっぱり子供たちの社会に起こる変化に焦点を合わせて欲しかったし、そうでなくてもラストの1篇は徹底して少年の立場から迷い気づく様を描き抜いて欲しかった。それでこそ自覚ってものが湧いて出る。まあ良いや。1つの事態が玉突き的にもたらす変化って奴もそれはそれで面白い。ここから更にどんな変化が起こり広がっていったか、なんてことを想像しながら楽しもう。んで隕石は何処に。


【5月7日】 うざいうざいうざすぎる。子供にゃ無理で大人にゃ大人の解決法があるんだってあれほど言い含めておいたのにオレンジ頭のガキが出しゃばっては事態を複雑な方向へと持っていく。その前も筋を通して納得させようとしても聞く耳持たない感じにぎゃあぎゃあと否定するばかり。見ているだけでうざったさ1億倍なキャラクターが例えば途中で我が身の至らなさを自覚しつつ事態を良き方向へと運ぶような成長を見せれば納得もできるんだけれど、そんな深さと厚さをキャラクターに入れ込むだけの手間暇がかけられている感じもないしなあ、主人公とか相変わらず三下扱いだし。ってことでうざったさ爆発なキャラとみすぼらしさ炸裂なボスとゆーアンバランスな構図の中でヒロインも活躍することなしに物語はしばらくだらだらと流れていくんだろー「クリスタルブレイズ」。三木眞一郎さんも大変だあ。

 すでに発表になってた第21回山本周五郎賞候補作に続いて第31回三島由紀夫賞候補作も決定。って言っても読んでる作品はほとんどなくって誰が取るかはまるで分からない。並べると本谷有希子さん「遭難、」(講談社)と藤谷治さん「いつか棺桶はやってくる」(小学館)と日和聡子さん「おのごろじま」(幻戯書房)と田中慎弥さん「切れた鎖」(新潮社)と前田司郎さん「誰かが手を、握っているような気がしてならない」前田司郎 (講談社)と黒川創さん「かもめの日」(新潮社)が候補で記憶では確か前田さんのは読んだかなあ、でもほとんど記憶にない、結構難しかったような。そんな中から想像するならあちらこちらで評判になっているらしい黒川さんの「かもめの日」が取りそうな印象。個人的には「アンダンテ・モッツァレラ・チーズ」からこっち、楽しい作品を書き続けている藤谷治さんの候補入りが嬉しいところで候補作は未読なだけに下北沢で藤谷さんが運営している書店「フィクショネス」へと行って買ってサインも頂戴したいところ。受賞すればさらに価値も出るのかな。発表は15日。楽しみたのしみ。

 それにしてもごろりと若返っている選考委員たち。なるほど全員が芥川賞の受賞者ではあるけれども受賞時の記憶がある人たちばかりって所からも新しさが感じられる。まあ川上さんなんて年齢的には50歳の大台に来てたりする訳だし辻原登さんは還暦過ぎだし町田康さんだって小川洋子さんだってオーバー45歳。だから普通の公募の文学賞で選考委員をやってて不思議はない歳ではあるんだけれども方や重鎮達が居並ぶ芥川賞に対抗軸として唯一立てる賞なだけにやっぱり若さがぐっと目立つ、とくに平野啓一郎さんはまだ30歳ちょっと。最近の活躍ぶりってのも結婚以外はあんまり聞こえてこないだけにここで選考委員に入ってしまうと何だからあがりって感じすらしてしまう。まあ文筆につても未だに続けていて新刊も出るみたいなんでとりあえず読んでみて、今の立ち位置を把握しつつその若々しい感性がどんな了見からどんな人たちを選ぶのか、お手並み拝見といきましょう。

 もってっけー! って言われたからでもないんだろーけど皐月午後9時ちょっと前の秋葉原界隈へと明日発売なシェリル・ノームのCD「ダイヤモンドクレバス/射手座☆午後九時Don’t be late」を早売りしてると辺りをつけて行ったら「ゲーマーズ」本店は早々と品切れ。それならばと「ソフマップ」のCD館に行ったらこちらにもなくだったらとちょい出て「とらのあな」をのぞいたらやっぱりゼロ。いつもの石丸電器はすでに閉店だったから寄れず最後の望みと「とらのあな」の隣の「アニメイト」に行ったら何と平台に平積みの状態で残っていたんで問答無用に確保。ポスターも付いててこれを貼って「もってっけー!」って音楽をガン鳴らせば狭い我が家も「マクロスフロンティア」で銀河を渡る気分を味わえる……訳ないか。どう見たってただのオタク部屋だ。せっかくだからと坂本真綾さんの唄うオープニングのCDも購入。結局はこれと「コードギアス 反逆のルルーシュR2」とあと「紅」がいろいろと買ってしまう3作品となりそー。「クリスタルブレイズ」はきっと何にも買わないだろーなー。犬と亀なら飼っても良いけど。

 シェイクリイを真似て「連敗のクゼがまだ辞めない」とボヤいていたら明けて解任の報が出始め待っていたらやっぱりとゆーかよーやくとゆーかヨジップ・クゼ監督との契約を解除したとチームが発表。んじゃ後任は? ってことになるんだろーけどはっきりと決まらず話だと越後和男さんって名前も挙がっているけど「ジェフリザーブス」の監督でもありながらJ2ではないJFLの他のチームを相手に2勝2分6敗と芳しくない成績を推進中。そりゃあ決してプロではないけれども選手の多くはトップチームに入団してから半ば修行として出されている人たちで、実力的には他のJリーグには及びすらすなかった人たちばかりで作るチームと同じであって良いはずがない。

 なのにこの成績は何だろー、勝負を度外視して育成に偏重しているって訳でもなさそーな以上はやっぱり監督の手腕にも何かがあるって見るのが妥当って気もしないでもない。それでトップチームを率いられるのか。ちょっと悩ましい。むしろ戦績だったらジェフレディースの上村崇士さんの方が今期無敗で走っているだけに上。だったらいっそとはいかないのが女子と男子の違いだし、ライセンスの有無の問題だからなあ、里内猛さんだったら文句無しにS級持ってたんだけど川崎フロンターレに行ってしまったし。レディースを鍛え上げたあの腕が今こそトップに欲しかった。前体制は選手層にとってもそーだし指導者層にも大きな禍根を残したなあ。ここからの回復は容易じゃないけどでもそこは耐えて忍んで是非に建て直しを、三顧の礼も土下座も辞さずに詣でよ浦安へ。無理だよなあ。

 連休明けのリハビリも兼ねて銀座にある「メゾン・ド・ミュゼ・デ・フランス」ってところで紙製のマリー・アントワネットのドレスを見物。絵画に残るマリー・アントワネットの衣装を現代に再現したって触れ込みだけれどそれが紙に印刷で作られているてのがみそ。何でまた印刷なのかはここん家を運営しているのが大日本印刷だからってことで開館の5周年を記念する何か目玉を考えているうちに、マリー・アントワネットの衣装を作ろうってことでせっかくだから紙でやろうってことに至ったみたい。至ったもののそこからが大変でいったいどういう素材にどういう印刷をすれば良いかって考えたみたいだけれども流石は巨大印刷会社、そーした方面に賢いディレクターがいてレースも白テンの毛皮もビロードもシルクもそんな質感風合いをもった紙にシルクスクリーンでコートをしたりフロッキー加工でレース模様を浮き出させたりといろいろテクニックを駆使して作った用紙を切り取り縫い合わせ張り合わせてようやく完成。見た目はなるほどブルボンなドレスが出来上がった。

 聞くと結構な経験と勘って奴が働いているみたいで技術だITだといっても最終的には人間のリソースとノウハウって奴が物作りには必要なんだってことを、ちょっと前に尋ねたアルミを板金加工してアタッシェケースなんかを作る「エアロコンセプト」なんかも含めてここのところ思い知る。とはいえ世間じゃ合理化だ何だと喧しく、言論の府であり言葉の守護者であるべきメディアから校閲が消えビジュアルを司る整理すら排除されていくだろう流れもあったりとなかなかに大変。合理化によって損なわれる信頼はもはやぜったいに取り戻せないことを知るべきなんだけれども目先の成績こそが重要って近視眼的なスパンで動く今時の輩にゃあそれこそそんなの関係ねえ、だからなあ。滅びは近いと。その点で大日本印刷は職能の重要さを認めて雇用しその凄さを社長の人も認めて見物に来たってんだからなあ、羨ましいというかそれが当然というか。人の器って奴は世の中を決して欺けないと知るべきだね。誰とは言わないけれど。


【5月6日】 ゴローの日。野口か堀川か稲垣か淡海か柾かムツかは人それぞれ。ムツは違うぞ。ようやくやっと録画分も含めて「ソウルイーター」を鑑賞、絵として完璧、でもまだ物語としては? な感じは単行本の1巻2巻辺りでも感じたことで設定をゆるりとは始めたものの決定的な悪との出会いがまだなくって対立軸が立たず見ていて何に感情を添えれば良いのかが分からない。これでもう少し経つと魔女の一味が跋扈して来てソウルイーター達を相手にバトルを繰り広げてくれるんで面白くなるんだけれどもそれまでは、圧倒的なハイクオリティの絵とか動きを楽しんで味わうことにしよー。キャラだと二丁拳銃のトンプソン姉妹の姉貴の方が見た目的には一番かなあ、でもあれで妹より胸小さいとか。どんなだ妹。

 連休中で今ひとつ分からないもののとりあえず曜日的には締め切りが来ているかもしれないと秋葉原まで出向きヨドバシカメラ下にある「VELOCHE」で仕事で福田和也さんの「旅のあとさき ナポレオンの見た夢」(講談社)をぺろぺろと読み始めたら面白いおもしろい。ナポレオンの評伝みたいなんだけれどもそれはあくまで下地みたいなものでそこからあちらこちらに脱線しつつ芸術文化に軍事外交に文学歴史ときてそしてワインにフランス料理といった福田さんお得意の分野に関する知識が津波のよーに開陳されてページを開くたびに新しい発見があり驚きがあってもっと知りたいって渇望に襲われる。

 例えるなら人間ポータルサイト、それも極度にチューニングが施されて情報の質が果てしない程に高められた。例えばネットの検索サイトだと「ナポレオン」って入れて検索しても上位に並ぶのは百科事典の項目だとかデリヘルやソープランドといいった風俗営業の店名ばかり。何でまたナポレオンが、ってことになるけどまあそれはそれ、強うそうだってことで。もちろん辞典で業績や生涯を知ることはできるんだけれど、そこから先に辿ってもせいぜいがフランス革命かその辺りにまでしか話しは広がらない。あらゆる情報をフラットに並べる検索サイトは便利なんだけれども情報の質としてはやっぱり薄っぺらだ。

 これが人間になるとまるで違う。何十年にもわたって知識をため込み経験を重ねた人間に「ナポレオン」と入力した時に飛び出して来るのは単なる評伝だけには止まらない。偉人に連なる多方面に及ぶ教養だ。それが証拠に「旅のあとさき」って本ではナポレオンの足跡を尋ね歩くて大義名分のmとに、生地コルシカ島から観光都市ニース、ワインの郷ブルゴーニュを経てパリへと至る旅程が綴られているけれど、コルシカではボッティチェリのやティツィアーノを直に見られる幸福を喜び、日本にナポレオンを最初に紹介したのは頼山陽でその言説を見て幕末の志士たちは刺激を受けて戊辰戦争へと至った可能性を示唆し、ナポレオンの野望を2度潰したネルソンの偉績を示してそんなネルソンに憧れながらも精神性も機能性もまるで及んでいなかった日本海軍のだらしなさを撃つ。

 ニースじゃあ有名な「ホテル・ネグレスコ」を紹介し南仏では土地の料理のブイヤベースを讃えブルゴーニュに行けば当然のよーにワインを嗜み、フランスに根深い学歴主義を冷やかしつつ植民地の統治方法に文句をつけつつパリへと至り、やっぱり三つ星レストランの皿と酒の絶品ぶりを語り倒す。いやもう舌を誘われること誘われること。そんな合間にしっかりと、苦学して成り上がり、戦争に勝ち抜いて頂点を極め、そして敗れ去って表舞台から消えた希代の英雄の生き様を見せてくれる。

 ナポレオンのすべてが分かる訳じゃあないけど、もっと知りたいと思うんだったら「ヤングキングアワーズ」で連載されてる長谷川哲也さんの漫画「ナポレオン 獅子の時代」を読めばナポレオンの凄さも至らなさも周囲の将軍たちの凄まじさもたっぷりと楽しめる。漫画じゃなくても評伝を読めばいくらだってナポレオンのことを知れる。ようは興味を惹かれるかどうか、ってところで「旅のあとさき」はナポレオンへの興味を誘い、ニーチェにデュマへの興味を起こし、軍事に外交を学ぶ必要性を感じさせ、チーズにワインにフランス料理を嗜む粋さを教えてくれる。あらゆる場所へと通じる扉を持った人間ポータルサイト・福田和也の神髄を知るいには最適の1冊。ここまでの知識をため込むのにいったいどれだけの本を読みレストランで味わったのか。かけられた金額の多さはそんじょそこらのポータルサイトの時価総額だてかなわない、かも。

   断末魔でもこれにかけるとあってはやはり見守らなくてはいかないと「埼玉スタジアム2002」にJリーグの「浦和レッドダイヤモンズvsジェフユナイテッド市原・千葉」の試合をはるばる見に行く。遠いなあ。途中で食べたたこ焼きが楊枝で射しても持ち上がらないくらいに柔らかくってほとんどたこもんじゃだったのはそれとして、到着したスタジアムのメインデッキの上段のまさしくアウェー側の端っこに陣取り斜め方向からピッチを見下ろす位置でながめた試合は……試合は……試合は……走れないチームになってしまったなあ。前半こそパスも回って攻めあがれたしチャンスも作ったけれどもそれならいつもと一緒。問題はだからフィニッシュの精度なんだけれども奪ったコーナーキックのことごとくをファーにオーバーさせてシュートに繋げられずミドルシュートも枠の外。怖さがまるでない。

 それでもラインを高く上げて守ることはできたんであんまりピンチはなかったけれども後半に入ると前戦では戦わずかといって戻らないフォワードがいたりして中盤に穴が空きゴール前でフリーになるレッズの選手が出てきてそして1点、また1点と積み重ねられて万事休す。これが例えば巻誠一郎選手に佐藤勇人選手に山岸智選手に羽生直剛選手だったらしっかり戻って守備をしてそして奪えば一斉に前へと走ったんだろうけれどもそーした気合いが出せないくらいにチームに倦怠感が溢れているよーに遠目には見えて仕方がなかった。嘘でも前ならキックオフ前の円陣後、選手が四方八方にダッシュで散って気合いって奴を見せてくれたんだけれど今は前に走らず後ろにもいかないゆったりさ。それでも試合で走れば良いんだろ? って言えば言えるけれどでもしれは一種のスピリッツ、精神であって守り育むことで試合でも全員が同じ気持ちを抱いて走り続けられた。

 結果として誰かは走るけれども誰かは走らず滞り進めずはねかえされて押し込まれる繰り返し。もはや全員が守りに徹してカウンター勝負にかけるくらいの嫌らしさを見せるくらいにならないと、もはや降格は避けられないところまで来てしまった、まだ5月だってのに。まあこれで監督は退任となってそして代わりに誰かが来て建て直しを図ることになるんだろーけど、新聞なんかに挙がっている話しではここまで連敗を重ねてきた責任の一端を確実に負っているコーチ陣の昇格ってことになっているらしー。それで何とかなるならクゼ監督でだって何とかなるはず。何ともならないからこその交替な訳なのにまた同じ無駄をしよーとしている。

 無駄にするならいっそこのまま育成で走るって決めて、降格したにも関わらずペトロビッチ監督を残した広島のよーにJ2落ち後に連戦連勝を重ねて自信と技術を取り戻しつつ、人材を発掘・育成するくらいの割り切りを見せた方が良いんじゃなかろーか。いやしかしペトロビッチ監督とクゼ監督では違い過ぎるかどうなのか。逆に降格は絶対に避けつつ来年の狙うならばすぱっと切り替え誰かを呼んで来るしかない、ほらいるじゃないか浦安あたりでチームを良く知る人が2人も。あるいは浦和をはやばやと引き上げた怖い顔したおじさんが。どんな判断を下すのか。まあろくな判断を下しそうもないんだけれど。それが今年のジェフクオリティって奴で。貧して鈍すればさらに貧するものなのだなあ。


【5月5日】 子供っぽい人の日。僕の日か。アニメーションしか見ないし。漫画はいっぱい読んでるし。ハンバーグとエビフライが好きだしカレーが主食だし卵焼きには目がないし。でももっともそうじゃないニュースとプロ野球中継しか見ず週刊ポストが愛読で湯豆腐とモツ煮で冷や酒を煽り出汁巻き卵を口にしつつお新香で絞める同世代って今時ほとんど絶無だし。自分の親が今の自分と同じ歳の頃ってったらどんななっけ。なるほど日本人は(あるいは世界的に人類は)子供化しているって言えるのかもなあ、秋葉原とか歩いていても大喜びして闊歩する外国人が増えてるし。

 そんな秋葉原をぶらりと歩くと歩行者天国には相変わらずプラカードを持って歩くボランティアに1人寄り添い警察官もパトロール。なので爆心地の「ドンキホーテ」前あたりに行っても人だかりはなくたまにカメラをぶらさげた男子諸君を見ても囲んでいるのは普通の恰好をした女の子。派手目だと拙いんで一般人に擬そうしつつPR活動でもしてたのかな。そんなのを横目に先月にオープンした「カレーの市民のアルバ」を見物。まあそれなりに入っていたけどどうにも調理場から流れてくるあれはラードだろうか? 匂いが気になって仕方がない。夏場だと結構キツそーで改善を求める。でないと秋葉原ならではのスメルと重なりとんでもないことになるんじゃないか。あと添えられたキャベツがしなびてた。ざく切りして取り置いていやがるなきっと。だから水気が抜けてシャキシャキ感がない。食べると苦い。要改善。でないともう行かない。錦糸町は静かで綺麗で真っ当だったんでそっちに逃げよう。問題は静かさ故に無くなってしまう可能性もあることか。「ゴーゴーカレー」は偉大だなあ。

 秋原場にはあと「マンモスカレー」ってのが出来ていて1日くらいから既にプレオープンはしていたのが本格営業を始めたみたい。こちらはどちらかというと「CoCo壱番屋」系統の割にさらりとしたルーにご飯を添えてトッピングを選べるシステムでスタミナが付く豚シャブに卵をかけたカレーあたりがメインっぽいけど他にも多数のトッピングを選べるよーになっている。プレオープンの時によったんで客はいなかったけれど休日のオープン後はまあそれなりの入り。味についてはうーん、ルーがちょっと単調というかスパイシーさがやや足りないって感じがしたけれどもそれは金沢系のどろっとしたのばかりを食べつけているせいなのか。単に初日で煮込みが足りなかったからなのか。様子をうかがってまた行こう。辛さに酸っぱさが混じった感じのある「カレキチ」よりは好きかも。

 石丸電器で見かけた「HEROSE」のDVDボックスが15%オフだったんでボックスには入っていない1巻と合わせてポイントで購入。これだけで1万円しないのか。海外ドラマって安いよなあ。アニメーションが高すぎるんだけれど全世界でリクープ可能なドラマと日本の特定層がターゲットのアニメじゃあ市場規模が違い過ぎるんで仕方がない。いやむしろ世界の誰よりも早く世界の最先端を見られる価値って奴だと考えればむしろ安いのかもと心を納得させる。

 しかし「HEROSE」、流行っている割には内容についてまるで知らないのが何というか不勉強というか、元天才少年の日本人が米国で俳優になってヤッターと踊る番組だったっけ、イルカが大好きな女の子がチアリーダーの扮装をして調査捕鯨船に突っ込む話しだったっけ、違うけれどもまあそんな興味もこれありで暇を作ってチクチクと見よう。暇なんてないけど。でも某「ZAITEN」の6月号とか読むと大変そうなんでまとめて暇を出されるかも。「ZAITEN」2カ月連続か。何かが動いてる。

 行きと帰りの電車の中では高野和さん「七姫物語 第五章 東和の模様」(電撃文庫)をすらりすら。四姫のいなくなった商都ツヅミを得たもののそこから先が大変な七宮カセンを先に進めるべく動き始めた三宮五宮六宮との連合。七姫を引っ張り出して担ぎ上げ支えて来た将軍と参謀は目立ちすぎだと背後に引っ込み表では四人の姫達の和気藹々として調和へと向かう様が描かれるけれども一方では、覇権で引っ張る一宮に王道を貫く二宮(逆かな?)との確執が高まり一触即発どころかついに戦端が開かれたもののそこはそれ、互いに権謀術数に長けた姫たちだけあって動く四都連合に対抗するべく、長年の確執を覆って連合を結ぶ方向へと傾いたからたまらない。

 いくら四都が連合しても叶わないかもしれない中で引っ込んでいた将軍と左大臣の策が爆発、意外な展開へと進んでかくして東和を二分するよーな対立の構図がくっきりと浮かんできた。表立っての派手な戦いはないけれどもそれぞれの都市がそれぞれの立場や力を把握しながらどうすればどうなるかを思案し、策をめぐらせる様が戦略シミュレーション物のようで圧巻。もしかしたら今の平和ボケした日本あたりの外交なんて及びもつかないくらいに高度な策略って奴をめぐらせているんじゃないかって思えて来る。

 経済に外交に軍事を勘案しつつ目的を持って突き進む。それは何処も同じなだけにどこかで他を上回る成り他を引きずり降ろすといった策が必要になるんだけれども、どこもそれなりに策略家が揃っているからなかなか前には進まない。そんな中で我らが七姫カラスミちゃんはいったいどんな想いを見せるのか。その明るさで世界を変えてきた彼女が2人の男の野心だけに引っ張られた傀儡で終わるかそれとも、2人すら引っ張り込んで東和をひとつにまとめる軸になるのか。そんな辺りがきとt次巻あたりでくっきりと見えて来るんだろー。次はあんまり待たせないでね。

 ネヴィラ賞の候補になったってことはSFってことかと想いつつ読んだケヴィン・ブロックマイヤー「終わりの街の終わり」(金子ゆき訳、ランダムハウス講談社)はなるほどSF的なストーリー。人間が死ぬ都たどり着く街ってのがあってその人を記憶している人が現世に残っている限りはずっとその街に止まっていられるらしい。ってことは息子にしろ孫にしろ覚えてもらえているうちは何十年だってその街に止まっていられるって公算で、だからあんまり天国とか、49日まで魂が止まっている中有洞って感じもなしにその街で半死者たちは家族を得て商売をしながら割に普通に暮らしていた。ところが。現世で何かが起こったのか、たくさんやって来る人が増え始め、と同時にその街から消えてしまう人たちが増え始めた。

 どういうことか。つまりは急速に現世で人間たちが死んでいるということで、とりあえず終わりの街にはいくものの現世で逝った人を覚えている人までもが次々に逝くもんだからさらに別の世界へとどんどん行ってしまうという寸法。まあいったんは死んだ人たちばかりだから終わりの街からどこかへ行くことを畏れている風はないけれども、閑散としていくその中で、とある人物を共通に知っている人たちだけが残って現世に想いを馳せていた。そのとある人物が一方の主人公。コカ・コーラ社が資金力で買収した南極に調査いn行っていた関係で、現世の地球を覆った「復活の日」的な危機からとりあえず隔離されていた。とはいえ南極にだって危機は迫っていて主要な基地にたどり着くとそこは全滅。そして極寒の地で彼女の運命にも限りは見えていた。

 そこから「復活」へと向かったとしたら本格的なSFになるんだろうけれど、物語の主力はそうした設定にはなく設定の上で醸し出されるメッセージにあったりする所に現代文学としてこの本が、出され受け入れられている理由がありそー。つまりは想い想われて人々はつながっているのだということを教えてくれる物語であり、想う程に人は人に想われていないんだということも知らしめてくれる物語だってこと。もしも世界がほんとうにこの物語のような仕組みだったら、というか世界がほんとうはこの物語のような仕組みでないんだとしても、多くを想ってあげるこで救える魂があり、多くに想われたいと願うことで救われる魂があるんだってことが見えてくる。

 死から人は絶対に逃れられない。時間に置き去りにされて埋もれてしまう。忘れ去られてしまう恐怖は死よりも切ないけれど、そんな切なさに立ち向っていくための、たったひとつの冴えたやり方って奴を、つまりは誰かを想い誰かに想われることでつながっていける心を感じ取る大切さを、学び知って実践しよう。こういう本がさらりと出て主流として認められるアメリカって凄いよなあ。日本の方が類例はいっぱいあるんだけれど主流とは認められていないんだよなあ。苦いなあ。


【5月4日】 本郷あたりでは夜通し議論が続いているだろう中をぐっすりと眠り、明け方に録画してあった「仮面のメイドガイ」を見てとてもじゃないけどティーンには見えない目つきのよろしくない女性がセーラー服を着て歩く姿の似合わなさに頭抱えつつ、フブキさんのこちらはまあ見た目に関しては違和感のない制服姿に喜びつつ、コガラシのいったい幾つあるのか数え切れない感覚はいったいどこにどれだけあるのかを想像しつつまあそれなりに面白いから次週も見ようと想いつつ、眠り起きて「ONEPIECE」を見たらニコ・ロビンの活躍があんまりなくって残念。来週は眠っていたサンジにゾロも復活の予定で勢揃いした麦わら海賊団の反撃が始まるんだろうけれども、その分ロビンの登場も減るのかと想うとこれまた残念。まあ見るけどね。「絶対可憐チルドレン」は普通だなあ。

着ぐるみでもいいから中でごろごろしていて欲しいなあ、施設維持のためにパンダ役ってのが出来たりして  でもって京成で上野へ。祝日ってことで「上野動物園」へスルーで入ると中でパンダが死んでいた。じゃない死んでしまったリンリンのパンダ舎には献花台と記帳台が置かれて子供たちが食べ物だとか折り紙を置いていた。ガラスの向こうには遺影も飾られスターのよう、というか実際問題やっぱり動物園にとってパンダは最大のスターであって、これが見られないってのはやっぱり寂しいものがある。大人にとっちゃあいろいろ難しい問題もあるんだろーけど子供に「パンダはどうしていないのか」と聞かれ「どうしていつまでもいないのか」と聞かれた時に、話して分からせて分かってもらえる問題でもないからなあ。

 どこかの阿呆な知事が世界に行けば見られるとかいっていたけどヨットにスキーなお坊ちゃんならともかく普通の家では上野にだって年に1度も行かれません。せめて東京にいてこそ見られる可能性だってある訳で、そこん所を考え是非に1頭、もしくは2頭を頂戴できれば門の前で売ってる「パンダ焼き」だって悲しみの名残にならずに済む。長い飼育の経験から施設は十分だし飼育に関するノウハウだって溜まってる。連れてきてもらえさえすればあとは万全。そこで長く途切れるよーだとせっかくの施設もノウハウも雲散してしまうんでここは背中に1頭、背負ってやって来てください主席。お湯をかけたら坊主のおっさんに戻らない奴を。

 時間があったんで東京藝大の美術館だかて「バウハウス・デッサウ展」。バウハウスって大昔にドイツにあった美術学校だか建築学校だかデザイン学校だかそれらの総合学校だかが生み出した建築に絵画にデザインに演劇といったものが今日に結構な影響を与えているってこともあって未だに事ある度に振り返られるバウハウスだけれどもそこん家からわんさと物がやって来たってふれこみだった割には規模は大昔に「セゾン美術館」で見た時ほどにも大きくなかったって印象。いや「セゾン美術館」で見た、って記憶自体が模造な可能性もあるんだけれども、ともあれミース・ファン・デル・ローエってファン・ニステルローエだかファン・ホーイドンクみたいな名前の建築家の作った椅子だのヴァルター・グラピウスって校長先生の部屋だのがあってまあ楽しめたりはしたけれど、先生だったパウル・クレーやヴァシリー・カンディンスキーといった面々の作品は少なくあくまで「バウハウス・デッサウ」という工房ではない学校で生み出された“卒業制作展”って感じだった。偉く水準の高い卒展ではあるけれど。

 そんな中で舞台芸術を教えていたオスカー・シュレンマーの映像作品が上映されていたのは僥倖。これもおそらくは「セゾン美術館」での展覧会であのときは衣装も含めてだっけ? 見た記憶があって宇宙人みたいな恰好になったダンサーが手足を曲げたり回ったりするだけのシンプルなダンスをしつつ先鋭的なフォルムが空間に置かれ動き回る様から浮かぶ工業的とも構築的ともとれそうなビジョンに驚いた記憶が今もその名前とともに残っていたけど今回の展覧会でもそれらは共通。置かれたファン・デル・ローエ作の「バルセロナチェア」に座って見た映像は、当時見た時の驚きからさらに進んで人体そのものが表現するパワーだの美だのとは対極の形象と運動というものに還元されたビジョンが放つ美しさとはまた違ったまとまり感って奴を覚えさせてくれた。今ならCGとかで再現しちゃえば可能な形象であり運動なんだけれども、それを人間を使い演じさせ、あふれる躍動への衝動を押さえ込んで全体の中に描き出してみせる抑制の美徳って奴がまた感じられて興味深い。これ見るだけでも価値はあったかな、1400円はちょっと高すぎる気もするけれど。

 そして「東京都美術館」で開かれた「大学読書人大賞」とやらの公開討論会。知り合いの誰もいなさに本読み周りじゃああんまり興味を持たれてないのか、単に知られてないのか悩んだもののそもそもがゴールデンウィークの中日に聞きに行くイベントでもないっちゃーない訳で、そこにひとりのこのこと出かけざるを得ない我が身の不徳をまずは嘆くべき、なのか、動物園でパンダのいない檻をひとりながめる寂しさとも共通する。まあそれはさておき若い大学生の感性って奴に接する機会もあんまりないんでその意味では重要だったし、何よりラストの5作品に残ったのが見かけはともあれベースがライトノベルと超古典SFばかり。大学生にもなって読んで欲しいと訴えるにはいささか大衆的な感じもしないでもなく、何故に哲学やら難解な文学やら社会学やら漫画が選ばれなかったのか、何故にこれらが推されたのかってのを知る意味でものぞいてみたかった。んだけど。

 結論から言うなら“目的意識”の堅さが目についた文学賞って印象。すべてをフラットにした中から小説としての完成度でもって選ばれるのが一般的な文学賞に対するイメージだけれど、「大学読書人大賞」と銘打たれているこの賞の場合は書かれていること、訴えられていることがすなわち“大学生”という存在に対してどれだけ共感・共有を喚起させられるのか? ってところが大きなポイントになっていた。まあ「大学生に読んでもらいたい本」を選ぶんだから当たり前って言えば当たり前なんだけれども、だったら「大学生とは?」って部分へと還元されてその分析から始まって、なればこそこの本が適当であるってプレゼンテーションが重なると、戦術的には説得力を上乗せする効果があって正しいのかもしれないけれど、一方でそんなに大学生って特殊なの? そこまで読む本を考えてあげないといけないの? っていった想いも浮かんでしまう。

 有川浩さんの「塩の街」だと地球滅亡なんって危機を迎えて少女が経験した事柄を通して、時に自己中心的になるあたりから若者の心情って奴がリアルに描かれていて、そして失って始めて知る素晴らしさってものを教えてくれる所が大学生に相応しいって、立教から登場の紅一点、フロントからトップをアップに挙げてトップでまとめつつ、左右を顔の横に落とした髪型の清楚さと顔立ちの高貴さもポイントになってた平野可奈子さんの演説があって「読んでみたい」とゲストの永江朗さんに言わせていたし、田中ロミオさん「人類が衰退しました」だったら衰退を受け入れる中で未熟なりに精一杯にやろうとしている新米調整官の主人公の言動やら心情が、「学生に近い精神性」だって点を挙げてどっかの兄ちゃん(えらい差別だ)が推していた。

 以下も男子ばかりだったんでどっかの兄ちゃんズと略するけれども、桜庭一樹さんの「青年のための読書クラブ」も「読書への扉を開く」って目的意識のある点からの推薦だった感じ。佐藤友哉さん「1000の小説とバックベアード」はやや違って、三島由紀夫賞を獲得したメジャーな作品だけれども単なる私小説ではないんだって点を挙げつつ読書する楽しみを味わわせてくれる本だってな感じのアピールがあったけれどもでも、でもこれはやっぱり私小説だよなあって印象を抱きつつ続くアーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」は、昔出たのと何がどう違うのかって説明のないままに描かれた人類の成長と未来なんかがモロにモラトリアムの境界を彷徨う学生向きって感じになっていた。議論白熱の公開討論でも、何で今さらって問いかけに、こうした過去の作品の文庫化であっても内容において素晴らしければ受賞の対象になり得るんだってあたりを見せることが、学生に対して「大学読書人大賞」をアピールする最大のアプローチになる、なんてもはや目的が内容を超えてたりするアピールもあったりして、賞が持つ性格って奴をくっきりと浮かび上がらせていた。

 あまつさえ受賞した作品がこの「幼年期の終わり」だったところに、ライトノベルでも素晴らしいとかベストセラーでも読み方を深めれば楽しめるとか言った小技の類を嗜み楽しむよりも、ここは真っ当に真正面から誰もが読んで納得でき、読ませてみっともなくない本が中庸的に選ばれる賞になっていきそうな雰囲気が出てしまった。個人的には田中ロミオさんと桜庭一樹さんが争い桜庭さんが受賞かな、って想っていたけど2位は「1000の小説とバックベアード」で3位に「塩の街」。でもって桜庭田中は4位5位とはやや意外。

 つまるところはライトノベルにだってすごい作品はあるんだと訴え、世の文学賞にアンチを投げてアバンギャルドを気取ろうとする訳ではなく、またライトノベルをずっと読んで来たから今も読んでるんでそそれが何か的な昨今の読書傾向をストレートに反映させるのでもなく、かといって哲学社会学難解文学に走り気取るんでもなく、そこそこにそれなりな辺りが選ばれて来る賞なんだって印象を第1回目では抱いたけれども、ここでこういう傾向が出たなら次は違う方面から攻めてみるってのが世の倣い。なので今回のプレゼンへの反応を踏まえ、同様のアプローチをしつつもそこに超意外さ抜群な作品を置いてパワーで押し切るってことも、次回はあって不思議じゃない。と想いたいけどでもやっぱり漫画は出て来ないだろーなー。

 しかしみんな良く読んでいるというか読み過ぎというか大学生。公開討論の現場でもそれぞれのプレゼンに対して別の口から違和感が出され、それに答える白熱ぶりがあってもっと和気藹々と進むんじゃないかって予想していた永江さんを驚かせていた。「青年のための読書クラブ」への批判で出た、読書って行為そのものに気取った感じを醸し出しているような印象がある内容は、大学生を読書に導く本としてはどうよ的な突っ込みはけれども、これはそのまま「大学読書人大賞」という、大学生に本を読ませる行為への誘いを目的に議論しなくちゃいけないが故に、形式を論じてアピールしがちな傾向が見られた「大学読書人大賞」に関わっている全員に向けた自問であり自答なのかも。それらを踏まえつつけれども大学高校中学老人無関係に、内容でありメッセージでありそれを紡ぐための文体であり構成といった側面から、これが1番だって言い切れる本を集めそんな熱い主張を聞かせてくれれば、すれた本読みとしてはもっともっと楽しめる賞になってくれそう。期待しつつ眺めよう。

 ラストに永江朗さんは「あらゆる文学賞のハイブリッドであり、今の日本においてあくまでも方法としてだけれど最も優れた文学賞ですね」とコメントしていたけれど、果たしてそれがリップサービスなのかどうかはともかく、選んでくれたものに投票を行い上位について推薦文を書いてもらい優れた推薦文の送り主にプレゼンをさせ突っ込み合いをさせた上で互選で選ぶ「大学読書人大賞」の方法は確かに斬新。この仕組みのどこがどれくらい興味深くって、けれどもプロセスにおいてどんな課題があって、そして選ばれた作品からフィードバックして賞そのものがどういう位置づけにあるのかを、各種文学賞い対してメッタメッタと斬っまくっている御大たちには是非に喋って頂きたいところ。いっそ来年はコメンテーターとして参加して頂ければ盛り上がるだろうこと請け負いだけれど、永江さんのような驚きと教唆を交えて導くようなトークにはならず、真っ向から切りつけてしまって場を固まらせてしまう可能性もないでもないし。いやそれもそれで試練になって良いのかな。

 ってことで楽しんだ後、誰にも合わずひとり帰宅して「コードギアス 反逆のルルーシュR2」。C.C.が中華連邦の領事館でソファーのクッションを抱えてた。そんなに腕恋しいか。だからアッシュフォード学園へと向かって奪還したのかチーズくん。ぎゅっ。でもってスザク帰還、アーサー連れ。スザクの手がやぱり好きそうなアーサー。がぶり。ドレス姿のミレイ会長は胸元が凄すぎ。でもってイベントのオープニングコールはスザク。かけ声はやっぱり可愛くない。引っ張り出されたヴィレッタ先生の水着が凄まじい。どうして落ちないのか。中身がはみ出ないのか。シャーリーたちの競泳水着はなかなかにハイレッグ。だけど皆が皆とも胸回りのサイズが大きすぎ。あれで水とかの抵抗無く競泳できるのか。謎。

 バンジージャンプで落ちて上がっていく女子生徒。見えた。ルルーシュに食いつく着ぐるみ。中の人はやっぱり前屈み。尻。なのに遠近法で前の顔に焦点が合って手手前がボケていた。勿体ない。トマトの中へと落下するC.C.。見えた。でもスーパーが被ってた。DVD買えってことか。というかブルーレイか。両方買うよな普通。何だ普通って。前作もブルーレイ登場? 買うよな普通。だから普通って。そして新総督。あああああああ。というわけで見所いっぱい引きたっぷり。来週もまた見るしかないね。これで視聴率だけ低いのが謎。午前7時にやってたあれとどっこい? 数字ってもはやあてにならないなあ。しかし1年の音信不通を少女は何とも想わなかったのか。それとも記憶を書き換えられながら時々定時連絡は絶やさないよう操作されていたのか。謎過ぎる。まあいずれ解決されると信じて見続けよう。


【5月3日】 会話と仕草に滲むリアルさって奴の凄みを味わえるのが「紅」だとしたら動きに溢れるアニメーション的なコミカルさの快楽を存分に楽しめるのが「マクロスF」ってことになるのかなあ、ってことで最新話は学校へと乗り込んで来たシェリル・ノームがアルトを引っ張り回すってストーリーに「ミス・マクロス」出場を兄に咎められて家出してふらつくランカのエピソードが重なったその背後で捕らえられていたヴァジュラが動き出すって展開と盛りだくさん。見て楽しめて感心できて感動できてそして怯えられ興味を惹かれるアニメってのはこれとあと「紅」と「コードギアス 反逆のルルーシュR2」と「仮面のメイドガイ」と「クリスタルブレイズ」と「図書館戦争」と「ソウルイーター」と……なんだ結構見られる作品があじゃないか今期のアニメには。

 そうだ「マクロスF」は兄に憤るランカが放り投げる鍋釜包丁に混じってミンメイ人形が飛んでいったのが愉快。んでもってランカの家出を知って探そうとルカに向かって言うナナセががばっと上半身を起こした場面を下から煽ったシーンで重力に逆らえない質量がゆらんとした様がとっても絶妙。校舎へと入って部室かどこかでシェリルのイヤリングを探していたところに入ってきた女子の目を避けようとロッカーにシェリルと入ったアルトの携帯が振動してシェリルがアルトの太股にこすりつけ耳元で喘いがシーンはもう目の毒。というか側でやられたアルトはよくあれでイってしまわなかったもんだ。そこは和でも芸能慣れした一家の総領息子ってことなのか。あるいは心底まで女形? それはないか。

 校外へと出て探す途中で通話するアルトの後ろで飛ぶ蝶々をつかまえようとするシェリルの仕草の何とも幼くって快活なことか。なのにゼントラーディーの居留地とか近隣の牧歌的な街並みからインスパイアされて浮かんだ詞を書き留めようと巨大なゼントラーディーのパンツをマネキンから引っ張り降ろしてしゃがみ込んでペンを走らせるプロっぷり。なるほどこの天然さ前向きさがプロフェッショナルって奴なのだなあ。そんな仕草を背後からのぞく巨大な方のクラン・クランもこれでなかなかなたわわっぷり。サイズじゃあそりゃあ人間の10倍もあるからナナセですら遙かに及ばないんだろうけれど、これがマイクローンになるととたんに平ぺったくなってしまうのはちょっと惜しいなあ。ミハエル(=ミシェル)的にはどっちがお好みなんだろう。

 そんなミハエルが見つけて世話することになったランカが自分の思いがかなわないと兄まで非難しはじめたのを聞き捨てならないと咎めるミハエル。唄いたいってんなら大勢の前で唄ってみろとけしかけたところにアルトが投げた紙飛行機が飛んでくる。このエピソードの重ね具合が実に絶妙。バラバラに歩いていたキャラクターたちがひとつ所に重なって新たな展開を予測させたりと実に巧みに紡がれている。脚本の人、天才かも。でもってそこで歌い始めたらあまりの巧さにバックバンドが付きスカウトが駆け寄ってきてさらにヴァジュラまでもが覚醒、と。

 歌に反応してヴァジュラにぼわんと浮かんだ光は人型? ということはどっか背後に人がいてヴァジュラを通して世界を見ている? ランカの歌が巧いからなのかそれとも音波に何かが潜んでいるのか等々、謎を残して以下次回。襲われた「マクロスギャラクシー」の行く末とそこが故郷のシェリル・ノームの今後も含めて楽しみを引っ張ってくれてます。「紅」の木曜夜も「マクロスF」の金曜夜もこれで眠れない。ところでナナセと探しに出たルカはいったいどこで何を? ゼントラーディをそのままのサイズで残しても資源的エネルギー的には平気なんだろうか「マクロスフロンティア」? キャサリンってレオン・三島とつきあってるっぽいのにオズマ・リーの前に出ると何だか愛おしそうなのは心が揺れているから? ってかレオン・三島ってバッフ・クランの生き残り? 知りたいこといっぱい。

元祖な兄顔しずかちゃんズ。中身がどうかまでは知らない。中身なんてない。  リカちゃんの誕生日。1967年の誕生だから41歳なんだけれどもリカちゃんなだけあって永遠に11歳。昨日も11歳で誕生日を迎えて11歳。だからいつまでもお肌すべすべ。愛らしい。ちなみにあっちの香山リカちゃんが永遠に11歳なのかどうかはあずかり知らない。見たのは1度だけだしそれも5年は昔の話しで今も果たしてどうなのかは4月26日だかに「ジュンク堂池袋本店」で開かれていたはずの菊池誠さんとのトークショーに出た人が知っている、はずだけれどもどうなんだろー。まあいいや。でもってリカちゃん(本物)の誕生日ってことで池袋のサンシャインシティで開かれたバースデーパーティーを見物。巨大な、というか人間サイズのリカちゃんの登場にこれが今話題の兄顔しずかなのかと半歩引く。さらに友人というマリアちゃんも登場、こっちの兄顔しずかはダブルだぜ。

 イベントはそんなリカちゃん大好きな女の子たちがわんさと詰めかけ大盛況。一時は50億円くらい売ってたものが直前では10数億円くらいになってしまっていたとタカラトミーの人が話してて、だから何とかブランドを再生させたいってことで去年あたりから一所懸命にイベントを仕掛けワールドツアーなんてブログも作って露出を増やしていたっけか。あと商品でもリカちゃんハウスに巨大な奴を投入したりと新鮮さを出したことが奏功したのか、誕生パーティーにもステージ前に座りきれない子供が来ていたし別会場で開かれている有料の「リカちゃん展」にも入場口に並ぶくらいに親子連れがやって来ていた。すぐ近所では同じタカラトミーの「プラレール博」が開催中でこっちも長蛇の大盛況。昔っからその人気ぶりは知っていたけど今時に「リカちゃん」人形でこれだけの集客力があったとはちょっと驚いた。

 あるいは「リカちゃん」で遊んだ世代が大人になって(41年も経ちゃあ3世代に渡ってたって不思議はないけど)子供に「リカちゃん」を遊ばせているってこともあるんだろー。そんな親たちの多くがティーンの頃にファッションブランドの洗礼を受けていてファッションに敏感なのもファッション性をアピールし始めた「リカちゃん」への注目が減らずむしろ高まっている理由なのかも。おままごとには終わらない、着せて飾らせて楽しむ一種のホビー。そのあたりを見極めて行きさえすれば「リカちゃん」を女の子の通過儀礼的なアイテムではなくって女の子が少女から女性になっても愛着を抱けるアイテムとして、復活させて盛り立てていくことも可能なんじゃなかろーか。

 なんて仕事モードな頭は2割で残り8割はリカちゃんと揃いの衣装をまとった美少女が見せてくれたファッションショー。一般公募のモデルはともかく雑誌なんかで活躍しているプロのキッズモデルはさすがに綺麗でハーフってこともあって脚もながくって人形よりもお人形さんみたい。このまま成長していけばもうスーパーモデルだって間違い無しって愛らしさだったけれども外国人って時に変わった変化をするから分からない。あのエマ・ワトソンだって今じゃあ不思議な衣装でパーティーに現れパパラッチゃられてたりするし。まあ可愛いまんまではあるけれど。そんな未来を想像しつつも今を存分に堪能しつつ展覧会の報も見物して脱出。ネットで「ジェフユナイテッド市原・千葉vs柏レイソル」の試合を見物……ダメだこりゃあ、というかとっくにダメだ。どーすんだ。浦和レッズとの試合も見に行く気力がないなあ。3連敗は流石に拙いとここで気合いを入れ直して東京に乗り込んでくる名古屋グランパスを味の素に見に行くかなあ。


【5月2日】 そうかオリエンタルランドに「週刊金曜日」が尋ねたのは2000年の話しで12年も前のことを聞かれてオリエンタルランドは憶測か伝聞でディズニーが「東京ディズニーランド」に招待したんじゃないかって答えていたことに読み直して気づいた安藤健二さん「封印されたミッキーマウス 美少女ゲームから核兵器まで封殺された12のエピソード」(洋泉社、1300円)。だから当時どうするって聞かれて招待するって答えた訳ではなさそーだけれど、自分のところに招待があったかくらいは知ってて不思議じゃないのにそう答えてしまったのは何だろう、やっぱり誘導的に聞かれてそういうことがあったのかもって答えてしまったんだろーか。12年の間にそんな対応が虚々実々の中に浮かび上がって来るくらいにミッキーマウス封印事件が関係者の心に棘のように刺さっているってことなのか。

 今だったら果たしてどーなったのかはちょっと興味のあるところで、ネットとかでガンガンとぶったたかれる状況を鑑みればあるいは学校のプールは一般に使用を供するものではないため客寄せ的な看板とは意味が違うと認め、あくまで学術的な表現活動であってそれが全国規模で報じられたとしても使用目的において限定的だと認めてまあ良いかってことになりそー。認めれば他に広がるっていったって、商売に使えばそれは明確に線引きも可能。校内で使うビラとかチラシとかにだったら別に使って差し支えないっていった、パブリックドメインみたいに無制限ではないけれども公共的な使用においては無償を条件に黙認する的なマインドが広まっていくことで、双方に良い結果を残せそうなんだけれどどーだろー。まあそれをすら上回ってあれやこれやと言うのがディズニー、ってイメージもすでについてしまっているんだけれど。だからこそ払拭に出る? それともイメージを守りきる?

 「にょにょにょにょにょ、真九郎には豆腐なんてぜいたくにょ。煮染められて出汁がでつくしたあとの水でふやけた藁半紙みたいな昆布をちゅうちゅうと囓っていればいいにょ」「環うるさいにゅ。紫にいやらしいことばかり教えて変態にゅ。とっとと煮えた豆腐の角を頭にぶつけてくたばるがいいにゅ」。なんて会話が繰り広げられたらそれはそれで愉快な空間になったかもしれない五月雨荘の5号室。いつも同じジャージ姿の環と口調がやや厳しめな闇絵と「ニンテンドーDS」を買ってもらえることになって大喜びの紫に囲まれながら我らが紅真九郎は部屋で鍋パーティー。最後に1週間分の食材を全部放り込まれて憤っては貧乏くさいと闇絵さんに突っ込まれ、貧乏なんですと答えていたのがなかなかに惨め。だけど本当に惨めなのは外でひとり立って見守る弥生さんであることに異論はないね誰しもの。

 カップルが続々とホテルに入っていく姿を横目に、鍋から奪ったのか闇絵さんが投げたのかは分からないけれどウィンナーソーセージを加えた猫のダンテ鉢合わせ。「うまそう」といったのはソーセージのことなのかダンテのことなのかは分からないけど、怒り毛を逆立てて逃げていくダンテの後ろ姿に寂しそうな表情で肩を落とす弥生さんの姿にやっぱり真九郎、恵まれ過ぎだよさっさと警護の仕事を譲るべきだよって想いも浮かぶ。しかしいつでも後をついてる弥生さん。電車でも離れた車両でスポーツ新聞に顔を隠して見守っていたけど崩月の家ではどこにいたんだろー、生半可な力では近づくことだって出来そうもない家なのに。帰りの電車にはいたのかな。

 スーパーマーケットので真九郎と紫の会話も五月雨荘での鍋を囲んだ4人の会話もどれも生き生きとして内容もリアル。ここからどんどんと殺伐としていく原作とは違いまったりし過ぎなところもあるけど、シチュエーションのレベルをリアルへと寄せつつその中で揺れる心情や出る言動に起こる状況を描くと決めて挑んでいるっぽいところがあるんで、こーした展開になるのも当然か。次回予告は村松健さんが相変わら務めている。2枚目なニューエージのピアニストだった20年から比べると隔世の感もあるけれど、それを知る人が果たして「紅」の視聴者にどれくらいいるのかな。音楽に対する評価は高いんで遡って二枚目ぶりに近づいたら面白いかも。サントラいつ出るんだろー。買うぞエンディングも同様に。オープニングもやっぱり買っとくか。DVDも買うとしてうーん、夏から少し困ったことになりそーだなー。

 有能に見えたって勤務先は神楽総合警備だもの、蘭東栄子さんが過去にいろいろあったって想像しておくのが順当ってもんでそれがいよいよ明らかになった「ジオブリーダーズ」の「ヤングキングアワーズ」2008年6月号掲載分、最初の会社で不倫の噂を流され退職ってのがやや可愛げあり過ぎだけれど昔はまだうぶだったってことで続いて派遣のトラブルで飛び出したのはまあ運のうち。3つ目では面接の段階でセクハラ面接官相手に踵落としを喰らわし周囲を血の海にしたあたりから本領も発揮されて来たみたいでそんな話が続いた果てにたどり着いたのが今の神楽総合警備。何の気兼ねもいらない会社で水を得た魚のよーに働いた挙げ句に追いつめられて大変なことになっている。

 でもあるいはその計画的な追いつめられ方を見るとそもそもここへと至った過程において、様々な操作が行われていた可能性だって否定できない。不倫の噂もいい加減な契約もすべてが後の神楽行きを見込んでのこと。これを目を付けた人材が逃げないようにいろいろ操作し、セクハラ面接官を立て続けにぶつけて流血の事態すら引き起こしてはのっぴきならないところへと追いつめる。そして散々活躍してもらった挙げ句に用済みとなってはいさよなら、と。嫌な見方だけれどもありかねないからなあ、実際にそんな輩ばかりが集まって来ているし。田波については不明。あるいはこっちこそ黒猫の操作で送り込まれた人材か。だからイレギュラーとして入江たちには不測の事態を巻き起こす。分からないけどいずれにしても盛り上がってきたクライマックスが悲惨な展開にならないように祈ろう。「ヘルシング」載ってねえ。「トライガンマキシマム」は「ジャンプSQ」行きだって? いろいろあるなあ。いろいろ。

 米タイム誌が選ぶ世界で最も影響力のある100人にアーティストの村上隆さんが入ったって報にそうか10年あれば人間やりようによってはすっげえ高い所にまで上り詰められるんだってことを思いつつ嘆息。ようやくにしてオタク的なモティーフを取り入れはじめる算段をしていた頃から見ていたけれどもあれやこれやと言われながらもそれを貫き言葉に置き換え内にではなく外へと向かってプレゼンテーションし続けた結果のこの到達点。ちょっぴりサブカル入ってた人のオタク心をくすぐりつつあるいは尖兵として世界を席巻してくれるかも、なんて期待をあの時代、あのシチュエーションで背負えた偶然とそれと意識的に成し遂げた必然が今の地位を作っているんだって言えるかも。気になるのはどーゆー文脈で影響力があるって認められていることかなあ、日本文化の代表者? そりゃあ違うけれどもそう思わせたことが勝利な訳だしなあ。つまりは凄かった。いっぱい買っておけば良かったなあ。


【5月1日】 そうかセシルさんさんは「ナイトオブラウンズ」になったスザクのランスロットを整備する専属としてついていっているのか、ってのが本編でもそのまま採用されているかは分からないけど原作者たちを打ち合わせのもとに書かれているから岩佐まもるさんが「ザ・スニーカー」の2008年6月号に寄せた短編の設定もきっとそのまま本編に活かされているんだろー。ついでに食事の世話までされているとしたらスザクの体調が心配だあ。子供みたいなラウンズのアーニャは見た目まんまのキャラでアニメーションでも楽しませてくれそう。しかし表紙にまで登場とは「コードギアス 反逆のルルーシュR2」。これと「ハルヒ」関連で「ザ・スニーカー」もガンガンと売れれば片隅でひっそりと連載している当方にももうちょっと、日の目が当たってくれるかな。

 デカ目の丸の上の左右に小さめの丸がそれぞれ1つづつ着いていたらそれは何、って聞かれて答えた大多数が「ミッキーマウス」になるだろうことは想像に難くない。それほどまでに1つのアイコンとして定着してしまっているが故にそうした形を何かに使え、ば遠くアナハイムから海を越えてネズミとアヒルが黒服を着て黒サングラスをかけたメン・イン・ブラックの扮装で飛んできては手にした光線銃でビビビビビっと焚書に乗り出すんじゃないかって思っている人もまたいそう。

 いくらなんでも、って思わないでもないだろうけどあるいはもしも、って思わせるところがやっぱりあるのはもう遠い昔の1988年頃、滋賀県の大津市の小学校だかで児童がプールの底にミッキーマウスを描いたら、ディズニーの日本法人がクレームを付けて消させたって話が根っこになって、なるほどそこまでやるのかやっぱりディズニーは厳しいなって雰囲気を今に残しているからなのかもしれない。んじゃあ実際に大きな丸に小さな丸の2つを使うと担当者が飛んでくるのかどうなのか、ってのはこのほどその名も「 封印されたミッキーマウス 美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード」(洋泉社、1300円)っていう本が表紙に堂々とそんなアイコンを掲載したことで身をもって証明してくれそう。

 洋泉社にネズミとアヒルがやって来るのか。ゴージャスに着飾った王子様とお姫様に会社の前で踊るのか。それはそれでちょっと愉快。顔をハチミツの瓶に突っ込んだクマが入り口でごろごろされたらちょっと迷惑かな。まあおそらくはきっと何も起こらないんじゃなかろーか、いつだったっけ松岡圭祐さんが「ミッキーマウスの憂鬱」(新潮社)って本を出してもとりたてて、何があったって話しは聞こえて来ないし。さても「封印されたミッキーマウス」は“封印解除”な活動で知られる安藤健二さんのルポルタージュをまとめた本で、前著前々著にも取り上げられてた「ウルトラセブン」の12話とか、「オバケのQ太郎」といった封印された作品についての簡単な紹介に加えて“あの人はいま?”的な人物を追ったものもあって面白い。

 個人的にはSF童話の「天才えりちゃん金魚をたべた」を幼くして刊行して世間を驚かせた竹下龍之介さんについての話がSF方面で仕事している身としても興味深かったけれども基本は情報シャットアウトで現況はつかめず。というか記事自体が04年当時のもので年齢的には大学生かもう卒業していて不思議はない竹下さんがいったい何をやっているのか、まるで分からないんだけれどもこの歳になってもやっぱり親御さんが周囲を固めて近況を外に出さないよーにしているのかな。「ノストラダムスの大予言」の五島勉さんはまだ存命? あれだけのベストセラーで稼いだお金がどうなったかがちょっと知りたい。核シェルターでも買ってたのかな。

 そんな作品タブーに人物タブーに加えてというかメーンになっているのが前述の大津でのミッキーマウス関連話でいったいどんな経緯だったのかを改めて、現地に尋ねていろいろと当時の事情を掘り起こしている。基本的にはディズニーの日本法人から申し入れがあってプールの絵は消していて、それについて当時の先生が権利に対する意識がちょっと足りなかったといった反省の弁を述べていて、可愛そうな子供vs強権をかざすディズニー、といった構図で見るのは間違いだってな感じのトーンが出てはいる。問題はそうしたニュアンスが当時でもすでにあったはずなのに、子供の夢vs大人の事情といったトーンばかりが浮かんで今なお根強く残っているところに現地で事情を聞いて回るんじゃなく遠くからシチュエーションだけ切り取りストーリーを作って乗せるメディアの大多数だったことがあったんじゃないかと分析してる。聞きに来たのが安藤さんが始めてだ、って話が暗にそんな事情を示唆してる。なるほどなあ。

 あとルポでは当時の落ち込んでいた子供たちに「東京ディズニーリゾート」を運営しているオリエンタルランドの人が、聞いた話としてディズニー側が可愛そうだからと子供達を「東京ディズニーリゾート」に招待してあげたって話が伝わっているんだけれどそういった事実関係は確認できなかったことを挙げている。ディズニーキャラクターの権利元ではなく、三井不動産と京成電鉄の合弁として立ち上がった会社であくまでもライセンスを受けて日本でテーマパーク事業を行っているだけの会社に過ぎないオリエンタルランドの広報担当者が、どうしてそこに割って入って、子供達の慰撫についてコメントしたのかが気になったけれども想像するならディズニー絡みの報道をする際に、ディズニーと言えば「ディズニーランド」でそこを経営しているのがオリエンタルランドだからと取材して「いやいやこんなことがあったんですよ」「それはなかなかに大変でしたね」「かわいそうな子供たちを招待してあげたらどうですか」「(うちは関係ないんだけれど)それは良い考えですね前向きに善処しちですね」なんて会話の中で出た話が変じたのもしれない。記事ってば割にこーやって作られるんだよって言っちゃったら拙いか。でもこれもメディアにありがちな話だったりするんだよなあ。

 ともあれどうしてディズニーへの感度がこうも高いのか、って疑問からいろいろと調べて書いている本なんで、昨今の著作権の期限延長問題がミッキーマウスの権利保護期間なんかと絡めて語られている状況なんかを考える上でひとつの参考になりそう。あとはタイタニック号に乗船していた細野晴臣さんのおじいさんが他人をおしのけてボートに乗ったと疑われたのを頑張って払拭していった話しとか、日本でフランス語を公用語にしようって運動が起こった話しなんかもあっていつもの「封印作品」ルポとはまた違った切り口からの文章を楽しめる。この勢いでウェブ上で扱いがとんでもないことになっているジャニーズ関連の状況について、突っ込んでいってくれたら嬉しがる人も多そうだけれどそれだったら直接間接に影響を被っている身の者がやるのが本筋だって返されそう。いやまあそうなんだけれどそうはならないところがメディアコングロマリットの抱える事情というか。いつまでもメディアコングロマリットでいられるかは微妙なんだけど。

 前の「メルカトル」(大和書房)もファンタジックな世界が舞台になっていて面白かったけれどもこちらはよりファンタジックでSFチックな雰囲気がありそうだと手にした新刊「カルトローレ」(新潮社)。長く宇宙船で暮らしていた人が何かの事情で地上に降りて何年か。船を出た1人が地上での暮らしに適応をしてくプロセスとして、牧歌的で田園的な場所に棲みながら糊付けされた109巻の日誌を読もうとする作業を始めて、そこに井戸を探す人やいずこからともなく来た謎めいた男たちが重なっていく。会話を「」でくくらず流しながら、それでいて誰が喋っているのか分かるようにしてあったりと文体に工夫もある上に描写が濃密で1行づつ1ページづつを読むのになかなか時間がかる。

 だからといって先を急ぎたいかというとむしろ醸し出される清涼な空気をじっくりと味わっていきたいってのが心境か。見えてきたのは長き断絶を経て交わり始めた者たちが、さぐりあいながら周囲の理解や導きを得てなじんでいく様を描いたストーリー。変化に怯えるよりも発見を味わいながら生きていく確かさって奴を感じさせてくれる。宇宙船を飛ばす文明と、地上で都会をのぞけば牧歌的でところどころ遊牧的な人々もいたりする文明との格差が何から生まれどう進み、そして今なぜそうなっているかについては詳しい描写は特になく、読み手の想像に委ねられていてそんなシチュエーションに特殊な種族が溶け込み何かを狙う勢力が跋扈もしているけれども、そうした謎の解明もやっぱり脇にしてゆるゆると流れる日々の中に、溶けていく己の姿を感じ暖かさに喜ぶのが或いは真っ当な読み方なのかも。

 だからSF、って言ってしまうことに悩む人もいそうだけれど、いっしょに買ったケヴィン・ブロックマイヤーのネヴィラ賞ノミネート作「終わりの街の終わり」(ランダムハウス講談社)の巻末で、SFの翻訳を多く手がける小川隆さんが書いている解説の中に米国のSFとかファンタジーとかいった要素を使いつつ、寓話的な物語を仕立て上げる作品が増えているって潮流があるそーで、そんな流れに「カルトローレ」はピッタリとあてはまった作品って言えそーだから、SFな人が読んでも多分大丈夫だろー。そもそもが日本だと長野さんはもとより松村栄子さんの「紫の砂漠」とか当小川洋子さん「密やかな結晶」といった、暗喩としてではなくファンタジックな要素を交えて驚きを誘いつつ、寓意を示し心を導く作品ってものが結構あったんで、そんな伝統に新たな1枚が加わったとも言えそう。読み終えて感じるのは広がる空の青さ。田舎でのんびり暮らしたいなあ。


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