メルカトル

 女は化ける。それはもう完璧なまでの化けっぷりで男を翻弄し、人を惑わし世界を踊らせる。自分だけは騙されない、なんて意地を張っていても無理だ。本気で化けた女を相手に戦ったところで男は、人は、世界は絶対に勝てはしない。

 けれども救われる道はある。慎ましくあること。勤勉であること。そして純粋であり続けること。騙されたって気にしない。信じて信じ抜くことで、偽りは真実となってそのまま女へとはねかえる。信じてさえいれば後悔に沈む気持ちも、憤怒に燃える心も起こらない。

 女は化けるという真理。信じて生きていればいつか必ず良いことが訪れるという真理。2つの真理が長野まゆみの「メルカトル」(大和書房、1300円)という物語から浮かび上がる。

 航海に役立つ地図を作ったオランダ人の名前がタイトルになっているとおり、地図が重要なモチーフとして登場するこの物語。主人公のリュス・カルヴァートは、地図ばかりを集めたミロナ地図収集館で受付に立ち、働いている。

 まだ新米。赤ん坊の頃に、運河を船首にある女神像の形をした流木のウロに入れられ、漂っていたところをすくい上げられ、孤児院へと預けられて成長した。里子としてもらわれることもなく、孤児院で17歳まで育ったリュスは、高校を飛び級で出ると大学に入る学資を稼ぐために、育った場所から列車で3時間ほどのミロナの街へと出て職に就いた。

 着いた街で買った案内図で見つけた部屋を借り、そこからミロナ地図収集館へと通い仕事をこなし、帰って食事をして眠り、起き、仕事に向かう日々。孤児として育つなかで得た歳にそぐわない大人びた態度で、実直に地図収集館の受付をこなしていたある日。エルヴィラ・モンドという人気女優と同じ名前を持った女性が、自分には重い名前を呼ばず番号で読んでくれたリュスに関心を寄せて来た。

 情に流されることもなく、職務だからと淡々とやり過ごしたリュスは午后、本物のエルヴィラ・モンドをおしのけるように台頭して来た、アイドルのルゥルゥが出演するイベントに出られるチケットが当たるキャンペーンに応募するため、バブルガムの包み紙が欲しいと娘にせっつかれた上司に頼まれ、近所のドラッグストアへと赴く。

 3つしか残っていなかったバブルガムを買い、カウンターで支払った時にそこにいたダナエ・ルーターという名の黒髪で無愛想な少女のアルバイト店員から、またしても妙な関心を抱かれるリュス。そこも淡々とやり過ごしてアパートの部屋に帰り着いたところに、今度は本物のエルヴィラ・モンドが待っていて、リュスのところに届く手紙を預かり、運んで欲しいと頼んで去っていく。

 まだ終わらない。昼間の地図収集館に現れた本名がエルヴィラ・モンドという女性がリュスの部屋にやって来て、その部屋を自分が借りることになったと言いだす。自分の方が先に借りたはず。そう思ったものの契約が正しかったかは分からない。ならばとリュスは反論をせず、仕方がないと出て行こうとするのをエルヴィラ・モンドは押しとどめ、自分が余所に行けば良いと言って出ていった。

 鍵は地図にあった。メルカトルなる人物から、地図の好きな場所にピンを打てばそこが自分の住処になると言われ、エルヴィラ・モンドは地図収集館で地図を選び、リュスに好きな数字を2つたずねて、その数字をもとに線を引き、交点にピンを打った。リュスのアパートの上だった。

 女優のエルヴィラ・モンドも地図に適当なピンを打って、そこに手紙の転送を頼もうとしてやって来た。リュス自身にもメルカトル氏から手紙が届いていて、地図の好きな場所にピンを打てばそこに住めると誘われていた。戸惑うリュス。けれどもピンは打たず、地図には目もくれず、本名がエルヴィラ・モンドという女性にも実直に応対して退いてもらい、リュスは最初のアパートに暮らし続ける。

 アルバイトとして老婦人の話し相手になって、なぜか巨額の小切手を手渡されてもリュスは喜ばない。事故で服を汚してしまった女性に弁償代だと差しだそうする。道ですれ違った老婦人に陥れられて警察に連れて行かれようとしても、逃げず何も隠さずに従おうとする。

 時々現れてはリュスにプレゼントをくれるダナエとの淡い交流も重ねながら、リュスがたどりついた場所。そこにいた女の姿が、ミロナの街に来て出会った様々な女たちと重なってリュスを、読者を驚かせる。そして最後にリュスのアパートを訪ねて来た少女との触れあいが、リュスにいっそうの幸福をもたらし、読者をも幸せに包む。

 なるほど女はよく化ける。けれどもそれに気づいたからといって、口に出すのは不作法というもの。相手を慮り、分別をわきまえ、その時にできる最善のことを続けていけば、寂しい生活にもいつか潤いがあふれ、天涯孤独だった身も大勢の人たちのぬくもりによって満たされる。

 もちろん、現実の世界は甘くはない。騙され奪われる方がむしろ多い。だからこそ「メルカトル」に描かれる物語が強く気持ちに響くのだ。

 すべての最後に、リュスははじめて騙されているのかもしれないと気づく。けれどもそれがどうした。幸せならば騙され続けてやればいい。その実直さこそが化ける女の思惑を覆って、世界地図を幸福の色で塗り潰すのだから。


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