縮刷版2005年5月上旬号


【5月10日】 えっと絵が不思議なんですけど「創星のアクエリオン」。キャラクターの顔は某「VIRUS」ほどではないけれど前の話を微妙に違ってたりするし、あれだけ馴染んでいたCGのメカも今回はCGまる出しでバンクの合体シーンをのぞけば画面から浮きまくり。麗香はシリウスからハートを矢で射抜かれてもーメロメロ。前週に罠避けにされてしまったことを忘れてエールなんか送っちゃってる。

 戦闘シーンはそれでもシルヴィアが初めてヘッドを務めて合体シーンでも横からの盛り上がりを見せつけてくれて目に滋養。でもってラストは合体し直しアポロがヘッドとなっる合体が行われて大ボケ姫(命名アポロ)の2度目の「気持ちいい」が見られて眼福。1度の戦いでは倒せず挫折があってそれを乗り越える成長があって見ていて飽きはしないけど、肝心の絵が1話2話あたりと違ってしまっているのが感動に竿を差してかき混ぜる。果たして再び最高なクオリティは取り戻せるのか。そんな中でも不動GENとリーナの絵だけは良いんだよなあ。やっぱり彼と彼女が本編の主役か。その方が良いかも。月面パンチですとぉ! エヴァのロンギヌスよりすげぇ技使いやがる。

 「マールボロ」とか「キャメル」のパッケージがそのまま拡大された紙袋を買って使って格好いい! なんってやってた小学生だか中学生の頃の意識を振り返ると、タバコの格好良さってのは吸ってる仕草の粋っぷりに負けずパッケージの美麗さってのも大きな要素になってたんじゃなかろーか。ボーイスカウトのキャンプに行ったら内緒で「ラーク」とか「キャメル」とか「マールボロ」なんてキツいタバコを自販機で買っては、味なんて分からないのに口先だけでぷかぷかやってタバコを嗜んだフリしてたけど、「マイルドセブン」とか「チェリー」なんて国産の、今思えばそれはそれでなかなかなんだけど当時の子供的大人心には格好良さの分からなかったデザインのタバコは買わなかったし吸わなかった。「ジョーカー」ぐらいかなあ、デザインでちょい惹かれたってのは。

 20歳までの2年ばかりを割りに一所懸命吸ってた時期も選んだのは「ラッキーストライク」。味がどーとか理屈は付けていたけどよーするに見栄えが格好良かったからであって、実を言ったら味なんてまるで分かっちゃいなかった。いなかったからこそ美味いとは思えずハマりもせず、ちょっと喉の具合が悪いからって医者に行って吸入を受けたのをきっかけにあっさり止めてしまったんだけど、それ以後も時々買ってはやっぱり金魚で吸ったりするのも「ラッキーストライク」だったり「アメリカンスピリット」だったりと、見栄えに特徴がある奴ばかりだったりする。見栄っ張りなだけなんですね。ライターも100円とかじゃなくイムコスだし、「灰羽連盟」でレキが使ってた小さいアレ。

 んで久々に買ってみた「アメリカンスピリット」のパッケージに見えたのは「これは毒だ」ってことを婉曲的に記した巨大なスペース。それが綺麗だった黄色いパッケージの半分ぐらいを裏も表も埋め尽くして書かれてあって醜悪なこと甚だしく、持っていて出してテーブルにおいても全然格好良く見えない。他の煙草は買ってないけど真っ赤な丸が格好良かった「ラッキーストライク」なんかで同じことがやられていたら、日の丸じゃなくって半日の、沈んでいるのか浮かんでいるのか分からないけど見栄えは決してよろしくない。それとも半分のスペースに無理むり日の丸を押し込んでいるのかな。それもそれでみっともない。

 格好で煙草を吸ってるんじゃないって本当の煙草飲みの人たちにとってパッケージの文字など関係ないけど、そーゆー人たちに「健康に悪いんで吸い過ぎんじゃねえ」と言ったって正直無意味、だって読みゃしねえし止めもしねえ。結果としてそれで病気になった時に「説明しておいたでしょ?」って煙草メーカーの言い訳に使われるだけの文言でしかなく、そーしなければ巨額の賠償金をとられかねない裁判的な状況への疑問も浮かぶけれど決まったことだから仕方がない。ただ一方ではパッケージの醜悪化とゆー実害が起こっていたりする訳で、その被害は煙草を格好付けのために吸おうとしていた海外煙草ファンに激しく及んでる。口説こうとバーに入ってとりだした外国煙草の反面に「毒だ」の文字。裏返しても一緒。これじゃあこちらも相手も興醒めだ。ライターにパチンコ屋の宣伝が書かれているより酷いかもしれない。

 かくも醜悪な状況をどー解決すべきか、ってことで注目を集めるだろーアイテムが「シガレットケース」。「スモーカーを救うシガレットケース」ってお洒落モノを紹介するサイトでも言及されていたけれど、現実に起こった煙草のパッケージの醜悪化を前にますます注目されていきそー。とはいえ銀のシガレットケースなんかはスーツ姿じゃないと似合わないし、薄型が多いんで20本が全部入らない。14本とか入れられたって残りの6本はどーすんの? 捨てる? そんな勿体ない。かといって自販機で買って詰め替え残りを吸ってたら路上喫煙だって罰金を請求されかねないからなあ。何と世知辛い世の中よ。

 まあ探せば銀じゃなくってニッケルメッキの、イムコスあたりと似合いそーなシガレットケースもあるみたいなんで今の醜悪なパッケージに辟易としている人は探して使ってみるのも良いかも。その筋の男だったらアニメイラストの缶ケースってのもあるけれど、これを使う人に格好がどうって言う資格はないから無視だ。ってその昔「カリオストロの城」イラストの缶ケースに煙草を入れていた僕が言うことじゃない。いりなかの「アニメック」で買ったんだっけ? それとも納屋橋の東宝にあったアニメショップだったっけ? 懐かしいなあ。ってか変わってねえなあ。

 10日発売の「月刊アニメージュ」と「ニュータイプ」の2005年6月号を買ったら掲載されていた「TBSアニメフェスタ2005」の広告が「びんちょうタン」だった。「エマ」でもなく「鋼の錬金術師」でも「ああっ女神さま」でもなく「びんちょうタン」。何故に? TBSが今イチオシのキャラクターってことなんだろーか、だとしたらちょっぴりほのぼの。このビジュアルに可愛らしさを感じた子供が親ともども「文京シビックホール」を訪れそこで沢山のエルリックとバストもあらわなメイドと眼鏡の真っ当なメイドと苺がましまろな少女に関心を抱く青年を見て驚くんだ。それが狙いか。

 その「アニメージュ」は年に1度の「アニメグランプリ」。だけど「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」と「鋼の錬金術師」が上位を占める中で作品的には2004年度のベストと押したい「ファンタジックチルドレン」が作品部門で54位とまるで奮わずキャラ部門なり各話部門では影すら見えず。圧倒的に素晴らしかった音楽部門でだって「SEED DESTINY」が上位を占める中で「ファンタジックチルドレン」はオープニング、エンディングともに入らず「舞−HiME」にだって負けてしまって何だかとってももの悲しい。けどまあ「ぴちぴちピッチ」だって「ミルモでポン」だって「レジェンド」だって入ってないから話題の「ふたりはプリキュア」だって24位と低位。そー考えると「アニメグランプリ」に選ばれることがすなわち作品の良さ一致するとは限らないんだってことなのかも(と負け惜しみ)。それにしても「APPLESEED」に作品部門で負ける「スチームボーイ」って……。大友克洋さんはそろそろ漫画を描くべきだ。


【5月9日】 こーなるとA.C.ミランに今のメンバー+レアル・マドリッドから移籍(希望)のロナウドあたりで来て頂くか、リヴァプールにラウールが入りアイマールもバレンシアから引っ張るかして入ってから来て頂くかして欲しい年末の「FIFAクラブワールドチャンピオンシップ トヨタカップ2005」。すでにチケットは決勝&3位決定戦を含むセットで購入済みでそれが近く引き落とされるんで銀行に金を振り込む。高いんだか安いんだか。でもあのメンバーでまたしてもな試合を見せられるキリン杯よりは価値あるものになるだろー。公式戦だし。公式戦でも見て試合としての価値があるとは限らないのが今の日本代表だけど。

 老舗に強豪が残った欧州に対して南米はこれからが「リベルタドーレス杯」の決勝トーナメント。温泉カルルスならにオンセ・カルダスもしっかり残っているけれど、ここはやっぱりヂエゴ所属のサントスか、アルゼンチンのボカとリーベの両強豪に残って頂き来日して頂きたいもの。ミランvsボカだったら一昨年の雪辱に向けたミランにとって真剣な試合になりそー。とか言ってるとともに準決勝で負けて中国と中東のチームによる決勝の前座試合になったりして。モチベーション下がりまくりの2チームによる3位決定戦だけは見たくないなあ。一方が破れたとしても一方には決勝に残って欲しいなあ。残るよなあ。でもなあ。

 本郷の東大に行く。いや懐かしい。あの頃は火炎瓶を投げまくったなあ。ってそんな歳ではないし懐かしいとゆーのも大嘘。近寄ったこともなければ近寄ろうとしたこともなく、前を通ることすら恐れ多い場所なんだけど仕事とあらば仕方ない。何年か前に昭和の残滓を振り返りたいと柴又の寅さんに日比谷のゴジラ像に東京タワーに新幹線にさいたま新都心のジョン・レノン・ミュージアムといった場所を巡ったついでに、あの喧噪の70年安保を目前に控えた時代を象徴するまだ閉鎖中だった安田講堂をカメラで撮影しに行き、改装が終わって中に出入りできるよーになった講堂で、マイクロソフトのスティーブ・バルマーだかが講演を行うのを聞きに行って以来だから、結構な時間ぶりに門をくぐって安田講堂の下へとたどり着くとそこには既に長蛇の列が出来ていた。

 眼鏡をかけて細かったり太くてふくよかだったりと、見るからに……な風体の人たちが大半なその行列が目指していたのは「20050509 TV Seriese BLOOD Night/東京大学安田講堂」ってイベント。読めば分かるよーにかつて北久保弘之さんが監督を務めて世界に衝撃を巻き起こしたデジタルなアニメーション「BLOOD」を、あろーことがテレビシリーズにして放映してしまおうって企画が決まって、その制作発表を何故か東京大学の場でやってしまおうってことになってついでに単位がもらえる講義の公開講座もやってしまおうってことになって外から中から大勢の人を集めたみたい。かつて大勢の賢人たちが喋り諭した大講堂に群れ集うアキバな男たち女たち。喋るは我らが押井守監督。40年前と時代は確実に変わってる。

 さてイベントの方は何故か登場の栗山千明様さま様の見目麗しさに脳天を直撃されつつも続いて登場の我らが押井守監督とプロダクションI.G.の石川光久社長に東大の浜野保樹教授も交えてのトークショー。まずは劇場版「BLOOD」で日本刀を持ったセーラー服の少女・小夜が登場した経緯とか舞台が横田の米軍基地になった表と裏の理由とかを押井さんと石川さんが説明。合宿で押井さんとの対話に眠気が差して横田が舞台で良いじゃんと石川さんが投げたボールを押井さんが受けてしっかり理由付けもしてみせたりしたとか、本当はセーラー服が記号的過ぎて嫌いな押井さんなんだけど「BLOOD」では逆に舞台が日本の中のアメリカでもある基地なんでセーラー服が意味を持ったとか何とかかんとか喋っていたけど結論としては押井さんは何事にもちゃんと理屈を付けているか、作った後で理屈を付ける生真面目な作り手だってことが分かる。

 その理屈っぽさは後半に開かれた戦争とアニメに関するトークセッションでも炸裂。好戦的であることと厭戦的であることの間には差などなく等価であってどちらかに偏った意見など皆無。クリエーターはだから戦争を客観的に引いて描くってことはしてはいけなくって、すべてにおいて公平に扱い表現することが何より大切なんだってことを語り倒す。なるほど押し付けがましくも説教臭く戦争を賛美するなり批判したってそれは反戦的であっても、反戦的であるが故に好戦的な面を浮かび上がらせてしまうことになる。むしろ是非を直裁的に描くんじゃなく、また戦闘シーンを直接描くんじゃなくって戦争が行われている世界で、戦争から離れてはいても決して無関係ではない場所を舞台にすることで、戦闘シーンはなくても戦争とゆーものは描けるんじゃないかって指摘になるほどこれくらい考えないと、人はモノ作りなんて出来ないんだって教えられる。

 そんな説教……じゃない教育を受けて育ったプロダクションI.G.の若い面々の名にと羨ましいことよ。劇場版の「BLOOD」にしてからが「押井塾」と呼ばれる社内の制作担当者から企画を募り欠点を指摘し合いつつ利点を伸ばし合いつつ企画を作り上げていくって試みの中から生まれたもので、あの世界が認める才能がどーせ近場にいるんだったらそこで社員を鍛えあわよくば素晴らしい企画を手に入れよーって「押井塾」を実現させて実行させた、石川社長の先見に感心。そんな揉まれ叩かれる塾から今回のテレビシリーズ版「BLOOD」の監督を務める藤咲純一さんも登場して来たんだし、こーした試みが10年後のラインアップの分厚さに繋がって会社を栄えさせるんだろー。やりたくたって他のプロダクションには押井さんがいないからなあ。富野塾? 何か講演を聞いているだけで楽しくなりそー。それが具体的な企画に発展する保証はなさそーだけど。

 そんな楽しくも奥深いトークの果てにいよいよ発表されたテレビ版「ブラッド」の放映時間を聞いて石川さん同様に叫ぶ。「ありえねーっ」。だって土曜日の午後6時だよ。今は「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」がやっててその前は「鋼の錬金術師」が大人気でさらに前は「ガンダムSEED」が放映されてっていった、その時々を代表するアニメが放映される枠。そこに日本刀で切り込んだのが「TV series BLOOD」ってことで夕方のお子さま時間帯に手に日本刀を持って怪物を切りまくる小夜が出てくるアニメが放映されて子供は喜び大人はうなるものなのか、なんだけどそこは敏腕プロデューサーの毎日放送竹田さんだけあって。何かを考えた上で「交響詩篇エウレカセブン」を午前7時にやってもこちらを午後の6時台にぶつけて来させた。考えたことが何かは不明。だけど「ガンダムSEED DESTINY」以上にシビアでシリアスな物語へと進んでいくことが予測されるテレビ版「BLOOD」をスポンサー筋の難色(があったかは不明)も説得してやり遂げる覚悟はもっていそーでその意思が今の「種DESTINY」に続くだろー多くの作品に反映されて今まで以上にハードでシリアスな物語が登場してくるだろーことに期待。


【5月8日】 オトナってキタない。なんてことを読んで教えられた子供たちが将来どんな大人に育つかというと、そんな醜くくて汚い大人の世界を僕たち私たちで変えてやるといった前向きなものなのか、それとも汚いないんだったら俺もあたいも汚い大人になって社会からむしり取ってやるんだといったものなのか。小中学生に「キノの旅」が大人気の時雨沢恵一さんが作った話だけに、与え及ぼす影響の度合いや範囲は広そうだけどそこは5年を過ぎて衰えない人気の持ち主だけあって、読んでそこはかとない爽やかさを得られて、それでいて毒もあってあれこれ考えさせてくれる流れで結んで読む子供たちを導いている。

 3月の上巻に続いて早々と続きの登場した「リリアとトレイズ そして2人は旅行にいった 下」(電撃文庫)は、子供たちといっしょに飛行艇に乗せられたアリソンの娘のリリアと”英雄”が女王様を結ばれ出来たトレイズの2人に謎の飛行機が迫って大ピンチ。撃墜されるか墜落するかといったピンチをトレイズの血筋出生故の賜で乗り切ってしまうけど、最後に明かされる事態の真相は実に薄汚くって残酷で、立案したものたちの非道さがくっきりと浮かび上がって来る。大人って酷い。いやもう酷すぎる。

 けれど、だからといってそうした事態を実際に起こすのではなく未然に防止させ、真相を知らせそれがどんな意味を持っていたのかを教えつつ、錯綜する政治外交の複雑さを垣間見せつつ、一応の正義が最後には貫かれる様を見せて読む子供をホッとさせるようになってる辺りが教育的な配慮という奴か。ライトノベルに妙に殺伐とした話が増えていることもあって、毒は4くらいで爽快感は6くらいでもじゅうぶんに良い話に読めてしまう。「キノの旅」だって十二分に黒い話なんだけど、そこにシズって善人が混じることで救いになってたりするよーに、なかなか塩梅を分かってる。

 二重三重にめぐらされた謀略の網はなかなかに複雑で、どんでん返しもあって奥深い。時雨沢さんが参考に見たヒッチコック映画やスパイ映画の賜か。唯一、トレイズとリリアが飛行艇に乗った経緯に含まれる”意図”が謎だけど、考えるなら人は徹底して残酷にはなれないってことの現れか。それもそれで救いになっている。続く物語がどーなるかは不明だけど「アリソン」と同じ位の分量は出したいって言ってるからしばらくは続くと期待。とりわけカルロなカルラの再登場に。

 タルホさんイイ。「交響詩篇エウレカセブン」はゲッコー号に乗り込んだものの与えられる仕事のつまらなさ、格好良いはずだったホランドたちの日常のだらしなさにはやくも倦怠期を迎えて悩んでいたレントンを、罵倒し叱咤し使いっ走りに使おうとして怒鳴り足蹴にするタルホさんが、その露出の多いファッション(高々度を飛行する船の中で寒くないんだろーか?)ともども見ている人のとりわけ日常に膿んでる男性諸氏の背筋をくすぐりイイ気持ちにさせてくれる。ハルハラハル子さん程に性格言動がぶっ飛んでないのもポイント高し。ヒロインの癖してつかみ所のないエウレカを脇に、しばらくはタルホさん攻略シナリオで楽しめそー。

 もっとも物語の方は「リリアとトレイズ」に負けず劣らず大人の世界の醜さ汚さが明かされる展開。賞金が出るリフの大会には出ないとか、ショボい波に乗って楽しむよーなことはしないとか、カッコ付けててもやることといったら密輸の手伝いで、それもひょっとしたら誰か子供が犠牲になっているかもしれないこと。それを目の当たりにして怒り悩むレントンに良心を期待するとしても、ゲッコー号がそーゆー船でホランド他がそーゆー仕事で生計を立てている以上、いずれはレントンも大人の黒さに染まらざるを得ない。あるいは染まらずゲッコー号を出ていきホランドたちと対立するとか。

 そこまでのドラマを見せてくれたら「戦闘メカ ザブングル」に「太陽の牙ダグラム」に「重戦機エルガイム」といった、政治や社会に翻弄されながらも自分を失わず貫き通す姿に感動の物語へと昇華しそーだけど、ジロンともクリンともダバとも違って自分の信念って奴をレントン、まだ持ってないからなあ。そんな迷いから見つけだす信念にこそ意義があるって考えられないこともないんで、この先のレントンの言動なんかに注目しつつ現れたゼーレだか何かの企みに興味を抱きつつ、予定された1年間を付き合って行くことにしよー。だからタルホさんは最後まで出してね。「エルガイム」だってガウ・ハ・レッシィがいてこそ最後まで楽しめたんだから。

 オシム監督のお誕生会in埼玉スタジアムって手もあったけどお金も乏しいんで無料の女子サッカー「L・リーグ」を大宮サッカー場で見物。なぜかメインスタンドを開けないスタジアムのバックスタンドに陣取りアウェーで登場したTEPCOマリーゼの側で浦和レッズレディースとの対戦を見る。前節に日テレ・ベレーザに7点を奪われズダボロにされたレッズレディースの守備陣に何が起こっているのか、やっぱり山郷のぞみ選手の移籍が響いているのかと気になったけど試合が始まったらこれがどーして、守備は固く青木千里選手のサイドからの放り込みとか佐藤春詠選手の前戦での粘りといったTEPCOマリーゼの幾度とない攻めを跳ね返しては無得点におさえ切った。

切り返しすぐシュート、とかずゴール前まで引っ張り固められて入れられず。桂里奈の苦難は続く  後半途中から投入されたスピードスター、丸山桂里奈選手の突破もディフェンダーがしのぎ切り、逆に前半後半とも去年の得点王でMVPの安藤梢選手がフリーになってもらって打ったシュートで2得点。計4得点で得点王に向けてじりじりと成績を積み重ねて来ている。日テレ・ベレーザのボンバー荒川こと荒川恵理子選手が術後の様子見でいない女子日本代表でもこれなら期待ができるかな? でも荒川選手に代わって入っている日テレ・ベレーザの大野忍選手が良いからまだちょっと厳しいかな。

 一方の丸山選手はスピードはあってテクニックもあるけどいかんせんボールが集まらずフォローがなくって活躍にはつながらず。中盤が分厚い代表だったらそれでも活躍出来そーだけど、途中出場する辺りにどこか故障を抱えていそーで21日のニュージーランド戦での登場は果たしてどーなるか微妙な情勢。でも5台ものテレビカメラが集まった背景には丸山選手の人気もありそーなんで是が非でも出場して頂きその美貌そのテクニックを全国民に見せつけ、更なる女子サッカー人気の向上に力を発揮して頂きたい。

 試合が浦和レッドダイヤモンズと同じ日で重なった時間帯ってこともあって浦和の応援にかけつけたサポーターは少なく、末娘のレディースに専属の応援が付くよーになるまでにはまだまだ精進が必要な模様。それでもトータルで1000人が集まったのは去年一昨年あたりのL・リーグを考えれば異例で、少しづつでも人気は高まって来てるって言えそー。買って上位(首位?)を固めているのも好感で、しばらく続く伊賀FCくノ一に宝塚バニーズにTEPCOマリーゼ伊賀FCとの試合を勝ち続ければ、6月26日の日テレ・ベレーザ戦、7月3日のTASAKIペルーレ戦といった強豪との試合に注目が集まり満員の観衆が訪れる、なんてこともありそー。あとは148センチとちっちゃいけれど動きは抜群でテクニックも抜けてる法師人美佳選手が登場してはコロボックルな愛らしさでもってファンを引きつけてくれることに期待。可愛いんだこれが。


【5月7日】 あらゆる物語形式がやり尽くされた観のある日本じゃあ、眉目秀麗且つ聡明であるべき王子様は無能になってカエルに変えられた王女だと信じてただのカエルを元通りにしてもらおうと森にいる魔女の所に連れて行ったら、魔女を怒らせてっしょにカエルにされてしまったりするし、そんな王子様を案内する森の外れに住む食堂の娘も、食堂に集まる森の怪物たちをあしらいながら自分が人間であることをアピールしつつ、その実母親と祖母が魔女で父親はそれ以上の存在だったりする事実を、知ってそれでも明るく屈託無く振る舞ってたりするよーな話が描かれる。橘柑子さんの「カエル殿下と森の魔女」(ファミ通文庫、640円)のことね。

 そんな裏返しつつ捻りつつメッセージを浮かび上がらせ感じさせる日本の物語に比べると、同じよーにティーンを対象にしながらも米国の物語はまだまだストレートな内容のものが多いみたい。メグ・キャボットってゆー人が書いた「メディエータ ゴースト、好きになっちゃった」(理論社、代田亜香子訳、1449円)は幽霊を見て幽霊の心残りを解消してあげる力を持った女の子が主人公。彼女は部屋に現れる150年くらい前に死んだ青年の幽霊に一目惚れしてしまって、彼が消えてしまうことを怖れて彼の殺されて埋められた死体を探そうとはしない。

 そんな幽霊の青年を殺して別の男性と結婚したかつての許嫁で今はやっぱり幽霊担っている女性も、彼の死体が発見されて自分たちの犯罪が露見するようなことを嫌がっている。けれども主人公の少女の義理の兄たちが死体を見つけ出してしまって、それでもって青年の幽霊は現れなくなってしまう。もっともそれには事情があったんだけど、そーした展開のまあそれなりに錯綜はしているものの、キャラクターの性格が青年はどこまでも純真だし、許嫁はどこまでも悪辣といった感じに裏がなく、捻りもなく善が悪を叩いて終わりって感じになっていて分かりやすい。

 それだけ米国のティーンが純粋なのか、それとも単純なのかは不明だけど、フクザツなキャラに慣れている目にはちょっぴり物足りなく映る。それでもひとり、ただのナンパ野郎に見えてその実いろいろと裏があってあれこれ画策する男が出てきて彼がいったい何を目的にしていて、これからどんな絡みを見せてくれるのかに注目をすれば、いずれ出てきてくれるだろーシリーズを楽しめそう。王子様大好きな純粋真っ直ぐ姉ちゃんの主人公キャラにももー少し、冷静さを覚えて欲しいけど。でないと日本のススんだ読者の感情は掴めません。16歳の主人公と同じ世代じゃあキャラの純粋ぶりに笑ってまたいで素通りしそー。もしかして日本だとローティーン向けに売りたいのかなあ。笹井一個さんのイラストも童話っぽいし。

 「25日発生した少年が友人を刺し殺した事件で、少年の父親の兄に当たる男性が事件の発生を知りながらパチンコを続けていたことが判明、少年の祖父は『身内に犯罪者を出しながら遊興に耽ったことは不適切な事象であった』と謝罪し、パチンコをしていた兄に家督を譲らない処分を行うことを公表した」。何の冗談かと思うなかれ。これに近いことが現実に起こりかかっているし、これと同じことがいずれ遠からず起こりかねない可能性も浮かんでる。

 ってか”不適切な事象”っていったいどーゆー意味だ。尼崎の列車脱線転覆事故に関連してメディアでは連日のよーにJR西日本が事故の後に社員がレクリエーションに勤しんていたことを暴き立てては鬼の首を取ったよーに大批判を繰り広げているけれど、そこで出てきたのが「事故後の『不適切事象』ずらり、JR西が謝罪繰り返す」って記事。んでもっていったい何が”不適切な事象”なのかと思いきや、「脱線後にゴルフ、宴会、旅行…JR西185人参加」って感じの、とりたてて騒ぐ程でもない事柄だったりする。これを1面トップに飾って知らしめるよーとsた「読売新聞」は、5月7日付けで知らせるべき、世界でもっとも大切なニュースだと思ったんだろーか。思ったんだろーな、実際にそーだったんだし。

 なるほど遠く広島とかじゃなく近隣の支社の人たちが遊興していたのはあんまり誉められたものではないけれど、かといって遊興を取りやめ事故現場に駆け付けたってすることはなし。遊んでいるったって別に仕事をサボって遊んでいた訳じゃなく、休みは休みとして取得しそれを自分たちのリフレッシュに使っていたんだろーだけのこと。それが”不適切”だとしたらいったい彼らはどーすれば良いのか。とゆーよりどこまでが”不適切”だとメディアは考えているのか。JR西日本の会長社長はさすがに責任重大だから別にして役員は娘の結婚式に出てはいけないのか。管理職は休日に映画を見に行ってはいけないのか。テレビはニュースだけを観て「エンタの神様」「笑いの金メダル」を見て笑ってはいけないのか。「あかんにきまっとる」って言いそうだなあ、記者は、マジで。

 まあメディアなんて時の話題に走りがちで、それだけやっていたら視聴者読者も納得するって思い込んでる節があるだけのことで、だからたとえば食品に異物が混入していた事件が問題になった直後は、ささいな異物の混入がさも大事とばかりに取り上げられてはメーカーの不手際をあげつらい攻めたてるんだけど、それが”旬”ではなくなったとたんに、画面なり紙面から異物混入のニュースがピタッと姿を消す。注意深くなった分だけ事故は減ってるんだろーけど皆無になった訳じゃないのに画面や紙面からは消えてしまい、なかったことにされてしまう。酷い話だけど、この半年を頭を低くして過ごせば後はどうにでもなるって光明は見える。それはそれで怖いことなんだけど。

 ちょっと前だと自動車の欠陥なんかが狩られる”魔女”だった。最近だと「オーバーラン」。オーバーランはプロであるべき運転士にとって格好悪いことだけど、それで事故は起こらないし人も傷は付いていない。オーバーランが起こったことが問題じゃなく、どうして起こったのかが問題で、それを解決するべき提案を行ってこそのジャーナリズムなのに、どこもそこまでは踏み込まない。なぜか? それは「オーバーラン」とう現象がニュースとしての”旬”だから。

 見ててごらん、半年経てば”旬”から外れた「オーバーラン」はテレビ画面からも新聞紙面から姿を消す。だからといって無くなった訳じゃない。やっぱり「オーバーラン」は起こり続けている。現象に違いはない。なのにニュースにはならない。それはそれで良いことだけど、同時に拙いことでもある。「オーバーラン」の原因は果たして取り除かれたのか。運転士は技量の高いものが務めるようになり、列車がオーバーランを起こさないで済むような設備面の改良がなされオーバーランがスピード超過につながらないよーなダイヤ面の改善がなされていなくても、メディアはニュースとして「オーバーラン」を取り上げず、かくして病巣は除かれないままやがて再び肥大化し、重大事を引きおこす。そしてその時にまた記者はやって来て大声で怒鳴り「不適切な事象」をあげつらっては叩くのだ。こーなるともはや”共犯”だな、メディアは。

 駿河台の「VELOCE」でインタビュー原稿の下地固めを行い神保町の古書店で情報を頂戴した後で折角だからと「神宮球場」まで出かけてセリーグとパリーグの歴史的な交流戦「ヤクルトスワローズvsソフトバンクホークス」を観戦する。昨日が雨で中止となった関係で両チームにとってはこれが開幕戦。1日遅れながらもそれはそれで歴史的な瞬間に立ち会えたのは僥倖だったけど、他球場ではダースヴェイダーが現れたり伊達政宗が登場して賑やかだった始球式が、ファンクラブの小学生の少年だったのはちょっと残念。昨日だったらもしかして真っ当な芸能人が控えていたのかなあ。けどどのみち見ていたのは外野なんでマウンドは遠く彼方。小学生が辻加護だとしても同じなんで良しよしよー。

 陣取ったのは(っても1人だけど)レフトのポールとホームベースのラインを延長したあたりの外野席後段。なのでバッティング練習中の柵越えボールが向かって来るけどさすがに後段まで飛ばす選手はおらずグローブを持たない身でも逃げずに済んだ。3塁側に陣取ったのはパリーグで福岡のソフトバンクだから空いてるんじゃないかって想定したからだけど、1時間前では空席のあったスタンドは試合開始時にはほぼ満席だったのには驚き。ソフトバンクが東京の会社だからって、外野スタンドを埋めるだけの動員を図れるくらいに愛社精神旺盛な社員がいる会社と傍目には見えないだけに、これはホークス自体の人気が関東でも結構なものだと理解する。それともダイエーの社員が向かしとった何とやらでかけつけた? まさかなあ。

 交流試合を実現させた労組プロ野球選手会の古田敦也会長が出場していなかったのが残念なところ。晴れの舞台でそのはつらつとしたプレーを見せて欲しかった。試合はそんな古田選手の後を追って日本を代表する捕手への道をひた走るホークスの城島選手が本塁打を叩き込んだあたりまで見て退散したけどホークスが買ったそーで王貞治監督、幸先の良いスタートを切れたみたいでまずは善哉。横から出てきてかっさらったチームがヘロヘロな人工坊主よりも熟して落ちた常勝チームを手に入れた天然坊主の方に軍配が上がったってことで、IT業界で生き抜いてきた年季の違いって奴を見せつけられた思い。やっぱ凄いわ、天然坊主。


【5月6日】 鉄人の子供っぽいやつってどんなんだ。それを考えるといてもたってもいられなくなるけどからかってもしがみついても、真正面から踵落としを食らわしてくれる鉄人はなし。だから人は圧倒的な居心地の良さに惹かれ絡み取られ、物語世界の住人になりたがって現実からどんどんと遊離していくのだなあ。そんなアニメ版「ハチミツとクローバー」が4話で単行本のほぼ1巻分を消化したってんで単行本を買って読んだらアニメといっしょだった。

 ってかアニメが割りにギャグもレイアウトも含めて漫画を忠実になぞっていたみたい。4話でいうなら真山が生け垣の影に隠れた横を山田が通り過ぎていくシーンはまるで漫画の通りだし、クリスマス会で山田がワインをボトルからラッパ飲みする横ではぐちゃんがシャンメリー(ノンアルコール)を飲む場面なんかは書き文字も含めて漫画のまんま。それをアニメ側のアニメ的に演出し切れない敗北と見ることもできな訳じゃないけれど、漫画のそれが面白さになっている所を、重要な場面はそのままなぞって見せるのは絵で見せる漫画を原作にしたアニメの宿命で半ば義務でもあるんで仕方がない。

 漫画を読んでた人は漫画が絵になって嬉しいし、読んでなかった人は漫画で面白がられたシーンなんだからアニメで見ても面白くないわけじゃない。かくして山田の美脚にはぐちゃんともう1人、眼鏡の多分中学生が劣等感を覚え落ち込む場面も含めて漫画のまんまの絵が流れることになる。一方でアニメ側は原作にはなかったはぐちゃんと山田のシーンを入れて最初から山田を主役級に入れたり、一方で竹本たちとは絡んでもはぐや山田とは絡んでこないローマイヤ先輩のエピソードはまるまるカットして展開を研究室中心に整理している。

 取捨選択した脚本の妙。あと恋愛に絡みそうな場面ではセリフ芝居に力を入れスピードも落とし、オープニング屋エンディングの変奏を流して情感を盛り上げたりする場面なんかも演出の妙。その強弱が30分って時間に塩梅良く盛り込まれていて、綺麗なエンディングから次回予告の断片、そして興味をかきたてる一言へとつながる引きの巧さもなかなか凄い。これは連続ドラマ的な演出か? 連続ドラマを最近見てないんでよく分からないけど面白い。

 ギャグの場面なんか、止まった絵の1発で見せて笑わせる漫画と、ハイテンポでもそこに何秒かの時間の経過が不可欠なアニメではやっぱり微妙に差が出て漫画版に慣れ親しみ耽溺した人には違和感が浮かぶかもしれないことはうっすらとは理解できる。けど絵だと固められた時間を人は何時間でも眺めて内容を理解して、それでも物語的には一瞬と感じたままで流れる物語へと向かうことができるのに、アニメでは止め絵だけを何分間も出しておく訳にはいかず、受け手から時間のコントロール権を奪って送り手側でコントロールしなくちゃいけない。

 そこで生まれる差異を「ハチクロ」アニメはよく埋めているとは思ったけれど、これも原作をまるで読んでない側の意見であって原作ファンんにはそれなりの、アニメを苦手にする理由があるのかもしれない。ただ「あずまんが大王」のよーにテンポが信条の4コマ漫画をアニメにして成功した口もあるんで、半年の放映でどこまで原作ファンを納得させ切れるのか、そうなったとして勝因はどこにあったのかを分析してみたいもの。山田の子供っぽいやつを本当に見せれば誰もが納得? それをしないで納得させるのが腕って奴で。

 会社で資料の山を漁っていたら「東京国際アニメフェア」の「ノイタミナ製作発表会」でもらった「ハチクロ」資料にYUKIのオープニングとスネオヘアーのエンディングが入ったMDがついていたのを今さらに発見。最近は見慣れてきて逆に面白くなって来た野田凪さんの映像とテンポがシンクロして(映像が合わせたんだろーけど)心地よさが生まれてきているオープニング、あれやこれやなドラマが終わりどこか引きずる恋心を切ないメロディーの中にじんわりと味わわせてくれるエンディングはともに素晴らしく、早くCDになってくれないものか、できるんだったら劇中で流れたスガシカオやスピッツも込みでコンピュレーションを作ってくれないか、って願っているけどその前に、素晴らしいオープニングとエンディングをガンガンならして浸ろうと思って気づく。わが家にはMDプレーヤーが存在しない。どうする? 買うってもなあ。今さらなあ。どーしてRに焼いてくれなかったのかなあ。中途半端なメディアになったなあ。MD。


【5月5日】 子供の日。”子どもの日”などではないのだ。よく分からないけれど。とりあえず10時間の爆睡より醒め見忘れていた「フタコイオルタナティブ」の4話を見たらボーボーの親戚が出てた。灰色グマのボーボーは喋る熊として査証も与えられているけど、「フタコイオルタ」に出てきた白クマは喋らず手を挙げ威嚇するだけ。でもって「ゴスロリ仮面」に氷を与えられると抱きつき戦闘から離脱と役立たず。そんなお定まり的展開もテンポ良く繰り広げられていくストーリーの上では目に心地よく映る。上手いなあ。

 ただ途中に出てきて牽制した警官が本筋に絡んでないように見えたのと、終わりの方がストレートに伝わって来なかったのが悩みどころ。夢で「ニコタマ博」を見たのはつまり「うらちょうぼ」を返した結果未来に地上げが行われてしまうってことなのか。本当は「ニコタマ博」が行われてそれを沙羅&双樹と楽しみたかったのか。あるいは返した結果行われてしまう「ニコ博」に良心が呵責を覚えて”悪夢”を見せたのか。関西へと地上げ屋がお土産買って帰っていったのは仕事を終えたからなのかそれとも仕事が捗らなかったからなのか。分からないんでまた見返そう。んでもって来週にはすべてがリセットされた平和なニコタマが舞台になっていると。それもまたお約束って奴で。

 その足で「コミティア」へと出向いてうろうろ。こうの史代さんの原画展とか開かれていてこうのさんの仕事場の風景を模した展示があって卓袱台だか文机に正座して向かうっぽい創作姿勢に畳のほかに何もない部屋で暮らすのも悪くないかもって気になる。けどそんなのは本の量からとうてい無理なんだけど。それにしても人気なこうのさん。出張していたジュンク堂のレジ前にはこうのさんの本を手に持った人で行列が出来てたくらいで1日で相当数を撃ったんじゃなかろーか。良いことだ。

 ただ個人的には「夕凪の街 桜の国」は読んではいるけど何しろ「はだしのゲン」直撃世代で映画も見に行った口(おやじを三国連太郎が演じてたっけ)なんで、原爆の哀しさ怖さを描いた物語としてベストと言われるとやや悩む。まだ戦争から30年も経ってなくって冷戦も続いてて実現はともかく可能性としての世界大戦が取りざたされていた時代に、原爆の怖さをストレート過ぎる絵でもって描いた「はだしのゲン」。戦争に翻弄される家族を描き隣組とか国体とかにすがり呑まれ流されていく一般市民の姿の振り返れば醜くて、けれどもその立場に立たされた時にはそうなってしまうかもしれない不安に揺さぶられたっけ。

 こうのさんの作品は10年が経っても深く残る傷が生む哀しさを描いて心にじんわりとあの戦争、あの兵器、あの時代への憤りをわき上がらせる。それはそれで素晴らしく、故に今の時代に強い印象を持って受け止められたんだろー。ただ時折、こうのさんの素晴らしさを語ろうとして「はだしのゲン」の直裁的すぎる表現を気持ち悪いと忌避し貶める発言が見かけられることもあるのが正直残念。ずりさがる皮膚。腹をガスで膨らませて川面を埋める死体。原爆がもたらした悲劇にはそんなストレートなものもあり、また10年を隔てて人を苦しめ続けるものもある。綺麗だ醜いといった類ではないんだろーけど、時代も変われば人の好みもまた代わる。そんな心を動かす力になり得たという点で、「夕凪の街 桜の国」で選ばれた表現は正しいものだったのかもしれない。でもやっぱり「はだしのゲン」も今だからこそ読んで欲しいなあ。不動GENも言ってることし。「裸足になれ」「って。

 ついでに「ワールドホビーフェスティバル」も覗いてから「ヴィーナスフォート」の下にあるスポーツショップの「グランドーム」を覗いたら大改装中。「マンチェスター・ユナイテッド」と「バルセロナ」と「A.C.ミラン」のショップは存命だったけど、2002年のワールドカップ後にわじわじと増えていった「インテル」に「ユヴェントス」のショップはテープが貼られ入れないよーになっていた。「レアル・マドリッド」のショップもそーなのかな。いやこれはこれから出来るのかな。分からないけど背中に「23 ベッカム」と書かれたユニフォームがバーゲンされていたりする様を見ると、一時の熱狂も冷めかけサッカーそのものへの熱も下がって来てるっぽい。

 こーなってくると、夏にわんさと海外チームが来るけど果たしてどれだけのチームがスタジアムを満員に出来るのかがやや心配。「バイエルン・ミュンヘン」なんて来られたって敢えて見たいってチームじゃないし、あの「マンチェスター・ユナイテッド」ですらカードと開催日によってはスタジアムを満員にできないかもしれないと関係者の人も言っていた。雑誌にプレ記事を頼もうとしてもニステルローイやギッグズやコールやファーディナンドは言うに及ばず、世界が注目するルーニーにクリスチアーノ・ロナウドといった選手ですらも表紙にはなりえず特集記事すら難しいと言われるとか。つまりは「ベッカム様」以外はみんな同じってことでそんな感性に埋め尽くされたこの国で、真っ当なサッカーの情報を読めるようになるなんて先も先。「報道ステーション」が野球を持ち上げサッカーを脇にやるの当然ってことなのかも。だからこそ代表には頑張ってもらわなくっちゃいけないんだけど、あれだからなー、監督が。うーむ。未来は輝いていない。

 新橋からJRで水道橋へと出て「1/1スコープドッグ」を見物。だいたいの場所は抑えていたもののいざとなると迷うかもって心配したけど杞憂。だって同じ匂いの人が水道橋の西側からどんどんと歩いていくんだから迷うはずもない。んでもって到着すると場内はそんな同じ匂いの、衣装も似通った方々がぎっしりで「スコープドッグ」を囲んででかいすごいと唸ってた。なるほどでかいしすごいけどでも天の邪鬼にも思ったのはこれって一種のアートピースじゃん、アートで「ボトムズ」ってアニメで話題になったロボットを模しただけじゃん、それで君たち納得してるの、フィギュアの凄さに感動して1分の1フィギュアを作った村上隆さんをあれだけ非難しといて「スコープドッグ」はおオッケーなの、ってこと。

 本当に「ボトムズ」が好きだったのなら外見だけじゃなくって実際に、コクピットに乗れて歩いて動かせるものを作るべき、って意見も出ているかと思ったけれどおおむね好評に受け止められて、会場にもわんさと人が詰めかけているのは作者の人がアートっぽさをあんまり見せず割りに純粋に「でっけえロボットつくりてぇ」って思いを明らかにしていからからなのかも。これだけロボットな人に注目されると次作るものも関心が集まりそーだけど、並べられてた他の鉄の作品からすれば「1/1スコープドッグ」は異質なライン。けれども期待されてしまってさてはてどんな作品を出してくるのか、ちょっと様子を伺いたい。それともこの路線を突き詰めるかな。インフォバーンから出ていた本は売り切れで買えず。ボルトはとりあえず遠慮したけど空いてそーな日にまたいって買って来よー。


【5月4日】 SF研究会の若者たちが集まり語り合う部屋をのぞた「SFセミナー」の合宿1時限目は参加した現役SF研究会員のことごとくが兄ちゃんだったので隅で死ぬ。1人、ワセダミステリクラブから参加の副幹事長さんらしー人が女性で眼鏡っ娘で、そこだけ目を覚まして、その赤がワセミスで1番目くらいに似合う姿を遠巻きに眺めつつもっといっぱいこういう方々を育てて下さいお願いします、でないと僕たちに明るい未来の訪れる日は永遠にないかもしれないと、SFの神様に願ったらそれは無理だと言われる。神様ができることならとっくにやってるよなあ。スタアとしてサークルにイベントに大会に婦女子をわんさと引きつけ離さない、容姿端麗な子安武人声のSF男、求む。

 本を本好きたちが本について語り合おうとしている公然で苦手な本の話題が出た時のためにわざわざその本を持ってきて投げつけるパフォーマンスを見せる人に勧めたくなる本は、それがどんなジャンルで会ってもあんまり思いつかないなあとひとしきり悩んだりしてから明け方になって帰投し、3時間ばかり眠って起きて「市原臨海競技場」へ。途中に千葉駅で降りてジェフキヨスクとやらを見物したけど色はなるほど黄色のジェフカラーでグッズ類もそれなりに置いててあるけどオフィシャルショップという程の品揃えはなし。たとえ物置のよーでも姉ヶ崎にあるらしーオフィシャルショップことがジェフユナイテッド市原・千葉のファンの心の拠り所なのだ。でも蘇我にホームを移転したならせめてステップアップして欲しいもの。それがせめて100人乗っても大丈夫クオリティーのスチール製物置であっても。ジェフサポだって100人はいるぜ。

 いやもっといた。川崎での試合を落として華麗なサッカー走り続けるサッカーに陰りが見えて来てるんじゃないかと思れわざわざ行かなくてもと来場者の足に重さが出るんじゃないかと懸念された「ジェフユナイテッド市原・千葉vsサンフレッチェ広島」だったけど、ホームで快晴でゴールデンウィークだっただけあって入らないことで名高い臨海に1万人近くが来場してスタンドがほぼいっぱいに。たとえ順位は落ちてきてても一喝が入れば元通りのアグレッシブでスピーディーな試合を楽しませてくれると信じられ初めている現れでこれに結果も付いて来るよーになれば、一昨年だかのもしかして優勝するかもなんて可能性も浮かんだ国立競技場での試合のよーに、正門から下の公園へと伸びた行列が、何重にもうねって公園内を埋め尽くすよーな盛況をまたも見せてくれるだろー。今のジェフを見なきゃ21世紀初頭のサッカーは語れない。と言えるようになるといいナ。

 試合は前半に元千葉の佐藤寿人選手が1点を入れてサンフレッチェリードで迎えた後半に林丈統選手を頭から入れて千葉が前戦からプレッシャーをかけ裏に走り抜けるプレーへと出てそれを、中盤が押し上げサイドが切り裂く戦法へと切り替えたことが奏功して怒濤の攻めへ。幾度となくチャンスを作り1点を追いついたもののその後のチャンスを惜しいシュートで潰してしまって結局1対1の引き分けに。前半の始めのマリオー・ハース選手が蹴る巻き込んでしまってゴールを外したシュートが仮に決まっていれば、出てくる相手の裏を付いてさらに得点を奪いリードを広げて完勝できたかもしれないと思うと残念。けどまだ先はそれなりにあるんで今回の後半冒頭から林選手を入れて機能した感触を次に活かして勝ち点3を奪ってやって下さいな。ってか僕が見に行く試合で完勝ってのがあまりないのは前世に犬でも虐めたからなのか。こぶとり爺さんの悪い爺さんや学芸会で演ったけどポチを殺した花咲か爺さんの悪い爺さんは演った覚えがないぞ。

 「SFセミナー」合宿前に三省堂書店神田本店で買った「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」(翔泳社、2380円)をペラペラ。なにもかもみななつかしい。個人向けプロバイダーが生まれ個人ホームページが増え個人日記が出てきて掲示板が出てきてウェブログが台頭して来て個人ブログが増えてって感じにとことん”個人とインターネット”の関係を中心にした内容は、個人としてインターネットを楽しみ利用して来た人たち我が身のこととして映り親近感を覚えさせ、手元に置いておきたいと思わせる1冊。数行であっても自分のページのこととか触れられていればもう完璧。そんな人がえっと何人くらい? 数千人分は軽く紹介されているURLの数だけは確実に売れるだろー。

 ざっと見て感じたのは、リンクとかによってつながっているとはいえ島状に点在していた個人ページが関わりを持って動きを作り歴史へと発展していく上で重要だったのが数々の”闘争”だったってこと。本に描かれている歴史もそんな闘争の数々に関わった人たちの話が結構な頻度で登場する。背後にはそんな闘争をウオッチしていた何万何十万でやがて何百万何千万の個人ユーザーがいるんだけど、そんな公衆を導くなり迷わすなりする喧嘩屋がいてこそ事は動き、そして歴史は作られ積み重なっていくのだなあ。火事と喧嘩はネットの華とは言ったものだよ。誰が言ったかは知らないけれど。

 もっともこう規模がデカくなって来るとタイマンな喧嘩は見えず目立たず埋もれてしまって歴史にはならず、かといって巨大な”敵”を撃とうとしても太刀打ちできないどころか届かない。ブログをサービスする会社が出てきて客寄せ用の有名人ブログが出来て話題になったりと、より商業メディア的なゴシップが目立つよーになって来ていて個人が背後へとより埋没していってしまいそーな雰囲気でもあるけれど、なあに出てきてたかだか10数年のインターネット、まだまだ”歴史は繰り返される”余地はある。本当の歴史だって闘争によって権力が生まれその権力が闘争によって打破されていく繰り返し。なのできっと面白い戦いがブログなり掲示板なりSNSで生まれそこから新しい試みが登場しては歴史を作り、10年後にきっと出てくる「改訂版 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」にその名を刻んでいることだろー。誰が作るんだそんな改訂版。


【5月3日】 文化の日。じゃない憲法記念日。だったっけ? 連休が大型化してますます印象の薄くなる5月3日は目覚めて録っておいた「創聖のアクエリオン」を鑑賞して今日もし学校があったら小学校は誰もが会うなり「特訓だっ!」って不動GENになった気分を味わいながら言い合っただろーと想像すると楽しくなる。んな訳ねえか。1話の放映が終わった翌日だって小学校で男子生徒が女子生徒に向かって「合体したい」と言い合体して全員で「きもちいーーっ」って叫び合ったって話は聴かないし。いや合体って肩車だけど。危ないことには変わりはないか。それにしても減ったなあ、アニメや特撮のマネをする子供たち。そーゆーのを”リアル”に信じる子供がいなくなったってこと? それとも”リアル”に信じさせようって作り手がやってない現れ? かくのごとき時代にものを作る方々の苦労と数々の成果に乾杯。

 んで「創聖のアクエリオン」だけど「特訓」といきなりやって莫迦展開に引きずり込みつつしっかり展開の中で仲間たちが助け合うことの意義を描き、ピエールが背負っている哀しみを垣間見せ、兄上の優しげでその実目的のためにはとことん無情な本性をのぞかせては最後にしっかり主人公の格好良さと主人公メカの強さを見せて盛り上げてくれる。連続アニメの1話分として申し分ない構成。ここで引きに敵さんチームの悔しがる様と次に投入するメカの凄みの片鱗でも見せれば、さらに次への興味も湧かせられただろーけど今はむしろ敵の地団駄よりも見方の結束が為の方が先ってことで、何とはなしに仲間を信じる心を宿したアポロがシルヴィアやらピエールやら麗花やら眼鏡メカフェチ娘やら眼鏡ハッカー少年やらとどんな絡みを見せてくれるかに注目していこう。もちろん不動GENの無理難題ぶりにも。

 せっかくだからと「ファミリーマート」に出かけてキオスク端末で「アクエリオンブロマイド」なんかを何枚か購入。知らないうちに種類が増えててとてもじゃないけど全部は手に入れられないんで、とりあえず眼鏡メカフェチ娘の正面イラストとシルヴィアの「きもちいーっ」シーンと、アポロとシルヴィアの前世が向かい合っているイラストとあと何だったっけ、4枚ばかりを選んで端末のボタンを押して待つこと1分半。べらべらと出てきたイラストを手に取り後ろを振り返って誰にも見られていなかったことにホッとする。秋葉原なら何を買おうと気にならないけど、一般人も出入りするコンビニで「アクエリオン」に限らずアニメのブロマイドを買うのって勇気いります。そんな人向けにプリント中のサムネイル画像を見えなくする機能を付けた「ファミリーマート」の端末開発者は偉い。

 でらでらと「SFセミナー」に行って桜庭一樹さんの話を聞く。あああれは「このSF作家がすごい」のインタビュー写真にも着ておられた肩の開いてエッジにフリフリがいっぱいついたブラウスだか何かだと間近に確認。靴もカンフーシューズとかじゃなくってヒールの高いミュールか何かでこれで正面蹴りを食らったら、腹筋の鍛えられていない一般人は即悶絶の憂き目を見そそー。けどトークではそんなカラテカ的な素振りはまるで見せず喋れば薄々とした声で切々と語る系。怯えているのか緊張しているのか見えない猫を頭に3匹被せているのか不明ながらも、青春を描く作家には相応しい容姿風貌言動で間近に触れてさらにファンになった人も多そう。考えてみれば「ファミ通えんため大賞」で神野オキナさんと同期ってことだから授賞式で見て写真も録っているんだよなあ。当時はまだデジカメじゃなかったんで手元に保存がないのが残念。どれだけ可愛いかったんだろー。掘り返してみたいけど掘れません。

 そんなインタビューで明らかになったことはあの「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」は立派に”ライトノベル”として描かれたってこと。理由は書いている人が作品の世界に極力大人の視点、例えば先生だったり親だったり藻屑のお父さんだったりの視点視線思考を入れず子供たち側からの視点思考で世界が描かれているってこと。それゆえに同世代の子供が読めば自らのこととして話を受け入れ同じように痛みを覚え泣き感動することができるんだろー。大人の視点が入るとどこか説教受けてる感じになるから、たぶん。

 もっともだからって大人向けに書くときには大人の視点を果たして入れるべきなのか、ってのは悩ましいところで読んで「ガキの戯言」と思い忌避する大人の厳しい読者だっていないこともないけれど、誰もがかつては子供だったし今でも子供でありたいと願う大人たちにとって大人の論理がそこにあって大人だと認識させられるより、子供の世界で子供の論理にくるまれつつ、大人の理不尽さをいっしょになって嘆きたい気もしないでもない。なればこそ仮にこれから大人向けの文芸誌なんかで書くことがあっても、「砂糖菓子」なり「赤×ピンク」で意識した”ライトノベル的”なスタンスを保持して欲しいもの。ただそれだと大人でありたがる批評の人の目はくぐれず結果広まらず売れない可能性もあるからなあ。だったらライトノベルで売れるかってゆーとこれも別なのが更に悩ましいところ。「赤×ピンク」が売れず「死のうと思った」って桜庭さん、言ってたし。

 あとミステリー的なお約束なりも一切入れてないってことでそれは「Gosick」でも同様で、最初に手に取る初心者向け小説としての”ライトノベル”の役割と果たそうとしているらしー。なるほど作者もいろいろ考えているし編集もあれこれ考えているってことで。そんな桜庭さんのこれからの仕事は「ファミ通文庫」で5月に1冊出てそれから東京創元社でミステリーが出るそーでこのミステリーは雰囲気として「砂糖菓子」に近いものになるらしくってちょっと注目。けどやっぱりイタそー。

 抜け出して神保町新津の間にか出来ていた「牛角食堂」ってところで「焼肉定食」の大盛りって奴をオーダー。「松屋」の牛焼肉定食だってそりゃ美味しいけれど根が焼肉チェーンの店だけあって肉も良ければタレもなかなか。なおかつご飯も大盛りにしてくれて肉ともども食べたって感じにさせてくれる。ほかにもチゲ鍋とかいろいろメニューもあったみたいなんでまた行こう。マクドナルドと三省堂書店自由なんとかの向かい合ってるだかの通りだかその手前だかを猿楽町方面に歩くとすぐ。でも平日はやっぱり混んでいるのかなあ。

 戻って「VELOCE」でちょいテープ起こしをした後に会場に入って「鈴木いづみリターンズ」を見物。無頼なイメージのある作家を無頼なイメージで語られがちな高橋源一郎さんとそれから森奈津子さんが語るってゆー興味深げな内容だったけど高橋さん本人は自らの無頼なイメージを前面に押し出すことなくむしろ引っ込めつつ「SF作家って私生活をあんまり作品に入れ込んで書く人っていないねえ。合うとふくよかだったり」と司会の大森望さんの方を見てコメント。言われて見ればなるほど無頼な私生活を作品に押入れたSFってあんまりないけどそれはSFがロジックのジャンルだからであって、にも関わらず無頼な話を入れて作家本人を伺わせつつしっかりSFになってる鈴木いづみの凄さがゲストのトークから浮かび上がって来る。

 「早すぎた80年代作家」と高橋源一郎さんが鈴木いづみさんのことを差して言っていたのに納得させられるところ大で、例えば田中康夫さんのように当時の風俗を上げつつそれとノスタルジックに流すよりは興味のない人にとって異様なものと思われるような注釈をびっしりと付け出した「なんとなくクリスタル」があったり、美貌をテレビや雑誌で披露しつつ自らの体験めいた話を小説にして作家本人ともども”スタア”的に持てはやされた山田詠美さんがあったりした80年代の、そんないろいろな面を70年代に1人で一身に負って世に出て一瞬の花火のよーに活躍しては消えていったのが鈴木いづみさんだったってことらしー。

 仮にもし、80年代に入って鈴木いづみが出てきていたらどんな持てはやされ方をして、そして今にどれほど大成(山田詠美さんが文学賞の選考委員になったような)していたかに興味も及ぶけど、あの時代あの空気の中に咲いた花だからこと美しいのかもしれないだけに難しい。ただ現代において選集が出て売れて第3シリーズも編まれる可能性が浮かんでいるくらいに鈴木いづみが読まれているのは「男性作家が書くようなセンチメンタルな感じがない」(高橋さん)からで、だとするならいつの時代に現れても80年代ならバブル、90年代なら大不況で2000年代ならこの空虚な日々をそれなりの感性で切り取り固定化させてそれこそ22世紀になっても読み継がれる作家となったに違いない。それでも「このスピードで走り続けるのは無理。いつか事故を起こす」(高橋さん)のが鈴木さん。やっぱりインパクトを残して逝きそして永遠になるのだろー。やはり凄い。そして凄まじい。

 じっくりと初めて見た森奈津子さんは黒いTシャツに黒いズボンに黒い髪をして壇上で楚々と構えて笑みを浮かべて美麗な雰囲気。その手からあの作品が生まれるのかと思うとなかなかにクるものがあるけれど、鈴木いづみさんとは違って作品に私生活をぶつけるタイプではなさそーなんで作品があれだからといって初対面でいきなり「ぶって」とは言わない方が大人としては正しいあり方なんだろー。そんな森さんが指摘した、鈴木いづみを読む時にこの人は阿部薫というサックスプレーヤーと燃えるような恋愛をし子供も作り足の指を切り落とし最後は首を吊ったって私生活の凄さをどこまで作品に重ねて読むべきなのか、それとも重ねず純粋に作品として見るべきなのかって部分はこの情報が氾濫した世界で、純粋に何かと向かい合うことの難しさを教えてくれている感じ。かといって世に出ず隠棲しながら作品だけ発表し続けても逆にその隠棲ぶりが作品と絡められる世の中だからなあ。


【5月2日】 川崎フロンターレの試合に現れた謎の蕪(かぶ)の正体が判明。その名も「ピーカブー」って日興コーディアル証券とローソンとが組んで事業化したネットか何かを使った証券販売のイメージキャラクターで、ウェブサイトに掲載されているキャラクターと着ぐるみになったキャラクーの顔の一致度は「愛・地球博」のモリゾーを1としたらピーカブーは1億で、キッコロが1ならピーカブーは1兆くらいと、高い再現性を持っていて知っている人が見ればすぐにアレだと分かりそー。でも知らない人には得体の知れない蕪キャラ。もっと宣伝しないと伝わらないよ日興コーディアル証券&ローソン様。

 清原和博選手のインタビュー記事の一人称が「わい」ではなくって「私」になっているケースがレアだとしたら、サッカーのA.C.ミランで闘犬と呼ばれ潰し屋の役目を着実に果たし続けるジェンナーロ・ガットゥーゾ選手のインタビュー記事の一人称が「俺」ではなくって「僕」になっているケースも同じくらいにレアかもしれない。そんなレアなインタビューを「週刊サッカーダイジェスト」2005年5月17日号で読んで見かけによらない気さくさと戦略の知悉ぶりにやや驚く。一人称が「俺」でそれが誰彼なく噛みつくキャラに描かれていることが多いからなー、ガットゥーゾ。でもってそれが1番似合ってたりするし。

 「サカダイ」インタビューでもPSVのパク・チソン選手を「やぶ蚊のような印象もあるけどね。ここで追い払っても、また別のところに現れる」とちょっぴり噛みつき気味のことも言っているけど「それは冗談」と言って続けて「本当にいい選手だし、イタリアのクラブチームでもやっていける選手じゃないか、と思う。献身という言葉の本当の意味を身体で理解している、数少ない選手のひとりだと思う」とベタ誉め。あのガットゥーゾ様からコメントしてもらえるなんてアジア人としてちょっと羨ましい。

 同じコメントを日本人選手に関して話してって言ってもお世辞レベルを超えたものは出てこないだろーからなー。それだけ「チャンピオンズリーグ」で戦う意味は大きいってことで、日本人がそこに食い込める時はいつになるのか、まずはオリンピック・マルセイユがCL出場を決められるリーグアン3位以内に入りトルシェ監督が残り中田浩二選手がレギュラーを固めてCLの舞台で戦い予選リーグを勝ち残り本戦でも生き残ってA.C.ミランと戦うことになるのかに注目。あとは小野伸二選手がCL出場可能なチームに移籍するか、だなあ。でもってガットゥーゾ選手に削られると。同じ削られるんならそっちの方が名誉だよ。

 思い返せば1997年1月23日。あのセガとあのバンダイとが合併するって話になって浮かんだのはいったい何が生まれるんだろうかって不透明感で、結果やっぱりうまくいかないだろうって予想を翌24日には出していた。結果は周知でお互いのカルチャーが違いすぎると主にバンダイ側の社員に役員が反発して、当時の山科誠社長の独走を諫め引っ張り戻して結果、5月27日には破談へと至った。もし仮に、当時合併が実現していたとしたらどーなったのか、興味はあるし想像は楽しいけれど結果は決してバラ色ではない。

 バンダイは「機動戦士ガンダム」をグループで年商500億円もの規模に育てつつ、東映アニメーションとの付き合いから男児向けに女児向けのあれやこれやを送り出し、グループ全体で2500億円とかいった規模に育ったか。セガはバンダイのキャラクターを取り込み「セガ・サターン」や「ドリームキャスト」で「プレイステーション」「PS2」を超え任天堂も上回っていたか。結果論かもしれないけれど、どちらもやっぱり難しかったと思う。バンダイは預けられていたキャラクターをハンドリングできなくなり、見放されたかもしれない。かといって自前でキャラクターを生み出す力は大きくはなく、勢い経営規模は縮まり玩具業界での存在感を薄れさせていたんじゃなかろーか。セガはゲーム機事業でソニー任天堂の後塵を拝し続けてバンダイともども存在感を薄れさせ、結果的にサミーなりとの合併へと至っただろー。否、サミーですら欲しがらなかったかもしれない。

 破談となったことでバンダイは創業者一族の頸城をはずれ自前のキャラクター開発を強めつつ映像やネットワークといった関連事業を強め世界でも希なエンターテインメント複合体へと会社を成長させた。セガは七転八倒を経つつもやっぱり自前のキャラクターを育てる努力に務め、結果「甲虫王者ムシキング」とゆー大ヒットをセガとセガトイズでもって生み出した。小学生から下の子供たちの間ではもしかすると今、セガの名前はバンダイ以上に強い印象を与えているかもしれない。セガバンダイになったら「ムシキング」は生まれていなかっただろう。そしてそれに代わるものも。

 そんな祝福され得なかった合併と比べて、今日発表になったバンダイとナムコの経営統合はどこからも異論反論が起こりそーもないベストマッチング。ともに創業から半世紀を経てしっかりした事業体となっていて、それでいて家庭的な雰囲気があって社員が働きやすい。片やキャラクターのマーチャンダイジング事業で国内屈指の力を持ち、こなたゲームの開発技術では業界屈指の力を持つバンダイとナムコが統合すれば、事業領域を補完し合いつつ技術やノウハウを交流させて、新しい商品なりサービスを生み出しそうって期待が持てる。セガバンダイではそれが余り見えなかった。

 ともに経営が上向きになっているのも好条件。セガバンダイの時のバンダイは「ピピン」が」大失敗して収益に穴をあけ、それを埋めるキャラクターもあまりなくって将来への不安が漂っていた。セガに合併されれば吸収され分解される可能性も大きかった。ナムコは一時の収益悪化を高木九四郎社長が就任してどーにかしのぎ、「フードテーマパーク」や「太鼓の達人」といったヒット商品も作り出して上向き基調。どちらが負い目を抱くこともない時期で、それぞれが相手の商品に幼い頃から触れて親近感を持っているだろー中での統合は、心理的にも圧迫感がなくすんなりと前へと進んで行きそー。

 急速にお互いを混ぜ合わせることなく、事業会社としてバンダイとナムコを維持しつつ共通化できるところはしていくって手法も相手に呑み込まれるって不安感を抱かせないで済む。懸案があるとしたら少子化ってゆー事態に玩具大手としてどう対応するのかって点で、タカラのよーに家電や自動車といった一般的な消費財にエンターテインメントの要素を入れ込み子供以外の分野を伸ばしていきたくっても、タカラが難渋しているよーにこれはなかなか難しい。ナムコも「太鼓の達人」「テイルズ」「鉄拳」と核はあるけどスクウェア・エニックスの「ファイナルファンタジー」「ドラゴンクエスト」やポケモン「ポケットモンスター」ほどの商業的インパクトを持つソフトはしばらく出ていない。

 いわゆる「ゲームセンター」は来場者に大きな伸びは期待できず、「フードテーマパーク」もどこまで勢いを維持し続けられるか。なんて考えるとナムコとバンダイの統合が乗数的に効果を上げるとゆーよりも、とりあえずは足して0・8をかけたくらいの規模で安定化を図りつつ、それぞれが持てる企画力を発揮して次世代につながるキャラクターなり遊びなりを生み出して、そこにナムコなりバンダイの強みが重なり従来以上のヒットへとつながる着実で堅実な歩みをしていくことになるんだろーし、それが目下すべきことなんだろー。「機動戦士ガンダム 一年戦争」なんてバンダイのキャラクター力とナムコの開発力がベストかバッドかは知らないけれど結びついたソフトもあるけれど、それ以外でどんなコラボの成果が出てくるかに今はとりあえず関心。その売れ行きを見てナムコバンダイが21世紀にどんな名を残すのかを判断しよー。


【5月1日】 「なみをよんでくる」とテレビでアニメのキャラクターが喋る。聞いててっきり「波を呼んで来る」んだと思ったら別のキャラクターが「波を呼ぶ」ではなくって「波を読む」と喋ってさっきのセリフが「波を読んでくる」と言っていたことに気がついた。それのどこが妙なのか、果たして妙に感じるべきかは不明であるいは当方のアクセントへの認識に絶対的な誤りがあるだけなのかもしれないけれど、もしそうではないのだとしたら「交響詩篇エウレカセブン」の音響の人は、ちょっぴり悩ましい人なのかもしれない。攻めてきた軍の艦長とエアポートの責任者が喋っているシーンでの息継ぎのタイミングと長さも妙に気になったし。

 それはソレトして「エウレカセブン」の第3話は成長の物語でとてつもなく重要であるべきと思われていた”旅立ち”のエピソードを中途半端なギャグを交えてあっさりやってしまって拍子抜け。これがそれとも”新しさ”という奴か。「修行してくる」と言ったレントンにじっちゃんはそうかやっとその気になってくれたかとうなずいたけど見ていててっきしレントンがホランドと一緒に行くことを認めたんだと思ったら、違ってレントンは自分のもとで修行するものだとじっちゃんは思ったらしくレントンのためにあつらえてあった工具箱を取りに行き、その前を「ニルヴァーシュ」で走り去るレントンを見て唖然とする。

 作った人はレントンの告白シーンでじっちゃんが誤解しているんだと気尽くと思い、見た人もそう感じたんだろうか。だとしたら僕の物語を見る目は相当に弱っているって言えそう。違うとしたら? やっぱり「エウレカセブン」はどこかズレてる。それも格好悪くズレてる。「ダサイ」とか「バハハーイ」ってセリフを使っていることが格好悪さの源じゃない。根本的に組み立て方に妙なすれ違いがある。さて果てどんな評価を受けるのか。圧倒的にスタイリッシュと受け入れられるのか。当方の感性の摩耗ぶりを確認する意味でも見続け、そして考え続けよう。関係ないけど操縦していたおねいちゃん、タレ目なとことか口調とか、細いウエストの上下のボリュームとか最高。彼女が暴れているうちは「エウレカセブン」、楽しめます。

 自動車事故で死ぬ人の数は年間で7千人から8千人。スピードの出し過ぎが原因によるものが多いよーだけど新聞は事故が起こって人が死んだ話は書いても「スピード違反が今日で1万日連続で起こりました」とは書きはしない。書いていたらきりがないってこともあるけど一方には人間の頭に「スピード違反くらい」って気持ちが刷り込まれ、育くまれ切っているってこともありそう。だからスピード違反はなくならないし、スピード違反による事故で死ぬ人も後を絶たない。例え列車転覆事故の107人の70倍に当たる人数がもう何年も、何十年も毎年のよーに死んでいたとしても。

 5月1日付けの「スポーツニッポン」を読むと「またオーバーラン 6日連続」の記事。尼崎での脱線転覆事故発生から毎日のように列車のオーバーランが起こっている内容だけど、これだけ大量の列車が陸上・地下を問わず走っている国で、オーバーランの起こらなかった日など果たしてあっただろうか。けれどもそれを報じたメディアはなかった訳でつまりは尼崎の事故より前に列車のオーバーランを「新聞ダネ」と意識していたメディアは少なく、一般の方でもオーバーラン如きは取り立てて騒ぐものではないと認識していた。

 それが尼崎の事故を契機に変わったか? それほど変わってはいないだろう。だってオーバーランでは人は死なない。尼崎の事故もオーバーランが直接の原因ではない。問題は、オーバーランを運転士が起こしてしまうような環境でありそれを作り出す経営の側、さらに周りと取り巻く意識にある。訓練されてオーバーランなど起こし得ないベテランを配置し尊ぶ経営がなされていたか。緊張感からかえってオーバーランを起こしてしまうようなプレッシャーを与えていなかったか。そういった方面への言及なくしては、オーバーランなどことさらに取り上げる意味などない。.

 記事には「(JR西日本の)昨年度のオーバーランは59件で6日に1件の割合だった」とあるけれど、尼崎の事故を起こした運転士と車掌が連絡を取ってオーバーランの距離を短く言おう、できればなかったことんしたいと話し合ったことが伝わっている今、この数字を信じる人はいない。それで重大な事故が発生したという話はなく、内々に済まされ流されていた。記事によると「事故後の異常発生は『過度に運転士が緊張しているのではないか』という見方が関係者から出ている」そうだけど、それだけではない。「6日連続」でオーバーランが起こったのは、事故をきっかけに監視が厳しくなって、少々のオーバーランでも報告するようになっただけのことだ。

 報告が上がるようになってすべてのミスが露わになったのは喜ばしいこと。そう言えなくもないけれど、悩ましいのはそうした”ミスを許さない”、それも過去に連日のように起こっていただろうにもかかわらず、大きな事故など起こらなかったミスも許されない状況が起こったときに、運転士に掛かるプレッシャーがいったいどれくらに膨らむものか? といった点。そこでメディアがプレッシャーのかからない環境、筋金入りのベテランが落ち着いて乗務できる環境を作らせる方向へと世論を喚起し会社を動かせば良いんだけど、メディアはただただ「今日もオーバーラン」「またオーバーラン」と書き続けるだけだろう。

 それで起こることは「だったらオーバーランなど起こさせない」と”奮起”した会社側の一段の締め付け。そして更なるプレッシャーに潰された運転士はオーバーランどころではない事故を起こす……。これではいったい何のための報道なのかが分からない。「スポーツニッポン」の記事はおそらくは共同通信あたりの配信だろうけど、載せる以上は編集責任は題字の会社が追う。同様に載せる一般紙地方紙もすべてが載せた記事への責任を負う。そしていずれふたたび何かが起こった時にメディアは果たして自省するのか? するはずがない。だって既にメディアは自動車のスピード違反を撲滅する意志を失っているのだから。3万人もの自殺者が出る責任を追及する意志を失っているのだから。かくして人は潰され死ぬ。寂しい時代だ。

 はるばる来たぜ「川崎市民ミュージアム」。Jリーグの「川崎フロンターレvsジェフユナイテッド市原・千葉」の試合が「等々力サッカー場」であるついでに見たかった「川崎市民ミュージアム」での「時代を切り開くまなざし 木村伊兵衛写真賞の30年 1975−2005」を見物する。どちらかといえば風景のスナップが中心となることの多い写真賞だけに並べられた30年間の受賞作品に映し出された、街並みの変化が見ていて楽しくまさしく”時代を切り取る”写真の楽しさを思わせる。

 1回目受賞者の北井一夫さんの取った日本の田舎の風景は、藁葺き屋根の農家とかあって30年前にはまだあった日本の風景への思慕が募る。93年の19回受賞者だった豊原康久さんのスナップは1980年代末期の都会を歩く女性が主でその服装と、背後の風景があのゴージャスだった時代を懐かしませる。最近の受賞者だったホンマタカシさんの写真ですら90年代に入って急速に”郊外化”した社会の諸相をそこに切り取られたピカピカの一戸建て住宅なりから感じさせる。自然が削られ人工化していく風景の中で人の心はどうなったのか。ホンマタカシの受賞から僅かに8年。その間にますます進んだ“荒廃”を思わせる。

 1人の写真家が30年をとり続けた成果として立ち現れる時代の変化も面白いけど、賞として与え続けた30年が様々な写真家の仕事の重なりとなって時代を多方面から多面的に浮かび上がらせるってのもまた楽しい。その時々は権威的で商業的で任意的でも賞が続けられる意味ってものを感じさせる。だけどでもやっぱり蜷川実花さん長島有里枝さんHIROMIXさんの3人同時受賞は赦せないなあ。あまりに権威的であまりに商業的であまりに媚態的で。3人が潰れず今もそれぞれに活躍し続けてくれていることが救いだけど。

このいきものは、等々力のスタンドの地下にいるのです、ぜったいに  そんなこんな出始めてきた等々力はメインスタンドに屋根がない不思議なスタジアム。どこにでもあるメインだけスタンドであとは芝生のスタジアムをサッカーが始まるってんで改装したって感じだけどだったらまずはメインから、直すのが普通なのに何故かそうなっていないのは何だろう、スペース的な関係もあったからなのかそれともメインスタンドには建て替え不可能な因縁でもあったのだろうか。神仏の類が祀られてるとか何とか。そうかきっと試合前に出てきた得体の知れない蕪みたいな着ぐるみが、等々力のスタンドン祀られている神様で、だから川崎フロンターレのマスコットと並んで場内をうろうろしていたんだな、でなきゃ何の脈絡もなくあんなキャラクターが出てくる意味が分からない。そうと納得。しかし本当に蕪だったんだろーか。だとしたらどーして蕪なんだろーか。武蔵小杉の人に聞きたい。蕪は食べないのかって。

 試合は残念にもジェフ敗戦。走りが信条のチームなのに相手のトップのジュニーニョを警戒してか中盤を押し上げなかった上にサイドからの攻撃も芽を摘まれて機能せず、中央からサイドに流れてばっかりのマリオ・ハース選手1人ではどうしよーもなく得点機らしー得点機を作れないまま行ったり来たりする展開に。そんな最中で最も相手ゴールに迫った瞬間を狙われカウンターをくらいあれよあれよとゆー間に1点を奪われてそれが最後まで響き敗戦へと至る。選手を代えたものの引いた相手ではさしもの攻撃サッカーも通用しない感じ。連戦の疲れもあるんだろーけど相手に研究されて来たってこともありそーで、ここいらで状況を打破できるよーな選手なり戦術の投入が欲しいところ。

 そんな中にあってストヤノフ選手の対敵能力の高さは堪能。1対1は負けず抜けられても確実にカバーに入り潰す技は流石に代表クラスだけのことはある。この守備を見るだけでも価値の有った試合。だけどこれからもその守備だけが光るよーな試合を続けていたら上位進出はおぼつかない。攻撃にハース選手と並ぶ秘密兵器、欲しいなあ。あるいは失点しないよーディフェンス陣の強化につながる選手が。ポペスクってそーいやどこ行った?


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