縮刷版2000年7月中旬号


【7月20日】 聞こえてますか、神戸の方々、あなた方は本当に食べているのですか、ご馳走なのですか、駅前の屋台では土産物になっていて、新幹線のホームには出店があって、町中には屋台もあって、誰もが毎週に1食は必ず摂っているのですか、僕には不思議です、本当なのか知りたいです、本当に「神戸名物」なのですか、「そばめし」とゆー奴は、地下鉄の広告で見かけて、「どろソース」とゆー目にインパクトの文字があって、「そばめし」とゆー一瞬何かを思わせるネーミングがあって、さてはてどんな製品なのかと近寄って見てそこにあったのは、あけぼのって食品メーカーが出した新しい冷凍食品、その名も「そばめし」の宣伝だったのです。

 「そばめし」って言うくらいだから、はあるいは蕎麦の粉でも振りかけてあるご飯なのか、蕎麦つゆで炊いた飯なのか、瞬間思って広告にある写真を見て、実はご飯にぶつ切りの焼き蕎麦を混ぜた新種の炒飯だと知って、なるほどあるあるモダン焼きならぬモダン飯じゃんと納得してはみたものの、でもやっぱり「名物」でそれが「神戸」なんだってことに、どうしても釈然としないんです、だから聞きます、神戸に行けばモスバーガーで「そばめしバーガー」がメニューに載っているくらいに、一般的な食べ物なのですか、それは真実なのですか。

 僕は食べました、そして思いました、とりあえず旨い、米のパサパサとした触感に、混ざる焼き蕎麦の柔らかい歯ごたえが歯茎に馴染み、ソースの染みた米の味に、舌がしっとりと濡れて来る、でもねえ、よくやるんです、コンビニの弁当をレンジでチンせず、ってゆーか家にチンするレジがなく、買って帰ってご飯をオカズの唐揚げとかハンバーグとかとまとめて炒飯にしてしまう時に、付け合わせの焼き蕎麦も混ぜて炒めるってことが、だから「名物」っていうよりは、焼き蕎麦もメニューにある定食屋の賄い飯かと思ったんです、もう1度聞きます、神戸って商店街の定食屋にはかならず「そばめし」があるんですか、レストランで頼めるんですか、尋ねると夕食に食べさせられるんですか、「ちょいそばめしくうていけ」とかって、だったら思います、僕は神戸に行ってみたい。

 チキンライスにスパゲティナポリタンを混ぜて「スパライス」とかって売り出したら売れるかなー、卵でくるんで「オムスパライス」ってのも良いかなー、とか思ったけどどこか買わないこのアイディア、いえいえお金はいりません、試食の1年分でももらえれば。ってなことを考えつつ読書、昨日の続きで星新一さんの「きまぐれ博物誌」(河出書房新社)を読みながら、なるほどSF作家って昔から、日本人の場に流されやすい特質や、マスコミの硬直した横暴さをシビアにクールに眺めていたんだなあってことを思う。「迎合」ってタイトルの「大衆のマスコミへの迎合という傾向がある。『マスコミの大衆への迎合』の誤りではないから誤解しないように」と始まる短文では、マスコミが求める場の雰囲気に視聴者も出演者も迎合してしまう風潮を衝いている。

 問題はそーいったマスコミに迎合しやすい一般人の体質とよりは、迎合してくる人たちをそうと知って知らぬふりとしているよりは、それを当然と考えている節があるマスコミの自惚れとも無神経ともとれる体質なんだけど、同じSF作家の筒井康隆さんが、ワイドショーの功罪を風刺した「四十八億の妄想」に、市井の民間人が瞬間だけマスコミ注目されてすぐに捨てられる「なべて世はこともなし」な傾向を描いた「俺に関する噂」を発表してから軽く20年は経過しても、そんなマスコミの体質は変化せずむしろ一層強くなっているくらいだから始末に終えない。「きまぐれ博物誌」所収の「SFの視点」で星さんが言う、「根源的問いかけ」によって誤謬を浮かび上がらせて考えさせるSFの効用が、マスコミの態度に関する部分では馬耳東風とばかりに入れられてない状況を見るにつけ、SFの無力さあるいはSFすらもせせら笑って取り込んでしまうマスコミの怪物ぶりを強く思い知らされる。

 やっぱり駅のワゴンで買った、戦後を代表するジャーナリストで元週刊朝日編集長の扇谷正造さんの珍しい時評集「みみずく通信」にも、自身を送り出した世界ながらも新聞とかマスコミの思考の硬さを衝く文章があって、それが25年も前に発せられたものだと知って、四半世紀を経てもまったく変化のないどころか、一段と硬さを増している状況に、やっぱり暗澹たる気持ちが巻き起こる。逮捕されたとたんに田中角栄元首相についていた「さん」がなくなって呼び捨てとなり、それが選挙に当選したとたんに「いっせいに『田中前総理』とか『田中前首相』とよんでいる。おかしなことだと思う。首尾一貫せず、その無定見ぶりには、それこそシラケちゃうである」と書いた文章は、自分で考えるってことをせず、マニュアルに従って人情の機微とかに合わせた臨機応変をとれないメディアの思考停止ぶりを憂いている。

 だから変わったかというと、相変わらずの「赤信号みんなで渡れば」的横並び報道のオン・パレード。最先端の教育を受けた最高峰の頭脳が最高給で雇われ最前線に立って最新のニュース伝えてくれるマスコミの、意識の変化の進み具合の最低速ぶりはいったいどういった訳なのか。「みみずつ通信」には大臣の失言に関する文章もあって、本音をサラリと漏らした大臣を、本当に議論しなければならない経済問題を放っておいて国会が空転してでも追究する、それが毎回同一パターンで繰り返される様を紹介しているんだけど、こーした同一パターンぶりはマスコミの報道にだって見られる訳で、本質は何なのか、どういう心理的空間的状況で発せられた言葉なのかを斟酌沈思することなく、単に字面言葉尻だけをとらえて「失言」とあげつらう報道ぶりの繰り返しは、いったい誰の差配によるものなのか。

 戻って星さんの本にあある「ひとつぐらい」とゆー文章に描かれている、運輸大臣の「ひとつぐらい急行をとめる駅をふやしたっていいじゃないか」とゆー発言に反発したマスコミが、国鉄の赤字対策で無人化された路線に「一人ぐらい駅員を置いてもいいじゃないか」とゆー地元の声は好意的に書く、そのダブルスタンダードともとれる態度の振れぶりは、いったいどんな思考回路によるものなんだろーか。20年、30年前の指摘が今も改善されずに行き続けるマスコミ界この奇妙さ。僕も端くれではあるんだけど、実際のところそーいったパターンにはまった報道をする場に居合わせたことがないんで、どーゆー回路でもってそーいった報道に帰結してしまうのかはよく分からない。情報のメディア論なんかより、日本に独特のメディア人気質をフィールドワークなりアンケートなりで調査し研究してくれる人が欲しい気分。もっとも意気軒昂に日本の未来をカチカチの頭でパターンにはめて答えてくれそーなマスコミ人の多そうなことが予想されるだけに、結果も見えてはいるんだけど。ニッポンの未来は暗いなー。

 やっぱり駅の別のワゴンで中古ビデオの安売りがあったんでチェックしたら、驚いたことにあの大原まり子さん火浦功さん水見稜さんが原案に強力していて後でノベライズも出して「SFマガジン」では別冊も出たアニメーション「地球物語」のビデオが並んでいて即購入。実は映画は見ていなくって、買った別冊に掲載されていた話も後で出た文庫も内容をあんまり覚えてなかったりするんで、どれほどまでにSFなのかは知らないけれど、冒頭をサラリと見た限りでは、アニメーションとしてはなかなかに時代を感じさせてくれる。今やSF作家の代表を務める大原さんに、今や生きた伝説と化している火浦さんに、もはや幻になってしまた水見さんの3人が絡んでいて、筒井さん平井さん豊田さんといった錚々たるSF作家が絡んでいた「スーパージェッター」だったっけ、その辺の黎明期にあるアニメほどにも話題にならなかったってのは、なるほどそれだけの作品だったってことなのか、あるいは単純にアニメとしてかがなものかな作品だったのか。確かめつつ見よう。


【7月19日】 ひえええええええええっ、山尾悠子さんのサイン本じゃんと近所の本屋の平積みを見て仰天しつつも、すでに購入済みの「山尾悠子作品集成」(国書刊行会)は8800円とゆー値段がネックとなって2冊目を買うにはちょっと躊躇、大森望さんじゃないけど手を洗って読むくらいなら永久保存用の1冊としてサイン本を別に買っておくって手段もあるけれど、手を洗うのは美麗な装丁華麗な内容流麗な文体への敬意であって決して汚さないためじゃないんで、保存用と閲覧用に分ける意味はあんまりない。かといってサイン本を買って掃除機でも何でも使って真空パックにしたらサインを何故ながら「あの御方が書かれたんだ」と陶酔する訳にはいかなくなるんでムズカシイ難しい。ってな事を言ってるうちにもきっと売れまくって平台から消えてしまう可能性が大だろーし、サインは直にもらってこそのサインって気持ちもあるから、いつかそのうちを夢見つつサイン本は見送ろー、と言って明日買ってしまう、その可能性も否定できないけれど。これだから書痴ってば。

 見たぞ「ヒロスエ、ハタチ。」の文字。さすがに「ヒロスエ」とゆー響きにダイレクトに反応するほどのファンじゃないけれど、「ポパイ」が特別編集した中綴じタイプのグラフ誌風写真集「広末涼子写真集」(撮影・藤代冥砂、680円)は、表紙がいきなり上半身ビキニで谷間もくっきり鮮やかに、おへそものぞいて思わず鼻先で香りを嗅ぎたくなるくらいになめまかしい姿だったりしたものだら、視神経から脳へと至る途中どころか水晶体に至る前、角膜レベルで反射が起こってレジに冊子を持っていってしまった。未だ変わらぬ美貌ながらも既婚でウン歳の山尾悠子さんには出し惜しみしても、可能性はゼロあるいはマイナスさらには虚数な20歳のヒロスエには延髄反射ってあたりに、健康な男子(って歳でもないけれど)の膨らみはじけるリビドーがのぞく、ああ男って。

 中身も水着ありーの肩胛骨ありーのスリットからのぞく太股ありーの開いたTシャツからのぞく胸のなだらかな曲線ありーのと、テレビじゃ見られないサービスカットが満載で、同じく20歳を記念して刊行された集英社の2500円もしやがる「teens」なんかよりも、よほど充実してるよーに感じたんだけどこーゆー反応ってヒロスエな人たちにとって正しいんだろーかどーだろーか。部屋にベッドにトイレに鞄に枕の下にそれぞれ1冊プラス真空パックの5冊の計10冊、揃えたって6800円ならやってみよーかって気にもなる、さてどーするか。なに10冊じゃ甘い100冊買え? うーんそれでこそファンか、道未だ険し。

 駅でやってた古本のワゴンに河野典生さんの「悪漢図鑑」(光風舎書店、昭和51年刊)が200円で乗ってたんで思わず購入、SFってよりはハードボイルドでちょっぴりペーソス入ってるっぽい短編集で、東京を舞台にヤクザや不良やサヨクなんのドンチャカ賑やかなその日暮らしの日々が綴られている、みたいだけど読んでないから不明。巻末の後書きにあるよーな、筒井康隆山下洋輔赤塚不二夫平岡正明らの顔を思い浮かべるストーリーって点から、彼らにタモリあたりが加わって、酒場で冗談を言い合って騒いでいたナンセンスな情熱に満ちた世界を思い起こさせる小説って気もしないでもない、ただし「彼等は少々、知的人類すぎる」とゆー但し書きから、退廃的な雰囲気よりはもうすこし、生活の部分が垣間見えて人情とかいった要素も感じられる。200円って値段の妥当性については不明だけど、今だと差詰め馳星周さんが筆頭になる和製ハードボイルドの1時代として歴史的にも重要な1冊かも。

 なぜかやっぱり200円のハードカバー版星新一著「きまぐれ博物誌」(河出書房新社、昭和46年刊)は短いエッセイがたっぷり入った時間の合間を忘れさせてくれそーな本。読み始めていきなり吉田茂のユーモアセンスを枕に書いた「笑顔とうやむや」とゆーエッセイに行き当たり、吉田茂首相が「サルは国会でたくさん見ることができる」と自身も含めた国会議員をサルに例えたユーモアを発したところ、マスコミの多くがユーモアと扱わず失言と扱ったあたりを境ににして、大臣が公式の席であまり面白い発言をしなくなったとゆー記述に、議員のユーモア性の欠如もさることながら、それを受け止めるマスコミの意識も固くなって行って、失言の揚げ足取りに躍起となる今へと至ったんだなー、星さんは当時からそんな傾向を見抜いてたんだなーと感心する。

 それに加えてエッセイは、突っ込まれるのが嫌な大臣や芸能人が笑い顔だけ見せて口にはしないとゆー、今も同様な風潮を「政治家がいけないのでもない。芸能人、新聞記者、芸能週刊誌などがいけないのでもない。これが国民性なのだ」と喝破して、かつ「笑顔とうやむや。外国人が日本人から日本時が受ける第一印象もこれのはずである」と断じているところが声高な非難ではなくユーモアにくるんだ日本人論になっていて面白い。さてもサミット、集まる外国人の政治家やプレスを前にユニークな発言の1つでもぶちかまして、日本が決して「言語明瞭意味不明瞭」な「神秘の笑顔」の国ではないことを、見せつけてくれるだろーかどーだろーか。

 5000円、でもうむむむむと思わず郵便局へと行ってしまいそうになって財布の中身と相談して踏みとどまったものの、明日の休日を越えて金曜日に果たして平静でいられるか自信がちょっとない。何って勿論「電撃大王」8月号の応募者全員サービスにセレクトされた「あずまんが大王ビッグビーチタオル」のことですよ。147センチ×80センチの特大サイズに描かれているのは「あずまんが大王」に出演中の一見寡黙な運動万能の不良少女にして実は真面目で優しく動物好きなのに報われない榊さんと子供なのに頭が良くって高校に飛び級して来た天才少女のちよちゃんの、何となん何と水着姿なのであります。でしょ、5000円でも当然でしょ。惜しむらくは147センチってことで榊さんが全身じゃないってことだけど、足切れしてる分ボディは等身ってことでシーツに縫い込めば毎日添い寝だって出来そうで、だったら加工用に1枚、真空パックの永久保存に1枚とかって思ってしまうあたりが何かさもしい。「大王」を本屋で2冊、買ってる奴がいたらきっとそーゆー人なんだと思って、決して「お客様、よろしいんですか」なんて聞いてはイケマセンです書店員さん。


【7月18日】 「週刊プレイボーイ」を買う、広末涼子さんのグラビアはあんまり面白くなかったけど、柱谷哲二さんのサッカーコラムは名古屋グランパスエイトの3選手解雇騒動絡みでフロントの対応に支持を表明しているのが意外とゆか真っ当とゆーか、つまりは自分の能力に対する過信ではない自覚があって、監督なりチーム状態なりと対比した上でそこがいる場所なのか違うのかを判断できるだけの「プロ意識」が、柱谷さんの場合はちゃんと備わっているってことなんだろー。「普通なら『こんなチーム、出ていってやる!』となるはずだ」とゆー言葉もそれを裏付けているし。名古屋に居たいと言っていたと思ったら、3人が揃って同じチームに移籍したいなんて言い出して、本人のスキルに移籍金とかの条件面、相手チームの状況なんかを判断した上で、それでも買ってくれるチームに行きたいとそれぞれが判断して言うのがやっぱりプロっぽいと思うんだけどなー。そのヴェルディも拒否していよいよ正念場の3選手移籍問題、いったいどーなることやら。

 その柱谷さんも話題にしているラモスは「週刊朝日」のコラムでやっぱりフロントの側を支持、とゆーよりは選手のプロ意識について話した返す刀で、こーゆー有名選手の時にしゃしゃり出てくる選手会の調停者の態度を強く非難しているのが印象的。高卒で入って20歳前にリストラされてしまうよーな選手の時とかには一切動かず、活動が目立つ選手の時にだけ出てくるのは何故? って憤りはなるほど正しい。名前を忘れてしまったけれど、北島より何年か確か先輩で市立船橋を出てジェフユナイテッド市原だかに入った選手がいたっけか、えっと森崎だったっけ、すぐに首になって水戸だかにいったまでは記憶しているけれど、その後は流石においかけてないんで分からないんだけど、こーゆー選手がほかにもたくさん出ているのに、何をやって来たんだろー。チームがまるごとリストラされちゃうケースだって出て来そーな昨今の経済情勢の中で、ますます活動が注目されるだけに、ラモスのキツい言葉の意味とそこに潜むスピリットが、選手自身のプロ意識の確立とゆー点も含めて広がっていくと楽しいなあ。

 ライジングプロダクションが売り出すアイドルの名前が平愛梨とは、何ともまた分かりやすすぎる名前で驚いた記憶があるけれど、その上を行く周防の名字を持ったアイドルが登場したのにもやっぱり驚いた、とゆーかまさか関係はあるまいと思っていた周防玲子ちゃんがバーニングプロダクション傘下の事務所に所属していて、最初に三谷とゆー名字を移籍とともに変えたらしーとゆー話が「サイゾー」8月号に出ているのを読んで、何ともまた重い名前をつけられてしまって、いったいこの先どーゆー活動をしていくのかって点に興味が深々を及ぶ。まさか脱ぎはしないだろーし、本番なんてもってのほか、かといっていつまでもお姫さまでいられるほどにはアイドルの世界も優しくはないってことだから、ゆくゆくは何らかの展開が図られることになるだろーなー、三度の解明とか「卒業」とか3代目への名前の継承とか、まるで歌舞伎だねえ。残る大手のホリプロからは堀なんとかってアイドルは出ないのかなあ、名字のない優香をいっそ堀優香にしちゃうてのは……うーん書いて字面のエグさがやっぱり気になった、やっぱり堀はちえみにしか似合わない。

 横のページの「CCIA」に出ている「スクウェアとデジキューブ、光通信から出資を受けていた」ってあるけどちょい前に記者発表に行った時に当の山下哲矢さんが確か雛壇にならんでいたよーな記憶があって、その時に配布された会社資料に出資社一覧があってちゃんとデジキューブもスクウェアのあったよーな記憶があるけど、健忘症気味なんではっきりしたことは覚えていないのが難点か。とは言え仕事の面ではスクウェアのキャラクターを使えるネット上のスケジュール帳サービスなんかを提供するってな発表があって、現実にスクウェアだったかデジキューブだかでは使ってるみたいな話があったんだけど、これって周知の事実じゃなかったの? いろいろと複雑な事情があるんだろーけれど、大人過ぎる世界の大人過ぎる事情って難しくってちょっとやっぱり分からんわ。続報を望む。

 山形浩生さんの連載は中谷巌いじりが続く。学校を離れた学者の価値については中谷さんに限らずいろいろと応用が効きそう、でも政治家って道もあるから失地回復は可能かも、名前の売れてるしばらくは、ってことは来年の参院選あたりが転回点か。宮台真司さんと宮崎哲弥さんの対談「m2 われらの時代に」は先月号の記事は覚えてないけど何だから場所がルノアールの会議室っぽいチープな(借りると値段はそれなりにするけど壁紙に丁度に大きな業務用エアコンがちょっぴり社用っぽい)場所を会場に、それなりなお店でそれなりな食事を頼んでいるよーに見せかけて、実は2カ月使い回しでお茶とケーキだけだった連載の最初の頃よりも、切羽つまり感ってゆーか身も蓋もなさ度が上がっているよーな気がする。宮崎さんのまるで海外旅行に始めて行く人が金品のみならず家電用品着替え歯ブラシ電気あんかの一式を胴巻きに詰め込んで巻いたかのよーな肉体も、一段と立派になっているよーだし。

 宮台さんの方も、まー歳なんだからしゃーないかって言えば言えるんだけど、わざあざTシャツにならんでもとゆー気がしないでもない写り具合で、ファンが見たら目を瞬かせそう。とは言え夜の「ロフトプラスワン」に登場した本人は、この時よりもしかしたらスリムになっているかもしれないくらいに、顔の色つや髪の分量ともに堅調で、かといって若い自分のデロリンとした雰囲気も消えて歳相応の落ちつきぶりもにじみ出るよーになって、これならファンも目を見開きそーとか思ったり。人気は相変わらずで6時半の会場の30分前には鉄扉の前に5、6人の人溜まりが出来ていて、しばらくすると階段の上の方までズラリと並んで、開場と同時にメインのフロアはほぼ満席となって横なり奥なりへと人がどんどん詰めかけていて、それも大学を出たか出ないかってな若い人が圧倒的で、こーゆー人たちはいったい宮台さんの言葉を生きていく上での道標にすべく聞きに来ているのか、それとも場にいることで何かに参加している気になりたいのか、単純に熱烈なファンなのか、ちょっと調べてみたい気になった。僕の場合は1と2が半々ってとこ、あとは日記のネタ探しとか、社会参加に酔ってる自分を眺めて酔うとゆー倒錯的な気持ちを味わうためとか。どっちにしたってヤジ馬か。

 メインとなるのはバスジャック事件が登場して実在の事件との共時性が話題となった映画「ユリイカ」の監督を務めた青山真治さんと精神科医の香山リカさん、そして宮台さんに月刊誌「創」の篠田博之編集長を迎えて主に少年犯罪について語るとゆー内容だったけど、登壇した4人は当然ながら映画を見ていても、開場に来ている人の僕をのぞけばほとんど全員が未見だったりしたものだから、話す側もネタをバラしちゃいけないって配慮か、青山さんが言うように「言葉に出来ないから映画を撮るんだ」とゆー理由からか、映画に関する話が前半の最初に少し語られたくらいで、もっぱら反社会的から脱社会的なものへと移っている少年犯罪に関して、北海道ではどうとか埼玉ではこうとかいった、宮台さん香山さんが過去に何度も言及して来たことの繰り返しになって、慣れた人には結構耳タコだったかも。まあ3日に13日と続いた宮台ギグのすべてに来られる人も少ないから、直接その託宣を耳にしたい人も多いだろうし、宮台さんもそれぞれに違った切り口なんかを見せる芸のある人らしいんで、新しい発見なり思考の深化に役立つからそれはそれで良いんだけど。

 言ってしまえば未公開で大勢が未見でストーリーの本質について喋ることが出来ない映画を肴にして何か語ろうとゆー企画自体に無理があったよーな気もするけれど、何でも「ユリイカ」は12月まで封切りはないよーで、もしも劇場公開に合わせたら、時事性がさらに乏しくなってしまう可能性があるから仕方がない。延期については、今だと妙な部分で話題になる可能性があるから、話題が薄まってからの公開にしたとゆーよりも、上映するテアトル系映画館の都合ってことらしく、あるいは人気の「人狼」の影響なんかもあるんだろーか、だとしたら何とも贅沢な話だなーとか思てはみたものの、多くの劇場で箸で棒な益体もない邦画洋画が1週間2週間のスパンでサクサクとプログラム的にこなされている状況が一方にあって、今、語られるべき映画が半年先でないと見られないとゆー事態は、やっぱりどこかに何か問題があるとしか思えない。劇場の都合であったとしても、あるいは時事性ではなく本質を見せるためには冷却期間が必要なのだとしても、一方でビジネスとゆー要素がある映画なんだから、旬を逃すのはやっぱりうまくないんじゃなかろーか。難しいなあ。

 そもそもが映画で扱われるバスジャックは、ある意味「原因」でしかなく一方で佐賀の「バスジャック」事件は「結果」だったりした訳で、同じフィールドに並べて相似性を語ること事態がナンセンスではあるんだけど、かといって佐賀の事件と映画のテーマが切り放せないところが難しいところで、このニュアンスは見ている人でないと分からないから、映画をおおっぴらに肴に出来ない辛さが出演者たちにはあったかも。5月25日に試写を見た時に思った、映画の中でどーしてメディアが今のワイドショー的貪欲さでもってバスジャックの被害者たちを追わないのか、町の住民たちもワイドショー的感性で当事者たちを槍玉にあげないのかってな疑問に関しては、青山監督も宣告承知の上で、メディアの喧噪を削り、町民たちの噂すら削って本質的な部分、つまりはどん底からの快復とゆーテーマを見せよーとしたことを言っていて、それが確認が出来たことがイベントの大きな成果だったかも、と言ってもこれは見ている人間だから言えることで、知らない人には全然分からなかったに違いない。やはり早期の、それも大々的な公開を望みたい、権利売ってもいいからシネコンで拡大公開とかしないかなー、しないよなー。

 会場に東浩紀さんぽい人影が見えたけどすぐに見失ってしまったからドッペルゲンガーだったのかもしれない、挨拶できずにすいません。ゲストの香山リカさんは略歴によれば今年が40歳とゆー人には思えないくらいの若さがあってなかなかな。最前列の右端に座っていた自分からは対角になってほのかにさすライトが生み出す陰影がよくつかめなかったってこともあるけれど、かつて「週刊アスキー」(一般誌)だった頃に登場したアップの写真の時よりも、若くなっているたよーな気がしないでもない、喋り声も若いし。篠田編集長って坊主頭だったっけ? 何かえらく良い人っぽく見えたけど、イメチェンだろーか、相変わらずなサングラス姿の岡留編集長との対比を際だたせる意味での。宮台的定番Q&Aが始まってしまってループ状態になりそーだったんで10時半頃に退散、入り口付近に柳下毅一郎さんがいたのは映画つながりか香山リカちゃんつながりか。やっぱり「ユリイカ」未見だったりするから、近く開かれるとかゆープレス試写を御覧になって、宮台さんも香山さんも言っていた、あの3時間37分がどーして短く感じられるのかを、エキスパートとして教えて頂きたく思います、ホント不思議な映画だなー。


【7月17日】 没後の四半世紀とゆータイミングでは難しかったのかそれとも準備中だったのか、期待しつつも登場しなかった「三島由紀夫全集」が、1970年11月25日に市ヶ谷の自衛隊へと乗り込んでは割腹自殺をとげてから30年となる今年の11月に満を持して登場とか。題して「決定版 三島由紀夫全集 全42巻」(新潮社)は旧全集の刊行後に発見された2000枚を越える原稿と、旧全集にはなかった所感と音声の巻も加わり、対談・座談も充実させた内容になる予定で、となれば三島が市ヶ谷のバルコニーから撒いた檄文とか、行った演説とか東大での全共闘とかの対話なんかも入っているんだろーかと期待しちゃったりもするけれど、ともかくも今世紀最後にして最大の全集でありかつ新世紀最初にして最大の全集になることが約束されたシリーズだけに、やっぱり逃す訳にはいかんよなー。来年初めには全36巻が片づきそうな「定本 佐藤春夫全集」(臨川書店)の流れに続けて買おう、置く場所はないけど。

 全集と言えばこっちもちょっと食指が動く10月下旬より刊行の2000年に生誕100年を迎えることを記念した「稲垣足穂全集 全12巻」(筑摩書房)。単行本未収録作品も含めた全集だけにやっぱり欲しい気が。さらには国書刊行会からは9月に第1回配本予定で「ボルヘル・コレクション 全7巻」の刊行がスタートして、こちらも20世紀最大の文学者、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのほとんどが本邦初訳らしー作品がずらりと並ぶ予定。1冊2400円だから安いっちゃー安いんだけど、難解な作品も多いだけに三島足穂と併行して読むのはわくわくすると同時にびくびくしてしまう。さらに。国書刊行会からは「江戸怪異綺想文芸体系 全5巻」と「現代語訳・江戸の小説 全6巻」と「野坂昭如コレクション 全3巻」も刊行の予定とか。スペース的なことも当然ながらこーなると資金的なことも問題となって全部を全部集めるなんてかなわない。とは言えどれに絞るとも言い切れない魅力が漂って来て財布へと手を伸ばしてしまう。本好きを生まれたからにはやはり、死ぬしかないのか本とともに。

 いやいや1つだけ手があった、本好きを商売にしてしまえば良いんだってことで、「集英社スーパーダッシュ文庫」の創刊ラインアップにあった倉田英之さんの「R.O.D」(集英社、495円)を読みながら、主人公の神保町に構えたオフィスの中に本をぎっしりと詰め込んで暮らす生活への憧れを強める。見かけは高校生と言っても通用するくらいにあか抜けない主人公、読子・リードマンなんていかにも本を読みそーな名前の彼女には無類の本好きでそれこそ匂いを嗅ぐだけで本の価値を確認できるくらいの本のエキスパートで、そんな「能力」に加えてさらに1点、これはちょっと普通の人では真似のできない特技があったためか、ちょっとした良い仕事に就いてそれなりにもらっている給料のすべてを注ぎ込んで、好きだけれども本の売れない作家の単行本をまとめて50冊も買い上げるくらいの散財ぶりを発揮している。ああ羨ましい。

 実は秘密のある読子・リードマンが非常勤講師として赴任した先には、少女小説の世界で13歳から活躍して今やベストセラー常連の高校生作家、菫川ねねね(何ちゅー名前だ)がいて、当然ながら読子は菫川の熱烈なファンで赴任して授業も放ったらかしてねねねが執筆に使っている図書館に押し寄せてはサインをねだり、果ては菫川が直面していた危険に対して完全と挑む、ってのが本編のおおまかな筋書き。本の角が凶器になるとかいった描写の何とも本好きの真理を汲み取った描写がある一方で、サインを求めて来た読子に対してねねねが言う「私はアイドルでもタレントでもないわ。小説家よっ。私が書いた物語をあなたあ読んで感動する、そこまではいいでしょ。でもどうして、サインなんか欲しがる必要があるの? サインなんってただの名前じゃないの」とゆー、あからさまに身も蓋もなく真実を突いた言葉には、サインを求める気持ちのどうしてサインなんか欲しがるんだろうとゆー深奥へと迫って結構考えさせる。

 「作家と開く品は別モノなのっ。作品以外のものを求められても、迷惑なだけ!」と果たして作家の人のすべてが考えているかどーかは分からないけど、そう言われた時にそれでもサインを欲しいを言えるとしたら、いったいどんな気持ちがそこにあるのかを考えてみる必要はありそう。読子の言うように「こんな素敵な話書く人って、どんな人だろうって思ったんです」「好きな人のことって、知りたくなるでしょ?」ってな気持ちが高じての、本人を手元に置いておけない代替としてのサインとゆー意味はあるのかもしれないけれど、一方にはサインをもらったことでちょっとばかりは相手に近づけたかもしれないとゆー下心もあったりするから難しい。後で値うちが出るからってのは勿論論外だけど、サインがあるから高くなるってケースも場合によってはある一方で、逆にサインが汚れとしか見られないケースもあるから除外して、それでもサインを欲しがる気持ちの「何故」を、サインをもらいながら考えてみよー、ってことで「SF大会」ではサインもらいに歩こう、本かついで行って。

 眼鏡っ娘は正しく、小悪魔的な娘も正しく、12歳の美少女も正しいとしたら、そのすべてが重なったキャラクターが登場する小説が正しくないはずがない、ってことで嬉野秋彦さんの「スーパーダッシュ文庫」からリリースされた「フェアリーランド・クロニクル 銀の剣」(集英社、495円)は、誰からの一切の反論異論を許さないくらいに正しく楽しい小説なのである。って言うのは僕くらいか、それとも大勢いるのか、いるよな、いるはずだ。妖精に育てられて剣の腕前は圧倒的で調子も良く口も上手いサイフリートの、魔人にさらわれた美少女を太助に行くストーリー自体も勿論楽しいし、魔人にさらわれる役で、サイフリートににギュッと捕まってにへらと笑う9歳の美少女ドミナの可愛さ可憐さも最高だし、サイフリートと伴に行動して、歳は結構行っているけど妖精なんで美少女のまんまなプリムローズの献身ぶりも見ていて嬉しい。

 が、そんな美少年美少女美妖精を越えてやっぱり見かけはマニッシュな美少女で、その正体は魔人で黒い翼を生やして空を飛んで性格はなかなかなに辛辣で、米村孝一郎さん描くところのイラストではハイレグっちゅーかレオタードっちゅーか、そんな体にピッチリとして小股のキリリと上がった姿をしていて、さらに加えて眼鏡っ娘とゆーベルルールが出ている「フェアリーランド・クロニクル」は、それだけで永遠に語り継がれる小説となるだろう、ああ眼鏡っ娘。以下は蛇足ながら軽いサイフリートの性格をそのまま写したよーな流れる文体に抑揚のあるストーリー展開、ドミナとのへらへらとはしていてもグッと来る別れの場面、謎めいた魔人との今後繰り広げられるだろうバトルなんかを想像すると、本筋の部分での楽しみも十分には味わえることは請負。けどやっぱり期待はベルルールちゃんがどれだけ出てきて小悪魔的にサイフリートを困らせてくれるかって方に期待の99・95%はかかっていたりするんで、そこんところは外さないよーによろしく皆様お願いします。フィギュア出ないかなー。


【7月16日】 集英社から新しいヤングアダルトのシリーズ「スーパーダッシュ文庫」が創刊されてて20日発売のところを早売りの店で何冊か購入、内容への期待はあるんだけど表紙の兄ちゃんのヘチャぶりが気になって高橋良輔監督原案とかゆーDEAD POINT」は今んとこパスしてます、なんかしもぼくれー。あと堺三保さんの「星方武侠アウトロースター 雲海のエルドラド」もまだ未購入、こっちはまあ明日にでも。とりあえず真っ先に「高天原なリアル」で多くの読書人をその爆発する文体で圧倒せしめた霜越かほるさんの「ヘルズガルド戦史 双色の瞳」(集英社、495円)を読む。

 全編がギャグに埋め尽くされた前作から一転しての文明が衰退した未来を部隊にしたSF作品は、編集の人から要求された「目から鱗が落ちる話」に見事答えた本当に「目と鱗」の話だったのには仰天だったけど、故・星新一さんだったかが言った「目から鱗が落ちるのと目に鱗が入るのとどう違うんだ」とゆー言葉にも通じる部分があるのか、「目に鱗」な話でもあって読んでいてなるほど目から鱗が落ちまくる。ってな前置きはともかく、いよいよ立ち上がった新シリーズは、破滅をもたらしたダイオキシンみたいな人間によって生み出された大量の毒素が、人類の遺伝子に重大な影響をもたらして様々なミュータントたちを生み出すようになった時代が舞台。その中にあるヘルズガルドとゆー王国では、人間として完全な形態を持ったものだけが選ばれた民として王族と貴族に連なることが出来た。

 王国でも比較的汚染の厳しかった地域では、完全な人間が生まれる確立は低いらしく、本編の主人公になるデフィも体躯は普通ながらも瞳が赤と緑とゆー双色だったが、レンズ職人の母親の配慮で瞳を髪と同じ色の灰色に覆うコンタクトレンズをはめてごまかすことで、「選ばれし民」として王都に上がって貴族の列に序されることになった。他の「選ばれし民」とは違って光学技術を身につけたデフィ転じてウナ・ライツは、コンタクトレンズを自分で作る為に光学技術を扱える軍人となったが、その才能を認められて近衛師団の副団長に抜擢され、一緒に王都に上がった同じく技術者出身のエクトラ・ベンツィンといっしょに敵との戦いに身を投じて行く。

 一応は完全なエクトラとは違って、自分を偽ったウナの正体がいつバレるのかとゆー緊張感を漂わせつつ、形を変えての人種差別の問題を扱ったストーリーはそれなりに重く、自分は健常でも父母は見かけが一応の人類とは異なるとゆーだけで離ればなれにされる親子兄弟の関係なんかも描かれて、人間の形にこだわる傲慢さが指弾されているよーで痛い。そんな中でも離ればなれにされる哀しみを描き、別れた親なり子なり兄弟姉妹を密かに案ずる王族貴族の姿を描くことで、人間の優しさを浮かび上がらせているのが気持ちをホッとさせる。こーゆー話もなんだ書けるんだなー霜越かほる(美人だと思っていただきたい)さんは。

 イラストに迎えた寺田克也画伯の表紙に描かれたウナの重厚にして決然とした相貌がなかなか。文庫にはポストカードも入っているから、これだけ欲しさに2冊、3冊と買ってしまいそー、こらこらダメだよ3枚を別から抜いて入れてレジに持ってっちゃ。戦車の搭乗口から上半身を出して手に散弾銃を握った双色のウナのイラストが最高な口絵は、4枚あっても実は2枚をトリミングしてたりするからちょっと省エネ、本編のイラストも上手いんだけどまるで線画だし、とはいえ天野画伯のまるでカスミを集めたよーなイラストよりはちゃんと人間してるけど。「人狼」をやってる劇場のロビーに流れていた北久保弘之監督作品「BLOOD」に出てくるバンパイア姉ちゃんのイメージが重なっていたのか、てっきりウナも刀を振り回してるんだと思いこんでいたけどショットガンだったか。間をおかず2巻目も出るみたいで、シビアな戦争の場面へと突き進んだ展開が果たしてどーなるのかが今から楽しみ。ウナはやっぱりバレちゃうのかなあ、最後には。バレても幸せになれる世界が来ていると嬉しいなあ。

 ワーナーマイカル市川妙典へと出向いて「カードキャプターさくら 封印されたカード」を見る。混む映画は指定席にして行列なんてさせず立ち見も作らないがモットーなワーナーマイカルにしては、なぜか指定にはせずチケットを買ったお客さんをロビーに30分以上も並ばせて整列させるあたりが、アニメオタクとゆー修羅の道へと子供たちを引きずり込む映画を見せるにあたって、2時間3時間から果ては徹夜の行列だって当たり前なんだとゆーオタクの運命を、ほのかに習得させる狙いでもあったんだろーか、あるいは単なる来場者数の見込み違いか。行列には慣れてはいても流石にワーナーマイカルで30分の行列は趣旨から言っても何か違うよーな気がするなー、次からは気を付けて頂きたいものですね。

 入ってしばらくすると場内はほぼ満席で、両脇を小学生っぽい女の子が固めるとゆーシアワセを噛みしめつつも、戦闘美少女アニメなんだけど決して大きい男のお友達にだけ媚びていない、女の子たちの想いを受け入れるだけの普遍性テーマ性を持った作品なんだってことを改めて知る。戦闘美少女がおたくの願望だと想うのは、アニメ評論の世界で発言力影響力を持つオタクなおっさんたちの言説にやっぱり影響され過ぎているのかも。小難しい学術用語を繰り出してアニメがとてつもなく深淵なものなんだって想わせてくれる言説も決して嫌いじゃないけれど、浅学非才な身には言葉を弄んでいるよーな気もときどきだけと浮かんで目眩がする時もあって、そんな時にはアニメとゆーよりマンガ映画は昔も今もずーっと子供たちのものだったんだとゆーことを、オタクの特殊性に立脚しない観点から見た言葉が欲しくなる。オタクな僕には出来ないけれど、誰か熱く語ってくれい。

 さくらと小龍の「言いたーいの、言えなーいの」ってなラブコメちっくな展開が続く前半にちょっぴりイライラもつのって、もっとメリハリを付けてくれって感じたけれど、そんな想いの積み重ねがあってのラストの迷いと哀しみと快復なんだと想うと、なるほど全編を通じてまとまった良い話だったのかも。前の映画でも哀しい女性の姿に結構ジンワリ来たけど、今回はもうちょっとポジティブな意味で「良い話だなー」とジンと来る、隣りの小学生だか中学生だかの女の子も終わった後で目なんがゴシゴシやってたくらいだし、カッたるいさくらの態度が眠くてこすっていたのかもしれないけれど。知世ちゃんの舌なめずりしてるかのよーなさくらちゃんへの倒錯ぶりが炸裂しているのも映画ならでは、ニンマリした顔はちょっと怖い。おまけのケロちゃんたこ焼きを追いかける話のスピード感もさることながら、山崎くんの相変わらず嘘吐きな言説もなかなか、そーですかタコってのは鮹だったんですか。


【7月15日】 とり・みきさんの「クレープを二度食えば とり・みき自選短編集」(筑摩書房、620円)を買う、文庫にコミックが入る時代でも筑摩だとやっぱり恒久感が漂うなあ、単なる判変えってパターンとは違って。入っている作品は全部読んだことがあるけれど、実家に置きっぱなしの「とりみ菌」やら「プチアップルパイ」に所収の作品を読めるのは有り難いし懐かしい、とりわけ2話目の「遊星からの美少女X」は「プチアップルパイ」を読んでて見慣れた感じの見慣れない絵柄が出てきて誰だと思って見てとり・みきだと気づいてこんなタッチも描けるのかと驚いた作品で、流れるドタバタとは違った甘酸っぱさのあるトーンとも相まって、強く印象に残っている作品だったりする。

 タッチについては「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」に始まって「SFマガジン」に所収の短編やら長編「山の音」やらへと続く、スクリーントーンを使わない超絶カリカリ画法でもまたのけぞった記憶があって、人間鍛えれば強くなるし空だって飛べるし湖の水だって飲み干せる、かもしれないってことをその作品から存分に教えられた。だって「薔薇の進さま」の人なんだよ。「るんるんカンパニー」の人なんだよ。それがデビューから5年くらいでこーなって、20年くらい経った今ではあーなってるんだから驚かない訳がない。20年経った今も現役第一線ってところの凄さもなるほど、こーゆーチャレンジ・スピリッツの結果としてあるんだろー。表題作の「クレープを二度食えば」はボーイ・ミーツ・ガールがタイムスリップな読むだに羨ましい話、偶然の出会いを夢見て20余年、未だに夢を見続けているんです(ちょっと「はっぴいえんど」調)。

 「JIN−ROH」を見る、それは楽しいお酒、違う沖浦啓之監督のアニメーション映画「人狼JIN−ROH」をようやく見る、封切りから1カ月以上経しているのに土曜日の初回から場内は7分8分の入りになっていて、自分の見た2回目でもやっぱり7分8分は入るアニメ作品ってのは「パーフェクトブルー」くらいしか印象にないなあ。話題作で十分に一般受けする内容なのに、アニメで美少女が出てないからって事で単館でしか公開できないんだとしたら、何か映画の本道とゆーものを見失ってるよーな気がするけれど、まあ良いそれでもお蔵入りなんかにせずちゃんと公開したってことで日本の映画業界もまだまだちゃんとしてるって事にしておこー。去年だったら多分音楽の溝口肇さんだって超ってほどには有名じゃなかったし、これも怪我の巧妙って奴なのかも。

 まずもって戦後の左翼運動の動勢に関して理解のあった方が感じをつかめる気はするなーと思ったけれど、入っている客は20代が大半で中に10代もいるよーで、市電が走る昭和30年代の日本でどーしてあんなに内戦みたいなことが起こっているのかを、果たしてどこまで感じられたかってのは難しいけれど、とにかく政府に反対する人たちがいて、それを鎮圧する部隊が出来て、中に先鋭化する部隊があって、けれども次第に経済が発展するにつれて左翼活動が下火になって、強力なパワーをもった部隊の必要性が云々され始めてるんだなってことが分かれば、あとは何とかついて行けるでしょー。警察予備隊すなわち今の自衛隊が治安維持の方面へと回っていたら、もしかしたらありえたかもしれない未来(過去に遡って別れた未来、という意味)、だったかもしれない。

 そんな喧噪が残る日本を舞台にした、機動隊とゲリラとの恋物語だったらまるでつかこうへいさんの「飛龍伝」だけど、こっちの日本は機動隊なんて生やさしい存在じゃなくって全身を装甲服で固めて機銃を手にもってガンガンとやる特機隊、その精鋭部隊に当たる「ケルベロス」のメンバーが一方の主人公の伏(ふせ)一貴、悲恋の相手となるのはテロリストをやっていた妹が主人公の目の前で爆死した、とゆー少女。でもってどこか罪悪感めいた感情を少女に抱いているらしく、伏はテロリストの墓参りに行った先に現れた少女と逢うよーになっていく、よーな話に見えてどっこいってあたりが単なる悲恋物に追わされない脚本・押井守の嫌らしさってゆーかしたたかさってゆーか。特機部の削減を画策してふりかざす大人たちの「正義」が可愛く純粋に見えるくらいに、闇で蠢く陰謀の醜さに胃がよじれ、繰り広げられる残酷なシチュエーションに背筋が凍る。「そして狼は少女を食べた」。本当は残酷な昔話を地で行く展開に、けれどもそれが現実なんだと目も冴えてしまう20世紀最後にして最大級の問題作。また見に行こう、ヒロインの決してのぞけないスカートの奥に心眼で白を見つけるために(それちょっと違うーっ)。

 原宿へと回って神宮前スタジオで「インディーズ・ムービー・フェスティバル・サミット2000」とやらを覗く。インディーズ映画の祭典ってことで何年か前から続いているイベントらしく、その映えある第1回目のグランプリを受賞した「ダウン・トゥ・ヘル」の北村龍平監督がご褒美として撮れることになった劇場用映画がいよいよ完成、そのお披露目も含めたイベントってことで場内は満席の大盛況だった。こんなに映画を愛する人がいるなら日本の映画業界ってまだまだ安泰じゃん、とか思ったけれどコア・ファン集中の法則ってのがあってイベントなんかに集まる人の濃さを商業ベースに敷衍させることの困難さってのを、SFやミステリーとかのイベントで皆が読んでる度の高い本が実際はベストセラーどころか重版すらかからない事態を見るにつけ強く認識しているだけに、この盛況が果たして経済的に見合った成果をもたらしてくれるのかを心配する、北村龍平監督の劇場用最新映画「VERSUS」を見るまでは。

 インディーズだ新人監督だって事で劇場用とは言っても自主制作っぽいノリでアクションも他愛ないんだろーとナめてかかた気持ちは冒頭の10分で粉々に。まずはいきなりの侍アクションで胴体がタテにヨコにと真っ二つになる殺陣が繰り広げられ、続いて現代へと転じてどこからか逃げ出してきた囚人らしい2人のうちの1人が、もう1人を迎えに来たらしー車から降り立った5人の男を相手にして、車から出てきた女を何故か助けようとして銃を撃つ場面から始まって、エンディングまでをほとんどノンストップのガンアクションに殺陣に肉弾戦の大バトルは、そのすべてがスピード感に満ち迫力に溢れ様式美に優れた極めつけのものばかり。わんこそば状態で極上のメインディッシュを食べ続けて、それが全然満腹にならずに次の皿が早く来ないかと身を乗り出させるくらいのインパクトでもって、見る人すべてを引き込んでは息をも吐かせない。

 CGなんかで嘘くさいリアルさを見せるなんてことはせず、血糊にしても抜き手の通った胴体にしても体と体がぶつかり合うバトルにしても、すべてが生身の肉体を駆使しての作業で、人間やる気に作業と技術が追いつけば、どんな映像だってデジタルエフェクトなんて使わずに撮れてしまうんだってことを見せてくれる。ぐるぐると回り込むカメラワークにどの場面を見てもすべがピタリ決まっているレイアウト、見ている人の気持ちを読みとっているかのよーに盛り上げ溜めて落とすタイミングは、まるで秒間24コマのレベルまで人間の思考を入れて練り上げ作り上げるアニメーションの様。これほどまでの場面を作り上げられるほどにフィルムを回して1つのバトルでも様々な角度から撮影した監督の凄さ緻密さもさることながら、「JIN−ROH」でもスーパーバイザーとして名前を出していたノンリニア編集の第一人者、掛須秀一さんのなるほどこれが編集の技量かと、改めてその凄さを思い知る。もしも日本に掛須秀一なかりせば、これほどまでの”Jムービー・レボリューション”は起こり得たっただろーか。

 原宿新宿池袋の夜を闊歩していそーなほどに若く強そうな顔立ち肉体を持った役者たちを集めたキャスティングも最高、今は誰1人として名のある人はいないけれど、遠からず日本の映画を背負って立つ人になるだろー。そしてあの人のことだから最初は2丁拳銃を振り回すか刀で斬りまくる役でもやってんのかと思いきや、意外にも何かあると気絶する(させられる?)とゆー”正統的”ヒロインを演じた三坂知絵子さんにも拍手喝采を。喋りは出演の誰よりも上手かった。香港映画とチャンバラ映画とウェスタンが3倍速でぎっしり詰まった迫力では地球規模でも現時点におけるトップクラスと断言したいこの映画が、インディーズ故の哀しさか、年内の一般公開は予定されてないってのが何とも残念。国際市場を視野にいれてまずは海外で箔をつけて、ってんだったらそれは「JIN−ROH」とも同じ戦略なのかってことになって、それほどまでに日本の興行は自分たちで良い物を判断する目がないのかってな憤りも生まれてくるけれど、遠からず評判を聞きつけて是非ともウチでとゆー配給元が出てくるのは必定、21世紀の幕開けを飾る世界映画が日本からってな勢いで、来年の大ブレイクを今から期待しつつ成り行きを見守ろう。

 場内ではプレス席の最前列中央通路よりで観賞。通路を挟んで隣りに北村監督がいて役者のような体格顔立ちで監督っぽくない佇まいに世間が放っておかないとも思う。その横にいた三坂知絵子さんは「家畜人ヤプー」の頃より幾分か締まって来ているよーな、衣装が黒だったせいもあるのかな。当方の横には「ヤプー」のプロデューサーを務めた怪人プロデューサーこと康芳夫さんが座ってて、後ろにはやっぱり「ヤプー」に出ていた多分大久保鷹さんもいてと豪華絢爛。三坂さんつながりなんだろーか、前方には高取英さんの姿も見えたし。上映後の囲まれるスタッフキャストを横目に混雑の中を退散、とにかくのアニメに実写に日本映画の凄さを堪能できた1日でした、まだまだやれるぞ日本映画。


【7月14日】 考えてみればOVAなら30分で放映された作品で50分のDVD1枚買うだけで学術書の1冊も買えてしまう金が吹き飛ぶんだから、評論の本になんてよほどじゃなきゃあお金が回る筈もないか、出版活動がメインの現代思想に比べてまず語るべき作品があってこそのオタク評論だし。その意味でタダで読めるネットの論争でも喧嘩でも大歓迎、紙媒体の制約を気にせずに自由に発言できるはずだったには今はいない訳だし。未だに居残ってる当方の党派でいうなら逆張りな方々も観察対象に登場の連載は16日くらいには掲載(続いていれば)。あと何か投稿も募集中、10枚も好き勝手なことガンガン書けるメディアなんて同人かネットくらいしかないぞー。

 サラサラとは正反対の濡れてるってよりはベタベタな長髪に両側から挟まれた、厚ぼったい目に膨らんでたり逆にこけてたりして小綺麗からほど遠いすげえ顔4つが、レコード屋ならまだしも書店の平台からのぞいていたんで買ってしまったよ「レコードコレクターズ増刊 『はっぴいな日々』 はっぴいえんどの風が吹いた時代」(1700円)を。細野晴臣大瀧詠一松本隆鈴木茂の4人が組んでいたとゆーだけで偉大さが分かる伝説のバンド「はっぴいえんど」を撮影し続けていた野上眞宏さんの写真と回想を中心に、「はっぴいえんど」のメンバーだった人の今とかソロになってからのディスコグラフィーとかが入ったお役立ち本。表紙のむさい顔4つは「はっぴいえんど」2枚目の「風街ろまん」に使われていた奇面フラッシュ、ですね。

 勿論「はっぴいえんど」の現役の頃なんて知す訳もなく、細野さんの名前をまず「YMO」で知って、前後して「ライド・オン・タイム」がブレイクした山下達郎さんの名前から辿って大瀧さんの名前に行き着いて、ちょうどその頃にドカンとチャートに躍りでて2年間に渡って日本の夏を席巻した大瀧さんの名盤「A LONG V・A・C・A・T・I・O・N」が出て、さらには記憶だけど雑誌「ポパイ」に「はっぴいえんど」の活動をマネージャの石浦信三氏へのインタビューだかも含めて辿った記事が載ったりして、そんなこんなで「はっぴえんど」とゆー凄いグループが存在したことを知って、再発されていた「ゆでめん」ことファーストアルバム「はっぴいえんど」と2作目「風街ろまん」を聞いて、ってこの間だけで5年の期間はあるんだけど、まず最初に「春よこい」冒頭のうねるエレキーっってな音にヤられ、続いて飛び出した「お正月と言えば」という歌詞にシビれ、「かくれんぼ」の静かなトーンにイかれて「敵タナトスを想起せよ」の不思議、「12月の雨の日」の泣きと畳み掛けられる音と詞の世界に気づいたらズッポリとはまりこんでいた。以来10余年、「はっぴいえんど」のファンやってます、CDは買ってないけどね。

 順序は逆ながら、すでに大瀧さんのボーカリストとしての力は「ロンバケ」(訳すなぁ)で分かっていたから「かくれんぼ」のような唄い方でも意外には思わなかったけど、「YMO」ではひたすらに仙人ヨーダを決め込んで、低音のつぶやきぐらいしか印象になかった細野さんがボーカリストとしてちゃんと務まるどころか素敵に素晴らしい人だったってことを知ったのが驚きで、魅力の低音を張り上げるでもなく、それでいて粒立たせて聞かせる不思議さに、松本隆さんの歌詞の懐かしい違和感も加わって、何とも味わい深い世界がそこにあった。「風をあつめて」の柔らかい光射す朝の光景は都会に1人暮らす者にとっての理想だし、「夏なんです」の強い日差しの下で回る傘のいったい下には誰がいるのか、今も気になってしょうがない。PSゲーム「ぼくのなつやすみ」に鎮守の森は出てくるんだろーか、ビーダマはじく奴等はいるんだろーか、もんもんもこもこの入道雲は空にわき上がっているんだろーか。

 一方でやっぱり大瀧さんの「ロンバケ」は高校時代の3年間を通じて夏を騒がせ続けたアルバムだったから、タイトルを聞いただけであの「君は天然色」のイントロが頭に鳴り響き、「カナリア諸島にて」の甘いサビ、「スピーチ・バルーン」の酸っぱいメロディ、「恋するカレン」の濡れた耳障りが甦っては来るけれど、それに不随する甘かったり酸っぱかったり濡れるよーな思い出がないのは今も代わらない朴念仁ぶりのなせる技、言っててちょっと哀しい。何か急に聞きたくなったんで1500円のCD選書をレコード屋で購入、聴くにつけて「君は天然色」の音の作り込みは凄いことを再認識、古びてないもんなあ20年近く昔の音なのに。スタッフリストの意味不明な「ナガナガバカンスかもねむ会員」に今はSPE・ビジュアルワークスの白川隆三社長の名前を発見、確か太田裕美さんのディレクターもやってたんだっけ、丸山茂雄さんと組んで。エグゼクティブプロデューサーにはフジパシフィック音楽出版の朝妻一郎さんの名前も。コンテンツ産業が云々って言って経済な側からビジネスライクに見ようと思っても、やっぱりこーゆー連なる人脈があっての業界なんだなーってことを再認識する。

 小山登美夫ギャラリーで始まった加藤美佳さんて人のこれが本邦どころか作家にとっても初めてとかゆー個展をのぞく、やあ1番乗りだ。75年生まれで愛知県立芸術大学を出て大学院に在学中のまだ学生とゆー加藤さんの特徴は、さいしょに少女の人形を作ってそれを写真に撮影し、キャンバスに描き取っていく段取りを踏む点で、大きなキャンバスに描かれたどアップの少女の顔は、一見リアルな可愛い美少女を写したよーで、どこか漂うツクリモノノの違和感はなるほど人形の表情で、けれども人形につきものの無表情で硬質なイメージが、キャンバスに描き写される時点で和らげられるとゆー何重ものフィルターが間にはまっているせいか、描かれた少女には本物の少女とも本物の人形とも違う微妙ななめまかしさが漂っていて良い感じ。見ているとグイグイと引き込まれていってしまう、ロリ入ってるから少女なら何でも目がないだけなのかもしれないけれど。

 人形を作ることで生まれる、頭の中にあるイメージと出来上がりとの間にあるノイズが写真に写し取られ平面化されることによって混ぜられ、それが再度キャンバスに描き取られることでもう1段階別のノイズが加わった結果、表情のザラっとした質感と、紙や睫の焦点があった強さのアンバランスさが生じて、リアルなんだけどリアルじゃない、人形でも人間でもない、生命であって同時に非生命でもあるとゆー、非現実の少女を生み出している。それは、案内嬢のコスプレ写真をコンピューター上で背景なんかと合成するやなぎみわさんの非現実感とも違うし、男なのに女性の姿をしてなりきって写真に収まる森村泰昌さんの作品から出る非現実感とも違う。コスプレのポートレートからグロテスクな自作のフィギュアを撮影する方向へと転じてきたシンディ・シャーマンともやっぱり違って、他と比べようのないキュートでグロテスクな世界があるように思う、やっぱり美少女が対象だと褒めるしかないよなあ。

 作った人形が欲しいとゆー人もいるよーだし、撮影した写真が欲しいとゆー人もいるそーだけど、幾重ものフィルターを経てキャンバスに描かれた段階で作品となるんだから、途中の素材はやっぱり単なる素材としてお蔵にいれておくのが正解なんだろー、あるいは資料として保存しておくとか。けど案内のポストカードに写ってる少女の人形は描かれている顔だけじゃなくって「つるぺた」な胸もすべらかな腕もお腹もある立体物なんで、お蔵に入れておくのはやっぱり勿体ない気がするなー、展示だけでも見たいなー。写真とかでは絵の質感があんまり出なくてハイパーリアルな人形絵画にしか見えないんで、是非ともギャラリーへと足を運んで実物を見て下さいな、美少女好きならデフォルトで行くべし。場所は江東区佐賀1の8の13食糧ビル2階。8月5日まで開催中で午前の11時から午後7時までで日月祝は休みだと。


【7月13日】 竹熊健太郎さんより「私とハルマゲドン」(ちくま文庫、780円)を頂く、多謝。そんなに厚い本じゃないのに文庫で780円もしてしまう辺りに何か出版状況の厳しさが見えるってゆーか。前の太田出版版も目を通した記憶はあるけれど、そっちと比べても刷り部数なんかどーなんだろー、文庫だからこそ780円で出せるのかなあ、やっぱり厳しいなあ。最初の刊行から5年が経過して、当時は世間的には理不尽な事件だったとしても、オウムとゆー宗教の枠組みの中では正当だとゆー点で認識の差異を意識することができたし、竹熊さんも自分の体験なんかと重ね合わせて語ることが出来たけど、最近の理不尽な事件は犯行を犯す人のよって立つ基盤が見えにくいだけに、僕たちの世代では考えることも語ることも難しくなっている。酒鬼薔薇聖斗にシンパシーを覚えるとゆー人の気持ちを、想像は出来ても共振は出来ない硬度が思考に出来てしまってるけれど、気になれるうちはまだどこかに割れ目があるのかもしれない。今日もあった宮台ギグは体調不良でパスしたけれど、来週の「ユリイカ」青山真治監督も交えた宮台ギグはのぞこう。

 行きたい行くんだ行くぞと思いつつもまだ見ていない映画「人狼」のサウンドトラック「JIN−ROH Original Motion PIcture Soundtrack」が出ていたんで買う、サントラでは幻の「ホワイトライオン」以来かな、ドラマの劇伴は1枚も持ってないし。映画のストーリーと密接に絡んでこそ聞いて楽しい劇伴ってのもあるけれど、「パトレイバー」「攻殻機動隊」川井憲二さんのようにそれだを聞くだけで逆に浮かぶ押井守的画面ってのがあるよーに、「人狼」のサントラを担当している溝口肇さんの奏でるメロディは、時に現実の喧噪を離れて幽冥に遊ぶような酩酊感を抱かせ、時に雲を割って高みより差し込む光へと手を伸ばして届かない絶望感を覚えさせるようなイメージがあって、評判に聞く映画の雰囲気を感じとることが出来る、でも見てないから本当はどんなだかは不明、明日にでも見ておくかなー、まだやってたかなー。

 エスニックな雰囲気のボーカルが入る辺りが「サウスバウンド」の頃からの溝口さんて感じだし、そーした方面への傾倒はデビューアルバムの「ハーフインチデザート」の頃から「眠るミルブクッシュ」に「キリンと月」なんてタイトルにも現れているよーにあったから、聞いて意外には思わなかったけどテレビの劇伴で見せる割と流れるよーな甘いサウンドとなんかに惹かれて聞いた人はちょっと驚くかも。とは言え、「天空のエスカフローネ」の頃は菅野よう子さんと2人で演っててもアニメな人には菅野さんばかりが注目されて溝口誰? ってな感じがあったのが、今やレコード屋の店頭のPOPに「天才」なんて書かれるくらいの人になってしまったのも、「ビューティフルライフ」「星の金貨」「OUT」「pure」ってな劇伴を担当したドラマのヒットあってのものだから想いはちょっと複雑。それでも有名になって店頭から消えかかっていたアルバムがちゃんと並んでいるよーになった事態はやっぱり喜ぶべきで、コンサートには満員で行けなくっても長くファンやってる身としてはとにかく今の注目を素直に喜ぼう。しかし柳瀬さんどーして溝口さんのコンサートの演奏リスト持ってたのかなあ。

 火事と喧嘩はネットの華、いや火事はネットじゃ起こらないから別にして、本来は直接会える人たちの雑談なりの内輪で語られ外には出てこないよーな悪口が一般に公開されて、それに対する意見がやっぱり身内の電話なり会話なりじゃなくってちゃんと表に出てくる辺りのオープン性、活動するフィールドが違っていて、意見交換をする意味が外部の人に伝わりにくいよーなケースでも、当人たちが互いを認識し合えば喧嘩が成り立つフラット性が、喧嘩をネットの華にしてしまったんだろー。これが電波だったら喧嘩なんてまず乗らないし、紙媒体は執筆編集印刷刊行までのタイムラグが結構あってまだるっこしい、あと商業的にそれを他人が食って楽しいかって点での制約もあるし。って訳で唐沢俊一さんが読売新聞紙上に掲載された書評に対して自分のホームページで言った意見に反論した東浩紀さんの意見は、商業メディアでは多分お目にかかれないだろー直裁的な物言いがあって興味深い。

 党派的云々については、そういった党派とゆーもののメリットもデメリットも感じたことがなく、オタクであってもアカデミズムであっても徹底的に探求した人に対するコンプレックスにも憧れがあって、相手が有名な人であったならゴシップ的な党派分けを口にして面白がることはあっても、意見は隔てなく軽重するし、講演があれば見に行くし著作が出れば目を通す。だからお互いにどうしてそこまで党派性云々を気にするのかが分からない。唐沢さんは自身の見解における党派性の存在を否定しているから、どうしてそこに党派性の読み取ったのか、東さんに聞いてみたい気がする。相手の党派性をあんまり意識してしまうと、対極として自分の側にもある種の党派性があるんだってことを、それが事実か否かは関係なく、読んでいる人に感じさせてしまうもので、派閥対派閥の泥仕合とゆー、野次馬的には分かりやすい構図が立ち上がって来て、本来なされるべき論争が包み隠されてしまう懸念があるからね。

 興味深いのは「現代思想については少なくとも数万規模の固定読者が確実にいて、広告を打つべき雑誌や本を売るルートが確立しているのに対し、オタク系評論ではそのようなシステムがまったく整備されていない」という言葉。そんなに売れるのか現代思想って。自分にとってはオタク評論本の方が切実に自分の知識欲を満足させてくれるから有り難く、現代思想の本が持っている市場価値ってのがちょっと想像できない。現代思想の本がどーしてそこまで市場性を持ち得るのか、積み重ねられた研鑽の賜なのか、それとも庶民が抱く権威へのコンプレックスの結果なのか、やっぱり本当に「現代思想」が面白いからなのか。

 現代思想がどうしてオタクよりお金になるのかとゆー、オタクの側から見れば理不尽きわまりない状況に対して、もっと異論をとなえて欲しい気はあるし、「オタク研究」が今はお金にならなくっても、でもって現時点ではアカデミズム内での長期的な利益には結びつきそうもないと思われていても、未来には「現代思想」を超える権威と社会性と市場性を持ち得るような活動を、期待してるんだけどこれってやっぱり余計なお世話、かなあ。まあ良い、無党派層は評判に流され雰囲気におもねりつつ、どこへとなりに「出没」し続けることにしよー、それが自分に1番正直だから。


【7月12日】 サブノートに液晶割れが発生してゲショゲショ、前回と同じ所が割れるってのはあるひあ直し方がマズくてどっかに不必要な力がかかるよーになってしまっているのかも、とりあえず修理に出したけど直って帰って来ても変化ないよーなら泣くよシャープ。とりあえず買った店にパソコンを預けて近所の「でじこビル」をのぞく。平日なんで客も少なかったけどホビーのフロアがそれなりに商品的に充実していてバンダイの「ザク」のパーフェクトグレードが12000円のところ3割引くらいで売ってて一瞬買おうかと悩んだけれど作り始めると「FF」「DQ」のクリアを超える時間がかかりそーだからパス。エレベーターの中がほのかに香るんで床を見ると芳香剤が1つ、なるほど夏なんで休日あたりに男の子たちをワンサと乗せて上下すれば、やっぱりこもるんだろーなーあのムセかえるよーな青春の香りが。先手必勝、でもこれから本格的に夏だから1つじゃきっと足りないぞー、キムコジャイアントが必要だぞー。

 森総理がオカンムリ、とか。首相官邸に詰めてる番記者に向かって「オフレコ」って前置きした上で取材する時ゃもうちょっと相手の気分とかタイミングとか質問の仕方とか考えろよとか短い間で難しいコメントなんて出せないよとか、立場はともかくとして人間としては真っ当なことを言った上で「書いたらもう付き合わないし書くなら全部書け」と占めたところ、翌日の朝日とか読売が「首相が取材指南」ってな感じで記事にしてしまったのが事の発端、以来総理は番記者がみかける度にあれやこれやと質問をしても一切を無言で通してる。朝日と読売が書いたってのは基本的に総理の懇談はオフレコ無しとゆー慣例に従ってのもので、産経はまあ身内って意識もあったのか記事化は遠慮、毎日は調べてないや。東京は出ていたけれど共同の配信だったのかどーいかは不明、地方紙には出ていたんだろーか。

 偉い人に「懇談」とゆー形で話を聞いてオフレコで書かずに置く、とゆー行為は新聞業界では頻繁にあるもので、そこで得た情報を例えば「筋」とゆー形で記事に繁栄させたり事態の見通しを占う上での参考にするって例は幾つもある。その是非を言うとすれば、正論を吐くならやっぱりなれ合いはマズかろーってことだけど、一方にタテマエじゃない本音の部分を探るとゆー意味もあったりするから難しい。あと時々オフレコ懇談でも差別とか何とかいった問題のある発言があった場合は、「オフレコ破り」を覚悟で書くケースもある。でもって書いた勇気のある社を「掟を破った、除名だ」と騒ぐ御用クラブ記者ってな人が出てきたりするから、訳分かんなかったりするんだけど。困ったもんです。

 で、森総理の場合は立場を考えるならその発言の一つひとつが日本を代表するものである以上は、例えば事件なり事故なり世間が気になる諸相に対する所感を拾うことは不可欠で、それにオフレコなんて前提を付けるのは間違いだし、総理の側もオフレコにするくらいなら発言の重みを自覚して言わないのが筋だろー。その意味で「オフレコは無し」とゆー慣例はあってしかるべきだと思う。仮に「オフレコだ」と総理が持ちかけて来たとしても、その場でヤンワリと「オフレコは存在しない」と告げて、それでも言いたいことなら言わせれば良かったんだろー。そういっ段取りなしに相手がオフレコ気分で話したことを書いてしまったから、総理の側は不信感を抱いたんじゃなかろーか。あるいは話が終わった後で「これはオフレコにするよーな話じゃないですから書きます」と言えば良かったと思うんだけど、その辺りはどーなってんだろー。産経新聞の12日付に出ていた森総理の懇談全文を読んだ限りにおいて、難しい話は全然なくって割と人間っぽい部分が滲んでる、面白い話だったんだけど。

 総理番ってのはたいていが新人の政治記者で、だいたいがメッセンジャー的少年探偵団的に総理のコメントを一言一句まで取ってはクラブのキャップを通して会社に上げる、とてもジャーナリストとは呼べない仕事に明け暮れている訳で、オフレコ懇談ではそこいら辺りへの日本の政治記者システムが抱えている問題点への切り込みもあって、なるほど記者上がりで(政治記者じゃないけれど)政治家としても筋金入りの人らしー話だった。例えばこれがホワイトハウスだと、記者室の最前列に座れるのは選ばれたメディアの選ばれた人に限定されていて、中でもそのみち何十年ってなヘレン・トーマスは宗教系の会社に買収されてしまったUPIを辞めた後も席を剥奪されるどころか逆にUPIが席を失ってしまった。かくも相手のジャーナリストとしての資質を問い、メディアもそれに応えた人材を送り込んでは丁々発止のやりとりをさせる米国に比べて、総理に代わって国の代表として応える官房長官の定例会見が、時々ひどく寂しいこともある。

 オープンな場が形骸化してオフレコ懇談に廊下トンビに夜討ち朝駆けで集めた断片をまとめて記事に仕立て上げる日本の政治面の仕組みへの、今回の1件は投げられた1石だとゆーことになるんだろー。もちろんあの程度の話をオフレコだと言って破られたらヘソを曲げる森総理の心臓もウィルス並みだなーとゆーのは言うまでもないことで、番記者が自立してないただのメッセンジャーならそれなりの扱いで1から10まで懇切丁寧に説明してやるくらいの遇し方をしてやれば、人間のデカさも分かるとゆーものなんだけど、そこが出来ないあたりがやっぱり器なのかもしれない。結局はどっちもどっちのこの1件、サミットとゆー晴れ舞台を前にどんな形で手打ちが行われる事になるのやら。ヘレン・トーマスにしか答えないなんて言い出したらそれはそれで面白いんだけど。


【7月11日】 ワンだからって真夜中の午前1時に立ち上げることもないだろーと思ったけれど「ビーケーワン」、もしも午後の1時とかに立ち上げて昼間の会社にいる人学校にいる学生がいっせいにアクセスしたらパンクして重くなって止まって壊れててんやわんやで新聞に書かれて評判にはなっても賞賛はされない可能性だってないとは言い切れなかったから、テレホタイムとはいっても人の寝静まった頃にこっそりってのが滑り出しとして良かったのかも。

 呼ばれて用事で茗荷谷にある本社にお邪魔してあれやこれやと聞いたら、数字上の見込みではちょっとおぼつかないけどそれなりにお客は集まっているとか。野尻抱介さんの新刊なんかバリバリな予約が入ってて日本で1番野尻さんの本を売る「本屋」になるかもしれない勢いとか。もっともネットって愛好者が集まりやすい傾向があってネットのオフ会で9割の人が読んでる本でも世間的には知名度全然ってケースがあるから難しい。人気をどこまで普遍化できるかにバリューをアピールするプロモーターの腕が試される。

 おかげさまで当方の紹介文も掲載されている秋山瑞人さんの「猫の地球儀 焔の章&幽の章」もボチボチと売れているみたいで、最初のが出て半年も経っているのに今まで読んでなかったのかいってな濃いファンの人の声も飛びそうだけど現実問題評判になりかかった頃合にはすでに書店の平台はもとより棚指しからすら消えているケースが多いからなー「電撃文庫」は。その点で評判を聞いたけど近所にも大きな書店にもない人がみつけて買って行ったのかもしれない。「SFマガジン」とかでまだまだ紹介されそーな雰囲気だし年間のSFベストになる可能性だってあるから、手に入れられる時に入れておきたい方はまあどうぞ。

 「電撃文庫」で「SFマガジン」と言えばおそらくは古橋秀之さんの「ブラックロッド」あたりも紹介されそうな予感もあったりしちゃったしりするんで、売ってるかどーかは知らないけれど注文でもリクエストでもしてブームが起こったりすると、絶版な「ソリッドファイター」もそのすでに書き上がっているらしーのに日の目を見ない続編とかも、あるは復刊されたり刊行されたりする、かもしれないからやってみるのも楽しいかも、ほら作者も大ブーム化を期待(7月10日付)してたりするし。

 とは言え紙での出版の可能性を模索できるうちは古橋さんはまだ幸せかも。平井和正さんの「月光魔術團」のシリーズをアスキーから引き継いだメディアワークスでも第2部のノベライズを刊行した時点で体力尽きたか書き上がっている第3部の刊行はうち止め、でもって平井さんはネットでの刊行にかけると言って「e文庫」を立ち上げたってのは本紙既報で本業の方でも取りあげたニュースだったりするけれど、ゼロックスをバックにオンデマンドなんかもやってる村上龍さんや小松左京さんとは違い、ミステリーの重鎮が発起人となって立ち上げて知名度も高くファンも多くバックもアスキーな「e−novels」とも違って、なかなかに大変な苦労がつきまとっているみたい。

 バックのルナテックはベンチャーでどちらかと言えば平井さんファン代表といった感じがあって、勿論抱えている作家は平井さん1人だったりして、メディアでのピーアールもほとんど皆無といった具合に、条件面でのハンディがやっぱりキツいのか、ついに平井さん本人による背水の陣発言(発言検索ボタンで探そう)が出てしまって、ファンとしては何とかしたいもんだと気ばかり焦っているけれど、そうは言ってもメディアワークスで刊行中のシリーズもまだチェックし終えてなかったりするんで、当方はしばしの猶予を頂きつつも皆様に状況を知って頂く意味でもここにこうして紹介する次第。こっちのページでは秘蔵小説なんかもお蔵出し。古橋さんも出版社に業が煮えたら電子出版に切り替えっちゃ、どう。

 コナミの役員懇親会なんてものがあったんで新宿の小田急サザンタワーだかの21階へ。見おろすと南口から続く高層ビル群がそこで斬れて眼下に代々木の低い街並みが続き、天空より地上を睨む神の尊大さが宿ってしまったのか、さら地にして高層ビルをバンバン立てて大改造すればもっと見栄えが良くなるかも、なんて思ってしまう辺りにやっぱり○○○イは高い所が好きなんだってな故事の確かさを見る。都庁のあの知事室にいれば人間、やっぱり尊大になりますって。あの人はもとから? まあそれもそうだけど。斜め向こうに立ち上がるエンパイアステートビルのパチもんみたいなビルがドコモだったっけ。てっぺんのアンテナだか鉄塔だかが尖ってて、天から宇宙人とか巨人が落ちて来たら刺さって痛そう。刺さらないようゴムにすると末広がりにしてキャッチするようにしないと、神話的、宇宙的規模の大戦争が起きるかも。次の選挙の争点にしよう、UFO党から立候補できたら。


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