縮刷版2000年10月上旬号


【10月10日】 会社は貧乏で親会社もやっぱり貧乏なんだけどグループが入る大家さんはとりたてて経営が悪い訳でもないみたいで昭和のだいたい30年代に立てられた当時としてはモダンだった「サンケイビル」がいよいよ老朽化して来ているってことで隣の新館をツブして一気に高層ビル化を図り始めてから何年くらいたったっけ。いよいよもって最初の工事であって本命でもある30数階のビルが立ち上がり、最初はあまりに貧乏だから家賃が払えず入れてもらえなんじゃないかと噂されてた勤務先も晴れて10階に入居を許され週末をかけてお引っ越しに勤しむ。

 資料と史料の山に埋もれながら仕事するのが美学でありかつ実際的でもある新聞社であるにも関わらず、持ち込める段ボール箱は1人につき1個なんてどこから出てきたか分からないお達しに従って古い写真古いリリース古い白書の類を一切合切処分して、果たしてこれから何かあったらどーするんだと思いつつもそこは世間に熟知しているかどうかはともかく「IT」を標榜する新聞らしく過去の遺物に振り回されるより未来を見つめて生きるんだ的発想はまあ悪くない。だったら捨てた資料はともかくこれから届く資料やら写真やらをすべてDB化してサーバーに蓄積して必要があればすぐにでも参照できくらいの「IT化」でも推進しているんなら言行一致を褒めてあげてもいいけれど、未だに記者の1人ひとりがダイアルアップでネットに接続しているほどでDB化なんておぼつかない。かといって机の上には資料を置くなとのお達しも出ていて毎日届くリリースに資料をいったいどーすれば良いんだと悩む。そっか書かなければ良いんだな(良くない)。

 活字グループでも儲かっている「夕刊フジ」をパーティションも切らず低いロッカーのみで仕切られた大部屋の片隅で仕事をする我が職場。遠く見るに向こうは記者の1人ひとりに引き出し付きの机が与えられている優遇ぶりに「みんなビンボが悪いんや」と1つ呟き明かりの代わりの蝋燭に灯をともす。ってのは嘘ですが。それでも10階とゆー場所は前の5階に比べても隣の旧サンケイビルの10階に比べても格段に高い場所にあってビルの隙間から遠く聖路加タワーものぞむことができる。手旗振れば通信だって出来るかな。

 あと、北側にあるトイレがガラス張りの壁面に背中を向けて朝顔が開く設計で、さすがに板が立ててあって尻は直接は見えないよーになっているけど、上下の隙間から見えるは日本の財界の総本山である経団連会館に日本の経済紙のトップを走る日本経済新聞社。おそらくは経団連会長も日経社長もいる建物に尻を向けて用を足す時の楽しさは、グループ内でも虐げられてせっかくの新ビルであるにも関わらずかえって環境が劣悪になった身にとって、卑俗ながらも少しばかり溜飲が下がる。文句があるなら経団連さん日経さん、足している最中を後ろからライフルで狙撃でもしてみては如何。

 ライフルと言えば電通から来る「電通報」を読んでいたら米テネシー州の中古販売業者が中古車を買った人にもれなくライフルを1丁プレゼントするとゆー記事があってさすがは自由を銃で買う国アメリカらしーと羨ましさに身もだえする。日本だったらきっとボウガンがエアガンだって付けたら非難は轟々、お上からもマスコミからも叩かれてしまうんだろー。でもバスだったら例えばエアガンがスタンガンでも装備されていたらバスジャックの時だって撃退できただろーにとも思えるから悩ましい。日本も自由を武器で買わなきゃいけなくなったってことなのかな。

 ちなみに米国で銃付き中古車を売っていたのは名前がグレッグ・ランバートとゆー中古車事業者のお店。「電通報」の記事によれば全米での銃規制に反対する活動家らしー。半分はキャンペーン目的ってこともあるけれど「車を買ってすぐにハンティングに行けるのがアメリカじゃん」ってな理由も言っててなかなか。武器とはいかないまでも日本だったら4駆にテントとかコールマンのバーナーとかをセットにしたオートキャンプ仕様車なんて中古で売り出したら売れるかな。食料調達用の散弾銃とかもこっそり付けてくれたんならなお良し、だけど。

 でもって電通が緊急の記者会見で何かと思って行ったら米国でインターネット関連のコンサルティングからwebサイトデザインからシステム構築から保守運営からデータ分析までをトータルで手がける「ストラテジック・インターネット・プロフェッショナル・サービス(SIPS)」とゆー分野で世界トップのマーチファースト社と合弁会社を設立するとゆー話。前にキノトロープで生田昌弘社長に話を聞いた時に、日本がぐずぐずしている内にいずれは黒船がやって来るよと言われたけれど、それがいよいよ本格的に始まったってことになる、それも世界に冠たる大電通をパートナーにして。

 キノトロープもコンサルからデザインからシステム構築までを手がけて5年になるけれど、ネットになかなか理解のなかった日本では1社が出すお金なんてせいぜいが数千万円で、キノトロープ自体もせいぜいが数十億とかの売上規模しか獲得できなかった。それが米国ではこのマーチファーストだけで1000億円の売上で続く会社も数100億円規模を獲得していていっぱしの勢力を形成している。規模があれば人も集まりスキルも上がってさらなるマーケットの規模を生みだすのが通例。日本企業が「ネットなんて」といじいじしていてネット関連企業も伸び悩んでいる間に、向こうでは企業がネットに傾注して関連する業界が潤ってますますもって世界を席巻するとゆー構図が描かれて行く。でもって日本はそーゆー企業のおこぼれに預かるのが精一杯。ますますもって5年後の世界一なんておぼつかない。困ったもんだね。

 2回戦、が始まるかどーかは分からないけれど前に「文學界」(文藝春秋)の8月号で「bk1」から届いた依頼状の不可思議無機質ぶりに苦言を呈した坪内祐三さんに対して当の「bk1」でヤスケンこと安原顯さんが身内の不始末をあげつらって罵倒した返す刀で坪内さんについても「おどおど蝮を突っつく感じ」でしか反論してこないと罵倒した一件があって、その後どーなることかと思って見ていたけれど「文學界」の9月号でも10月号でもとりたてての坪内さんからのリアクションはなく、お互いに言い合って終わりだろーかと思っていたらここに来ての急展開。発売なった11月号で今度は真正面から「インターネット書評誌の私物化を『ぶっ叩く』」なんて物騒なタイトルで坪内さんが大罵倒を繰り広げ始めた。

 どうやら坪内さん、ヤスケンさんの「編集長日記」については「怒りなどではなく、もっと複雑な感情を抱いた」そーで、先達への敬意も込めての言葉が「おどおど」と取られた可能性を類推しつつ「いつから私のことを『大嫌い』になんたのだろう」と訝っている。けど積極的な反論をするほどのこともないだろーと思っていたところに、坪内さんの著書「古くさいぞ私は」(晶文社、2600円)に対するヤスケンさんの書評が7月9日とゆータイミングで書かれて「bk1」にアップされていたことを知らされて、「私はヤスケンを『ぶっ叩く』ことに決めた」とゆー。問題は中身の圧倒的痛罵ぶりではなく日付であって、坪内さんの最初の1文が掲載された「文學界」8月号が7月7日に出た直後とゆータイミングの良さ、それも半年以上前に刊行された坪内さんの本の書評だとゆー奇妙さに激しい憤りを覚えている。

 7月9日の日付のヤスケンさんの文章が果たして7月9日に書かれたのか、アップされたのが7月9日で書かれたのは坪内さんの文章が発表されるより前なのかは分からないから、「ためにする書評」への批判にキレて敢えて「ためにする書評」を書いたんだたとゆー坪内さんの説は立証できない。けれども、わざわざ半年前の本を持ち出して批判するのは何故なんだろーとゆー疑問はもっともで、坪内さんは自覚していないのかもしれないけれど、前後に「大嫌い化」した原因があるんだろーと推察できる。それが何かは知らないが。

 とは言え締め切りの糊代が見える紙媒体とは違って何時書いているのか前なのか直前なのか判然としないが故にネットに不信感を抱く坪内さんのスタンスもちょっと解せない。時間軸や時間層が曖昧になるからといっておおよそのアップの時期は分かるし、ヤスケンさんは書いた日付はともかくもアップした日付はしっかりと入れてあってそこに時間軸の揺らぎはない。問題が出るとしたら活字と違って削除や改変が手早く密かに出来てしまうことだけど、今回の一件にそーゆー事実はみられず、ことほどさらに「インターネット書評」だからとヤリ玉に挙げる理由はないよーな気がする。「『ポップ』になぜわざわざ『駄本』と明記する必要があるのだろう」とゆー問いかけもしていてこれは「bk1」の書評者がおそらくは共通に抱える悩みなんだろーけれど、そこで昔から「罵倒芸」の冴えを見せてくれたヤスケンを担ぎ出して反論させても、双方に納得の行く答えは出ないだろーから難しい。さてはて如何な展開となりますことやら。「古くさいぞ私は」に対する書評を書いた理由とかも含めてヤスケンの次なる1手を待とう、出て来るかな。


【10月9日】 とゆーことでとりあえず映画のコミカライズ版とでも言えそーな「X−MEN THE MOVIE BEGINNINGS」(小学館プロダクション、1886円)を読んでみる、中途半端に髪の毛が逆さホウキだったウルヴァリンもコミックだとしっかりアメコミしてたりするんだなーってことを実感、逆にコミックから入った正統派の人にとって映画のウルヴァリンって再現性の点でどーゆー風に写っているのか聞いてみたいところ。その点で言うならサイクロップスとストームはなかなか、マグニートーはどっちも年寄りの冷や水度が高いなあ。

 「penciler」によって雰囲気がまるで違うのもアメコミの特徴だけど掲載されてる3本だと陰影が特徴っぽい「マグニートー」を作画した人が系統としては好み、Marh Texeiraって人らしい。解説ページでマグニートーが娘の躯をかき抱いている場面の描いている人もまた雰囲気が違っていて、肉感たっぷりで写実的なアメコミ絵とは違って天野さんが描くイラストっぽい雰囲気があるけどこれはいった誰なんだろー。ともあれ奥深いアメコミの世界、ハマると出られなくなって散財の上に部屋が狭くなるから当方としてはこの辺りに止めておこう。さて次は「サンドマン」だ(読むんかい)。

 アメコミ的、と言うなら日本だとこの名前が真っ先に出て来そうな寺田克也画伯もステージに登場の「スーパーフェスティバル」に行く。登場の演目は同じ自転車愛好会「クラブパンターニ」に所属する北久保弘之支部長兼映画「BLOOD」監督との自転車談義ならぬ映画談義で、会場に到着すると奥まったスペースでそれなりな聴衆を集めて、前に静岡とかで見た北久保監督がいっそうの髭ぼうぼう髪ぞろぞろな姿になってツバを後ろに向けた野球帽を被ってお喋り中。でもって横に今回が実は初見だったりする寺田画伯が、まさに「寺田克也」とゆー名前とそのど迫力の画風を体現するかのよーな坊主頭の巨躯を折り曲げマイクに向かって喋っている姿が見えた。

 50分とゆー短さは別に途中だとかいったもんじゃなくこれはこれでちゃんとしたものといった説明をする北久保監督に、2時間分のものが50分にぎっしり詰まってると表する寺田画伯の話から類推するに映画「BLOOD」、相当な濃さを持った作品ってことになるんだろー。あと短いが故に語られなかった部分が映画以外のゲームなり小説なり漫画なりになるんだってなことも言っていたっけ。もちろん単なる言い訳ではないことは分かっているけれど、映像として表現された世界はやはり映像の中で完結していってもらいらいとゆーのがアニメオリエンテッドな人間の悪い癖、なんでここはひとまずメディアミックスの成功を達成した上で、再びの映像化に北久保監督を挑ませてやっては頂けませんかSPE・ビジュアルワークスの白川隆三社長さま、お願いします。

 終わった後で時間を挟んでサイン会。96番なんで順番が回って来る間はモニターで流れている映画版の予告とか「やるどらDVD」の場面とかを見る、うーん流石にやっぱR良い出来。とりわけ「やるどら」の方のゲームとは思えない映像クオリティにこれがムービーだからなのかPS2だからなのかは不明としても、ここから切り取っても十分に映画が1本出来るんじゃないかってな気持ちを持つ。それともそーなるのかな。さて20分ほどで回って来たサインの番に北久保監督をカンサツ、Tシャツが「クラブ・パンターニ」だったよカッコ良かったよ「カーボンハート」のプレゼントに応募すれば良かったよ。寺田画伯は気さくな兄貴って感じでした、歳どっちが上だったっけ。自転車好きなお2人におかれましては11月10日から12日に同じ「東京ビッグサイト」で開催される「2000東京国際自転車展」には行くのかなー、パンターニTシャツとかブース出して売れば良いのに。

 それにしても種々雑多なトイが集まる「スーパーフェスティバル」。ミリタリーから中古玩具から一部ガレージキットにドールにアメトイ当たりの山積み状態に、好き者だったら幾ら金があっても足りないんだろー。東京マルイの24連発「M19 6インチ」が8400円だかで出ていて買って次元を気取りたかったけど持つと撃ちたい会社のあれこれがいろいろだったりするんで自粛。まだ犯罪者にはなりたくないからね。海洋堂のクリアバージョン「ヴァッシュ」は直前で整理券が切れて幸いにして不幸にも購入できず、まあ買っても飾る場所ないから良いんだけど。むしろささと黒バッシュを出してちょーだい、あと新作「モネブ」も。「キャラクター・アンド・アニメ・ドットコム」の「HAND MAID メイ限定版」なんてものがで出てたのかあ、USBはちゃんとついてるのかな、つなぐとどーなるのかな。

 集まっている客層は濃さ9倍段な人から今時のパラパラでもやってそーな女性から軍服から親子連れからいろいろと幅の広さを感じる一方で傾向の掴み難さも同時に覚える。1つのものに人気が集中する状況は市場の急拡大を生むけれど、一方ではブーム終焉後の沈滞を予感させる。逆に今のよーに「トイ」に対する認知度が浸透し人気が分散して拡散しつつある状況は、メディア的には華やかには見えなくっても着実にしたたかにマーケットを育成し続けていくよーな気もする。さてもどーなるか。次回は2001年1月7日と8日に科学技術館で開催の予定、新春の老若男女の懐をかっぱぐイベントとして盛り上がるかな。


【10月8日】 ってもいわゆるプレスリリースとして「bk1」から本業の方に何か来たってことがないからなあ、TRCと組んでオンライン書店を設立するってリリースも、7月頭にKDDビルで開かれた会見の案内も本業の方の新聞社には来てなかったみたいだし(覗けたのは別ルートで発表会があるからって聞いていたから)。それがマイナーな新聞社が相手だったからリリースを出さなかっただけなのか、あるいはN経とS経とゆーグループの違いによるものなのかは知らないけれど、こーやって「えきねっと」と提携して本を駅にあるコンビニでも受け渡しできるよーにするんだってな話がごくごく1部のメディアにしか出てないらしー状況を見るにつけ、やっぱりそれなりにいろいろなあれやこれやが云々だってことも頷ける。とは言え「bol」だってリリースが届いてた記憶がないし出版関係賞関係の案内なんてまるで届きやしないマイナー新聞社、なんでまあ適当に面白い話があればネットからでも口コミからでも拾って記事にしていきますわ、勝手に自由に。

 文庫大爆発状態の書店に比較的新人の紙メディアでは初出のエッセイ集が並んでいたとして果たして貴方は買うだろうか? とゆー根元的な問題に立ち向かうにはやっぱり何がしかの読者なり書店員なりを引っかけるフックが必要なんだけど、「歌舞伎街のホテトル嬢」とか「元芸者」とか「ミニスカ右翼」とかいった耳目を集めやすい経歴もなければ、「ネットで6万人の読者」を集めていて「芥川賞作家イチオシ」なんてイマドキのITオヤジたちに訴えかけるほどの話題性にもちょっと足りない人が果たしてどこまで立ち向かえるのか。なんてことを光文社の「知恵の森文庫」から出た三浦しをんさんの「Boiled Eggs Online」に連載されている「しをんのしおり」をまとめたエッセイ集「極め道」(495円)を読みながら想う。ド迫力のタイトルだけど英文表記が「My favorite way」ってのには納得、たしかに「きわめみち」だわなあ。

 簡単に切り分けるなら本にまつわるエッセイってことになるんだろーけれど、取りあげられているのが伊藤潤二さんの「道のない街」(「サイレンの村」所収)だったり「北斗の拳」だったり「小説b−Boy」掲載の木原音瀬さんの「あのひと」だったり(知らんなあ)だったり高遠砂夜さんの「姫君と婚約者」だったりといった具合に何ちゅうかまあイマドキで、なのに決して”オダクは細部にこだわる”的な知識のひけらかしにもディティールの詳報にも至らず、かといって社会が、都下政治が、とか経済が哲学が天文学が、なんて大袈裟にも押しつけがましい方向にふくらむことなく、人の平均的日常の前後300メートルあたりのところに妄想と幻想が収まって、安心感と違和感がほどよく交錯する不思議な感じを体験させてくれる。

 なんてことは読めば分かるんだけど、問題はやっぱりどうやって読ませるかってところで、例えばこれが「本の雑誌」に連載されていたんだったら読者だって「なるほどそうか」と分かりやすいし「anan」だったら分かりやすさは×100、部数だって×100。かろうじてフックになりえるとしたら「ネットで6万」には及ばないにしても「ネットでそれなり」とかいった事実で、これでもって気を引くのが最近だったら筋なんだろーけれど、帯にも後ろの説明にもネットの文字が入っていないところを見ると有象無象なネットデビュー作家に埋没してしまうことをエージェントの人とか出版する担当の人とかが嫌がったんだろーか、なんてことを考えてしまう。「ネットで人気」がアピールできるのもアクセス数ならビリオン、経歴なら外人部隊帰りの女子中学生とかって感じのドラ裏ドラ付きじゃなきゃあね(麻雀よく知らないんだけれど)。

 だったら「極め道」の場合な何だろーか? ってことになるんだけどうーん、中身って言えれば良いんだけど中身はほら、読むまでは分からないから申し訳ないけれども外見で言うなら、1つには土橋とし子さんのイラストで日下潤一さんって超絶一流の人が装丁を担当したってことになるのかなあ。あとは折り返されているところにある「格闘する者に○」(草思社、1400円)の時には不明だった著者近影、ムラカミさんの言うほどには「壇ふみさんに似ている」よーには見えないんだけれど、まずもってそれなりな若さを美貌を見せてくれてます。100回記念の対談でも 同じ顔を見せてくれてます。ををエケッコーさまだ。

 印象を言うなら媚びてもないしおもねってもなく自虐的でもなければ居丈高でもない、理性と感性と知性と痴性が入り交じりつつ顔をのぞかせて、良く言えばそつが無く、悪くいえば読者を手前の方へと引きずり込もうとする「必死さ」がなかったりする点が新人ぽくないかなあ、なんて思ったけれど書き込むほどに味を出し読み込む程に味が分かるって点では、流行り物じゃなくって適度なスパンでじっくりと、売り出していくのが正解かも。その意味で文庫とゆーパッケージを選んだことが吉と出るか凶と転ぶか。一方では作家エージェンシーの活動の行方を占う試金石だったりもする訳で、その立ち上がりからカンサツし続ける身としても、マーケットの判断を仰ぐ上でここに本を紹介しつつ、同じ「知恵の森文庫 こころの森フェア」に作品を送り込んでいるダライ・ラマ十四世ともどもその行く道をジトジトを見守りたい。

 「スーパーフェスティバル」っていつだったっけ? と迷いながら「東京ビッグサイト」に行ったらハズレで仕方なく歩いていたら隣りのビルで「電撃ホビーマガジン」のガンプラコンテストの予選が開催されてたんでのぞくと、結構な若い子供からそれなりな美女からもちろん標準的な風体の輩まで、幅広い客層がいたことに「ガンプラ」とゆーアイティムが持つ訴求力の高さを改めて感じる。ってゆーかホビーってものに対する認識に「暗い」とかいった感覚が薄れて来ているんだろーなー。「ワンダーフェスティバル」をリポートした水玉螢之丞さんのイラストエッセイにも「スペースチャンネル5」のうららのフィギュアの見本を見て「『このネダンなら欲しかったかもー』売ってたのは”キット”だってわかってない風お客さん」が結構いたってことが書いてあったし、すごいモケイを求める人はじわじわと確実に広がっているってことなんだろー。「すーぱーふぇすてぃばるい」にも来てるから美女(当方とは無縁なのは言うまでもない)。

 お台場の「メディアージュ」まで歩いて「X−MEN」。ミュータントの哀しみを描いているんだろー作品なんだけど、同じミュータントのクセしてサイクロップスのよーに妙なエリート意識を見せる奴がいたりして、わたくしたち人間どもを守って差し上げているざます的臭いが感じられてこんな奴等だったらパージされても当然だ、なんて感覚が浮かび上がってくる。それとも正義の胡散臭さを描く映画だったのかな。その点で言うなら人間による差別に反発して感情をダイレクトに出して人類に挑む敵方の気持ちの方が分かりやすい。

 人類に挑むミュータントがいて守ろうとするミュータントがいるからといって、ミュータントさん守ってくれて有り難うとはならずミュータントがいるからいけないんだと考える人間が多いだろー現実の中で、鬱屈もせずに純粋な正義を貫けるものなんだろーか、ってな疑問も浮かぶ。エリート意識でもなければやってらんないってのは、政治から押しつぶされマスコミからは叩かれ庶民からは疎まれながら日々の仕事に精進する日本の官僚の意識にも何か通じるところがありそう。まあ長いコミックの膨大なエピソードからエッセンスを抽出した関係でこーゆー図式になってしまっただけで、「X−MEN」の一党にも納得できる戦う理由があるのかもしれず、映画だけで作品に流れる思想を判断するのは早計かも。コミック版とか暇みてちょろちょろ読んでみよー。眼鏡姿のジーン・グレイに「ぽちょむきん1」(北道正幸、講談社、505円)の茜さんを思い出してしまったよ。


【10月7日】 「アニメージュ」11月号、徳間康快社長の死去に絡んだ記事がまるで入ってないのはおそらくは亡くなった日(9月20日)と締め切りとの関係からいたしかたないとしても、おそらくは唯一大森望さんのコラム「わるものオーバードライブ」の1行近況にちゃっかりその旨が書かれているのを読んで、いったいいつこの文章を入稿したんだってな羨望と心配の入り交じった複雑な感情を覚える。それはともかく河内実加さんの徳間さんの似顔絵はうーんうーんうーん……こんなもんだったかなあ。

 思い出したけど何年か前にインタビューした時に社長室の東京港が見える窓辺にブロンズだか何かで作られた胸像が飾ってあって確か送り主がフジサンケイグループ議長の羽佐間重彰さんだかフジテレビ社長の日枝久さんだったよーに記憶してるけど、あの鏡像はどうなったのでしょうね、いまもあの、東京港から遠くレインボーブリッジをのぞんで、遠く彼方をみつめているのでしょうか。徳間の関係の人、チェックしてみてやっちゃーくれませんか。あれは結構似てたです。

 あと不思議が1つ。「無敵王トライゼノン」のスタート間近な渡部高志さんのインタビューが掲載されているのは良いんだけど主な作品のリストにもインタビューの近況の中にも「スレイヤーズ」は勿論「宇宙海賊ミトの大冒険」はあっても何故か「ブギーポップは笑わない」が入っていない。写真横のプロフィールからも削り落とされているのは単なるページ数行数の関係からの割愛じゃない、何やら複雑怪奇な物を感じるんだけどどーなんだろー。やっぱいり単純な行数誌面の都合なのか。それとも「ブギーポップ」を監督したのは「スレイヤーズ」とは別の同姓同名な渡部高志さんだったのか。謎謎謎。

 フクザツでも単純でも事情があるかないかはともかくとして、個人的な感想から言えばテレビ版「ブギーポップ」は放映時の規制とか時間的な都合とかはともかくも、シナリオ的なクオリティも魅せるビジュアルもエンディングのカタルシスもすべてが好みの範疇に入っていて、2000年のアニメの中でもベストに入れて悪くない出来だった、と重う。にも関わらずのこの仕打ちはなるほど電撃関連なアニメ作品だった「ブギーポップ」ゆえに徳間書店の「アニメージュ」ではフィーチャーしにくいからなんだろーか。やっぱりもって謎謎謎。社長の胸像の行方を確かめて頂きたい気もあるけれど、徳間の人にはこっちのヒミツも解明してやって頂きたいもの、でないと夜も眠れません。仕方がないので昼はぐっすり眠ります。

 で「電撃アニメーションマガジン」11月号。「デ・ジ・キャラット音頭」のフリ完全収録がすげえ、でじことぷちことうさだを山ほど見られてファンはたまらねえ。「パーティ・ナイト」のフリの方は着ぐるみがフォトで演じてくれててぷちこの妙に高い等身はともかくナマな迫力がおもしれえ。撮影した時の季節を思うと皆様の苦労がしのばれます。そーいえば9月の「東京ゲームショウ2000秋」でも1ホールの「ブロッコリー」の物販ブースから8ホールのキッズコーナーの物販ブースまで並んで闊歩していた着ぐるみ3人娘を追いかけた記憶があるけれど、あの時の酷暑ぶりから考えるにやっぱり相当な苦労があったんだろーなー、冬が来て良かったなー。「デ・ジ・キャラット」関連ではあとDVDビデオのコーナーで10月21日発売の「サマースペシャル2000」の紹介記事にぴよこの必殺技「口からバズーカ」の一瞬が抜かれていてこれがとてつもなくすげえ。放送の時はあんまり分からなかったけど、こんなんなってたんですねえ。買ったら再生をスローにしてコマ送りにしてじっくり見せて頂きます。

 レギュラーな書評の連載は別に今号ではまいふぇいばりっとなアニメ作品を挙げさせられてるワタクシですが(何故にトップ?)、挙げてる作品の何ともマイナーにしてニッチぶりはなるほど隙間ライター場違いコラムニストの異名を地でいくセレクトぶりかも。「ビューティフルドリーマー」は30過ぎのエリート面したアニオタの心の要石だったりするから別にして、ほかの4本がそれなりに評判の良いOVA版じゃない「天地無用」に「VIRUS」に「lain」に「でじこ」だもんなあ、ほかの人と重なってるのは「lain」だけだもんなあ。もちろんこれらを挙げた理由はちゃんと本文に記してあるからご理解はともかくもご認識は頂けるだろーと思うけど、あんまりな隙間ぶりは、真っ当な原稿を書けない奴ってな印象を植え付けかねない恐れも一方にあるからなあ、やっぱりフツーにストライクな作品を挙げておけば良かったかなあ、「ブルージェンダー」とか「ナスカ」とか。魂人(たましい・びと)よイリャ・テッセ。

 にしても「DTエイトロン」と「聖ルミナス学園」を挙げた鈴木宣尚さんは当方のニュアンスにやや近いところがあるのかも。「ルミナス」はともかく「エイトロン」は変形8マンなエイトロンのキャラクター造形はともかく、管理社会のメリットとデメリットを相対させて提示した上で考えさせる展開とか、エンディングの結構スリリングだった展開とかに割と惹かれる部分があったし。あとテーマソングが「VIRUS」と同じドラゴン・アッシュってのもポイント高かったりするかなあ。選外とゆーか文中の流れに乗せられず挙げられず残念だった作品がTV版の「吸血姫美夕」と「ジェネレイターガウル」と「少女革命ウテナ」と「KEY」と「イリヤ」と「トップをねらえ」と「パーフェクトブルー」と「綿の国星」とえっとえっとえっと……たくさん。

 こうして挙げてみると、ホント好きなアニメ影響を受けたアニメ永遠に語り伝えたいアニメの多いこと。でもって今は忘れられている作品のこれまた多いこと。知識として自慢するんじゃなくって、関わった人たちの想いの容れ物としてのアニメ作品から、そのエッセンスを抽出して紹介してくよーなことが出来たら面白いんだけど、ムックも出てないよーな作品のやっぱり山ほどあるところに、商売としての難しさも覚える。少々お値段張ってもいーから「エヴァ」以降のアニメバブルを検証しつつそのスピリットを抽出してやってはくれないだろーか。それがせめてもの供養です(死んだのかアニメは?)。


【10月6日】 永倉萬治さん没。5月に自伝的ノンフィクション・ノベル「アルマジロの日々」(幻冬舎、1700円)が出たばかりだったけど、自分の生涯をまとめておくのは今しかないんだってな予感でもあったのかなあ。本文に登場した映画で小太りの男が発した「俺は何もしていない! 何故だ? どうしてだ? 三十五にもなって、俺は何もしていないんだ! 俺は……」とゆーセリフが永倉さんを激しい焦りに突き動かしたエピソードが描かれていたけれど、享年となった50数歳までの10余年で永倉さんは確かに「何かをした」訳で、その死を悼む気持ちの一方では名をなした羨望も浮かんで心がじくじくと濡れる。35歳。「オレハナニヲシテキタンダ オレハナニヲシタインダ」

 銀行だけじゃなくってイベントにも統廃合の波が来ているのか、それともエレクトロニクスとネットとデジタルとが切っても切り離せない関係になって来ていることの現れなのか、歴史と伝統の結構ある「エレクトロニクスショー」と「com.japan」がいっしょになって発足した結構大きなイベント「CETHEC」をのぞく。「東京ゲームショウ」がビッグな「幕張メッセ」を1ホールから8ホールまでフルに使って「東京モーターショウ」に次ぐくらいの日本でも有数のイベントだなんて自慢してたけど、実のところは8ホールなんてブースが1つもなく半分は食事コーナーみたくなって隅なんて薄暗かった「ゲームショウ」と比較すると、こっちは加えて外にある体育館みたいなホールと、その向こうにある別棟の9ホールから11ホールも使ったまさに「幕張メッセ全館制覇!」ってな規模のイベントになっている。

 末端のユーザーにのみ向けてゲーム機とゲームソフトを作って売るだけのゲーム業界に対して、部品から製品からサービスから何から何まで含めたエレクトニクス業界の、自動車業界にも匹敵しそーな裾野の広さ市場の大きさ関心の高さを改めて思い知らされたけれど、考えようによっては「ゲーム」も背後に使われているのは「CETHEC」に出店している企業の技術だったり製品だっ たりする訳で、つまりは「CETECH」から派生した業界が10年ほどで幕張を半ば席巻するくらいにまで成長したんだと言っていえないこともなく、その意味ではやっぱりゲーム業界の成長性・市場性はあなどれんなあとも思う。

 もっとも例えばテレビとゆー旧来からある娯楽にデジタルなりインタラクティブな要素が加わったBSデジタル放送なり、電話とゆー旧来からあるツールにモバイル性が加味され携帯電話になったその上にエンターテインメント性が加わった「iモード」「WCDMA」なりが市場を拡大していった時に果たして、果たしてゲームが単体で「子供の娯楽の王様」として右肩上がりの成長を演じていけるのか、それとも「CETECH」の場へと戻って統合されていくのかってな想像もあって、方やエレクトロニクスでこなたゲームといった2重の円が対立していく将来像を思い描くのにはまだ早い。社会科見学だったのか小難しいはずの「CETEHC」に来場していた女子高生がケータイのブース前でキャイキャイやってた姿を見ると、いつ見ても同じ光景な「ゲームショウ」よりも、未来は「CETECH」にありそーな気すらする。

 あるいはゲームの要素とテレビなり電話なりのポテンシャルを融合させた、新しい市場の誕生も予想できるし、「ゲームショウ」での「iモード」向けコンテンツの多さなんかを見るとそれが事実になりかかっているよーにも思える。「俺たちが未来を作るんだ」とゆー気概をゲームの人もエレクトロニクスの人も持って決して悪いことはないけれど、望むべくはそれぞれが独善にならずにお互いの良い部分を出し合って、新しいコンテンツやサービスを送り出して世の中をもっともっと楽しいものにしよーと頑張ってもらいたいもの。1つの会社が幾ら頑張って超高性能のハードを作って売ったところで、狙いとする「コンピューター・エンターテインメント」は実現できないんだから。

 三省堂書店神田本店で柴田よしきさんのサイン会があるってんでのぞく。柴田さんには大昔にメールを頂いたことがあったけど、当時と違って大変な量に上る書評がネットに出て交流する人も増えただろー柴田さんが当方に気づくはずもなく、だいたい3番目くらいでカタカナ名前じゃなくって漢字の名前を入れてもらったサインをもらってヘラヘラを御礼を行って席と立つ。見知った人やら聞き覚えのある作家さんやら漫画家さんやらミーコ姫&ごしゅじんさまが応援にかけつけて来てたみたいだけど、出不精にして引っ込み思案で帽子とかサングラスとか髭とかで変装しているケースが多く一部にしか面割れしてないステルス野郎はろくすっぽ挨拶もせずに遠くから近くから成り行きをカンサツする。

 書いている分野の幅広さもあってかファン層も多種多様で年齢性別は若い男子から年輩の女性まで、趣味嗜好も伝奇からミステリーから純文学系まで入ってそーな人が整理券番号だけなら150人は超えるくらい集まっていて、なかなかな盛況ぶりを見せていた。月末には東浩紀さんのサイン会とか村山由佳さんのサイン会もあるみたいんなんで、行列に並んでいることも多いでしょーからカンサツされたい人は是非とも東さん村山さんの著書をお買いあげの上でご参加を。関係ないけど青山ブックセンターでの講演会用ポスターの東さん、ポーズがひところのミュージシャンみたいです、髪なんか茶色に見えるし。バンダナすると辻仁成に見えないこともない、かなあ。

 店内をうりゃうりゃ。新潮社からドカンと文庫が出ていて岡田斗司夫さんの「オタク学入門」とかかいしかわじゅんさんの「漫画の時間」とかリリー・フランキーさんの本とかがラインアップに入っていて、よくぞかき集めたもんだと関心する一方で、一般の人にもっともっと面白い本を知ってもらえるせっかくの機会であるにも関わらず、これほどまでの一挙文庫化が逆にあだになって埋没してしまうんじゃないかってな危惧も抱く。たしかに僕たちは岡田さんもいしかわさんも知っている。だから単行本も買った。でもそうでない普通の人たちが、例え文庫になったからといって岡田さんいしかわさんに関心を向けるとは限らない。そでも10点の中の1点、2点だったら目に触れる機会もあるんだろーけれど、平台からはみ出んばかりに積まれた数10点の文庫の中で、岡田さんいしかわさんがどれだけ通りがかりの人にアピールできるんだろー。ただでさえ冷遇されている文庫の書評で、取り上げられる競争率も高くなってしまうだろーし。

 どちらかとゆーと今や文庫は「殿堂」ってゆーよりは一種「ラストリゾート」に近い雰囲気があって、出版社は一種お札でも刷る感じでガンガンと印刷してバンバンと書店に配本して、そこで一気にかっぱいだ後は増刷もせずやがて棚からひっそりと消えて行き、永遠に人の目に触れる機会がなくなてしまう傾向にあって、例えばヤングアダルト系でもわずか数年前の本を探そうとしても絶版あるいは版元品切れ重版未定の状況になっていたりする。その意味では特殊歌人の枡野浩一さんのところの掲示板で発言している正岡豊さんの認識に近いかも。ただし単行本なんかに比べれば文庫は、例え一時期であっても人の目に触れる機会を圧倒的に増やす訳だし、刷り部数だって単行本とはケタが違う。ジャンルの振興といった気概とさらには自分という存在のアピールを目指した場合には、文庫化が持つ意義も出版社側にはたとえ「気まぐれ」であっても、当人にとっては「ステータス」だし「チャンス」でもある。その面からも出版社にはせめてもうちょっとだけ、文庫化をブームとか棚取りアイティムとか札束とか思わずに「文化の倉庫」としての認識を気概を 持って取り組んでいって欲しいなあ。ってな感じです枡野さん。藤原京さんも読んでみよーかな。


【10月5日】 しかしこうやって読むとやっぱり単なるホラ吹きじゃなかったったってことが改めて分かった故・徳間康快さん。もう何年前になるんだったっけかな映画製作者連盟の記者会見で「ガメラの次は大魔人だ」と言って集まっていた記者を仰天させ、続けざまに「ディズニーにも出資してもらう」「ケビン・コスナーにも頼もう」「ロケはメキシコだ」と言い放って一体ぜんたいどんな映画になるんだろーかと想像に胸躍らせつつも、ラッパと呼ばれた故・永田雅一さんの時代から受け継がれている大映お得意のアドバルーンだろうとニタついてた記憶がある。けれども現実に「SF Japan」の第2号に一挙掲載された筒井康隆さんによるシナリオ版「大魔人」を読むと、徳間さん本気で「大魔人」の映画化に燃えてたんだなってことが伝わって来る。

 併録の京極夏彦さんと筒井さんの対談に筒井さんが徳間さんからシナリオを頼まれた経緯とかが書いてあって、結果として映画化が見送られたことを京極さんともども残念がっていることがにじみ出てくる対談になっていて、もしも仮に健在な徳間さんが対談を読んだとしたら、例えその身を賭してでも、シナリオの巻末にある文章によれば「中断」らしー「大魔人」の映画化に、再び取り組んだんじゃないかなー、なんて思ったけれど、あるいは徳間さん自身すべて分かった上で断腸の思いで決断したのだとしたら、対談もシナリオ掲載もすべて了解した上での落ち穂拾いだったのかもしれない。

 もしも徳間さんが「大魔人」復活を言い出してからすぐに映画化に向けて動き出していたとしたら、映画は今ごろ完成して全米での公開なんて話になっていたのかもしれず、だとしたら全米で「DAIMAJIN旋風」を巻き起こしているマリナーズの佐々木投手の活躍ぶりと重なって、「これがササキの原点か」なんてことで話題になっていたかも。当時の徳間社長がベイスターズでストッパーとして頭角を現し始めていた佐々木の大リーグ移籍を見越して「大魔人」のメキシコロケとかハリウッド公開とか言っていたとは思えないけれど、商売に関しては勘のきわめて鋭い人だったらしーから、あるいは何か得体の知れない第六感が働いて、あの時期の「大魔人」復活宣言に至ったのかもしれない。うーん偉大なり徳間康快。

 いずれにしても徳間さんは亡くなり「大魔人」も空中分解の可能性が濃厚な現在、せめて16日に開催とかゆー「お別れ会」に、タモリさん(大魔人子)でも張本勲さん(顔が怒った大魔人)でも筒井さんご本人でも良いから、「大魔人」の着ぐるみをまとって会場を練り歩いてくれたら、徳間さんにも埋もれた「大魔人」にとっても結構な供養になるんだけどなあ。いっしょにガメラも出 して「妖怪百物語」の百鬼夜行も出して、さらには「スタジオジブリ」からトトロに小トトロに猫バスなんかを繰り出して(一応オバケだしね)、会場の周辺の練り歩いてくれないなかあ。全国からサンにキキにポルコにナウシカにシータにドーラにポンポコにのぼる鳥ほかetc、何100とあるジブリキャラに扮したコスプレさんたちが数100人規模で集まって来たら、いかにも徳間さんらしい「お別れの会」になるんだがなあ。

 話戻って「SF Japan」の第2号なのに「01」は、冒頭のシナリオ版「大魔人」に続いて作家さんたちによる「思い出の筒井康隆」エッセイにvs京極夏彦、vs夢枕獏の対談と半分以上が筒井さんづくし。それはそれで根っからのツツイストには嬉しい限りの作りなんだけど、問題はそーゆーツツイストが「SF Japan」が雑誌として狙っている層とうまくマッチングしているかってところにあって、これがもしも「まるごと筒井康隆」とか「筒井康隆読本」とかだったらターゲットも絞られていて違和感はなかったんだけど、雑誌が対象としていそーなこれからSFを読んでもらいたい若い層とは、筒井さんにしても「大魔人」にしてもツツイスト作家の賛辞にしても、どこかかみ合ってないよーな感じを受ける。

 第2特集の「伝奇」にしても、古手のSFファンにはお馴染み過ぎる名前がズラリと並んで嬉しい一方で、「伝奇って何?」ってな人を引っかける餌があんまりないよーな気がする。山田正紀さんと笠井潔さんの対談も中で語られている半村良さんや平井和正さんを読んで育った身にはとてつもなく奥深く幅広く楽しめる対談なんだけど、「イミューン」を読んで青木和さんが何か書いてる雑誌だからと思って手にとった若い人が、果たして楽しめるのかとゆーと固有名詞が多すぎて、「ウルフガイ」やら「幻魔大戦」やらにハマった世代と同じ感慨を味わわせるのは難しいかも。

 最初から雑誌が20代30代の「戻りSF」な人たちを対象にしているんだったらこれはこれで素晴らしいラインアップであることに違いはないけど、それだと年々高齢化が叫ばれるSF関係コンベンションといっしょだし、最近はコンベンションでも浸透拡散著しく、ヤングアダルトの人アニメの人コミックの人モケイの人何でもござれのフックありまくりなイベントになっている中で、雑誌だけが孤高を保ち年齢ばかりが上昇していくのはちょっともったいない。かといっていきなり「電撃hp」の路線を狙っても、今度がプロパーなSFの人たちがちょっと引いてしまうから難しい。そのあたりをうまくつなぐブリッジのよーな企画なり記事なり小説なり漫画があったら、未来に希望を抱ける雑誌になるよーな気がするんだけどなあ。

 例えば唐沢なをきさんが描いた筒井作品のパッチワークマンガ以外にも、「コミックcue」だかが手塚マンガでやったよーに今の若い人に知名度のある、適当に名前を出すなら安野モヨコさんとか南Q太さんとか富沢ひとしさんとかオシャレ系の漫画家さんとかに筒井さん原作の漫画なり、筒井さんリスペクトな漫画を描かせてみるとかしたら、もっと関心を持ってもらえたよーな気がするんだけどどーだろー。次がいつ出るのかは知らないけれど、おそらくは「日本SF新人賞」の発表なんかも含めた号になるんだろー次号には、おもねりだろうと媚びだろうと「若い奴も読め」ってなオーラを本屋の店頭でガンガンと発するよーな雑誌になって欲しい。いっそ表紙を「でじこ」にしたら引っかかる奴らが結構出そーだけど。表紙は寺田克也さんじゃなきゃダメ? だったらこうしよう寺田版「でじこ」。こりゃインパクトだけはありまっせ。


【10月4日】 たぶん日本人は誇って良いと思うし、名古屋の人はもっと誇って良いと思う。世界でも屈指のファンタジスタを直にでもテレビの中継でも見ることができるなんて、彼を生み出したユーゴスラビアの人にとっては羨ましいなんて言葉ですら及ばないほどの素晴らしくって妬ましくって誇らしいことなんだと思う。ドラガン・ストイコビッチがJリーグにいて、「名古屋グランパスエイト」で現役としてプレイしていることの意味。その重要性が分からない人は今すぐに本屋に行って集英社文庫から再刊された木村元彦さんの「誇り ドラガン・ストイコビッチの軌跡」(571円)を買うべきだ。ちなみに家に東京新聞から刊行された版があるサッカー的に正しい人も、巻末にこないだ開催された「ユーロ2000」でのピクシーをめぐるあれこれや、NBAで活躍するディバッツとの対談なんかも増補されているからやっぱり買うべき。ディバッツですら合いたがるピクシーってやっぱり凄い人なんだってことが分かるから。やっぱり1度は生ピクシー見ておこーかなー、天皇杯出て来ないかなー。

 「セブンドリーム・ドットコム」とか超大手のサイト作りを担当して、数あるネット系ベンチャーの中でも結構知名度が高かったりするキノトロープが何か新しいサイトを手がけるってんでホテル西洋へ。案内状には諏訪貿易ってゆー宝石やらジュエリーやらを取り扱って90年とゆー老舗の会社が、宝石を取り扱う新しいウェブサイトを立ち上げるとあって、扱っている品物なんかから見てもどちらかと言えば「ネット」なんかとはかみ合わせが悪そうな会社が何故にウェブサイト? でもってなぜにキノトロープ? なんてことを思って会見場へ。とりあえずもらった資料によれば、立ち上げるのは「ho−seki.com」って名前もベタなサイトで、行うのはジュエリーの再販売らしー。

 といっても売るんじゃなくって売りたい人と買いたい人を仲介するマッチング業務が主だから、見かけだけなら数あるオークションのサイトに近くって、技術的にも内容的にも決して目新しいものではない。となるとますます「どーしてキノトロープが?」ってな気も起こって来たけど、スタートした会見の中身を聞いてまずは納得、状況から想像するにつまりは新しいマーケットを作るとゆー壮大にして遠大にして真面目な構想を実現するためのネットであり、そーした構想には「セブンドリーム・ドットコム」と比べても遜色のない価値があるってことらしー。聞くと宝石の再販売市場は価格算定の部分にノウハウが必要で扱っている所も少なく、過去に売られたそれこそ数十兆円にも及ぶ宝石が文字どおり「死蔵」されていて、それを流動化させることは社会的にも業界的にも大きな意義があるんだとか。

 もちろん1件1件を見て預かって、1件1件を見せて売るのが最善なんだろーけれど、全国津々浦々に「死蔵」されている宝石を見に行くなんて不可能だしやったらコストが合わない。そこに均質の情報を全国同時に配信できるネットのメリットが利用できるってことだけど、問題があるとすれば宝石の価格が妥当なものかどーかの判断をどーするか。ならばこの道数十年の会社が価格を算定して評価とデータを付けてあげることで、売る方も買う方も「安心」して妥当な価格で真っ当な宝石をネットからでも買えるよーになるだろーってのが、今回の「ho−seki.com」の大きな特色だと言える。運営会社の信用云々については業界通が見て判断することだろーけど、いかにも実直そーな社長の人の2100年当たりの宝石市場までをも見据えた話ぶりからは、どこかの常にナンバー1を主張する割には実効性も信頼性も謎な会社にはない真剣さが伺える。まあどっちにしたって10万20万の宝石を買う機会も買って上げる相手もいない当方には無縁のサイトだけど、何かしら志を持って進む人は応援してあげたいってな気もあって、とりあえずは暖かく成りゆきを見守って行きたい。10年経ってお金持ちになったら(なれないよ)1つ位は買ってあげますあげたいです。

 こっちは別口。ケイブってゆーゲームソフトの「峠MAX」とか「iモード」向けコンテンツなんかを開発している会社が最近、「iモード」向けに探偵術を学べるサイトを作ったってんでPR会社の人が持って来た資料を読んで関心する。世の中これだけミステリーとか探偵小説が流行っているのに、いざ実際の探偵術を学ぼうとしても学校に行くのはどこか世の中投げているよーな感じがあるし、かといって本を探して読むのもちょっと恥ずかしい。ミステリーで学べば良いじゃんとか言われても、やっぱりしょせんは小説なんでシリアスなビジネスとしての探偵術として応用可能かどーかは分からない。そんなところにお手元の「iモード」で本当のプロが作った探偵術のカリキュラムが学べ、かつ本物のプロがキャラクターとして登場する探偵ゲームで遊べてしまうとゆーコンテンツが、中身はともかく話題として面白くないはずがない。

 すでにオープン済みらしーんだけど生憎と「iモード」が利用できる端末を持ち合わせてないんで内容についての評価は不能。ただしもらった資料を見るとカラー対応の画面にはそれなりな女探偵のキャラクターが登場しては、メールでプレーヤーに振られた数々の事件を解決していく手助けをしてくれるんだとか。実際の調査で経験したこととかを話してくれるコーナーとかもあってミステリーファンがリサーチするのに役立つかもしれないし、ゲームそのものにはランキングもあって全国レベルで自分の「探偵度」を図れるのは面白そー。もちろん現実の事件が小説とかの事件のよーに複雑で怪奇で猟奇でドラマチックだとは限らないけれど、ゲームになっている以上はそれなりのエンターテインメント性も加味されているんだろー。大手のゲームソフト会社が自分たちの知名度あるコンテンツを注ぎ込んで「iモード」向けゲームを突くってなだれこんでいるだけに、そこそこな知名度の会社のコンテンツが世に広まるには壁がありそーだけど、アイディア1発で行けるのもこの業界、こちらも頑張って頂きたいものです。


【10月3日】 「SF」と大々的に銘打った新人賞に集まったのがSF的な設定のミステリーだったりゲームっぽさの漂う耽美小説だったり前例のありそーな青春ものだったりした実状を見るにつけ、いわゆる「ヤングアダルト」の新人賞に集まる作品の質の高さには目を見張るものがあると思えて来る。競争が激しいこととか、読者を楽しませるとゆー前提があることとかがきっと質の向上に役だっているんだろーし、「ヤングアダルト」の市場の広がりが志を持った作家志望者を集めているんだろー。なんてことを「第4回角川学園小説大賞」で優秀賞を受賞した「竜が飛ばない日曜日」(咲田哲宏、角川書店、514円)を読みながら思う。

 突然現れた竜の姿に2人の男女の学生がおかしいと気づく。けれども他の学生も大人たちも竜の存在を不思議と思わず、あろうことが竜に食べられることが人間にとって名誉なことだと信じている。いったい何が起こったのか。その理由が明らかになって来るにつれ、でもってどうして2人が竜の存在を不思議に思ったのかが分かって来るにつれ、物語の中に「想い」によって形作られた世界の凄さが見え、考え抜かれた設定の確かさに感動すら覚える。唐突な始まりと唐突な終わりの前後に大きな設定を見せる構成とか文体とかにもちょっと吃驚。こーゆー新人が「純SF」へと来てくれるときっと思弁的に深い作品が出て来そうな気がするけれど、ライトだからと言って軽さとか妥協とかを感じさせず、締めつつそれでいて読む人を楽しませる腕前は、「純」とかいったややもすれば独善的な枠組みを超えて、立派にSFの金字塔として屹立している。ちょっと感動の1冊。薄いし安いし読んで良し。

 並々ならぬ新人を生み出す賞として最近話題の「電撃3賞」の授賞式が開かれたみたいだけど、場所とか時間とか聞かされてなかったし案内ももらってなかったんで、無理に場所とか聞き出して取材に押し掛けるのも迷惑かな、なんて思っていたところに「電撃」のメディアワークスの親方筋にあたる角川書店が記者発表をやるとかで呼び出されたんでホテルニューオータニへと駆け付ける。中身は福武書店、じゃなくって今はベネッセコーポレーションと販売とか物流とかネットとかコンテンツとかいった部分で事業提携するって話で、前に発表済みで既に実行に移されている、主婦の友社とかメディアワークスとかアシェット・フィリパッキとか同朋舎とかローカスといった会社の営業・販売・物流を角川書店が受け持つ提携にも増して、売上だけなら角川書店の倍近い会社との提携は、大きな意味を持っている。

 目的から言えば、出版社ではどうせ同じ物流に調達に販売なんだから、いっしょにやった方が効率的だし機動的だよってな考えを実現するための提携で、あとは角川書店が熱を入れるネットへの傾注が、同様に教育分野でのIT化を狙うベネッセとの共通の課題としてあって、だったら一緒にやった方がいーじゃんってな結論へとたどり着いたと考えられる。加えて教育に生活に福祉とった分野に強みを発揮しているベネッセと、エンターテインメントが中心でメディアミックスに長けた角川書店とは、実に見事に事業分野が重なっていなくって、お互いの足りない部分を補完してさらなる強力なコンテンツなり営業力なり販売力なりを生み出す可能性が極めて高いことがあげられる。記者発表の帰りがけに角川歴彦・角川書店社長にそのあたり聞いたらそうだってなことを言っていたから、きっとそーなんでしょー。何でも欲しがる某プロ野球チームの監督と違って、ビジネスマンは情だけでは動かないもの。それが敢えて提携に乗り出す以上、勝算目算極めて高いと踏んでいるんだろー。結論を出すにはまだ早計だけど、現時点では「見事」の一言で賞賛したい事業提携だと言えそー。

 例えば1人の米国人がいて内気で無口だったりした場合、彼はセールスマンか図書館員かと聞かれた時にあなただったらどう答える。性格判断で「図書館員」と答えそーな人が多いよーに思えるのは、考える動物である人間が内気だ無口だといった要因を考え過ぎて「だったら図書館員だよね」と決め込む可能性が高いからだけど、現実問題米国でも日本でもセールスマンと図書館員のどちらが多いかと聞かれれば、「セールスマン」と答えざるを得ないのは自明。でもってそーいった部分に知恵が回らないあたりが、自分の知識への過信につながり、情動に引きずられて結果的には損をするんだとゆーことを教えてくれるのが、「行動経済学」なる学問の泰斗、ゲーリー・ベルスキーとトーマス・ギロヴィッチが書いた「賢いはずのあなたが、なぜお金で失敗するのか」(日本経済新聞社、1500円)だ。

 考えすぎれば欲が出て、周囲にも流されて騰貴にハマって挙げ句にスッカラカンになる。いわゆる知的エリートたちの、思考が柔軟で知識も豊富だからこそ見失ってしまう「原理原則」があるんだってことを改めて思い知らされる。ケンタッキー州の州都はルイスヴィルかルイヴィルか、と聞かれて「Sは発音しないんだったよな」なんて気づける秀才が実は足を踏み外しているエピソードは、プライドによって支えられた思いこみがどれだけたちの悪い物なのかを教えてくれる。なるほど経済は人間の営みの成果であり、人間の気持ちによって大きく左右される経済からは目をそらしてはいけないもの。固定観念の恐さを改めて思い知られました。ちなみに2つの設問の答えは……やっぱり本を読んで知ろう。


【10月2日】 怖い怖いと評判で早川書房の阿部さんからもどうでしょうかと聞かれた川辺敦さんの「怪奇・夢の城ホテル」(早川書房、620円)を読んでやっぱり本当に怖い怖いと思ったけれど、どこか既視感な恐さだったりするのは物語の展開が見事なまでにワイドショー的「幽霊ホテル探訪」番組を題材にした怪談話のパターンにハマりこんでるから、なんだろーか。ワイドショーのスタッフが取材に行った幽霊ホテルでとんでもない目に遭う展開も、繰り出されるアイティムにしても登場するキャラクターにしても、それ自体からはあんまり意外性を感じなかったけど、親子とか離別とかを絡めた人情物がいくら同じパターンでも涙を誘って仕方がないよーに、パターンにハマっているからこそ準備段階から気持ちを高めていざという時に恐さを爆発させられるもの。「怪奇・夢の城ホテル」もそんな感じに積み重なっていく「恐怖」の積み木が、最後にガラガラと崩れ落ちる場面に立ち上る楽しさと表裏一体の恐さを味わうことができる。

 奇妙な扮装をした得体の知れない姿の著者近影に、あるいは「怪奇・夢の城ホテル」はパターンを踏襲しつつ新しさを加えた、ちょっとんばかりメタ入ったリミックス的怪談話なんだろーかとも思えてしまう。エクトプラズム風呂なんて真面目とゆーよりは天然入った発想の暴走ととられて不思議じゃなからね。一方では、テレビのクルーが怪談番組の撮影へと向かって行かざるを得ない「会社の事情」をリアルに描いている点とか、そんなクルーが現場で遭遇する怪奇現象の描写といい、登場人物のサイキック・ハンター逢摩時雄が繰り出す心霊現象への対処方法の確かさとかから、もしかするとリミックスどころかノンフィクションに近い小説なのかもと思ったけれど真相、本当の所はどーなのかは分からない。

 ただパターンを踏襲しているといっても、次に何が来そうか予想がついても、物語の中からわき上がって来る「恐さ」はやっぱり格別なもの。時雄を筆頭にその先生の霊能力者やテレビ業界に蠢く魑魅魍魎たちの立ちまくったキャラクターの造形力も含めて、著者には物語を読ませる力があるんだとーことだけは認めるに吝かでない。次の物語があるのかどーかは不明だけど、評判も良いことだし是非とも続きを出して時雄ですら悩むよーな事件を繰り出して、「恐さ」の快楽に読む人を溺れさせてやって頂きたい。しかしどーゆー人なんだろう、川辺さんって。

 筒井康隆さんの「魚籃観音記」(新潮社、1300円)は雰囲気だけなら断筆宣言以前の、といってもどちらかと言えば「筒井康隆全集」なら後半に近いあたりに収録されている、派手さもドタバタもないけれど、内面からにじみ出るよーな不条理が読む人の脳味噌をえぐってくれた作品群に近いかなあ、なんて思ったけれど、エンターテインメントを指向していた時代のオチまで含めた徹底ぶりとはちょっと違って、不条理なままでポンと投げ捨てる感じがあって、それがカタルシスとは違った不思議な余韻をもたらしてくれるあたりが、文芸誌で活躍するよーになったヌーベルな筒井さんならではの作品なのかも。そう言えば椎名誠さんも文芸誌だと結末を放り出せるから楽だってなことを「日本SF大会」で喋っていたっけ。もちろん単に意味不明なだけではイライラが募って忌避されるだけなんで、そのあたりをカタルシスと引き替えても十分なメッセージがあるってことが、椎名さん筒井さんが支持される理由なんだろー。

 例えば「馬」の場合、美女にしか見えない馬を飼う羽目になった男が彼女(馬だけど)と寝ようかどうしようか迷った挙げ句に金輪際云々と決意して終わる展開には、「青ざめた馬を見よ」ではちゃんとSF的に描かれていた馬人間の秘密のよーな理由付はなく、終わり方も唐突過ぎてカタルシスはない。けどそうした放り投げるような物語の中からも、人の目って、認識っていった何だろうと首をひねらせるだけのメッセージが浮かび上がる。「この人がわたしの主人になるのかなあ」と聞こえよがしにつぶやく際の口調に、可愛いけれどもどこか茫洋とした「馬=美女」のキャラクターの曖昧さを感じさせてしまうあたりに、言葉選びに才を見せる筒井さんの凄みを感じてしまう。

 巨大な旧家に縛り付けられ、圧迫され窮屈な思いをし取り残されるんじゃないかと焦る「谷間の豪族」の主人公の様は、作家になりたいと焦り、家族との相剋に悩んで育った筒井さん当人のプロフィルなんかとも重なって、同様に人生の焦りを感じている男たちの気持ちを突く。と同時に谷間から抜け出せないと諦めてしまう女性の姿に、さまざまな生涯が長い階段となって可能性の芽を摘んでいる社会の縮図を見てしまう。まとまりとゆー点でこの話が個人的には1番好き。「市街戦」は教育的な部分が分かりやすいんでちょっとパス。表題作はこんな程度のエロ描写じゃ今どき発禁なんかになりません。とゆーか最近活字がエロで発禁になることなんてあるんだろーか。何か実験的な意図があるかもしれないんで、それがくみ取れるまでは評価は留保としておこー。


【10月1日】 と言われても分からないだろーから説明すれば、ぷちこがどうして「吉村達也に続いて」と言ったかは、「京都大学SF研究会」が発行している「WORKBOOK67」に理由があって、中でぷちこが目から温泉出しながら「吉村達也の本を読むにゅ」と言って吉村さんの作品に毒なコメントを吐き散らしているのを読んだから。遠慮があるのか真正面からするどく抉る身も蓋もない言葉こそ少なかったけど、「水曜島の惨劇と「血洗島の惨劇」と「銀河鉄道の惨劇」を並べて「以下3つ、惨劇島シリーズにゅ。シリーズといってもシリーズにする意味がないにゅ」とか言ってみたり、「OL捜査網」について「タイトルだけで満足するが無難にゅ」とちょっぴりながらも毒をのぞかせている辺りにぷちこらしさの片鱗も見える。SFじゃないけど京都に縁のある我孫子さん綾辻さん清涼院さん麻耶さんあたりの人たちについてどれだけのことをぷちこが言えるか期待したいところ。SFで吉村さんやるんだから我孫子さんが綾辻さんでもオッケー、でしょ?

 毒を吐かなくなったところを見計らってぷちこを捕縛してそのまま睡眠、やわからいホッペが心地よくぐっすりと眠れました。30過ぎた良いおっさんがぷちこ抱いて寝てる様ってのが、つまりは「SF」の神髄って訳で(違うだろう)、そんな姿を観察できた「DASACON4」参加者は喜んでやって下さい。8時半頃に復活して9時のエンディングを聞いて直行で帰宅してバスケットボールなんかをうだうだと見て睡眠。起きてマラソンを見たら日本てんで弱っちくって見る気もなくしてまた睡眠。起きて”まや”には適わないだろーけれど缶詰を明けてカルボナーラを作ってもりもりと食べてからシドニー五輪のエンディングを見る。冒頭から5つの輪をぶちこわしてカートが場内を駆け回る演出に、果たしてどんな意図があったかは謎だけど、ちょっとしつこかったよーな気もしないでもない。気持ちが入り込んでいる現場で見ているとまた違った感想があるのかもしれないけれど、中継だと仕掛けぶりがちょっと鼻についていけない。

 何かある度にオーストラリアを代表しているらしー歌手の唄とか演奏が入って間延びすること仕切り。顔は更けているのに服装はラフな2人組が1人はギターで1人はボーカルってな組み合わせて歌っている様に「B’Z」の末路を思い浮かべる。白髪あるいは禿頭の老人が短パンで派手なアクション交えて歌っている様、見たくないけど見たいなあ。それでも閉会式自体の最後にオープニングで可憐さを見せてくれたニキ・ウェブスターちゃんが再び登場してプロらしい音程も発声もしっかりとした歌声を聞かせてくれて気分は最高、高い台の上で強い風にさらされながら歌っている様に、どーしてミニスカートじゃなく長いダラダラしたドレスなんだと起こった全国300万人のニキちゃんファンが憤る声が聞こえて来たよーな気がしたけれど、それは無視して歌い終わった後で目をこらして見ていたけれど、結局聖火がどんな風に消えていったのかが分からず拍子抜け。あのジェット機が聖火の人とゆーことで空に飛んでいったんだろーか。中継は演出されてたからそのあたりビューポイントの誘導がうまくいっていたのか分からない。現場の人から見たらどーだったんだろーか、良い閉会式だったんだろーか。

 いちおうはオフィシャルな閉会式からなだれ込んだパーティーに、布袋寅泰さんにも勝てる身長2メートルのボーカリスト、ピーター・ギャレット率いるオーストラリアだけではなく世界的に有名なバンド「ミッドナイト・オイル」が登場したのには驚くやら嬉しいやら。デビュー当時からそのスキンヘッドの容貌の怪異さに着目していたバンドだったけれど、今や単なるパンクバンドの域を脱して、アボリジニに対する過ちを糾弾する唄や原油の流出事故を糾弾する唄なんかを作り続けてイデオローグとしても活躍中。間にオーストラリアから世界を席巻したバンド「メン・アット・ワーク」が途端に消えてしまったのに比べると、今も現役かつ第一線で活躍する「ミッドナイト・オイル」は、ウザく見えよーともやっぱり正しさは勝利するんだってことを体を張って見せてくれている。偉いぞピーター・ギャレット。今度は五輪の商業主義とアボリジニを巧みに取り込んだ開会式の欺瞞ぶりを糾弾してやってくれい。


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