本書はソ連の病理学者、職業作家では決してない、ツィプキンの書いた長編小説。
執筆当時のツィプキンは、息子夫婦が米国へ亡命したために降格され、出国も認められず不遇な状況に置かれていたという。本作品の冒頭部分が米国で雑誌に掲載されたものの、彼の死去はその7日後だったという。
かようにソ連国内でも日の目を見ることのなかった本作品が広く読まれるに至ったのは、批評家スーザン・ソンタクのおかげ。 本書ストーリィは、ロシアの文豪ドストエフスキーが若い妻のアンナ・グリゴーリエヴナを伴ってドイツのバーデン・バーデンに滞在したひと夏を描いたものです。
しかし、外国への観光旅行といった優雅なものではなく、ドストエフスキーは賭博に入れ込み、何もかも質入れして幾度となく金を借りてはすってばかり、という酷い状況。
そんなバーデンの日々を綴ったアンナの日記を、ソ連国内を汽車旅している「私」が読んでいる、という構成の小説。 一言で表すなら、本書はツィプキンのドストエフスキーに対する愛を込めた作品と言って良いでしょう。
ストーリィ中のドストエフスキーは、賭博熱に浮かされ、どこまでも我を忘れて留まるところを知らない、といった愚かしい限りの人物ですが、それでいてどことなく愛さずには居られないところがあります。
本書中、作家の妻は「アンナ・グリゴーリエヴナ」と第三者的に書かれながら、ドストエフスキーは「フェージャ」と書かれるのは、作家がアンナの視点に立って描かれているため。
愚かしいながらも愛しい存在であると語るうえで、妻という立場は恰好のものでしょう。
そして、悲哀を味わいながらもフェージャに従順であり続け、いたいけな印象を与えるアンナ・グリゴーリエヴナを読み手は愛さずにはいられませんし、そんなアンナが愛するフェージャをもまた読み手は愛さずにはいられない。
本書は、そうしたドストエフスキーへの愛に満ちた作品であり、オマージュと言ってよい作品です。 また、バーデンで金銭問題に苦労しているドストエフスキー夫妻と対照的な、富裕な身のツルゲーネフやゴンチャロフの姿を見ることができるのもロシア文学ファンとしては嬉しいところ。
特に、後年プーシキンの後継者という評価を、ツルゲーネフを押し退けてドストエフスキーが勝ち取った事実を思うと、ドストエフスキーとツルゲーネフが対峙する場面は、何とも興味深い。 なお、本書は最初のうち、とても読みにくい。
その理由は、(難しい文章では決してないのですが、)文章がどこまでも続き、句点で区切られることが全くないという、極めて特異な綴り方をされているためです。
それに重ねて、アンナの日記を読む旅行者と、アンナ自身と、ドストエフスキーの立場が渾然一体として、明確に区別つかないまま最後まで語り続けられてしまう点にもあります。
しかし、その渾然一体としているところもまた、ドストエフスキーへの愛から成る本書に相応しいものだと思います。
ま、長い文章もそんなものだと思えば、その内気にならなくなります。
ドストエフスキーがお好きな方には、お薦めしたい作品です。 バーデン・バーデンの夏/ドストエフスキーを愛するということ(スーザン・ソンタグ)
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