その6 茶陶その他茶道具について

 また、茶碗を買ってしまった。しかも2つ同時に。鼠志野に瀬戸黒である。よく出入りしている陶磁器屋(自由が丘の”陶木美”漆器も豊富)のご主人、星野さんと話す内、こんなのがあれば欲しいと言っていたものを窯元に行った際に仕入れてくれたのだ。もちろん、買うかどうかは別、と言いつつ見に行ったのだが、まさに求めていた類のものであったため両方とも引き取ってしまった次第。つくづく焼き物好きだと我ながらあきれてしまう。

 鼠志野は土そのものが鉄気のあるもので紫がかった赤色に発色し、そこに長石釉が掛かり、お約束の指化粧が景色を添える。やや小ぶりだが手のひらにすっぽり収まる様に愛着がわく。

 瀬戸黒はもぐさ土を使った薄手の筒形で、やや外に反った口造りが美しい。黒茶碗といえば”引き出し黒”と思いこんでいたのだが、これは最後まで窯でゆっくりと冷えたものという。

 本来なら季節にそぐわないのだろうが、そんなことはお構いなし、早速持ち帰りお薄を点てて一服。やっぱり良い。お茶がうまい。

 

 茶の湯の道具はその精神を表現するために茶人が創意してきたものであり、見立てや新作が盛んに取り上げられてきた。しかしながら、茶の湯が確立してから久しく、流派というものが発生する頃から、むしろ保守的になったと言えるのではなかろうか。何代家元の好み物、といったものがそれだ。時代が経ち、一定の評価が与えられたものなら安心できるという権威主義の表れだろう。作家だって、楽家だ仁清だ、となると作品そのものの批評は抜きにすべてのものが”素晴らしい”となる。名前だけで大枚をはたいて買い求める。

 もちろん、時代の荒波を乗り越えてきた古典にはそれだけの理由、つまり魅力があるのも事実だが、それほどのものでなくともただ古い、有名というだけでやたら高値がつくのもある。

 個人の感性の違いはあるにせよ、自分の目で価値を判断する力を養うのも茶人としての精進の一つだろう。いにしえの茶人にならって現代に生きる我々も”平成の長次郎”を見いだそうではないか。それでこそ、茶数寄の名に恥じないものと思う。使い手から造り手への絶え間ないフィードバックがあってこそ造り手の創作意欲はかき立てられる。そうして名品は生まれるのだ。

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