その14 ”家元茶道”との訣別

 ”茶の湯”とはそもそも”茶人”だけのものであろうか。ましてや”家元”のものであろうか。いや、そんなことは無いはずだ。

 この2年、茶の湯に親しみ、自分なりに考えてきてぶつかった壁がこれである。

 

 確かに家元制度の下、保たれてきた伝統は数知れない。しかしながら、いまやその弊害の方が大きいと思わざるを得ない。

 稽古はお点前中心で、茶の湯の本質が伝わって来ない。組織はいわば新興宗教に似て、内部批判が出来る雰囲気はないし、許状という巧みな集金システムは、長くやっている(=多くのお金を出した)者程偉いという縦型社会を形成している。それ故きちんと”入門”をしていない者は何年やろうが表だった茶会で亭主を務めるなんてことにはならない。家元の箱書きは道具の価値を決める大きな要因になる、等々。まさに、バブルの崩壊と共に崩れてきた日本的組織構造が未だ旧泰然として残る世界である。

 

 このような世界は”女子供”が中心の”お稽古もの”だからと思っていたが、その中にいる貴重な存在である男にもそれらを打破しようという者はみられない。疑問すら感じていないのが大半である。(と思う)

 これらの疑問を抱えつつ、稽古に勤しむということが心情的に困難になってきたので、炉の平点前を一通りやった11月一杯をもって稽古は辞めた。仕事上の事由でということにしておいたが、実際には以上のような思いがあったからであった。辞めた今、何か吹っ切れた思いで、むしろ以前にも増して茶の湯に対して真摯な態度で望めるような気がしている。

 

数寄者への長い道に戻る

茶の湯の世界に戻る