その13 大寄せの茶会批判

 近代の数寄者の代表であった益田鈍翁の生誕150年、没後60年を記念した展覧会が各地で行われている。鈍翁は、三井物産を始めとする三井財閥の礎を築いた大実業家であった。明治時代、西洋文明の流入や廃仏毀釈運動の中で、疎まれていった仏教美術を中心とした日本美術の保護の為にその財力を費やし、膨大なコレクションを残した。当時、その蒐集品を”お披露目”する茶会を催したが、その形態が”大寄せの茶会”の原型となったとされる。

 大寄せの茶会とは、多数の客を招くことを前提とした茶会の形式の1つであるが、茶道具を買い揃える(あるいは借りる)ための費用や茶席の使用料といった多額の出費の採算を取るにはより多くの客を招く必要があり、必然的に大寄せの茶会が現代の茶会の主流となっている。

 

 今回、社中でも1席持った茶会が開かれ、初めて大寄せの茶会に行くことになった。しかし、それは想像していた以上に醜悪なもので、こんなものが”お茶”と言えるものかと、あきれるばかりではなく怒りさえこみ上げてくるものであった。

 まず、寄付待合がない。11月も下旬でかなり寒い日であったが、各茶室の外に長蛇の列を作り、ひたすら待たされる。道中の履き物は何処で替えたらいいのだろうか。もし、雨でも降ったらどうするのであろうか。”冬は暖かく夏は涼しく””降らずとも雨の用意”が利休の教えではなかったか。また、蹲いには柄杓が無く、蹲いの景色を誉める者はあっても使えない事に疑問を挟む者はいないようだった。

 ようやく茶室に入る頃になると、正客の譲り合いが始まる。”他流だから””若輩だから”と見苦しい謙遜のしあいで、少数派の男性があれば大概は正客に祭り上げられ、自分もまたその例に漏れなかった。

 そうして席入りすれば、四畳半の小間に15人もの客が肩を押し合いしながら詰め込まれる。人の蔭でろくに床も点前も見ることが出来ない。1席あたり30分程度でさばこうとするから、拝見も満足に出来ない。だいたい、会記が先に回って来て目を通しているのに、わざわざ後から茶名を聞くのも形式的である。また、正客を差し置いて次客が席主とやり取りするくらいなら、始めから正客を買って出ろと言いたい。”相客に心せよ”と言ったのは利休だったはずだ。

 さらに、席中気になるのは、外で待つ客の話し声だ。席主の声も聞き取れないほどの大声で雑談している神経が信じられない。

 そして、何よりも茶券が高い。申し訳程度の鶏そぼろ弁当が”点心”として付いて茶席が3席で8千円、その他に先生に対して社中一律1万5千円の”お祝い”は昨今の金銭感覚からは、ずれているとしか言いようがない。

 

今回、知り合いを茶会に誘わなかったのは正解だった。多少でもお茶に関心を持っていた者でも、こんなのがお茶かと思われたら、2度と茶会は御免ということになったと思う。 

 茶会とは本来、茶事形式で行われるべきものであり、特定少数の客を招き、一座建立の中で歓待するものであった筈である。それに対して今日の大寄せの茶会は、大きく茶の湯の本質から離れた所にあると言ってよいのではないかと思う。このような茶会に満足している”茶人”とは一体何なのだろうか。

 自分なりに茶の湯というものを見つめ直し、実践する、その必要性を実感出来た良い機会となった。客をいかにもてなすか、それが茶の湯の原点にある。それを自分自身の感性と創意で実践するのが真の”茶人”だと考える。そう考えた場合、このような大寄せの茶会で”亭主冥利に尽きる”なんてことはあり得ないことだ。

 

 ところで、一応は、普段手にすることが出来ないような道具に触れることは出来たのだから、それはそれで良しとしなくてはいけないだろう。宗入の赤楽茶碗も宗旦の花入も実に良かった。

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