その10 ”楽茶碗の四〇〇年 伝統と創造”展を見て

 楽茶碗。現代に連なる茶の湯を大成した千利休が、”長次郎”なる人物を見出し、自分の茶の在り方を表現する為に焼成させたことに起因する。千家の茶では”一楽二萩三唐津”とも”一楽二高麗”とも称し茶碗としては第一の格にある。その家系は400年の間連綿と続いてきた茶陶の名門。楽家当代である十五代吉左衛門の作を中心とした展覧会が昨年から今年にかけてヨーロッパで開催された。その凱旋を記したのが今回の展覧会である。

 歴代の作品がぐるりと巡り、それらに囲まれるようにして当代の作品が異彩を放っている。力強いものがある一方で繊細なものあり、また侘びたものに軽妙洒脱なものと代毎に異なる釉薬や造形の味わいは楽茶碗の奥行きの広さを見せてくれる。

 ものの本には歴代の特色を解説しているのもある。それは歴代を互いに比較し際立つものをその代の特色としている訳で、鑑定や何かには役立つかもしれないが、ただ鑑賞する際にはむしろ余計な先入観となって直接作品と対峙する妨げとなる。1人の作家が何十年かの創作期間中特定の作風に固執するとは考えにくいのである。それに今回の作品数では、歴代のなにかを感じ取るには少なすぎた。

 唯一作品数が多かったのが当代一五代。そして作風もまた、それまでとは一線を大きく画するものであった。現代的というのか、一見するとオブジェのようなものが並ぶ。計算されたものと火が偶然に生み出したものが混じり合った色合いは魅力的ではある。形は切り立った筒茶碗状のものが多くそれ自体は美しいプロポーションと言えるかもしれない。しかし、いわゆる楽茶碗、ましてやその本窯のものとしてどうか、といわれると疑問を感じざるを得ない。

 歴史や伝統の重みを一番に感じておられるのは勿論当代ご本人と思う。そういった重圧をはね除けたいと考えるのも当然だと思う。しかし、その結果がこれかと示されるとやはり首をかしげてしまう。茶陶である以上、用の美で貫かれていなければいけないと思うが、そういう目で見るといかにも扱いにくそうなのだ。点前をすることを想像してみると、袱紗や茶巾がひっかかりそうだし、共蓋の茶入には茶杓が乗りそうもない。型にはまった点前を否定する意味合いもひょっとすると込められているのかと考えはするが、やはり一番気になるのは茶碗の口作りに鋭角なものがあって唇を切りはしないかと思ってしまうことだ。

 陶芸家であればあくまでその作品の中ですべてを表現して欲しく、あまり文章で武装されないようにと思う。

 しかしながら、名もない作家の作なら否定するだろうが、楽家というだけで無批判に有り難がるタイプの人間が茶道界には多いのも事実である。

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