いつの間にやら新しい年を迎えた。窯焚きを1/16に終え、新年に窯出しをするつもりであったが、焚き終わった一週間後に、窯内の温度が
70℃まで下がっていたので、月末に窯出しをした。案の定サメ割れの甕が2本。十分に窯内で冷やして出すべきであった。8斗の甕も3本
ダメであった。これでは、掃除も億劫になったままの新年を迎えることになった。ボーとしている訳にはいかない。今年も甕のキャンパスに
窯変(景色)を描いていこう。8斗甕に万遍に描けたらと思う。「焼き〆」造形した陶土に釉薬をかけずに、焼き〆る。壺屋では、釉薬をかけた
上焼きに対して荒焼き(南蛮)と言った。琉球王国は大交易時代(十四世紀〜十六世紀)、中国、インドネシア、安南と盛んに貿易をしていた。
その頃泡盛の原型であるラオロン酒がタイ王国より荒焼きの南蛮甕に入れられ運ばれた。この容器を参考に琉球王国で喜名焼き等、各窯で
後に穀物入れ、水甕、味噌、醤油、油等、生活の必需品の容器として盛んに生産されていった。そしてデザイン、美しい釉薬を掛けた上焼き
へと移って行く。荒焼きの窯変(景色)は失敗作として割るなどして処分されていた。。泡盛の熟成に優れた荒焼き甕の復活。
炎の織り成す窯変(景色)は美しいものである


  


早速陶土作りから始めようとしたが、原土を入れ水と攪拌するブロック槽にひび割れがあり、セメントで埋め合わせる。セメンが固まる翌日
からしか陶土作りができないため、相棒のF氏とヤンバルの森林組合まで息抜きを兼ねドライブ。前回の窯焚きと同じ10束を運搬して貰う。


  


1/21  1月10日より陶土作り(スイヒ)と森林組合から運んでもらった松材の薪の整理をしている。薪は乾かしながら、皮を剥ぎ取る。
剥ぎ取れない皮は、あと2,3日乾かすと、自然に木地から浮き、ヘラで剥がしやすくなる。陶土作りのスイヒは、朝、夕2回するつもり
であったが、スイヒ後の泥土の沈殿が遅いため、一日一回とした。スイヒは年明け前に終わり、ゆっくり新年を迎えるべきなのだが
バタバタと12月の中旬に窯焚きを終えると、窯焚きに費やした疲労を、窯出しの出来を見ずして、次の仕事に取り掛かれず、窯焚き
で散らばった薪の整理、窯場の掃除、作業服の洗濯と軽い作業をするのみ。ときたま窯に手を当て窯の温度を確認する。
結果は前頁のごとく良くなかったが、毎回窯焚き後の窯出しは、期待感が大きく裏目に出るとダメージも大きい。


  


1/31  あと2、3日スイヒ(泥水を作りろ過をし、陶土を作る)をすれば、泥土の沈殿槽はいっぱいになる。ほぼ25日間、毎日
一輪車で原土の粘土質の赤土を運び木節粘土を少々入れ水を加え、かき混ぜ槽でブロックの淵を梃子に、スコップで手首を返し攪拌する。
攪拌した泥水をバケツで汲み上げ、こし網を通し、下の沈殿槽に流し込む。翌日、沈殿槽で泥土と水が分離している、上澄みの水の部分
に水中ポンプを突っ込み、かき混ぜ槽に水を移し、かき混ぜ泥水を作る。その単純な作業の繰り返しで陶土作りをする。


  

2/3  日曜日、洗濯機が動いている。屋内の空気を入れ替えるため、少し開けたドアから、手足に冷やりと外気を感じる。本土の
各県の氷点下に比べ、15℃。しかし、運動をするには快適な気温だ。仕事は毎日、運動をしているつもりで体を動かしている。実際
陶土作りは、手、足腰(スクワッチ)の筋力トレーニングだし、腰に万歩計を付け薪を担いで何度も窯に運ぶ。仕事で運動をしている?と
捉えると楽である。だから、と言うわけでもないが、わざわざ時間を作って運動はしない。窯場を休む日は、自宅でゆっくりくつろぐ。
仏壇を有するため、一日、十五日は仏壇にウチャトウ(お茶湯を供える)を忘れがちなため、今は、日に関係なく休んだ日にウチャトウ
をしている。養母が健在の頃決まった日に、仏壇に供えているのを、仕事だろうなと思って見ていたが、亡き後、自分の生活の
リズムにもなりつつある。




2/10  大工仕事は道具もほとんど揃えているので家の修繕等は自分でする。しかし、電気関係だけは、先入観があるのか
以前から敬遠をしていた。溶接となるとそのもっともとなるもので、修練の時間を持たなければ、できないものだが、ホームセンター
で100Vのコンセントからでも、楽に出来るアクト溶接機を見つけ、とうとう買ってしまった。自宅の階段の手すりと、窯場の薪棚の設置
それにしても、取り扱い説明書には、コードの配線図と、安全と注意書きの冊子が入っているだけ。使い方の説明はない。
苦手意識を振り払おうと、ネット上から事前に取り扱い方を調べ知識を叩き込む。普段は説明書を読まずに道具を先に使って
しまうのだが、電気となると、ビビってしまう。しかも+、−を接触し放電させての溶接のようで、窯焚きとは、勝手が違う。


      

2/20  スイヒを終え沈殿した泥土を干し場に上げた。2ヶ月で一トン半の陶土を作る。空になった沈殿槽で、2回目のスイヒを始める。
3時に窯場を閉める。コンベンション劇場での小椋桂コンサートへ。会場で当日券を5時に買うことになっている。自宅でシャワーを浴び
早めに家を出る。開園は6:30、まだ、一時間の余裕がある。コンベンションホールと体育館、2棟の大きな建築物を運動がてら、行ったり
来りする。昨年9月に体躯館裏の広場で教科書検定撤回要求県民大会が開かれた場所である。あの日は太陽光線の強い中での大会であった。
今日は大分冷え込んでいる。始まる前に2回もトイレに行って会場に入ったが、会場内もなんら変わらず、寒い。厚着をしてくれば良かったと
思いながらのコンサートが始まる。穏やかな優しい語り口と歌で進行していく。「歌つづり」では小椋桂が、物語を朗読しながら、ステージ上の楽器
演奏者に各々配役を決め座ったままでセリフを語らせ、音楽も奏で、小椋氏は物語を語りながら歌う。僕自身7年前のコンサートから今回で2
度目であったが、前回と似た構成であった。詩心、曲が繊細で、琴線に触れる感性な旋律。深遠な世界へ心地よく誘う。
2、3年前であったか、ETVスペシャルで見たと思うのだが、息子が病(脳梗塞)で倒れ、好転の兆しの見えない中、小椋さんが何気なく
歌をうたうと、彼の口から、その歌が自然に出てきたと言う。その後めざましく回復し、今は琵琶製作者で奏者でもある。


  


囲炉裏で読書時間
2/26  冬場の至福の時は何と言っても、火をおこした囲炉裏で、コーヒーを飲みながらの読書時間。 仕事を一段落して。晴読雨読に。
 何かにかこつけ、囲炉裏を囲んで本を読む。書店から買い付けた月刊誌、季刊誌、目に付いた書籍を並べて悦にいる。
温暖化の影響か今年の冬は寒くないのかと思ったが、2月に入って、急に冷えこんだ。窯場近辺の森から枯れ木を拾い集め
両脇に抱えて、工房に持ち運ぶ。以前は囲炉裏周辺を綺麗にし、スッキリした気持ちで読書をしていたが、今では掃除の時間を
惜しんで?スイヒを終えるや、長靴の泥をつけたままイスに座り仕事の道具で雑然となった場所でもかまわずに読むようになった。




2/28  羯諦 羯諦(ギャーテー、ギャーテー)?と鳴くアマガエル。泥土沈殿槽上に蓋をした、トタンの重なった隙間から
2匹のアマガエルが現れた。3日目に一匹はいなくなったが、他の一匹は20日経っても、常に定位置に現れ逃げない。
いつしか、トタンの移動にも乗ったまま、スイヒ後に、背中を指で擦ると、目をとじる。(アマガエルの体液には毒があって、
触った後に、目や傷口に触れないようにとのことだ)毒と言えば、7,8年前工房の引き戸玄関横に置いた甕の下に
ヒメハブが定宿して、竹棒先に細いワイヤーを付け捕獲しては谷底に投げていたが、何度投げても帰って来ていて、
根気に負け?逆にした竹棒で頭を撫でていた。しかし、さすがに客も来るので甕を移動、その後に土を入れパパイアを
植えたのだが。身近に毒を持った生き物は、少なからずいる。毒草のホウライカガミを食草とするオオゴマダラもそうで
ゆっくり優雅に飛ぶ蝶を鳥は口にしない。
  

2/29  沢木耕太郎の文化講演会、なるべく聞いてみたいと思う講演会は、マメに出かけるようにしようと思っている。
彼の作品を読んだことは、エッセイぐらいで、小説はほとんど読んでいないが、同期の作家で、いずれ読んでみようと
思っていた。新聞社の団塊の世代シリーズの文化講演会のようで、このての会で特定されると行きにくいものだが
聞きたい方が強かったので出かけた。案の定、左右前後どちらの席も同世代の人達で会場内は埋まっていた。60歳を過ぎてから
2度のアカデミー作品賞や監督賞を受賞した、俳優でもあるクリント・イーストウッドをひきあいに、「彼のソロ(1人)としても生きられる力を
培ってきた自信が、出演者を信じ、寛容さも、身に付けたからだ。」と、企業や社会のパーテイー(集まり)に依存せず、ソロでも生きられる
自分をつくることが大事ではないかと言うような内容の講演会であった。