7/10  明日から窯焚き。窯焚きのメンバーが4名揃った。親の代から酒壺を作り続けている陶工U氏と以前からの
塾生で壺作りにメッキリ腕を上げた、古酒(クース)にはまっているK氏。渡り鳥のホサカ(今年も一ヶ月滞在、陶芸
三昧)薪窯で、一週間も窯を焚き続けるには、焚き手が4,5人いなければ薪窯を焚くことはできない。

学生生活の最後を終え本土への就職を望んで、学生課の掲示板に貼り出された求人企業の二社を受けた。
急成長後、世間を騒がせたリクルートと愛知の中堅のタイル会社。その頃まだ無名であったリクルートは、骨格
が出来、人材を広く募集し始めた頃で、直接幹部が来て空き教室で、幾種類ものパンフレットを広げ、企業が
これから事業をどう展開していくかを力説していた。個別に説明した翌日、8人が教室で筆記試験を受けた。
4問の○×と「あなたが尊敬するジャーナリストについて書きなさい」との問いだった。大宅壮一について書いた。
愛知のタイル会社は担当者は来ていず、沖縄の取引業者が面接にあたっていた。二社受かったが、生まれ地の
愛知のタイル会社に決めた。沖縄の本土復帰前であった。パスポートを持って、沖縄の業者と飛行機に乗った。
本土に到着するや、会社の方が迎えに来ていた。20人程の総務の社員に迎えられた。後方にタイルの製造工場
があり、多くの従業員が作業をしていた。後で貿易部に移ってくれと言うことであった。沖縄人は英語を共通語とし
て、生活の中で日常的に話していると、思っていたらしく、話は食い違った。半年で辞めた。食いつなぎに3ヶ月
英会話の教材の訪問販売をやり、その後、トヨタの組み立て工場に季節工として、1年半勤めた。一週間ごとの
二交替制。ベルトコンベアに噛り付いての流れ作業、各コンベアの部署に班長がいて、毎月の量産のノルマが
あり、班長達の指示でベルトコンベアが動き出す。単に月末の給与明細に一喜一憂だけの生活。工場内は油と煤
が浮遊していて、安全靴に軍手、作業帽子、マスク着用を義務ずけられていた。マスクを忘れた日は、鼻毛に
ギッシリ煤が付く。何度も鼻をかみ急いで寮の風呂に入り、部屋で休む。二交代制の前夜には、ジンの酒を飲んで
ぐっすり寝た。高度成長期で働き手が不足の時代。そこで友人となった早大卒のN君と元大阪商船の人事課を退職、
独立後に借金をかかえて、季節工にきたRさんの斡旋で外国行貨物船に乗船できると言う。甲板人が足りないとのこ
とだった。機関室か食堂のコックが良ければ後で、希望を話せば良い。とのことで、保証人として親の捺印を貰うため
一時沖縄へ帰った。小田実著「何でも見てやろう」学生の頃、外国に行くことを強く夢見ていたころ  

34歳でこの道に入り、壺屋の窯を見て回った。窯元の多くが50、60代であった。仕事はそれなりに、キビキビとこな
していた。しかし、タンメーだなと思った。同時に伝統工芸への畏敬の念と、この道で一生終えて行くんだろうかと
いちまつ、の寂しさがいりまじった。今自分がそこにいる。学生の頃、絵を描いたりの興味はあったが、趣味の範囲内
であった。



8/5  7/11に火入れをした。新聞の天気図で台風の発生を確認したが、避けてくれることを願い窯を焚く。しかし、
願いに反し、台風4号は直撃の進路。交代時間に来たU氏も、中止しようとの顔。7/13窯焚き一時停止200℃〜300℃。
焚き口の火を消し、鉄板で閉め、窯の両サイドの穴を塞いだ後、煙突に蓋をする。工房に行く。雑木林の小さな森の中、
木々が強風雨で撓りながら、唸っている。道具箱からハンマーと釘を持って、吐き出し口の戸をサン木で襷に釘を打っ。打った
後、頭上で瓦が飛んだ。衣服は水を含んで重い、そのまま車に乗り込み急いで窯場を出た。台風が去った翌日窯を焚くため
に窯場に行く。窯場一面に木の枝が散乱していた。道向かいに有ったヤブニッケイとホルトノ大木が地面を掘起こし転がっていた。
根元が露出している。わがホルトの大樹も髪が抜けたように、中ほどの2,3本の枝がもぎ取られていた。工房の屋根は、数箇所
赤瓦が飛び、サン木がむき出しになっていた。修理は後まわし。とにかく、窯を焚かねばならない。am9;00より再スタート、
4名で6時間交代。これまで窯焚きを終えるまで、窯場を離れなかったのだが、仲間の提案で、自宅に帰って、じっくり休むこと
にした。窯焚きはある程度窯焚きに慣れていても、作品を生み出す熱意を強く持っていなければ、誰れでもいいわけではない。
時には体力の限度を超えても、窯を焚き続けなければ、良い作品を生み出せない。たかがヤチムン、されどヤチムン。
7/18am6;00終了ー138時間。7/27に窯出しをするが、納得できず、窯に作品を入れ直し、7/28〜7/30再度窯焚きをする。



体がまだほてっている。窯焚きが終わり、三日過ぎたが窯焚きの照り返しで、体がほてっている。窯との格闘の証。
久しく窯を焚き終わった充足感にみたされる。三十代のころ二度窯焚きを一人で焚いたことがあった。松の大木を
体力をふりしぼって、窯口に差し込む。食事は、薪の燃えている間に、飯を炊き、直ぐエネルギーに成ると言う肉を
焼いて食べた。仮眠しながらの3日三晩、窯を焚き続けた。窯焚きを終え閉める頃には、゙体力は消耗、意識朦朧
となり、アスファルト上に放りなげられたミミスのように、のたうちながらバケツにいれた土を四つんばいになって引き
ずり、気力のみで、窯の蓋を閉める。後はそのままひっくり返ってその場に寝てしまった。アスリートならずともトコトン
体力の限界を確かめる。


  


8/7  窯出し。久しぶりに、全作品窯変(景色)が素晴らしい(普通自己作品をこう自賛しないものだが)。
こう言えるのは、窯焚きの炎に委ねる要素が大きいからで。焼〆の作品は焼きの良し悪しで総てが決まる。




8/15 ウダルような熱さ、太陽光線を直に受けると、クラクラする。道側に積まれた薪をかたずけねばいけない。
薪を束ねたバンセンを切断、薪をチエンソーで切りそろえ薪小屋に運ぶ。午前中で作業を終えるつもりで
いたが、この暑さで、てまどる。シャツは噴出した汗でベタベタ。2リットルのポリ容器のお茶は、すぐに、飲
みつくす。一人で何とか持てる薪は、切らずに一輪車に乗せ薪小屋に運ぶ。できるだけ窯口に入る薪は
そのまま燃やすほうがいい。特に攻め焚きには、松薪の大木は馬力が違う、必要不可欠だ。


   

古酒壺の作品を作っていこうと思いいたったことについて。
まず作品が大作であることと、焼〆の特徴である、炎の有様を窯変(景色)として壺に描く、魅力である。窯内で燃え
盛っている炎を壺表面のキャンパスに描く窯変は、薪窯の焼〆ならではの、真骨頂である。焼〆、南蛮焼(荒焼)は
上焼き(上柚)の釉薬の絵付けと違って、成形した陶土をそのまま、焼〆るため、焼く過程で、窯変(景色)狙いであれば
炎をいかに捕らえることができるかにかかってくる。意識的に絵付けをした上焼きは、焼きの良し悪しはあろうが、焼〆の
良し悪しとは雲泥の差がある。薪で焚いたこと自体が、窯変(景色)となって、壺に写し描かれ、紛れも無い真実の証の
表現となる。窯変(景色)は攻め焚き後、窯内が1200〜1300℃になった白銀の古代の地にカキヤー(細薪)を投げ入れ
古代からの贈り物として景色を頂き、そして生まれる。


   

8/28  子供の頃、脳裏に記憶していた風景が、書店に積まれたセピア色の写真集で、時代を巻き戻した。「コザ残像」
復刻刷新された写真集。懐かしさと愛おしさで、胸が詰まる。載せられた写真の多くが記憶を蘇らせる。ページを順に
開いていく。胡屋十字路(ゲート通りセンター通り)そして、コザ十字路。料亭「新橋」の写真を食い入るようにみる。いつ
しか写真の街並みに吸い込まれ、降り立って、通りを歩き回る。この家の端から路地に入り我が家に帰る。小、中学生の
頃、深夜に天上から太鼓と三味線、歌声が聞こえ目が覚めた。(ご馳走を持って来てくれるだろうか。。)

小学4年に実母が他界、オキナワに帰沖後、生活困窮の為、叔父さん夫婦宅に養子に出された。一年間は、なぜなのか
理解できず、泣きながら、二件の家を行ったり来たりした。叔父さん宅は80坪の敷地内に15坪と30坪の2件のトタン屋が
あった。30坪は6畳、8畳一間、と台所の付いた5部屋に区切られ、「新橋」の芸者さん達が借りていた。自宅は3坪程、
小さな雑貨店をしていた。歌、三味線の芸達者なLさんが、宴会の終わった夜中、帰りがけに、戸を叩き、「エエー、ナンジ
ナイクトウ」と養母に怒られながら、戸を開けた隙間に、「僕ちゃんに、、」と、銀紙で包んだ紙袋を置いて行った。翌朝、
コーヒーを蒸かし、養父母と僕とで、「ヌウヤガヤー、宴会がアイネー、カンナジ、ムチュウサ」と笑いながら、紙袋を開けた。
豚肉と野菜のおかず、デザートの果物、ケーキ等で、養父母はコーヒーと僕は牛乳を飲みながら一緒に食べた。
十字路に人家が集中し始め、コザ十字路市場が、市民の生活の場として買い物客で混雑するようになっていった。
1960年代にベトナム戦争が始まると、ゴヤのゲート通り、センター通りに米軍人相手のBar、飲食店が建ち並び
白人の特飲街となり、居場所を求めて降りてきた黒人は、照屋地域を闊歩するようになり、黒人相手の「Aサイン」Bar、
洋裁店、理容店が軒を連ね、コザ十字路近辺は、黒人街として街並みが変わっていった。