男は事が終ると、そのまま和恵を解放した。警察に訴える恐れはないと思っているらしい。あれだけ自分から快楽を貪ってしまうと、確かに訴えづらい。最後には、自分から相手を襲うような真似をしてしまったのだ。  S駅に歩いて向かいながら。今日のことを思い出した。なぜ、今日に限ってこんなことに。いままで痴漢に遭ったことはある。それなのに。今日はガーターで吊るタイプのストッキングだったので、直接触れられてしまった。そのことが原因なのか。それとも、武史とのデートに心が浮き立っていたのか。何にしても、こんなに感じてしまう自分の身体が恨めしかった。こうして歩いていても、まだ落着かない。濡れた下着のせいなのか、股間が火照っているような感覚がある。

 勤務先の高校に携帯電話で病欠の連絡をいれると、自宅に帰ってきた。玄関からバスルームへ向かいながら、スーツの上着、スカート、ブラウスを脱ぎ散らす。下着を取ると股布は自分の愛液ではしたなく捩れていた。熱いシャワーを頭からかぶる。全身が、じんじんとして、疲れがとれる。

 「あっ」

 するりと秘肉のあわいをすり抜ける感覚があると、男の残したものが太股を伝った。嫌悪感よりむしろ被虐的な快感が半身を走る。手で残りを掻き出すと次々に出てくる。こんなに出てる。激しさの記憶に和恵は顔が火照った。掌の白濁をしばらく見つめると、そっと舌を近づける。何をしているの、私。舌先が苦いゼリー状の感触を捉えたとき、和恵はインターフォンの呼び出し音に気づいた。誰? もしかして、さっきの男。急いで、バスタオルを体に巻くと、バスルームを飛び出し、濡れた手でインターフォンの受話器を取る。

 「どなたですか」

 「佐々木です。A組の佐々木雄哉です」

 担任している生徒だった。時計を振返ると、まだ十時過ぎだ。

 「どうしたの、学校はお休みしたの?」

 「ちょっと相談があるんです。とても学校には行けなくて」

 先日、隣の高校で女生徒の自殺があったばかりだ。原因はよく分からない。自殺の前の日に無断欠席したくらいで、他には何も兆候がなかった。和恵は、それを思い出した。

 「ちょっと待ってて」

 急いで薄手のワンピースをかぶると、脱ぎ散らした衣服を片づける。ドアを開けると、制服姿の雄哉が学生鞄を持って立っていた。顔色が冴えない。

 「入りなさい」

 狭いワンルームに迎え入れると、座布団を勧める。熱い紅茶を入れると、自分はベッドに腰掛けた。雄哉は紅茶を啜るとやっと落着いてきたのか、顔色が戻ってきた。

 「相談ってなあに。まだ入学して一ヶ月だけど、高校生活に慣れないの」

 色白で小柄な雄哉は、中学生のようにも見える。いつもおどおどしていて、いじめに遭いそうなタイプではある。成績はいい方だが、集中力がないのか授業中などぼんやりしている事がある。あるいは、悩み事があって勉強が手につかないのか。

 「いえ」

 そう言ったきり、雄哉は黙り込んでしまった。もともと言葉少ない少年の口は当分開きそうもなかった。何かに脅えているような様子だ。A組の学級運営が上手く行っているのか、正直なところ和恵には不安がある。ある男子生徒が、三年生の女子生徒と話しているところを見つかり、三年生に殴られた事がある。また一部の生徒が、コンビニで万引きを見つかった。今の高校生達の社会も、大人のそれと変わりなくなってきている。暴力や盗みが、日常の事のように入り込んでいる。あるいは、高校生だからなのかもしれない。今どき、知り合いの女の子と話していただけの男を殴る大人もそうはいまい。何かに苛立っているのか。このあどけない印象の雄哉にさえ、高校生特有の苦しみや葛藤があるのだろう。

 「見たんです」

 「えっ?」和恵は、雄哉の言う事の意味が俄かには理解できなかった。しかし、すぐに不安が走った。まさか……。

 「見たんです、今朝、電車で」

 この子は、何を見たというの。まさか、私を。だとしたら、ここには脅迫に来たに違いない。今日和恵が休んでいることを知っていたのは、ここまで尾行してきたからだろう。和恵は恐怖に強ばった表情で雄哉を見つめた。

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