2杯目のコーヒをテーブルに置くと八戒は三蔵の前に立った。新聞に隠れて見えないが、そのまま動く気配が全くない。どうしたのか三蔵が口を開く前に、八戒の声がした。
 「三蔵、泥塑って何ですか?」
 「土で作った人形」
 「ありがとうございます」
 どうやら反対側で新聞を読んでいるらしい。暫らくした後、また声がした。
 「肚裡は?」
 「はらの内。心の中。胸中」
 「へぇ、ありがとうございます」
 読み進んでいくうち中腰に、やがてしゃがみこんでまで八戒は読んでいるようである。そしてまた声がする。
 「嬌声ってどんな声ですか?」
 「…………」
 「三蔵、知りません?」
 いつもお前の声を聞いてて知らない訳ないだろう、と肚裡で答えてから三蔵は口を開いた。
 「……なまめかしい声」
 「ふーん、ありがとうございます」
 三蔵は眉間に皺を刻んでばさりと新聞を畳むと、膝を抱えてうずくまっている八戒が出てきた。目を合わせると、翠の瞳は上目遣いで咎める視線を送ってきた。
 「三蔵、僕まだ読み終わってません」
 「あのな、いちいち訊かれちゃ俺が読みにくいだろうが」
 迷惑なのだと八戒は気付いて、小さくなって俯いた。
 「だから一緒に読めばいいだろうが」
 そう言った三蔵の言葉に疑問符を浮かべて、八戒は顔を上げる。
 「でも、今も一緒に読んでましたけど?」
 「同じ所を読めば問題ないだろう」
 ポンと三蔵が片膝を叩いたので八戒もやっと意味を理解し、そして真っ赤になった。
 「じゃあ僕、もういいです」
 「まだ読み終わってないんだろ?猿と河童じゃお前の質問に答えられねーぞ」
 「でも、あの…」
 「お前、この前のおまじないがそんなに怖かったのか?」
 「違います。今こんなにドキドキしているから、ちゃんと読めるか心配なんです」
 「場所が少し変わるだけだ。一緒に読んだ方が、効率がいいだろうが」
 何を読んでるか確認できるし、と三蔵は声に出さずに言うと八戒を見た。すると八戒は頬を染めて困りきった顔をして俯いてしまった。
 本当ならここまで言う必要はまったくない。けれどここまで執拗になってしまうのは昨夜の事が起因していた。それまで傍を離れず一緒に眠っていた八戒が、昨夜は1人で寝ると言ってきたからだった。どうせもっと大きくなれば又一緒に寝ることになる、とは当然言えずに、昨夜は別々のベッドで眠った。それは八戒が大きくなった証拠であり照れ隠しもある事は、三蔵も重々承知していた。が、それでもやはり面白くはなかったのだ。
 ちょっとした仕返しを込めた意地悪な目で見ていると、八戒は俯いたまま暫らく悩んだ後、顔を上げ覚悟を決めた瞳で睨んできた。
 「お願いします」
 三蔵はしてやったりと唇の端を吊り上げる。そしてさっそく新聞をテーブルの上に乗せると、八戒が真っ赤になって近付いてきた。
 「えっと…お邪魔します」
 何ともぎこちない動きで三蔵の膝の上に手をかけて乗ろうとする。意識し過ぎている八戒の態度にほくそ笑むと、三蔵はこげ茶色の髪にキスをした。
 「何するんですか!?」
 「おまじないだと言っただろーが。効き目あったろ?」
 耳まで赤くした八戒は自分で知らずに三蔵が好きだと伝えてくる。早く自覚しろと三蔵は真っ赤な林檎のような頬にもう一度唇を寄せる。
 「三蔵!」
 「たくさんした方が早く大きくなれるかもしれんぞ」
 悪びれもしない三蔵に八戒は怒って乱暴に座った。
 「もうっ大きくなる前に僕の心臓が飛び出ちゃいます」
 焼き林檎になった八戒は頭から湯気を出して、文句を言いながらも三蔵の膝上から降りない。そして三蔵を見上げて綺麗な翠の瞳を見せた。
 「三蔵、僕新聞が読みたいんです。早く取って下さい」
 「判った」
 これ以上苛めても可哀想かと三蔵は、悟浄曰く絶対服従の目線に楽しそうに従った。



 あれほど照れまくっていた八戒も、いざ読み始めると集中してしまい、又三蔵を辞書にして新聞に目を走らせた。
 「三蔵、奸心って何ですか?」
 「曲がった心。よこしまな心」
 「ありがとうございます」
 八戒は冷たくなったミルクを、三蔵は2杯目のコーヒーを飲みながら一緒に読んでいた。が八戒は自分のマグが空になったのに気付いた。
 「三蔵、ちょっと待ってて貰えませんか?」
 そう言うと八戒は自分でカフスを1つ外して唐突に翼を出した。シャツに引っ掛かって苦しそうなのを見兼ねた三蔵が、捲ってやると白い翼がパタパタと羽ばたく。そして新聞を広げたままだった三蔵の腕の中から飛び出し、宙に浮いたまま紫暗の瞳と向き合う。
 「僕、もう一杯貰ってきますね」
 「ソレはしまっていけよ。俺達以外に見せるな」
 「え?どうしてですか?」
 「……物珍しさに攫われるからな」
 「そうなんですか」
 判りましたと言って八戒は床に着地すると、再びカフスを嵌めて翼をしまう。そして何の疑いも持たず、空のマグを片手に部屋を出て行った。
 「腑に落ちねぇな」
 三蔵は煙草を取り出し咥えて火を点ける。
突然翼を使った理由が判らず、三蔵は紫煙を吐き出した。一言あれば、新聞を折り畳むことぐらい訳はない。そして今気付いたが、自分はあの翼があまり好きではないらしい。いつでもどこまでも、好きな所へと飛んでいけるあの翼が。自分自身の考えに腹立たしさを憶え、三蔵は苛々と灰を落とした。
 暫らくするとノック音が聞こえたが、一向に開く気配がない。
 「三蔵、開けて下さい」
 八戒の声がしたので三蔵は立ち上がり扉を開けてやると、片手にはマグを、もう片方にはクッキーの乗った皿を持った八戒が立っていた。
 「これ、おかみさんがどうぞって」
 三蔵はクッキーの乗った皿を受け取るとテーブルの上に置く。八戒も扉を閉めると先程まで座っていた椅子まで戻ってきた。そしてテーブルの上に置かれた新聞を見て、八戒は済まなそうな顔になる。
 「すみません。読んでいるところを邪魔したくはなかったんですけど、両手が塞がってしまって」
 言われて三蔵の小さな疑問が解決された。先程言われた言葉を気にして八戒は、中断しないよう気を遣ったのだ。さっき言ったのは方便だったにも拘らず、小さな八戒はまともに受けてしまったのだ。
 「えっと…怒ってます?」
 心配そうな上目遣いの瞳に三蔵はまったくお手上げだ、とこげ茶色の髪をくしゃりと撫ぜる。
 「いや、一緒に読むと言っただろう。だから待っていた」
 「良かった」
 あからさまにほっとして、嬉しそうに微笑んだ八戒を三蔵は抱き上げた。
 「え?あの……」
 「とっとと続きを読むぞ」
 三蔵は言うが早いか膝上に八戒を乗せると、バサリと新聞を広げる。八戒は膝の上に両手を置いて、畏まった姿勢でまた赤くなる。
 「はい、あの三蔵はクッキーは好きですか?」
 「嫌いじゃない」
 「じゃ僕が食べさせてあげますね。三蔵は両手で新聞を持ってますから…」
 「えっ…と、言葉を教えてもらうお礼です」
 小さく言い添えながら頬を染め、照れながらも八戒は真っ直ぐでひたむきな瞳を向ける。三蔵はもう一度くしゃりと髪を撫でると、湯気の立つマグとクッキーの乗った皿を取ってやる。無言の了承に八戒は笑みを浮かべると、クッキーの皿を自分の膝上に乗せて1つ手に取った。
 「はい、どうぞ」
 赤い顔をしながらもひどく嬉しそうな八戒に、三蔵はクッキーを齧りながら早く大きくなれと願った。


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2005/09/22