その夜は満月だった。
 暗闇に浮かぶ煌々とした姿に天蓬宅では月見をする事にした。
 リビングの照明は落とされ、窓辺に座った天蓬は天満月を眺めている。片膝を立てて月を見遣る顎のラインはすっきりと細く、黒茶色の長い髪は艶やかに流れて、白磁の肌が月明かりに浮かぶ。眼鏡の奥、鳶色の瞳はまるで望みでもあるように、どこか憂いを帯びていた。
 「天蓬、そうしてるとかぐや姫みたいですね」
 月明かりを浴びた天蓬は、すでに着替えて白シャツにブラックジーンズだったが、女装などという小細工などなくても充分に綺麗だと八戒は思った。
 「それなら貴方の方が相応しいと思いますけどね。貴方は何をお望みですか?」
 八戒も同じく白の長袖Tシャツとチャコールグレーのパンツに着替えて、つまみを乗せたトレイをフローリングの床の上に置いた。女装という虚飾のない今の方がずっと綺麗だと月影の八戒を見つめる。何気なく動く手は白く美しく、痩身の身体は脆弱ではなくひっそりとして、顔を上げればそこには誰もいない深い森にある湖のような翠。一度見たならば忘れるのが難しい美しさに天蓬も魅入る。
 「今はお酒を」
 「了解、どれくらい入れます?」
 「2フィンガーで」
 「承知しました」
 注文通りにspirytusが注がれたロックグラスが、氷とガラスの奏でる涼しげな音をさせて八戒の前に置かれた。
 「僕に付いて来られるの八戒だけですよ。貴方、見かけによらず強いですもんねぇ」
 「そんな事ないですよ、僕よりも強い人がいたのでそんな風に思った事なかったですね。天蓬も同じで良いですか?」
 「えぇ、それは正真正銘のうわばみですね」
 手酌を嫌った八戒が注いでくれるのを、天蓬は楽しげに眺める。
 「貴方もでしょう?天蓬」
 「それならうわばみ同士、月でも飲みましょうか?」
 lamp of iceに月を映して微笑む天蓬に、八戒も笑ってグラスを合わせた。まるで音楽を奏でるようにグラスを揺らして氷と合わせ、それからほんの少し口に含んだが、96度のアルコールは流石に痺れるような熱さを感じる。それでもウォッカの味を楽しみたい二人は、氷のみでゆっくりと月見酒を楽しむ。
 八戒は体のためにピッチャーからタンブラーに氷水を注いでチェイサーを用意した。そこにも月が映り八戒は夜空を仰ぐ。金色の煌然とした姿に八戒は人の姿を思い浮かべた。
 「あの髪のせいですかね。何となく三蔵さんみたいじゃありませんか?」
 「……このまま氷ごと噛み砕いちゃいましょうか」
 「そんな事言って随分と仲が良いでしょう。あ、この言い方だと天蓬照れちゃうんですよね。えーと、信用しているというか随分と信頼してますよね」
 そう言って綺麗に笑った八戒に、天蓬は目を瞠る。
 「だってどうでもいい人や嫌いな人なら、普通自宅に招いたりしないでしょう?だからです」
 「参りますねぇ。でも八戒、あの男の前で絶対そんな事言わないで下さいね。付けあがりますから」
 困ったように髪を掻き上げた天蓬に、八戒は心得ましたと言って楽しそうにグラスに口を付ける。ばつの悪い天蓬も照れを隠すように、八戒の作ったつまみに手を伸ばした。
 「本当に八戒は家事全般パーフェクトですよね。僕だけ住んでた時の方が狭かったですもん」
 紅葉おろしの乗った揚げだし豆腐を摘んで、天蓬が感嘆の声をあげると、八戒も同意する。
 「そうですねぇ、僕も驚きましたよ。何しろ冷蔵庫は空っぽなのに本は山積みになってて、今までどうやって生きてたのかなぁと」
 言いながら八戒も三つ葉の乗った蕪蒸しに箸を下ろす。
 「それに僕の看病してくれてた時、ずっと同じ服だったでしょう。寝てる間それが気になって早く良くなろうって思ってました」
 「……それで起き上がれるようになって、最初にしたのが洗濯だったんですね」
 「えぇ。でも洗濯し始めたら、単にずぼらなだけだったと判りましたけど」
 「自分のせいだと思って、最初あんなに必死になって掃除してくれてたんですね。でも貴方が心配だったのは本当ですよ」
 「それは判ってます。でなければあんなにいつも側にいてくれなかったと思いますから」
 「八戒」
 伸ばされた腕に逆らわず八戒は天蓬の腕の中に収まる。緩やかに後ろから抱き締められて、八戒は身体を預けて目を閉じた。煙草の匂いに包まれる。
 「天蓬は僕の事甘やかしすぎだと思います。どうしてそんなに優しいんですか?」
 「どうしてでしょうねぇ。あ、下心があるっていうのはどうでしょう?」
 そう言って頬にキスをした天蓬の腕に、八戒は手を乗せる。
 「その割にそれ以上手を出してもらった事ありませんけどね。僕って魅力ないですか?」
 間近にある鳶色の瞳を八戒は見つめた。最初その瞳を円くした天蓬だったが、やがて宥めるように目を細めた。
 「いいえ、貴方は十ニ分にありますよ。貴方がしたいというなら抱きますけど、単なる性欲処理の相手にはしたくないですねぇ」
 「僕が男だからですか?」
 「いいえ、貴方ここで世話になってる礼に抱かれようとしてるでしょう。それが嫌なんですよ」
 今度は八戒が目を瞠る番だった。心の奥まで見透かすような視線に耐えかねて、逃れるように翠の瞳を伏せた。
 「すみません。だってそれくらいしか僕が返せるものが思い付かなかったんです」
 「家事一切してくれてるだけでも十分ですよ。勿論それだけじゃありませんけどね」
 「知ってます。僕に女装させたり、身体を洗ってくれる時も楽しんでるでしょう?だから抱いてもらえれば、天蓬に少しでも 恩返しになるかと思ったんです。でも違ったんですね。すみません、天蓬の嗜好に合わなくて」
 「八戒、それも違いますよ。確かにそうしてる時楽しんでるのは否定しませんけど、言ったでしょう?それだけじゃないんですよって」
 「それって何ですか?」
 「さて。何でしょう」
 顔を上げて振り返った八戒に天蓬は口付ける。
 「天蓬、枠のくせに酔ったふりするのはずるいです」
 「いいじゃないですか、スピリッツなんですから。大体八戒飲みが足りてないですよ」
 腰を抱いていた片腕を解いて、天蓬はロックグラスを呷る。そしてそのまま八戒に口付けた。
 「んっ……」
 口移しでスピリッツを飲まされた八戒は、喉を焼くような液体に体温を上げる。唇が離れて熱い吐息を吐き出した八戒は、逆上せたように天蓬へと身を預けた。
 「結局、教えてくれないんですね」
 椅子の背凭れのように寄りかかり、拗ねたように力なく呟く八戒を天蓬は抱き竦める。

 この温もりに胸が痛くなる
 抱き締める腕に力をこめれば八戒は月を仰いだ

 「あの月にでも聞いてみましょうか」
 「望の月ですか。叶えてくれそうですか?」
 月明かりに天蓬も八戒を抱き締めたまま夜空を見上げる。そこには満ち足りて輝く金色の月が大きく浮かぶ。と同時に八戒の言葉を思い出して、天蓬は急に不機嫌な顔になる。
 「どうですかね。満ち欠けを繰り返す不誠実な月ですよ」
 「じゃあやっぱり貴方に聞くしかないんですね。天蓬」
 八戒は振り返ると天蓬にキスをした。八戒からの初めてのキスに天蓬が目を円くしていると、体の向きが変わりもう一度口付けられる。
 「実力行使で僕を狼にするつもりですか?八戒」
 苦笑して天蓬がこつんと額を合わせると、八戒はいいえと言って悪戯な翠の瞳を向ける。
 「天蓬が嫌がる事をしても意味がないですから。でも感謝のキスなら良いでしょう?」
 「流石はかぐや姫、知能犯ですね。参りましたよ」
 そう言って眼鏡を外して現れた鳶色の瞳は、飲み込んだスピリッツよりも熱を孕んでいるように見えて、八戒は息をするのも忘れて見惚れた。
 その後に待っていたのは息を奪うほどの深くて長いキスだった。角度が変わる度に熱が上がり、舌を吸われて力を奪われていく。濃厚なキスに完全弛緩した八戒の身体を抱き締める。
 「悪い子にはお仕置きです。ほら、こうしないと月が見えないでしょう」
 浅く熱い呼吸をする八戒の体を再び後ろから抱き締めて、やはりそれ以上手を出すことなく天蓬は優しく髪を撫でた。天蓬の腕の中で八戒は温もりと仕草をより感じるように目を閉じる。

 ここに来るまで知らなかった感覚に身を委ねる
 こんな気持ちも感覚も今まで知らなかった

 「八戒、眠くなっちゃいました?」
 天蓬の声が降りてきて、八戒は子供のように首を横に降る。確かに眠りたくなるような心地よさ、けれど八戒は抱き締める腕の上に両手を重ねる。
 「何か、天蓬に酔わされちゃいました」
 「それは光栄ですね」
 クスクスと笑った天蓬がこげ茶色の髪にキスをすると、ゆっくりと翠の瞳が開いた。その瞳に月を映して八戒は夜空を仰ぐ。

 やがて月へと帰ったかぐや姫
 戻る所も行く所もない僕に、今あるのはこの温もりだけ


 静かに月を見上げる八戒を天蓬も黙って抱き締める。
 その夜、月は遅くまで寄り添う二人を照らしていた。



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2005/10/08